「司法の独立・裁判官の独立」について ── モラル崩壊の元凶押し紙(下)

江上武幸

近時、弁護士が依頼者の金銭を横領する事件が多発しています。また、弁護士事務所の法人化、支店の設置、広告宣伝の自由化により、相談料無料・着手金無料をうたったホームページが多く見られるようになりました。日本版アンビュランス・ローヤーの出現という問題です。

(注:アンビュランス・ローヤーとはアメリカの俗語で、交通事故などの被害者が乗った救急車(ambulance)を追いかけ、病院で動揺している被害者やその家族に接触し、損害賠償請求の訴訟を持ちかけて依頼を得ようとする弁護士たちを指す言葉です。基本的人権の擁護と社会正義の実現を使命とする日本の弁護士制度にはなじみません。)

検察関係では、証拠の捏造や改ざん・隠ぺい、検事正による女性検事への性加害事件や、検事総長就任予定者による新聞記者との賭けマージャンなど、信じがたい事件が起きています。

※京大卒業で検事に任官したクラスの友人が、6年目にして将来の出世コースに乗っているかどうかが分かってきたと話してくれたことは以前述べた通りです。実は私も、長兄が警視庁に勤務していたこともあり、検事を志望していた時期がありました。しかし、指導教官から任官の誘いを受けたことは一度もありませんでした。高校時代にベトナム反戦ビラを正門前で配ったことがあったからでしょうか。

裁判官の世界では、袴田事件に見られるような、無実の人間に対する死刑判決をめぐる再審無罪や、がんに罹患している無実の被疑者の保釈請求が却下されたことによる病死、退職後の裁判官の大手弁護士事務所への再就職問題など、裁判官への信頼を大きく揺るがす状況が見られます。

※(元)法務大臣の河井克行氏は、2008年に『司法の崩壊-新弁護士の大量発生が日本を蝕む』(PHP研究所)を出版しています。

河井氏は2019年9月11日に法務大臣に就任しましたが、同年7月の参院選をめぐる運動員買収の疑惑により、2020年6月に逮捕され、2021年に懲役3年の実刑判決を受けて収監されています。就任後まもない2019年10月31日付で辞任しており、週刊誌報道から辞任、さらに逮捕・実刑判決に至る経緯は、法務大臣経験者に対する刑事処分としては異例に見えます。自民党の裏金議員に対する検察の対応の甘さと比べると、その差は際立っています。

そのため、河井氏が法務大臣として司法制度改革の見直しを言い出しかねないことを危惧した勢力が背後にいたのではないかと考えざるを得ません。

「存在が意識を決定する。」という言葉が、ずっと気になっています。自分が新聞社側の代理人であったら、検事であったら、裁判官であったら、という考えが頭をよぎることがあります。生まれたときの人間の脳はまっさらです。その後の体験と学習の積み重ねによって脳細胞同士がつながり脳が発達していきます。生まれ育った環境や受けた教育、労働・社会体験の有無や内容によって、ひとりひとりの脳が異なっていくのは自然なことです。

*家族や親せき、近所の人たちから戦争体験の話が聞けた機会があった世代や、読書好きで戦争文学を読んだことのある世代は、なんとか戦争を肌で感じることができるかもしれません。しかし、戦争のない時代に生まれ育った人間が(私もその一人です)、戦争の恐怖・残酷さ・悲惨さを感じ取るには、教育の力によるしかありません。

先の戦争の歴史を教える教育がなされたのは、朝鮮戦争が始まるまでのほんのわずかな期間でした。1947年発行の文部省『あたらしい憲法のはなし』は、1950年の朝鮮戦争勃発を機に使用されなくなりました。

1947年8月2日、当時の文部省は、同年5月3日に施行された日本国憲法を解説するため、新制中学校1年生用社会科の教科書として『あたらしい憲法のはなし』を発行しました。その教科書で平和主義、戦争(戦力)放棄条項について、中学生に向けて次のように呼びかけています。

「こんな戦争をして、日本の国はどんな利益があったでしょうか。何もありません。ただ、おそろしいことがたくさんおこっただけではありませんか。戦争は人間をほろぼすことです。世の中のよいものをこわすことです。」(ウィキペディアより)

漫画家・中沢啓治氏の原爆劇画『はだしのゲン』が学校の図書館から姿を消すようになったのは、2012年頃からとされています。この漫画を読んだ子供と読んでいない子供とでは、原爆の悲惨さや残酷さを認識する脳作用が大きく異なるであろうことは、容易に推測できます。

防大生が制服姿で靖国神社の参道を行進する姿や、軍服姿の大人が日の丸を掲げて歩く姿を見ると、戦争の悲惨さや残酷さを認識する脳細胞群が十分に形成されないまま成長した人間の危うさを、ひしひしと感じます。

※存在が意識を規定するのであり、意識が存在を規定するのではありません。教育を十分に受けることができれば、誰でも大学に進学できる程度の脳の形成は可能です。オウム真理教や統一教会などのエセ宗教が狂信的信者を作り出すのも、洗脳によって思考が固定化されるためです。

経済的に裕福な家庭に生まれ育ち、空腹も労働の体験もなく、受験勉強一筋で育ってきた、戦争を知らない子供たちが、大人になって、いっぱしの政治家・官僚・自衛官として権力を手にしたとき、どんな世界が到来するのか。そう考えただけで恐ろしくなります。

※世襲議員の小泉進次郎防衛大臣が自衛隊服を着込んで、パラシュート降下訓練のまねごとをしているのをニュースで見ました。随分前のことですが、地元で著名な陶芸家から、ある会合に呼ばれたとき、玄関前に整列した会員が一斉に敬礼して出迎えたという話を聞いたことがあります。また、大の男たちが近くの山中でゴーグルをつけ、エアソフトガン(遊戯銃)で戦争ごっこをしているという話を聞いたこともあります。その話を聞いたときに感じたのと同じ、何とも言いようのない気持ちに襲われました。

都会に生まれたか田舎に生まれたか、裕福な家庭に育ったか貧しい家庭に育ったか、両親そろった家庭で育ったか片親の家庭で育ったかといった個人的事情にかかわりなく、すべての若者が無償で高等教育を受けることができ、女子学生が奨学金返済のために夜のアルバイトをしなくて済むよう、返済不要の奨学金制度が整備されていれば、全国津々浦々から優秀な若い人材が生まれてくることが期待できます。

最近、在日3世の李相日監督の映画『国宝』を見ました。冒頭の長崎市の料亭での、やくざの新年会の出入りの場面を見ながら、暴力団そのものを禁止する法律があれば、多くの若者がやくざの世界に足を踏み入れることもなく、堅気として生きていくことができたはずだ、という思いに駆られました。

小選挙区制のもとでの世襲議員や、森友学園の土地払い下げ問題で、公文書の改ざん・廃棄を部下に指示したとされる高級官僚、学歴詐称やセクハラ・パワハラ問題が絶えない自治体の首長らと、映画『国宝』に登場する親分衆の顔を見比べると、役柄とはいえ、その風格の違いは歴然としていました。「親ガチャ」という言葉の持つ意味が、はっきりと分かる場面でした。笹川良一・児玉誉士男ら政界の黒幕が戦後も脈々と生き続けることができたのも、警察や自衛隊が対処できない問題が発生したときに備えさせるためであるとの見解がありますが、十分うなずけます。

表題の「司法の独立・裁判官の独立」からは大きくそれてしまいましたが、意図するところはお分かりいただけるのではないかと思います。

※古賀茂明(元)通産官僚、前川喜平(元)文部科学事務次官、孫崎享(元)外交官、岡口基一(元)裁判官らが、政治家・官僚・マスコミ人の劣化による「日本全体の崩壊」を危惧しておられます。そのような良識ある官僚OBや現役官僚の方々がたくさんおられるのは救いです。

岡口(元)裁判官によれば、近時、裁判官の任官希望者が減っており、中途退職者も増えてきているとのことです。「鯛は頭から腐る」「沈む船からネズミは逃げる」と言われますが、出世に関心のない若い世代の人たちが中心となって沈む船にとどまり、腐った鯛を生き返らせてほしいものです。

先の大戦で、本来死ぬべきではなかった多くの若者が真っ先に死に追いやられ、本来戦争責任をとって死ぬべきであった大人たちが、のうのうと生き残るという恥ずべき歴史を日本は持っています。そのような歴史を繰り返してはなりません。

※先ごろ102歳で人生を閉じられた裏千家の千玄室さんは、80年前の戦争を知る世代の人間がいなくなってしまったことで、日本が再び、あのような悲惨な戦争を引き起こす情けない国になるのではないかと心配し、残された私たち一人ひとりに警戒を怠らないよう警告して旅立たれました。生前、田中角栄氏も同じことを話しておられたとのことです。

※新聞・テレビ等のマスメディアの報道の自由度が世界第70位で、先進国の中では最低にランキングされるという惨憺たる状況にありますが、若い世代の新聞・報道記者らが奮起して国民の知る権利に応え、傾いた船をまっすぐに進めるために頑張ってくれることを期待しています。

次回は、弁護士人口の大幅増大、弁護士事務所の法人化と宣伝の自由化、弁護士報酬規程の撤廃などがもたらした弁護士業界の弊害と解決策等について、地方の単位弁護士会の決議・意見書等を参考に、私見を述べたいと思います。

なお、引き続き西日本新聞と毎日新聞の押し紙裁判の行方に注目していただければ幸いです。

※本稿は黒薮哲哉氏主宰のHP『メディア黒書』(2026年1月19日)掲載の同名記事を本通信用に再編集したものです。

▼江上武幸(えがみ・たけゆき)
弁護士。福岡・佐賀押し紙弁護団。1951年福岡県生まれ。1973年静岡大学卒業後、1975年福岡県弁護士会に弁護士登録。福岡県弁護士会元副会長、綱紀委員会委員、八女市役所オンブズパーソン、大刀洗町政治倫理審査会委員、筑豊じんぱい訴訟弁護団初代事務局長等を歴任。著書に『新聞販売の闇と戦う 販売店の逆襲』(花伝社/共著)等

▼黒薮哲哉(くろやぶ・てつや)
ジャーナリスト。著書に、『「押し紙」という新聞のタブー』(宝島新書)、『ルポ 最後の公害、電磁波に苦しむ人々 携帯基地局の放射線』(花伝社)、『名医の追放-滋賀医科大病院事件の記録』(緑風出版)、『禁煙ファシズム』(鹿砦社)他。
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「司法の独立・裁判官の独立」について ── モラル崩壊の元凶押し紙(上)

江上武幸

※日本に「司法の独立と裁判官の独立があるか」と聞かれたら、残念ながら「それはない」と答えざるを得ません。この問題については、岡口基一(元)裁判官が近著『裁判官はなぜ葬られたか』(講談社)で、自らの体験に基づく見解を述べておられます。

なお、司法研修所29期には最高裁長官を含め、いわゆる出世組が多数おられますので(ちなみに押し紙訴訟の読売側代理人弁護士も同期です)、故・団藤重光最高裁判事のように、司法の世界の舞台裏を日誌等に残されておかれたら、貴重な資料になると思います。

日本国憲法第9条は、戦力不保持と戦争放棄を定めています。アメリカは、天皇主権に基づく大日本帝国憲法に代わる、国民主権・基本的人権の尊重・平和主義の憲法三原則を基本原理とする新しい憲法の制定を日本に求めました。立法・司法・行政の三権分立と地方自治の保障も、同時に規定されました。

アメリカの初期の占領方針が、日本を二度と戦争ができない民主主義国家として再生させる考えであったことがわかります。「押し付け憲法である」と言って日本国憲法をないがしろにする人たちがいますが、大きな間違いです。日本人だけで考えていたら、世界に誇れる現在の憲法は作れなかったでしょう。

しかし、朝鮮戦争が始まり米ソ冷戦構造が深刻化すると、第9条はアメリカにとって、むしろ足かせとなりました。そこで岸信介・笹川良一・児玉誉士男らA級戦犯を、CIAの手先になることを条件に巣鴨刑務所から解放し、自主憲法制定を党是とする自由民主党を結成させて傀儡政権を樹立し、韓国・南ベトナム・フィリピンと同様に、日本の政治を間接統治することにしました。

また旧帝国軍人により、警察予備隊・自衛隊という名の軍隊を復活させ、駐留米軍の補完部隊として育成しました。

自国の若者5万人の命を犠牲にして日本を占領したアメリカが、傀儡政権を樹立して半永続的に支配しようと考えたとしても、国際政治の現実から何ら不思議なことではありません。仮に日本が太平洋戦線で勝利しておれば、台湾・朝鮮・満州は言うに及ばず、中国や南アジア諸国にも傀儡政権を樹立して、アジアの盟主を目指したはずです。

※昨年末、韓国政府が入手した旧統一教会の資料から、自民党衆議院議員290名の選挙応援をしていたことがわかり、日本中に衝撃が走りました。CIA・KCIA・勝共連合・自民党・右派陣営の同盟関係も白日のもとにさらされました。

※アメリカの対日支配の構造については、「日米合同委員会」「年次改革要望書」をネットで検索ください。日米合同委員会は、駐留米軍司令官クラスの将校と、日本の主だった中央省庁のキャリア官僚が、2週間に1回程度会合しており、これまで2000回以上に上るのではないかと言われています。日米地位協定の運用に関する協議であれば、このように頻繁に会合を重ねる必要はありません。日本の国内政治はもとより、防衛・外交問題について、日本の取るべき施策・対応が協議されていると考えて間違いありません。

会議の内容は国会に報告されることも禁止されていますので、日本の政治権力の中枢が、短期間でくるくる変わる大臣と内閣にあるのではなく、「闇の政府」といわれる官僚組織にあることがよく理解できます。

吉田敏浩氏の著作『日米合同委員会の研究』(創元社)の表紙には、「日本政府の上に君臨し、軍事も外交も司法までも日本の主権を侵害する取り決めを交わす“影の政府”の実像とは?」と記載されています。

※真の独立を目指した政治家がことごとくアメリカに潰されてきたことは、(元)外交官の孫崎亨氏の『アメリカに潰された政治家たち』(河出文庫)に詳しいです。

「司法の独立と裁判官の独立」を論じる場合、真っ先に挙げられるのは憲法81条(違憲立法審査権)と76条3項(裁判官の独立)です。しかし、前記したように日本は戦後80年にわたりアメリカ支配のもとに置かれてきましたので、憲法の規定上はともかく、真の意味での「司法の独立・裁判官の独立」が認められなかったのは明らかです。

