命の淵にいる人たち ── 集中治療室(ICU)で見た光景 田所敏夫

大きな扉が閉まっている横のインターホンで、中にいる者の親族だと告げる。アルコールで手を洗い、マスクを着用して、「防護服」というのはおおげさではあるが、滅菌処理が施された薄い布をまとう。

まいにち何回か訪れているからか。医療従事者の皆さんは、わたしの姿を確認すると、はじめてこの場所に入るひとに向けるような、細かい注意を口にすることはなく、お互い会釈を交わしながらベットに向かう。

◆集中治療室に踏み入れるたびに

20ほどあるベットに横たわっている患者さんは、いっときも目が離せない状態のかたばかりだ。だからここは「集中治療室(ICU)」であることを、毎回足を踏み入れるたびに実感させられる。

心電図、血中酸素濃度、心拍数を測定するモニターの警報音が、あちこちで間断なく聞こえる。わたしが到着したベットの上の、もうかれこれ10日近く意識のない身内の血圧も、相変わらず怪しげだ。首、手首、横腹など数えたら7か所に管や点滴が入っている。

警報音が鳴る。また血圧が落ちている。ブランケットを持ちあげて、手先と足先を触ってみたら、猛烈に「むくんで」いる。ずいぶん昔に一度だけ偶然接した、水死体の姿とそっくりだ。手のむくみはすさまじい。

「むくんで」いるから、還流を促すために「さする」、「なでる」などすれば改善する状態ではない。腎臓を中心とする代謝機能の低下が末端の「むくみ」となっていることは、二日前にお医者さんから説明をうけた。口には酸素を効率よく肺臓に運ぶための管もはいっている。こんな状態で言葉を発することなどはできるはずもないことをわかりながら、「どうや?」、「しんどいか?」と声をかける。

◆「承諾書」にサインをする

きのうの深夜、病院から電話があり、「腎臓の機能が落ちているから『透析』をはじめたい。異存はないか?」と聞かれた。「もちろん異存はありません。お任せします」とこたえた。そうだ、透析がはじまっているはずだから、「承諾書」にサインをしなければならない。ICUの看護師さんはいつも大忙しだから、部屋を出てから、事務の人に相談することにしよう。

怪我、病気、加齢。理由は様々な命の淵にいるひとたちが、必死の看病を受けている。失礼に当たるのでなるべく視線を向けないように注意しているつもりだが、ここで亡くなったかたは、看護師さんたちがからだをきれいに清めている。もう何人この部屋で亡くなったかたの姿に接しただろう。ICUは大部屋だから、親族の方々は、周りを気にしている。身内が亡くなっても大声で声をあげる場面には接したことがない。

どちらにせよ、ここは「のっぴきならない場所」だ。わたしが日に何度もおとずれたからといって、できることはなにもない。ただそばにいてやりたい、と思うだけで、近くにいるしかない。

◆毎日のように気を失いかける

また慌ただしくなった。気管切開ははじめてだ(隣のベットの患者さん)。手術室までの移動の余裕がないのだろう。カーテンで仕切られているが、見舞いの目の高さから、緊急処置の様子を伺おうと試みれば、みることができる。不謹慎だからこの場は辞すべきだろう。「また来るからな」。返事が返ってくるはずもない身内に声をかけてICUから外に出た。

わたしは妙な体質の持ち主で、この体質と付き合うの長年苦難している。若いころは、意識すればオン/オフの切り替えができたのだが、いまはほおっておくと、体調の悪い人や、精神がつらい人の症状の一部が、勝手にわたしの中に一定時間侵入してきてしまう。病棟に行けばたいてい38度近い発熱をしてしまうし、ICUに入ると、毎日のように気を失いかける。当然体温も上昇し、発疹がでることもある。けれどもわたしは感染症に罹患しているわけではない。病院からはなれてしばらくすると、、発熱も下がり、発疹も消える。これはどこの病院に行っても同じなのだ。

上記の備忘録のようなものを記したのは、一昨年の1月だった。まだ、わたし自身の疾病よりも、身内の看病に忙しい日々だった。あの病院に入院しているひとを、いまは見舞うことはできない。もちろん理由はコロナ感染予防のためである。ほんのしばらく前の記憶のように思われる、あの日々は現実から遠くなった。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しない
テーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

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老いの風景〈15〉母の最期のお話し ── 懺悔と冥福の祈りを込めて(最終回)

元気で快活だった母の異変に気付き、認知症が進行していく中での様々な出来事と娘の思いをこれまで一人語りでお伝えしてきました。認知症を患ってもなお元気で心の強い母でしたので、当たり前に100歳まで生きられると思っていました。ところが昨年の暮れ、その母があっけなく89歳で亡くなりました。グループホームに入所した日の事故によってです。少しずつ心の整理がついてきましたので、母の最期をお話ししようと思います。

私の言葉を不快に思われる方がいらっしゃるかもしれませんが、懺悔と冥福の祈りを込めて、ありのままを告白させていただきます。

その日、以前申し込んでおいたグループホームから電話がありました。「空きができました」施設長Yさんです。そろそろ順番の進み具合を聞いてみようと思っていた矢先のことでしたが、予想よりもはるかに早く、まだ本人に一言も相談していません。しかし先方は急いでいる様子です。すぐに姉と相談し、とにかく一度本人に聞いてみることにしました。

翌日Yさんへ「近日中に母に話をして、もしも本人がその気になった場合は、そのまま見学に伺います。」と連絡しました。「納得というのは難しいですけれど、理解して入っていただく方が溶け込みやすいので、お願いします。」とのことでした。なるほど。

デイサービスのない日、私は民江さんの家へ行きました。まだ10時半だというのに、民江さんは真っ赤なコートの上に、鞄を斜めにさげ、すぐに出かけられるよう準備万端整えて、背筋を伸ばしてソファーに座り私を待っていました。私は一通り部屋の片付けをしてから、内心ドキドキしながら明るく話しかけました。

「実は、相談があるんだけど・・・お母さんはこの先ずっと一人で生活するのは大変だと思うの。私の家に来てもらうといいけど、それはちょっと無理なの。」

「無理じゃない。」

「うーん、私は昼間家にいないでしょ。お母さんが慣れない家に一人で居ても、何もすることがないし、困るでしょう。それでね、グループホームっていう9人で生活するおうちがあるんだって。そこへお引越しするというのはどうだろう。スタッフが24時間居てくれて、ご飯も三食出してもらえて、掃除や洗濯なんかの身の回りのことは全部お任せできるんだよ。家賃を払って、お母さん一人の部屋があって、他に共同の食堂やリビングやお風呂やトイレがあるんだよ。」

「どこ?」

「T町、私の仕事場から5分もかからないし、私の家にも近くなるでしょ。実はお姉ちゃんと一緒にいくつか見学に行ったんだけど、そこが一番きれいで広くて、重症の人はいなかったの。そこがね、一部屋空きができたんだって。見に行ってみる?」

そんな私の説明に、母はすんなり「行ってみようか。」と言いました。微笑んでいました。

駐車場からグループホームの玄関まで、急な階段と段差のあるスロープをすたすた一人で歩き、出迎えのYさんへ丁寧に挨拶をして中に入りました。ところが、すぐに足が止まります。案内された居間には、女性スタッフが3人、折り紙をしている方が1人、週刊誌を読んでいる方が1人、ただ座っている方が2人。私に続いて挨拶をして説明を受けますが、再び足が止まりました。

ゲージにウサギがいます。「動物はお嫌いですか?」と聞かれた母は「嫌いです!」そしてうつむいたかと思うと涙を流しながら小さな声で「住み慣れたところが・・・」と。お部屋も見に行こうと促され、エレベーターで2階に上がりました。

