◆アマチュア四冠

大城宝石(=オオシロ・ジュエル/2007年10月30日沖縄県名護市出身)は地元のエボリューションムエタイジム所属で現在中学3年生。アマチュア戦績は29戦21勝5敗3分。

試合場で昨年引退した元・J-GIRLSチャンピオン紅絹とツーショット

先日の8月7日、ゴールドジムサウス東京アネックスで開催されたRISEクリエーション主催のアマチュアキックボクシング大会「RISE Nova」で、全日本女子47kg級トーナメント優勝と共に、アマチュアRISE女子47kg級王者となりました。

大城宝石はアマチュアRISE王者と言っても、多数居るアマチュア王者の中の一人に過ぎませんが、地元では次世代スターとして、沖縄テレビやNHKに取り上げられるほど存在感があります。

大城は小学5年生からキックボクシングを習い始め、昨年、中学2年生の11月にアマチュアイベント「HATASHIAI」沖縄女子50kg級王者となり、同年12月に全日本U-15女子45kg級王者(一般社団法人アマチュアキックボクシング協議会認定)、今年3月にK-SPIRIT女子45kg級王者(沖縄県キックボクシング連盟認定)のタイトルを含む三冠王として今回、RISE王座に挑みました。

今回の試合記録。

47kg級準々決勝戦 (1ラウンド/3分制) 判定3-0
大城宝石 vs 黒川真里裳(NEXT LEVEL渋谷/東京都)

47kg級準決勝戦 (1ラウンド/3分制) 判定3-0
大城宝石 vs 安禮辰(GYM HAK/北海道)

47kg級決勝戦 (2ラウンド/2分制) 判定3-0
大城宝石 vs 髙橋美結(T-KIX/静岡県)

フライ級で活躍、現役・小林愛三チャンピオンとツーショット

◆障壁を乗り越えて

RISEとは2003年2月より活動を始め、プロでは今やビッグイベントを開催する有名な興行プロモーションで、那須川天心の出身母体でもあります。アマチュア大会に於いては全国各地で年間10大会以上(コロナ禍以前)を主催。予選や選考を勝ち抜いた精鋭によるトーナメント優勝者に全日本タイトル認定しています。

これまで15歳以下の出場年齢制限があった大会などから一転、このRISE Novaトーナメントは中学生以上の参加資格から一般成人選手の参加や、「プロ3戦まで参加可能」の規定があり、年齢的にも実績でも全国の強敵が集まっていたこと。大城宝石にとってこれまで最も慣れ親しんできたムエタイ系と比べルール制限があったこと。今回は最軽量クラスが47kg級で、大城の計量は45.7kgでパスも、対戦相手とのウェイト差など、幾つかの障壁を乗り越えて、ワンデートーナメント3試合を勝ち抜いて沖縄県人初の戴冠となりました。 

今後の試合予定は、11月20日に沖縄県豊見城市で開催される全日本選手権大会への出場が確定し連覇を目指し、その後、12月開催予定のアマチュアシュートボクシング全日本大会、更にアマチュアK-1王座も視野に入れていると言います。

来年3月の中学校卒業後は、高校進学と共にプロキックボクサーとなることを決めており、高校受験も控えた中学生としては厳しい環境にありますが、現在プロのRISEミニフライ級(-49kg)女王は、同じ沖縄のerika(SHINE沖縄)で、大城はいずれこの王座を狙えるかと期待が掛かります。

[左]ワンデートーナメント、次の試合に向け酸素吸入/[中央]試合直前、余裕ありの表情/[右]NHKの取材に備えてチャンピオンベルトを持ってきた大城宝石

ジムでのマススパーリング風景

試合後の緊張感あるファイティングポーズ

◆大島代表の評価

大城宝石は毎日、エボリューションジムに16時30分頃一番早く来て、21時ぐらいまでの一番最後に帰る超練習熱心という。トレーナーが見ていなくてもフィジカルトレーニングなど地味な鍛錬を欠かさない。その甲斐あってRISE Novaトーナメントではスタミナ切れを全く起こすことなく始終ラッシュをかけ続けることが出来たという大島健太代表。

女子の打撃競技はパワーの問題からどうしてもKO率は低いが、大城は一発で倒せる右ストレートとレフェリーストップを呼び込む高速コンビネーション連打の両面を磨き、倒せる女子ファイターとして注目されています。RISE Novaトーナメントは3戦とも判定だったが、それ以前の5試合はノックアウト勝利やノックダウンを奪う展開を残しています。

しかし、大城は極度に緊張するタイプでトーナメント初戦(準々決勝)が終わって、コロナ予防対策で両親も来場出来ない中、母親に電話したら号泣してしまうメンタルの弱さを見せたという。しかしその反面、上昇志向は強く、プロデビュー後を視野にした練習では、高速ミット蹴りは女子にしては観る者を驚かせる迫力があり、大島会長の見立てでは、日本の女子キックボクシング界を背負って立つ素質があると言います。

米軍の海兵隊員とは体格差をもろともせずスパーリングするとか

◆RENAを追い越せ!

前々から触れる話ではありますが、技術向上が注目される選手層がアマチュアとは言え、中学生まで低年齢化するとは時代が変わったものです。大城宝石だけでなく、フットワーク速くバランスいい体幹、今時の中学生レベルのキックボクシングの進化は恐ろしく、これが21世紀の格闘技でしょう。

大城は憧れのスター選手、シュートボクシングやRIZINで活躍するRENAのような強くて華やかなファイターを目指し、「いろいろなチャンピオンベルトを獲って、もっと大きな舞台に立ちたい」と言い、「沖縄から世界へ」の目標を掲げています。

まだ学問とキック中心の人生経験で、中学3年生の大城が来年プロデビューしているか、高校時代ではチャンピオンになっているか、20歳の時点でどんな選手に成長しているか、期待は大きくも、先行き不透明なのが厳しいプロの世界。

「いつの間にか見なくなった」と言われる選手が圧倒的に多い中、大城も幾つもの壁にぶつかったとしても得意の右ストレートと右ミドルキック、高速コンビネーションで乗り越えて、いずれまた多くのメディアを騒がせて欲しいところです。

今回は沖縄エボリューションムエタイジムオーナー・大島健太氏の発信情報中心に纏めさせて頂きました。

NHKインタビューに応える大城宝石

※画像提供9枚全て:エボリューションムエタイジム・大島健太

◎堀田春樹の格闘群雄伝 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=88

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

旧統一教会問題と安倍晋三暗殺 タブーなきラディカルスキャンダルマガジン『紙の爆弾』2022年9月号

◆81歳最古参、ここが引退の潮時と……

戸高今朝明(とだか けさあき、1941年1月1日、沖縄出身)は1966年(昭和41年)、キックボクシングがまだテレビ放送される前から試合出場していた業界最古参。後に千葉(センバ)ジムを興して現在に至るが、今年4月にジム閉鎖。6月中には51年続いたジム建屋が解体に入るということであった。

平成以降は主要団体での活動は無く、2005年以降でも新木場ファーストリングでのプロ興行や、アマチュア大会を含め年数回開催するほどだったが、この2年はコロナ禍で練習生が離れてしまったことが第一の要因だったという。建屋も老朽化で雨漏りしても修繕も手が付かず、戸高氏も81歳。ここが引退の潮時と踏んだようだった。

やがて解体される千葉ジムで懐かしい話を語ってくれた戸高氏(2022年6月12日)

幼い頃、熊本で育ったという戸高今朝明氏は、高校卒業後は地元で就職も20歳で転職のために上京。「下駄履いて酒かっ食らいながら夜行列車で上京したよ!」と言う風貌が今でもよく似合う。まだ新幹線も無く、寝台列車は高いから4人BOX型自由席だっただろう。寅さん映画に有りそうな光景である。

戸高氏は上京後、空手を始めた縁から品川で自分の道場を持つまでになった頃、野口(目黒)ジムの藤本勲氏と出会う運命を辿ったことからスパーリングでタイ選手と向き合うことになった。空手が一番強いと信じていたが、ムエタイ技に全く敵わなかったことから、キックボクシングの試合に出場することになって数戦。日本で初めてキックボクシングがTBSによってテレビ放映された1967年(昭和42年)2月26日の沢村忠が東洋王座獲得する興行に戸高氏も出場。相手は門下生だったが判定勝ち。当時はセコンドに着ける人が少なかったため、選手は試合を終わってもバンテージ巻いたまま次の試合のセコンドに着いたり、試合前も進行準備が忙しかったという。

指導者は全く居ない時代で、パンチはボクシングから習い、蹴りは空手技を磨き、目黒ジムに訪れてはタイ選手を見様見真似でムエタイ技を盗み取っていった。

新興スポーツのため、ルールが曖昧だったのも初期の話。噛み付き、サミングと股間急所打ちは除いて、頭突きも投げもあった時代だった。

試合会場でリングを組み立てる戸高今朝明氏(1983年5月28日)

愛弟子2人、チャンピオン宮川拳吾とレフェリー古川輝と並ぶ(1983年9月18日)

◆隆盛期の痕跡

品川の空手道場は形式上の品川キックボクシングジムとなったが、手狭さから1969年に千葉市に移転。京成稲毛駅前のビル4階で国際ジムとして始めたが、階下に響く振動や騒音の苦情で、2年後の1971年(昭和46年)に農協が後援会に着いた支援もあって現在の稲毛区小仲台に移転。ジム名も千葉ジムに変更した。

この時期に視力の問題でプロボクシングを断念した松田忠がやって来た。名前は沢村忠と被るから国定忠治に肖って“忠治”と成り、稲毛の地名を取って稲毛忠治となった。

この稲毛忠治は日本ウェルター級新人王を獲って飛躍し、東洋戦では富山勝治(目黒)を衝撃的に倒すなど活躍が凄かった。セコンドに着く小さなオジサン(戸高氏)と“センバ”ジムの名前を全国に広め、千葉ジムが潤ったのも稲毛忠治の飛躍の御陰という。

戸高氏は計5名の名チャンピオンを誕生させた。佐々木小次郎、佐藤元巳、宮川拳吾、中川栄二。それは千葉に移ってから、プロボクシングで60戦を超える戦歴があったという市原敏雄氏が見学に来た縁から煩く指導もどきの野次を飛ばすことからトレーナーを任せて、近年まで興行を支えてくれた陰の存在があったという。分裂低迷期のリングアナウンサーやレフェリーも務めたことがある大正生まれの市原氏は2012年に亡くなられた様子。

そんな隆盛期から千葉ジム前の駐車場には大型トレーラーが停めてあり、常にリング一式が積載されていて、テレビ放映があった全盛期に、場合によっては選手もトランクに載せて全国を回ったこともあったという。荷台トランクには電灯は無い。