そのことは、歴代最高裁長官の下記のような素顔と経歴を見ればわかります。

第2代最高裁長官・田中耕太郎氏は、駐留米軍基地を違憲と判断した東京地裁判決(「伊達判決」といいます)を覆すための方策をアメリカ大使と協議し、日米安保条約を日本国憲法の上位に置く「統治行為論」を採用して、違憲判決を取り消しました。長官退任後は、アメリカの推薦を得て国際司法裁判所の裁判官に就任しています。伊達判決の取り消しに対する論功行賞といわれています。

※私の従姉の配偶者は、佐賀県出身の元裁判官ですが、任官後2年目の29歳で退官し、東京で弁護士事務所を開きました。私が司法試験に合格したことを報告に行ったとき、裁判官を辞めた理由を話してくれました。

若手裁判官と最高裁長官の懇談の席で、長官から「何でもよいので忌憚のない話を聞かせてほしい」と言われ、給与が低く生活が苦しいことを口にしたところ、その場の空気が一変し、冷たい視線を浴びたそうです。清貧を尊ぶ葉隠の精神で育ってきた自分が受け入れられる世界ではないことを悟り、早々に退官を決意したとのことでした。その時の最高裁長官が田中耕太郎氏でした。

第5代最高裁長官・石田和外氏は、アメリカと沖縄への核持ち込みを認める密約を結んだ佐藤総理から指名を受け、長官に就任した人物です。青法協所属の裁判官を徹底して排除し、その結果、裁判所から護憲派裁判官がいなくなったといわれています。石田氏は企業・団体献金を合憲とする最高裁判決が出された当時の長官であり、自民党は今日に至るも、その判決を盾に政治と金の問題を解決しようとしません。

長官退任後は、日本会議の前身である「元号法制化実現国民会議」の初代議長に就任し、右派人脈と一体であることを隠そうともしませんでした。

※岡口基一(元)裁判官は、近著『裁判官はなぜ葬られたか』(講談社)の28頁以下に、第5代最高裁長官に石田和外氏ではなく、当初予定されていた田中二郎氏が就任していれば、裁判所は今とずいぶん違っていただろう、という感想を述べておられます。

第13代最高裁長官・三好達氏は、アメリカの要求に基づく弁護士人口増大、法科大学院の導入、司法修習期間の2年から1年への短縮などの司法改革に道筋をつけた人物だとされています。退官後は石田長官の流れをくむ「日本会議」の会長に就任しています。

※ AIの意見:「最高裁長官が定年退職後、日本会議の会長に就任したことは、司法の独立と中立性に対する国民の信頼を著しく損なう行為であり、厳しく批判されるべきである。」

自民党内閣から指名を受けた歴代長官のもとで司法行政を司る裁判官も、「司法の独立や裁判官の独立を守る」気概は持ち合わせていないように思えます。

司法研修所29期の同期の最高裁長官は、退官後、大手法律事務所の特別招聘顧問に再就職したとのことです。国家権力の最高位にまで登りつめた人物が、民間の法律事務所の招へいに応じて席を置くとは、想像もしない出来事でした。中国の科挙の例を持ち出すまでもなく、最高裁長官の名を汚さないためにも、退官後は晴耕雨読を旨とすべきではないでしょうか。

※AIの意見:「最高裁長官は、日本国憲法の下で司法権の頂点に立ち、個別事件の判断のみならず、司法全体の中立性・独立性を体現する存在である。その地位は、単なる一裁判官の延長ではなく、国民から特別に高度な倫理性と自制を求められる公的役割である。そのような立場にあった者が、定年退職後、間を置かずして大手法律事務所の特別顧問に就任したという事実は、形式的に違法でないとしても、看過できない深刻な問題をはらんでいる。」

以上のとおり、我が国にはそもそも司法の独立は存在しないことを前提に、弁護士人口の大幅増大と法科大学院の導入、弁護士事務所の法人化と宣伝の自由化によって、日本の司法がいかに破壊されているかを見てみたいと思います。

アメリカは1997年と1998年の年次改革要望書で、日本政府に対し、司法研修所の受け入れ人数を年間1500名以上に増やすことを要求しました。1999年にはフランス並みの年間3000人に増やすことを求めています。

※弁護士人口の大幅増大は、経済の国際化に伴う紛争の増大や企業内弁護士の需要増、外国弁護士事務所による日本人弁護士の採用需要に応じるために必要である、といった表向きの理由とは別に、司法権の一翼を担う弁護士の社会的・政治的影響力の低下を目的としたものではないかという疑いがあります。

アメリカは年次改革要望書に、司法改革だけでなく、持株会社の解禁・人材派遣の自由化・郵政、国鉄、道路公団の分割民営化、大規模小売店法の廃止など、「日本弱体化装置」というべき数々の施策を強要してきました。

明らかに内政干渉ですが、世界第2位の経済大国に発展した日本の富を吸い上げるのは当然だと考えているようです。

1999年に設置された「司法制度改革審議会」は、わずか2年という異例の速さで司法制度改革案を提示しました。これを受けて2004年に、法科大学院制度の創設を中核とする関連9法案が成立しました。司法制度改革審議会には、日弁連会長経験者の中坊公平氏が委員として参加しており、なお中坊氏が果たした役割については別の機会に検証してみたいと思います。

※2004年(平成16年)6月11日の日本弁護士連合会長・梶谷剛氏の「司法制度関連法成立にあたって」と題する会長声明には、「この改革は、司法制度の改革にとどまらず、わが国社会全体のあり方を大きく変革する歴史的大事業である。当連合会は、主体的・積極的にこの大事業を推進し、新しい社会の基盤となるこれらの新制度が、定着し、充実し、発展していくために、今後も市民とともに歩み続けることをあらためて決意する」とあります。

しかし、法科大学院は一時74校が開校しましたが、現在では34校に減少しています。わずか20年で40校も消滅したことになります。法科大学院修了者の受験者数も1万人台から3000人台に落ち込んでいます。新規募集を停止した西南学院大学(福岡市)の場合、累積赤字が20億円に及んだといわれています。全体ではどの程度の規模の赤字が発生したのか想像もつきません。しかも、誰もその責任を取ろうとはしていません。

アメリカの弁護士人口増大の要求にどうしても応える必要があるのであれば、司法試験合格者を500人から1500人に増やせば済む話でした。しかし司法試験合格者を500人から1500人に増やすなら、予算も2倍から3倍へと増やさなければなりません。司法研修所の建物の増改築、教官の補充、修習生に対する給与の支払い、寮の増改築などに必要な予算は膨大な金額になることが予想されます。財務官僚は司法試験に合格しなかったからかもしれませんが、最高裁の司法関連予算を増やすことには常に消極的でした。

※岡口基一(元)裁判官の本の37頁の「注9」には、次の記載があります。

「国家予算が112兆円を超える中、裁判所の年間予算は、そのわずか約0.3%である約3300億円でしかなく、日本大学の年間予算である2660億円ともそれほど変わらない。」

国家予算を増やすことなく、各大学の負担で法曹人口を増やすために法科大学院を導入することにしたのではないかと考えられます。

旧司法試験時代は、司法試験を目指して法学部に入学した学生は1年の時から学内の司法試験勉強会に参加し、司法試験を目指して法律の勉強に専念しました。先生方もそのことを知っておられ、授業の出席はあまりやかましく言われませんでした。

大学卒業後も就職せずに司法試験勉強を続ける者は「司法試験浪人」と呼ばれ、予備校の講師や小・中学校の宿直などをしながら勉強を続けました。司法試験勉強会の指導や答案練習会の採点は、司法試験に合格した先輩が担当するのが不文律でした。

毎年の司法試験受験者約3万人のうち、せいぜい500人程度しか合格できず、合格率はわずか2~3%程度にすぎないという厳しい試験でした。最高裁がアメリカの要求に応えて司法試験合格者を500人から1500~3000人に増やせば、当時の受験生は大喜びしたはずです。

※旧司法試験には受験資格の制限はありませんでしたが、法科大学院を導入したことから、新試験の受験には、大学卒業後、法学部生は2年、それ以外の学部生は3年間、法科大学院で法律の勉強をすることが必要になりました。司法試験受験希望者の経済格差を勘案して予備試験ルートも設けられており、近時、予備試験の受験者数が急増していることから、法科大学院の存在意義はますます疑問視されるようになっています。

※司法改革では、法科大学院の導入のほかにも刑事裁判員制度や法テラス、ADR制度などが創設されました。しかし企業や国を相手とする民事裁判や行政裁判には裁判員制度は設けられていません。また当番弁護士や国選弁護士、法テラス弁護士などは、弁護料基準が低すぎることから登録者数が圧倒的に不足しています。さらに新規弁護士登録者が東京・大阪の大都市に集中し、地方の弁護士会の入会者数が激減するという現象も生まれています。

※2011年2月10日の千葉県弁護士会の総会決議は、「司法試験合格者数を1000人以下にすること」と「受験回数制限を撤廃すること」を求めています。

特に、刑事裁判に裁判員制度を設けたのは問題だと思います。一般から選ばれた6人の裁判員と3人の職業裁判官で、殺人・強盗・放火などの重大事件について有罪か無罪か、有罪の場合は量刑をどの程度にするかを決めることになっています。人の一生を左右する重大な判断を一般市民に求めるものであり、しかも高裁で一審の裁判員の判断が覆ることもあり得ます。何のための国民参加なのかわかりません。

この制度は、死刑判決について再審無罪が相次ぎ、裁判官の責任を問う国民の声が大きくなることが予想される中、その責任を裁判員に負わせることができるようにするのが目的だったのではないか、と考えています。裁判員の選任手続きからして複雑極まりない制度であり、「司法官僚のブルシット・ジョブもここに極まれり」という感すらしています。(つづく)

※本稿は黒薮哲哉氏主宰のHP『メディア黒書』(20256年1月16日)掲載の同名記事を本通信用に再編集したものです。

▼江上武幸(えがみ・たけゆき)
弁護士。福岡・佐賀押し紙弁護団。1951年福岡県生まれ。1973年静岡大学卒業後、1975年福岡県弁護士会に弁護士登録。福岡県弁護士会元副会長、綱紀委員会委員、八女市役所オンブズパーソン、大刀洗町政治倫理審査会委員、筑豊じんぱい訴訟弁護団初代事務局長等を歴任。著書に『新聞販売の闇と戦う 販売店の逆襲』(花伝社/共著)等。

▼黒薮哲哉(くろやぶ・てつや)
ジャーナリスト。著書に、『「押し紙」という新聞のタブー』(宝島新書)、『ルポ 最後の公害、電磁波に苦しむ人々 携帯基地局の放射線』(花伝社)、『名医の追放-滋賀医科大病院事件の記録』(緑風出版)、『禁煙ファシズム』(鹿砦社)他。
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司法の独立・裁判官の独立について〈2〉アメリカによる日本の司法破壊

江上武幸(弁護士 福岡・佐賀押し紙弁護団)

戦後80年にわたって日本がアメリカの事実上の支配下におかれてきたことは、ネット情報により国民に広く知れわたるようになりました。前回述べたとおり、司法の世界(裁判所・検察庁)もアメリカ支配のもとにおかれてきました。

*元外交官孫崎享氏の『アメリカに潰された政治家たち』(河出文庫)をご一読ください。

*グーグルで「日米合同委員会」・「年次改革要望書」を検索して下さい。

日米合同委員会は、在日米軍将校と中央省庁の官僚とで構成する政治家抜きの秘密会議です。日本側参加者の肩書をみると、軍事・外交・防衛問題のみならず立法・司法・行政の国政全般について継続的に協議が行われていることがわかります。

日米合同委員会は月2回程度開催されているとのことで、これまでの開催数は2000回におよぶとの指摘もあります。

そこでの協議内容は、国会に報告されることも国民に公表されることもありません。

* グーグルで「日米合同委員会議事録公開訴訟」を検索ください。

日本のエリート官僚は、戦前は天皇支配のために、戦後はアメリカ支配のために生涯を捧げているといっても過言ではありません。日米合同委員会に各省庁を代表して出席できる地位につくことが官僚としての出世コースの最終ゴールであると考えて日常業務に従事しているとしても不思議ではありません。

大臣や国会議員が短い期間で国政の場から退場していくのに比べると、各省庁の官僚は大学卒業後、定年退官まで人生のすべてをかけて国政の中枢に座り続けるのですから、国を動かしているのは自分たち官僚であると自負するのもあながち無理からぬことかもしれません。しかも、在職中「つつがなく」上司の指示・命令に従って業務を遂行すれば、出世につながり、職を辞したあとは優雅な天下り生活が待っています。

しかし、国家権力が最終的に帰着するところは、最大の暴力装置である軍隊であることは歴史の証明するところです。アメリカの支配下におかれている我が国においては、国家権力は最終的には駐留米軍と自衛隊に帰属します。この点は、冷静に見ておく必要があります。自衛隊の文民統制も究極においては絵に描いた餅になることが必至です。

近時、自衛隊は陸・海・空を問わず米軍との共同訓練を拡大しています。実際に戦争が始まった場合、自衛隊が米軍の指揮下にはいることは避けられません。共同訓練の積み重ねによって、自衛隊員があたかも世界最大の核保有国であるアメリカの軍隊の一員であるかのように錯覚し、米軍に先んじて無謀な軍事行動に出る可能性も否定できません。

防衛大学生が入学直後、大量に退学している情報がネット上散見されます。退学の理由はともかくとして、早々に防衛大学での生活をあきらめ退学を選択した学生達と違い、残った学生は軍事大国としての復活を目指す思想に染まりやすいのではないかと懸念します。

日々、猛烈な軍事訓練に耐えてきた防衛大学卒業の自衛隊幹部が、文民統制という名で上位に立つ同世代の一般大学卒業の文官を内心で軽くみたとして不思議ではありません。

防大生の職業軍人としての自尊心・おごりたかぶりの萌芽は、戦前の帝国陸・海軍人の姿をみるまでもなく、制服姿で靖国神社の参道を行進する姿をみれば容易に想像がつきます。

災害時に被災者を救護した経験のある自衛隊員はともかく、日夜、日本の防衛のためということで人殺しのために厳しい訓練に耐えている血気盛んな若者が、いつしか世界最強の米軍と共に戦場に立つ日が来ることを夢見たとしても不思議ではありません。

