筆者がかつてのライバルを挑んだ擁立 広島県知事選挙 奮闘記〈1〉

さとうしゅういち

広島県知事選挙は2025年11月9日執行されました。
投票率は30.09%で、2005年に次ぐ過去ワースト2の投票率となりました。

【当選】横田美香 無新 54歳 推薦:自民・立民・国民・公明 前広島県副知事 552,614(83.4%)

猪原真弓 無新 64歳 推薦:共産 共産党広島県東部地区常任委員 75,468(11.4%)

大山 宏 無新 77歳 元電気機器メーカー社員 34,333(5.2%)

4期16年を務めた湯崎英彦知事がご勇退表明された後、事実上後継指名した前副知事の横田さんが与野党の応援を受けて当選。ただし、前回2021年に湯崎英彦知事が取られた707,371票からは15万票減らしました。

共産党が推薦した猪原さんは、共産党系候補としては2013年以来、久しぶりに10%を超えました。

筆者が政党の枠を超えた県民ファーストの「庶民革命ひろしま」として擁立した大山候補は、34333票。

地元最大手の「中国新聞」などによる政党中心の報道で、大山さんは無視される(日々の記事で陣営の主張も、写真も載せてもらえない)中で、5.2%という票を獲得しました。大山候補は2021年参院選再選挙で筆者とはライバル関係にありましたが、それを超えて筆者が大山さんを擁立した形になり、2021年参院選再選挙の票での両社の合計票を投票率が低下する中で上回る形になりました。

以下は、開票日に筆者が出したコメントです。

◆2025年広島県知事選挙を終えてのご報告と御礼

このたびの広島県知事選挙において、「庶民革命ひろしま」推薦の大山宏候補は34,333票(得票率5.2%)を獲得し、当選には至りませんでした。ご支援くださった皆様に、心より感謝申し上げます。

今回の選挙は、湯崎英彦知事が事実上後継指名した前副知事・横田美香氏が、与野党相乗りの支援を受けて当選するという構図でした。私たちは、既成政党の枠を超え、市民の手でつくる新しい県政を目指し、大山宏氏を擁立して挑みました。

もともと私は「庶民革命ひろしま」を立ち上げ、知事候補を公募していましたが難航。県選管の説明会で大山氏と再会し、2021年参院選再選挙でのライバル関係を超えて、共に挑戦する決意を固めました。

マスコミ報道が既成政党の候補に偏る中でも、私たちは前回の参院選再選挙での大山宏票13,363票+佐藤周一票20,848票=34,211票を122票上回る結果を得ました。これは、草の根の力で積み上げた一票一票の重みの証です。

大山候補のポスターと選挙カー
呉駅前で大山候補の応援演説をする筆者

特筆すべきは、呉市での躍進です。得票数は2,926票→5,412票と倍増に近く、得票率も7.2%と突出しました。呉日鐵跡地への防災省・防災科学アカデミー誘致という具体的な代案や、PFAS、産廃、カキの大量死といった地元課題への訴えが、現地の皆様に届いた結果だと実感しています。

また、大山候補の地元・東広島市でも2,907票、6.5%と、前回の合計票を上回る結果となりました。ポスター掲示やチラシ配布にご尽力くださった支援者の皆様の奮闘に、心から敬意を表します。「政策が良いから手伝いたい」と申し出てくださった有権者の声にも、希望を感じました。

一方で、選挙運動を担う人手の絶対的不足や、「自民か共産か」という二項対立に偏った報道には苦しめられました。多様な選択肢があることを示すには、まだまだ力が足りませんでした。

それでも、私たちは一歩を踏み出しました。草の根から、現場から、倫理を軸にした政治文化を広げていく挑戦は、これからも続きます。

最後に、今回の挑戦を支えてくださったすべての皆様に、心より御礼申し上げます。ありがとうございました。

※本コメントはネット上での発信に限らせていただきます。

今後、広島県知事選挙2025について取り上げる記事を出させていただきます。

▼さとうしゅういち(佐藤周一)
元県庁マン/介護福祉士/参院選再選挙立候補者。1975年、広島県福山市生まれ、東京育ち。東京大学経済学部卒業後、2000年広島県入庁。介護や福祉、男女共同参画などの行政を担当。2011年、あの河井案里さんと県議選で対決するために退職。現在は広島市内で介護福祉士として勤務。2021年、案里さんの当選無効に伴う再選挙に立候補、6人中3位(20848票)。広島市男女共同参画審議会委員(2011-13)、広島介護福祉労働組合役員(現職)、片目失明者友の会参与。
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11月16日(日)追悼集会「矢島祥子と時間を共有する集い」にお集りを!

尾﨑美代子

追悼集会「矢島祥子と時間を共有する集い」
11月16日(日)14時開演 
社会福祉法人「ピースクラブ」4階ホール
(大阪メトロ「大国町駅)5番出口南へ6分)
参加費 無料
冤罪「和歌山カレー事件」を題材にしたドキュメンタリー映画
「マミー」の二村真弘監督にお話して頂きます。

以下、釜ヶ崎のこの事件について、あまり知らない方に、当時何が起こったかを知って頂くために、事件前後に起こったことを時系列でまとめてみました。ご遺族、関係者に確認しつつやっております。訂正があった場合には速やかに訂正致します。ご一読を!! そして是非ご参集を!!

◆あの日、矢島祥子さんに何がおこったのか?

2009年11月16日(月)午前1時20分、大阪市西成区木津川河口の千本松渡船場で釣りをしていた男性2人が、女性の遺体を発見した。女性は14日早朝から同区内のK診療所から行方不明になっていた女医の矢島祥子さん(当時34歳)だった。遺体から発見されたカードケース付の財布に診察券、カード類、運転免許証などが入っており、祥子さんと判明した。

11月13日(金)祥子さんが最後の患者を診終えたのは19時45分頃、20時過ぎにはB看護師が、22時頃にk所長と職員Cさんが診療所を退出。Cさんによれば、祥子さんは奥の部屋でパソコンで作業をしていたという。

23時18分~37分の間、祥子さんが退出・入室していることが、祥子さん名義の警備会社ALSOKのセキュリティカードの履歴から判明している。

11月14日(土)4時15分頃、電子カルテがバックアップされ、同48分に退出が記録。しかし、最後にカードを使用した際、誤作動が生じ、警備会社が祥子さんに電話を架けていた。それまでも祥子さんは誤作動が生じると、自ら警備会社に「間違いでした」と連絡したり、警備会社からの電話にでていた。しかし、その日、祥子さんが電話にでることはなかった。そこで警備会社が緊急出動したが、すでに30分も経過していたため、診療所に問題なしと報告されている(天候は強い雨、しかし、鶴見橋商店街の監視カメラに祥子さんの姿は映っていなかった)。

同じ頃、祥子さんの携帯電話から翌日15日(日)会う約束だった友人Ⅹさんに予定をキャンセルするメールが送られていた。のちに、Xさんが遺族と診療所へ報告した祥子さんからのメールの着信時刻が違っていたため、遺族が正確な時刻を確認したいとⅩさんに申し出た。しかし、携帯が壊れたとの理由で確認は出来なかった。

14日10時過ぎ、出勤しない祥子さんを心配して、看護師Dさんが徒歩10分ほどの祥子さんの部屋を訪ねた。祥子さんは不在で、施錠されていなかったため中を覗くと、室内は整然としていた。なお、アパートに祥子さんの自転車もなかった。その後も職員らが何度か祥子さんの携帯に連絡をいれたものの繋がらず、午後13時10分過ぎには、K所長とD看護師が再び祥子さんの部屋を訪ねたが変わりはなかった。

翌15日(日)祥子さんと連絡が取れないままだったため、彼女の身に何かあったのではと危惧し、K所長らが西成署に相談。警察からは捜索願は親族から提出する必要があるといわれた。それを受けて、10時26分、K所長は初めて群馬の祥子さんの実家に電話をかけた。電話でK所長は、父・祥吉さんに「祥子さんが行方不明になりました。高崎警察署に行って捜索願を出してください」といった。電話の直後、これまでの経緯が書かれたメモがFAXで送られてきた。

【注】敏さん「父から送られてきたFAXを見たとき激昂しました。”なんでこんなもん作ってんだよ”そのFAXには祥子が行方不明になってから、その行方を知るために、誰とどういう行動をとったかが時系列と共に事細かに書いてあり、極めつけは祥子に最悪のことが起こった場合の対処まで書いてあったのです。これを制作する前、もしくは途中でも、何故家族に1本の電話もくれなかったのか?」と。

【注】父・祥吉さんが2010年1月11日、診療所でK所長と面談した。そのなかで、k所長から「2009年11月14日釜ヶ崎の一部に人たちに集まってもらい、対策を行った」ことが明かされた。しかし、翌日15日、K所長から届いたFAXに、その対策会議については書かれていなかった。

両親は地元の警察署に捜索願を提出。病院の事務局長を務めていた次男・洋(ひろし)さんを大阪へ向かわせた。

洋さんは西成に到着後、診療所でK所長と面談、その後ホテルで警察の連絡を待っていた。日が変わった16日深夜、洋さんは茅ケ崎に住む長男の敏さんに電話で報告を行った。

敏さんの携帯に再び洋さんからの連絡が入ったのは、それから1時間ほど経った時。その時の心境を敏さんはこう振り返る。「洋との電話を切り、少し横になっていたら電話が鳴った。いつでもとれるように着信音を最大にしていたんです。もう嫌な予感しかありませんでした」。

洋さんの電話は、祥子さんらしい遺体が見つかったことを知らせるものだった。群馬の両親には直接知らせる必要があるということで、敏さんが車で群馬へ向かう。知らせを聞いた両親は泣き崩れた。そのまま両親、敏さんは始発の新幹線で大阪に向かう。

警察からの知らせを受けた洋さんは西成署に向かい霊安室で祥子さんの遺体と対面。昼前には両親と敏さんが西成署に到着、霊安室で祥子さんと対面。その際、祥子さんの両首に赤黒い傷(頸部圧迫痕)があるのを見つけ、医師である母・晶子さんに告げた。祥子さんの遺体を司法解剖の結果をうけて西成署は、死因を「溺死」とし「過労による自殺の可能性が高い」と遺族に説明した。