歩みは極端に遅くなっていました。一通り見せていただいたあと、事務室へ案内され、椅子に腰かけた途端「慣れたところがいい」と、再び涙と鼻水を流して泣き始めました。

そんな民江さんに対して、私とYさんは穏やかに説得を始めました。「すぐに決めなくてもいいけど、今なら空いてるの。他の人に入ってもらうと、また空くまで待たないといけなくなっちゃう。ずっと一人で暮らしていけるわけじゃないから、今のうちにお引越しするのはどうだろう。お母さんより若い人がほとんどだよ。デイサービスも気が進まなかったけど、行ってみたら案外よかったでしょ。ここはきれいだし、私の家にも近くなるし、私の職場からもすぐだよ。」

Yさんは「ここに変わられたら、他の家族も皆さん安心されると思いますよ。民江さんみたいに女学校を卒業されたかたが何人もいらっしゃいますから、お話も合うんじゃないでしょうか。」と。

こんな調子で10分ほど話をしたあと、資料を受け取り、その日はそれで引き上げることにしました。民江さんの好きな豆腐料理の店へ行きましたが、この件に触れることはできず、昔話をしながら穏やかに昼食を食べました。

隣の席の同年配の女性を見て「ああはなりたくない」と言うなど、民江さんの失礼な発言は普段通りでした。買い物をして家へ送り、翌日のデイサービスの準備を済ませ、「じゃあね」と帰りかけた私に「今日の所のこと、決めなきゃいけないんでしょ。」と民江さんの方から切り出してきました。

「そうだけど、今日聞いて、今日見て、今日決めなくてもいいよ。」と答える私に「でも、他の人に取られちゃうかもしれないから。長く住んだここがいいけど、変わろうか。なっちゃんがいいと思うようにするわ。」と。

私は「ありがとう。でももう少し考えようね。」と言って別れました。ここ最近、会話が成り立たなくなっていた民江さんとは思えない言葉遣いに、私はたいへん驚きました。

民江さんがこんなに我慢をして決断してくれるとは思っていませんでした。もう少し言えば、こんなに我慢ができるとは思っていませんでした。この日の民江さんの様子、泣いて嫌だと言った時の姿、「なっちゃんの家に少しでも近くなって、なっちゃんがいいと思うなら・・・」と言ったこと、そしてYさんの「少しでも理解して入所する方がいい。急に悪化して早く入れたいとなった時に空きがないと、どこでもいいから入れてしまうことになる」という言葉、私のやれることとやれないこと、これから先のこと、などなどいろいろ考えているうちに私も涙がこぼれてきました。

それからも私はいつものように毎朝民江さんに電話をしますが、あきらかに民江さんに変化がありました。明るくなり、会話が繋がるようになりました。例えば私が「おはよう。今日”も“元気だね」と言うと「”も”ね」と言って笑います。こんな小さな言葉に反応するということは、ここ数年ではありませんでした。

また、夕方かかってきていた電話がかかってこなくなりました。我慢しているのか、必要を感じていないのか、そのように見せているのか、理由ははっきりしませんが、グループホームへの引越しを勧められたことが原因であることだけは確かです。

見学から数日後、顔を見ながらもう一度聞いてみますと、「老いては子に従えだから、寂しいけど100歳まで生きるかもしれないからね。」と笑っています。こんなに我慢をさせていいのだろうかとか、私のせいで認知症が悪化してしまわないか、とても不安になりました。けれども私は母の様子をYさんに伝え、三週間後の年末に入所させてもらうようお願いをしました。

翌朝、まだ暗いうちに電話が鳴りました。「毎月なっちゃんにお車代を渡すから、このままここに住むことを考えて」と、か細い声です。私は「お母さんが我慢してることはわかってるよ。ただ、安全が心配なの。何食べたか、何着てるか、暑くないか、寒くないか、何してるかってね。三食出してくれて、お世話してくれて、夜中もいつも誰かがいてくれると安心だよ。誰かそばにいてくれたら心強いでしょ。寂しくないでしょ。」

それでも母は「もう一度考えて」と言うので、「うん、私も考える。お母さんも考えてね。」と言って電話を切りました。

数日後、民江さんを訪ね「あの話・・・やっぱりお引越しした方がいいと思うんだけど」と言うと、民江さんも「老いては子に従えだからね」と言いました。「ちょうどぴったりの諺だね」と言って二人で笑い、ケアマネージャーさんに「さすが、民江さん。そう言える人はなかなかいないわよ」と言われて、いい表情でしたので、それなりに納得してくれたのだと思いました。

それから入所までは2週間、私は書類を整えたり、持ち物の準備に追われました。無事に落ち着けるかどうか半信半疑でしたので、いつ戻ることになってもいいように、生活できる物を残しつつ、使い慣れた大切なもの、衣類、家具、寝具などをまとめ、足りないものを買い足し、一つ一つに名前を付けるなど、やらなくてはいけないことはたくさんありました。お世話になっているデイサービスへお礼の手紙も書きました。その手紙がデイサービスに届いた日、スタッフの方から「さすが民江さんの育てた娘さん」と言われたと、嬉しそうに何度も電話がかかってきました。「それ、私が褒められたんじゃなくて、お母さんが褒められたって話ね」と言って一緒に笑いました。

この頃、不思議と二人で笑って話すことが増えました。ここ数年来、負担が増えて限界を感じ、笑顔がなくなり、優しい言葉をかけてあげることができなくなっていたことを自覚していた私です。それがこの数週間は、なぜか二人とも明るくなりました。母が笑顔を見せるので、私も自然に優しい気持ちになり、優しくなれた自分がとても嬉しかったです。食事をしながら冗談を言い、目を合わせて笑いました。施設に入りたくないはずの母が笑っている理由を深く考えず、これなら続けられるのに・・・と思わないようにして、グループホームを終の棲家に選んだことを信じ、とうとう引越しの日を迎えました。

その日は、珍しく雪が積もっていました。私と、息子と、姉と姉の息子は、民江さんの家へ行きました。荷物は三台の車で十分運べるほどしかありません。古いアルバムを開き、思い出の写真を孫たちとおしゃべりしながら選び出し、きれいにレイアウトして額に収めました。顔なじみのいつもの洋食屋で大好きなカキフライとカニクリームコロッケのランチをぺろりと平らげ、記念に撮った写真は、5人ともいい笑顔でした。

そこから施設までは車で10分程度、到着して車と部屋を行ったり来たりして荷物を運び入れる様子を、民江さんはベッドに腰かけてじっと眺めていました。額を壁に掛ける金具を買いに行ったり、忘れたテレビのアンテナコードを取りに戻ったり、どうしても別の靴に変えたいとか、どうしても飾りたい絵があると言うので取りに戻ったり、バタバタしている私たちに「私はここに泊まるの?」と不機嫌な顔で何度も何度も聞いてきます。翌日は我が家に泊まり、いつものように一緒に新年を迎えることにしていましたので、まず今夜一泊だけ頑張ってほしいと優しく励ますばかりでした。

姉たちが帰り、民江さんの夕食の時間になり、私たちもいよいよ帰らなくてはいけません。食卓で皆さんに挨拶をしている姿を見とどけた後、「明日は迎えに来るからね」ともう一度声を掛けて別れました。

気が気ではありませんでした。8時半頃民江さんから電話が入ります。「どっちみち私は一人なんだから。なんでこんな所で寝なあかんの。おやすみ!」一方的に怒鳴って切れました。

眠れないのでしょう。入所してから慣れるまでに一か月ぐらいかかるのは普通だと聞いていましたし、怒って電話をかけてくることにも慣れていましたので、さほど驚くことではありませんでした。