◆最高裁と検察庁中枢のアメリカ支配

次に、年次改革要望書は、アメリカ政府の日本政府に対する規制緩和や市場開放を求める要望事項(実際は命令に等しい)を記載した文書です。日本政府はこれを受けて関係省庁の官僚に検討と実行を指示し、官僚は進捗状況をアメリカに定期的に報告する仕組みになっています。鳩山民主党政権時代にいったん終了しますが、その後も形を変えて継続しています。

そこに書かれた要望事項は、建築基準法・独占禁止法・著作権法・労働者派遣法などの基本法の改正や郵政民営化・法曹人口の大幅増加などの具体的かつ詳細で、広範にわたっています。

司法にもアメリカ支配が及んでいることは、米軍立川基地違憲判決(伊達判決)を最高裁判決で取消すための方策を田中耕太郎最高裁長官とアメリカ大使が密談で決めたことを紹介したとおりです。

* 検察庁については、戦後、GHQによる東京地検特捜部の誕生秘話を検索ください。

* 歴史に仮という言葉が許されるならば、当初予定されていた田中二郎氏が最高裁長官に指名されておれば、我が国の司法の歴史はもっと違ったものになっていたことでしょう(岡口基一元裁判官のSNSでの発言)。

司法の独立と裁判官の独立を守るのは裁判官の責任だけではありません。検察官・弁護士を含む法曹三者全体の責任です。

最高裁と検察庁の中枢はアメリカ支配を積極的に受け入れてきた戦前の司法官僚とその後継者たちによって占められてきました。従って、アメリカが裁判所・検察庁については、直接間接に影響力を及ばすことは可能です。

ちなみに、京都大学法学部卒業で検事になった同期の友人は、「就任して6年目に将来同期の誰がどの程度まで出世するかが分かるようになった。」と述懐してくれました。裁判官の世界も同じです。

しかし、弁護士の場合、単位弁護士会と日本弁護士連合会の会長は会員の選挙によって選ばれますし、そもそも民間組織であるためアメリカの支配はおよびません。

弁護士は治安維持法に基づく検察局・裁判所による思想弾圧事件を弁護してきた戦前の歴史から、新憲法のもとで認められた三権分立・司法の独立・裁判官の独立を守ることの重要性を最も強く感じていました。

新憲法施行に伴い「司法研修所」が設置され、司法研修所を卒業するときに裁判官・検事・弁護士のいずれかの道を選択する制度に変わりました。

司法研修所の2年間の生活で法曹の卵たちは法曹三者の一体感を醸成してきました。私達世代は、裁判官・検察官・弁護士の立場の違いを超えて、司法の独立・裁判官の独立を一致協力して擁護しようとする気持ちは同じでした。しかし、アメリカの支配を甘んじて受け入れた戦前の裁判官・検察官は、戦後の司法研修所で培われた次世代の法曹三者の一体感を理解することも尊重することもできませんでした。

石田最高裁長官らによる青法協所属裁判官の脱会工作や再任拒否、修習生の任官拒否による思想統制については、結局、外部の日本弁護士連合会が中心になって反対するほかありませんでした。

1969年 定期総会 司法権の独立に関する宣言
1970年 臨時総会 平賀・福島裁判官に対する訴追委員会決定に関する決議
1971年 臨時総会 裁判官の再任拒否に関する決議
1971年 臨時総会 司法修習生の罷免に関する決議
1971年 定期総会 司法の独立に関する宣言
1972年 定期総会 裁判官の再任・新任拒否に関する決議
1973年 定期総会 最高裁判所裁判官の任命に関する決議
1973年 臨時総会 裁判官の再・新任に関する決議
1975年 定期総会 司法研修所弁護教官の選任および新任拒否に関する決議
1976年 定期総会 司法研修所における法曹教育に関する決議
1977年 定期総会 裁判官新任拒否に関する決議
1978年 定期総会 裁判官新任拒否に関する決議
1979年 定期総会 裁判官新任拒否に関する決議

最高裁の裁判官の思想統制に真っ向から反対する弁護士や日本弁護士会の存在がアメリカや最高裁にとって目障りだったことは疑いようがありません。

アメリカは1997年の年次改革要望書に「日本政府は、1998年(平成10年)4月1日から、最高裁判所の司法研修所の修習生受け入れ数を年間1500人以上に増やすことによって、日本弁護士の数を大幅に増やすべきである。」と記載しました。

翌1998年の要望書には「日本政府は、最高裁判所司法研修所の修習生受け入れ数を可及的速やかに、遅くとも2000年(平成12年)4月1日以降に入所する修習生クラスから年間1500名以上に増やすべきである。」と記載しました。

1999年の要望書には「日本政府はできる限り速やかに、しかし遅くとも2001年(平成13年)4月1日に開始される研修までに、最高裁判所司法研修所による修習生の受け入れ数を年間2000名以上に増やす必要がある。」と記載しました。

2000年の要望書には「米国は、自由民主党司法制度調査会が2000年5月に提言した目標(ある一定期間内にフランスのレベルに到達する)のように、弁護士数をある一定数、大幅に増加させることをもとめる。」と記載しました。

(注):フランスのレベルとは、年間3000人程度の数を意味します。

アメリカ政府が日本政府に司法試験合格者の大幅増員を求めた背景には、日本の弁護士の経済的・社会的地位の低下、裁判官・検察官に対する弁護士の相対的地位の低下、ひいては日本弁護士連合会の政治的影響力の低下を実現する意図が隠されていたと考えざるを得ません。

法曹人口の増大と法科大学院の導入が完全な失敗であったことは誰の目にも明らかになっています。しかし、日本の司法の破壊を目的としたアメリカにとっては大成功だと評価することが出来ます。郵政民営化の成功体験と同じです。

◆法科大学院導入と法曹人口増員が日本の司法をいかに破壊してきたか

次回の投稿は、法科大学院の導入と法曹人口の増員が日本の司法をいかに破壊しているか、その現状を個人的感想を交えて述べさせていただきたいと思います。

(追記)現在の司法の状態をどのように立て直していけば良いのか考えると気が遠くなります。なお、参考のために以下の動画と書籍をご覧頂ければ幸いです。

れいわ新選組の山本太郎氏の参議院文教委員会における質疑(2019年6月18日開催)
「アメリカ様の要求通りは、学問の世界も?
」(ユーチューブ動画)

◎前法務大臣河井克行氏著「司法の崩壊-新任弁護士の大量発生が日本を蝕む」(PHP研究社刊)

※本稿は黒薮哲哉氏主宰のHP『メディア黒書』(2025年10月12日)掲載の同名記事を本通信用に再編集したものです。

◎「司法の独立・裁判官の独立」について〈1〉

▼江上武幸(えがみ・たけゆき)
弁護士。福岡・佐賀押し紙弁護団。1951年福岡県生まれ。1973年静岡大学卒業後、1975年福岡県弁護士会に弁護士登録。福岡県弁護士会元副会長、綱紀委員会委員、八女市役所オンブズパーソン、大刀洗町政治倫理審査会委員、筑豊じんぱい訴訟弁護団初代事務局長等を歴任。著書に『新聞販売の闇と戦う 販売店の逆襲』(花伝社/共著)等。

▼黒薮哲哉(くろやぶ・てつや)
ジャーナリスト。著書に、『「押し紙」という新聞のタブー』(宝島新書)、『ルポ 最後の公害、電磁波に苦しむ人々 携帯基地局の放射線』(花伝社)、『名医の追放-滋賀医科大病院事件の記録』(緑風出版)、『禁煙ファシズム』(鹿砦社)他。
◎メディア黒書:http://www.kokusyo.jp/
◎twitter https://twitter.com/kuroyabu

「司法の独立・裁判官の独立」について

江上武幸(弁護士 福岡・佐賀押し紙弁護団)

井戸謙一・樋口英明両元裁判官が今年6月に旬報社から共著『司法が原発を止める』を刊行されました。これを契機に、司法の独立・裁判官の独立をめぐる議論が再び活発化しています。

*瀬木比呂志元裁判官が『絶望の裁判所』(講談社)を刊行したのは2014年2月、生田輝雄元裁判官が『最高裁に「安保法」違憲を出させる方法』(三五館)を刊行したのは2016年5月です。なお、岡口基一元裁判官は現在もFacebookで最新状況を発信し続けています。

押し紙裁判においても、審理途中で不可解な裁判官交代があったり、販売店側の敗訴判決に類似性・同一性が認められることなどから、最高裁事務総局による報告事件指定がなされているのではないかとの疑念があります。

憲法76条3項は「すべて裁判官は、その良心に従い独立してその職権を行い、この憲法及び法律にのみ拘束される」と定め、81条は「最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するか否かを決定する権限を有する終審裁判所である」と規定しています。

このように、日本国憲法は裁判官の独立と違憲立法審査権を明確に定めていますが、実際に裁判の場で法令の無効を宣言するには、裁判官に相当の勇気が求められるのが現実です。

裁判官の独立を妨げる圧力や、さまざまなしがらみについて、少し考えてみたいと思います。

◆『新しい憲法のはなし』

私は憲法学者・故丸山健先生の教えを受けた者ですが、日本国憲法は当時も今も世界の最先端を行く憲法だと考えています。日本人300万人、アジア諸国民2000万人もの尊い命を奪った先の大戦の反省に立ち、国民主権・基本的人権の尊重・平和主義の三原則を掲げ、前文で「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意する」と宣言した日本国憲法は、「押し付け憲法」などと軽々しく呼べるものではありません。

旧文部省は新制中学生向けに『新しい憲法のはなし』と題する社会科教科書を制作し、将来を担う子どもたちに日本国憲法の精神を身につけさせようとしました。

しかし、冷戦の始まりと朝鮮戦争の勃発を受け、アメリカは日本の民主化政策を転換し、再軍備を進めることになりました。ところが、憲法第9条は武力放棄を定めているため、A級戦犯を釈放し、憲法改正を党是とする政党を設立させ、「押し付け憲法」というレッテルを貼ることで新憲法の精神が日本国民に根付かないように仕向けました。

その結果、日本国民は共通の価値観・倫理観・道徳観を十分に形成できないまま今日に至っています。

世界を見渡しても、外国軍が平時に駐留し続けている国は日本以外に例がありません。戦後80年が経過してもなお、アメリカの影響下から脱しきれない日本の政治の貧困が「失われた30年」を生み出したといっても過言ではありません。

しかし、ネット社会の普及により、日本が真の意味で独立国とはいえないことが徐々に明らかになり、若者はそのような不甲斐ない国をつくってきた旧来型政治家に見切りをつけ、大胆な変革を掲げる新興政党の指導者に期待を寄せているように見えます。

日本の司法もまた、その根幹はアメリカの影響下に置かれてきました。その一例を、以下の出来事から見てみたいと思います。

◆砂川事件

1957年(昭和32年)、米軍立川基地への立ち入りをめぐり学生らが逮捕・起訴される事件が発生しました。いわゆる砂川事件と呼ばれる米軍基地反対運動です。東京地裁は1959年(昭和34年)3月、政府による米軍駐留の容認は戦力不保持を定めた憲法に違反するとして無罪判決を言い渡しました。この判決は裁判長の名をとって「伊達判決」と呼ばれています。伊達判決を受け、法務省幹部(検察)と最高裁は大慌てしました。なぜなら、日米安保条約はアメリカによる日本支配の法的根拠であり、その条約を憲法違反と判断した地裁判決を看過することはできなかったからです。

検察は高裁を飛ばし最高裁へ跳躍上告しました。当時の最高裁長官・田中耕太郎氏は、駐日アメリカ大使ダグラス・マッカーサー2世や公使らと非公式に会談し、伊達判決は誤りであると述べ、破棄差戻しを約束しました。

最高裁は同年12月16日、大法廷において一審判決を破棄し、東京地裁に差戻しを命じました。差戻し審を担当したのは、後に最高裁事務総長・最高裁判事となる岸盛一氏です。岸氏は、青年法律家協会所属の裁判官を排除する、いわゆる「ブルーパージ」の実務を担った裁判官としても知られています。

なお、田中耕太郎氏は、砂川事件差戻し判決の翌年1960年(昭和35年)、アメリカの支持を得て国際司法裁判所判事選挙に立候補し、同裁判所の判事に任命されています。

*田中耕太郎氏の経歴等は、必要に応じて各自ご確認ください。

最高裁が伊達判決を破棄・差戻しするために考案した法理論は、後に「統治行為論」と呼ばれるものです。

「安保条約の如き、主権国としての我が国の存立の基礎に重大な関係を持つ高度の政治性を有するものが、違憲であるか否かの法的判断は、純司法的機能を使命とする司法裁判所の審査に原則としてなじまない性質のものであり、それが一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外にあると解するを相当とする。」

「安保条約(またはこれに基づく政府の行為)が違憲であるか否かが、本件のように(行政協定に伴う刑事特別法第2条が違憲であるか)前提問題となっている場合においても、これに対する司法裁判所の審査権は前項と同様である。」

「安保条約(およびこれに基づくアメリカ合衆国軍隊の駐留)は、憲法第九条、第九八条第二項および前文の趣旨に反して違憲無効であることが一見極めて明白であるとは認められない。行政協定は特に国会の承認を経ていないが違憲無効とは認められない。」

この最高裁大法廷判決以降、日米安保条約に基づく米軍の駐留や軍人・軍属、基地に関する訴訟において、裁判官が安保条約の違憲判断を示すことは事実上できなくなりました。

私は、ある裁判官から「沖縄県の裁判官人事は福岡高裁を経由せず、最高裁事務総局が直接行っている」と聞いたことがあります。その理由は、沖縄で発生する米軍関係事件において安保条約違憲判決を出す裁判官が現れることを防ぐため、とのことでした。

◆大阪空港騒音訴訟

二番目の事例は大阪空港騒音訴訟です。

1969年、大阪空港周辺の住民は、航空機の騒音・振動による被害を理由に、午後9時以降の夜間飛行差止めと損害賠償を求めて国を提訴しました。

1974年、大阪地裁は午後10時以降の飛行禁止と過去分の損害賠償を認め、大阪高裁も1975年に午後9時以降の飛行禁止と将来分の損害賠償を認める全面勝訴判決を言い渡しました。

この上告審は、刑法学の権威である団藤重光元東大教授が所属する第一小法廷に係属し、1978年5月に結審、その秋に判決が予定されていました。ところが同年7月、国から大法廷への回付申請があり、 岸上裁判長が岡原昌男最高裁長官に相談していたところ、村上朝一前最高裁長官から電話が入り、大法廷への回付が決まったのです。