【注】祥子さんが亡くなる直前、祥子さんからハガキを受け取った男性Mさんが、絵ハガキを西成警察に届けた。ハガキには「出会えたことを心から感謝しています。釜のおじさんたちのために元気で長生きしてください」とあった。男性(当時60歳)は当時釜ヶ崎の労働組合の組合員であり、K診療所の患者でもあった。なお群馬で執り行われた葬儀の席で、釜ヶ崎のNPO団体の女性(当時)から、「祥子さんには交際していた男性がいた」と告げられた。それがMさんだった。

【注】2018年ジャーナリスト寺澤有氏が「尾崎さん、矢島祥子さんの事件を取材しますよ」と来阪、2日目にMさんをアポなし取材し、難波屋横の喫茶店「ミチ」で2時間ほど話を聞いていた。その際、Mさんは、ハガキについて「警察に見せたが、それが遺書で自殺の根拠だと主張したわけではない。こういうハガキが届いていたと見せておかないと、あとで警察が知ったとき、『どうして隠していたんだ』と追及されるからだ」、自殺、他殺どちらだと思うかとの質問に「自殺だと確信しているが、とくに根拠はない」と述べていた。

遺体がみつかった16日の夜、釜ヶ崎「社会福祉法人聖フランシスコ会ふるさとの家」で「お別れの会」が開催された。「ふるさとの家」は敬虔なクリスチャンだった祥子さんがミサに通っていた場所で、彼女を知る多くの人が集まったが、祥子さんの死を「自死」という人が多く、それを遺族に告げる人までいた。

遺族は、祥子さんの自死説には到底納得いかなかった。クリスチャンの祥子さんは「死にたい」という患者らに常々「死んではだめ」と強く諭していたこともあるが、遺族がその目で祥子さんの首の傷を確認しているからだった。そのため遺族は祥子さんの母校・群馬大学医学部付属病院に再度司法解剖を依頼した。

祥子さんの死からひと月後の2009年12月11日、遺族は西成署の捜査担当者と面談。捜査員は、祥子さんの遺体には「頭血腫」(ずけっしゅ)と「頸部圧迫痕」(けいぶあっぱくこん)があり、2つの傷は、第一発見者の釣り人が遺体を引き上げる際、誤って遺体を落とし、できたものと説明した。「鑑定書」に納得いかない遺族は、解剖医に説明を聞きたいと申し出、捜査員と医師、遺族の3者での面談。医師からは「頭血腫は平らな鈍体よって出来たこと、生活反応があったこと(生きていた時にしかできない)、それによって脳震盪(のうしんとう)を起こしたと説明をうけた。警察が説明した、釣り人が遺体を引き上げるとき誤って落として出来たものは噓だったことがわかった。

【注】遺族によれば、現時点においても、誰が遺体を引き上げたかはわかっていないという。

遺族は、自分たちで不審点を調査し、「被疑者不詳」のまま、殺人と死体遺棄での疑いで西成署に告訴状を提出。祥子さんの死から3年目の2012年8月22日、告発状は受理され、再捜査が行われることとなった。

その後も闘いは続いております。ご支援をよろしくお願いいたします。

尾﨑美代子(おざき みよこ)
新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを「西成青い空カンパ」として主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。
◎著者X(はなままさん)https://x.com/hanamama58

◎amazon https://www.amazon.co.jp/dp/4846315304/

60年代同志社ラジカリズムとは何だったのか?──ニューヨークから 

矢谷暢一郎(アルフレッド州立大学〔ニューヨーク州立大学機構アルフレッド校〕心理学名誉教授)

◎このかん連続して記述してきた11・9同志社大学ホームカミングデーの集いにお二人の先輩からメッセージが寄せられましたので掲載いたします。一人目は元学友会委員長・矢谷暢一郎さんです。(松岡)

左から矢谷暢一郎さん、加藤登紀子さん、松岡鹿砦社代表

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第二期第一回目の「同志社大学学友会倶楽部ホーム・カミングデーの集い」に主催者の松岡利康さんから、この「集い」にアピールを頼まれてニューヨークからこのメールを送っている矢谷暢一郎です。50年以上も前の同志社の学生運動やサークル運動に活躍された人々も招いて、「60年代同志社ラジカリズムとは何だったのか?」をテーマに昔の話をしようじゃないか、という趣旨です。「昔の話をしよう」というのは、歌手の加藤登紀子さんの『時には昔の話を』の題名から来ていると推測しますが、彼女が歌い始めたのは1980年代の後半でした。40年近くも前の古い歌です。日本人で加藤登紀子さんを知らない人はそんなの多いとは思いませんが、歌を知っている人たちはもちろん今日の「集い」に刺激され歌を聴いてみたくなった、とりわけ若い人たちがこの古い歌を聴けば、80才を越した登紀子さんが、激動の1960年代ご自分を重ねた主人公が後に彼女の夫となるかつてのボーイフレンドと共に、貧しいながらもたくましく生き抜いてきた昔のことを思い出すような内容となっているのが判ります。

加藤登紀子さんの夫は2002年の夏7月31日肝臓ガンで倒れた藤本敏夫さんです。

藤本敏夫さんは1963年同志社大学文学部新聞学専攻に入学。新聞記者になる目標があって同志社の新聞学専攻に入ったのですが卒業していません。グーグって(グーグルして)みると中退となっています。彼は「鶴俊のゼミ」(鶴見俊輔の新聞学ゼミ)に入っていましたが、60年代後半京都府学生自治会連合(府学連)書記長としてアメリカのヴェトナム戦争に反対、日本政府の戦争加担政策に抗議する過激な学生運動を指導しました。新聞学卒業証書で身を立てたわけではありませんが、鶴見俊輔教授は藤本敏夫さんの思想、実績そして人物的価値を高く評価していました。

1922年生まれの鶴俊は日本の高校を卒業せず、中退です。16才の時リベラル派の衆議院議員・政治家だった明治18年生まれの父・鶴見祐輔の計らいでアメリカ留学、18歳の時アメリカの大学共通入学試験にパスして、ハーヴァード大学入学、1941年日本軍のアメリカ真珠湾攻撃で日米開戦、アメリカ在住の日本人は鶴見俊輔も含めてアメリカ政府・FBIによる逮捕・拘留となります。捕虜としてメリーランド州の拘置所に拘留されていたハーヴァード大学三回生の鶴俊は授業に出ることができず拘置所で後期の哲学の試験を受けますが不合格。しかし拘置所内で書き上げた卒業論文とそれまでの学業成績が良かったことで教授会の特例で卒業が認められた。多分政治家の父の計らいもあったでしょう、1942年6月に日米捕虜交換船グリップスホルム号に乗船、大西洋を南下、モザンピーク経由で8月に日本に帰国。第二次大戦中の軍属としての仕事やカリエスや結核にまつわる病気に苦しめられた私生活を説明するのは省きますが、戦後の進歩的な思想家たちや知識人たちの「転向」問題研究、丸山眞男、都留重人、鶴見和子、武田清子等7人と 思想の科学研究会創設や『思想の科学』創刊。1948年桑原武夫の推薦で京都大学の嘱託講師、1949年に京都大学人文科学研究所の助教授、1954年東京工業大学の助教授、60年日米安保条約の強行採決に抗議して東京都立大学人文学部の竹内好教授が辞職、竹内の大学人・知識人の心意気に賛同し、鶴俊も東京工業大学を辞職。翌年同志社大学文学部社会学科教授に就任。長くなった感じがしますが、「60年代同志社ラジカリズム」の前置き、イントロダクションを話し始めたところです。

「同志社のラジカリズム」は同志社のリベラリズムが長年存在していて、60年代後半の運動の中で生まれたものだというのが、わたしはの考えです。それ抜きにしては存在しようがありません。リベラリズムというのは、簡単に言えば、伝統的な権威や規範にとらわれず、進歩的で、個人の自由や権利を尊重する考えで、寛大で心が広く、他人の多様な意見や行動を受け入れ、偏見のない態度を示します。リベラルな同志社が臨済宗禅寺の総本山である相国寺と神道の皇居の御所の間に挟まれ位置していることに、日本海の隠岐の島の崎村から出てきた18歳の田舎者のわたしは、浄土真宗の家に生まれ育てられてきたこともあって驚嘆させられました。毎週水曜日のチャペル・アワーで、「真理はあなたがたに自由を得させるであろう」(ヨハネによる福音書)と神学教授から説教されると、大学入学前に言われてきた高等教育(higher education)の目的の「真理探究」が、キリスト教を土台にしイエス・キリストの言葉を通した神の教えが真理であると聴き、古い都の京都での新しい大学生活は新入生にとって誇り高くもあり、緊張に満ちたものでもありました。

わたしが1965年に同志社に入学した時、社会学科新聞学専攻には鶴俊がおり、神学部には笠原芳光や竹中正夫が講義をし、わたしの専攻文学部英文科には斎藤勇教授、アーモスト大学で修士課程を終えたばかりの「三山」-岩山太次郎、秋山健、北山- 三人がアメリカから帰国したばかりで英語だけで授業を行う若手教授の「国際主義的」な華やかさがあり、翌66年には日本にカミュ、サルトルの実存主義を紹介した矢内原伊作が助教授として就任。秋には20世紀最大の思想・哲学・文学の実存主義を展開したサルトル、ボーヴォアールが訪日し、同志社での二人の講演で矢内原伊作が通訳を担当した。法学部には憲法学の第一人者で護憲活動を進める田畑忍、同志社卒での後に社会党の委員長を務める土井たか子、政治学科には岡本清一、数え上げれば時間が足らないほどの錚々たる教授達が同志社のキャンパスを自由・自治・平等・平和・護憲・民主主義擁護のリベラルで革新的な文化・校風を形成し、その環境の中で我々学生は大学生活を繰り広げたわけです。勿論、これらのリベラルな同志社精神や教育方針が、「一国の良心」たる人物を要請する目的で、1864年(元治元年)国禁を破って鎖国の日本を脱出し、アメリカのアーモスト大学で日本人初の理学士の学位を収得し、100年前の明治8年、京都に同志社英学校を創設した新島襄の歴史が基礎に在ります。