「真っ暗の中で寝て行け、何かあったらトランク叩け!」と言って奄美大島にも走った(トレーラーはフェリーに乗せて移動。運転手、選手は普通の乗船)。そんな各地での旅の想い出も懐かしいという。

千葉ジム建屋の中に2階宿舎を増築中の戸高氏(1983年11月13日)

日本キックボクシング連盟では暫定的ながら代表を務めたこともある(1985年6月7日)

ムエタイチャンピオン、サンユットも招聘した戸高氏(1986年6月下旬)

◆先を見据えて

1980年3月にテレビレギュラー放映が終わった時代のキックボクシング業界は衰退の一方。「このままではいけない」とどこのジム会長も考えた。

大々的な団体分裂が始まったのも1981年から。千葉ジムも参加し、日本系から9つのジム、全日本系から9つのジムが脱退して日本プロキックボクシング連盟が出来たのがこの年9月。

華々しかったが翌年には再び分裂が起こった。もう細分化されただけの見通しのつかない現状が残って、テーマの無い少ない興行が続いた。

それでも地方に行けば、戸高氏は活発にリングを組み立て、トレーナー業も大工仕事もプロの業でこなした。

誰も来ない日もあったジムが、また活気付くことを見据えて、ジム建屋の中に宿舎として二階スペースをほぼ一人で作った。

度々話題とする1984年の統合団体、日本キックボクシング連盟も分裂を辿り、1987年に山木敏弘氏が設立した日本ムエタイ連盟へ参加。

どこへ移っても同じなのは分かっていたというが、以前の日本プロキック連盟に似た活動は、半年ほどの興行を経て消滅を辿り、千葉ジムの進む方向が定まって来た時期でもあった。

夜の千葉ジム、古いボクシング漫画に出て来そうな外観(1986年6月下旬)

藤本勲氏と出会ってキックボクシングを始めた戸高氏、50年間のライバルである (2014年8月10日)

◆昭和のキックボクシング終焉

そこからフリーの道を選んだが、一時は隆盛を極めた千葉ジムの存在感は大きく、なかなかフリーでは活動し難い時代でも、交流戦で試合出場を増やしていく手腕も発揮。更には他から参加し易い体制を作る為、日本プロキックボクシング連盟を復活させ、チャンピオンも誕生させたが、大手の団体には敵わなかったのは仕方無いだろう。

キックボクシング界が最も低迷期だった1983年に戸高氏は、「もうこれ以上キックは下がりようがないから、諦めずに続けていればこれから少しずつでも楽しくなっていくんじゃないかな。団体という枠に拘らず、ジム単位で、あちこち戦う場を作っていけばいいムードになっていくと思うよ!」と語っていたが、その後、業界は何度も明るい話題が盛り上がりながら停滞。統一は叶わないどころか、より一層細分化した現在の団体やフリーのジム、プロモーターが増えた。

しかし、団体の敷居は低くなり、協力体制で興行が打てる時代となった。アマチュア大会も増え、若年層の成長によって選手層は厚くなり、テレビ地上波に扱われるほど有名選手が現れるほどにもなった。創生期からキックボクシング界を見て来た戸高氏の昭和期での予想は大凡当たっていたのである。

今回、ジムが閉鎖解体されると聞いて、私(堀田)は6月12日に千葉ジムを訪れた次第。1年前にも戸高氏に電話したことがあるが、その時はまだ閉鎖までの話は出ていなかった。

訪れてみると、昔からある古めかしいリングとサンドバッグはまだ有り、古いポスターは誰かが頂いたか、昭和の物は少なかった。会話中にスコールがやって来て、声が聞き取れないほど大雨がトタン屋根を激しく叩いた。正にタイのようなジムである。雨漏りは激しく、リング上には前もって洗面器が置かれており、ウェイトトレーニングスペースでは靴下が濡れてしまった。でもお金が有ったらこのまま買い取りたいと思うほど味ある千葉ジムだった。

戸高氏は1985年にタイ女性と結婚。娘さんの戸高麻里さんは同・連盟でリングアナウンサーを務めたこと多く、戸高氏は現在4人のお孫さんが居るが、ジムを引き継いで貰うには至らぬ運命だった。2020年1月に目黒藤本ジムが閉鎖され、そして今回の千葉ジム閉鎖は昭和キックボクシングの終焉を迎えたようで寂しい限りである。

古めかしい昭和のリング、貴重である(2022年6月12日)

建屋の前でファイティングポーズをとる戸高氏、TBSの文字も懐かしい(2022年6月12日)

◎堀田春樹の格闘群雄伝 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=88

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン『紙の爆弾』2022年8月号

◆運命の導き

ムエタイトップクラスがスタジアム定期出場の合間を縫って来る1試合のみの数日滞在と、ビザの期限まで滞在して数試合出場するパターンは過去に述べたとおりで、ムエタイトレーナーとしての役割を担っている場合も多かったでしょう。それぞれに出会いがあり、日本に行く決断があり、過去のテーマで述べた国際結婚にも至るなど、人生の運命も変わるものでした。

チャイナロン・ゲーオサムリット(本名チャッチャイ・スカントーン。1973年5月21日、タイ国スラタニー県出身)は初来日はまだ19歳だったが、日本のキックボクサーが乗り越えるべき壁となって立ちはだかる存在でした。

唯一のタイトル歴は1995年1月29日、チェンマイでのIMF世界ウェルター級王座決定戦で欧州ウェルター級チャンピオンにKO勝利で王座戴冠しています。

チャイナロンが日本に来る運命は、1991年(平成3年)5月にOGUNI(小国)ジムの斎藤京二氏が現役引退し、会長に就任した当初から、自身の現役時代に足りなかった部分を補い、選手育成に繋げようと、ムエタイトレーナーの招聘を計画していたことから始まりました。

◆「チャイナロン、日本に行きたいか?」

現在は多くのジムで、比較的取得し易くなったと思われる技能指導のビザで来日していますが、当時、タイ人トレーナーはまだ限られたジムしか呼べなかった時代。その頃、タイに行くこと多かった私(堀田)は、その相談を受けたことが諸々の出会いから繋がっていく因果応報でした。

1992年夏に渡タイした際、親密な関係にあったゲーオサムリットジムのアナン・チャンティップ会長から紹介してくれたのがチャイナロンでした。

「身体の発達が早くて、もう軽量級では戦えないから、トレーナーにさせたんだ!」と言い、更に「試合は出来るし、トレーナーも出来るし、肉体労働も出来るし、ホームシックにも掛からないよ!」と太鼓判。

ジムワークのチャイナロンは蹴りが重そうなテクニシャンで、ミット持ち指導も難無くこなす。当時、フェアテックスジムでトレーニングしていたOGUNIジムのソムチャーイ高津にも来てもらってチャイナロンへのミット蹴りを試して貰う。トレーナーとしては若過ぎるかとは思ったが問題は無さそうだ。

ミット蹴りを受けるチャイナロン、査定は合格(1992年7月)

「チャイナロン、日本に行きたいか?」と聞くと、考え込むことも無く「行きたい!」と応えた。

「日本の冬は寒いし友達も居ないしタイ語は通じない。指導以外に肉体労働もあるかもしれないし楽じゃないよ!」とは伝えたが、そんな苦難まで想像できるものではなかっただろう。

出稼ぎ目的で、あの手この手で来日しようとするアジアの人々は多かった時代。有名ムエタイ選手でもビザ審査は難しい立場にあったが、招聘する日本側、送り出すタイ側も実績に問題無くビザ申請は進行。チャイナロンは同年10月10日に初来日した。

斎藤会長の厳しい視線の中、来日当初のジム風景(1992年11月)

◆日本人選手の壁となった8年間

成田空港に着くとすぐ用意されていた高島平の宿舎に連れて向かった。一般の団地である。19歳の若者が、拉致されて来たかような環境に耐えられるだろうか不安はあったが、夜はトレーナー業での選手との触れ合いは和やかで、慣れるのは早かった。

予定された最初の試合は10月24日、フェザー級ランカーの延藤直樹(東京北星)戦。タイではフェザー級(-57.1kg)だったが、契約ウェイトは57.6kg。日本人の前に立ちはだかる強さを想定していたが、2-0判定負け。1ポンド増しでも環境変化による減量は思うようにいかなかったようだ。

ジムワークではヒジ打ち、ヒザ蹴り、首相撲からの崩しの指導が上手く、ミット蹴り指導は抜群だった。

「指示通りにやるミット蹴りはでなく、どこからパンチを打っても蹴っても選手側がいい感触になるように受けてくれて、こんなフリースタイルは才能ある人じゃないと出来ないと思います!」という当時の所属選手の感想だった。

スパーリングはテクニック全開で指導。「こんな強えーのに何で負けたんだ!?」そんなベテラン選手の声も上がるほど誰も寄せ付けなかった。

翌1993年3月27日には内田康弘(SVG)と対戦。今度は59.0kg契約。体調は万全で初戦とは違った素早い動きと重い蹴りで内田を翻弄しノックアウトで仕留め評価も上げた。

[写真左]初戦は延藤直樹(延藤なおき)に僅差判定負け(1992年10月24日)/[写真右]評価を上げたノックアウト勝利、内田康弘戦(1993年3月27日)

更なる試合は再来日のタイミングで1994年6月17日、全日本ライト級チャンピオン杉田健一(正心館)に判定勝利。その翌年の来日ではウェルター級ランカーの松浦信次(東京北星)に判定勝利。身体の発達が早かった為の階級アップが続いた。その後も勝山恭次(SVG)をヒジ打ちTKOで下し、松浦信次を判定で返り討ち、佐藤堅一(士道館)に判定勝ち。いずれもテクニックで翻弄した展開。その後、青葉繁(仙台青葉)にはヒジ打ちで切られて敗れたが、ノックダウンを奪う攻勢を続けていた。

テクニックで圧倒、杉田健一に大差判定勝利(1994年6月17日)

[写真左]チェンマイで初のベルト戴冠(1995年1月29日)/[写真右]松浦信次とは2戦とも判定勝利(1997年6月27日)

1998年6月にはOGUNIジム後援関係者の縁で出会った女性と結婚。奥さんの父親が経営する配管工事の会社で働き、親方と言われるまでの昇格もあった。後の現役引退後は生活形態が完全に変わってトレーナー業からも離れたが、以前からダウンタウンの松本人志さんから度々呼ばれ、「ガキの使いやあらへんで」などでお笑いタレントを蹴っ飛ばすムエタイ技を見せる番組にも多く出演し人気を得た。

生活環境が変わり、時代の変わり目でもあった1999年4月には、日本キック連盟エース格の小野瀬邦英(渡辺)と対戦。第1ラウンド、チャイナロンの上手さが目立つ中、小野瀬が接近した一瞬のヒジ打ちで額をカットされTKO負け。

