◆渡邊ジム初のチャンピオン

酒寄晃は1953年(昭和28年)4月、茨城県出身。第4代、第8代全日本バンタム級チャンピオン、第7代全日本フェザー級チャンピオン。現在も続く名門・渡邉ジム最初のチャンピオンとして、キックボクシング界黄金期から斜陽化時代に、強面でパワフルにKOを狙う負けん気の強さでチャンピオンの座に長く君臨した。

1972年(昭和47年)4月、19歳でデビューした酒寄晃は、元々プロボクシングの経験があったが、芽が出ずキックボクシングに転向してきた経緯があった。新人時代は伸び悩んだりジムから遠ざかったりと周囲から期待も小さかったが、それまでの下積みが基盤となって徐々に実力開花していった。

1974年11月6日に茨城県水戸市での全日本バンタム級王座挑戦では、所属する渡邊ジムが一丸となって酒寄晃をバックアップ。ジム設立5年目にして初のチャンピオン誕生を目指していた。そして俊善村正(烏山)をパンチで4ラウンドKOして王座獲得。当時の全日本・協同プロモーション系は日本テレビ系で放送されていた時代。現在と違い希少価値あるチャンピオンの名は全国に轟く効果があった。そんな全盛期、毎月の試合も志願した酒寄晃だったが、誰もが通る試練もやって来た。

◆スランプから開花

1975年7月7日、茨城県笠間市で俊善村正との再戦に薄氷の引分け初防衛したが、1976年4月24日、茨城県下館市で渡辺己吉(弘栄)に4ラウンドKO負けで王座陥落。

1977年6月17日、日本武道館で渡辺己吉と再び王座決定戦を争うが、判定負けで返り咲き成らずも、渡辺己吉の引退で1978年2月10日、酒寄晃は王座決定戦で隼壮史(栄光)に2ラウンドKO勝利して王座返り咲き(以後・後楽園ホール)。減量苦もあったが、スランプを脱したその勢いで同年7月22日、全日本フェザー級王座決定戦で、花井岩(雷電)に判定勝利して二階級制覇。第7代全日本フェザー級チャンピオンとなる。バンタム級王座は返上。

酒寄晃が更に自信を深めたのは1979年9月、タイの二大殿堂ジュニアライト級元・チャンピオンで、長江国政や藤原敏男も下している上位ランカーだったビラチャート・ソンデンをパンチでKOしたことだった。

渡邉信久会長も後に、「酒寄はごく普通の入門生で、気は強そうだったがムラッ気があって成長に時間が掛かったが、こんなに強くなるとは思わなかった。」と語るほどだった。

とにかくブン殴れば倒れない相手はいないと自信を深め、KOを狙う試合が増えていった。

翼五郎(東洋パブリック)、金沢竜司(金沢)、佐藤正広(早川)、少白竜(萩原)、甲斐栄二(仙台青葉)らを退けた中、1981年元日の挑戦者だった、当時まだ18歳の現・レフェリーの少白竜氏は、

「50戦を超える獰猛なゴリラみたいなベテランの酒寄さんはとにかく強かった。パンチ躱すのが速く、違うところから素早く蹴られ、重いパンチでわずか2分あまりで倒されました!」と恐怖?体験を語る。全日本フェザー級王座は5度防衛に達したが、当時はキックボクシング界が低迷期に入り、1981年は業界分裂・新団体設立が始まった年だった。

◆頂上決戦

1982年1月4日、日本プロキック・フェザー級王座決定戦で、玉城荒次郎(横須賀中央)に4ラウンドKO勝利で新王座獲得。

1982年7月、日本ナックモエ・フェザー級王座決定戦で、佐藤正広(早川)に判定勝利して新王座獲得。

細分化していく業界だったが、酒寄晃は分裂の度に王座決定戦を制し、常に頂点に君臨。現在のような、戦わずにチャンピオン認定など行わない正当な制度だった。
その実力を証明する1983年3月の1000万円争奪オープントーナメント56kg級決勝7回戦は事実上の日本フェザー級頂上決戦の構図となり、年齢もデビュー時期も近く、同時代を生きつつも戦うことは難しかった日本系(旧TBS系)で成長して来た松本聖(目黒)と拳を交えた。