ヴェトナム反戦運動に参加したのは、ちょっとした事件がきっかけでした。二回生の春、小、中、高校と運動会のフォークダンス以外手も握ったこともないのに、誘われて女子学生とダンスパーテイに行くことになりました。今出川河原町から四条まで、市内何処まで乗っても15円の市電に乗って 四条河原町まで向かいました。すると、市電の横を学生100人ばかりの反戦デモが通りました。後でわかるのですが、鶴俊と作家の小田実が始めた「ベトナムに平和を!市民連合(ベ平連)」だった、らしい。二列か三列のデモ隊を警備する京都府警の機動隊が、大人しく整列してヴェトナム戦争と日本政府の戦争加担に抗議するデモ隊の学生達にちょっかいだし、ちょっとしたイザコザを電車の中から見物していました。ところが、よく観ると学生たちに対してちょっかいだしているのは機動隊の方。「卑怯やないか」とカチンときて、文句言ってやろうと彼女を残して突然電車をおりました。機動隊をそばで見ると怖くなって、何も言えなくなり、引き返そうと電車を見ると彼女を積んだまま走り去っていた…。それから2、3週間して、明徳館前の反戦集会に行きヴェトナム反戦・日本政府戦争加担抗議デモに参加した。しばらくして、此春寮の藤本敏夫さんの部屋に呼ばれ、学友会・自治委員選挙に出るよう説得されました。アジテーションなどしたこともなかったが、英文科の上級生の横山たかこさんに付き添って選挙活動。当選して文学部自治委員。それまで執行部を握っていた共産党の学生組織、民主青年同盟(民青)の文学部自治委員数を抜き、「反民青」の新しい執行部となりました。60年安保闘争敗北で日本共産党や社会党から袂を分かった、後の三派全学連を指導する社学同、社青同、中核派などの事ですが、複雑でわたし自身にも解らないことばかりですから省きます。新しい執行部でわたしは文学部自治会書記長に選出されました。

ヴェトナム反戦運動がどんどん先鋭化する中、1967年10月8日、佐藤栄作首相のヴェトナム訪問を阻止する「羽田闘争」があり、そこで京都大学生の山﨑博昭さんは機動隊に撲殺され命を落とし、それは60年安保闘争の樺美智子さんの死と重なり、先鋭化した学生運動の参加者たちは党派ごとに赤ヘルメット、青ヘルメット、白ヘメットを被り、それは抵抗と防衛の象徴することになりますが、以来「平和と護憲」の先鋭化したラジカルな私達は「暴力学生」として否定的な取り扱いを受けるようになりました。因みに、誰が選んだのか知りませんが、同志社の学生運動は赤いヘルメットになっていました。

すぐ1968年1月アメリカ原子力空母エンタープライズが長崎県佐世保寄港反対闘争に継続されます。佐世保に行く前に、神戸のアメリカ領事館への抗議行動があり、わたしは生まれて初めて逮捕され、三日間の留置所拘留となりました。出所の時に迎えに来たのは同志社大学学生課の田淵正孝(故人)さん一人でしたが、京都の北白川のレストランで、「出所祝い」(?)と美味い飯を食わせてくれました。田淵さんはそのあと同志社大学の総務部長となりましたが、同志社のリベラリズムを象徴している一例のようにも思います。

1968年は10月21日の国際反戦運動に象徴されるように、ヨーロッパ、北アメリカ、日本を含むアジアで、ヴェトナム反戦運動が燃えさかりました。この年の春の新学期に行われた全学部自治会選挙では、わたしは学友会中央委員長に選ばれ、全学学生大会で、10月21日同志社は全学ストライキを決議し、ヴェトナム反戦・国際反戦運動に加わりました。ヴェトナム反戦・国際反戦運動の盛り上がりは、翌69年の東大・日大を頂点とする各地の学園闘争に引き継がれていきましたが、それは権力との対決に於けるダイナミックで過激な「ラジカリズム」として変化・展開されました。羽田、佐世保、新宿、各地の街頭で、キャンパス内で、機動隊との対立、解体が進み、学生運動の終焉へと向かいました。

同時に学生運動の急進性・ラジカリズムは「革命運動」とそれを指導する革命党の建設を巡る学生運動の指導者たちの論争、いわゆる党派・党内、三派セクトの学生運動の指導権争いともなったわけです。そして、60年安保後の日本共産党の指導部から離れた新左翼・三派全学連の指導部内の内ゲバを伴う党派闘争が起こったのは皆さんが承知している通りです。党派・党内闘争は、同志社の学生運動の「学友会委員長」としてどのように捉えるのか、今日のわたしには判らないとしか言いようがありません。

そもそも、70年安保闘争が三派の言う、「日本の労働者の社会主義・共産主義革命」の成熟があって方針を叫んでいるのか、わたしは疑問視していました。この革命論から、同志社のラジカリズムを語ることはわたしにはできません。

実は11年前に「学友会倶楽部のホームカミングデーの集い」がもたれました。主催者はわたしの前の1967年学友会中央委員長だった堀清明さんで、講演者に呼ばれたわたしはニューヨークから飛んできました。講演の後、質疑応答の際に、若い出席者から、「今日の学生運動が低調で活発でないのは,60年代終わりごろの内ゲバを伴ったあなた方世代の党派・党内闘争で、一般大衆を無視した行動ではなかったか?」というような発言でした。ズバリ的を射た質問だと直感したわたしは、沈黙したまま答えることができませんでした。沈み返った「良心館」のこの同じ会場で、「その通りです…」とぼそぼそ声を出すのが精一杯でした。「大学解体!」を叫んだ学園闘争末期のスローガンは、極めて「自己否定」的ではありましたが、哲学的な深さに対応したわたしが取り得た唯一の行動は、同志社を卒業しない、ことでした。

この辺のわたしの個人的な考え、行動は鹿砦社が出版してくれた『日本人の日本人によるアメリカ人のための心理学』(2014年)と『ヤタニ・ケース:アメリカに渡ったヴェトナム反戦活動家』(2023年)に載せてあります。

卒業証書を持たずに大きな青年が仕事を探すと、高度成長期の日本に在ってもなかなか大変な境遇でした。たまたま見つかって翌日出社すると、「先ほど、警察の人がいらっしゃって話を聞いたが、君を雇うわけにはいかんわ」と。運よく拾われて仕事に励んだら、学生時代に無理したことで結核と腎臓病に侵され、一年半の入院。退院したが、肉体労働は無理だと医者に言われ、受験生用にと部屋を借りて「私塾」を開くと、そこの家主が大阪府警の警察官だったり…。

日本で仕事をするのは無理だと、決心して日本脱出。1977年アメリカはユタ州の州立大学に「海外留学」しました。日本の大学は無理でも、まだ「解体されてないアメリカの大学に入るのは許される」と詭弁を弄してでした。わたし達の同志社創設者・新島襄の日本脱出ほど危険は無かったけれども。生まれ育てられた日本に31年間、アメリカで48年間暮らしてきました。同志社のリベラリズムに育てられたけれど、そのリベラリズムを纏ってアメリカに遣って来たわたしだったが、アメリカ政府から「undesirable alien」(アメリカに好ましくない異邦人)として今日でも「ブラックリスト」に載ったままです。とりわけ、トランプ大統領のアメリカではグリーンカード(Green Card:永住権を持つ労働許可証)持った外国人でも保証のない排外主義が2025年の今日吹き荒れています。

Ж下の写真は2013年のホームカミングデーで来日した際、講演がが終わった後、ライブで京都に来ていた加藤登紀子さんが祝ってくださった時のもの。左から矢谷、加藤、松岡。京都四条・キエフにて。

【筆者について】
1946年生まれ。島根県隠岐の島出身。1960年代後半、同志社大学在学中、同大学友会委員長、京都府学連委員長としてヴェトナム反戦運動を指揮。1年半の病気療養などのため同大中退。77年渡米、ユタ州立大学で学士号、オレゴン州立大学で修士号、ニューヨーク州立大学で博士号を取得。85年以降、ニューヨーク州立大学等で教鞭を執る。86年、オランダでの学会の帰途、ケネディ空港で突然逮捕、44日間拘留、「ブラック・リスト抹消訴訟」として米国を訴え、いわゆる「ヤタニ・ケース」として全米を人権・反差別の嵐に巻き込んだ。

大江健三郎も上野千鶴子も〝禁書〟に? 国際表現規制危機「ハノイ条約」とは何か

昼間たかし(紙の爆弾2025年11月号掲載)

タブーなき月刊誌『紙の爆弾』の最新号記事がnoteで一部公開・購読可能となりました。独自視点のレポートや人気連載の詰まった「紙の爆弾」は全国書店で発売中です(毎月7日発売。定価700円)。書店でもぜひチェックしてください。

◆日本カルチャー終末論

「2025年7月に、日本で大災害が起きる」との、漫画家・たつき諒の『私が見た未来 完全版』(飛鳥新社)に端を発した終末論が話題になっていた頃、SNSではまた別の終末論が騒動を巻き起こしていた。マンガやアニメのみならず、大江健三郎から上野千鶴子までもが“禁書”になるという、「日本カルチャー終末論」である。
『私が見た未来 完全版』は作者の見た夢に基づいていたが、こちらは昨年12月、国連総会で採択された国際条約「ハノイ条約(国連新サイバー犯罪条約)」が根拠。この条約に日本が参加すれば「あらゆるマンガ・アニメが規制される」「日本の創作文化が壊滅する」といった言説が、X(旧ツイッター)で繰り返されたのだ。

不正アクセスや児童ポルノ流布を取り締まるために国際間協力を促す枠組に関しては、すでに欧米が中心となり2004年に締結されたブダペスト条約があるが、これに対してロシアが新たに提案しているのがハノイ条約である。ハノイ条約で重要なのは、各国が自国の憲法や法制度に合わせて適用範囲を調整できる「留保規定」が盛り込まれていることである。表現の自由を重視する国からは、創作物を犯罪化の対象から除外することが可能な仕組みになっているというのだ。本当にそうだろうか?