次は10時頃でした。今度は「帰る!ここから出して!」という声と共に、ガンガンと激しく金属を叩く音が聞こえてきます。玄関のドアを叩いているようです。「警察を呼ぶ!」「帰る!」「帰してよ!」「ガラス割るよ!」と叫んでいます。

「お母さん、お母さん、落ち着いて。Yさんは? Yさん居るんでしょ」私が声をかけても返答はなく、電話は切れました。10分ほどして二度目の電話がかかります。「どうせ私は一人なんだから!」「帰る!」「出して!」「こんな所イヤだ!」

そしてやっとYさんの「民江さん、民江さん、明日は夏さんが迎えに来てくれるから」という声が聞こえてきました。私は「お母さん落ち着いて! 落ち着いて! 怪我するよ!」「警察に電話するならしてもいいよ!」「お母さんお願い! 落ち着いて」

電話が切れたので、私は急いで車に飛び乗り、民江さんの元へ向かいました。施設の方から来てくださいと言われない以上、迎えに行くべきではないと思いながら、とにかく車を走らせました。もう一度電話が鳴ります。「早く迎えに来てよ! どうして来てくれないの!」私はそれでも「お母さん、落ち着いて」と言いました。

それからほんの3分ほどで私はグループホームの玄関前に到着しました。車を飛び降り、中の様子を伺いますが、玄関ドアのガラス越しに人影はありませんし、激しい音も声も聞こえません。落ち着いてくれたのだと思い、車に戻って待つことにしました。まず姉に電話をかけて事情を説明しました。その後やっとYさんから電話が入り、玄関前に車を止めていると伝えた時のことでした。受話器からYさんの叫び声がしました。

私は車を降り、フェンスを乗り越えて真っ暗な建物の横へ駆け寄りました。小さな明かりがほんのり照らすコンクリートの上に横たわる人影。女性スタッフが寄り添い声を掛けています。母の部屋の真下、母です。スーツを着て、鞄を斜めにさげています。頭から血が流れているように見えます。息子が初任給でプレゼントしたマフラーが頭のすぐ横にあります。私は母の肩をさすり「お母さん、お母さん」と声を掛けることしかできなかったように記憶しています。

救急車は大学病院へ向かいました。それから母は静かに眠り続け、46時間後に息を引き取りました。ベッドの周りを家族みんなで囲み、見送ることができました。

警察から、施設の人に対して何か思うことはあるかと聞かれたので、「強いて言えば、窓に補助鍵があればよかったのにと思います」と答えましたが、私以上の罪は、他の誰にもありません。私が「すぐ迎えに行くから、そのまま待ってて」とさえ言っていればよかったのです。または、それ以前に私がもう少し我慢をするか、もう少し手を抜いていればよかったのです。私は母に入所を勧め、母は私に従いました。死亡診断書には「自殺」と記されていましたが、母は家に帰りたくて帰りたくて、自分の足で帰ろうと出口を探して窓から出たに過ぎません。手すりはうまく乗り越えたのに、着地に失敗しただけなのです。落下しながら私の車は見えたでしょうか。「あれ、来てくれてたの?」と思ったかもしれません。ごめんなさい。

母は昔から延命処置を嫌っていました。保険証と一緒に尊厳死協会の会員証を持ち歩いてくれていたおかげで、私たちは迷わずに済みました。病院で治療方針の決定を委ねられた時、いよいよ血圧が下がってきた時、息子が「やっぱり何かしてもらうわけにはいかないの?」と言った時、一枚の会員証に託した母の思いを揺らぐことなく貫くことができました。私の母は、最期まで自分の思いを活かし、誰にも迷惑をかけず、望む姿で旅立っていきました。母らしく凛として生きていました。最も母らしい生き方でした。

訃報を伝えたマンション管理会社や新聞販売店や郵便局、晩年ご迷惑をおかけしたと思う方々ばかりですが、その方々が涙を流してくださったことで、母のこの家での生活ぶりがどんなに尊いものであったか、あらためて感じました。

引越しの荷造りをしながら孫に昔の話しをしたおかげで、BGMは東海林太郎や藤山一郎、ビング・クロスビーやグレン・ミラーオーケストラ、チゴイネルワイゼンなど大好きな曲のオンパレードでしたね。10歳で死に別れた最愛のお母さん、尊敬するお父さん、戦争で亡くなったお兄さん、母親代わりに世話をしてくれたお姉さんには再会できましたか。長い間ほんとうにお疲れさまでした。「私は、運動神経抜群で、『おてんば民ちゃん』だからね」という声が聞こえてきます。

これで「老いの風景」は終わりにさせていただきます。どうもありがとうございました。(了)

老いの風景〈1〉~〈15〉 https://www.rokusaisha.com/wp/?cat=67

▼赤木 夏(あかぎ・なつ)[文とイラスト]
89歳の母を持つ地方在住の50代主婦

創業50周年!タブーなき言論を! 月刊『紙の爆弾』8月号

老いの風景〈14〉自分から行きたいと言い出したデイサービス

平均寿命が延び、高齢の親御さんやご親戚家族の健康について、悩みを抱える方が多いのではないでしょうか。私自身、予期もせず元気で健康、快活だった母の言動に異変を感じたのは数年前のことでした。そして以降だんだんと認知症の症状が見受けられるようになりました。今も独り暮らしを続ける89歳の母、民江さん。母にまつわる様々な出来事と娘の思いを一人語りでお伝えしてゆきます。同じような困難を抱えている方々に伝わりますように。

朝の住宅街、デイサービスの名前が書かれた車を当たり前のように目にするこの頃です。年寄り扱いをされるのが大嫌いだった民江さんが、自分からデイサービスへ行きたいと言い出したのは、2年前87歳の時でした。他の人と交流することで少しでも認知症の進行を抑えられるのではないかという思いで、週に3日お世話になることにしました。とても気に入ったとのことで徐々に増やし、現在は週に5日ほど通っています。デイサービスは、ご高齢の方にとっても、お世話をしているご家族の方にとっても、大変有り難いものです。今日はそのデイサービス(通所介護施設)のお話をします。

◆デイサービスでの民江さんの一日

朝9時頃、スタッフが玄関までお迎えに来てくれます。何人かをピックアップして施設に到着すると、看護師さんによる体温や血圧測定などの健康チェックがあります。朝の挨拶と日課の説明が済むと、毎日まずお風呂です。スタッフはたった2人か3人で利用者は10人以上。歩行や自立が難しい方のための機械浴、感染防止のための個浴、その他の一般浴、それぞれの状態に合わせて安全にお風呂に入れていただきます。

お風呂から上がると、テーブルの上に名前の付いたコップが置かれ、スポーツドリンクが準備してあるそうです。これを飲みながら周りの方と談笑しているのかなと思います。毎日ぬり絵や漢字クイズなどを持ち帰ってくるので、これらもそんな時間にやっているのかもしれません。

運動器具を使った軽いトレーニングや指先を使う折り紙や貼り絵、日替わりのレクリエーション(ペットボトルや風船を使って体を動かす簡単なゲーム)、カラオケや映画鑑賞などのお楽しみ、移動スーパーが来てお買い物、お習字や手芸、おやつを手作りすることもあります。

昼食は月に一度はバイキング形式ですし、ちょっと豪華な日もあります。そうそう、3時にはおやつタイムがあり、食後はかならず歯を磨くようです。園児やコーラスグループなどの慰問を受けたり、車で近所の公園へ出かけたり、お誕生日会や季節のイベントなどなど……たくさんの行事が組み込まれていることが、毎月の予定表からわかります。

