12月13日~19日、大阪十三「シアターセブン」で中村明監督の映画「生きし」の上映が開催されます!

尾﨑美代子

12月13日から十三の「シアターセブン」で中村明監督の映画「生きし」の連続上映がはじまります。毎日監督とどなたかのアフタートークがありますが、12月15日(月)中村監督とのアフタートークで、私も一緒にお話させて頂きます。映画を見にきてください。

1993年におきた「埼玉愛犬家連続殺人事件」をモチーフに、当時報道番組のデイレクターをしていた中村明さんが作った映画です。

「愛犬家」の周辺で次々と関係者が行方不明になる、しかし殺害の証拠がない。のちに殺人で逮捕されたブリーダーの関根元(元死刑囚、2017年東京拘置所で病死、享年75歳)が「ボディを透明にする」と、徹底的に遺体を損壊し、サイコロステーキ状に切り刻み、燃やしたり、川などに捨てたからだ。

事件が何をきっかけに発覚したか?実は遺体を運んだりして事件を手伝わされた部下の男Aが、別件で逮捕された自身の妻を救出したいがために、警察、検察に告白したことからわかりました。その後Aも逮捕されますが、留置場で、妻や元妻に合わせてもらい、2人きりの密室でなんと性行為を行ったなどと裁判で証言して話題になりました。Aは出所後事件の全貌を書いた本を出版しました。私もすぐに買って読みましたが、その後誰かにあげました。まさか、今その本が10倍ほどの値段がついているとは……。(その時点では凄い内容だと信じていましたが、その後虚偽の部分があることが明らかになっています)

映画「生きし」は、事件そのものを追うのではなく、あくまでもその事件をモチーフとした内容です。関根と一緒に逮捕され、関根同様に死刑囚となった元妻・風間博子さんと、実の母親、そして娘の関係、無実を訴える風間さんと支援者らの交流などを描いています。

私が、風間さんが冤罪を主張し、現在3度目の再審(裁判のやり直し)を請求していることを知ったのは約1年前です。当初「風間も共犯だ」と訴えたAは、裁判で「風間さんは殺害に関わってない」「なぜ死刑囚になるんだ」と証言しています。

また風間さんを支援する田口佐智子さんが、別の記事でこんなコメントを寄せてらっしゃいます。「モデルの風間博子さんの交通許可を得て文通しています。事件の立件に問題があり、何の物的証拠もない死刑判決です。再審請求中。」

死刑囚となったら、親族以外なかなか面会が叶わないなか、田口さんのような支援者がおられ、大変心強いことです。しかし、この事件、私も三度目の再審請求が行われていることを知りませんでした。これをきっかけに、この冤罪事件自体へも関心を持っていただけたら幸いです。

再審法改正問題がいよいよ正念場を迎えようとしている昨今、私は、この事件と様々な点で非常に似ている和歌山カレー事件との類似点、そして再審がどのように難しいかなどについて、お話させてもらいたいと考えております。

アフタートークでは毎日違う方が登場致します。詳細や時間などはホームページでご確認ください。

みなさま、劇場でお会いしましょう!

◎「生きし」HP https://ikisi-movie.com/

◎「シアターセブン」HP https://nanageitheater7.sboticket.net/top?type=title

尾﨑美代子(おざき みよこ)
新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを「西成青い空カンパ」として主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。
◎著者X(はなままさん)https://x.com/hanamama58

◎amazon https://www.amazon.co.jp/dp/4846315304/

六ヶ所再処理工場と大間原発が建設中の青森県こそ反戦反核の拠点に! 12月1日大阪での中道雅史さんの報告集会にご参加を!

尾﨑美代子

去年、大阪で開催された老朽原発再稼働阻止集会で、青森県から参加された中道雅史さんにお会いした。集会での中道さんのアピールをお聞きして、青森県の原発、核関連施設について、私が余りに知ってないことに驚かされた。その中道さんが来週祝島、広島を講演会で回るそうだ。最後の日曜日は、高浜の現地行動へ行くという。以前、店に来られた際、少しお話をお聞きしたが、もっとじっくりお話をお聞きしたいと思ってた。なので、来週いっぱいスケジュールが入ってるようなので、大阪で話して貰うのはまた今度と考えていた。そんな時中道さんから提案された。

「尾崎さん、月曜日でもいいからぜひ皆さんに報告させて下さい」と。私は311以後作った「西成青い空カンパ」の仲間に聞いたら、みなさん、「やろう!やろう!」「お話が聞きたい!」となった。

ということで、12月1日(月曜日)大国町ピースクラブで中道雅史さん緊急報告会をやります。ぜひぜひお集まりを!!

《追記》先日来店された女性2人のお客様、知っている方の女性はキリスト教団体の反原発の催しなどやっていて、数年前、小出さんの講演会に参加させて頂いた。

お二人にチラシを渡すと、もう1人の釜ヶ崎初めての女性が、「私の故郷は青森県です」というのだ。あらま、びっくり。彼女の母親は現在65歳、高校卒業後「集団就職」で関東に出てきたという。えっ集団就職? それってもっと古い昔じゃないの?と思ったが、事実だった(これが最後だったらしい)。

それほど地元で仕事がない。結局彼女のお母さんは千葉で割の良い仕事が探せ、そこで知り合った男性と結婚し、彼の転勤で青森県に戻り、それからずっと反原発を闘ってると。

彼女の地元十和田市は、パチンコ店が乱立しているらしい。山ほどある原発関連施設で働く作業員らが楽しむためだろう。もちろん歓楽街、風俗店も。

青森県にはぜひ行って見たい。中道さんが案内して下さるという。この目で見てみたい。どんな光景が広がっているのだろうか?

尾﨑美代子(おざき みよこ)
新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを「西成青い空カンパ」として主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。
◎著者X(はなままさん)https://x.com/hanamama58

3・11の彼方から──『季節』セレクション集 Vol.1
https://www.amazon.co.jp/dp/4846315878

◎amazon https://www.amazon.co.jp/dp/4846315304/

矢島祥子さんがいた頃の釜ヶ崎と貧困ビジネス

尾﨑美代子

11月16日(日)、大国町ピースクラブで、16年前に殺害された釜ヶ崎の女医・矢島祥子さんを偲ぶ会があった。例年以上に大勢の人が集まった。初めての方も多かった。私が冤罪問題で何かやるとき必ず遠方から来て下さる方が、名古屋と和歌山からきてくださった。広島から駆け付けた方もいたとか。

初めての方が参加されることは事前に知っていたので、ぜひパワポを使って「あの日、矢島祥子さんに何がおこったか」の解説をしたかった。とりあえずやったのだが、考えたら会場を暗くするので、手元が見えない。近くにいた方が携帯で照らしてくれたが、字が小さくて読みにくい。頭に入っている範囲でお話したが言い忘れたこともあった。ぜひレジュメを読みなおしてね。