その第14条で情報通信技術(ICT)を通じた「児童への性的虐待または性的搾取の資料」の作成や提供、販売などを禁じ、各国の国内法で法的措置をとるよう定めていることが、終末論の発端だ。「資料」の基準や対象が曖昧で、日本の漫画はもちろん小説までもが規制対象になりかねないという主張がネットには溢れた。

冷静に考えれば、条約なのだから曖昧なのは当たり前、詳細は各国が国内法で整備するもののはずなのだが、そんな意見はほぼ無視された。東京新聞は25年7月8日付の特報面で「『国連サイバー犯罪条約』発効すれば…未成年者の性描写ハルキ禁書?!」としてこの問題を報道し、村上春樹の『1Q84』や『海辺のカフカ』、大江健三郎の『セヴンティーン』も規制されるのではないかと報じ、大いに危機を煽った。
この記事で「漫画やアニメだけではなく、小説も犯罪として禁止される危機が迫っている」と主張する弁護士の堀新は、ニュースサイト「弁護士・jp」で、手塚治虫・竹宮恵子から大江健三郎・川端康成・村上春樹まで、日本文学の巨匠たちの作品を次々と「禁止対象」リストに列挙してみせた。さらには上野千鶴子の学術書『発情装置』まで俎上に載せ、「外国の未成年の少年の全裸写真を掲載して性的欲求の観点から論じているので、条約の定義を免れるとは言えない」と断じたのである。

◆根拠なき〝文化危機〞演出

この問題を大いに利用したのが、自民党所属の参議院議員・山田太郎(比例区)。マンガやアニメの「表現の自由」を擁護し、オタクやSNSユーザーから圧倒的な支持を集める人物だ。折しも7月の参院選で改選対象だった山田は、この終末論の火付け役として巧妙に立ち回った。

山田の主張は、こういうものだ。2019年12月に「表現規制派のロシア・中国の主導により」新サイバー犯罪条約の策定が国連総会で可決され、当初提案された条約案には留保規定がなかった。2023年1月の第4回アドホック委員会で「中国等は、条約交渉の中で、マンガ・アニメを犯罪化することや、表現の自由を守るために不可欠な留保規定を削除すること等を提案してきた」とし、「日本以外留保規定を残す事を強調する国なく、厳しい状況」に陥ったという。山田は外務省と連携して留保規定の維持を働きかけ、2024年8月には「NY国連本部を訪問して条約責任者に直接行った要請等により、マンガ・アニメ規制を阻止し、留保規定も死守した」と、自らがロシアや中国という悪の帝国による表現規制に対抗するヒーローであると、喧伝したのである。

そして選挙中も「舞台は、国連での条約交渉から、日本国内での締結手続に移りますが、留保規定を使わずに新サイバー犯罪条約を締結すべきという圧力が日に日に高まっています」として危機感を煽り支持者を動員。38万1185票を獲得し、3度目の議席を確保することに成功した。

しかし、これらの主張はいずれもまがいものだったと断じてよい。

※記事全文はhttps://note.com/famous_ruff900/n/n94f52d7d3040

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「時には昔の話をしよう」(加藤登紀子) 11・9同志社大学ホームカミングデーの集いに総結集し、半世紀余り前に何があったのか語り合おう!

松岡利康(同志社大学学友会倶楽部 ホームカミングデーの集い実行委員会)

ホームカミングデーは同志社大学の正規の行事として毎年この時期に行われるものです。大学によれば、「ホームカミングデーとは、卒業生やその家族、教職員OBなどを大学に招いて歓待するイベントです。」ということです。

今出川校地には、大学の正規の諸イベント、サークルや団体などのOBが集まるイベントなどが多彩に催されます。

わが同志社大学学友会倶楽部も、これを利用し同大OBをゲストに招いて講演会やイベントを開催し、今回で11回目の集いとなります。

昨年10回目を終了し、今年から新たに第二期の活動に入りました。

「学友会」という名を冠するのであれば、やはりこれが最も輝いた時代、つまり1960年代から70年代はじめのことについて語らなければなりません。

当時活動されたみなさん、あるいは若い世代のみなさん、世代を越えて結集され、あの熱かった時代を想起し、当時と同じく戦争が続いている中で反戦の声を上げようではありませんか!

以下は、当日配布するレジメの内容です。

ご参加の方には、参考資料として先日刊行した前田良典小論選集『野の人』(非売品)を献本します。すでにお持ちの方には、担当者の出版社が発行している雑誌『紙の爆弾』『季節』などから1冊献本いたします。

また、今後、この活動を手伝ってくれる方(同志社OB)を募集します。さらに愛称(Ex.明大土曜会)も募集いたします。ご連絡をお待ちしています。

2025年11月9日 同志社大学学友会倶楽部 第11回ホームカミングデーの集い 
1960年代 同志社ラジカリズムとは何だったのか?

本日の同志社大学学友会倶楽部の集いに結集されたすべてのみなさん、共に語り合い有意義なひと時を過ごそうではありませんか!

◆同志社大学学友会倶楽部とは?

1960年代から70年代初めにかけての時代、つまり〈二つの安保闘争〉を中心とした時代は、日本の転換期といわれ、高度成長下、政治、社会、文化・音楽面すべてにわたり大きな発展を遂げた時期でした。

その時代、私たちは同志社大学で青春のエネルギーを費やしました。当時東洋一といわれた旧学生会館での学術団、文連、放送局、新聞局、各学部自治会などで活動した私たちは、大学を離れても、なんとか親睦を深め続け記録に残す作業を行う目的で結成したのが「学友会倶楽部」で、60年代半ばの学友会委員長・堀清明さんを中心に20数年前から自然発生的に活動を行ってまいりました。学友会倶楽部名で出版した記録集としては、『アジビラは語る──60年代同志社学生運動』(2012年)があります。

年に二、三度、連絡を取り合い集まり歓談する機会がありましたが、2013年から、OBで、広く各分野で活躍している方を招いて講演会を開き毎回100名(最高は「伝説の学友会委員長」といわれた矢谷暢一郎さんの時で200名余)前後の方々が全国から集まられ、コロナ禍で開催できない時期を除き盛況のうちに10回を開催することができました。矢谷さんは、ブント内党内闘争で亡くなった望月上史さんと同期で共に活動しておられました(矢谷さんについては、私が出版させてていただいた2冊の著書をご一読ください)。

しかし、代表の堀清明さんや実行委員会スタッフの高齢化とこれに伴う健康不安により、所期の目標だった10回の講演会が終了したことなどで、重篤な持病を抱えつつ輝かしい同大学友会の運動とこの精神の継承のため長年頑張って来られた堀さんが一歩退かれ、実行委員会もひとまず解散、松岡が引き継ぎ本年から新たな態勢で幾分規模を小さくして再出発することになりました。堀さんの人格と経験に遙かに劣る松岡が果たして大任をこなせるか懸念されますが、学友会の歴史と精神を語り継ぐために精一杯奮闘いたします。

◆本年の企画概要

前記のように、同志社大学における文化・音楽、社会、政治(自治会)など多くの領域での活動は、わが国でもひときわ目立った存在でした。たとえば、文化・音楽面では、「関西フォーク」と呼ばれ一世を風靡しましたが、この中でも同志社大学は中心でした。岡林信康、はしだのりひこ、中川五郎(2018年ゲスト)、豊田勇造(2023年ゲスト)……。

また、ベトナム反戦運動の世界的拡がりの中で、「べ平連」(ベトナムに平和を!市民連合)の中心を担ったのも同志社の学生でした(私が入学した70年当時、学館別館1階にボックスがあり、学生会館ホールで開かれたべ平連主催の小田実やジェーン・フォンダの講演は衝撃でした)。

さらに学生運動においては、60年─70年の二つの反安保闘争、ベトナム反戦、沖縄返還問題が国民的関心となる中で、その圧倒的な戦闘性で全国の先進的学友を牽引しました。

こうした事実は、半世紀余りを経た今、いかなる意味を持ち、いかに歴史的評価をされるのか──このことが学友会倶楽部の一貫とした課題でした。

1962年に同志社大学に入学された前田良典さんが先頃、いわば、みずからの“回顧録”として、当時の出来事や記憶などを書き溜めたものを編集し、後輩有志の協力を得てまとめ出版されました(書名『野の人』)。知らなかったことも多い内容です。これに長年出版を生業としている松岡が編集・製作を手伝い、かつての熱気や記憶がよみがえってきて、当初他のテーマ(反原発、冤罪など)を考えていたところ、本年は、やはり“古くて新しいテーマ”を採り上げることにいたしました。

ちなみに、前田さんの著書出版を発案し、長年の癌との闘病をおして実際に原稿整理、編纂の中心を務められ、費用の半分も負担され、まさに人生最期の仕事として完遂された河本(品川)政春さんは、当時の典型的な同大の学生活動家で、本当に純真で真面目な方でした。今回の作業で日々やり取りする中で、河本さんの前田さんに対する敬愛の念、この作業を通して当時の自己の活動を必死に総括されようとする姿勢が直に伝わり感銘を受けましたが、本書の完成を見ることなく本年8月20日に亡くなられました。猛暑のさなかの作業で命を縮められたと思います。

また、前田さんも、自著の編集作業が身に堪えたようで、7月30日に突然、脳梗塞で倒れられました。2か月近く入院、現在リハビリ中です。本日も参加をお願いしましたが、残念ながら無理でした。

前田さんは一般的には無名に近い方ですが、かの塩見孝也さんと同期で、当時の京都の学生運動に関わった方々、とりわけ同大OBの中では知る人ぞ知る方です。また、藤本敏夫さんは、寮の1年後輩となります。松岡もこの寮の出身で、学費闘争で逮捕された際に、寮母さんに身元引受人になっていただきました。

今回は、前田さんの著書も参考資料に、同大OB、のみならず他大学OBの方や若い世代の方など多彩にお集まりいただいた皆様と共に、世界的にも国内的にも激動の時代だったといえる当時の出来事、そこにおいて同志社大学(のみならず京都や関西)の学生はいかに行動したのか、「同志社ラジカリズム」といわれる比類なき急進性、戦闘性などについて語り合いたいと考え標記のテーマを設定いたしました。

ウクライナやパレスチナで戦争が続き、60年代と似たような情勢になりつつある中で、私たちが後世に語り継ぐものとは? 私たちは老いても問い続けます。このたびの企画もその一環として開かれます。