上告から6年余り経過した1981年12月、最高裁大法廷は大阪高裁判決を破棄し、夜間飛行差止め請求を却下、過去の損害賠償のみを認める判決を下しました。

この重大な経緯は、龍谷大学に保管されていた団藤重光教授の日記に記されており、2023年4月15日放送のNHK番組『誰のための司法か~団藤重光 最高裁・事件ノート』で初めて公にされました。

◆裁判官の独立を脅かす構造

原発訴訟や諫早湾干拓事業開門訴訟など、国政の根幹に触れる裁判については、担当裁判官に対し、様々な形で干渉・情報収集・人事配置による圧力が及んでいるとしても不思議ではありません。

近年では三人合議体においても、経験年数や年齢差、上下関係などの影響で自由闊達な議論が難しくなっていると言われます。黒い法服の裁判官3人が、裁判長を先頭に一列で廊下を移動する姿は、裁判官間の序列を象徴する異様な光景です。

私自身、大阪高裁での読売新聞販売店押し紙訴訟控訴審判決の際、代理人席に着席する前に裁判長が「控訴棄却」を告げ、陪席裁判官とともに退廷してしまった経験があります。その高圧的な態度に私は唖然としました。

また、西日本新聞長崎販売店押し紙訴訟判決(福岡高裁)では、前の2件の判決では型どおりの「本件控訴を棄却する」とだけ告げたのに対し、私どもの事件では「主文1」と言ってから棄却を告げるという、いたずらのようなやり方でした。私は一瞬勝訴かと思いましたが、すぐに肩透かしをくらった形で、不快感を覚えました。

◆裁判官人事と独立の限界

高裁裁判長クラスは65歳定年に近い年齢が多く、私より10歳ほど若い世代です。私の同期には最高裁長官や高裁長官になった者もいますが、結局はそうした裁判官を生み出してしまったのが私たちの世代でもあります。

現在はウェブ裁判が普及し、画面上では裁判官も代理人も当事者も同じ目線の高さで映し出されます。そろそろ、法廷においても裁判官席を弁護人席や傍聴席と同じ高さに設置する時代に移行すべきではないでしょうか。

憲法は裁判官の独立を保障していますが、下級裁判所裁判官は最高裁が指名した名簿に基づき内閣が任命し、任期は10年と定められています。したがって、裁判官志望者は任命や再任を意識し、無意識のうちにも最高裁の顔色を窺う傾向が生じます。

1971年には23期司法修習生のうち裁判官希望者7名が任官を拒否される事件が発生しました。理由説明を求めた坂口徳雄修習生は罷免され、さらに宮本康昭裁判官の再任拒否や、青法協加入裁判官への脱退工作によって、憲法擁護派裁判官は急速に減少しました。これは最高裁事務総局と司法研修所当局による「ブルーパージ」とされ、司法の独立を内部から踏みにじる暴挙でした。この時、司法の自律は実質的に崩壊したといえるでしょう。

私たち29期修習生はその6年後に司法研修を受けました。東大紛争を知る最後の世代でもありましたが、1971年のブルーパージの影響で、裁判官・検察官志望と弁護士志望が憲法三原則について腹を割って議論する空気は失われていました。

それでも、実務修習の1年間は同じ釜の飯を食う関係が築かれ、進路が分かれても同期の法曹として対等なつきあいが続きました。

ところが、その後、法曹養成制度は大きく変質しました。ロースクール設置、司法試験制度の変更、修習期間の短縮、給費制廃止、さらに弁護士事務所の法人化や宣伝自由化など、日本の風土にはなじまないアメリカ型の司法制度が導入されたのです。

これはアメリカの年次報告書に基づく司法制度改革要求を、日本が無条件に受け入れた結果でした。そして今では、それが誤りであったことを多くの人が認識するようになっていると思います。

次回の投稿では、アメリカの年次報告書に基づく司法制度改革が日本の司法界をどのように変質させたのか、その感想を述べたいと思います。

※本稿は黒薮哲哉氏主宰のHP『メディア黒書』(2025年8月23日)掲載の同名記事を本通信用に再編集したものです。

▼江上武幸(えがみ・たけゆき)
弁護士。福岡・佐賀押し紙弁護団。1951年福岡県生まれ。1973年静岡大学卒業後、1975年福岡県弁護士会に弁護士登録。福岡県弁護士会元副会長、綱紀委員会委員、八女市役所オンブズパーソン、大刀洗町政治倫理審査会委員、筑豊じんぱい訴訟弁護団初代事務局長等を歴任。著書に『新聞販売の闇と戦う 販売店の逆襲』(花伝社/共著)等。

▼黒薮哲哉(くろやぶ・てつや)
ジャーナリスト。著書に、『「押し紙」という新聞のタブー』(宝島新書)、『ルポ 最後の公害、電磁波に苦しむ人々 携帯基地局の放射線』(花伝社)、『名医の追放-滋賀医科大病院事件の記録』(緑風出版)、『禁煙ファシズム』(鹿砦社)他。
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《書評》甲斐弦著『GHQ検閲官』の読後感

江上武幸(弁護士)

阿蘇の北外輪山に、カルデラの中央に横たわる涅槃像の形をした噴煙をたなびかせる阿蘇五岳をながめることができる絶好の観光スポットがあります。外輪山最高峰の「大観峰」と呼ばれる峰です。小国町の温泉旅館に宿泊したときなど、天気がよければ大観峰まで足を延ばし雄大な阿蘇の景色をみて帰ったりします。

最近、熊本インター経由で久留米に帰るため大観峰から内牧温泉にくだる道を通ったことがあります。山の上の広々した草原地帯と異なり、道の両側には鬱蒼とした杉林が続いていました。おそらく、湯けむりで湿った空気が斜面をのぼり、時には雨を降らせるような地形が杉の成長に適しているのではないでしょうか。

ところで、昨年12月に関東地区新聞労連の役員会に招かれたことから、ネットで新聞の歴史を調べていたところ、偶然、甲斐弦熊本学園大学名誉教授の『GHQ検閲官』(経営科学出版)という本を見つけました。

甲斐弦『GHQ検閲官』(経営科学出版)

「元検閲官だった著者が米軍検閲の実態を生々しく描き出した敗戦秘史がここに復刻」・「敗戦で日本人は軍のくびきから解放され自由を与えられたと無邪気に信じ込んでいるが、戦争は終わったわけではなく、今なお続いているのである。」とのカバーに目をひかれ、さっそくアマゾンで購入しました。

◆著者の甲斐教授について

著者の甲斐教授は、1910(明治43)年に熊本県阿蘇郡内牧町(現阿蘇町内牧)に生まれ、旧制第五高等学校から東京帝国大学文学部英吉利文学科に入学、佐渡中学校教諭、その後、約7年間の蒙古政府官吏を経て、昭和20年6月18日に現地で応召、翌年の昭和21年5月13日に佐世保に上陸、15日午前8時49分熊本駅に着き郷里に復員されています。熊本駅の到着時刻まで記録されており先生の几帳面さが窺えます。ちなみに私の父は明治45年生まれなので、甲斐教授を父に置き換えることで、当時の先生の周りを囲む人たちの生活・行動・考え方・心情等をリアルに感じることができるような気がしています。

先生は、前もって故郷に引きあげていた奥さんと幼い二人の子供達が無事だったことを喜び、同時に、我が子のようにかわいがっていた亡兄の子(甥)が戦死したことを知ります。一人息子の戦死の公報を受け取った兄嫁の狂ったような悲しみを描いた文章は秀逸であり強く胸を打たれます。

「(戦死の公報がはいった)数日後の夜更け、異様な叫びに姪は目覚めた。離れに飛んでいくと、母(兄嫁)が半裸になって四つ這いとなり、畳を掻きむしって泣いていた。爪は血だらけであった。髪を振り乱し、これも血だらけとなった額を何度も何度も畳に打ち付け何で死んだ、何で死んだ、と獣のように吠え続けた。」

私が、冒頭で阿蘇の大観峰から内牧温泉に下る道の杉林のことにふれたのは、次の一説を見つけたからです。

「何とか収入の道を講ぜねばならぬ。ホテルがダメなら開墾をやるしかない。開墾の話は私の復員直後に持ち上がったもので、(引揚者互助会の)幹部が役場に日参して、町長や助役を説いて承諾させたものである。」

「開墾予定地は私の家からは目と鼻の距離にあった。北外輪山の一角、遠見ヶ鼻 -今は徳富蘇峰翁の命名で大観峰と呼び名が変わったが- その大観峰から流れ落ちる尾根の一つが、湯山と呼ぶ古い湯治場の手前でわずかにカーブする。その東南の斜面に予定地はある。尾根の頂きと山すそは杉の町有林となっているが、あとの斜面はみな篠竹に覆われている。そこを借り受けて切り開こうというのである。」

その描写は、私が大観峰から内牧温泉に降りてきた山道の情景そのものでした。戦地から身ぐるみ一つで故郷に引き上げてきた著者が、家族を養うために慣れない開墾の仕事に汗水にまみれて打ち込む姿が目に浮かんできます。

開墾を始めた6月の19日の日記には、「今日は19日。月こそを違え、結婚記念日。ともかくも家族4人、何とか生きていることのありがたさ。京浜地区の餓死者を思うと、ぜいたくは言えない。」と記してあります。

先生は、職を見つけるために熊本市に出向いたおり、朝日新聞の記事で博多の米軍第三民間検閲局(CCD)が外国語の出来る者を百名ほど翻訳係として募集しているのを知ります。さっそく熊本から博多に向かい採用試験を受験し翻訳係に採用されます。36歳の時です。本俸700円、手当200円、土・日の週休2日、外に月2回の公休。野菜や魚の公定価格での配給など、まずはAクラスの待遇であったといいます。

◆同胞を裏切る仕事に耐えがたい嫌悪感

先生が福岡の米軍第3民間検閲局(CCD)に勤務されたのは、昭和21年10月28日から同年12月27日までのわずか61日です。その時の自分のことを「アメリカの犬」と評しておられます。米軍の手先となり検閲要領に抵触する手紙を片っ端から翻訳し、危険人物と思われるものはブラックリストに載せ、あるいは逮捕し、場合によっては手紙そのものが没収されるという、同胞を裏切る仕事に耐えがたい嫌悪感を感じておられたことが伺えます。

「同胞の秘密を盗み見る。結果的にはアメリカの制覇を助ける。実に不愉快な仕事である。」

先生は、そのような忸怩たる思いを抱えながらも、外輪山の山麓でひたすら先生の帰りを待つ妻子のために、見ず知らずの日本人の手紙の翻訳作業を黙々と続けておられたことがわかります。

◆著作にふれて感銘を受けたふたつのこと

私は、先生のこの著作にふれて、特にふたつのことに感銘を受けました。ひとつは先生の家族に対する愛情の深さです。その愛は、なかんずく先生より先に旅立たれた長女の津賀子さんに最も多く深く注がれていたことを感じざるを得ません。

もう一つは人の評価です。先生は反共の闘志として鳴らした友人を訪ねたとき、その友人が共産党中央委員を独占取材したインタビュー記事を新聞に掲載したことを自慢げに語るのを見てがっかりします。友人の節操のなさに失望された先生は、節操によって人を次の3つに区分されています。

「一番偉いのは節を守って死んでいった人たち、次が私みたいな憂鬱組。どんじりが、彼のような自称文化人。たちまちに看板を塗り替えて、時世に媚び、朗らかに飛び回っている連中だ。」

先生は、福岡での仕事は2ヶ月で見切りをつけ、熊本にもどり大学での教育・研究、著作業にその後の人生を捧げられます。

◆何故、誰一人として自己の体験を公表しないで生きてきたのか

さて、私がメディア黒書に甲斐弦先生の『GHQ検閲官』を取り上げたのは、「占領軍が放送、新聞、雑誌、書籍、映画、演劇、紙芝居等々、あらゆるメディアの徹底した検閲を行ったこと。併せて郵便、電信、電話の検閲が行われ民間検閲局(CCD)がそれらを担当したこと。CCDは日本を3地区に分け、東京、大阪、福岡に検閲本部を設置し、通信工作のうち郵便は2億通、電報は1億3600通開封され、電話は80万回も盗聴されたこと。優に1万人以上を超える英語力を扱える日本人が検閲官として働いていたこと。」をこの本で知ったからです。

戦後50年を経て、ようやく甲斐教授が自らの検閲官としての経験を本書で刊行されたことから、戦後生まれの私も占領期の日本社会の実相に迫ることができました。生活の為とはいえ、占領軍の手先となり検閲作業に従事し、その後、日本各地でしかるべき地位を得て社会生活を送ったと思われる1万人を超える人達が、何故、誰一人として自己の体験を公表しないで生きてきたのか。

押し紙裁判に携わる中で、新聞が戦前戦中はもちろん戦後も政治権力の広報機関としての役割を担わされそれを果たしてきたこと、戦後日本にジャーナリスト精神なるものが存在するとしたら、なぜ、新聞やテレビがジャーナリズムとしての本来の役割、すなわち権力の監視機能を果たせていないのか、未解決の朝日新聞の阪神支局の記者殺害事件にみる気味の悪さや、押し紙問題から目をそらす新聞人の言動などに思いを致すと、甲斐先生が「一番偉いのは節を守って死んでいった人たち。」と言われている言葉の重さがズシリと伝わってきます。

幸い私たちは「失われた30年」あるいは「日本中枢の崩壊」といった日本社会の本質をずばりとつく言葉を持ちえています。新聞・テレビの崩壊と反比例するようにSNSのネット情報が拡散・拡大しています。それに刺激されて若い世代の人たちが、新聞・テレビの既存のマスメディアの再生に尽力すれば、きっと遠い将来ではあっても、いつかは平和で豊かな日本を築き上げることが出来ると信じて疑いません。

甲斐先生は、2000(平成12)年8月21日に、89歳の生涯を閉じられました。私の父も90歳を前に他界しています。私は先生のこの著作に出会ったことで私達世代の父親の時代がどのような時代だったのか肌感覚で知ることが出来ました。今、先生はこの世で一番愛されたであろう娘さんと、あの世で永遠の命を共にしておられるだろうと思います。ありがとうございます。