[写真左]佐藤堅一が冷静さを失うほど、チャイナロンがテクニックで翻弄(1997年6月27日)/[写真右]小野瀬邦英の圧力は、それまでの日本人とは違っていた(1999年4月10日)

プライド傷つけられたチャイナロンは同年12月、再戦で初回から猛攻、小野瀬の顔をボコボコに鼻も折るも、第2ラウンドにボディーへのヒザ蹴りを受け逆転KO負け。小野瀬の飛躍への踏み台とはなったが、日本に長期滞在、結婚して生活のリズムも変われば、ムエタイの強さを発揮した時期より勘の鈍りは免れなかった。

翌年、中村篤史(北流会君津)をノックアウトで下し、有終の美を飾った。日本での通算戦績は11戦7勝(3KO)4敗。日本選手がこの壁を超えなければ本場タイで通用しないといった一つのステータスとなったのがチャイナロンや、現在も度々試合出場する常連在日タイ選手である。

ウェイトトレーニングで元気いっぱいの現在(2022年4月10日)

◆日本男児

すっかり日本に溶け込んだ2011年の夏、チャイナロンが脳内出血で倒れた。ある日の朝食後、仕事に行こうと立ち上がったところ、急に身体がフラフラし、バランスがとれず倒れてから記憶が無いという。家族が救急車を呼んで緊急搬送され手術で一命を取り止めたが、10日間ほど昏睡状態が続き、幸いにも意識が戻ったが、それまでの記憶が乏しかった。

医者は「後遺症は残るが、まだ若いから普通の生活が送れるほどへの回復の可能性は高い」と言い、リハビリテーションを経て退院後、仕事復帰まで回復。現在も右腕と右足に麻痺は残るが杖無しで歩き、初来日当初や延藤直樹戦もしっかり覚えていた。

当初は日本語は全く話せなかったが、「カラオケで歌詞が読めず歌えないことから日本語を覚えようと思ったこと、結婚して日本で暮らすことになったことがより必要不可欠になった!」という。来日当初は私やソムチャーイ高津らの初級タイ語で会話していたが、現在は完全な日本語のみの会話である。

3人のお子さんは長女、次女、末っ子の長男が現在高校三年生で、「大学に行きたい」と言えば行かせるつもりと言う。急病前までは奥さんには働かせず、俺が働くという振る舞いと、実家があるタイのスラタニー県には両親への家も建てたという昔ながらの日本男児たる大黒柱である。

日本人女性との結婚も多い在日ムエタイ選手。国際結婚は苦労多いが、長く連れ添う奥さん側に忍耐ある人が多い。こんな経緯で日本永住となったムエタイ戦士の一人を紹介しましたが、他にも日本で活躍する元ムエタイボクサーにもそれぞれのドラマが存在するでしょう。

◎堀田春樹の格闘群雄伝 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=88

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン『紙の爆弾』2022年7月号

◆二代目ヤンガーとして

船木実(1961年7月13日、秋田県秋田市出身)はヤンガー舟木、後に船木鷹虎というリングネームで名を馳せた、第14代・16代全日本ウェルター級チャンピオンである。

新人時代から仙台青葉ジムの若きエースとして、ハイキックを得意とする急成長で全日本ライト級5位まで上昇。後には藤原敏男戦をはじめ、名選手との対戦多い昭和のヤングマンだった。

船木は秋田で中学卒業後、一人で宮城県仙台市へ移り東北高校に入学すると、部活動以外で空手かボクシングをやりたかったところ、偶然キックボクシングの仙台青葉ジムを見つけると吸い込まれるように即日入門した。

すぐに船木の素質を見抜いた瀬戸幸一会長は、最も期待を懸ける選手に与える“ヤンガー”というリングネームを二代目として与え、入門半年後の1978年(昭和53年)11月のデビュー戦からヤンガー舟木となった(ヤンガー時代は舟木と表記)。

オープントーナメント62kg級初戦で須田康徳には敗退(1982年12月18日)

◆船木鷹虎へ

船木は小学生の頃、テレビで観たキックボクシングで、「全くやりたいスポーツではなく、特に藤原敏男さんの目白ジム系のキックボクシングは激しいイメージで怖かった」と言うが、1982年7月、斉藤京二(黒崎/当時)との新格闘術ライト級王座決定戦で、結果は引分けだったが、得意の左ハイキックで斉藤のアゴを折る重傷を負わせた。しかしその16日後に待ち構えていたのは新格闘術世界ライト級チャンピオン藤原敏男(黒崎)だった。

斎藤京二戦でのダメージを残しながら、瀬戸会長から「藤原敏男との試合が決まったぞ!」という指令が下ってヤンガー舟木が出場。

テレビの中の怖い人だった藤原敏男を前に、「どうせなら一気に大物を喰ってやろう」と強気のパンチで13歳年上の藤原に鼻血を流させる予想以上の健闘。偉大なチャンピオンの威圧感ある反撃に呑まれ5ラウンドKO負けしたが、積極果敢に挑んだ試合だった。この2連戦に船木は「勝てなかったけど、一番記憶に残る貴重な体験だった」と語る。

当時のヤング対決、後にはチャンピオンと成る者同士、青山隆戦(1983年3月19日)

日本ナックモエ連盟ライト級チャンピオンのタイガー岡内を倒す(1983年9月10日)

その後、1984年7月、内藤武(士道館)を下し、新格闘術ライト級王座を獲得。1985年11月には向山鉄也(ニシカワ)の持つMA日本ウェルター級王座挑戦は判定負けで跳ね返されたが、1987年5月には当時存在した日本ムエタイ連盟ウェルター級王座決定戦で甲斐拳明人(甲斐拳)を倒し二つ目の王座獲得。まだまだ知名度は低かったが、円熟期を迎えた船木は風格も身に付けていった。

翌、1988年初春、仙台青葉ジムが古巣の全日本キックボクシング連盟に加盟した際、この活気を取り戻したメジャー団体で、船木が天下獲れると確信した瀬戸会長が、連盟エース格となって、家庭もしっかり守ってくれるよう名付けた“船木鷹虎”に改名した。

その船木はこの前年11月22日(いい夫婦の日)、瀬戸会長の次女、純子さんと結婚していた。彼女が瀬戸会長の経営する喫茶店を手伝っていたことから船木も練習後にお店に出入りし、交際が始まったが瀬戸会長も公認の仲だった。「家庭をしっかり守れよ」といった願いも鷹虎命名に込められていたのである。

船木は「どの団体にも強い選手がいましたが、結婚した直後に全日本キック連盟に加盟すると言われた時はより責任感が増し、気合いが入りました」と語る。

加盟して間もなくの同年5月、村越浩信(光)から全日本ウェルター級王座を奪取。それまでにない注目度と周囲からは期待感も高まっていった。

[写真左]全日本キック連盟に移って、村越浩信を倒してメジャー王座獲得(1988年5月29日)/[写真右]竹山晴友を下したアルンサック戦には注目が集まったが引分けに終わる(1989年5月20日)

借りを返したい向山鉄也戦は引分けも圧し負けない好ファイトを展開(1990年1月20日)

1989年1月、弾正勝(習志野)をKOで退け初防衛。

1990年1月、先を行くライバル向山鉄也とは立場が入れ替わって挑戦を受け、引分け防衛ではあったが、「最初の対戦はまだウェルター級に慣れていなく、パワーでの差が顕著に出たと思います。2戦目は、それまで大きい人と揉まれてきていたのでパワーの差は感じず、良い試合が出来たと思います」と名実ともに業界トップクラスに立った時期だったが、ここまでが昭和のキックを牽引した時代と言えるだろう。

◆衰えぬ闘志

1990年代に入ると、キックボクシング衰退期脱出後にデビューした若い選手が台頭して来たが、船木は海外の強豪と戦いつつ全日本王座は4度防衛。

1992年(平成4年)3月に小島圭三(藤)に王座を奪われるも翌年に奪回(防衛1度)。

1995年に松浦信次(東京北星)に敗れ王座を失い、翌年、ニュージャパンキックボクシング連盟発足に伴う大量移籍後、新田明臣(SVG)とNJKFミドル級王座を争う2連戦はいずれも判定で敗れ、周囲からは引退も囁かれたが、船木は気力が衰えるどころか再浮上の闘志が湧いていたのだった。

瀬戸幸一会長に続いてリング入場(1994年6月25日)

当時においては40歳過ぎてなお頂点を目指す執念は周囲を驚かせた。話題を呼んだK-1中量級グランプリ出場も目指し、パワー増強と、得意のハイキックに磨きをかけていたという。しかし、後のスネーク加藤(現PHOENIX会長)戦で左腕を折る怪我が響き、戦線離脱は止むを得ない状況に陥っていた。

「体調や試合内容まで全て納得してならすぐに諦めたかも知れませんが、余力を残した敗戦が続いたので納得して引退したかったんです。50歳位まではいつでも試合が出来る準備をしていました」と当時を語るが、試合出場のチャンスは巡って来ず、時は大きく流れてしまった。

船木はタイ修行に行ったことは無く、タイ人コーチに指導を受けたことも無いが、先輩の初代ヤンガー石垣氏(信夫/後の轟勇作)から基本を教わり、あとは自分なりの研究だったという。

20年あまりもダメージ無く戦って来られたのはディフェンスの巧さ、クレバーな学習能力にあった。学業成績に関しては秋田県で中学生県統一試験で一番を取ったこともあり、高校時代も成績は学年で一番。そのIQの高さには戦いにも鋭い勘を養うことに結び付いていた。

しかしそんな船木の視力は0.1に満たない。陰がぼやけて動く程度の物の見え方で永く戦って来たのだった。それでも顔に傷をつくらないよう心掛けた。現役時代までの本業は仙台にあるホテルのフロントマンだったが、傷ある顔で勤務するわけにもいかず、例え顔を腫らしても妻の化粧品を借りてごまかし。宿泊客にも同僚にも気付かれなかったという。

小島圭三とは4戦目となった奪回後の初防衛戦、蹴りで圧倒(1994年6月25日)

仙台での毎年続くメインイベントで堂々防衛(1994年6月25日)

◆現役のまま

2002年初春には仙台市泉区に鷹虎ジムをオープン。

現在は、鷹虎ジムのプロ部門をチーム・タイガーホークとして活動中。J-NETWORKスーパーウェルター級チャンピオン.平塚洋二郎やフライ級で現在急成長の阿部晴翔を育て上げている。

昨年12月には元木浩二氏主催の、昭和のキック同志会忘年会で、かつて対戦した藤原敏男氏や向山鉄也氏、青山隆氏と再会した船木氏。

「藤原さんの目白ジム系(東京12ch系)はエゲツない強さが怖くて、日本系(TBS系)でデビューしたかったんですよ!」と本音を漏らしたが、藤原敏男氏に「な~に言ってんだよ!」とコツかれながら和やかに懐かしい話に花が咲いていた。現役を遠ざかったままなのは向山鉄也氏、青山隆氏と同じだが、気持ちの上では生涯現役を貫く同志であろう。

現役時代から子煩悩で妻と長女、長男、次女の3人のお子さんとの家庭を大切にした船木。次女の船木沙織さんは現在YouTuberとして登録者数132万人の「ヘラヘラ三銃士・さおりん」としてアイドルの才能を発揮、畑違いの“二代目ヤンガー舟木”と言える存在である。

船木の古巣・仙台青葉ジムは2011年に東日本大震災の影響で閉鎖されたが、かつてのヤンガー、三代目はヤンガー秀樹(鈴木秀樹/後の伊達秀騎)。四代目はヤンガー真治(鈴木真治)で、いずれも上京の為、移籍。更なる“ヤンガー”は現れないかもしれないが、顔は怖いが語り口は優しいという周囲の声は多い船木氏。IQの高さで選手育成も上手く、地方からでも強い選手が生まれること、仙台から新たなインパクトを持つ選手は近い将来に現れるだろう。

藤原敏男さんと再会のツーショット(2021年12月)

◎堀田春樹の格闘群雄伝 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=88

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン『紙の爆弾』2022年5月号!