◆同志社学生運動について──みずからの体験から考えてきたこと

同志社大学の学生運動が、その戦闘性と動員力で1960年代から70年代はじめにかけ〈二つの安保闘争〉をメルクマールとして全国の先進的学友を牽引し一時代を築いたことは、学生運動に関わったものなら誰もが知る歴史的事実ともいえることです。

私は1970年に入学した「遅れて来た青年」で、それまでの先輩方の活動を継承する形で学友会運動、これに密接にリンクする全学闘争委員会(全学闘)に関わりました。1970、71年入学というのは微妙な世代で、その前後の世代とは違ったものの見方があります。

同大では、大きな政治的攻防戦があったのは、他大学より遅れて、私も逮捕された1972年2・1学費決戦で100数十名の検挙、40数名の逮捕、10名の起訴者を出しました(69年の封鎖解除では徹底抗戦をせず逮捕者なし)。むしろ他大学に転戦して、例えば東大安田講堂では、支援の大学としては広島大学に次ぐ逮捕者を出しているほどです。

私が活動した70年代前半は、ある意味で良い時代でした。60年代の先輩方の闘いを継承し、追いつき追い抜くぞということ決意で、先輩方と共に沖縄闘争、三里塚闘争、学費闘争を一所懸命に闘うことができました。その後は、私たちを絶望させるような出来事が多く、いたずらに対立と分裂が拡大再生産され、権力と闘うというよりは「コップの中の嵐」ばかりにエネルギーを使わざるをえなかったようで後輩諸君にとっては気の毒な時代でした。私たちや先輩方の時代は、いわば一元支配で、他大学とは異なり、革マル派はじめ(東京ではまず革マル対策が第一だといいます)、他党派との軋轢などに気をつかう必要はなく、「コップの中の嵐」に巻き込まれることもありませんでした。

私個人の闘いとしては、主に71年の沖縄─三里塚闘争、学費闘争が中心で、学費闘争では明徳館屋上に拙い砦をこしらえ立て籠り徹底抗戦、逮捕・起訴され有罪判決を受けました。

以降、今に至るまで、当時どこにでもいたノンセクト活動家が、〈みずからの闘いの意味〉を反芻し、それを問い続けてきたつもりで、出版物も(東京の出版社とは異なり)同志社や関西の運動中心に採り上げてきました。出版を始めたのも、拙いながら、こうしたことをやりたかったからです。本日の集いも、この一環です。

同志社の学生運動について記述した出版物は、あれほど活発だった割には多いとは言えませんが、あるにはあり、『野の人』を除くと別紙に採り上げたぐらいです。このことは、同志社の活動家は、行動することが第一義で、記録に残すとか資料を蒐集するといったことには消極的な体質も一因としてあると思ってきました。

私は、2017年、ロシア革命100年、山﨑博昭虐殺50年に際し、〈政治的遺書〉とすべく、垣沼真一さん(京大70年入学。72年2・1学費決戦に支援にかけつけてくれ逮捕。仲間のМ君は起訴され無罪を勝ち取る)と『遙かなる一九七〇年代 京都──学生運動解体期の物語と記憶』を出版、以降シリーズ化し、毎年1冊出版してきました。みずから考えて来たことの〈総括〉の意味がありました。その最終巻が未刊で、果たしていつそれができるか、私の人生も先が見えてきたので、焦る昨今です。

本日は、前田さんの『野の人』編集─制作に触発されて、「時には昔の話を」(加藤登紀子)するのもいいだろうと、みなさん方と語り合えれば、と思います。

《進行予定》
12時30分 開場(受付開始)
13時00分 開始 主催者あいさつ
同 20分 カオリンズミニライブ開始
  50分  同 終了
14時00分 問題提起(3名)
15時00分 討議開始
16時00分 終了
同 30分 撤収 

主催:同志社大学学友会倶楽部              
〒663-8178 兵庫県西宮市甲子園八番町2-1-301(株)鹿砦社気付
電話 0798-49-5302 FAX 0798-49-5309 
メールmatsuoka@rokusaisha.com
代表・松岡利康(1970年文学部入学。71年文学部自治委員、72年文学部自治会委員長、73年第98回EVE[大学祭]実行委員長)

『紙の爆弾』12月号に寄せて

中川志大 『紙の爆弾』編集長

日本初の女性首相として10月21日に始まった高市早苗内閣は、自維連立の経緯からして民意を無視したものですが、スタート時の支持率は68%(朝日新聞同月25~26日調査)。昨年の衆院選、今年の参院選で自民党が惨敗を喫した主因であり、公明党離脱のきっかけにもなった企業・団体献金の規制(廃止ではない)を拒否し、一方の日本維新の会も、廃止の主張を棚上げにして成立した高市政権に対してこの高支持率。トランプ米大統領来日時の従米姿勢すら大手メディアがほとんどまともに批判しない中で、本誌今月号では「責任ある積極財政」の中身など、詳細な分析を行ないました。そもそも、高市氏といえば、総務相時代の「電波停止」発言から、メディアと対立してきたように思われていますが、その一方で新聞業界から献金を受ける、新聞社の既得権益の擁護者でもあります。本誌記事「高市早苗首相のマネーロンダリング疑惑」は、そうした内実も明らかにしています。

自民党内に同居する極右・新自由主義・保守中道の3つのグループの中で、比較的財務省と距離を置いているように思われていたのが高市早苗氏でしたが、総裁に就任すると執行部人事で財務省路線(と統一教会癒着)を明確にしました。他方、総裁選後にみられた野党連携で首班指名選挙の対抗馬となったのは、元財務官僚であり、昨年衆院選で打ち出された消費税減税の流れを潰した玉木雄一郎・国民民主党代表で、どっちに転んでも財務省。さらに公明党の連立離脱は、政治経済学者の植草一秀氏が指摘してきた「2大従米保守グループの交代制」の構図が見え、対米自立リベラル勢力は消滅の危機にあります。

一方で公明党については、自民党との攻防とその後の「下駄の雪」路線を事実上主導してきた支持母体・創価学会の池田大作三代会長が2年前に死去したことから、今さらの方針転換は難しいものと認識していました。連立離脱が斉藤鉄夫代表の言う「自民党の不祥事を説明して歩かなきゃいけない」ことへの学会員の不満を背景にしているのであれば、高市自維政権よりよほど「民意」に基づいた結果といえます。

維新については前号でジャーナリストの吉富有治氏が、同党内で自民党との連立に対して考え方が二分していることを指摘。これを原因として9月に起きたのが維新議員の離党だったと分析しており、その後の展開を先読みする形となりました。その維新は自民党の補完勢力の役割を全うするとともに、大阪での自民との差別化もあいまいになって存在意義を失いつつあるものの、カジノ利権が引っ張れれば、あとはどうでもいいのかもしれません。

さらに今月号では、ロシア・ウクライナ戦争をめぐる詳細な分析を元外交官の東郷和彦氏が行ない、これは「反戦」を考えるうえで必読の内容です。またエマニュエル・パストリッチ博士が5カ国電子スパイ同盟ともいわれる「ファイブ・アイズ」の戦略を解説。いずれも他誌には読めないレポートです。『紙の爆弾』は全国書店で発売中です。

本誌執筆者で元TBS記者・田中塾塾長の田中良紹氏が病気のため10月7日に亡くなられました。直近では8・9月合併号「日本に野党はあるのか?」が、日本の「野党」の本質をえぐり、本誌のレベルを一段上げるレポートでした。今後も新たな視点を提供していただけることを期待していただけに、本当に残念に思っています。ご冥福をお祈りします。

『紙の爆弾』編集長 中川志大

『紙の爆弾』2025年12月号
A5判 130頁 定価700円(税込み)
2025年11月7日発売

「政治とカネ」を闇に葬る最悪連立 自維金権腐敗政権 植草一秀
政治献金のグレーゾーンとマスコミ癒着 高市早苗首相のマネーロンダリング疑惑 黒薮哲哉
「万博」「都構想」「身を切る改革」そして…維新と吉村洋文は何度でもウソをつく 西谷文和
高市自維政権からの“報復”公明党連立離脱の全真相 大山友樹
「プーチンとの戦い」に前のめりなヨーロッパ ロシア欧州戦争の可能性 東郷和彦
戦争のできる国へ突き進む安保法制十年の軍事拡張 足立昌勝
漏洩された秘密文献から判明「ファイブ・アイズ」の対中国戦争計画 エマニュエル・パストリッチ
国家でもAIでもなく“決済”が言論を殺す クレジットカード帝国の静かな世界支配 昼間たかし
高市首相にあえて「保守」の姿勢を問う 木村三浩
日本社会を崩壊させる「SNS乗っ取り」と「ディープフェイク」の実態 片岡亮
BSL4施設の目的とは エボラウイルス研究所新宿移転の闇 早見慶子
公取委に訴えられた沼津市ほか「官製談合」疑惑 青木泰
エコロジストたちの大きな過ち メガソーラーが農業経営を圧迫する 平宮康弘
“芸能界のドン”引退でも再び利権化する「日本レコード大賞」 本誌芸能取材班
自罠党は二度死ぬ 佐藤雅彦

連載
あの人の家
NEWS レスQ
コイツらのゼニ儲け 西田健
「格差」を読む 中川淳一郎
シアワセのイイ気持ち道講座 東陽片岡
The NEWer WORLD ORDER Kダブシャイン
ニッポン崩壊の近未来史 西本頑司

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名古屋市西区主婦殺人事件 容疑者に何があったのか?