※本稿は黒薮哲哉氏主宰のHP『メディア黒書』(2025年5月5日)掲載の同名記事を本通信用に再編集したものです。

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弁護士。福岡・佐賀押し紙弁護団。1951年福岡県生まれ。1973年静岡大学卒業後、1975年福岡県弁護士会に弁護士登録。福岡県弁護士会元副会長、綱紀委員会委員、八女市役所オンブズパーソン、大刀洗町政治倫理審査会委員、筑豊じんぱい訴訟弁護団初代事務局長等を歴任。著書に『新聞販売の闇と戦う 販売店の逆襲』(花伝社/共著)等。

▼黒薮哲哉(くろやぶ・てつや)
ジャーナリスト。著書に、『「押し紙」という新聞のタブー』(宝島新書)、『ルポ 最後の公害、電磁波に苦しむ人々 携帯基地局の放射線』(花伝社)、『名医の追放-滋賀医科大病院事件の記録』(緑風出版)、『禁煙ファシズム』(鹿砦社)他。
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西日本新聞押し紙訴訟 控訴審判決を前にして

江上武幸(弁護士)

7月3日(木)午後1時25分の西日本新聞押し紙訴訟福岡高裁判決の言渡期日が迫ってきました。既報のとおり、福岡地裁判決は前年の4月1日に東京高裁・東京地裁・札幌地裁から転勤してきたいわゆる「東京組」と呼ばれる3人の裁判官達による判決でしたので、敗訴判決が出る可能性はある程度予期せざるを得ませんでした。

しかし、この裁判では、西日本新聞社が原告販売店に毎年4月と10月に前月より200部も多い部数を供給し続けていること、その目的は、原告の押し紙の仕入代金の赤字を補填するために折込広告部数算定の基礎となるABC部数を大きくするためであること、つまり、押し紙政策を続けるために西日本新聞社が主導して折込広告料の不正取得(詐欺行為)を行わせていたことが明らかでした。

また、押し紙を行っている新聞社は、西日本新聞社に限らず押し紙の責任を販売店に押し付けるために、販売店の実配数は知らないし知り得ないと主張します。しかしこの点についても、西日本新聞社は販売店の実配数を把握しており、毎月、実売部数を記載した部数表を作成し、外部に知れないように本社で厳重に管理している事実を認めました。

この裁判は販売店が勝訴する条件が充分に揃った裁判でしたので、敗訴判決を聞いた瞬間、東京組の裁判官3名を福岡に派遣した最高裁事務総局の、新聞社の押し紙敗訴判決は出させないという強い意志を感じました。

* 福岡地裁判決の問題点については、5月25日に投稿した「控訴準備書面(全文)」をご覧ください。

福岡高裁の裁判官達が九州モンロー主義が支配した時代にみられた「最高裁なにするものぞ」という気概に満ちた判決をくだしてくれるかどうか、皆様と共に期待しながら待ちたいと思います。

なお、近時、司法試験合格者の裁判官希望者が少なくなっており、若い裁判官の中途退官も増えていると聞いています。外部からはこれらの情報はなかなか知ることはできませんが、幸い、岡口基一元裁判官がフェイスブックで裁判の独立と裁判官の果たすべき役割について積極的に発信しておられますので、それらの様子を伺い知ることができています。

裁判所内部からも岡口元裁判官と同じ危機意識をもった人たちの動きが表面化してくれることを期待しています。

※本稿は黒薮哲哉氏主宰のHP『メディア黒書』(2025年6月16日)掲載の同名記事を本通信用に再編集したものです。

▼江上武幸(えがみ・たけゆき)
弁護士。福岡・佐賀押し紙弁護団。1951年福岡県生まれ。1973年静岡大学卒業後、1975年福岡県弁護士会に弁護士登録。福岡県弁護士会元副会長、綱紀委員会委員、八女市役所オンブズパーソン、大刀洗町政治倫理審査会委員、筑豊じんぱい訴訟弁護団初代事務局長等を歴任。著書に『新聞販売の闇と戦う 販売店の逆襲』(花伝社/共著)等。

▼黒薮哲哉(くろやぶ・てつや)
ジャーナリスト。著書に、『「押し紙」という新聞のタブー』(宝島新書)、『ルポ 最後の公害、電磁波に苦しむ人々 携帯基地局の放射線』(花伝社)、『名医の追放-滋賀医科大病院事件の記録』(緑風出版)、『禁煙ファシズム』(鹿砦社)他。
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モラル崩壊の元凶・押し紙〈1〉平成11年の新聞特殊指定「改正」の謎

江上武幸(福岡・佐賀押し紙弁護団 弁護士)

▼新聞倫理綱領(2000[平成12]年6月21日制定)
「編集、制作、広告、販売などすべての新聞人は、自らを厳しく律し、品格を重んじなければならない。」
・「新聞は、公共の利害を害することのないよう、十分配慮しなければならない。」
・「販売にあたっては節度と良識をもってひとびとと接すべきである。」

▼新聞販売綱領(2001[平成13]年6月20日制定)
「新聞販売に携わるすべての人々は、言論・表現の自由を守るために、それぞれの経営の独立に寄与する責任を負っている。販売活動においては、自らを厳しき律し、ルールを順守して節度と責任ある競争の中で、読者の信頼と理解を得るよう努める。」

日本の新聞は明治・大正・昭和と軍国主義日本の台頭と歩調を一にして発展してきました。戦前、1000社を超えた新聞社は、戦争に向けて国論を統一するために40数社に整理統合され、戦時中は大本営発表を垂れ流す軍の広報紙に成り下がりました。戦後は、多くの若者を戦地に送り出して無駄死にさせた責任をとることもなく、新聞経営者らは、一転して占領軍の手先となって、鬼畜米英の対象だったアメリカを美化する役割を引き受けました。

讀賣新聞の正力松太郎氏や朝日新聞の緒方竹虎氏らがCIAのスパイ、あるいは協力者となったことは戦後日本の歴史的事実です。戦前の戦意高揚の記事の氾濫の中、戦地に送られて亡くなっていった若者達や、銃後に家族を残したまま最前線で餓死状態で死んでいった壮年兵達、あるいは内地で空襲や原爆でなくなっていった人達、沖縄で断崖から飛び降りていった人達など、多くの戦争の犠牲者の方達の無念の思いはどこに行ったのでしょか。

ウクライナやイスラエルのガザでは今でも戦争が続いており、数え切れないほどの尊い命が失われています。せっかくこの世に生を受けてきた幼い子供たちも大勢殺されています。21世紀に生きる私達は、宇宙から地球を見ることができる神の目を持ちえた最初の人類です。地球が広大な漆黒の闇に浮かぶチリほどの存在にすぎないことを知っています。同時にこの地球を滅ぼすことが出来る大量の核兵器を製造し貯蔵していること、原子力発電所を多数稼働させていること、それらがいったん暴走を始めたら誰のもとめることが出来ないことを知っています。

ネット上で巨石文明の写真をみると、人類は滅亡と誕生を繰り返してきたとの説もあながち嘘とは思えません。祖父母の世代は日清・日露戦争、父母の世代は太平洋戦争を経験しています。私たちの世代だけが戦争のない平和な時代を過ごせていいのだろうかという思いを抱えてきました。人生は長くてせいぜい7~80年程度です。残された時の間に私達の世代も同じ体験することになっても不思議ではありません。

しかし、高齢の私はともかく、次世代の子供や孫達の時代に戦争を体験することにならないようにしなければなりません。戦争の準備が着々と進んでいるかのように見えてきており、人間の愚かさをしみじみと感じるようになりました。

戦後民主主義教育を受けた世代で、新聞・テレビ等のマスメディアに対しては漠然とした信頼感がありました。まさか嘘はつかないだろうと思ってきました。しかし、ひょんなことから押し紙問題に首を突っ込むようになり新聞業界の闇を覗いたことから、はたして新聞・テレビが果たしている役割とはなんだろうという疑問と不安を覚えるようになりました。戦前と同じ過ちを新聞・テレビのマスメディアが繰り返す心配はないか。せめて、日本は戦争をせず、他国の戦争にも巻き込まれない、平和な国であって欲しいものです。

アメリカ並みの軍産官界複合体のもとマスコミを動員して戦争熱を掻き立てたるようになれば、その行き着く先は第二次世界大戦以上に恐ろしい光景しか見えてきません。幸い、今のところネット上でも公然と戦争熱をあおる番組には出会っていませんが、鬱積した失われた30年に対する若者の怒りが爆発したとき、そのエネルギーがどこに向かうのか心配です。

◆「天網恢恢疎にして漏らさず」読売新聞の渡邉恒雄氏の死に想う

本論に戻ります。発行部数1000万部を豪語した読売新聞の渡邉恒雄氏(写真出典:ARABU News)が、昨年2024年12月19日に亡くなられました。98歳でした。読売新聞1000万部が虚構の部数であったことを、渡邉氏の存命中に社会に知らしめることが出来ました。押し紙裁判に立ち上がった元読売新聞販売店経営者の方達の勇気と力の賜物です。もし、この方達が押し紙訴訟に立ち上がらなければ、渡邊氏は世界一の新聞社の経営者という虚名をまとったままあの世に旅立たれたことと思います。「天網恢恢疎にして漏らさず」の老子のことわざを思い出します。

読売新聞の渡邉恒雄氏(写真出典:ARABU News)

押し紙裁判により、渡邉氏が読売1000万部の虚構の部数をバックにして、日本の権力中枢の一角にまで食い込んだ単なる野心家にすぎなかったことを知らせることができました。渡邊氏は、晩年は、頭の片隅でいつも押し紙裁判の行方を気にしながら暮らしておられたのではないでしょうか。

黒薮さんが指摘されるように、押し紙問題の中心にはいつも読売新聞の存在がありました。ウィキペディアは昭和30年の新聞特殊指定の制定のいきさつを次のように書いています。

「第二次世界大戦後、紙の統制令が撤廃されると、新聞の拡販競争が激化し景品による顧客獲得競争が異常なほどに加熱した。特に読売新聞は景品の取締まりに反対しつつ、大阪に進出するに際して景品に多額の予算を投じて顧客を他社から奪う作戦に出るなどしたため、独禁法違反で提訴されている。そうしたなかで業界内から規制を求める声が高まり、昭和28年に再販制度が、昭和30年には新聞特殊指定が定められた。」

戦後、読売新聞が朝日・毎日に追いつき追い越せをスローガンに、金に糸目をつけない猛烈な部数拡張に走ったのは有名です。務臺光雄氏は販売の鬼と呼ばれ、「読売と名が付けば白紙でも売ってみせる。」と口にした逸話が残されています。

中央紙の地方進出を迎え撃つ立場に立った地方紙は、高価な景品の提供や無代紙・サービス紙等の配布による不公正な取引を禁止するため、新聞業の特殊指定を国に求めました。その結果、昭和30年新聞特殊指定が定められ、押し紙が禁止されました。その後、景品表示法の制定に伴い景品関係の条項が同法に移管されたため、昭和39年に新聞特殊指定の改訂がおこなわれました。押し紙禁止規定については、第4項が第2項に移行しただけで、「新聞発行本社は販売業者に対し注文部数を超えて新聞を供給してはならない」との文言に変更はありませんでした。

昭和39年の新聞特殊指定の改定にあたり、公正取引委員会と日本新聞協会の新聞公正取引協議委員会は、昭和30年の押し紙禁止規程の「注文部数」の定義が明確でないとの意見を踏まえ、実施要綱で「注文部数」の定義を明確化することにしました。具体的には、「注文部数」は、「購読部数に月末予約紙や月初おどり紙と呼ばれる新聞と地区新聞公正取引協議会が定める予備紙を足した部数である。」と定義しました。日常業務では、通常、予約紙やおどり紙は2%内の予備紙で賄うことができますので、購読部数に2%程度の予備紙を加えた部数が「注文部数」になります。

この「注文部数」の明確化により押し紙の解消は一気にすすむと考えられましたが、押し紙の解決は新聞社の自主性に委ねられていますので、法令を整備したからといって直ちに押し紙が無くなるわけではありません。

熊本日々新聞と新潟日報社は、昭和40年代後半に予備紙を購読部数の2%以内に抑えることに成功し、押し紙問題を自主解決しております。

(注:両社以外にどれだけの新聞社が押し紙を自主解決したのかは資料がないのでわかりません。)

その後、押し紙問題の自主解決が一向にすすまないことに痺れを切らしたからと思われますが、新聞公正取引協議委員会は昭和60年にモデル細則を定め、全国11の地区協議会に対し、予備紙の上限を購読部数の2%とする規定を設けるよう指示しました。しかし、地区協議会の細則に予備紙2%の上限規制が設けられた後も、新聞社は様々な抜け道をくぐって押し紙を続けました。

1997(平成9)年に、公正取引委員会は石川県金沢市の北國新聞社に対し、押し紙排除勧告を行いました。昭和30年の新聞特殊指定制定以来、公正取引委員会が押し紙の排除勧告をするのは初めてのことです。北國新聞社は、部数拡大を目指してあらかじめ販売店毎に仕入部数を指示して注文させ、その部数を供給する方法で押し紙をしていました。

告発を受けて調査に乗り出した公正取引委員会は、他にも同じような方法で押し紙をしている新聞社があることを知り、新聞協会を通じて加盟各社に対し取引方法の再検討と改善を求めました。現在、新聞社の請求書には、「貴店が新聞部数を注文する際は、購読部数(有代)に予備紙等を加えたものを超えて注文しないでください。本社は、貴店の注文部数を超えて新聞を供給することは致しません。」との文言が判を押したように印字されています。これはその時から記載されるようになったものと考えられます。

平成9年の北國新聞社に対する押し紙排除勧告書には、公正取引委員会委員長に元東京高等検察庁検事長だった根来?周氏(左写真、出典:デーリ―スポーツ)の名前があります。根来氏は平成8年8月から平成14年7月までの7年間、公正取引委員会委員長に就任しており異例の長さです。

(注:根来氏は、平成25年11月8日、81歳で亡くなっておられます。)

読売新聞の渡邉恒雄氏は、1999(平成11)年6月から2003(平成15)年6月までの4年間、日本新聞協会の会長に就任しています。つまり、根来氏と渡辺氏とは、平成11年6月から平成14年7月までの3年間、片や公正取引委員会委員長、片や日本新聞協会の会長として、共に、押し紙問題を解決する責任ある立場にいたことがわかります。

(注:根来氏は公正取引員委員会委員長を退任後は、日本プロ野球コミッショナーに就任しています。)