初回、酒寄が先にフラッシュダウンはするものの、逆にパンチで三度のノックダウンを奪いながら、第2ラウンド以降、松本のパンチとローキックで酒寄はリズムを徐々に崩し、セコンドからの「お前の方がパンチ強えんだからパンチで行け!」という声も、解っているけど当たらない、もどかしい表情で松本に向かうが、歴史に残る名勝負となる激戦を残しながら5ラウンド逆転KO負けを喫した。松本よりパンチも蹴りも、打たれ強さも兼ね備えていながら敗れたのは、「慢心から来るものだった」と深く反省したという。

強いパンチと蹴りで松本聖を苦しめたがKOには繋げず(1983.3.19)

松本聖のローキックに苦しめられたのは酒寄晃(1983.3.19)

酒寄晃のパンチは重かった。第1Rには圧倒したが……(1983.3.19)

気が強い酒寄晃、心機一転、甲斐栄二戦に臨む(1983.9.10)

本領発揮、右ハイキックで甲斐栄二を苦しめる(1983.9.10)

強打者同士、鼻血を流したのは甲斐栄二(1983.9.10)

まだまだ全盛期、引退の陰りは無かったが……(1983.9.10)

◆昭和のレジェンド

その後、日本統一王座を決する計画が進められ、松本聖との再戦が浮上したが、組織の細分化は再集結には難しい不運な時期だったこともあり、統一戦は実現に至らず、1984年夏、長年のライバルの佐藤正広(早川)にKO勝利した試合をラストファイトとして引退を決意。

同年の1984年11月、業界が急好転し期待された4団体統合の日本キックボクシング連盟設立で、酒寄晃の再度の活躍が期待されたが、すでに31歳。長年の激戦からくる故障もあってモチベーションを高めるには至らなかったようだ。同門の新鋭・渡辺明がタイトルを争うまでに成長して来た影響もあっただろう。

そして翌年の6月7日、盛大に引退式を行ないリングを去った。

[写真左]引退セレモニーでの御挨拶、風貌に似合わず優しい口調で感謝の言葉を述べられた(1985.6.7)/[右]テンカウントゴングに送られる酒寄晃、13年の現役生活だった(1985.6.7)

 

引退興行の当日プログラムはポスターとともにインパクトがあった(1985.6.7)

強面顔の酒寄晃は、近寄り難いタイプながら仲間内では明るく振る舞うムードメーカー的だったとも言われ、渡邉会長の厳しい指導もあっただろうが、「性格は繊細でジムでも練習道具は整理整頓し、試合で使用するバンテージも鮮やかなほどキレイに巻いていた。」と言われるほど几帳面だった。

引退後は若い職人を従えての内装建築業を営み、その繊細な心で事業を展開していた様子。

「引退当時はジムによく来ていたよ。」という渡邊会長も、事業が忙しくなった様子で後には姿は現さなくなったという。「今は何しているのかなあ!」という古い時代の渡辺ジム関係者達である。

全日本系列では歴史上、藤原敏男、大沢昇、島三雄、岡尾国光、長江国政、猪狩元秀といった名チャンピオンが名を連ねる中、後に分裂で道は分かれたものの、酒寄晃は昭和の名チャンピオンに並ぶレジェンドだったと言えるだろう。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
昭和のキックボクシングから業界に潜入。フリーランス・カメラマンとして『スポーツライフ』、『ナイタイ』、『実話ナックルズ』などにキックレポートを寄稿展開。タイではムエタイジム生活も経験し、その縁からタイ仏門にも一時出家。最近のモットーは「悔いの無い完全燃焼の終活」