尾﨑美代子

◆幸せの絶頂の真っ只中から……

26年もの間未解決だった殺人事件で、10月31日、容疑者が逮捕された。「名古屋市西区主婦殺人事件」だ。当時32歳の高羽奈美子さんと2歳の息子航平君が自宅にいた。奈美子さんは夫の悟さん(当時43歳)と4年前職場結婚、航平君出産後は専業主婦をしていた。3人でディズニーランドに行った、自分の車も買った、北海道で一人で暮らす母を迎え、4人で暮らす4LDKのマンションの契約も済ませた……幸せの絶頂の真っ只中にいた。

そんなとき、事件に巻き込まれた。当時3人が住んでたアパートの家主が大量に収穫した柿を住民に配っていた。奈美子さんの部屋はインターホンを押しても返事がなかったが、家主がなにげなくドアを触ったら開いた。中をみると玄関は血だらけ、その奥に奈美子さんが倒れているのがみえた。顔のあたりが血だらけだったので、吐血して倒れたと思った。航平君を3階のママ友に預け、ママ友に悟さんに連絡してもらった。当日、不動産屋に勤務する悟さんは、名古屋で最初に建てられたタワマンの展示会場にいた。知らせにすぐ家に帰ろうとする。「奈美子は大量に吐血するような大病をもっていたかな?」などと考えていたところ、再び電話がかかり、死亡したと告げられた。

悟さんが家に着くとまもなく鑑識がきた。なぜ鑑識?と悟さんは訝しく思ってみていた。彼らは黙々と作業するが、悟さんに何も説明しない。そのうち鑑識の1人から「首を切られてて」と言われ、初めて殺人事件だとわかった。

悟さんもその後警察署に連れていかれ事情聴取を受ける。警察署からの帰りは妹夫婦が車で迎えにきてくれた。車に乗ったら夜10時のニュースが始まり、トップは自分の家の事件だった。「日本はなんて平和なんだ」、なぜか悟さんはそう感じたという。

涙もでなかった。「奈美子には悪いが、男手ひとつで、これからどうやって息子を育てていけばいいのか」と、そればかりが心配だった。

◆「あんたたち夫婦ほど人に恨まれない人はいないよ」と捜査員は言った

その後、実家に引っ越したが、事件のあった部屋はそれから容疑者逮捕の今まで借り続けた。家賃は総額で2000万以上。最初は、奈美子さんが揃えた家具などを処分するのを躊躇われたからでもあった。その後は、玄関に残された犯人の血痕と靴跡、未解決殺人事件の遺族は大勢いるが、そんな重要な証拠を持っているのは、自分位ではないか、と。また、新たに担当になった刑事らに、これを見せることで、モチベーションを上げて貰えればと思ったという。

悟さんは、玄関の血痕は奈美子さんのものと思っていた。それが事件から数年後、日テレの取材でプロファイリングの専門家がその部屋にきた。家の玄関の血痕を見て「これは被害者のものではない、犯人のものだ」と言われた。驚いた悟さんが刑事にきくと、「それは犯人にしか知りえない秘密の暴露だから、遺族とはいえ言えなかった」と謝られた。

血液型はB型、足のサイズは24センチ、年齢は40歳位とわかった。しかも犯人も怪我をしており、逃走した方向に血がポタポタ落ちていた。横断歩道の手前で車が途切れるのを待つ犯人が目撃されていた。傷口から血が垂れないようにしていた。女は横断歩道を渡った先にある公園の蛇口で傷口を洗った形跡もあった。ただ、今のように町中あちこちに監視カメラがある時代ではない。そこで女の行方は分からなくなり、夜降った雨で、犯人の臭いも消された。

多くの情報がありながら、また大量の捜査員が投入されながら、容疑者の目星はつかめなかった。悟さんは捜査員にこう言われた。「あんたたち夫婦ほど人に恨まれない人はいないよ」。

◆殺人事件被害者遺族の会「宙の会」に入会して

悟さんは同じ境遇を持つ人たちと繋がりたいと殺人事件被害者遺族の会「宙の会」に入った。私はしらなかったが、この会を創設したのは、未だ未解決の世田谷一家殺人事件を捜査していた刑事さんだった。(絶対未解決で終わらせない)との執念から、退職後同会を立ち上げ、まずは15年という殺人の時効を撤廃する活動を始め、2010年実現にこぎつけた。

悟さんはあちこちのマスコミに出て事件を訴えた。いつも絶対泣いた顔だけは撮られまいとしていた。泣いたら、それこそ犯人の思う壺ではないかと。小さな息子も、会見のたびに悟さんについてきては、悟さんの近くにいた。

ある時悟さんが「息子がグレたらどうしよう?」と心配していると、ある番組で知り合ったディレクターが「大丈夫、航平君は会見が始まるまではゲームをしているが、お父さんが話し出すとゲームを止め話を聞いているよ。」と言ってくれたのだった。

長く未解決だった事件は、1人の新しい刑事が就いたことで驚きの展開を見せた。もちろん、その刑事をヒーロー視つもりはない。それまでも大勢の刑事が頑張って捜査してきた、が、この刑事は、毎年事件発生日近くに情報提供を呼びかけるビラを配る悟さんに、「ビラ撒きで得る情報より、西警察署にある情報で、絶対犯人を捕まえてみせます」と言ったのだった。

そして、奈美子さん、悟さんに関わった人たちの年賀状、名刺などを持ち帰った。

その中には、悟さんが高校時代に入っていたソフトテニス部の名簿もあった。新たな捜査が始まり、1年後、容疑者は何人かに絞り込まれ、そのうちの1人の女性が何度か事情を聴かれた上、DNAの提出が求められた。女性は当初これを拒否したという。でも「疚しくないなら提出出来るはずだ」などと言われたかどうかわからないが、提出した。いや、せざるを得なくなったということだ。そのDNA型鑑定が出る前日、女性は自ら警察に出頭した。「自首」と書く記事もあるが、もう逃げられないと追い詰められたと言った方が正確だろう。

女は、奈美子さんの方の知り合いではなく、悟さんの知り合いだった。悟さんとテニスサークルで一緒だった女性は、学生時代バレンタインデーの度に悟さんに手紙とチョコを渡し、悟さんに「告白」していたそうだ。悟さんは、「別に好きな人がいます」とか「あなたは嫌い」とか、傷つけることを言ったことはなかったという。

高校卒業後、2人は別々の大学に入った。ある日、サークル活動をする悟さんをじっと待っていた女性がいた。今回逮捕された女性だ。悟さんは仕方なく喫茶店に女性を連れていった。そこで女性は悟さんに交際を申し込むが、悟さんは断っていた。すると女性は店内でしくしく泣きだしたという。悟さんはそのことを家に帰って妹に『困ったよ』と話していたのだった。

◆容疑者に何があったのか?

事件の前年、そのサークルの同窓会があり、女性は悟さんが結婚したことを知る。とはいえ、互いにもう40歳過ぎだ。普通に(というのはおかしいが)考えて、結婚し、家庭を持つ年ごろだ。実際、女性も悟さんに「私も結婚して、仕事も忙しくて…」などと話していたという。

その1年後、女性は、悟さん同様、家庭を持ち、仕事も忙しく、充実した人生を送っていたようなのに、過去に好きだった男性の妻を殺害した。

容疑者に何があったのか? 私も非常に知りたいところだ。

またこの事件に関しては、これだけの情報がありながら容疑者逮捕に至らない愛知県警に対して「何やってんだ?」との批判もあるだろうが、同時に私はそうした社会的な風潮に押され、全く関係のない人を間違って逮捕、つまり冤罪を作らなかった捜査機関を評価したい思いもあり、複雑な思いだ。

尾﨑美代子(おざき みよこ)
新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを「西成青い空カンパ」として主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。
◎著者X(はなままさん)https://x.com/hanamama58

◎amazon https://www.amazon.co.jp/dp/4846315304/

鹿砦社の出版活動を支持、支援される皆様 11・9同志社大学ホームカミングデーの集いに圧倒的に結集し、たまには昔の話をしよう!

松岡利康(同志社大学学友会倶楽部 ホームカミングデーの集い実行委員会)

半世紀余り前のラジカリズムは、どのような歴史的意味を持つのか、共に語り合いましょう! 発言者募集! 参加者には、先に出版した前田良典小論選集『野の人』(非売品)や鹿砦社発行の雑誌『紙の爆弾』『季節』、他書籍の中から1冊を贈呈いたします!

先般からたびたびご案内いたしておりますが、来る11月9日の同志社大学ホームカミングデーが近づいてまいりました。

今年も同志社大学学友会倶楽部の集いは、10回までの実行委員会が昨年でひとまず終了し、今年から新たに出発することになり開催することになりました。

私の性格で軽く考え、このまま続けてこられた旧実行委員会の頑張りを絶やしてはいけないと私が後を継ぐ形で引き受けましたが、本業もあってなかなか難しいところです。特に今年は月刊『紙の爆弾』が創刊20周年ということで、東京と関西で記念イベントを開催しましたので、取り掛かりが遅れてしまいました。

また、これまでの参加者が高齢化し、これまで必ず参加されていた方でも、京都まで来ること自体が困難という方も多く、また関西にお住いの方でさえ同志社まで行くのも厳しいという方も少なからずおられます。

今回から私が引き受ける第一回目で、何としても成功させないといけません。これまでも私の企画で2回(先輩の児童文学作家・芝田勝茂さん、後輩で書家の井上龍一郎君)行い要領は体得していたつもりですが、諸々難しいこともあって苦慮してきました。

こうした中で直前になってしまいました。

いまだ参加を迷われている方は、思い切って11月9日は京都に、私たちが青春を駆け巡った懐かしいキャンパス・同志社に向かうように直ちにご決断ください。また、同志社OBでなくても自由に参加できますので遠慮なくお越しください。

今回、50年余り前の〈二つの安保闘争〉をメルクマールとして、その急進性と動員力で全国の先進的学友を牽引してきた同志社大学や京都、関西を中心とした学生運動を採り上げ、これについて喧々諤々語り合うという主旨ですが、すでに3名の方がご報告、問題提起されることになりました。他に、我こそはと発言や問題提起(お一人10分~15分程度)を希望される方は私松岡までご連絡ください。

古くて新しい問題で、私たちが半世紀余りずっとその意味を考えて来た問題でもあります。

そういうことで、関西在住で私たちの出版活動を支持、支援される皆様は、万難を排し11・9は京都に向かい、学友会倶楽部のホームカミングデーの集いに圧倒的に結集されることを強く要請いたします。

なお、僭越ながら、ご参加の方には、先に出版した前田良典小論選集『野の人』(非売品)、あるいは私松岡の出版社が発行している雑誌『紙の爆弾』『季節』、ほか書籍の中から1冊を贈呈いたします!