◆立嶋篤史の側近

小林利典(1967年3月、千葉県船橋市出身)は、目立った戦歴は無いが、スロースターターで、圧倒的に押されながら巻き返し、粘り強さで逆転KOに導いた試合もある、長丁場で実力を発揮するタイプのフライ級からバンタム級で戦ったキックボクサーだった。

立嶋篤史のセコンドに着く小林利典(右)(1991年10月26日)

また立嶋篤史のセコンドとして静かな注目を浴び、引退後はレフェリーを長く務めている。

習志野ジムで小林利典の後輩だった立嶋篤史は1990年代のカリスマで、余暇と試合に向けたトレーニングに入った時のメリハリが強く、部外者が接することはなかなか難しい空気が漂った。控室などは特にそんな空気が凍り付く場である。そこに常に居たのが小林利典やタイから来たトレーナーのアルンサック達だった。

ビザ期限が迫った際のアルンサックからは「俺が居ないときはお前がアツシを支えろよ!」と言われていたという小林利典はプレッシャーもあっただろう。

しかしその反面、立嶋篤史が、「セコンドの小林さんの方がモテて、ファンレターとか来るんですよ!」と言うようなホッコリする話題も多い。

◆目立たぬ新人時代

小林利典は1983年(昭和58年)秋、習志野ジム入門。閑散とした選手層の薄い時代に、このジムに居たのはベテランの弾正勝、葛城昇。他、記憶に残るほどの練習生は居なかったという。

デビュー戦は早く1984年3月31日、千葉公園体育館で村田史郎(千葉)に判定負け。

同年8月19日には、全日本マーシャルアーツ連盟興行でのプロ空手ルールで佐伯一馬(AKI)に判定負け。現在の活気ある時代とは事情が違うが、ややルールの違う競技に赴いてでも試合の機会を増やしたい時代であった。

閑散とした時代のデビュー戦同士は判定負け(1984年3月31日)

やがてキックボクシング界は最低迷期を脱し、定期興行が安定する時代に移ったが、それでも試合出場チャンスは少なく、先輩のチャンピオン、葛城昇氏から「タイは若いうちに行け!」と言われたことは、多くの選手が言われた“本場修行の勧め”であった。

1989年(平成元年)4月、初のタイ修行に向かった先は、日本と馴染み深いチャイバダンジム。日本人にとって比較的過ごし易いジムだが、日本では味わえない雑魚寝の宿舎では度々争いごとにも遭遇。でも競技人口多いタイでは試合はすぐに組まれ、日々の練習と共に不便な環境でも充実した経験に繋がっていた。

タイで最初の試合はランシットスタジアムで判定負け(1989年4月 提供:小林利典)

◆大抜擢は貴重な経験

周囲から見て小林利典の戦歴で印象的なのは1994年10月18日、東北部のメコン河に近いノンカイで行われた国際的ビッグマッチ。日本からは伊達秀騎(格闘群雄伝No.11)と、小林利典が出場。前夜にバンコクからバスでノンカイに向かい、朝9時に到着したホテルのレストランでは隣のテーブルに対戦相手のソムデート・M16が居た。小林は小声で「殺さないでね!」とは冗談で笑わせていたが、内心は本音でもあっただろう。

この経緯は、我々と馴染み深いゲオサムリットジムのアナン会長が試合10日程前に、当時はジッティージムで練習していた小林利典を訪ね、ビッグマッチ出場を依頼。日本vsタイ戦として予定していた日本選手が出られなくなり、どうしても日本人が必要で、断り切れずに受けて立った小林利典。後々アナン氏のジムに居たソムチャーイ高津(格闘群雄伝No.7)から、相手がソムデートだと知ることになる。

当時、ルンピニースタジアム・フライ級2位で、倒しに掛かる強さだけでなく、派手なパフォーマンスで賑わせていた人気者だった。実質、日本の3回戦vsムエタイランカーの試合。

小林利典が対戦相手を知ったことを察したアナン氏は「逃げないでね!」と念を押すが、小林は“やってやろう”という特攻精神が強く働き、置かれた日本代表の立場から逃げる気など全く無かった。

ソムデートに終始攻められたが、貴重な経験となった(1994年10月18日)

国歌斉唱は選手二人で歌った異例の事態(1994年10月18日)

しかし、戦ってみれば全く格の違いを見せつけられた展開。ソムデートはアグレッシブな態勢で蹴り合えばスピードも違った。脇を広げ、ワザと蹴らせる余裕も見せたソムデート。インターバルでは「オーレー・オレオレオレ~♪」と観客に向かって歌い出す余裕のパフォーマンス。

完全に翻弄され続けるも、アナン氏は心折れない小林を、第3ラウンドも「よし行け!」と尻を叩いて行かせた。結果はパンチで防戦一方となったところでレフェリーストップ。惨敗ではあったが持つ技全て出し切り勇敢に戦い、多くの観衆が小林を拍手で称えていた。

「ソムデートはローキックが重く、絶対的な差を感じました。試合で怖いと思ったことはなかったですが、ソムデート戦は初めて怖いと思いました!」という感想。
この試合はタイ全土に生中継された一つで、IMF世界タイトルマッチだったが、それを知らされないままノンカイに向かう途中のバスの中で、日本国歌独唱を命ぜられてしまい、伊達秀騎と二人で斉唱となった。「小林さんの歌の上手さに驚きました!」という伊達秀騎。

小林は「高校の頃、校訓に“国を愛し、郷土を愛し、親を敬う”とあった為、国歌と校歌はしっかり歌わされてたので緊張はなかったです!」と、ソムデート戦を前に群衆の前で歌うことなど全く苦ではなかっただろう。

翌日のビエンチャン観光、ソムデートとツーショット(1994年10月19日)

タイでの試合も風格が増してきた小林利典(1995年3月24日)

◆キックからは離れられない人生

小林利典はタイでは10戦程経験し、1995年5月18日、タイ・ローイエット県での試合をしぶとさ発揮で判定勝利し現役引退したが、その後トレーナーとなることはなかった。

性格的に優しく、強い言葉で檄を飛ばすタイプではないが、選手に掛けるアドバイスは情熱が厚い。そこに信頼関係が生まれることは他のジムの選手に対しても多かっただろう。

日本では他所のジム同士であっても、タイではチームとなって行動することが多かった国際戦シリーズ。

「一緒に出場した戦友のような感じ、小林さんは漢気ある人です!」と言う伊達秀騎。

同時期にタイでも活躍した、ソムチャーイ高津にとっては小林さんによって選手生命を延ばしてくれた恩人だという。

自身がヒジ打ちを貰い大流血した試合で、同じ箇所に肘打ちを貰ったら命が危ないと直感し棄権TKO負け。セコンドに着いて貰った小林さんに、引退することを話したところが、

「俺はまだまだ、高津くんの試合を観たいと思ってるよ。まだまだこれからの選手だから高津くんは成長すると思うよ!」と励まされ、「この言葉を掛けられなければ、タイで勝つことも、この先の充実した現役生活も無かったと思う!」と語る。

バイヨークタワー脇の路地での興行だが、プロモーターは金持ちです(1995年3月24日)

ローキックで仕留めた、タイでの鮮やかKO勝利(1995年3月24日)

引退した翌年、MA日本キックボクシング連盟で審判員が人手不足となり、小林は先輩方に依頼されて、ジャッジ担当で一度だけの協力をしたつもりが、毎度声を掛けられてしまう。そして断り切れずに続けるうち経験値が増してベテラン域に達した。レフェリーとして25年経過。これまでの多くの経験値から、消え去るのは勿体無いと、キックボクシング界に携わるよう導びかれたような因果応報である。

プロボクシングではレフェリーは立場上、ジム関係者と親密になれない厳しさが常識的だが、コミッションの無いキックボクシング界は、昔から緩やかな傾向がある。それでも試合裁定に影響がないようにジム側と接触を避ける必要も生じ、自然と疎遠となる関係者も居たという。ソムチャーイ高津もその一人で、引退後OGUNIジムのトレーナーとなったが、現在はトレーナー業を離れて長い年月を経た高津氏。現在は小林氏とは度々親しく飲み会に誘うとか。

私(堀田)もタイで高熱を出して入院した時もたまたま小林氏が近くに居て、大阪から来た選手がタイの田舎でデビュー戦を行なう時もセコンドを買って出て、小林氏の声が耳に残るほど何かと手助けを受けたり、他の選手へのその姿を見る縁は深い。良い腐れ縁が続くのもこの業界の傾向。多くの古き関係者も、小林利典氏とは現役時代を語ること多き晩年となるだろう。

ベテランレフェリーとなって試合を裁く小林利典(2016年7月23日)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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◆キックの貴公子

選手コールを受ける松本聖(イメージ画像)

松本聖(まつもとさとる/1953年12月16日、鳥取県出身/目黒)は沢村忠、富山勝治に次ぐ、日本キックボクシング協会系最後のエース格に上り詰めた選手だ。

スロースターターで独自の悲壮感を漂わせながら、忍耐と強打で勝利を導き、後々語り継がれる多くの名勝負を残した。

1972年(昭和47年)春、鳥取県の地元の高校を卒業するとすぐに上京。

キックの名門、憧れの聖地だった目黒ジムに入門した。

当時は入門者が後を絶たない中でジムは溢れかえり、その中では松本聖は無口で社交性も無く、存在感は薄かったと藤本勲(当時トレーナー)氏が語る。

だが練習には毎日通い、受ける指導の素直さ根気強さで成長は早く、同年12月、19歳になってすぐデビュー戦を迎えた。

一見、弱々しくもパンチは強く、勝利を導く試合運びは上手かった。

色白の二枚目で女性ファンも増えたことは、すでにスター候補生だったと言うのは藤本氏。

テレビ放映ではTBSの石川顕アナウンサーから「キックの貴公子」と呼ばれ、更に存在感を増した。

ローキックでのKOも多い松本聖(イメージ画像)