「レフェリー、リー・チャンゴン~!」とリングアナウンサーにコールされ、文字にしてもカタカナ書きの方が馴染んだ響きである。昭和40年代にTBSテレビで放映されたキックボクシングの隆盛時代に、現在とは比べられないほどのレフェリーの威厳があったその姿と名前が全国に広まったのも事実でした。

「荒れる試合は俺が裁く」を貫いた李昌坤レフェリー(1981年5月19日)

ノックダウンからファイトを促す李昌坤レフェリー(1982年11月19日)

◆導かれた運命

昭和の名レフェリー、李昌坤(リ・チャンゴン/1942年6月20日東京都目黒区出身)は在日韓国人として永く活躍し、日本名は岩本信次郎。軽快なフットワークと適確な判断で試合を裁き続けた。

1966年(昭和41年)6月にレフェリーとしてデビューして以来、野口修氏が興したキックボクシングの表も裏も知り尽くし、1990年(平成2年)に第23回プロスポーツ大賞「功労賞」を受賞している人物である。

李昌坤氏は中学2年生の時、たまたま近所にあったボクシングの野口ジムに遊びに行くようになったのが格闘技との最初の出会いだった。当時は厚木基地や新橋駅前などで「ベビーボクシング」なるお祭りイベントが開催されていて、気が強いガキ大将だった李昌坤氏は中学生クラスの“ハビー級”として参加。試合後にはお菓子を貰っていたという。

そんな運命でジムに通い続け、高校三年生になるとプロボクシング4回戦でデビュー、新人王の準々決勝まで進んだが、腰を痛めて止む無く現役を断念した。

◆昭和のキックボクシング、レフェリーとして参加

高校卒業後は近所の板金屋で働きながら、野口ジムのトレーナーをしていたが、1966年1月(昭和41年)、野口進会長の長男・修氏が日本キックボクシング協会を設立された際、李昌坤氏はレフェリーとして導かれた。それまでは日本名を使っていたが、日本vsタイの試合に韓国人としてレフェリングすることで国際色豊かにしようという協会の思惑で、本名・李昌坤として参加することになった。

翌年2月26日、TBSがキックボクシング中継を始め、創生期からブームとなったスター沢村忠の多くの試合を中心に、首都圏の他、地方興行を転々としながらレフェリーとしてリングに上がり続けた。

名勝負として今も語り継がれる富山勝治vs花形満戦、富山勝治vs稲毛忠治戦や、後には藤原敏男の試合も裁いた経験を持ち、竹山晴友が活躍した昭和60年代でもメインレフェリーとして裁いていた。

富山勝治の試合担当は多かった李昌坤レフェリー(1983年11月12日)

勝者・富山勝治の手を挙げる李昌坤レフェリー(1983年11月12日)

長いレフェリー生活の中では多くのエピソードを持つ李昌坤氏。

「確か甲府での試合で、沢村が真空飛びヒザ蹴りを出したら、相手がロープまでふっとんで一番上のロープが切れてしまったんですよ!」といった忘れ得ぬ思い出や、更には自身に災難が降り掛かることもあった。空振りした沢村の蹴りが横腹に入り、悶絶の危機も何とか凌いだレフェリング。これが一番痛い思い出で、試合後の控室に沢村がやって来て、「リーさん身体大丈夫? ゴメンね!」とは沢村らしい気遣いがあって嬉しかったが、一週間ほどまともには動けなかったという。

テレビ放送が打ち切りになり、興行も不定期になってきた昭和50年代後半、多くの業界関係者が撤退していったが、李昌坤氏はそんな時代もレフェリーを辞めなかった。

それは「俺が試合を裁く。俺が判定を下す!」というレフェリーとしてのプライドを人一倍持って日本系レフェリーのほとんどを厳しく指導し、レフェリングの基礎を作ったことを無駄にせず、次の時代へ繋ぐ責任を感じていた。