当日の様子はほかの方の投稿で確認してください。私が一つ気になったこの、こういう会で必ず「犯人はわかってますからね」と発言される方がおられることだ。そのたび私は「知りませんけど」と言いたくなる。遺族だってそう思っていると思う。私たちの活動は犯人逮捕のために捜査機関に動いてもらうこと、そのためメディアを動かすこと、そのため支援の輪を広げることだ。憶測で「あの人が犯人に違いない」と決めつけ、新たな冤罪を作ったら元も子もないではないか。

ただ、私は事件の背景には当時から今まで延々と続く貧困ビジネスの問題があると思う。先日、釜ヶ崎で火災が発生し、共同住宅に住む4人の方が犠牲になった。非常階段のドアが開かずに部屋に閉じ込められた住民もさぞかし恐ろしかったろう。火災の原因は未だに明らかにされてないが、寝煙草の人が多かったともいわれるから、それが原因かもしれない。にしても、車いすや寝たきりの人も多い50人ほどの住宅で、深夜常駐のヘルパーさんが1人だったとか、施設側の問題も大いにあるようだ(しかもそのヘルパーさんも犠牲になった)。

就労支援事業などを手広く展開するこの業社は、近年この界隈で多くのビルを建てている。お洒落な白いビルの壁面には業社の頭文字のCが書かれ、火災が起きたビルはC5、その近くで1階に地ビール工場が入るビルはC6だ。

火災が発生、5階に住む3人が死亡したコレクティブハウス

私は以前このCとちょっとした出会いがあった。「あれは甘く切ない思い出」ではなく、ちょっと恐怖を感じたものだ。客のNさんが腰痛なので週1回ほどヘルパーに入って貰おうとした。三角公園で連れに紹介されたのがCだった。CはNさんに役所が来たら、万年床にして入口に杖を置いてと指示したそうだ。布団も上げれない、杖なしで歩けない大変な身体だから、ヘルパーを毎日付ける必要ありとしたいのだろう。しかし、元ヤクザだが超真面目なNさん「俺はそんな嘘はつけない」ときっぱり断わり、週1回入ってもらうことになった。

私はこのいきさつを当時のTwitterに投稿した。もちろんNさん、C、三角公園などの名称はださずに。ところがだ、数日後Nさんに入った若い女性ヘルパーがNさんに「Nさん、はなままという人を知ってますか?」と聞いてきたそうだ。Nさんは「最後に逮捕されたとき、世話になった」と言ったそうだ。ヘルパーはまた「Nさんは元ヤクザなのですか」と聞いたという。小指欠損状態をみればわかるだろうと言いたいが、私の投稿で知ったのだろう。若いヘルパーが見たのではない。Cがエゴサーチしたのだろう。しかし、前述したが、三角公園もNもCも書いていない。しかもTwitterはたかが400文字だ。凄いエゴサーチ力だ。ていうか、どんなエゴサーチをするのだろう。「杖」「万年床」あたりか? ヘルパーが私のことをしつこく聞くと、後にNさんが私に話してくれて、ちょっと怖くなったものだ。

萩ノ茶屋駅近くの無料炊き出し(11月19日撮影)
長い行列を作る無料炊き出し(11月19日朝8時)

話を戻すと、祥子さんがいた2008~2009年当時の貧困ビジネスは今とちょっと違っていた。2008年リーマンショック後、釜ヶ崎に流れてきた困窮者を狙う業者がどっと増えた。が、彼らはまだ雑だった。店の近くの相談所には、開く9時前には長蛇の列ができ、相談後に彼らを狙う連中が、私の店の前で勧誘をはじめ、その光景はまるでミナミのひっかけ橋で黒服が客をキャッチするような状態だった。ヤクザ、反グレが慣れない手つきで炊き出しを行い、集まった困窮者を自社ビルに入れる。生活保護制度自体を理解してないのか「今なら部屋も食事もついてて、おまけにお小遣いまでもらえるよ」などと通帳、カード取り上げ、囲い込む気満々の業者も多かった。

奈良の山本病院事件で院長らが摘発されたのは2009年だ。しかし、山本病院が大阪市内から野宿者や生活保護者を病院に入院させ、不適切、不必要な手術を行い死亡させはじめたのは、10年前からだった。山本病院に患者を送り込んでた福祉病院は釜ヶ崎周辺でも多かったはずだ。祥子医師は自身が診た患者の入院先に見舞いに行きながら、治療方法や処方された薬を確認し、おかしいと思ったら、病院側に忠告していたという。そんな祥子医師が疎んじられたのか、事件の少し前、ある福祉病院の事務局長から名刺を渡され、「もう来ないでくれ」と言われていたらしい。生活保護者を囲い込んで儲けようとする連中にとって、祥子さんはじゃまだったのかもしれない。

『病院ビジネスの闇』(宝島新書)。NHK奈良支局取材班によるこの本は釜ヶ崎周辺で当時展開されていた貧困ビジネスを刑事のように追跡している。「コトリバス」(コジキをとるバス)や、福祉マンションから福祉病院に利用者を送るタクシーを追跡する様子などはまさにヒヤヒヤしながら読んだものだ。

あの当時は、役所の窓口には刺青見せた大男が「はよ、保護出してやらんかい」と怒鳴りこみ、逮捕されるようなことも続出した。本当にやることが雑だった。もちろん今でもそのような業者はいる。しかし、Cのようにメディアで取り上げられるような、ある意味洗練された業者も増えた。噂だが、Cには次々と元役人が天下るという。何かあったら責任をとらされる代表者も次々と変わるという。噂がどこまで事実かわからんが、事実だったのは、あの小綺麗な白いビルの中では、かつてと変わらないエグい貧困ビジネスが続いていたということだ。

ちなみに知り合いがCのホームページを見たら、火災についての「お詫び」あるいは「ご報告」が全くなかったという。

被ばく労働者同様、単身者の釜のおっちゃんが亡くなっても、誰も抗議しないと考えているのだろうか。

尾﨑美代子(おざき みよこ)
新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを「西成青い空カンパ」として主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。
◎著者X(はなままさん)https://x.com/hanamama58

◎amazon https://www.amazon.co.jp/dp/4846315304/

11月16日(日)追悼集会「矢島祥子と時間を共有する集い」にお集りを!