スタッフの方々はサンタクロースになったり、鬼になったり、法被を着たり、浴衣を着たり……これらも毎月の写真入りのお便りから見て取れます。そして夕方5時頃、玄関まで送っていただき、別途注文(希望者のみ)した夕食用のお弁当を受け取って終了です。連絡帳には、必ずその日の体温と血圧、入浴の有無とその日の様子が記されています。

平均的かどうかはわかりませんが、民江さんが利用している全国展開のデイサービスはこんな感じです。行き始めたころに感想を聞くと「幼稚園みたいだわ」とのことでした。確かにそうですね。

◆費用について

デイサービスに係る費用はいろいろな条件(介護度、地域、利用時間、収入、施設)によって変わってきます。介護サービスというのは、その内容によって単位で表され、単位数に地域ごとの人件費を調整する係数(単価)をかけたものが料金となります。介護度が高くなると手がかかるので単位が上がります。が、支給限度額が上がるので利用できる回数は増えます。

施設によって入浴や機能訓練のサービス加算が異なります。それらを合算し、利用者が支払う金額はその1割(一定以上の収入があると2割)です。支給限度額を超えた分は実費となりますが、高額になると払い戻し制度があるので、ある程度返ってきます。

さて、年金暮らしで要介護1の民江さんの場合、一日約2300円です。先にご説明した介護費用(本人負担1割)が約800円、そして食事代(昼食・おやつ・夕食)が実費1500円です。週に4回、朝から夕方までお世話になって、2食いただいて、4万円でお釣りがくるぐらいでしょうか。デイサービス以外に介護保険を利用していないので、週に4日は十分限度内で通所可能です。大変有難いです。

以上が民江さんの通うデイサービスです。

一般的なデイサービスは男女比が2:8ぐらいと言われています。中には移動や食事や排泄に必ず介助が必要な介護度の高い方もいらっしゃいます。わがままを言う人もいるでしょうし、喧嘩も起きるでしょう。現に民江さんも喧嘩をしてきています。そんな中で皆が安全に心地よく過ごすことができるのは、スタッフの方々のお陰です。

残念なことに民江さんは認知症なので、デイサービスで何をしてきたか、家に着いた頃には忘れています。帰宅すると電話がかかってきますが、いつも「お弁当食べたから寝るね」と言うだけ。せっかく公園へお花見に行っても、ゆず湯に入っても、テラスでバーベキューをしても、民江さんの口から「今日はね……」と聞いたことはありません。でも、毎日楽しみにしていることが、心地よく過ごしていることの証です。施設長のお人柄とスタッフの心配りには頭が下がるばかりです。

地域によっては施設の数が少なくて満足のいくサービスが受けられないこともあるようですが、もし利用してみようと思われた方は、まずケアマネージャーさんに相談をして、個々の希望に合った施設を探してもらってください。まだケアマネージャーさんとお付き合いのない方は、役所の福祉課や地域包括支援センターへ行き、要介護認定の申請をすることから始めることになります。

▼赤木 夏(あかぎ・なつ)[文とイラスト]
89歳の母を持つ地方在住の50代主婦。数年前から母親の異変に気付く

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老いの風景〈13〉グループホーム探し

平均寿命が延び、高齢の親御さんやご親戚家族の健康について、悩みを抱える方が多いのではないでしょうか。私自身、予期もせず元気で健康、快活だった母の言動に異変を感じたのは数年前のことでした。そして以降だんだんと認知症の症状が見受けられるようになりました。今も独り暮らしを続ける89歳の母、民江さん。母にまつわる様々な出来事と娘の思いを一人語りでお伝えしてゆきます。同じような困難を抱えている方々に伝わりますように。

母は週に5日デイサービスに通い、デイサービスに行かない日には私が身の回りの手助けをするために通っていますが、衛生面や安全面において危険を感じることがあります。先々のことを考えなくてはならない時期がきたようです。

私はケアマネージャーYさんへ相談に行きました。小さな調剤薬局の薬剤師さんで、民江さんとのお付き合いは20年以上、性格から日々の習慣、現在の状態までよく把握してくださっている方です。まず私が、一緒に住むことは難しいと打ち明けると、「夏さんのご自宅に引き取るよりも、お世話は専門の方々にお任せして、ご家族はいつも笑顔で接してあげる方がいいんじゃないでしょうか」と。気持ちが軽くなったというか、安心したというか、罪悪感が減ったというか、そんな感じでした。

そして、グループホームというものを勧められました。「この近くにいくつかありますから、見学に行ってみるといいですよ」と。グループホーム? 確かに最近住宅街で見かけるようになったけれど、どんなもの? 自分で探して問い合わせるの? 私はインターネットで介護サービスについて調べました。

いろいろな種類のサービスや施設がある中、グループホームとは、重い病気のない認知症の人に特化した施設であることがわかりました。スタッフの介助を受けながら、9人が1ユニットで、各々ができる範囲で役割を持ち、共同生活をするようです。費用は介護度が高くなるほど上がりますが、入れないほど高額ではなさそうです。民江さんは内科的疾患はありませんので、これはなかなかよさそうです。

役所の福祉窓口へも相談に行ってみました。そこではいくつか提案をされましたが、私が興味を持ったのは「小規模多機能型居宅介護」というものでした。それは、通いのデイサービスと、宿泊するショートステイと、自宅へ来てもらう訪問サービスを一カ所が請け負っているために、組み合わせて利用することが容易で、しかもグループホームを併設している所もあります。『通い』『泊まり』『訪問』のスタッフが同じというのが魅力的です。『通い』で慣れてきたら『訪問』や『宿泊』を挟み込み、『宿泊』の延長で『グループホーム』へ移行できれば、精神的な負担が少ないかもしれません。

場所を、民江さんの家のなるべく近くで私の家の方向に絞り、グループホームとグループホームを併設している小規模多機能へ下見に行くことにしました。もちろん姉妹も誘って。

全部で7カ所、共通していたのは、グループホームは「お風呂は毎日入らない」ということでした。デイサービスは入浴がメインと言っていいかもしれません。毎回介助していただいて安全に入浴し、昼食を頂き、全員で日替わりのリクリエーションゲームをし、ぬり絵や漢字ドリルをして、おやつを食べて帰ってきます。

一方、どこのグループホームも、お風呂は週に2回か3回だそうです。洗濯物を干したりたたんだり、ごはんの準備を一緒にすることもあれば、お散歩でお買い物に行くこともあり、そういう日常生活の場がグループホームのようです。と言っても、実際に洗濯物をたたんだり、掃除をしている姿などを見たわけではないので、実態はわかりません。

何より、施設によって随分と特徴がありましたので、実際に見に行ってよかったと思っています。しんと静まり返ったきれいな施設もあれば、地域密着型でカフェ(認知症カフェと言い、食堂のような所にご近所さんがお茶を飲みに来る)を併設し、人の出入りが多い賑やかな施設もありました。物が多くて雑然としている施設、重度な方が多く目につく施設、介護度によって居住階を区別している施設もありました。看取りまでを謳う施設と、自立歩行ができなくなったら退所しなければいけないというルールを設けている施設もありました。

さあ、民江さんにとって、何処が一番いいでしょう。重度な方に囲まれるのは辛いかも。室内犬は嫌いかも。静かすぎるのは寂しいかも。スタッフさんとボランティアさんと遊びに来るご近所さんと、大勢いたら混乱してしまうかも。