キックボクシング創設以来、10年以上務めた功労者が表彰、李昌坤氏もその一人(1985年11月22日)

時代が流れた昭和60年代、勝者・向山鉄也の手を挙げる李昌坤レフェリー(1985年11月22日)

◆存在感に陰り

李昌坤氏から教わったレフェリーは皆フットワークが軽く、

「ファッションモデルみたいな動き」という批判的な関係者も居た中、時代の流れは徐々に李昌坤氏にとって窮屈な世界となっていった。ムエタイ崇拝者が増え、レフェリングもムエタイ式に移行してきた点から、各ジムからレフェリーに求められる裁き方の認識が変わって来たのだった。

首相撲でのブレイクアウトの早さ、崩しでの縺れ倒れ行く選手を支えない、軽く当たったパンチでのスリップやプッシュ気味でのノックダウン扱いなど、昔ながらのレフェリングが受け入れ難くなる傾向があった。名レフェリーたる存在が敬遠されがちになると、次第に出番が少なくなっていく中の1996年2月9日、最後の花道を作ってくれたのは士道館主催興行だった。最後のレフェリングとなったフェザー級5回戦、室崎剛将(東金)vs松田敬(目黒)戦の後、「李昌坤引退セレモニー」が執り行われた。李昌坤氏はリング上で奥さんと華やかなチマチョゴリ(韓国の民族衣装)を纏った三人の娘さんに囲まれ、最後のリングに華を添えた引退セレモニーだった。

李昌坤氏は「これで終わりなんだなと思った時、寂しさより、ここまでやって来れたんだなという思いの方が強かった。引退式をやって貰って本当にけじめがついたよ!」と語る。

時代とともに昔のレフェリーが一人ずつ消え、元々所属した日本系野口プロモーションの最後のレフェリングとしての締め括れた安堵感があったようである。

「本当に陰の人でしたね。沢山の名勝負を裁いて来たのにね!」とはキックボクシング創始者、野口修夫人・和子さんの当時の語り。

[左]試合直前の注意勧告する李昌坤レフェリー(1992年9月19日)/[右]最後のリングに上がる李昌坤レフェリー、裁いた試合は3000試合以上(1996年2月9日)

引退セレモニーで観衆の声援に応える李昌坤レフェリー(1996年2月9日)

自身のお店でインタビューを受ける焼き肉屋のオヤジ、李昌坤氏(1996年2月15日)

◆昔ながらの頑固レフェリーからの助言

李昌坤氏は、業界の中心的存在だった目黒ジムの選手に「目黒ジムには沢山強い選手が居て、練習が他のジムより充実しているんだから、試合で引分けなら実質は負けと同様なんだぞ!」と厳しい指摘を言われたこともあったという。また、「地方の選手には冷たく、反則ではないのに、“今度やったら減点取るぞ”とか言われて、だからリー・チャンゴンは嫌いだ!」という批判も聞かれるのは毅然としたレフェリングを行なうが故の嫌われ文句だろう。

後輩への指導では「レフェリーやジャッジ担当で、もしミスっても毅然と振舞って自分の裁定に自信持て!」と言うなどの忠告もあって、他団体のレフェリーでも「李昌坤さんのレフェリングはかなり意識していましたね!」という話は多い。

またレフェリーの振舞いや運営の不備など、他のスタッフが気付かなくとも李昌坤さんは気付いて動くという点は熟練者の視野の広さがあった。

「観衆の中で雑談はするな。必要以上に会場内をうろつかず待機場所に居ろ。裁いている試合に対し、同じ位置に3秒以上立ち止まるな。テレビカメラ側に極力立つな。身だしなみに気をつけろ!」といった振る舞いには、元々はプロボクシングから受けた指導が基礎となったものだった。古い体質ではあったが、威厳ある李昌坤氏ならではの存在感だった。