尾﨑美代子

追悼集会「矢島祥子と時間を共有する集い」
11月16日(日)14時開演 
社会福祉法人「ピースクラブ」4階ホール
(大阪メトロ「大国町駅)5番出口南へ6分)
参加費 無料
冤罪「和歌山カレー事件」を題材にしたドキュメンタリー映画
「マミー」の二村真弘監督にお話して頂きます。

以下、釜ヶ崎のこの事件について、あまり知らない方に、当時何が起こったかを知って頂くために、事件前後に起こったことを時系列でまとめてみました。ご遺族、関係者に確認しつつやっております。訂正があった場合には速やかに訂正致します。ご一読を!! そして是非ご参集を!!

◆あの日、矢島祥子さんに何がおこったのか?

2009年11月16日(月)午前1時20分、大阪市西成区木津川河口の千本松渡船場で釣りをしていた男性2人が、女性の遺体を発見した。女性は14日早朝から同区内のK診療所から行方不明になっていた女医の矢島祥子さん(当時34歳)だった。遺体から発見されたカードケース付の財布に診察券、カード類、運転免許証などが入っており、祥子さんと判明した。

11月13日(金)祥子さんが最後の患者を診終えたのは19時45分頃、20時過ぎにはB看護師が、22時頃にk所長と職員Cさんが診療所を退出。Cさんによれば、祥子さんは奥の部屋でパソコンで作業をしていたという。

23時18分~37分の間、祥子さんが退出・入室していることが、祥子さん名義の警備会社ALSOKのセキュリティカードの履歴から判明している。

11月14日(土)4時15分頃、電子カルテがバックアップされ、同48分に退出が記録。しかし、最後にカードを使用した際、誤作動が生じ、警備会社が祥子さんに電話を架けていた。それまでも祥子さんは誤作動が生じると、自ら警備会社に「間違いでした」と連絡したり、警備会社からの電話にでていた。しかし、その日、祥子さんが電話にでることはなかった。そこで警備会社が緊急出動したが、すでに30分も経過していたため、診療所に問題なしと報告されている(天候は強い雨、しかし、鶴見橋商店街の監視カメラに祥子さんの姿は映っていなかった)。

同じ頃、祥子さんの携帯電話から翌日15日(日)会う約束だった友人Ⅹさんに予定をキャンセルするメールが送られていた。のちに、Xさんが遺族と診療所へ報告した祥子さんからのメールの着信時刻が違っていたため、遺族が正確な時刻を確認したいとⅩさんに申し出た。しかし、携帯が壊れたとの理由で確認は出来なかった。

14日10時過ぎ、出勤しない祥子さんを心配して、看護師Dさんが徒歩10分ほどの祥子さんの部屋を訪ねた。祥子さんは不在で、施錠されていなかったため中を覗くと、室内は整然としていた。なお、アパートに祥子さんの自転車もなかった。その後も職員らが何度か祥子さんの携帯に連絡をいれたものの繋がらず、午後13時10分過ぎには、K所長とD看護師が再び祥子さんの部屋を訪ねたが変わりはなかった。

翌15日(日)祥子さんと連絡が取れないままだったため、彼女の身に何かあったのではと危惧し、K所長らが西成署に相談。警察からは捜索願は親族から提出する必要があるといわれた。それを受けて、10時26分、K所長は初めて群馬の祥子さんの実家に電話をかけた。電話でK所長は、父・祥吉さんに「祥子さんが行方不明になりました。高崎警察署に行って捜索願を出してください」といった。電話の直後、これまでの経緯が書かれたメモがFAXで送られてきた。

【注】敏さん「父から送られてきたFAXを見たとき激昂しました。”なんでこんなもん作ってんだよ”そのFAXには祥子が行方不明になってから、その行方を知るために、誰とどういう行動をとったかが時系列と共に事細かに書いてあり、極めつけは祥子に最悪のことが起こった場合の対処まで書いてあったのです。これを制作する前、もしくは途中でも、何故家族に1本の電話もくれなかったのか?」と。

【注】父・祥吉さんが2010年1月11日、診療所でK所長と面談した。そのなかで、k所長から「2009年11月14日釜ヶ崎の一部に人たちに集まってもらい、対策を行った」ことが明かされた。しかし、翌日15日、K所長から届いたFAXに、その対策会議については書かれていなかった。

両親は地元の警察署に捜索願を提出。病院の事務局長を務めていた次男・洋(ひろし)さんを大阪へ向かわせた。

洋さんは西成に到着後、診療所でK所長と面談、その後ホテルで警察の連絡を待っていた。日が変わった16日深夜、洋さんは茅ケ崎に住む長男の敏さんに電話で報告を行った。

敏さんの携帯に再び洋さんからの連絡が入ったのは、それから1時間ほど経った時。その時の心境を敏さんはこう振り返る。「洋との電話を切り、少し横になっていたら電話が鳴った。いつでもとれるように着信音を最大にしていたんです。もう嫌な予感しかありませんでした」。

洋さんの電話は、祥子さんらしい遺体が見つかったことを知らせるものだった。群馬の両親には直接知らせる必要があるということで、敏さんが車で群馬へ向かう。知らせを聞いた両親は泣き崩れた。そのまま両親、敏さんは始発の新幹線で大阪に向かう。

警察からの知らせを受けた洋さんは西成署に向かい霊安室で祥子さんの遺体と対面。昼前には両親と敏さんが西成署に到着、霊安室で祥子さんと対面。その際、祥子さんの両首に赤黒い傷(頸部圧迫痕)があるのを見つけ、医師である母・晶子さんに告げた。祥子さんの遺体を司法解剖の結果をうけて西成署は、死因を「溺死」とし「過労による自殺の可能性が高い」と遺族に説明した。

【注】祥子さんが亡くなる直前、祥子さんからハガキを受け取った男性Mさんが、絵ハガキを西成警察に届けた。ハガキには「出会えたことを心から感謝しています。釜のおじさんたちのために元気で長生きしてください」とあった。男性(当時60歳)は当時釜ヶ崎の労働組合の組合員であり、K診療所の患者でもあった。なお群馬で執り行われた葬儀の席で、釜ヶ崎のNPO団体の女性(当時)から、「祥子さんには交際していた男性がいた」と告げられた。それがMさんだった。

【注】2018年ジャーナリスト寺澤有氏が「尾崎さん、矢島祥子さんの事件を取材しますよ」と来阪、2日目にMさんをアポなし取材し、難波屋横の喫茶店「ミチ」で2時間ほど話を聞いていた。その際、Mさんは、ハガキについて「警察に見せたが、それが遺書で自殺の根拠だと主張したわけではない。こういうハガキが届いていたと見せておかないと、あとで警察が知ったとき、『どうして隠していたんだ』と追及されるからだ」、自殺、他殺どちらだと思うかとの質問に「自殺だと確信しているが、とくに根拠はない」と述べていた。