現在どこも満員で、複数の施設に申し込む方が多いと聞きましたが、幸い民江さんは急いでいません。一番きれいで、ゆったりしていて、自立歩行ができなくなったら隣接の特別養護老人ホームに移動ができて、費用も中程度、介護福祉事業で30年以上実績のあるTグループホームだけに入所申し込みをしました。待機の方が数名いらっしゃるそうなので、順番が回ってくるのは1年後か、2年後か。それまでにタイミングを見計らって民江さんに話をすればいいわけです。キープをしつつ難しいことは先送りし、私にとっては都合のいい形で、とりあえず一段落しました。ケアマネージャーYさんに相談してから8カ月が過ぎた夏のことでした。

▼赤木 夏(あかぎ・なつ)[文とイラスト]
89歳の母を持つ地方在住の50代主婦。数年前から母親の異変に気付く

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老いの風景〈12〉子どもに返る

平均寿命が延び、高齢の親御さんやご親戚家族の健康について、悩みを抱える方が多いのではないでしょうか。私自身、予期もせず元気で健康、快活だった母の言動に異変を感じたのは数年前のことでした。そして以降だんだんと認知症の症状が見受けられるようになりました。今も独り暮らしを続ける89歳の母、民江さん。母にまつわる様々な出来事と娘の思いを一人語りでお伝えしてゆきます。同じような困難を抱えている方々に伝わりますように。

民江さんは、ありがたいことに足腰だけでなく内臓も元気なので、食事の量はいまだに若い人に負けません。先日もお昼に二人でうどん屋さんへ行き、私は五目うどんの単品を、民江さんはうどんと天丼のセットを注文しました。

民江さんの前に運ばれてきたお盆には、普通サイズのお丼が二つ。山の形に盛られたエビの天ぷらは、数えると五尾もありました。民江さんは店員さんを見上げてにっこり微笑んだかと思うとエビをパクリ。続けてパクリ、パクリ。そして、二杯のお丼をきれいに食べ切りました。昔から魚よりも肉が好きで、揚げ物が大好きで、食卓にいつもたくさんのお料理を並べてくれて、ご飯はお茶碗三杯食べていた民江さん、あっぱれです。

さて、気になるのは食事のマナーです。私たちは民江さんに厳しく躾けてもらったおかげで、人前でも恥ずかしくないマナーが身についたと感謝しているわけですが、その民江さんが幼い子供のような食べ方になってしまうとは、思ってもいませんでした。

まず何を食べに行こうかと聞けば、必ず「好き嫌いはないから、何でも食べる」と嬉しそうに言います。それでも気を遣って好みのお店に行き、席に着きます。メニューを見せると、「わからない」と言います。「それじゃあ……」と、二つか三つの候補をあげて、その中から選んでもらいます。

私は用心をして、民江さんが食べやすそうな別のお料理を自分用にオーダーします。お食事が運ばれてきます。店員さんが全部並べ終わらないうちに、手を伸ばして食べ始めます。右肘がテーブルについています。左手はテーブルの下にあります。
私のお料理を羨ましそうに見つめることもあり、そのような時は「こっちがいいの?」と聞くと、頷きながら手が伸びてきます。噛みにくい物は、口から出してお皿の上に落とします。お手拭きで鼻をかみます。食後のコーヒーにコップの氷を入れて冷ましたかと思うと、一気に飲み干します。そして、一呼吸することもなく鞄を斜めに掛けて立ち上がります。「待ってよ、私まだコーヒー飲んでるんだけど」となります。

ゆっくり味わっているようでもなく、美味しいとか不味いとか言うでもなく、お行儀の「お」の字も見当たりません。好きなものをむしゃむしゃ食べて、そして自分が食べ終わったら帰るだけ、そんな感じです。

まるで子供のような姿は、他の場面でも見受けられます。

突然「肩が痛い~」と畳に倒れ込んで叫んだことがありました。私が掃除機をかけていたので、大きな声で叫んだのでしょうけれど、演技じみていました。掃除の手を止めて、「よしよし、どこがどんなふうに痛いの?」となだめて、その日は病院のはしごをすることになりました。

アイスクリームが美味しいと思ったら、1日に10個でも食べますし、お寿司が食べたいと思ったら、何が何でも今すぐお寿司を買いに行かなくては気が済みません。私がどんなに困った様子を見せても、どうにかして買いに行かせようとします。「だって、食べたいんだもん」、「自分では買いに行けないんだから」、「行ってくれてもいいじゃない」、「私が買いに行ったら転ぶわよ」、「転んでもいいの?」と。

わかりやすいその場しのぎの言い訳や作り話(本人は全く悪気のない「作話」なのかもしれませんが)、嫌いな人の悪口の連発……ああ、勘弁してほしいと反射的に思います。

年を取ると子供に返っていくようだと聞いていましたが、目の前で自分の親が子供のようになっている姿を見た時は、笑うことなどできるわけがなく、なんとも言えない寂しさで胸が痛みました。

人は、子どもから大人になるにしたがって、他者を思いやる心を養うと同時に、体裁や常識を気にする心を備えて成長していきます。でも、さらに年を重ねると、良くも悪くも、子どもに戻っていくのでしょうか。こんなにストレートに感情を表現できるなんて、長く生きた人に与えられたご褒美なのかもしれません。

 

▼赤木 夏(あかぎ・なつ)[文とイラスト]
89歳の母を持つ地方在住の50代主婦。数年前から母親の異変に気付く

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大学関係者必読の書!田所敏夫『大暗黒時代の大学──消える大学自治と学問の自由』(鹿砦社LIBRARY 007)

老いの風景〈11〉どうすれば、機嫌よく着替えをさせられるか

平均寿命が延び、高齢の親御さんやご親戚家族の健康について、悩みを抱える方が多いのではないでしょうか。私自身、予期もせず元気で健康、快活だった母の言動に異変を感じたのは数年前のことでした。そして以降だんだんと認知症の症状が見受けられるようになりました。今も独り暮らしを続ける89歳の母、民江さん。母にまつわる様々な出来事と娘の思いを一人語りでお伝えしてゆきます。同じような困難を抱えている方々に伝わりますように。

前回は、大晦日の晩に我が家でお風呂に入った時、長らく着替えをしていなかったことに、私が初めて気が付いたお話をしました。あれは私にとって、大変ショッキングで、母に対する申し訳なさと、自分に対する責任を痛感した出来事でした。今回は、その後のお話です。

認知症の診断を受けて数カ月、私なりに気にかけていたつもりでした。「着替えた?」、「はい」とか、「今日はお天気がいいけど、お洗濯した?」、「はい、洗濯は洗濯機がしてくれるんだもの」というやり取りを、毎日のようにしていました。「なっちゃんに着替えなさいと言われたから、今着替えたわ」(その時はそんなことを言っていないのに)と電話をしてきたこともありました。民江さんが夢か幻覚を見るほど「着替えの鬼」と化していた私です。が、実際は洗濯も着替えもしていなかったことが、大晦日に判明したわけです。本人に悪意はなくとも、言っていることが事実ではないことがあるのですね。私は早急に手段を考えなくてはいけませんでした。

さて、どうやって着替えをさせようか。ヘルパーさんを家に入れることは、断固拒否しています。デイサービスでお風呂に入れてもらう時に着替えればいい? いいえ、デイサービスにその着替えを持って行く準備ができません。デイサービスに私が一週間分届ければいい? いいえ、週に4日もデイサービスを利用しているのに、上から下まで何セットも準備して、私が必ずお届と回収をするなんて、続けられる自信がありません。

ならば妥協するしかありません。デイサービスのお風呂上りに最小限だけを替えることにしました。肌シャツとパンツとパッドだけを小さなビニール袋に入れて、十数セット準備し、専用の箱を作り、入れておくようにしました。民江さんには、タオルとその肌着セットを毎回忘れず鞄に入れることだけ、これだけを繰り返し伝えました。デイサービスのスタッフさんにも説明をして、お風呂を出たら着替えを促していただくようにお願いをしました。