平成9年の北國新聞社に対する押し紙排除勧告から、平成11年の新聞特殊指定の全部改正に至るまでの間、公正取引委員会および日本新聞協会では押し紙問題に関する不可解な出来事が続いています。

第1は、北國新聞社に対する平成9年の押し紙排除勧告書に記載された「注文部数」の定義です。

勧告書には、「新聞販売業者が実際に販売している部数に正常な商慣習に照らして適当と認められる予備紙等を加えた部数が『注文部数』である」と説明されています。しかし、この「注文部数」の定義は昭和30年新聞特殊指定の実施要綱に定められていた「注文部数」の定義と同じです。前述したように、公正取引委員会は、昭和30年新聞特殊指定の実施要綱に定めた「注文部数」の定義は明確性にかけるとの意見を受けて、昭和39年新聞特殊指定の実施要綱では、「購読部数に月末予約紙と月初おどり紙、および地区販売協議会が定める上限2%の予備紙(昭和60年新聞公正取引協議委員会モデル細則)を加えた部数」であると明記しておりました。それにもかかわらず、勧告書の「注文部数」には「実際の購読部数に正常な商慣習に照らして適当と認められる予備紙等を加えた部数」という昭和30年新聞特殊指定の実施要綱に定められた定義が記載されております。つまり公正取引委員会の勧告書にあるまじき誤記載がなされていたのです。

公正取引委員会事務総局には独禁法の専門家が多数在籍しており、委員長は元東京高検検事長の法律問題のエキスパートであるにも関わらず、何故、このような注文部数の定義の記載間違いをしたのか理解できない不可思議な出来事です。

思うに、根来氏は北國新聞社に対する押し紙排除勧告に、昭和39年新聞特殊指定の実施要綱に定められた押し紙禁止規定の「注文部数」の定義を記載するのをどうしても避けねばならない事情があったと考えるしかありません。

当時、公正取引委員会は北國新聞社の押し紙違反事件の調査の過程で、他の新聞社も同様な方法で押し紙をしていることを掴んでいました。そのため、昭和39年の押し紙禁止規定の「注文部数」違反を勧告書で指摘すれば、他の新聞社も同じ勧告をせざるを得ません。そのため、北國新聞社に対する勧告書には、あえて昭和30年新聞特殊指定の実施要綱に定めた「注文部数」の定義を記載したと考えられます。

このように考えると、後述の平成11年新聞特殊指定の全面改正の目的と意図を明確に理解することが可能となります。

◆押し紙禁止規定を骨抜きにするための法改正

第2は、平成10年に地区新聞公正取引協議会が予備紙を上限2%と定めた細則が全国一斉に廃止された問題です。

前項に記載したとおり、昭和39年新聞特殊指定の実施要綱第3条2項には、「予備紙等の部数」について、「地区公正取引協議会が定める予備紙等」との定義が示されています。新聞公正取引協議委員会は昭和60年に「地区新聞公正取引協議会運営細則(モデル)」を策定し、第14条1項③で「予備紙」とは「新聞の購読部数の2%を限度として、販売業者が保有するもの」との定義を示し全国11の地区新聞公正取引協議会に対し細則に同様の定義を定めるよう指示しています。

しかし、この地区新聞公正取引協議会の細則等に定められた予備紙上限2%の自主規定は、平成10年に全国一斉に撤廃されたとのことです。この自主ルールの撤廃は、いつ、誰が提案し、どの機関で決定され、どのようにして全国11の地区協議会に伝達されたのか、詳細は全く不明です。

第3は、平成11年の新聞特殊指定の押し紙禁止規定の全面改正です。公正取引委員会は、平成11年6月19日、昭和39年新聞特殊指定の全部改正(案)についての公聴会の開催を官報に公告しました。

改正(案)の第3項は、「発行業者が、販売業者に対し、正当かつ合理的な理由がないのに、次の各号のいずれかに該当する行為をすることにより、販売業者に不利益を与えること。

一 販売業者が注文した部数を超えて新聞を供給すること(販売業者からの減紙の申出に応じない方法による場合を含む。)。
二 販売業者に自己の指示する部数を注文させ、当該部数の新聞を供給すること。」

との規定をもうけました。

従前の押し紙禁止規定より行数も文言も多くなっており、一見より厳しい内容に変更されたかのように見えますが、その実、この改正は押し紙禁止規定を骨抜きにするのが目的の改正であったことが疑われます。

改正案の最大の特徴は、従前の「注文部数を超えて」の文言を「注文した部数を超えて」に変更していることです。従前の「注文部数」は、昭和39年新聞特殊指定実施要綱と昭和60年のモデル細則に準拠した地区新聞公正取協議会の細則に、「購読部数に予約紙、おどり紙および上限2%の予備紙を足した部数」と定義されています。

しかし、改正案第3項で「注文した部数を超えて」との文言に変更された結果、文理解釈によれば、販売店が現に「注文した部数」を超える部数を新聞社が供給しなければ「押し紙」にはならないとの解釈が可能になりました。

(注:法文の文言通りに解釈する方法を「文理解釈」といいます。これに対し、文言通りに解釈するのでは立法の趣旨・目的が達成できない場合、その趣旨・目的に沿った解釈をする方法を「論理解釈」といいます。)

平成11年新聞特殊指定の制定以降、新聞社は文理解釈に基づき、「わが社は販売店が注文した部数を一部たりともオーバーする部数は供給していない。よって、わが社には1部たりとも押し紙は存在しない。」と主張するようになりました。裁判所も「注文した部数を超えて」の文言について、文字通り「販売店が新聞社に『注文した部数』を超えて」と解釈せざるを得ないという見解を示すようになりました。

改正当時の公正取引委員会事務総局経済取引局取引部取引企画課に、山木康孝という方がおられました。山木氏は、公聴会において公正取引委員会事務総局を代表して改正案の説明をしており、国会に政府委員とし出席されるなど、独禁法新聞特殊指定の法解釈の第一人者です。山木氏は、押し紙禁止規定の改正の目的について、北國新聞社の押し紙事件に見られた、「新聞社が販売店の注文部数自体を増やすようにさせた上で、その指示した部数を注文させる行為」も明確に禁止の対象であることがわかるようにするためであると説明しておられます。

しかし、「注文部数」を「注文した部数」と何故文言の変更を行ったのかについては何の説明も解説もしておられません。きわめて不思議なことです。

当時、公正取委員会は新聞の再販制度を無くすために、新聞特殊指定自体を取り消す方向を考えていたようです。これからは私の推測になりますが、再販制度を無くせば販売価格の自由競争が始まり、そうなれば販売店は無駄な新聞の仕入が出来なくなるのではないか、新聞社は押し紙ができなくなるのでないかと考えたのではないかと思います。

しかし、新聞社は政治力を使って再販制度の廃止には猛烈に反対しました。再販制度を無くせば同じ系列の新聞販売店同士の価格競争が始まり、販売区域ごとの1社1販売店の専売制度が崩壊し、人里離れた山間僻地や離島などの新聞配達が出来なくなるというのが表向きの理由です。しかし、郵便による販売制度もありますので、本当の反対の理由は押し紙が出来なくなるからではないかと推測しています。

押し紙が可能なのは専売店制度があるからで、専売店がなくなり全部の販売店が合売店になれば、新聞社は押し紙が出来なくなります。合売店は特定の新聞の拡張に走る必要はなく、どの新聞を購読するかは住人の選択に任せることが出来ます。その結果、配達されない余分な新聞を仕入れる必要もありません。新聞社は購読部数をごまかすことが出来なくなり、独禁法が理想とする新聞販売の自由かつ公正な競争が確保できるようになります。

結果的には、新聞社側の猛烈な反対により、学校教育教材用の新聞の割引を認めただけで、再販制度の廃止には至りませんでした。

◆数々の疑問

以上のことから、平成11年の新聞特殊指定の改正は、昭和39年新聞特殊指定の全面改正を謳いながら、実際は押し紙禁止規定の骨抜きに成功したように思えます。3項1号本文の「注文した部数」への文言変更は、先に説明したとおりです。

1号本文弧書の「販売店の減紙申出を拒否する行為(減紙拒否行為)」について、新聞社は押し紙裁判になると、いつ、どこで、誰に対し、いかなる方法で、何部の部数の減紙を申し出たかを明らかにするように求めてきます。通常、販売店は担当員が訪店したときに、新聞が余って経営を圧迫している状況を説明し、送り部数を減らしてくれるよう頼むに留まります。下手に強く主張すると強制改廃もあり得るからです。担当は社に持ち帰って上司と相談してみますとか、補助金をつけるようにしますとかいって、結局、減紙の申出をあいまいにしたまま放置することが多いようです。裁判所も、そのようなやりとりがあったとしても、その程度では「減紙の申出がなされた」とは評価してくれません。販売店が新聞仕入れ代金を全額支払っておれば減紙の申出は撤回したものとみなすといった判断まで示すようになっています。

販売店が弁護士に依頼して、複数回にわたり弁護士名の内容証明郵便で減紙の申出をしたケースでさえ、裁判所は仕入れ代金が全額払われていることを理由に減紙申出拒否は認めませんでした。

(注:これは裁判所の問題に関係してきますので、次の機会にふれることにします。)

次に、3項2号本文の「注文部数指示行為」ですが、北國新聞事件以来、新聞社が販売店に注文部数を指示する場合、証拠が残らないように電話など口頭で指示するようにしています。

昭和30年の新聞特殊指定にしろ、昭和39年の新聞特殊指定にしろ、それらの特殊指定を円滑に実施するための定義等を明らかにする目的で実施要綱が定められています。しかし、平成11年の新聞特殊指定に限っては、1号本文の「注文した部数」の定義、あるいは1号本文括弧書の「減紙の申し出」の定義、2号の「注文部数の指示」の定義等を明らかにする実施要綱は知る限り定められていません。

私共は、あらたな実施要綱が制定されていないことこそが、改正後の「注文した部数」と改正前の「注文部数」とが同じ意味であることの証明であると主張しています。

昭和39年新聞特殊指定の実施要綱と昭和60年の新聞公正取引協議委員会のモデル細則によって、従前は「注文部数」の定義が具体的かつ客観的に定められていました。それなのに、何故、平成11年新聞特殊指定で押し紙禁止規定の改正が必要だったのか理解できません。黒薮さんも、平成10年に予備紙上限2%の自主ルールが何故撤廃されたのか、従前の「注文部数」が「注文した部数」に変更されたのは何故かといった数々の疑問を呈しておられます。

「注文部数」を「注文した部数」と変更することで、新聞者は販売店が「注文した部数」であるとの体裁さえ整えておけば、仮に購読部数2000部の販売店が、外観上、新聞社に対し3000部あるいは4000部を注文しても、その部数を超えて新聞を供給しなければ押し紙にはならないということになります。そのような解釈が、本来、押し紙禁止規定の趣旨・目的に反する間違った解釈であることは明らかです。

北國新聞社は朝刊については平成4年5月頃から、夕刊については平成7年1月ころから規範的意義を有する「注文部数」(注:購読部数に2%の予備紙を加えた部数)を著しく上回る部数を販売店の目標部数に設定し、その部数を注文させて供給する方法で押し紙を行っていました。思うに、公正取引委員会は、北國新聞社に押し紙の排除勧告が出す際、平成39年告示の押し紙禁止規定の定義に基づく判断をくだせば、同じ問題を抱えている他の新聞社(注:特に中央紙)も調査のうえ勧告処分に付さざるを得なくなります。従前の押し紙禁止規程を改正して骨抜きにする以外、他の新聞社のかかえる押し紙問題を不問に付することは出来ないと考えたに違いありません。

平成9年の北國新聞社に対する勧告から、平成11年の押し紙禁止規定の全面改正に至るまで、公正取引委員会は理解しがたい不思議な行動を次々にとりました。

◆公正取引委員会の理解しがたい不思議な行動

繰り返しになりますが、平成9年の北國新聞社に対する押し紙排除勧告に記載された「注文部数」の定義の問題ですが、昭和39年新聞特殊指定の実施要綱に定められてた「注文部数」の定義ではなく、昭和30年新聞特殊指定の実施要綱に定められた「注文部数」の定義を記載しています。

平成10年には、地区公正取引協議会の予備紙上限2%の自主ルールの撤廃も認めます。公正取引委員会は全国の新聞社と販売店の押し紙を独自に調査・立件するだけの人的・予算的裏付けを持ちませんので、新聞業界を押し紙問題の自主的解決から解放する結果にしかなりませんでした。

平成11年には、押し紙禁止規定の全部改正がなされ、それまでの「注文部数」が「注文した部数」に変更されたため、新聞社は購読部数2000部の販売店に3000部あるいは4000部を供給しても押し紙の責任を問われないようになりました。

その当時の公正取引委員長は根来泰周氏であり、日本新聞協会の会長は渡邉恒雄氏です。公正取引委員長の任命権者は総理大臣であり、渡邉恒雄氏が中曽根内閣以降、時の総理大臣と極めて親密な関係をつづけてきたことは本人が認めておられるとおりです。

根来氏は公正取引委員長を退任後は、日本プロ野球機構のコミッショナーを4年間にわたり勤めておられます。渡邉恒雄氏が「球界のドン」と呼ばれていたことも周知の事実です。

(注:私はこの二人が昭和39年新聞特殊指定の押し紙禁止規定を骨抜きにするために平成11年新聞特殊指定の押し紙禁止規定の改正を行ったのではないかとみています。公正取引委員会は新聞特殊指定の円滑な実施のためにそれまで、昭和30年新聞特殊指定実施要綱や昭和39年新聞特殊指定実施要綱を定めています。しかし、知る限り、何故か平成11年新聞特殊指定実施要綱は定められていません。そのことが、この二人が新聞社の押し紙禁止規定を骨抜きにすることを画策した何よりの証拠ではないかと考えています。)

平成11年以降、公正取引委員会が自ら積極的に新聞社の押し紙問題を調査したとの話は聞いたことがありません。2016(平成28)年2月の杉本和幸公正取引委員長の日本記者クラブでの記者会見の席上、朝日新聞の記者が自社の押し紙問題を例にあげて公正取引委員会の姿勢をただした時も、公正取引委員長は新聞社に対し注意するだけにとどまりました。

このように、公正取引委員会に押し紙問題の解決を期待することが出来なくなってきている以上、最後に頼るのは裁判所だけということになります。

私どもは現在、西日本新聞社と毎日新聞社を相手方として3件の押し紙裁判を抱えています。最近、販売店の敗訴判決が続いていますが、裁判所が押し紙問題の解決のために、今後、前向きに動き出す姿勢を見せてくれるかどうか今しばらく様子を見守っていこうと思っています。