李昌坤氏は若い頃、板金屋やトラック運転手なども経験したが、後に目黒ジム近くで焼き肉屋「大昌苑」を経営。レフェリー引退後も継続し、かつての野口プロモーション関係者が集まることも多い賑やかさを見せて、良きキックボクシング時代を語り合う穏やかな晩年を過ごしていた。お客さんからの注文を語気強く受け応え、かつてのレフェリーの面影があったが、その接客は気さくで常連客が多い焼き肉屋のオヤジであった。

(取材は1996年2月当時のナイタイスポーツで取材したものと、後々に何度も大昌苑を訪れて李昌坤氏にお聞きしたエピソードを参考にしています。)

◎堀田春樹の格闘群雄伝 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=88

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

◆無名に終わったボクシング時代!

ガルーダ・テツ(武本哲治/1970年7月5日、岡山県備前市出身)はアマチュアボクシングからプロを経て、キックボクシングに転向。対抗団体エース格、小野瀬邦英に倒されてはまた挑み、同時期に活躍した別団体の立嶋篤史、小野寺力らとは違った荒くれ者的存在でも、実は心優しい、大阪が拠点のキックボクサーだった。

我武者羅に向かった小野瀬邦英戦初戦(1995年10月21日)

腕白な幼少期を過ごした小学生4年生の時、8歳上の兄がボクシングでインターハイ出場し、「兄貴が出来るなら俺も出来る」と、プロボクシングの世界チャンピオン目指し、高校入学とともにボクシング部へ入部。

16歳でのアマチュアボクシング初戦がルール知らない為の失格負け。オープンブローは注意されても分からなかったという無頓着ぶり。「俺が負けるわけがない!」と思っていた天狗の鼻へし折られて、ここからしっかりルールを勉強。バンタム級で国体岡山県2位(準優勝)まで進出。アマチュア戦績14戦8勝6敗。

1989年(平成元年)3月、高校卒業すると大阪で就職と共にプロボクシングを始め、同年7月18日、陽光アダチジムからバンタム級でプロボクシングデビューするも判定負け。

1990年、デビュー戦で負けた相手との再戦となった西日本バンタム級新人王トーナメント決勝に進むも、またも判定負けでの準優勝には落胆した挫折を味わった。
更にお祖母ちゃん子で育った武本哲治は大好きだった祖母の死去もあって、半年ほどボクシングから遠ざかった日々を過ごしたという。プロ成績6戦2勝3敗1分。

◆ガルーダ・テツ誕生!

翌年、知人にキックボクシング観戦に誘われた大阪府立体育会館で、「あっ、オモロそうやな、これやったら一番に成れる。これからはキックボクシングや!」と天職への新たな決意。

小野瀬邦英戦第2戦のリングに上がった直後の表情(1996年2月24日)

プログラムの広告は、大阪では勢力あった北心ジムが大きく掲載されていたが、「こういう募集広告がデカいところは行かん方がいい」と考え、大阪横山ジム入門。プロボクシングで所属した陽光アダチジムは、ちょっと理想と違っていて、そんな警戒心が働いた。

プロボクシングと比べればキックボクシングは人気・知名度は落ちるが、「この団体で一番になったる!」と当時存在した大阪拠点の日本格闘技キック連盟で、目標持ってジムに通うようになった。

1992年1月23日、フェザー級でのデビュー戦はローキックを凌げずKO負け。いずれのデビュー戦も敗北からのスタートとなってしまった。更にパンチからキックへの連係はなかなか難しく、2戦目は引分け。

そんな頃に心機一転、リングネームを付けようと当時トレーナーで元・プロボクサーのアンチェイン梶さんに相談すると、昭和のキック漫画にもあった“ガルーダ”を提案された。

「インド神話に登場する神の鳥」と言う意味があるらしいが、期待した名前ではなく、しかし先輩の好意に拒否も出来ず、本名の一文字を加えたガルーダ・テツとなったが、ここから飛躍できたことで、後々アンチェイン梶氏に感謝の念は強いと言う。