やれやれ、なんとか成功しました! 持ち帰った肌着を入れるカゴも準備したのですが、カゴはいつも空っぽです。せめて一か所に干してほしいと貼り紙をしましたが、部屋のあちらこちらに干してあったり、引き出しにしまってあったり、と様々です。汚れた時には、バケツの中に浸しておいて欲しいと言いましたが、それも無理でした。それでも、よかった。清潔な肌着を身に着けてもらうことができるようになりました。

そして私は、それらの回収交換とその他の着替え、洗濯、掃除、布団干し、買い物、ゴミ出しの確認、薬の確認、デイサービスからの連絡や郵便物の確認など、身の回りの全てを助けるため、毎週日曜に通わざるを得なくなりました。やってあげたいことは、たくさんありました。

 

でも毎週日曜の訪問は結構大変です。持ち帰る洗濯物はかなりの量ですし、それらを洗濯して、物によってはアイロンをかけ、着替えのセットを作り、ストックがなくならないうちにまた持って行かなくてはいけません。行く度に家の中はグチャグチャでげんなりします。あまりのわがままな態度に頭にくることもしばしばです。平日も通院や突発的なことで行かなくてはなりません。私の生活もあります。自力で歩き、食べ、排泄することができる軽度の認知症なのに、生活のお世話がここまで大変だとは……実際に経験して初めてわかりました。

病院診察の時、介護認定の聞き取り調査の時、福祉の窓口へ相談に行った時、グループホームへ見学に行った時など、「いま娘さんが一番困っていることは何ですか?」と聞かれ、私は必ず「自分で着替えができないことです」と答えています。たいしたことではないと思われるかもしれません(私のきょうだいですらあまり深刻に捉えていないようです)が、実際に身の回りのお世話をしている私にとっては、これはかなり切実な問題です。そして、もっと重い認知症の方の介護を続けていらっしゃるご家族を心から尊敬します。

私は、同居ができないことに負い目を感じています。でも、その代りに、「このマンションは眺めが良くて、日の出も見えるし、夕焼けも奇麗だし、夏の打ち上げ花火も見えるし、駅までも近いし、とってもいいわ」と言っていた民江さんの昔の顔を思い出して、お手伝いを続けています。少しでも長くここに住めますように。

▼赤木 夏(あかぎ・なつ)[文とイラスト]
89歳の母を持つ地方在住の50代主婦。数年前から母親の異変に気付く

大学関係者必読の書!田所敏夫『大暗黒時代の大学──消える大学自治と学問の自由』(鹿砦社LIBRARY 007)
月刊『紙の爆弾』2019年1月号!玉城デニー沖縄県知事訪米取材ほか

老いの風景〈10〉大晦日の夜 民江さんの着替えと自尊心

平均寿命が延び、高齢の親御さんやご親戚家族の健康について、悩みを抱える方が多いのではないでしょうか。私自身、予期もせず元気で健康、快活だった母の言動に異変を感じたのは数年前のことでした。そして以降だんだんと認知症の症状が見受けられるようになりました。今も独り暮らしを続ける89歳の母、民江さん。母にまつわる様々な出来事と娘の思いを一人語りでお伝えしてゆきます。同じような困難を抱えている方々に伝わりますように。

民江さんは88才の誕生日の頃に認知症の診断を受け、衣食住の中に「できないこと」があるかもしれないと、思いを巡らせるようになりました。その一つが、着替えと洗濯です。洗濯が済んだかどうかと聞くと、「だって、洗濯するものがないんだもん」と言いました。はじめは、「そうかそうか」で済ませましたが、次に聞いた時も同じこたえでした。それから幾度か同じ質問をして、「おかしい」と思いました。「ないわけないでしょ」と言うと、「だって汚れてないんだもん」と。もうこれは完全に「おかしい」です。

一緒に住んでいれば、夜にはパジャマを、朝には見計らった服を差し出すことができますが、民江さんは独り暮らしです。私が気が付いたこの時には、家に帰るとブラウスやズボンを脱いで、肌着のまま布団に入り、翌朝またその肌着の上にブラウスを着てズボンを履くだけ。つまり同じ肌着をずっと着ている状態になっていたようです。タオルも真っ黒になっていました。きれい好きな民江さんが、ここまで進んでいるとは思っていませんでした。

なんとか着替えと洗濯をして欲しい。説得中に私がうっかり「汚いでしょ」と言おうものなら、「汚くない」、「自分の着た物のどこが汚い」と怒らせてしまい、会話になりません。

ならば洗濯は私が全部するから、着替えだけはして欲しい。整理ダンスに貼り紙をして、どこに何が入っているか一目でわかるようにしましたが、着替える意志がないからか、効果はありませんでした。電話で一つ一つ順番に動作を伝えて、やっと着替えることができましたが、長いと30分かかることもあり、民江さんも私もヘトヘトになりました。

昨年の暮れ、民江さんの家に行き、部屋の片付けをしながら着替えをしてもらっていた時のことです。途中裸でウロウロ歩き回ったり、パンツを2枚履いてしまう姿を見てしまいました。自力でできなくなったことを無理に私がやらせようとしていたことに気が付いた瞬間でした。民江さんの自尊心を傷つけていたかもしれません。

それから間もない大晦日の晩、例年通り、我が家でお鍋を囲んでいました。お肉に箸が止まらず、「生まれて初めてビールを飲むわ」(本当はいつも飲んでいます)と真顔で言って周囲を爆笑させ、テレビに合わせて歌を唄い、この頃には珍しく口数も多く、ご機嫌な時間を過ごしていました。ところが、「そろそろお母さん、お風呂に入ってくれる?」と言うと、いつものような「ではお先にちょうだいします」という返事がありません。ん? デイサービスでお風呂に入り、シャンプーもしてもらっているから、今夜は入らなくていいと言います。

 

デイサービスのお風呂が気持ちいいことは、毎日聞いていますが、我が家のお風呂もお気に入りだったはずです。再度私が勧めても、返事は同じどころか、怒って泣き出す始末です。「じゃあ、今日は私がシャンプーしてあげるから、入ろうよ」民江さんはやっと立ち上がり、私は一緒に準備してきたパジャマと下着を鞄から出す手伝いをしました。

ところがしばらくすると、今度は裸で廊下をウロウロしているではありませんか。私は理由がわからないまま、お風呂に連れて行きました。「デイサービスの人のように上手にできないかもしれないよ。どうやったらいいか教えてね」と言うと、背中を丸めて両手で顔を隠して言いました。「頭からお湯を掛けますよーって言って、お湯をかけて。お湯を掛けますよーって」と。まるで幼い子供がお母さんにお湯を掛けてもらうのを待っている時のようです。母のその後ろ姿に一瞬言葉を失いました。

そして、脱衣かごに入っていた汚れた下着を見て、現実を思い知りました。
私は、もっと早く民江さんの変化に気が付いて対応してあげていればよかったと、少なからず後悔をしています。私は、あの母が認知症になるという意識が全くなかったのです。そのせいで、多少のおかしな言動も、加齢によって性格が強く出てきているだけだと解釈していました。認知症に対する知識を集めることもしていませんでしたので、不用意な言葉をかけたり、不適切な態度を取ったかもしれないと思うと、「私が認知症の進行を早めたのかな」と、そんなふうに考えてしまいます。