◆松本頼み

デビューから勝ち進むとランキングはジワジワ上昇し、3年後には日本フェザー級1位に定着。チャンピオンは同門の大先輩・亀谷長保だった為、長らく待たされた王座挑戦は、1977年(昭和52年)1月3日、2度のノックダウンを奪われ判定負け。翌年も正月決戦で再挑戦。第1ラウンドに亀谷からパンチでノックダウンを奪うも第3ラウンドに逆転のKO負け。亀谷にブッ倒された衝撃は放送席に白目をむいての失神状態だった。

亀谷長保がライト級に転級後の同年10月、松本聖は日本フェザー級王座決定戦で、河原武司(横須賀中央)に判定勝利し、念願のチャンピオンとなったことで松本の役割はより重大となっていった。

翌年(1979年) 1月、野本健治(横須賀中央)を4ラウンドKOで破り初防衛後、10年半続いていたTBSテレビのゴールデンタイム放映は4月から深夜放送に移行し、そして打ち切りへと業界低迷期へ突入していく中、野口プロモーション・野口修氏は成長著しい松本を起死回生のビッグマッチに起用していった。

野口氏が東洋と日本王座活性化を図り、同年5月、松本は東洋フェザー級王座決定戦に出場。タイの現役ランカーのジョッキー・シットバンカイに圧倒される展開も、右ストレート一発で逆転KOし、日本から東洋への飛躍となった。


玉城荒次郎の勢いに苦戦も狙いすました右ストレートでKO(1983年1月7日)

赤コーナーに立つ姿も定着した松本聖(イメージ画像)

王座獲得後の7月30日、東洋チャンピオンとしてタイ国ラジャダムナンスタジアムに乗り込むと、当時のランカーでムエタイの英雄と言われた、パデッスック・ピサヌラチャンに左ミドルキックで圧倒され2ラウンドKO負け。パデッスックはこの年、タイのプミポン国王から直々にムエタイNo.1(最優秀選手)の称号を与えられるほどの名選手だった。本場で惨敗ではあるが、松本にとってキック人生最も栄誉ある経験を残した。

同年秋、キック黄金期へ再浮上を目指す初のトーナメント企画、500万円争奪オープントーナメントが中量級(63.0kg~58.0kg)枠で行なわれ、松本は初戦で亀谷長保と対戦。雪辱を果たすチャンスと見えた3度目の対戦は、立場逆転した勢いで圧倒的松本有利の声が多かった。しかし亀谷の意地のパンチの猛攻で松本は1ラウンドKO負け。結局松本は先輩亀谷には一度も勝てなかったが、下降線を辿ることなく、亀谷から勝ちへの貪欲さを学んでいった。

東洋王座はタイ人選手に2度防衛。1980年6月28日には樫尾茂(大拳)の挑戦も退けて3度防衛とここまでは短い試合間隔でのタイトル歴とビッグマッチを残していた。

ここからキック低迷期を上昇に導くチャンピオンの責任を背負って戦い続け、1982年(昭和57年)の1000万円争奪オープントーナメントでは56kg級に出場し、苦戦しながらも決勝に進出。酒寄晃(渡辺)との事実上の国内フェザー級頂上決戦では、キック史上に残る名勝負を展開。第1ラウンドに3度のノックダウンを奪われながら、ひたすら反撃のチャンスを待ち、第5ラウンド逆転KOでフェザー級域国内最強の座を手に入れ、年間最高試合に値する激戦を残した。

業界はせっかくのオープントーナメントでの上昇気運も終了と共に再び沈静化に戻ってしまい、松本聖もスーツ姿で会場には姿を見せるが、燃え尽きたかのようにリングに上がることは無くなり、時代の変わり目に立った松本の活躍は見られなくなってしまった。

しぶとい小池忍にノックダウンを奪い返されつつ、圧倒の判定勝利(1983年2月5日)

◆強打の秘訣

松本聖の強打の特徴は手首のスナップにあった。中学時代から器械体操での鉄棒運動で自然と握力が強化されたという。当たる瞬間、手首のスナップを利かした衝撃が多くのKO勝利を生んだ。“スナップを利かせたパンチ”とは実際に他のパンチより効くのか素人には分からないが、当時、別団体のあるジム会長が「松本のパンチはこう打つんだよ!」と若い選手を見本に、アゴに軽く手首のスナップを利かせて打って見せてくれたことがあった。確かに松本氏のパンチは拳を小さく捻るという印象だった。

松本聖と対戦したうちの一人、玉城荒次郎(横須賀中央)氏は、試合の3ヶ月後に「ほんのこの前まで頭の奥が痛かったの取れなかったよ」と語っていた。

また野口ジムのトレーナーは、「松本の打ち方はボクシングの七不思議だな、何であんな打ち方であんな威力出るんだ?」と語ったり、松本聖とスパーリングやった経験がある鴇稔之(目黒/格闘群雄伝No.1)氏は、「ヘッドギアー越しにストレート喰らって、スパー終わって見たら、額に凄いコブができていてびっくりしたのは今でもよく覚えています。松本さんのパンチは豪快さは無く、コンパクトに打つから見た目では凄さは分からないですね!」と語る。

酒寄晃と対峙する松本(1983年3月19日)

ラッシングパワー、酒寄晃とは名勝負となった(1983年3月19日)

1984年(昭和59年)11月、統合団体設立による定期興行の充実により、キック業界が息を吹き返した翌年夏、松本聖が目黒ジムで練習する姿が見られた。

31歳となったが、その動きは悪くなく強打は健在。再起へ確信が持てたのだろう。周囲の要望に応え、2年半ぶりの復帰戦を行なったが、嵯峨収(ニシカワ)と凡戦の引分け。ムエタイスタイルで打ち合いに出て来ないタイプにはやり難さはあったかもしれないが、本番では松本聖の強打は不発。かつての輝きは見られなかった。団体は移り、すでに東洋の松本ではなく、時代が大きく流れた感もあったのも事実。豪勢な引退式に送られることはなく、静かな去り際だったが、観る側が手に汗握る「松本の試合が観たい!」と言う声は絶えることはなかった。

酒寄晃の強打を凌ぎ、ローキックとパンチで逆転KOに至った松本聖(1983年3月19日)

激闘を終えて、国内フェザー級頂点に立った松本聖(1983年3月19日)

◆最後のエース格

日本系やTBS系とも言われた野口プロモーション主催興行は事実上1982年4月3日まで。このメインイベントを務めたのは松本聖だった。轟勇作(仙台青葉)に2ラウンドKO勝利した試合はテレビ東京で放映されていた。団体は移り変わり、後々も目黒ジムから多くのチャンピオンは誕生したが、野口プロモーションが育てた、一時代を担うエース格に成長したスターは松本聖までという区切りとなった。

生涯戦績を見れば日本人とは対戦が多いが、新人時代に村上正悟(西尾)に判定負けと、亀谷長保には3度、あと2人のタイ人との少ない敗戦を含め、63戦54勝(37KO)6敗3分の戦績を残した。

松本聖は引退前から大田区蒲田で妹さんとスナック(=チャンプ)を経営していたという関係者の話。チャンピオンベルトやパネルも飾ってあったとか。その後、松本聖氏は出身地、鳥取に帰郷された様子。

2005年4月に目黒ジムを継承した藤本ジムが元々の下目黒の聖地でジムを建替え、落成懇親会パーティーを開いた際、過去の目黒ジム出身者が集結。松本聖氏も姿を見せ、紹介されていたが、私(堀田)はあの独特の強いパンチの秘密を聞き逃してしまった。指導者となる道には進まなかったが、技術論を語らせればテレビ解説者として技量を発揮しそうな松本聖氏。そんなキックボクシングとの関わりを見てみたいものである。

ブランクを経ての再起は思うように動けなかった嵯峨収戦(1985年9月21日)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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◆柔道の達人

甲斐栄二(かいえいじ/1959年8月19日、新潟県佐渡ヶ島出身)は柔道で鍛えたパワーとテクニックで独特のKOパターンを確立し、そのハードパンチは上位を倒す厄介な存在として注目を集めた。

試合ポスター用に撮られたベルト姿(1986年5月25日)

甲斐は「現役時代はそれほど練習した方ではなかったよ!」と謙遜するが、その基礎となったのが学生時代の柔道。全国高等学校総合体育大会の新潟代表にもなった技術が、キックボクシングでの飛躍に大いに役立っていた。

柔道では「山下泰裕さんとも対戦したことがあるけど、あっと言う間に投げられた!」と笑って言う。

キックボクシングとの出会いは、柔道整復師の資格を取得するため、高校卒業後に仙台の専門学校に通っていた時に「キックボクシングをやりたい!」と言う友人に誘われ、仙台青葉ジムに見学を同行した。瀬戸幸一会長に「キミもやってみないか?」と言われ、興味を持ったことからすぐに入門した。

◆脅威の存在

甲斐栄二は1979年(昭和54年)1月デビュー。4戦目でランク入り。1981年1月にはノンタイトル戦ながら早くもWKA世界ライト級チャンピオン、長江国政(ミツオカ)と対戦。同年5月25日には宮城県で全日本フェザー級チャンピオン、酒寄晃(渡辺)にタイトル初挑戦。いずれも判定で敗れたが、当時の名チャンピオンと対戦する機会に恵まれ、将来を嘱望されていた。

1983年には二人の元・日本ライト級チャンピオン、須田康徳(市原)と千葉昌要(目黒)を右アッパーで次々とKO。この後も甲斐の実力はチャンピオンクラスをKOする脅威の存在となりながら業界は最低迷期。同時期、酒寄晃と再戦もあったが激闘となりながら惜しくも倒された。甲斐に限らず、どの選手も目標定まらず、モチベーションを持続させるのも難しい時代だった。

酒寄晃には今一歩及ばずも強打は唸った(1983年9月10日)

甲斐はビジネスの都合もあって上京。半ば引退状態の中、業界低迷期を脱した時期の1985年7月、ニシカワジムに移籍した甲斐は再び開花。復帰戦ではブランクは関係無いと言える鋭い動きを見せ、越川豊(東金)をまたも右の強打でぐらつかせ、連打で倒した。

甲斐の強打で越川豊をKO(1985年7月19日)