11・9同志社大学ホームカミングデーの集いへの再度の参加要請にて失礼いたします。繰り返します、万難を排し、圧倒的に結集されることを強く望みます! 闘争勝利!

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同志社大学学友会倶楽部 
ホームカミングデーの集い実行委員会 松岡利康
〒663-8178 兵庫県西宮市甲子園八番町2-1-301 株式会社鹿砦社気付け
TEL 0798-49-5302  FAX 0798-49-5309 ============================================

TITANS NEOS 37は2026年を占う闘い絵巻、未来を照らす後楽園決戦!

堀田春樹

メインイベンターはジョニー・オリベイラ。期待の新星、西田蓮斗はカーフキックで勝利。
前日計量は25日、14時より伊原ジムにて行われ、3名を除いて一回でパス。
山浦俊一は1時間遅れの来場後、3.4kgオーバーで再計量無く計量失格。
伊達は航空便遅延で計量も遅延。ウェジー・チョルは30分後に2回目でパス。
(※記事タイトルはプログラムからそのまま転載です。)

◎TITANS NEOS 37 / 10月26日(日)後楽園ホール17:15~21:27
主催:伊原プロモーション
認定:Woman Muaythai Association、新日本キックボクシング協会

WMA世界戦2試合のスーパーバイザーはアティコム・ポーター(タイ)
戦績経歴は当日プログラム、公式記録、過去データを参照しています。

◆第15試合 62.0kg契約3回戦

ジョニー・オリベイラ(前・日本Fe級Champ/トーエル/ブラジル出身47歳/ 61.8kg)
67戦16勝(1KO)32敗19分
VS
NJKFライト級1位.山浦俊一(新興ムエタイ/神奈川県出身28歳/ 65.4kg)+3.4kg、計量失格
36戦18勝(3KO)16敗2分
勝者:山浦俊一 / TKO 1ラウンド 2分30秒
主審:ノッパデーソン・チューワタナ

両者のローキックの交錯から山浦俊一の右カーフキックが襲うとジョニーはバランスを崩し、更にカーフキックを貰うとノックダウンしてしまった。ジョニーの左脹脛はすでに蹴られたところが真っ赤。更に蹴りの攻防から山浦のカーフキックを受けたジョニーは2度目のノックダウンを喫し、カウント中にレフェリーがストップした。

ジョニーの蹴り足を掴み、足払いで引っくり返す山浦俊一のテクニック

ジョニーは過去、木下竜輔には2度失神ノックアウト負けしているが、今回は意識がハッキリある中での倒されたTKO負け。悔しい負け方だっただろう。

山浦俊一のカーフキックを受けてバランス崩したジョニー・オリベイラ

◆第14試合 ライト級3回戦

NJKFライト級2位.岩橋伸太郎(エス/1987.6.4神奈川県出身/ 61.1kg)28戦10勝14敗4分
VS
岡田彬宏(クボジム・リレイズ東京/1994.7.15東京都出身/ 61.9kg)12戦5勝(1KO)7敗
勝者:岩橋伸太郎 / 判定3-0
主審:椎名利一
副審:宮沢30-29. ランボー30-29. ノッパデーソン29-28

初回から蹴りからパンチ、組み合うとヒザ蹴りと互角の攻防が続いた。両者ともパンチの交錯で顔面ヒットするも大きな差は無い。どちらがよりインパクトあるヒットを見せるかの鬩ぎ合いは第3ラウンドに岩橋の勢いが優り、岡田が下がり手数が減った流れで終了。

岩橋伸太郎は試合後、「取り敢えずホッとしています。最近ドローとか判定負けとか微妙な結果が続いていたので、今日はノックダウンは取って無いですけど、さすがにポイント取ったという感触はあったので勝てて良かったです。」とコメント。

徐々に岩橋伸太郎の圧力が優っていった攻防

◆第13試合 WMA世界女子スーパーフライ級王座決定戦 5回戦(2分制)

ミネルヴァ・スーパーフライ級チャンピオン.NANA(エス/1990.6.10北海道出身/ 52.0kg)
26戦17勝7敗2分
      VS
ジェンディー・モー・ラッソパコーラ(タイ/ 52.05kg)27戦9勝15敗3分
勝者:NANA / 判定3-0
主審:スイット・サエリム・ランボー(タイ)
副審:宮沢49-47. 中山49-46. ノッパデーソン(タイ)49-48

両者の蹴りの攻防はNANAがジェンディーの蹴り足を掴まえたり蹴り終わりを攻めたりと先読みする攻めが優った。ジェンディーは組み合った際のヒザ蹴りはバランス良く上手い攻め。パンチの攻防はNANAが優った。

第2ラウンド終了した時点でNANAが主導権支配した流れを掴んでいた。NANAはジェンディーのムエタイスタイルを殺してしまう勢いがあり、組まれても負けない体勢を作った。ジェンディーは諦めず蹴り返し組み合うとヒザ蹴りは出して来るがNANAを後退させるには至らない。ラストラウンド終了間際にはジェンディーの右ミドルキックにNANAが右ストレートカウンターヒットさせ終了。

ジェンディーに打ち負けない圧力を掛け続けたNANA

NANAは第2ラウンドに転ばされた際、マットに後頭部打ち付けて、そこから展開はあまり覚えていないという。更にヒジ打ち合わせて行ったらバッティングが起こり、左瞼が腫れていった様子。リング下りるまではちょっと腫れていた程度だったが、帰り際は青く充血し腫れ上がっていた。後楽園ホールのエレベーターを下りる際、チャンピオンベルトを指し、「カッコイイです!」と語ったNANAだった。

NANAが終盤には右ストレートでジェンディーを仰け反らせて圧倒の印象を残した

◆第12試合 WMA女子世界ライトフライ級王座決定戦 5回戦(2分制)

佐藤“魔王”応紀(PCK連闘会/1979.1.24宮城県出身/ 48.5kg)26戦14勝(7KO)10敗2分
      VS
マフィアペット・モンコンディー(タイ/ 48.05kg)19戦6勝12敗1分
勝者:マフィアペット・モンコンディー / 判定0-3
主審:ノッパデーソン・チューワタナ(タイ)
副審:宮沢47-49. 中山46-49. ランボー(タイ)46-50

初回の攻防から、マフィアペットの蹴りの間合いと首相撲でのウェイトの掛け方がバランス良い流れを汲む動き。佐藤はマフィアペットに蹴られても強く返せないのが主導権を奪えない印象。

第4ラウンドには前に出る佐藤にマフィアペットの前蹴りが顔面にヒット。調子付いたマフィアペットのリズムが増し、ラストラウンドもマフィアペットの前蹴りが突き刺すようにヒットし調子付かせてしまった。マフィアペットが圧倒の判定勝利で新チャンピオンとなった。

佐藤“魔王”応紀はマフィアペットの前蹴りで仰け反らされてしまった
勝利したマフアペットと無念の佐藤“魔王”応紀の明暗

◆第11試合 75.0kg契約3回戦

マルコ(伊原/イタリア出身34歳/ 74.9kg)14戦8勝(3KO)3敗3分
        VS
白岩昭人(GRABS/埼玉県出身19歳/ 74.9kg)7戦3勝(2KO)4敗
勝者:マルコ / KO 1ラウンド 2分33秒
主審:ノッパデーソン・チューワタナ

白岩昭人の蹴りに対し、パンチで前進するマルコ。対抗した白岩だがパンチではマルコが圧力で優った。蹴り合いから接近する中、マルコが右ストレートでノックダウンを奪い、更にマルコが組み合った中でのヒジ打ちを連打すると、ノックダウンとなった白岩にカウント中のタオル投入による棄権で、マルコのノックアウト勝利となった。

◆第10試合 女子ミネルヴァ・ペーパー級(95LBS)王座決定戦3回戦

2位.Uver-miyU(=高橋美結/T-KIX/静岡県出身25歳/ 43.05kg)20戦7勝12敗1分
        VS
3位.AIKO(=深田愛子/AX/1987.2.10埼玉県出身/ 42.95kg)22戦10勝11敗1分
勝者:Uver-miyU / 判定2-1
主審:スイット・サエリム・ランボー
副審:椎名28-29. 中山29-28. 宮沢30-28

両者の懸命の激しい攻防だが、強いヒットは無く、どちらが優勢とは言い難い展開が続いた。パンチ中心から蹴り、首相撲でのヒザ蹴りの鬩ぎ合いが続く。AIKOは攻め倦んでいるのか、インターバルでは険しい表情。ウーバーは打たれても前進する圧力が感じられた。

第3ラウンドはより激しさ増し、AIKOのパンチや前蹴り顔面ヒットもあるが、ウーバーの蹴り返しもしっかりあり、一つのラウンドでもスプリット採点となる見極め難しい展開となった末、Uver-miyUが2-1判定勝利で新チャンピオンとなった。

差は付き難い展開だったが、僅かに優ったUver-miyUの蹴りと前進力
認定証を受けるUver-miyUと泣き崩れるAIKO

◆第9試合 女子ミネルヴァ・ピン級(100LBS)王座決定戦3回戦

1位.上真(ROAD MMA/ 1985.10.16石川県出身/ 44.4kg)20戦6勝12敗2分
        VS
3位.杉田風夏(谷山・小田原/神奈川県出身29歳/ 45.1kg)7戦5勝(1KO)1敗1分
勝者:杉田風夏 / 判定0-3
主審:スイット・サエリム・ランボー
副審:椎名27-30. 中山27-30. 宮沢27-30

開始から杉田風夏がプレッシャーを与えた展開。杉田の前蹴りが上真の顔面ヒット。首相撲からヒザ蹴りの展開になっても常に杉田の圧力が優った流れでも、ポイント引き寄せる大きな攻防は無いが、微妙ながら各ラウンドを抑えた杉田がフルマークの判定勝利で新チャンピオンとなった。

主導権支配した杉田風夏の攻めの中、前蹴りが上真の顔面にヒット

◆第8試合 68.0kg契約3回戦

ヴェジー・チョル(伊原/中国出身21歳/ 68.15→67.85kg)8戦3勝3敗2分
      VS
風成(エス/東京都出身28歳/ 67.55kg)6戦3勝(1KO)1敗1分1NC
勝者:風成 / 判定0-3
主審:宮沢誠
副審:椎名26-30. 中山27-30. ノッパデーソン27-29