認知症についての資料には、「感情的になってはいけません」、「怒ってはいけません」と必ず書いてあります。しかし一方で「怒った自分を責める必要はありません」、「たまには怒ってもいいのです」とも書いてあります。「じゃあ、どっちなのよ!」ですが、症状も元々の性格も家族の歴史も周囲の状況も様々なのですから、自分に合った良い方法を探し、解決していくことによって、納得し、心を整えていくしかないということでしょう。

着替えの話は、次回につづきます。

▼赤木 夏(あかぎ・なつ)[文とイラスト]
89歳の母を持つ地方在住の50代主婦。数年前から母親の異変に気付く

月刊『紙の爆弾』2019年1月号!玉城デニー沖縄県知事訪米取材ほか
大学関係者必読の書!田所敏夫『大暗黒時代の大学──消える大学自治と学問の自由』(鹿砦社LIBRARY 007)

老いの風景〈09〉わかっていても辛いこと

平均寿命が延び、高齢の親御さんやご親戚家族の健康について、悩みを抱える方が多いのではないでしょうか。私自身、予期もせず元気で健康、快活だった母の言動に異変を感じたのは数年前のことでした。そして以降だんだんと認知症の症状が見受けられるようになりました。今も独り暮らしを続ける89歳の母、民江さん。母にまつわる様々な出来事と娘の思いを一人語りでお伝えしてゆきます。同じような困難を抱えている方々に伝わりますように。

◆同級生(89歳)のいとことランチの約束をして

前回は、民江さんが慣れた場所で初めて道に迷った時のことをお伝えしました。あれは、本人にとってもショックだったと思いますし、家族にとっても認知症の進行と怖さを実感た出来事でした。今回は、それから3か月後に起きた騒動です。

これまで二度の迷子騒動を経験した私は、民江さんが電車で外出することに対して、それなりに注意を払っていました。それは、「約束したら私にも必ず教えてね」とお願いし、約束の日時と場所に無理がないかをチェックし、当日朝にもう一度確認するというものです。とは言っても、そもそも申告自体があてになるものではありません。案の定「今日は○○ちゃんと12時に会うのよ」とか「今日約束してたけど、体調が悪いらしくて延期したわ」など、約束していたことを当日の朝に初めて知ることがよくありました。

それは昨年4月のことです。同級生(つまり89歳)のいとことランチの約束をしていると言うので、数少ない友人と楽しい時間が過ごせるといいなという思いで、快く送り出すことにしました。約束の場所と時間から、何時に家を出て、どういう経路で行くのかを確認し、「気を付けてね。何かあったら電話してね」と言いました。

数時間後、行き慣れた場所でしたし、約束の時間もとっくに過ぎたので、ホッとしてお茶でも飲もうと思ったところに電話がかかってきました。民江さんの携帯電話からの着信です。でも、声は男性です。「お母さんが倒れていらっしゃったので救急車を呼ぼうかと声を掛けたんですが、娘に電話をしてくださいとおっしゃるので」と。

聞いていた場所とは全く違いますが、とにかく迎えに行かなくてはなりません。どんなに急いでも40分はかかりますが、その方は付き添って待っていてくださるそうです。お言葉に甘えて、私はまず待ち合わせ相手の娘さんに電話で状況を説明し、そちらの対応をお任せした後、急いで車を走らせました。到着すると、歩道の木陰に喫茶店で借りた椅子に座った民江さんと、寄り添ってお話をしてくださっているご夫婦の姿がありました。

よかった。そして、本当にありがとうございました。お二人は散歩の途中だったそうで、「もう少しお散歩の続きをしますから、どうぞ気にしないで」と笑顔で手を振って去っていかれました。過去二回もそうでしたが、またしても親切な方に助けていただいたわけです。

さて民江さんの様子はというと「私はいとこのせいで行き倒れた!」と怒っています。いとこの希望で約束の場所を変更したことが原因だと言います。その場所が久し振りだったこともあると思いますが、見当違いの方向へ1キロぐらい、民江さんの足なら電車を降りて1時間ぐらい歩いたようです。助けてくださった方への感謝の気持ちよりも、いとこへの恨みと空腹感で荒れています。

私は、なぜ変更したことを教えてくれなかったのかと苛立ちながら、とにかく民江さんの気持ちを鎮めようと、適当なお店を探してお腹を満たし、プラス思考の話題へ誘導しますが、なかなか機嫌は直りません。今回は特にダメージが大きかったようです。早く休ませて、明日になることを願うしかありませんでした。

◆穏やかに接してあげたいが

このようなことが起こると、民江さん自身とても混乱し、恐怖を感じたでしょう。それを思えば、私もなるべく穏やかに接してあげなくてはいけません。なるべく穏やかに接してあげなくてはいけないことはわかっています。が、現実は辛い。この時の民江さんの言動をもう少し詳しくお話しします。

急いで駆けつけた私に何も言わないどころか、助けていただき一時間も付き合ってくださった方に対しても、私が促してやっと軽くお礼を言いうことができました。
車に乗せると後部座席から「信号青よ!」と大きな声。しかもそれは横の信号を見て言っているのですから、本当はまだ赤なのに、私に指図をしてきます。途中、路上に車を止めて駅のトイレを借りて走って戻った私に「ソフトクリーム買って来てくれたんじゃなかったの?」と言い、「食べたいの?」と聞くと、「買って来て」と横柄な態度です。

その後も、駐車場のある店に入ろうと探しながら走っているのに「お腹がすいた」「どこでもいいから早くお店に入ってよ」と繰り返します。「場所を変えてくれと言ったいとこが悪い」「いとこのせいで私は行き倒れた」「もういとことは会わない」と、いつまでも怖い顔をして怒っています。

こんなに悪態をつかれても、娘の私は黙って聞いていなくてはいけません。認知症の人に怒っても本人を混乱させて状態を悪化させるだけ。母は認知症。だから怒ってはいけない。怒ったら、あとでもっと自分を責めることになる。わかっていても辛いものです。

▼赤木 夏(あかぎ・なつ)[文とイラスト]
89歳の母を持つ地方在住の50代主婦。数年前から母親の異変に気付く

月刊『紙の爆弾』2019年1月号!玉城デニー沖縄県知事訪米取材ほか

老いの風景〈08〉道に迷った民江さん

平均寿命が延び、高齢の親御さんやご親戚家族の健康について、悩みを抱える方が多いのではないでしょうか。私自身、予期もせず元気で健康、快活だった母の言動に異変を感じたのは数年前のことでした。そして以降だんだんと認知症の症状が見受けられるようになりました。今も独り暮らしを続ける89歳の母、民江さん。母にまつわる様々な出来事と娘の思いを一人語りでお伝えしてゆきます。同じような困難を抱えている方々に伝わりますように。

◆グルグル歩いているうちに熱中症に

今回は、認知症の母が道に迷ってしまった時のお話です。

私自身、大型ショッピングセンターで買い物を済ませ駐車場へ戻った時、車を止めた場所がわからなくなることがあります。広い駐車場、たくさんの知らない車、この中から自分の車を見つけることができるのかと恐怖に近いものを感じました。昔はそんなことはなかったので、おそらくこれも老化現象の一つでしょうけれど、こんなことを経験したお陰で、『高齢者が、突然自分の立っている場所がわからなくなる』とは、どんな感覚なのか、少しだけわかるような気がしました。

昨年の夏のこと、「もしもし」民江さんの携帯電話から男性の声で電話が掛かってきました。認知症の症状が目立ってきた頃でしたので、私はとっさに「いよいよ警察か」と構えたところ、救急隊の方でした。街で熱中症になり倒れてしまったそうで、病院に搬送するから迎えに来るようにという連絡でした。そして最後に付け加えられたのは、「ご本人嫌がっていますけど、無理やりお連れしますから。ご了承ください」でした。