須田康徳には勝利寸前も逆転KO負け(1985年9月21日)

1986年1月には日本ライト級タイトルマッチ、チャンピオンの長浜勇(市原)に挑戦し、頬骨を陥没させる強打でKOし王座奪取。相変わらずのハードパンチャーの脅威を示した。

しかし、追う者から追われる者へ立場が変わるとハードパンチも研究され苦戦が続いた。

同年7月、斉藤京二(小国)との初防衛戦は、やはり狙いを定めさせず、サウスポースタイルに切り替えて来た斉藤を捕らえきれずドロー。11月の再戦では一瞬のタイミングのズレに斉藤の左フックを食って4ラウンドKO負けして王座を奪われた。これで引退を決意したが、翌1987年7月、全日本キックボクシング連盟復興興行に際して国際戦出場を要請され、ロニー・グリーン(イギリス)と対戦も1ラウンドKO負け。9年間の充実したキック人生に幕を下ろした。

◆ハードパンチャーの原点

甲斐栄二は30戦19勝9敗2分のうち、17KO勝利はすべてパンチによるもの。ハイキックも多用したが、蹴りのKO勝ちはひとつもなかった。名ハードパンチャーも「一度はハイキックでKOしてみたかった!」と唯一の心残りを語っていた。

甲斐は元から右利きで、当然ながらジム入門後も右構えで基本を教えられた。しかし元々、柔道で鍛えられて来た経験はキックの右構えに違和感を感じていた。それは柔道の右構えは右手・右足が前に出るキックの左構えに相当したことだった。

斉藤京二第一戦は互いが警戒した中の引分け(1986年7月13日)

チャンピオンとしてリングに立つ甲斐栄二(1986年11月24日)

1983年に須田康徳(市原)を倒した時の甲斐は実績では劣り、勝利はフロックと言われた。余裕の表情のベテラン須田に、右構えからいきなり左にスイッチし、背負い投げを打つ要領で、右アッパーが須田のアゴを打ち抜くKO勝利を掴んだあの瞬発力は柔道仕込み。元々背負い投げが得意だった甲斐は、反則ながら時折、背負い投げも仕掛けたが、右構えでも左構えでも戦えるスイッチヒッターであった。1985年9月に須田と再戦した時も、強打でKO寸前のノックダウンを奪うも、須田の猛攻を受け逆転KO負けしたが、前回の勝利はフロックではないインパクトを与えた。

甲斐は「柔道は空手よりキックボクシングに向いているのではないか!」と語る。腕力と握力、肩と腰の強さ、どの角度からもパンチが打ちやすい柔軟さで戦える柔道の基本は有利だという。

甲斐は身長が162cmほど。「過去のライト級では、俺が一番背が低いチャンピオンだろうなあ!」と笑うが、柔道で培った技術をキックボクシングで最大限に活かし、身長差の影響も感じさなかった。

甲斐栄二の戦歴の中には、1981年に翼五郎(正武館)と引分けた試合があるが、甲斐は総合技ミックスマッチでの再戦を申し入れたという。翼五郎はプロレス好きで、投げを打ち、縺れた際には腕間接を絞めに来たり、足四の字固めを仕掛けたこともある話題に上る曲者だった。当時、総合系格闘競技は無く、一般的にも競技の範疇を超えており、当時所属した仙台青葉ジムの瀬戸幸一会長も取り合ってくれなかったという。

タイ旅行の途中、ムエタイジムを訪れて、久々のサンドバッグ蹴り(1989年1月7日)

◆仲間内

一時ブランクを作り、上京後に復帰を目論んでいた頃、ニシカワジムに移籍する経緯があったが、西川純会長に現役を続ける場を与えてくれた恩は、後に甲斐栄二氏は「意地でもチャンピオンになって西川さんへ恩を返したいと思った!」と語っていた。最後のロニー・グリーン戦は引退を延ばし、最後の力を振り絞っての出場も西川会長への恩返しだっただろう。

ジムワークでは後輩に対し、怒鳴る厳しさはないが、技の一つ一つに「こうした方がいいよ!」など見本を見せて細かいアドバイスをしてくれる先輩だったという後輩達の声は多い。練習時間以外では明るい笑い声で周囲を和ますのが上手。ジム毎に独特のカラーがあるが、ここでは甲斐栄二氏がムードメーカーとなる存在だった。

当時、一緒に練習していた赤土公彦氏は「甲斐さんがスパーリング相手をして頂いたことがあるのですが、手加減してくれていたのに、ガツンとくる重いパンチで、瞼の上が内出血して青タンになったことがあり、やはり凄いキレのあるパンチと実感しました!」と語る他、「甲斐さんは踏み込みのスピードが凄く速くて、蹴りも凄く重いんです!」とその体幹の良さが垣間見られるようだった。

でも「ローキックはカットされると痛いから蹴らないよ!」と甲斐さん本人が笑って語っていたらしい。

引退後は現役時代から勤めていた市川市の不動産会社を受け継いで、社長となって責任ある立場で運営に携わっていた。

後進の指導など業界に残る様子は全く無かったが、後々に出身地の佐渡ヶ島へ里帰りされた模様。現在が現役時代だったら、甲斐栄二氏の柔道技を活かした総合格闘技系の試合出場を観たいものである。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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◆水道工事が運命

須田康徳(すだやすのり/1954年5月10日、千葉県市原市出身)は昭和のTBS系キックボクシング、最後のスター選手。そんなキャッチフレーズが似合う実力とカリスマ性が備わり、まだ団体乱立前の最も価値ある時代の日本ライト級チャンピオンまで上り詰めた。

沢村忠や藤原敏男といった全国に名を轟かす存在ではなかったが、デビューして5年超えの脂が乗りきる二十代後半を迎える頃は分裂が起こり、キックボクシング業界が最も低迷期に突入した時期だったことが悔やまれる。

水道工事店を営む家庭で育った須田康徳は、両親と兄二人と共に家業を営むが、市原ジムの玉村哲勇会長の玉村興業と業務提携で結び付くと、玉村会長はまだ21歳だった須田康徳の運動能力を見抜き、得意の言葉で上手く唆しプロデビューへ導いた。須田康徳にとってもテレビで観た沢村忠や亀谷長保に憧れた想いに惹かれ、1976年(昭和51年)9月、市原ジムに入門。

当時は誰とも喋ることは少なく、トレーナーの指示には首を縦に振るだけで黙々と練習する選手だったとトレーナーは言う。

入門2ヶ月後の11月には早くもデビュー。須田康徳は周囲も目を見張る呑み込みの早さでKOパターンを身に付けた。静かなモーションからの蹴りは意外な印象を与えるほど重い蹴りを持つ連系技として、ローキックからパンチ、右ストレートとアッパーは強烈だった。

スロースターターで早々にノックダウンすることはあったが、眼が覚めたかのような反撃は凄まじかった。“これが当たれば絶対倒せる”といった自信を持ったパンチで必ず立ち上がり、これが逆転劇の好きな日本のファンに感動を与えていった。

レイモンド額賀戦。劣勢から逆転狙う表情(1981.11.22)

レイモンド額賀のパンチは重かった(1981.11.22)

日本系(TBS系)の日本ライト級チャンピオンベルトを巻いた須田康徳(1984.10.7)

◆ピーク時は不運な時代

1978年1月3日には昭和52年度日本ライト級新人王獲得。デビューから13連勝すると「この頃が少し天狗になっていた。」と玉村会長は言う。1979年には早くも結婚したり、タイへ修行も行ったが、「河原武司(横須賀中央)に倒されて、ふて腐れてジムに来なくなった。でも放っておいても3ヶ月もすれば、またジムにやって来る。多かれ少なかれ皆そんな壁にぶつかるんだ。そしてタイ帰りの初戦は皆負けやすい。」と言う玉村会長。現地でチャンピオンらと練習するとムエタイを崇拝し過ぎて、本来の自分のスタイルを見失う。たった1~2ヶ月学んだ程度のムエタイ式にのんびり構えているから、そこを突かれて倒されるのだという。そんな経験も知的な須田は反省と弱点の克服は早かった。

1980年2月の500万円争奪オープントーナメント準決勝でライバルの日本ライト級チャンピオン、有馬敏(大拳)にノックダウンを奪い返してギリギリの判定勝利。同年6月に王座を賭けた再戦では引分けたが、12月の再挑戦では最終ラウンドにノックダウンを奪って判定勝ちし、念願の王座奪取となった。有馬敏越えはキック人生で最も過酷で充実した時期だっただろう。

オープントーナメント決勝での伊原信一(目黒)戦には判定で敗れたが、これがTBS放映での最後のビッグマッチでもあった。

翌1981年1月、テレビ朝日で特別番組を組まれた日本武道館での日米大決戦では、変則技の曲者、トニー・ロペス(米国)をパンチとローキックで翻弄し、4度のノックダウンを奪って大差判定勝ち。国際戦にも備えたチャンピオンとしての戦いで、これから最も輝く時代に入るはずだった。

その後、キックボクシング業界はテレビのレギュラー放映は復活成らず。目標の定まらない須田は引退を口にすることは無かったが、「全く練習しないまま試合に出るようになった。」と玉村会長は言う。団体乱立がより低迷に陥り、輝く舞台を用意してやれなかった玉村会長は煩くは言わなかった。それでも上手い試合運びでKOしてしまう天性の才能には恐れ入ったものだった。しかし強豪とぶつかるとなれば、そうはいかない。

「練習しないといっても、誰も居ない深夜にジムの灯りが点いていて、覗いてみると人の見ていないところではやっていたよ。全盛期には及ばないが須田さんほどの熟練者になると、新人の頃のガムシャラにやる練習とは内容が違ってくるよ!」とジムのすぐ近くに住む後輩の選手は言う。

1982年11月には業界が総力を結集した、1000万円争奪オープントーナメントはその豪華顔ぶれには須田も奮起した。元・ムエタイ殿堂チャンピオンの藤原敏男(黒崎)を倒せば超一流のレッテルが貼られることは王座以上の勲章。須田は初戦でヤンガー舟木(仙台青葉)に判定勝ち。準々決勝で千葉昌要(目黒)を激闘の逆転KOに葬り、準決勝戦では同門の後輩、長浜勇に3ラウンド終了TKOで敗れる意外な脱落で藤原敏男戦は夢となったが、藤原敏男も勝利後引退宣言して身を引き、時代の変わり目を感じた準決勝戦となった。

◆初の名誉チャンピオン

1983年5月、須田康徳は足立秀夫(西川)を王座決定戦で倒し、日本プロキック・ライト級チャンピオンとなったが、団体乱立する中の箔を付けるに過ぎない王座。翌1984年夏、引退興行まで計画されたところ、11月に業界再建目指す四団体統合の日本キックボクシング連盟設立され(後にMA日本と枝分かれ)、ベテラン須田は再び奮起。引退どころか衰えぬ強打で存在感を示した。