遺体がみつかった16日の夜、釜ヶ崎「社会福祉法人聖フランシスコ会ふるさとの家」で「お別れの会」が開催された。「ふるさとの家」は敬虔なクリスチャンだった祥子さんがミサに通っていた場所で、彼女を知る多くの人が集まったが、祥子さんの死を「自死」という人が多く、それを遺族に告げる人までいた。

遺族は、祥子さんの自死説には到底納得いかなかった。クリスチャンの祥子さんは「死にたい」という患者らに常々「死んではだめ」と強く諭していたこともあるが、遺族がその目で祥子さんの首の傷を確認しているからだった。そのため遺族は祥子さんの母校・群馬大学医学部付属病院に再度司法解剖を依頼した。

祥子さんの死からひと月後の2009年12月11日、遺族は西成署の捜査担当者と面談。捜査員は、祥子さんの遺体には「頭血腫」(ずけっしゅ)と「頸部圧迫痕」(けいぶあっぱくこん)があり、2つの傷は、第一発見者の釣り人が遺体を引き上げる際、誤って遺体を落とし、できたものと説明した。「鑑定書」に納得いかない遺族は、解剖医に説明を聞きたいと申し出、捜査員と医師、遺族の3者での面談。医師からは「頭血腫は平らな鈍体よって出来たこと、生活反応があったこと(生きていた時にしかできない)、それによって脳震盪(のうしんとう)を起こしたと説明をうけた。警察が説明した、釣り人が遺体を引き上げるとき誤って落として出来たものは噓だったことがわかった。

【注】遺族によれば、現時点においても、誰が遺体を引き上げたかはわかっていないという。

遺族は、自分たちで不審点を調査し、「被疑者不詳」のまま、殺人と死体遺棄での疑いで西成署に告訴状を提出。祥子さんの死から3年目の2012年8月22日、告発状は受理され、再捜査が行われることとなった。

その後も闘いは続いております。ご支援をよろしくお願いいたします。

尾﨑美代子(おざき みよこ)
新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを「西成青い空カンパ」として主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。
◎著者X(はなままさん)https://x.com/hanamama58

◎amazon https://www.amazon.co.jp/dp/4846315304/

名古屋市西区主婦殺人事件 容疑者に何があったのか?

尾﨑美代子

◆幸せの絶頂の真っ只中から……

26年もの間未解決だった殺人事件で、10月31日、容疑者が逮捕された。「名古屋市西区主婦殺人事件」だ。当時32歳の高羽奈美子さんと2歳の息子航平君が自宅にいた。奈美子さんは夫の悟さん(当時43歳)と4年前職場結婚、航平君出産後は専業主婦をしていた。3人でディズニーランドに行った、自分の車も買った、北海道で一人で暮らす母を迎え、4人で暮らす4LDKのマンションの契約も済ませた……幸せの絶頂の真っ只中にいた。

そんなとき、事件に巻き込まれた。当時3人が住んでたアパートの家主が大量に収穫した柿を住民に配っていた。奈美子さんの部屋はインターホンを押しても返事がなかったが、家主がなにげなくドアを触ったら開いた。中をみると玄関は血だらけ、その奥に奈美子さんが倒れているのがみえた。顔のあたりが血だらけだったので、吐血して倒れたと思った。航平君を3階のママ友に預け、ママ友に悟さんに連絡してもらった。当日、不動産屋に勤務する悟さんは、名古屋で最初に建てられたタワマンの展示会場にいた。知らせにすぐ家に帰ろうとする。「奈美子は大量に吐血するような大病をもっていたかな?」などと考えていたところ、再び電話がかかり、死亡したと告げられた。

悟さんが家に着くとまもなく鑑識がきた。なぜ鑑識?と悟さんは訝しく思ってみていた。彼らは黙々と作業するが、悟さんに何も説明しない。そのうち鑑識の1人から「首を切られてて」と言われ、初めて殺人事件だとわかった。

悟さんもその後警察署に連れていかれ事情聴取を受ける。警察署からの帰りは妹夫婦が車で迎えにきてくれた。車に乗ったら夜10時のニュースが始まり、トップは自分の家の事件だった。「日本はなんて平和なんだ」、なぜか悟さんはそう感じたという。

涙もでなかった。「奈美子には悪いが、男手ひとつで、これからどうやって息子を育てていけばいいのか」と、そればかりが心配だった。

◆「あんたたち夫婦ほど人に恨まれない人はいないよ」と捜査員は言った

その後、実家に引っ越したが、事件のあった部屋はそれから容疑者逮捕の今まで借り続けた。家賃は総額で2000万以上。最初は、奈美子さんが揃えた家具などを処分するのを躊躇われたからでもあった。その後は、玄関に残された犯人の血痕と靴跡、未解決殺人事件の遺族は大勢いるが、そんな重要な証拠を持っているのは、自分位ではないか、と。また、新たに担当になった刑事らに、これを見せることで、モチベーションを上げて貰えればと思ったという。

悟さんは、玄関の血痕は奈美子さんのものと思っていた。それが事件から数年後、日テレの取材でプロファイリングの専門家がその部屋にきた。家の玄関の血痕を見て「これは被害者のものではない、犯人のものだ」と言われた。驚いた悟さんが刑事にきくと、「それは犯人にしか知りえない秘密の暴露だから、遺族とはいえ言えなかった」と謝られた。

血液型はB型、足のサイズは24センチ、年齢は40歳位とわかった。しかも犯人も怪我をしており、逃走した方向に血がポタポタ落ちていた。横断歩道の手前で車が途切れるのを待つ犯人が目撃されていた。傷口から血が垂れないようにしていた。女は横断歩道を渡った先にある公園の蛇口で傷口を洗った形跡もあった。ただ、今のように町中あちこちに監視カメラがある時代ではない。そこで女の行方は分からなくなり、夜降った雨で、犯人の臭いも消された。

多くの情報がありながら、また大量の捜査員が投入されながら、容疑者の目星はつかめなかった。悟さんは捜査員にこう言われた。「あんたたち夫婦ほど人に恨まれない人はいないよ」。

◆殺人事件被害者遺族の会「宙の会」に入会して

悟さんは同じ境遇を持つ人たちと繋がりたいと殺人事件被害者遺族の会「宙の会」に入った。私はしらなかったが、この会を創設したのは、未だ未解決の世田谷一家殺人事件を捜査していた刑事さんだった。(絶対未解決で終わらせない)との執念から、退職後同会を立ち上げ、まずは15年という殺人の時効を撤廃する活動を始め、2010年実現にこぎつけた。