たまたま病院が姉の家の近くでしたので、この日は姉に迎えに行ってもらうことにしました。が、病院からは「点滴を抜いたりして大変なので早く来てください。何時ごろになりますか?」「まだですか。では、お姉さんの電話番号を教えて下さい」と二度も電話がかかってきました。幸い熱中症の症状は落ち着いたようで、病院スタッフは暴れていることに手を焼いているご様子です。しばらくして姉が到着し、途端に静かになったそうです。安心したのでしょう。

いつもの店に行くつもりの道がわからなくなり、グルグル歩いているうちに熱中症になったようですが、こんなことは初めてでした。本人は自分が倒れたことに加えて救急車で病院に連れて行かれたことで、余計に混乱し興奮したのでしょう。私が駐車場で体験した恐怖より、何倍も怖かったはずです。それにしても、フラフラになった民江さんに声を掛けたり、救急車を呼んだり、なだめたり、飲み物を買ってくださったりと、通りすがりの方々が足を止めて介抱してくださったことと思います。おかげで大事に至らず済みました。

 

◆危なかったけれど、有難かった出来事

二度目は今年の1月のこと、仕事の移動中になぜかふと思い立って民江さんに電話を入れました。すると、「なっちゃん……わたし○○で道がわからなくなっちゃって、今送っていただいいてるの」「な、なんで? 誰に? どこまで?」 どうやら電車に乗って街へ行き、いつものお店でお昼ご飯を食べて駅に向かったが、○○で道がわからなくなり、通りすがりの方に家まで車で送っていただいている、ちょうどその最中のようなのです。

驚いて言葉に詰まっていると、「もしもしお電話かわりました。娘さんですか? 怪しい者ではありませんから。お母さんに名刺をお渡ししました。お母さんが△△で道に迷っていらっしゃるご様子だったのでね、今おうちまでお送りしていますのでご心配なく。おうちは××で間違いないですね。いえいえ、たまたまついでがありましたから、大丈夫ですよ」と年配の男性の声。

お言葉に甘えてそのままお願いし、丁寧にお礼を言って電話を切りました。なんと親切な方でしょう。家は車で30分以上かかる住宅街です。「ついで」って、そんなことありますか。そしてこんな親切な方にめぐり逢うことができた民江さんはなんと幸運なのでしょう。後日、お礼状を書こうと名刺を探しましたが見つかりませんでした。恩人の名刺をどこかに失くしてしまったとは、つくづくがっかりですが……仕方ないですね。危なかったけれど、大変に有難い出来事でした。

道に迷うということは、場所を認識する能力が低下し、見慣れたはずの場所が突然全く知らない場所になってしまうのでしょうか。恐怖と不安で混乱し、暴れたり怒ったり、感情が制御できなくなるのかもしれません。民江さんは足腰が丈夫なので、積極的に出かけてほしいと思っています。けれど親切な方々のご厚意によって大事を免れていることと、これからまたこのようなことが起きるかもしれないということを、私は強く心に留めておかなくてはなりません。医者が言うようにGPSを持たせなくてはならない日が来るのでしょうか。

 

▼赤木 夏(あかぎ・なつ)[文とイラスト]
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老いの風景〈07〉猛暑と母の温度感覚

平均寿命が延び、高齢の親御さんやご親戚家族の健康について、悩みを抱える方が多いのではないでしょうか。私自身、予期もせず元気で健康、快活だった母の言動に異変を感じたのは数年前のことでした。そして以降だんだんと認知症の症状が見受けられるようになりました。今も独り暮らしを続ける89歳の母、民江さん。母にまつわる様々な出来事と娘の思いを一人語りでお伝えしてゆきます。同じような困難を抱えている方々に伝わりますように。

◆温度感覚が鈍ってきた

高齢者は室内でも熱中症になる危険性が高いと言われています。今年は、もともと大変な暑でしたが、母の温度感覚が鈍ってきたことを実感したお話です。

暑がりの民江さんが、今年はいつまでも暖かい肌着やベストを身に着けていました。私が持ち帰って洗濯して戻すと、また着ています。「いくらなんでも、もう必要ないでしょ」と何度言っても、また着ています。内緒で普段使わないタンスにしまい、代わりに薄手のブラウスを目につく場所に掛け、やっと夏らしい装いに変わりました。本人は何も言わないので、これでよかったかどうかわかりませんが、今年は少し強引に衣替えをさせてしまいました。

クーラーについては、年齢の割におおらかなのか、それほど暑さに弱いのか、1~2時間の外出ならつけたまま出かける生活を昨年までずっと続けていました。ところが、記録的な猛暑となった今年、7月になってもエアコンはいらないと言います。せめてもと思い、扇風機を物置から出してきて回しておくのですが、いつの間にか止めてあり、また私がつけて……の繰り返しです。「暑くない」と言い張ります。

ある日、民江さんの寝ている和室を覗くと、まだ布団が敷いたまま(民江さんは足腰が丈夫なので、今でも自分で布団の上げ下ろしをしています)でした。片付けようと近づくと、掛け布団は冬用の羽毛布団のまま、襟元はズクズクに濡れてペチャンコに、白いカバーは黄色く変色しツンと臭います。敷布団もずっしりと重たくなっています。大量の汗が染み込んだままの布団、今朝も肩まで布団をかぶって寝ていたようです。私は毎日数回電話をし、最低でも週に一度は来ています。ですが今日まで気が付かなかった。ああ! もっと早く気が付いてあげるべきだった。羽毛布団をクリーニングに出し、その他もさっぱり夏仕様に交換し、室内用布団干しを買って届けました。

こんなに汗をかいて……暑くて布団を剥ぐということをしなかったのでしょうか。そもそも暑さ自体を感じなかったのでしょうか。布団が汚れているという感覚はなかったのでしょうか。起きたら、たくさん汗をかいたことを忘れてしまうのでしょうか。寝る時に濡れた布団に触れても何も思わないのでしょうか。床に落ちている髪の毛は拾うのに、汚れた布団は目に入らないのでしょうか。それら全てによって……これが老いなのでしょうか。独り暮らしにいよいよ危険を感じました。

◆エアコンの設定温度を10度も下げる理由

室内で熱中症になってはいけないので、その日から必ずエアコンをつけるよう丁寧に説明しました。28度に設定し、温度のボタンは触らないように言いましたが、電話をすると「エアコいンつけてるよ」「18度より下がらないのね」「え?もっと上げるの?」「上げる?」「数字を大きくするの?」「三角の上のボタン?」「はい、28になりました」と。そして次の日もまた次の日も、18度より下がらないから始まって、同じ会話の繰り返しです。

本人はデイサービスに喜んで行っていますが、私としてはこれ以上回数を増やしたくないと思っていました。理由は、自分で考えて能動的に時間を過ごす日も必要だと思っていたからです。しかし、この一件で考えを改めることにしました。夏の間だけでも、デイサービスをもう一日増やすように早速お願いし、日曜日と通院日を除いて、週5日通うようになりました。

後日談です。毎日エアコンの設定温度について同じ話を繰り返すことに疲れてきた私は、「18度に下げると電気代もったいないよ」と言ってみました。すると「あら、せっかく点けるのに? 18度にしないともったいないと思ってた」と明確な返事が返ってきました。

そしてそれ以来、リモコンの設定温度は28度のままです。説明を繰り返す必要が一切なくなりました。本人の中では理由があって温度を下げていたことがわかったので、すっきりしたようでもあり、毎日の私の苦労は何だったのかと、別の謎が生まれました。民江さんに振り回される毎日です。そして、ああ、次は冬の装備です。

 

▼赤木 夏(あかぎ・なつ)[文とイラスト]
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