皆様方には引き続き、私どもの押し紙裁判に対するご支援とご協力をお願いする次第です。

※本稿は黒薮哲哉氏主宰のHP『メディア黒書』(2025年4月16日)掲載の同名記事を本通信用に再編集したものです。

江上武幸(えがみ・たけゆき)
弁護士。福岡・佐賀押し紙弁護団。1951年福岡県生まれ。1973年静岡大学卒業後、1975年福岡県弁護士会に弁護士登録。福岡県弁護士会元副会長、綱紀委員会委員、八女市役所オンブズパーソン、大刀洗町政治倫理審査会委員、筑豊じんぱい訴訟弁護団初代事務局長等を歴任。著書に『新聞販売の闇と戦う 販売店の逆襲』(花伝社/共著)等。

黒薮哲哉(くろやぶ・てつや)
ジャーナリスト。著書に、『「押し紙」という新聞のタブー』(宝島新書)、『ルポ 最後の公害、電磁波に苦しむ人々 携帯基地局の放射線』(花伝社)、『名医の追放-滋賀医科大病院事件の記録』(緑風出版)、『禁煙ファシズム』(鹿砦社)他。
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西日本新聞押し紙裁判 控訴のお知らせ──モラル崩壊の元凶「押し紙」 江上武幸(弁護士)

2024年(令和6年)12月24日の西日本新聞押し紙訴訟の福岡地裁敗訴判決について、同月27日に福岡高裁に控訴したことをご報告します。本稿では、判決を一読した私の個人的感想を述べさせて頂きます。

なお、「弁護士ドットコム・押し紙」で検索して戴ければ、判決の内容が簡潔且つ的確に紹介されております

*弁護士ドットコムの読者の方の投稿に弁護士費用を心配されるむきがありますが、法テラスの弁護士費用立替制度なども用意されていますので、地元弁護士会等の無料法律相談窓口などを気軽に利用されることをお勧めします。

*別の合議体に係属中の西日本新聞押し紙訴訟(原告は佐賀県の販売店)は、証拠調べを残すだけになっております。

◆新聞社は、社会の木鐸(注:世の中を指導し、正すひと。多くの場合は、新聞記者を指している。)としての役割を果たすことを使命としており、民主主義社会にとってなくてはならない存在です。新聞社はそのような役割と期待を担っていますので、押し紙なるものはそもそもあってはならないものです。

西日本新聞社(以下「被告」と言います。)は、明治10年3月、西南の役で騒然とする九州の一角、現在の福岡市中央区天神に誕生した「筑紫新聞」を源流とする九州を代表するブロック紙であります。読売新聞が九州に進出してきたときは、これを真正面から迎え撃った歴史と伝統を有する創刊150年を迎えんとする新聞社です。しかし、昭和40年代に全国に先駆けて押し紙を解決した隣県の熊本日々新聞社の経営姿勢と比べると、押し紙をなくそうとする姿勢が見られませんので、なんとも残念です。

*被告の押し紙政策の問題点は、昨年10月15日の「西日本新聞押し紙訴訟判決期日のご報告」と12月26日の「西日本新聞福岡地裁敗訴判決のお知らせ」で紹介しております。

◆第1の問題は、被告が販売店からの注文は書面ではなく電話で受け付けていると主張している点です。

被告は、販売店に部数注文表をFAX送信するよう指示していますが、そこに記載された部数は参考にすぎず、正式な注文は電話で受け付けていると主張しています。

被告がそのような主張をするのは、部数注文表に記載された部数と実際の供給部数が一致していないからです。部数注文表に記載された部数が正式な注文部数であれば、実際に供給している部数と一致していない理由を説明する必要が出てきます。

被告は平成11年告示の押し紙禁止規定の「注文した部数」は文字通り販売店が注文した部数を意味するとの解釈をとっていますので、実際に供給した部数が、部数注文表記載の注文部数を超えれば、直ちに、独禁法違反の押し紙が成立します。

そこで、被告は部数注文表記載の部数は参考に過ぎず、電話による注文部数が正式な注文部数であると主張せざるを得なくなっているのです。

本件原告をはじめ被告の販売店は、注文部数を自由に決める権利は認められていないため、被告から指示された部数を仕入れざるを得ない弱い立場におかれています。

今回の押し紙裁判の提訴にあたり、佐賀県の販売店の店主が電話の会話を録音していることがわかり、録音データーを再生したところ、電話で部数を注文していないことを証明することが可能との結論に至りました。私どもは、本件裁判でも、佐賀県販売店の店主の録音データーとその反訳文を証拠として提出しました。ところが、被告は私どもが思いもつかない反論をしてきました。録音の最後の方に担当の声は聞こえないものの販売店主が「ハイ、ハイ」と答えている箇所があります。被告は、この箇所で担当が販売店主に対し、「注文部数は前月と同じでいいですか」という質問をしており、それに対し販売店主が「ハイ」と答えていると主張したのです。

裁判官は電話の向こうがわの担当の声が聞こえていないのに、「注文部数は前月と同じでいいですか」といった会話がなされているとの被告の主張をそのまま認めました。あらかじめ、結論ありきの判決だったことがわかります。

◆第2の問題は、「4・10増減」の問題です。本件では、4月と10月に普段より200部も多い新聞が供給されています。

被告は、原告が4月と10月に200部多い部数を注文したのは折込広告料と補助金を得るのが目的であるとして、被告には何の責任もないと主張しました。被告が原告に対し、4月と10月に普段の月より200部多い部数を注文させているのは、押し紙の仕入代金の赤字を折込広告収入で補填させるのが目的です。

郡部の販売店では、4月と10月の部数がその後半年間の折込広告部数決定の基準とされています。そのため、被告は子会社である折込広告会社が、原告販売店の4月と10月の部数について普段の月より200部多い部数を折込広告主に公表出来るようにしているのです。

この折込広告料詐欺のスキームは被告が独自に考えだしたものではなく、新聞業界全体で考案したスキームだと考えられます。

この問題については、黒薮さんが2021年7月28日の「元店主が西日本新聞社を『押し紙』で提訴、3050万円の損害賠償、はじめて『4・10増減』問題が法廷へ」という記事で詳しく紹介ておられます。是非、御一読ください。

押し紙と広告料の詐欺は、手段と目的の関係にあります。私ども押し紙裁判を担当している弁護士は、広告料の詐欺の主犯は新聞社であるとかねてより公言してきました。ネット社会が普及したおかげで、押し紙問題はもはや世界的にも知られるようになっていますので、新聞社が裁判でいくら責任を販売店に押し付けようとしても、社会的にはますます信用を失うだけです。

◆私は以前、「押し紙問題で本当に恐ろしいのは、新聞社が押し紙の存在を隠蔽して責任逃れすることより、裁判所が新聞社の味方をして販売店の権利救済に背を背けていることである。」という趣旨の意見を述べたことがあります。今でも、その考えに変わりはありません。

本件判決を言い渡した3人の裁判官は、2024年(令和4年)4月1日付で、裁判長は東京高裁から、右陪席は東京地裁から、左陪席は札幌地裁から転勤してきた裁判官です。高裁管轄をこえる人事異動ですので、この人事が最高裁事務総局の差配によることは明らかです。

以前の裁判官は、和解の可能性を打診したり、双方の主張を詳細に整理して検討を求めるなど、この押し紙裁判に熱心に取り組む姿勢を示しておられました。そのような裁判官が本件裁判の担当から離れ、遠方から新しい裁判官3人が転勤してきましたので、正直やられたと思いました。

というのも、これまで、販売店の勝訴が間違いないと思われていた裁判で、判決直前で裁判官が交代して敗訴判決が言い渡された例を見聞きしていたからです。

ご存じの通り、最高裁事務総局は司法行政の一環と称して日常的に下級裁判所の動向を調査・把握しています。その中でも、国政や外交の根幹にかかわる問題については一段と目を光らせています。

憲法と日米安保条約にかかわる問題、米軍基地と軍人・軍属にかかわる問題、原子力発電所や大規模公共工事にかかわる問題等については、最高裁は裁判官会同や合同研修会を招集し、審理の進め方や判断基準の統一をはかっているのではないかと言われています。

私は、最近の押し紙訴訟は販売店敗訴の判決が相次いでいることから、押し紙禁止規定の解釈や判断の枠組みについて、最高裁事務総局の意向があらかじめ担当裁判官に示されているのではないかという疑いをもっています。

黒薮さんは、令和6年12月31日の「1999年の新聞特殊指定の改定、『押し紙』容認への道を開く『策略』」と題する記事で、平成11年に押し紙禁止規定の改定で、それまでの「注文部数」という文言が「注文した部数」に変更された件について、その背後に、当時の公正取引委員長根来泰周氏(元東京高検検事長・後に日本プロ野球コミッショナー)と日本新聞協会長の読売新聞渡邉恒雄氏の存在があったのではないかと推測しておられます。私も同感です。

この文言の変更に隠された意図・目的が、渡邊恒雄氏側から何らかの経路を経て最高裁に伝えられたのではないかとの疑念を抱いています。といいますのも、渡邊恒雄氏が読売新聞1000万部の力(注:実際は張り子の虎にすぎないことは、これまで散々述べてきたとおりです。)をバックにして、政界中枢に大きな影響を与えてきたことは本人自身も認めています。

最高裁判所裁判官の指名権を有する内閣と渡邊恒雄氏の関係、読売新聞の代理人弁護士とTMI総合法律事務所の関係、TMI総合法律事務所と最高裁判事の関係など、疑えばきりがありません。

4・10増減の問題について、判決は被告主張のとおり、原告が折込み広告収入を得るために行ったもので、被告には責任はないとの判断を示しました。私どもは、押し紙は新聞社の広告主に対する詐欺であると批判してきましたが、今回の判決はすべての責任を販売店に押し付け被告の責任を不問にしました。

刑事問題と民事問題は違うからという言い訳をするのでしょが、それは法律関係者だけに通用する詭弁であって一般社会では通用しません。

◆東京地裁・最高裁判所に勤務したことのある元エリート裁判官の瀬木比呂志氏は、裁判所内部や裁判官のかかえる問題について多数の本を出版されており、外部から伺いしれない貴重な情報を社会に紹介して頂いています。2017年に新潮社から発行された『裁判所の正体-法服を着た役人たち-』の帯には、「忖度と統制で判決は下る!」・「裁判所には『正義』も『良心』もなかった!」との文字が踊っています。今回の敗訴判決を一読して、まったく瀬木裁判官のおっしゃる通りだと思いました。

最近体験した読売新聞押し紙裁判の控訴審判決の言渡し期日の出来事を紹介しておきます。判決を聞くために法廷に出向いた私は、前の事件の判決言い渡しが終わるのを傍聴席に座って待っていました。言い渡しが終わりましたので、おおもむろに傍聴席から立ち上がり、原告代理人席に移動していたところ、代理人席に着く前に、裁判長が控訴棄却の判決主文を読み上げさっさと後ろの扉から法廷を出ていきました。

私は唖然として言葉も出ませんでした。社会常識に反する裁判官にあるまじき行動と言わざるを得ません。そこまでして新聞販売店側に嫌がらせをしようとする裁判官の子供じみた行動は、まさに瀬木裁判官のいう「法服を着た役人」そのままでした。

昔話になって恐縮ですが、以前は書記官より裁判官の方がふさわしいと思わせる方たちが、裁判所にはたくさんおられたように思います。しかし、最近は、裁判所全体の雰囲気がなんとなく暗い感じで、昔の自由闊達な空気感で仕事に励んでおられる書記官や事務官の姿が見られなくなったような気がします。

官僚の縦社会とはむごいものです。若い時代の資格試験の合否だけで人生が決まる世界で生きていかざるを得ない優秀な方たちが、人間性のかけらもないような上司の下で働かざるを得ないことで受けるストレスは、外部からは想像もつかない大きいものがあるのではないかと思います。(注:弁護士の世界も同じかもしれませんが……)

◆今回の判決を言渡した合議体の裁判長は、司法研修所の元民事裁判教官です。右陪席は元最高裁の行政・民事局付だった裁判官です。いずれもエリートコースを歩んできた裁判官で、裁判をしない裁判官あるいは判決を書かない裁判官ともいわれる裁判官です。

私どもは、西日本新聞社を相手方とする今回の押し紙裁判は、勝訴の見込みが十分あると考えて提訴しております。今回の判決を言い渡した裁判官の人事異動は最高裁事務局の差配であることは冒頭で述べた通りですので、予想された敗訴判決だったとも言えます。

裁判長と右陪席の経歴をみると、最高裁事務総局は押し紙訴訟では新聞社を絶対負けさせないとの強い決意でいることが伺えます。

しかし、裁判所の内部には、日本の裁判所は今のままではいけない、何とかしなければならないと考える人達が大勢おられると思います。最高裁なにするものぞという気概に満ちた九州モンロー主義と呼ばれた時代を蘇えらせる力が、福岡地裁や福岡高裁に残っていることを期待します。

古くは福島重雄裁判官・宮本康昭裁判官、最近では、瀬木比呂志裁判官・樋口英明裁判官・岡口基一裁判官(注:いずれも元裁判官)らが、裁判所改革の必要性を様々な方法で訴えておられます。現役の裁判官・書記官・事務官の中にも、憲法に基づき法と良心にのみ従って判決が書けるような裁判所であって欲しいと願っておられる方が多数おられると思います。

*読売新聞の渡邊恒雄氏は、昨年12月19日に98歳の生涯を閉じられました。渡邊氏の存命中に、読売新聞1000万部が虚構の部数であったことを社会に知らせる役割の一端を担うことは出来たと思っています。

*元毎日新聞社の取締役河内孝さんの「新聞社-破綻したビジネスモデル-」(新潮新書)や、黒薮さんの最新本『新聞と公権力の暗部-押し紙問題とメディアコントロール-』(鹿砦社)などの著作を裁判の資料として使わせていただいています。ありがとうございます。

*名古屋大学の林秀弥先生と鹿児島大学の宮下正昭先生には、貴重な意見書を作成して頂きありがとうございました。今後とも、先生方の研究成果を裁判官に伝えるよう努力を続けたいと思います。