悟さんはあちこちのマスコミに出て事件を訴えた。いつも絶対泣いた顔だけは撮られまいとしていた。泣いたら、それこそ犯人の思う壺ではないかと。小さな息子も、会見のたびに悟さんについてきては、悟さんの近くにいた。

ある時悟さんが「息子がグレたらどうしよう?」と心配していると、ある番組で知り合ったディレクターが「大丈夫、航平君は会見が始まるまではゲームをしているが、お父さんが話し出すとゲームを止め話を聞いているよ。」と言ってくれたのだった。

長く未解決だった事件は、1人の新しい刑事が就いたことで驚きの展開を見せた。もちろん、その刑事をヒーロー視つもりはない。それまでも大勢の刑事が頑張って捜査してきた、が、この刑事は、毎年事件発生日近くに情報提供を呼びかけるビラを配る悟さんに、「ビラ撒きで得る情報より、西警察署にある情報で、絶対犯人を捕まえてみせます」と言ったのだった。

そして、奈美子さん、悟さんに関わった人たちの年賀状、名刺などを持ち帰った。

その中には、悟さんが高校時代に入っていたソフトテニス部の名簿もあった。新たな捜査が始まり、1年後、容疑者は何人かに絞り込まれ、そのうちの1人の女性が何度か事情を聴かれた上、DNAの提出が求められた。女性は当初これを拒否したという。でも「疚しくないなら提出出来るはずだ」などと言われたかどうかわからないが、提出した。いや、せざるを得なくなったということだ。そのDNA型鑑定が出る前日、女性は自ら警察に出頭した。「自首」と書く記事もあるが、もう逃げられないと追い詰められたと言った方が正確だろう。

女は、奈美子さんの方の知り合いではなく、悟さんの知り合いだった。悟さんとテニスサークルで一緒だった女性は、学生時代バレンタインデーの度に悟さんに手紙とチョコを渡し、悟さんに「告白」していたそうだ。悟さんは、「別に好きな人がいます」とか「あなたは嫌い」とか、傷つけることを言ったことはなかったという。

高校卒業後、2人は別々の大学に入った。ある日、サークル活動をする悟さんをじっと待っていた女性がいた。今回逮捕された女性だ。悟さんは仕方なく喫茶店に女性を連れていった。そこで女性は悟さんに交際を申し込むが、悟さんは断っていた。すると女性は店内でしくしく泣きだしたという。悟さんはそのことを家に帰って妹に『困ったよ』と話していたのだった。

◆容疑者に何があったのか?

事件の前年、そのサークルの同窓会があり、女性は悟さんが結婚したことを知る。とはいえ、互いにもう40歳過ぎだ。普通に(というのはおかしいが)考えて、結婚し、家庭を持つ年ごろだ。実際、女性も悟さんに「私も結婚して、仕事も忙しくて…」などと話していたという。

その1年後、女性は、悟さん同様、家庭を持ち、仕事も忙しく、充実した人生を送っていたようなのに、過去に好きだった男性の妻を殺害した。

容疑者に何があったのか? 私も非常に知りたいところだ。

またこの事件に関しては、これだけの情報がありながら容疑者逮捕に至らない愛知県警に対して「何やってんだ?」との批判もあるだろうが、同時に私はそうした社会的な風潮に押され、全く関係のない人を間違って逮捕、つまり冤罪を作らなかった捜査機関を評価したい思いもあり、複雑な思いだ。

尾﨑美代子(おざき みよこ)
新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを「西成青い空カンパ」として主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。
◎著者X(はなままさん)https://x.com/hanamama58

◎amazon https://www.amazon.co.jp/dp/4846315304/

なぜ福島県知事が狙われたのか?──「『知事抹殺』の真実」と東京地検特捜部の犯罪

尾﨑美代子

10月11日、茨木市で「『知事抹殺』の真実」を鑑賞した。2000年、福島県佐藤栄佐久知事(当時)と実弟が、収賄罪で逮捕・起訴され、有罪判決を受けた事件が何だったか検証した映画だ。結論からいうと、この事件は冤罪だった。しかし、知事は辞職に追い込まれた。

私は次の用事があったので途中で席を立った。ちょうどその時、何かのトラブルで上映が止まっており、後で聞けば最後の20分位が上映できなかったという。とはいえ、私が最後に見た段階でも、あの事件が十分冤罪であることは明確だった。

この事件は、東京地検特捜部が担当した。収賄事件とは、政治家らが社会的・政治的な地位を利用して、他者から特別な便宜を受ける汚職だ。佐藤知事が違法に賄賂を受け取ったということだが、一審有罪判決後、控訴した東京高裁・二審で、控訴棄却で知事と実弟との収賄罪は認めたものの、追徴金はゼロ、つまり「賄賂の金額はゼロ」と認定したのだ。「だったら賄賂は何だったんだ」と誰でも不思議に思うだろう。痴漢で逮捕されたが、痴漢された人はいません、みたいなものだ。映画の中にでてくるが、知事はとにかく企業や市民の贈り物などについて、賄賂と受け取られかねないものは決して受け取らないように注意してきた。ある時高級な鮮魚を貰った知事は、その日のうちに相手に返してきなさいと秘書に頼んだという。

だから、逮捕は晴天の霹靂だった。その後、関係者が多数逮捕されたり、事情聴取を受けた。関係者も全く身に覚えがないのに、東京地検特捜部の取り調べは犯罪者扱いだ。関係者は、福島から特捜部のある東京に呼ばれ、慣れない、きつい取り調べをうけ、へとへとで帰ってくる。その間、自殺(未遂)者が何人もでた。ある関係者は、東京から福島に帰る新幹線から飛び降り自殺しようと考えた人もいた。そんな状況を知った知事は「嘘の供述をして早くこの事件を終わらせなくては……」と考えた。しかし、裁判が始まると、特捜部の酷い取り調べの実態が明らかになった。ある建設会社の社長Mさんは「知事への賄賂で弟の会社の土地を買った」と虚偽供述をさせられていた。

特捜部の仕事は東京でも名古屋でも大阪でも同じで、警察を介さず、贈収賄や脱税、企業犯罪など、政治家や企業が関わるような重大事件を独自に捜査する。政治家や大企業の社長が逮捕される日、段ボールを抱えて颯爽とビルに入っていく連中、どいつもこいつも「ザ・エリート」という面構えで、テレビに映るため、髪から靴の先まで整えてきました、みたいな顔をしている。