ベテラン千葉昌要には劇的逆転KO勝利(1983.1.7)

強打の後輩、長浜勇に不覚を喫する(1983.2.5)

足立秀夫を倒して二つ目の王座獲得(1983.5.28)

中川栄二のしぶとさに手こずるも大差判定勝利(1983.9.18)

香港遠征が多かった時代、現地でも人気があった須田康徳(1983.11.17)

一度敗れている甲斐栄二に雪辱のKOへ結びつける(1985.9.21)

1986年5月、当時のMA日本キックボクシング連盟が仕掛けたテレビ東京での久々の放映復活に際したビッグカードを打ち出し、須田が日本ウェルター級タイトルマッチ、向山鉄也(ニシカワ)に挑戦する試合に起用された。ピークを過ぎた頃に一階級上の激戦の強者、向山との打ち合いは、さすがに過酷だった。一度はノックダウンを奪われ、右アッパーで逆転のダウンを奪ったものの、最後は打ちのめされた。
1987年7月、日本ライト級王座決定戦でも越川豊(東金)に判定で敗れたが、劣勢から逆転に導けない動きの悪さは以前には無かった寂しい姿だった。

「もう一度、須田康徳のチャンピオンベルトを巻いた姿が見たかった!」そんな声も多かった。MA日本キックボクシング連盟での二階級での挑戦は実らなかったが、過去の日本タイトルを含む実績は計り知れない重さがあり、その後も過酷な激戦を続けて来た功績を称えられ、同年11月には、同・連盟代表理事・石川勝将氏(=当時)より“名誉チャンピオン”の称号が贈られた。須田康徳の存在感やデビュー当時からの過程を知る石川代表の粋な計らいだっただろう。

1988年9月、須田は地元の市原臨海体育館で後輩の長浜勇との再戦で1ラウンドKO勝ち。借りを返す形で最後の花道を飾り、11月に後楽園ホールで引退式を行なった。

◆父子鷹成らず

マスコミが一人も来ない。そんな寂しい時代の1984年3月31日、千葉公園体育館で日本プロキック・フェザー級チャンピオン、葛城昇(習志野)との当時のチャンピオン対戦。

そんな激闘必至を迎える前の、朝の計量後に玉村会長から「飯食ったら俺の家の漏水工事やっておけよ、やんないとファイトマネー払わないぞ!」と脅しではないが、試合の日も働かされた須田康徳。会長宅で正味10分程度の水道工事だったが、工具を運び、慣れた手つきで早々に終わらせた姿はさすが職人。玉村会長は選手に強引な言いつけも多かったが、家族のような選手らとの、ゆとりのコミュニケーションであった(試合は互いの持ち味を発揮する激戦の末、須田康徳が僅差の判定勝利)。

葛城昇とはテクニック酷使の激闘で判定勝利(1984.3.31)

そんな須田康徳氏は、デビュー当時から大人しい人だったが、後に長浜勇(格闘群雄伝〈8〉)が入門後、やがてムードメーカーとなると須田氏もよく喋べり、冗談好きで子煩悩な一面が見られる御茶目な本性を表した様子だった。こんな温かい環境で戦って来れたことは幸せな現役生活だっただろう。

「将来は須田ジムを興せ!」と檄を飛ばす玉村会長の暗示には掛らずも、息子さんの悦朗くんをプロデビューさせた。彼は赤ん坊の頃からジム仲間に抱き抱えられ、いつも可愛がられる存在だった。1999年、18歳の時にリングに立ったが、残念ながら3戦程で辞めた様子。父子鷹とはならなかったが、須田康徳氏が育て上げる令和のスターや名誉あるチャンピオンと共に立つ姿が見たいコアなファンの夢は尽きない。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』9月号

◆第一次全日本キック時代

少白竜(=田中正一/元・全日本バンタム級1位/1962年3月9日、神奈川県平塚市出身)は、戦績を37戦18勝(18KO)17敗2分とする、5回戦ではラストラウンド終了のゴングを聞いたことが無かった。アグレッシブに攻めるがスタミナ切れで負けるパターンは多く、勝っても負けても早い回のKO決着必至の男だった。

再デビュー戦で水越文雄と対戦。旧・全日本キック経験者同士(1989年9月24日)

少白竜というリングネームはデビュー戦前の予定表を見て「これ誰だろう?」と思ったら自分だったという少白竜。当時のジムのトレーナーが付けたもので、合気道の創始者、植芝盛平師範から由来するものという。

現役を引退して数年後に再起する選手は何人も存在するが、少白竜は昭和50年代の全日本キックボクシング協会と平成の全日本キックボクシング連盟で戦い、その中間を跨いだ選手である。

キックボクシングを始める切っ掛けは高校一年の時、ブルース・リーや空手バカ一代を見た影響で格闘技に興味を持ち、少年マガジンの「紅のチャレンジャー」という漫画でキックボクシングに憧れ、伊勢原市にあった萩原ジムに入門。

1978年(昭和53年)2月10日、ライセンス制度も確立しない時代で、16歳になる1ヶ月前のデビューだった。1年半で5連続ノックアウト勝利を含め10戦程すると、すでに注目を集め、全日本フェザー級3位にランクされていた。

ランカーらは殺伐とした時代に合ったパンチパーマや強面が多かった。少白竜は内向的ながら、強面猛者達に初回から猛攻をかけ、とても内向的とは思えないという周囲の評判だった。

そんな強面の中では、高樫辰征(みなみ)に1ラウンドKO負け。小池忍(渡辺)には1ラウンドに2度ノックダウンを奪いながら、転んだところを蹴られて負傷TKO負け。甲斐栄二(仙台青葉)とはライト級で2ラウンドにパンチ強打で倒されるKO負け。

1981年元日には酒寄晃(渡辺)の持つ全日本フェザー級王座に初挑戦。さすがに50戦を超える獰猛なゴリラみたいなベテランの強打に屈した。

「酒寄さんはとにかく強かった。パンチ避けられたと思ったら、素早く違うとことから蹴られ重いパンチでわずか2分あまりで倒されました!」というが、この時点でまだ18歳。この先が有望視されるのは当然だった。

少白竜は後列左から2番目。赤土公彦を倒したことで年間最優秀殊勲賞獲得(1992年1月25日)

[写真左]赤土公彦と2度目の対戦。少白竜はやっぱりラッシュも同じ手は食わない赤土(1992年1月25日)/[写真右]交流戦で、時代の流れを感じさせる室戸みさき戦(1992年3月28日)

成長著しい東海太郎(=川野辺顕啓)のセコンドに付く少白竜(1992年11月21日)

◆目指す方向の違いとブランク

しかし、この年の竜馬暁(我孫子)戦でKO負けした際、胸にパンチ貰ってから咳が止まらず試合後入院。思わぬ肺結核に罹っていた為、長期休養を余儀なくされた。幸い安静にするだけで短期で完治したが、体重はかなり落ち込み、パワー不足で引退を決意。しかし再起が不可能ではなく、当時の全日本キックボクシング協会が低迷を脱する計画でマーシャルアーツ(全米プロ空手)化してしまい、方向性が変わったことでモチベーション低下したことが一番の要因だった。

たまたま引退前にはそのマーシャルアーツルール試合は2度経験していた。韓国選手欠場による代打出場での翼五郎(正武館)戦は、1ラウンド2分制の6回戦。ヒジ打ちヒザ蹴り禁止で、腰から上に8本以上蹴らないと段階的に減点で、パンタロン風ロングパンツを穿くシステム。ルールに関係なく乱打戦になると思われたとおり、パンチでノックダウン取って取られての判定、ルールが影響したが、少白竜にとって珍しく引分けた試合だった。

韓国に遠征した試合では、行ってみればWKA東洋フェザー級王座決定戦。李子炯に、これこそ慣れぬルールに阻まれKO負け。目指したキックボクシングを戦えぬ引退後は業界と疎遠になり、トラック運転手で一般社会に溶け込む生活を7年過ごしていた。

[写真左]新開実と対峙。中央のレフェリーは山中敦雄氏(1993年1月17日)/[写真右]一度倒している新開実には倒されてラストファイトとなった少白竜(1993年1月17日)

最後の試合となった新開実戦へのリングイン(1993年1月17日)

◆第二次全日本キック時代

1989年(平成元年)1月、萩原ジムを引き継いでいた東京町田金子ジムから「今度ウチの選手の指導に来てよ!」と金子修会長から誘われ、久々にキックボクシングの匂いに誘われジムを訪れた少白竜は、地元近くの伊勢原市に谷山ジムがあることを聞き、後に谷山ジムに素人のフリしてさりげなく見学に訪れた。

それでも何となく格闘技経験者のオーラは分かるもの。谷山歳於会長に「昔、何か格闘技やってたの?」と聞かれたことで昔話が弾み、家が近いこともあり早速コーチを頼まれてしまった。

だが、その3ヶ月後の7月には、後楽園ホールのリングに上がっていた。練習生より動きが良く、スパーリングでも3回戦選手に負けなかったことから谷山会長に「一回でいいから試合に出てくれないか!」と言われて「一回だけですよ!」と約束して、以前よりウェイトは落ちていたが、無駄なぜい肉の無いバンタム級での再起となった。

その聖竜(武州信長)戦では打ち合いに挑む姿は以前と変わらずも2ラウンドKO負け。すると悔しさから「もう一丁!」と申し出て2ヶ月後、水越文雄(東京町田金子)と対戦。これもKO負けながら勘は戻りつつあった。

翌年1月、元・チャンピオンの亀山二郎(正心館)をパンチとヒジ打ちで初回に豪快KO勝利。1990年7月、チューテン・シッサハパン(タイ)にはヒジ打ちで倒される敗戦も動きは全盛期に戻っていた頃だった。

1991年4月には世代も代わった若い新開実(岩本)を1ラウンドKO勝利。同年9月には全日本フライ級チャンピオンの赤土公彦(ニシカワ)とノンタイトルで対戦。長期王座に君臨する赤土公彦と戦えることに光栄に感じ、これをラストファイトと決めての一戦だった。だが開始からアッパーを強烈にヒットさせて猛ラッシュ。スリーノックダウンを奪って初回KO勝ちのベストファイトと言える内容。これで完全燃焼と思っていたところが、この結果で周囲の期待も高まると次はタイトルマッチを組まれてしまい、辞めるにも辞められなくなってしまった。

翌1992年1月、再び赤土公彦と空位の全日本バンタム級王座決定戦を争った。ハードな本業の疲れから胃潰瘍に罹り練習量も減っていたが、また早いラウンドで倒そうという猛攻は赤土に読まれ、カウンターを食ってKO負け。酒寄晃戦以来の全日本王座挑戦はまたも1ラウンドで逃した。