初回、蹴りの攻防の中、前進していたヴェジー・チョルに風成が右ストレートでノックダウンを奪った。ダメージ少ないヴェジーは構わず打ち合いに臨むが、風成も打ち合いに応じて打って出た。ヴェジーのアグレッシブなパンチの前進は続くが、風成が蹴りを加えた返しで凌ぎ切った。勝利した風成は号泣してリングを下りた。

◆第7試合 59.0kg契約3回戦

アルナウ・コルドバ(スペイン、ナショナルK-1Champ/スペイン出身24歳/ 58.55kg)
12戦11勝1敗
        VS
伊達(GRABS/北海道出身22歳/ 58.25kg)5戦4勝(2KO)1敗
勝者:アルナウ・コルドバ / TKO 1ラウンド 1分51秒
主審:中山宏美

パンチから蹴りの攻防。アルナウ・コルドバのパワフルな蹴りが伊達を襲ったが、伊達の蹴り返しも強くヒット。コルドバが伊達をロープ際に詰めたところでパンチ連打し、ノックダウンを奪い、更に蹴りの攻防からバランス崩した伊達のボディーに右ミドルキックがヒットしカウント中のレフェリーストップとなった。

◆第6試合 60.0kg契約3回戦

オスカル・カサド(スペイン出身17歳/ 59.3kg)14戦8勝6敗
       VS
篤志(バトルフィールドチームJSA/千葉県出身16歳/59.45kg)5戦3勝2敗
勝者:篤志 / 判定0-3
主審:椎名利一
副審:宮沢29-30. 中山28-29. ランボー28-30

両者アグレッシブな攻防の中、オスカル・カサドの飛び蹴りや右ストレートヒットがインパクトを与えたが、篤志も徐々に打ち優っていく中で僅差判定勝利を導いた。

◆第5試合 フライ級3回戦

西田蓮斗(現・タイ国南部3冠王者/伊原越谷/東京都出身15歳/ 50.8kg)
タイ3戦3勝(1KO)、日本1戦1勝(1KO)
VS
RIKIYA T-KIX(T-KIX/静岡県出身28歳/ 50.6kg)2戦1敗1分
勝者:西田蓮斗 / KO 2ラウンド 2分30秒
主審:宮沢誠

西田蓮斗は日本デビュー戦ながら、アマチュアで五つの王座を獲得し、タイでプロ3連勝の経験が試合運びに表れた流れ。初回、RIKIYAにプレッシャーを与えカーフローキックで2度ノックダウンを奪い、第2ラウンドにもカーフキックでノックダウンを奪うとRIKIYA陣営からカウント中のタオル投入による棄権となって西田がノックアウト勝利となった。

来月、スペインで行われるWKN(World Kickboxing Network)タイトル挑戦の宣言。勝利を誓った。

◆第4試合 女子アマチュア45.0kg契約2回戦(2分制)

西田結菜(伊原越谷/13歳/ 43.5kg)vs工藤優菜(GRABS/13歳/ 44.75kg)
引分け 1-0
主審:中山宏美
副審:椎名19-19. 宮沢20-19. ノッパデーソン20-20

◆第3試合 女子ミネルヴァ・スーパーフライ級3回戦(2分制)

スーパーフライ級6位.紗耶香(/格闘技スタジオBLOOM/静岡県出身/ 51.9kg)
20戦8勝(1KO)11敗1分
        VS
スーパーフライ級10位.松藤麻衣(クロスポイント吉祥寺/長崎県出身/ 51.8kg)9戦3勝6敗
勝者:紗耶香 / 判定3-0
主審:椎名利一
副審:中山30-29. 宮沢30-29. ノッパデーソン29-28

◆第2試合 女子ミネルヴァ55.0kg契約3回戦(2分制)

MEGU(KICK-SPARK/大阪府出身45歳/ 54.9kg)11戦2勝9敗
      VS
朱乃(CORE/ 54.7kg)3戦2勝1敗
勝者:朱乃 / 判定0-3
主審:宮沢誠
副審:椎名27-30. 中山27-30. ランボー27-30

◆第1試合 アマチュア49.0kg契約2回戦(2分制)

ツカサ(伊原越谷/15歳/ 49.1kg)
       VS
ディエゴ・アンビテ(スペイン/14歳/ 48.9kg)
勝者:ツカサ / TKO 2ラウンド 1分14秒
主審:中山宏美

《取材戦記》

今回から登場したWMAは“ワールドムエタイ”ではなく、“ウーマンムエタイ” である。Battle of MuayThaiイベントから始まったという女子のタイトル認定団体の模様。

WMA世界女子スーパーフライ級王座決定戦に出場したジェンディーはトランクスに縫い取りされている名前が正式なリングネーム。ローマ字発音で言うと“Yenlii(เยลลี่)”。YはJに近い発音になるので“ジェンリー”が最も近い発音と表記になります。

前日計量でスーパーバイザーのアティコム・ポーター氏とLINE交換をしたところに女性がやって来て「私も撮らせて!」とQRコードを撮られてしまった。試合後連絡が来たが、マフィアペットかジェンディーが解らなかった。

「あなた誰?」と返したら「私の名前はゼリーです!」と来た。この子のLINEプロフィールと試合画像を確認して解った。Yenliiである。“ゼリー”は自動翻訳が出した文字だろう。

私が何が言いたいかは、プログラムに書かれるタイ人の名前やタイトルは、タイ文字から読み取って欲しいのである。今時はタイ語を勉強した選手やコーチ、スタッフ等は多いのですから。

以前あった“ムエタイワリア(Warriors)”や“パーカン(Park・klang)”もタイ人が言った言葉をそのままカタカナ書きしているから誤った文言になっているのである。

山浦はお子さんから移ったというインフルエンザに罹った為のコンディション調整が間に合わず、大幅ウェイトオーバーとなってしまった。今回の契約上のペナルティーは規約や両陣営と協会の協議によるが、試合ペナルティーは減点2点のみだった。

プロボクシングルールを参照すれば、超過3%以上は試合中止となるが(3%未満は契約ウェイトから超過8%以内での当日再計量を経ての試合は可能。いずれも一定期間ライセンス停止)、キックボクシングは興行の都合が優先される場合が多く試合は強行された。

ジョニーは試合後、控室では陣営に謝っていたという。セコンド陣営は「ジョニーはスーパーフェザー級の時も結構カーフキックは貰っていたけど大丈夫だった。山浦はいい狙い目見てるんで、最初の一発で効いてしまった感じ。山浦はスタミナ無いと聞いていたので、プレッシャーを掛けて行こうと思ったけど、その前にカーフ貰って効いてしまいましたね。左脹脛の横、一番筋肉の薄い辺り、一番痛いところ!」という。

山浦のウェイトオーバーについては何も問題視しなかったジョニー。カーフキックもウェイトの影響より、山浦のピンポイントのヒットが大きかったという。

山浦俊一が大幅ウェイトオーバーしたことについて、新興ムエタイジム坂上顕二会長(NJKF代表)は試合前、今回の事態に申し訳なさそうな立ち回りだった、
「山浦はコンディション調整不足でスタミナは無いから一層のこと、ジョニー・オリベイラが山浦を倒してくれれば、その方がスッキリしますけどね。」と本音を漏らしていた。

7月27日興行で、木下竜輔(伊原)がガン・エスジム(タイ)との試合を欠場した為、代打出場となった山浦俊一だったが、鳶職の現場での足場転落事故で大事には至らなかったが負傷し欠場となった。その為今回も欠場とはいかない責任を感じ強行出場したが、コンディション調整成らなかった山浦俊一だった。

「こんな事態の末にセコイ勝ち方ですみません。」とは試合後、ジョニー陣営に申し訳なさそうに語っていた坂上顕二会長だった。

新日本キックボクシング協会は2026年も後楽園ホールで4回の興行を予定。3月8日、5月10日、7月19日、10月18日のいずれも日曜日に開催です。

木下竜輔は3月に復活出場予定。期待の新星・西田蓮斗は来年はどのような活躍を見せるか。低迷する新日本キックを救うのはこの二人だろう。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
昭和のキックボクシングから業界に潜入。フリーランス・カメラマンとして『スポーツライフ』、『ナイタイ』、『実話ナックルズ』などにキックレポートを寄稿展開。タイではムエタイジム生活も経験し、その縁からタイ仏門にも一時出家。最近のモットーは「悔いの無い完全燃焼の終活」

《11月のことば》人生に夢や希望を持つ者は誇り高く生きてゆける

鹿砦社代表 松岡利康

《11月のことば》人生に夢や希望を持つ者は誇り高く生きてゆける(鹿砦社カレンダー2025より。龍一郎揮毫)

あれだけ記録的な猛暑が嘘のように秋深き季節になってまいりました。今年のカレンダーもあと2枚となりました。

魂の書家・龍一郎の書には、苦難の「人生に夢や希望」を持てという、シンプルながらも熱い想いが力強い筆致の中に込められています。多くの方々が感動する所以です。

ようやく来年のカレンダーを書き終え、印刷所に回っていますが、この制作の過程で、龍一郎に肺ガンが発見され左肺の半分を取る手術をし、現在抗がん剤治療に入ろうとしています。彼は若き教師の頃「ゲルニカ事件」に巻き込まれ全国の教師、父兄の支持を得て闘いましたが、このストレスで重度の糖尿病、大動脈解離などを経験し、不屈の精神で病を乗り越えてまいりました。今回もおそらく乗り越えることでしょう。このカレンダーに心打たれた心ある皆様方のご支援(闘病資金)をお願いする次第です。

振込先:郵便振替 01760-0-130407 口座名:井上龍一郎
空欄に激励のメッセージなどお書きください。

来年3月11日で東日本大震災-原発爆発から15年になります。被災地フクシマに寄り添って行こうという決意で始めた、このカレンダーも、満身創痍の龍一郎の体力を鑑み、ひとつの区切りとして今回(2026年版)でいったん終了することになりました。龍一郎も私たちも頑張りました。今は清々しい気分です。機会あれば、再び龍一郎とタッグを組み、なんらかの形で登場できれば、と願っています。