しかし、東京地検特捜部は、大阪の村木事件、プレサンス元社長事件と同じで、実際は大失敗だった。しかも知事の事件に、村木事件で、フロッピーディスクのプロパティを改ざんし、逮捕・起訴され、有罪判決を受けた大阪地検特捜部・前田恒彦検事が関わっていた。前田は、知事の事件で先のMさんを取り調べ、取り引きをもちかけ、嘘の供述をとった人物だ。Mさんは裁判で「(前田)検事との取り引きでそう証言したが、事実は違う。知事は潔白だ」と証言した。(ちなみの先週この前田の事件を暴いた『証拠改竄 特捜検事の犯罪」』(朝日新聞出版)を2日で読み終えたところだ)。 

しかし、なぜ知事が狙われたのか? 知事は在任中、東電福島第一原発、第二原発の事故やトラブル隠しや、国や電力会社のそうした体質に厳しく対峙していたという。福島県民を守るためだ。それが国や東電には気に食わなかったのだろう。実際、実弟を取り調べた検事がこう言ったそうだ。「知事はなぜ原発が嫌いなのか。知事は日本にとってよろしくない。いずれ抹殺する」と。

似たような事件が過去に福井県高浜原発のある高浜町でも起こった。高浜原発では日本で初めて獰猛犬を「警備犬」として使っていた警備会社「ダイニチ」があった。関電の幹部K(本では実名が出ていたような)が ダイニチの男性2人に、高浜町の今井理一町長の喉を警備犬に噛み切らせ、殺害しろと持ちかけた。「犬に殺らせたら証拠は残らん」と。今井町長は当時高浜で進められたプルサーマル計画に反対していたからだ。計画は実際のところは頓挫した。その後、男性2人は、Kとトラブったかで怖くなり、自ら顔出し・本名で、ある週刊誌に殺害計画の全貌を告白した。それを一冊にまとめたのが、ジャーナリスト・斎藤真氏の「関西電力 反原発町長暗殺指令」だ。告白した男性2人は、その後恐喝か何かで逮捕された。どの程度か知らないが、恐喝事件は実際あったようだ。やつらは「悪事を働いたような奴の言うことを信用できるか」といつもの手を使いたいのだろうが、そういう悪事を働いたからと言って、2人の告白が虚偽だったとはいえない。

それにしても、関電、東電、政府ら原発を動かしたい連中は、人を殺害してまで、あるいは逮捕、取り調べで多くの人たちを苦しませ、自殺(未遂)に追い込ませても平気だ。「知事抹殺の真実」、私が見た最後のシーン、知事がある集会で支援者の前で、事件当時を思い出し、嗚咽がとまらないシーンだった。私も泣けた。

尾﨑美代子(おざき みよこ)
新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを「西成青い空カンパ」として主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。
◎著者X(はなままさん)https://x.com/hanamama58

◎amazon https://www.amazon.co.jp/dp/4846315304/

普通に「パレスチナ」と言えるようになった時代に…… 豊田直巳さん講演会「パレスチナから福島へ」を終えて

尾﨑美代子

普通に「パレスチナ」「パレスチナ」と言えるようになったのにと話してた10月4日、「ヤバイこと言ったら電波止めるよ」の女が自民党総裁になったとは……。

10月4日、大国町社会福祉法人「ピースクラブ」で開催のフォト・ジャーナリスト豊田直巳さんの緊急報告会に参集された皆様、どうもありがとうございました。タイトルは「パレスチナから福島へ」で、終了後SNSなどを見ると、パレスチナ問題に関心ある方、福島に関心ある方、その両方に関心がある方、その2つがどう繋がっているの?と思った方など、さまざまな方が参加されたようです。 私は、どちらかというと、パレスチナ問題には詳しくなく、豊田さんをお呼びすることになって慌てて、いろいろ勉強したという感じでした。

とはいえ思えば、1980年代半ば、私は東京の山谷で日雇い労働者の組合の支援を関わっていましたが、その組合の映画を撮って欲しいと、ドキュメンタリー映画監督・故布川徹郎さんに依頼するため、組合の書記長と私の2人で目黒区の布川邸を訪問したことがありました。そして撮って頂いた日雇い労働者の組合のドキュメンタリーの中で、イスラエル大使館へ抗議にいく場面があり、私が組合の車からシュプレヒコールを行うシーンがありました。なので、当時はなんとなくパレスチナ問題に関心を持っていた訳ですが、その後どうなったかについてはあまり知らなかったという訳です。聞けば、豊田さんは、この布川監督に連れられて初めてパレスチナを訪れたとのこと、驚きました。

月日が流れ、2011年3・11がありました。私たちは「西成青い空カンパ」を作り、直接被災者にカンパを渡したいと、8月頭京都の講演会でお会いした飯舘村の長谷川健一さんを通じてカンパを送ることにしました。またその当時、ネットで読んだのが、豊田さんの「福島で線量計の針が振り切れた」という記事でした。パレスチナの取材以降、イラク、チェルノブイリなど取材した豊田さんだからこそ、すぐに福島に入れた(入らなくてはならないと感じた)訳ですが、その豊田さんは偶然私たちが支援していた長谷川さんの映画を撮影していました。

4日当日、豊田さんにはお話を75分(1時間と15分)お願いしておりました。パレスチナと福島をどうつなげるのか……参加された方の中には「無理筋」ではないかと思っていた方もいたようです。確かにパレスチナからイラクでの劣化ウラン問題…そして福島まで辿り着くのか…という時間になりまして、豊田さんは「もう終わり?」と私に聞き、「まだいいですよ」と答え、再び「もう終わり?」と聞かれ「まだ話して」と伝え、結局15分×2回の30分オーバーとなり、どうにかパレスチナと福島の問題をつなげていただけました。

想定外ではありますが、全然OKでした。なにしろ豊田さんの話が面白い。面白いと言ったら語弊があるかもしれませんが、報告会終了後、はなで行った親睦会で、豊田さんは「面白い」と言われるのは嫌ではないとおっしゃってました。そう、本当に面白いから、本当はもっともっとお話を聞きたくなるのです。皆さん、どうぞ豊田さんのお話を聞いてくださいませ。

あと、親睦会でどなたかが話していたのは、それこそ1980年代、あるいは少し前でも「パレスチナ」のデモの参加者はまだ少なかった。パレスチナと口に出すことさえ、「過激派」(それも超がつく)と思われていた。それがどうでしょう!今では、多くの人がその名を口にし、デモに参加し、スイカのバッチを身に付け、支援を表明しています。その変わりようが凄いという話になりました。そう、私たちは、もっともっとパレスチナ支援の声を高らかに揚げていかなくてはならないと痛感致しました。

参集された皆様、ありがとうございました。今後も共にパレスチナ支援の声を広めてまいりましょう!!

毎回だが、音響、プロジェクター関係で何人もの仲間が関わってくれる

尾﨑美代子(おざき みよこ)
新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを「西成青い空カンパ」として主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。
◎著者X(はなままさん)https://x.com/hanamama58

◎amazon https://www.amazon.co.jp/dp/4846315304/

『紙の爆弾』10月号に冤罪「みどり荘事件」を寄稿しました。ぜひ読んでください!