ラストファイトは1993年1月。一度倒している新開実(岩本)に初回KO負け。谷山ジムの看板選手として現役継続して来たが、後輩の東海太郎が育ってきたこの時期、ようやくリングを去る選択肢を選び、正式に引退となった。

◆リングが呼んでいる

引退後はレフェリーの大ベテラン、サミー中村氏に「次の試合いつだ?」と聞かれ、「やっと引退しました!」と応えると「じゃあレフェリーやってよ!」と誘われ、リングが俺を呼んでいるといったような因果に身を任せ、全日本キックボクシング連盟でレフェリーとしてデビュー。

画像の主役はレフェリー。身のこなしは抜群の少白竜の裁き(2019年11月9日)

後には団体が細分化されると交流戦が増え、昔から所属団体に偏る裁定が起こりがちだった為、2006年に山中敦雄レフェリーを中心にJKBレフェリー協会を発足した。確立したJBCには程遠いが、公平忠実な外部組織として要請があれば各団体へ派遣され、審判団として活動している。

少白竜はノックアウト必至の激闘を繰り広げた時代のトレーニングを今も欠かさない。

「ジムでもミット蹴りだけじゃつまらないんで、まだまだマススパーリングとかやってます。キックは飽きないんですよ。楽しくて!」と語る。

「新空手やオヤジファイトに出場しませんか?」という問いには「もう試合はやりませんよ、痛いの嫌いですから!」と笑うが、戦う本能は現役のように若いまま。心の中の生涯現役を貫く元・選手はここにも居たようだ。

現在はベテランレフェリーの高齢化に対し、自ら好んで批判を受け易いレフェリーを希望する者がいないのが現状。レフェリーを志す信念を持った若者を発掘し育て上げるまで、まだまだリングに立ち続けなければならない少白竜氏である。

裁く側となって中央に立つ少白竜(2019年12月11日)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』8月号

◆目白ジムが原点

青山隆(=青山隆浩/1960年10月20日、東京都板橋区出身)は高校2年の時、目白ジム(後の黒崎道場)に入門。1978年12月デビュー。

子供の頃は運動神経が鈍く、体育も苦手だったというが、高校生の頃には「男として強くなりたい」と志し、テレビで藤原敏男や島三雄の活躍を観たことから、目白ジム入門を決めた。

「後々振り返れば、業界一番と言われるほど厳しいジムだった。こんな厳しいジムで耐え切ったことがチャンピオンに上り詰める基盤が出来たのだろう。」と感慨深く思うという。

「青山の試合は好ファイトになるから楽しみ!」と常連客を呼び込む人気を得ていた青山は、フォーリーブスの青山孝に肖ったアイドルタレントのような端正な顔立ちから女性ファンも多く、花束贈呈は女性の列が長く続く現象も起きていた。

タイ遠征した頃、サンドバッグを蹴る青山隆(1983年11月)

◆ムエタイ遠征も図太く生き抜く

キックボクシング界が低迷期で興行も減った1980年代前半でも、黒崎道場はそのネームバリューから比較的マッチメイクには恵まれていた。1983年に道場は実質的閉鎖され、小国ジムに移行されたが、その傾向は変わらず、1983年11月27日、タイでの試合出場を要請された青山隆は、パタヤでパヤオ・プーンタラットがWBC世界ジュニアバンタム級王座挑戦した試合のセミファイナルでのムエタイ試合だった。

結果はKO負けながら、開始からパンチで圧倒。サバ折りや足払いで対戦相手のノックノイのリズムを狂わせ、ギャンブラーは騒ぎ始める中、ヒザ蹴りに捕まって倒されたが、WBCホセ・スライマン会長も食い入って観るほどの大いに盛り上げた試合だった。WBCがムエタイを手掛ける兆しはここかなと勘繰ってしまう当時の激闘である。

青山は試合を終えると、翌日には予定していたムエタイ修行への一人旅。バンコクに戻ると、知人から貰っていた英文で書かれたメモ書きの住所をタクシーの運転手に見せて、片言の英語だけで何とかフェアテックスジムへ辿り着いた。

主に指導してくれたのはトレーナーをしていたムエタイの英雄、アピデ・シッヒラン氏だった。青山が「一番良い先生に出会うことが出来ました!」と言う言葉どおり、お世話になった後々の日本人修行者は多い。

しかし、青山が修行したこの時代は、現在のようなムエタイ留学や外国人受け入れ態勢など無く、住み込みのタイ選手と同じ待遇で雑魚寝だった。

言葉の壁や選手と輪を囲む食事も問題無くこなし、生水をガブガブ飲んでも下痢は一度もしなかったという。

タイ語を覚える気は全くなかった青山は「俺が覚えたのは“バミーミーマイ?”だけだ!」と言うが、屋台で食べたラーメン。これだけは何度も注文したから二度と忘れることはなかったという。後々、日本でタイラーメン店を経営に至る原点はここにあったのかもしれない。

ヤンガー舟木と共に30代半ばまで長い現役生活となった両雄(1983年3月19日)

渡辺明に判定負け、団体分裂で再戦は叶わず(1983年9月10日)

◆ピークを過ぎても闘志衰えず

ライト級ではパワー不足と言い、フェザー級に拘った新人時代から「俺は骨太で体重は落ち難い」という減量苦が付き纏いながらも激戦を展開した青山隆。

1982年11月からの1000万円争奪オープントーナメントでは56kg級を諦め、62kg級で挑むも、初戦で日本系の大ベテラン、千葉昌要(目黒)にあっさり1ラウンドKOで敗れ去った。

1984年11月のメジャー化に向けて動き出した画期的4団体統合の日本キックボクシング連盟では、王座に向けて2連戦となった鹿島龍(目黒)にはいずれも激戦の判定負け。

その打たれても向かっていく凄絶ファイトで不破龍雄(活殺龍)、嵯峨収(ニシカワ)を下し、再び王座挑戦のチャンスを掴んだ1986年9月20日、かつて黒崎道場で、一歳年上ながら後輩でほぼ同期の親友でもあったチャンピオン、葛城昇(=稲葉理/習志野)をわずか1ラウンド37秒、右フックで倒し、念願の日本フェザー級王座奪取に成功(第3代MA日本)。

鹿島龍には2連敗、後々もう一度観たいカードであった(1985年3月16日)

不破龍雄に判定勝ち、我武者羅に向かうファイトが人気を呼んだ(1985年11月22日)

タイトル挑戦前哨戦での山崎道明戦は、なんと3回戦で引分け(1986年7月13日)

花束を贈るファンは多く、華やかなリング上だった青山隆(1986年7月13日)

チャンピオンとして真価が問われる戦いは、当時復興の全日本キックボクシング連盟へ移行する事態はあったが、欧米等の国際戦を経て、1988年3月の初防衛戦で、ついに減量の限界がやってきた。試合の3日前、蒸し風呂に入って意識を失い倒れてしまい、減量は断念。オーバーウェイトで王座は剥奪されたが、挑戦者のスイート金吾(大和)をヒジ打ちで圧勝。更なる上位へ踏み出した(移籍時は第8代全日本フェザー級チャンピオン認定)。

その後のライト級転向も、懸念されたパワー不足と、台頭してきた川谷昇(岩本)や杉田健一(正心館)に敗れるも、引退の兆しは感じさせず地道に這い上がってきた。

1992年1月、全日本ライト級チャンピオンとなっていた川谷昇への挑戦は引分けで二階級制覇は成らず。その後ブランクを作ると、誰もが引退したと思ったが、「まだ辞めないよ。ウェルター級で再起しようかと思って!」と冗談交じりに話す青山だが、キングジムへ移籍しての再起は2年後の1994年6月。時代も更に移り変わり、若い内田康弘(SVG)にヒザ蹴りで1ラウンドKO負け。

更に翌1995年3月に勝山恭次(SVG)に判定負けした試合を最後に、今度は完全にリングから遠ざかったようだった。

しかし40歳を超えた頃、「ジョージ・フォアマンの年齢を超えてやろうか!」と、45歳で世界ヘビー級チャンピオン(WBC・IBF)に返り咲いたジョージ・フォアマンを例えて笑っていたが、いずれ本気で再起する気だったのだろうか。ジムワークを続けていた青山ならやりかねない状況が続いたが、タイで覚えた“バミー”(タイラーメン)を引き金にいろいろな飲食業に挑戦したビジネスも軌道に乗り、さすがに復帰の道は無くなっていた。

王座まで長い道程だったが、わずか37秒であっさり奪取、葛城昇を倒す(1986年9月20日)

初めてのチャンピオンベルトを巻いたリング上の姿(1986年9月20日)

◆兄貴分気質

最終試合後はキングジムで、ミットを持って若い選手の指導に厳しく当たっていた。黒崎道場出身者は皆、存在感にオーラがあり、キツい練習をさせるのが当たり前だった。青山隆もミット蹴りの終了間際では、選手がバテているところで終わらず強い連打を蹴らせ、「最後に強いの一発!」と声を荒げ、バテて強く蹴れないと「弱い! もう一発!!」と延々終わらない鬼コーチぶりを発揮する。しかし厳しさを撥ね返してくる選手は手応えがあるが、昭和の殺伐とした時代を知らない現代っ子には意思疎通が難しくなった様子も伺えるようだった。

そんな厳しい指導をする青山もプライベートでは後輩を連れて飲みに行く等、慕われる存在である。

かつて青山隆の後輩で、後にタイでムエタイジムを運営して殿堂チャンピオンを育て上げた伊達秀騎氏は、アルバイトしてはタイ修行を繰り返して金を使い果たしていた時期のことについて、「青山さんから電話が掛かってきて、『メシ喰ったか?』と聞かれ、『ちょっと今金無くて……』と苦し紛れに応えると、『バカッ、お前、電話しろよっ!』って怒られて、食事に連れて行ってくれる情に厚い兄貴分でした。食えない時期に何度も助けてくれたことは一生忘れられないですね!」と語る。

2012年12月には、肺癌を患って入院していたアピデ・シッヒラン氏への御見舞に約30年ぶりにタイへ渡った青山隆氏。アピデ氏や家族の方々もわざわざタイまで来てくれたことに感激していたという。30年前の恩を忘れない、恩師は親、後輩は弟のように人情が厚い。

青山氏は現役引退したつもりは無いようで、「自分の中では死ぬまで現役です。今でもトレーニングはしています!」と力強く言う。

後輩への指導は、昭和の厳しさではなかなか付いて来ない時代だが、人情厚い指導で令和の青山流チャンピオンを育て上げて貰いたいものである。

画像はおとなしく見えるが、指導はここから厳しくなる青山隆(1996年9月12日)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』7月号

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