私は押し紙問題と出会い、日本社会の成り立ちや現状および将来について少しは考えるようになりました。田舎で生活していてもネット社会の広がりによって、新聞・テレビ・週刊誌・本によってしか知りえなかった世界よりもっと広くて奥深い世界があることを知りました。ありがたいことであり、また、怖いことでもあります。情報に溺れるという言葉がありますが、今後、情報の選択がますます大事になってくると思います。

最後に、本件については控訴理由書が完成しましたら続報をお届けする予定です。今後ともご支援のほどをよろしくお願いします。

2025年(令和7年)1月15日
福岡・佐賀押し紙弁護団 弁護士 江上武幸(文責)

※本稿は黒薮哲哉氏主宰のHP『メディア黒書』(2025年1月18日)掲載の同名記事を本通信用に再編集したものです。

▼江上武幸(えがみ・たけゆき)
弁護士。福岡・佐賀押し紙弁護団。1951年福岡県生まれ。1973年静岡大学卒業後、1975年福岡県弁護士会に弁護士登録。福岡県弁護士会元副会長、綱紀委員会委員、八女市役所オンブズパーソン、大刀洗町政治倫理審査会委員、筑豊じんぱい訴訟弁護団初代事務局長等を歴任。著書に『新聞販売の闇と戦う 販売店の逆襲』(花伝社/共著)等。

▼黒薮哲哉(くろやぶ・てつや)
ジャーナリスト。著書に、『「押し紙」という新聞のタブー』(宝島新書)、『ルポ 最後の公害、電磁波に苦しむ人々 携帯基地局の放射線』(花伝社)、『名医の追放-滋賀医科大病院事件の記録』(緑風出版)、『禁煙ファシズム』(鹿砦社)他。
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西日本新聞「押し紙」訴訟判決とオスプレイ搭乗記事の掲載について 江上武幸(弁護士)

◆西日本新聞1面トップ記事『国防の最前線』への強い違和感

11月28日(木)付西日本新聞の朝刊1面のトップに、「『国防の最前線』実感 屋久島沖墜落1年、オスプレイ搭乗ルポ」と題する記事が掲載されていました。

オスプレイは、ご承知のとおりアメリカでは「未亡人製造機」と呼ばれるほど墜落死亡事故の多い軍用機で、開発段階から昨年11月の鹿児島県屋久島沖墜落事故までに計63人が死亡しています。生産ラインは2026年に終了予定で、世界で唯一の輸入国である日本は、陸上自衛隊が17機を総額3600億円で購入し、2025年6月に佐賀空港に配備する予定です。

現在、空港の整備工事が着々と進行しています。その額は社会保障費の削減分3900億円に匹敵しており、社会保障費を削り、そのお金でアメリカの欠陥機を購入するという、子供でもわかるような愚策が実行されています。

11月28日(木)付西日本新聞の朝刊1面トップ「『国防の最前線』実感 屋久島沖墜落1年、オスプレイ搭乗ルポ」と題する記事

佐賀県選出の立憲民主党の原口一博衆議院議員は、もともと諫早湾干拓の堤防の開門決定に従わない国に強い不信感を感じておられ、開門しない代わりに漁業者に交付予定の100億円の基金についても、オスプレイ購入代金一機分にも満たないとして、憤りをあらわにしておられます。

原口代議士は佐賀県出身であり、鍋島藩の武士道「葉隠れの精神」に基づき、そもそも国が欠陥機であるオスプレイを1機200億円で購入するだけでなく、墜落の危険がある欠陥機に自衛官を搭乗させることに怒りを感じておられます。平の自衛官ではなく、幹部の自衛官が搭乗しろという至極まっとうな葉隠れ精神に基づく主張です。

私は、来週の12月24日午後1時15分に言い渡される西日本新聞押し紙訴訟の判決を前に、西日本新聞が1面トップに何故冒頭のような記事を掲載したのか、強い違和感を感じています。

◆西日本新聞社は、なぜこのような記事を1面トップに掲載することにしたのか?

縦の見出しには「『米中の対立の影』にじむ」と書いてあります。長田健吾記者が福岡空港でオスプレイに乗り込み、九州西方の洋上を航行する原子力空母ジョージ・ワシントンに着艦して、エマニュエル駐日大使の記者会見を受けるという筋書きです。

九州周辺の中国との緊張状態をことさら強調する内容の記事になっています。

西日本新聞社は、なぜ記者を命の危険にさらしてまでオスプレイに搭乗させ、このような記事を1面トップに掲載することにしたのか?

佐賀県を始め九州・山口各県の住民の大多数は、戦争になったら真っ先に攻撃の的になることもあって、オスプレイの配備には反対しています。それにもかかわらず、九州・山口を代表するブロック紙の西日本新聞社が、平和の訴えと真反対に軍事的緊張をあおる記事を掲載したのか、全く理解が出来ません。

平和交渉こそ強く訴えるべき新聞が、戦前の従軍記者のように、現地の軍事的緊張感を読者に訴える記事を書いているようにしか見えません。

来週の西日本新聞の押し紙訴訟の判決の結論と、この記事が何らか関連しているのではないかとの懸念を覚えましたので、急遽、投稿することにした次第です。

※本稿は黒薮哲哉氏主宰のHP『メディア黒書』(2024年12月22日)掲載の同名記事を本通信用に再編集したものです。

▼江上武幸(えがみ・たけゆき)
弁護士。福岡・佐賀押し紙弁護団。1951年福岡県生まれ。1973年静岡大学卒業後、1975年福岡県弁護士会に弁護士登録。福岡県弁護士会元副会長、綱紀委員会委員、八女市役所オンブズパーソン、大刀洗町政治倫理審査会委員、筑豊じんぱい訴訟弁護団初代事務局長等を歴任。著書に『新聞販売の闇と戦う 販売店の逆襲』(花伝社/共著)等。

西日本新聞福岡地裁「押し紙」裁判敗訴判決のお知らせ ── モラル崩壊の元凶「押し紙」 江上武幸(弁護士)

◆裁判官全員が同時に交代した裁判──最高裁事務総局による意図的な裁判官人事の問題

12月24日午後1時15分から、福岡地裁本庁903号法廷で、西日本新聞販売店(長崎県)の押し紙裁判の判決が言い渡されました。傍聴席には西日本新聞社関係者が10名程度ばらばらに座っていましたが、相手方弁護士席には誰もいないので、一瞬、原告のSさんと「ひょっとしたら」という思いに囚われましたが、予期した通り敗訴判決でした。判決文は入手できていませんので、とりあえず結果を報告します。

合議体の三名の裁判官は、昨年4月1日にそれぞれ東京高裁・東京地裁・札幌地裁から福岡地裁に転勤してきた裁判官で、裁判長は司法研修所教官、右陪席は最高裁の局付の経歴の持ち主であり、いわゆるエリートコースを歩んできた裁判官達です。

合議体の裁判官全員が同時に交代する裁判を経験したのは弁護士生活48年で初めてであり、他の弁護士・弁護団が担当している各地の押し紙裁判でも、奇妙な裁判官人事が行われていることは承知していましたので、敗訴判決の危険性は常に感じながら訴訟を進行してきました。

最高裁事務総局による意図的な裁判官人事の問題については、福島重雄裁判官、宮本康昭裁判官、最近では瀬木比呂志裁判官、樋口英明裁判官、岡口基一裁判官ら(注・いずれも元裁判官)、多数の裁判官が著作を出版されており、最高裁事務総局内部の様々な動きを知ることができます。大変、ありがたいことです。

私は、司法研修所29期(昭和52年〔1977年〕の卒業であり、同期には最高裁長官や高裁長官になった裁判官もいます。当時の研修所の雰囲気は、青法協弾圧の嵐は一応過ぎ去っており、教官の自宅を訪問するときは手土産を持参するようにとの指導が行われても反発するような雰囲気になることはありませんでした。実社会の経験のない世間知らずの私は、司法修習生になるとそのような礼儀作法を身につけることまで教育の一部だというくらいに受け止めていました。研修所当局による従順な修習生教育の一環であるといったうがった考えは浮かんできませんでした。

◆裁判官は法と良心のみに拘束される

ところで、瀬木比呂志裁判官の著書『裁判所の正体』(新潮社2017年/共著者=清水潔)によると、29期で最高裁長官に就任した裁判官は、青法協加入の裁判官の弾圧をはじめた石田和外長官、後任のミスター最高裁と呼ばれた矢口恭一長官、司法反動の完成者と評されている竹崎博充長官の人脈に連なる人物であると書いてありました。瀬木裁判官ら最高裁中枢にいた裁判官でなければ知りえないエリート裁判官達の人脈に関する記載であり、外部のものが知りえない貴重な情報です。

私たちの期の人間は、そろそろ鬼界を控えていますので、最高裁長官や高裁長官経験者の人たちには、裁判官生活の記録を人事問題を含め後世のために残しておいてほしいものです。

特に、最高裁事務総局に対する「報告事件」なるものが存在すること自体は、明らかになっていますが、報告事件の中身と報告事件の処理ついては一切明らかにされていません。私個人として、「押し紙事件」が報告事件に指定されているか否かは是非とも知りたいところです。

日本の憲法は、裁判官の独立を保障しています。裁判官は法と良心のみに拘束され、他から干渉を受けることはありません。裁判官の判断は判決が全てであり、審理の途中で最高裁事務総局から担当書記官あるいは担当裁判官に対して、特定の事件について、その内容・審理の状況を報告させる仕組みは、裁判官の独立を侵すものであってはなりません。そのような制度は、裁判官・書記官だけでなく事務官を含めてその事実をしる裁判関係者のモラルの崩壊、士気の低下を招くことにつながると思います。

◆最高裁が「企業団体献金」を合憲と判断した本当の理由

最高裁は違憲立法審査権を有しており、日本の最終国家意思を形成することができる機関です。戦後、冷戦の始まりと朝鮮戦争の勃発という国際情勢の変化により、戦前の支配体制がそのまま維持されることになりました。裁判官も戦前の問題を追及されることなく、戦後も従前通りの地位を保持することが許されました。

矢部宏治氏や吉田敏浩氏らの著作やネット情報によって、日本の政治は、在日米軍の高級将校と日本の官僚のトップで構成される日米合同委員会によって決定されているのではないかとの疑いが、広く国民に認識されるようになってきているようです。安保条約と憲法の関係について、戦後、最高裁長官とアメリカ大使が内密に協議していた事実も知られるようになっています。

最高裁は日本の最高法規である憲法の上に日米安保条約を置き、米軍基地と軍人・軍属に派生する問題については、基本的には違憲・合憲の司法判断はしないという統治行為論なる理論を生み出しています。それと、今大問題となっている「企業・団体献金」の合憲性についても、私は、最高裁の法的判断というよりむしろ高度な政治的判断によるものではないかとの疑念を抱いています。

三菱重工による「企業・団体献金」の合憲性について最高裁が合憲と判断したことに、どうしても納得できず、違和感を抱えてきました。国の政治は主権者である国民一人一人が参加して決定するもので、主権者でもない企業や団体に政治活動の自由を認め、支持する政党への献金も許されるとの判断にどうしても納得できないできました。

ところが、この問題について、最近のネット情報等により設立当初の自民党の政治資金がCIAから提供されていたことがわかり、すべての疑問が氷解しました。つまり、アメリカとしては早々に自民党の活動資金の支援を打ち切り、日本人にその肩代わりをしてもらう必要があったのです。

CIAに代わる資金の提供者が「企業・団体」であると考えれば、最高裁が「企業団体献金」を合憲と判断した本当の理由が理解できます。企業・団体献金についてはその弊害が問題となり、「政党助成金」が支払われるようになりましたが、その後も自民党は企業団体献金を廃止しようとはしません。

◆三人の裁判官は、どのような法的判断の枠組みで西日本新聞社に押し紙の責任がないという結論を導いたのか

本件押し紙訴訟の最大の特徴は、4月と10月の定数(西日本新聞社の原告に対する新聞の供給部数)が前後の月より200部も多いことです。西日本新聞が4月と10月に、前後の月より200部も多い新聞を販売店に供給するのは、販売店の折込収入を増やすのが目的です。つまり、販売店の押し紙の仕入代金の赤字を折込広告料で補填するためにそのような措置を講じているのです。

※注釈:折込広告の販売店への定数(供給枚数)は、4月と10月の新聞の部数で決まる。4月の定数は、6月から11月の広告営業のデータとして使われ、10月の定数は12月から翌年5月の広告営業のデータとして使われる。それゆえに新聞社は、4月と10月に押し紙を増やす場合がある。このような販売政策を、販売店は、「4・10(よんじゅう)増減」と呼んでいる。

仮に、西日本新聞社の折込広告詐欺を裁判所が認めた場合、西日本新聞社に限らず押し紙問題を解決していない他の新聞社に判決の与える影響は想像もつきません。新聞を始めテレビ・ラジオなどのマスメディアに対する国民の信頼は、完全に失われる危険があります。

新聞・テレビ・ラジオ等のマスメディアに対する国民の信頼が失われれば、マスメディアによる国民世論の形成や統一は不可能となるでしょう。そのような事態を招くことを最高裁が容認することは、最高裁の政治的性格からして考えられません。

本件押し紙裁判の判決を書いた三人の裁判官が、西日本新聞社に押し紙の責任がないという結論を導くために、どのような法的判断の枠組みを考えだしているのか、その判決理由を知りたいものです。

後日、判決を入手後、この問題については検討の上、報告させていただくことにしますので、しばらくお待ちください。

※本稿は黒薮哲哉氏主宰のHP『メディア黒書』(2024年12月25日)掲載の同名記事を本通信用に再編集したものです。

▼江上武幸(えがみ・たけゆき)
弁護士。福岡・佐賀押し紙弁護団。1951年福岡県生まれ。1973年静岡大学卒業後、1975年福岡県弁護士会に弁護士登録。福岡県弁護士会元副会長、綱紀委員会委員、八女市役所オンブズパーソン、大刀洗町政治倫理審査会委員、筑豊じんぱい訴訟弁護団初代事務局長等を歴任。著書に『新聞販売の闇と戦う 販売店の逆襲』(花伝社/共著)等。

▼黒薮哲哉(くろやぶ・てつや)
ジャーナリスト。著書に、『「押し紙」という新聞のタブー』(宝島新書)、『ルポ 最後の公害、電磁波に苦しむ人々 携帯基地局の放射線』(花伝社)、『名医の追放-滋賀医科大病院事件の記録』(緑風出版)、『禁煙ファシズム』(鹿砦社)他。
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