尾﨑美代子

「みどり荘事件」は、1981年大分県で起こった女子短大生強姦殺人事件です。この事件を書くにあたっては不思議ないきさつがありました。

確か25年ほどまえ、ある冤罪の専門書を読みました。日本の刑事司法の問題点がいろいろ書かれてて、ひとつに「日本は未だに自白中心主義だ」とありました。25年ほど前で「未だに」です。というか、それこそ「未だに」警察、検察は自白をとることに必死であることは、最近のプレサンス元社長冤罪事件でも明らかです(この事件も紙の爆弾に書いてます)。さらに驚いたのは、証拠の杜撰さです。つい先日も佐賀県警の科捜研の男性が長年DNA型鑑定で不正を続け(その数が130件)るという事件がありました。「問題ないね」と居直る佐賀県警、そんな訳ないだろう。

「みどり荘事件」に話を戻します。事件で犯人とされた男性の髪の毛はパンチパーマの短髪であったのに対して、「証拠」とされていたのは「ロン毛の金髪」だったというのがありました。おいおいおい、と驚く話です。それを裁判の途中でみつけた弁護団は、彼が常に短髪のパンチパーマだったことを立証するために、男性の姉、月に一度通う理髪店店員や理髪協会の関係者に証言させました。姉は事件前、父の葬儀があり、喪主である弟に理髪店に行かせたこと、理髪店店員は男性が常に数センチのパンチパーマをかけていたこと、理髪協会関係者はパンチパーマは時間の経過とともに伸びることはあってみ直毛にはならないなどと。その本では確かに「ロン毛の金髪」だったので、何の事件か調べようと、「冤罪、ロングヘアー、金髪」等で検索したこともありましたが、全くわからずに時が経ち……。 

一昨年、飯塚事件を取り上げた映画「正義の行方」を観た私は、どうしてもお話を聞きたくて、仲間と飯塚事件弁護団の徳田靖之弁護士をお呼びしました。その前に徳田弁護士がほかにどのような事件を担当したかを調べました。飯塚事件同様にすでに被告が死刑執行されたもう一つの冤罪「菊池事件」を担当しているのは知っていました。ほかを調べると、冤罪で一審で無期懲役、控訴審で無罪を勝ち取った「みどり荘事件」がありました(無罪判決を勝ち取ったのは、14年後の1995年でした。)。「どんな事件だったのだろう」と読み進めていくと、後半で、久間三千年さんの死刑執行の連絡を受け膝から崩れ落ちた岩田務弁護士が「念のため」と高裁で証拠品を確認しにいく場面がでてきます。そこで見たのは、被告の髪と全く違う髪の毛。「金髪、ロン毛」ではありませんが、被害女性か姉の毛髪のようで、栗色のセミロングでした。

裁判資料などを集め、書き進め、最後に徳田弁護士に確認して頂こうとメールを差し上げました。いつも多忙で「遅くなってすみません」と返事があるのですが、このときはすぐに返事がきました。「了承しました。その事件を取り上げて貰えるのは嬉しいです」と。記事は、徳田弁護士の大ファンの東住吉事件の青木恵子さんにも読んでもらいました。「この事件はしらなかった。徳田弁護士のように熱心に弁論してくれる弁護士ばかりだったらいいのに」などと言っておりました。その直前、青木さんが応援している被告の控訴審があり、まともな審理も行われず、あっという間に控訴棄却となってしまっていたからでしょうか。

原稿の締めをどのように書こうか、いつも悩みます。今回は、その素晴らしい最終弁論の場面を書きました。徳田弁護士の最終弁論が終了すると、傍聴者から拍手が沸き起こる。「静かにしなさい」と裁判長がたしなめます。それは法廷で良くある光景……さてその後どうなったか?ぜひ、本誌でご確認ください。

尾﨑美代子(おざき みよこ)
新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを「西成青い空カンパ」として主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。
◎著者X(はなままさん)https://x.com/hanamama58

◎amazon https://www.amazon.co.jp/dp/4846315304/

戦争と原発は核でつながっている ── 10月4日大阪でフォトジャーナリスト豊田直巳さんの緊急報告会を開催します!

尾﨑美代子

10月4日(土)、フォトジャーナリスト豊田直巳さんの緊急報告会を行います。限られた時間内での宣伝となりますが、ぜひご参集ください。

大学の先輩の豊田さんのジャーナリストとしての活躍ぶりは知っておりました。3・11後、私が釜ヶ崎の仲間と支援を始めた福島県飯舘村に足しげく通っていることも知っておりました。

時が流れ、Facebookなどでやり取りするようになったのが今年初め。私は編集委員で関わる反原発雑誌『季節』(鹿砦社発行)の原稿を豊田さんに依頼、最新号に掲載された豊田さんの記事が「ガザからフクシマへ」です。

5月17日、アジアで初めて原発ゼロを実現させた台湾、現地には水戸喜世子さんも行っておりました。さらに『季節』で依頼した豊田さんの写真に水戸さんのお姿もありました。そんな水戸さんと「いつか豊田さんの写真展と講演会をやろうね」と話していたところ、なんと、豊田さんから10月4日に報告会をやってくれないかとお話がありました。一緒に取り組んでくださるのは、水戸さんの娘さんの晶子さん。晶子さんも台湾で豊田さんと出会っていました。晶子さんはパレスチナ問題をもっと広めなくてはと奔走され、10月5日谷町六丁目の書店「隆祥館」で早尾貴紀さんとトークイベントを企画(チラシ参照)しており、豊田さんがせっかく来阪されるなら、4日もどこかでお話出来れば…ということで急遽この報告会がきまりました。

素適なチラシを作って下さった晶子さん、実は「12人の絵本作家が描くおうえんカレンダー」の制作活動を続けております。こちらのカレンダーは当日会場で販売いたします。そこに先の『季節』の豊田さんの文章から抜粋し、「プロジェクトX」風の文章にまとめてみました

その『季節』の豊田さんの文章の最後はこうまとめられています。

私(たち)は「どのように」許さないか。パレスチナからフクシマへの私個人の道のりが示すように、戦争と原発は、つまり戦争の中から生み出された核は、今も密接に結びついている。そのことを改めて私(たち)に実感させたのもやはりイスラエルとアメリカの戦争。イランへの核施設(原子力施設)への国際法違反を承知での攻撃だった。この現行の締め切り間際のこの蛮行を記す現状を、私(たち)は「どのように」許さないかが問われている。

世界各地の紛争地で続く核攻撃と、自国に向けられた核兵器である原発を、一刻も早く止めていこう。

※当日は同じく飯舘村支援を続けてきた「アカリトバリ」のミニライブ、ガザ支援の物販コーナーもあります。

[追記]翌5日(日)には隆祥館書店(谷町六丁目)でも豊田直巳さんのイベントが開催されます。こちらもぜひご参加を!

◎amazon https://www.amazon.co.jp/dp/B0FJXW1RPD/

▼尾﨑美代子(おざき みよこ)https://www.rokusaisha.com/wp/?cat=57
新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを「西成青い空カンパ」として主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。
◎著者X(はなままさん)https://x.com/hanamama58

戦後80年、「戦争トラウマ」を知って下さい ── 藤岡美千代さんのお話会と『ルポ 戦争トラウマ』

尾﨑美代子

8月31日、私の店で行った藤岡美千代さんのお話会、感想は昨日購入した『ルポ 戦争トラウマ 日本兵たちの心の傷にいま向き合う』(朝日新書)を読み終えてから書きたいと思っていた。

『ルポ 戦争トラウマ 日本兵たちの心の傷にいま向き合う』(朝日新書)

以前書いたが、共通の知り合いが何人もいる美千代さんが、あるとき「9歳の時、父が亡くなって兄とバンザイ!と叫び大喜びした」という投稿を見て驚いたことがあった。その背景に、戦争から戻った父から美千代さんや兄が壮絶な暴力を受けていたこと、「いただきます」というなりひっくり返されるちゃぶ台、それと同時に始まる父の大暴れ。美千代さんと兄は急いで表に逃げ、父が酒に酔って寝るまで外で待つ。そっと帰った部屋で、畳に散らばったご飯やおかずを急いで口に詰め込む。料理が土間にまで飛んだときはみそ汁だけすする。夜中に急に起きだし、子どもに暴力をふるう父。それがいつおきるかわからず、熟睡できず、学校でボーとしていたという美千代さん。

この夜中にガバッと起きだす様を、昨年一人で見た映画「火影」(私も見た。塚本監督のこの映画や「野火」には戦争トラウマの犠牲者が描かれている)に出てきて、映画館で過呼吸、パニックに陥ったという。

美千代さんが9歳のころ、父と母の離婚が成立し、子どもと母で家を出た2ケ月後、父は自死する。当時は病死と聞いていた美千代さん、自死と知ったのは20歳の頃だった。しかし、当時は「ばんざい!ばんざい!」と喜んだ美千代さんと兄。美千代さんは、父が火葬され、本当にこの世からいなくなるのかと、火葬を最後まで見届けようとしたという。

私は父にも母にも一度も手を上げられたことがない。小学生の頃、私はなぜか、父や母が村の会合などででかけていると、帰ってくるまで気になって自分の部屋でなく、茶の間で待っていた。あの日、父が会合から遅く帰ったときも、私は茶の間の炬燵で寝ていた。戻った父はそんな私をみて「自分の部屋で寝ろや」と足でこつんと私の脇腹をつついた。痛くもないのに、父の足が私の脇腹のどこにあたり、どんな感触だったか、私は鮮明に覚えている。暴力などと言えないのに……。それに比べ、親や大人に暴力を奮われた子供たちは、どんな思いでその後を生きていくのか、ずっと気になっていた。

10年ほど前、ある番組でみた「暴力の連鎖」。ある母と娘が暴力をはたらく父から逃れて2人の生活になった。それはドキュメンタリーなのだが、中学生の娘が暴力こそ振るわないが、母親に向かって「このばばあ、何やってんんだよ」と暴言を吐いていた。母親は、それでも父の暴力から逃れ安全圏にいるからか、「はいはい、わかりましたよ」などと返していたが。やがて大学に入った娘は友達から母親へのそのような態度は改めるべきと忠告され、自身も「何故そうなるのか」と考え、その後、DV、虐待などで傷ついた子供たちをケアする仕事に就きたいと考え始める。

話を戻すと、美千代さんもそうだった。あるとき取材を受けた記者に「ご自身のお子さんに手を挙げたことがあるか?」と聞かれ、すごくドキドキしながら「あります」と答えたという。1歳半の娘が「ちゃーちゃん、ちゃーちゃん(お母さん)」とまとわりついてきたとき、仕事でイライラしていた美千代さんは、子どもをはらいのけたら1.5メートル位飛んだのだという。「父と同じことをしている」。そして「一番触れられたくない部分だけど私が一番いいたかったこと。つまり虐待は連鎖するんです」と美千代さん。美千代さんはなぜそうなったかにじっくり向き合う。

またもうひとつ、考えないようにしてきた父からの性虐待についても考えるようになった。父は美千代さんを膝にのせては身体を触ったりしていた。その後布団に入ってきては、美千代さんの太ももに性器をあてたりした。もちろん当時の美千代さんはその意味がわからない。「父が私の上で腕立て伏せをしていた」とそっけなく語る。父のそうした行為は、母が父のセックスを拒否していたこともあるようだ。

父の死後母と兄と3人で暮らすようになると、今度は兄が美千代さんに父と同じようなことをしてきたという。ふすまをあけ隣の部屋の母に助けを求めるが、母はふすまを閉め助けなかったという。母は兄(長男)を家に引き留めたいと思っていたのだろうと美千代さん。

「だめなものはだめと大人がいわなくてはならない」。どんな悲惨な話もどこかおもしろおかしく話していた美千代さんが、その話をしたとき、少し涙声になっていた気がした。「それはやってはだめ」「それには反対」と気が付いた大人が口にして言わなくてはならない。

世界各地で戦争や紛争が続く今、今後、戦争トラウマでその後何世代にも渡って傷ついてしまう人たちを生むことになるのだろうか。

そうさせないためにも、「戦争反対!」と声高に叫ぶだけではない、いじめ、差別、虐待、暴力……戦争につながる、どんなに小さなことにでも「それはだめ!」「それはやってはいけない!」「それには反対!」と、見た人、知った人が口にしていかなくてはならない。

▼藤岡美千代(ふじおか みちよ)
1959年3月生まれ。鳥取市にて18歳まで過ごす。1977年、高校卒業と同時に、大阪の保育専門学校へ。保育資格、幼稚園教諭免許、短大卒資格を取得。1979年から2009年まで大阪府箕面市効率保育所勤務。2010年、大阪市東淀川区で喫茶店「オリーブガーデン」を開業し、現在に至る。

尾﨑美代子(おざき みよこ)
新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを「西成青い空カンパ」として主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。
◎著者X(はなままさん)https://x.com/hanamama58

◎amazon https://www.amazon.co.jp/dp/4846315304/