組織が確立したプロボクシングでは、JBC管轄下のしっかりしたルール・システムで運営されているが、その実態を見ているガルーダ・テツは、キックボクシングは何といい加減かと思う事態も経験。計量は一般家庭用ヘルスメーターで、柔らかい床で量ったりと、しっかり調整して来たのにアナログの目盛りがちょっとオーバーになって文句言おうもんなら「そんなこと言うんか?みんな平等やからな!」で抑え込まれてしまった。

「理不尽なこと沢山あったけど、これも運命と全てのことを受入れて、ただひたすら一番目指して頑張りました!」と語る。

小野瀬戦第2戦、得意のパンチでクロスカウンター(1996年2月24日)/テンカウントアウトされた瞬間の表情、悔しさが表れる(1996年2月24日)

◆小野瀬邦英との抗争!

ここから7連勝した1994年12月、西日本キックボクシング連盟が新たに設立された(前身は日本格闘技キック連盟)。関西のジムが集まって設立された北心ジム中心の団体だった。

この設立興行で、ガルーダ・テツはムエタイの強者、ピーマイ・オー・ユッタナーコーン戦を迎えることとなった。

「あの立嶋篤史や前田憲作に圧倒勝利した超一流ピーマイがこんな大阪の弱小団体にホンマに来るんかいな?」と半信半疑だったというガルーダ・テツは、本物ピーマイと対面するまで信じられなかったという。

「ピーマイの偽者ぐらい簡単に用意出来るやろう」と過去のキックボクシング界の替え玉説も耳にしていたガルーダ・テツ。ところが計量で視界に入って来たのは本物ピーマイだった。相手が誰だろうと全力で倒すことを信念で戦って来たガルーダ・テツも、ちょっと緊張が走ると共に俄然気合いが入ったのも当然だった。

この設立興行を前に思わぬ知らせが入っていた。ジムにFAXで送られてきたのは「西日本ライト級チャンピオン、ガルーダ・テツ」の肩書きと名前だった。

当時、東京の日本キックボクシング連盟で、関東vs関西の対抗戦が企画される中の、チャンピオンに認定される興行の都合だった。団体枠ではあるが、ひたすら目指したチャンピオンの座はタイトルマッチを迎えることなく紙切れ一枚で達成されてしまった。

その肩書きで同年12月20日、対峙したピーマイは距離の取り方が上手く懐が深い。視界に入って来ないような鋭いハイキックや脚を潰しに来る重いローキック、接近すれば吹っ飛ばされる前蹴りに翻弄されて判定負けに終わったが、東京進出に先駆け貴重な経験を積むことが出来た。

引退前の神島雄一戦は圧倒の判定勝利、この後引退宣言(2000年6月4日)

東京での初戦は翌1995年4月の佐藤剛(ピコイ近藤)戦。この佐藤剛とは後に再戦して2戦2勝。後に日本キック連盟ライト級チャンピオンとなる小野瀬邦英に対しては雑誌に挑戦状を送り付けて公開アピールしていた。何か批難すればよりヒートアップする互いの発言も過激で、初戦は1995年10月21日、「何かムカつく存在で、本当に殺してやろうか、って言うぐらいの気持ちで迎えましたよ!」というも捻じ伏せられてKO負け。

対小野瀬戦3戦目までは作戦を立てないのが自己流だったが、倒されるには原因があると、4戦目でしっかり作戦を立て、ローキックで小野瀬を倒せそうな流れも、ヒジ打ちで切られて逆転負け。ドクターに「ちょっと待ってよ!」と言っても待ってはくれなかった。「あと2発蹴ってたら倒れただろうに!」と悔しい敗北。

小野瀬邦英と同門の大塚一也(同・連盟フェザー級チャンピオン)には倒し倒され1勝2敗。

2000年6月、神島雄一(杉並)に判定ながら完勝したリング上で引退を表明。

「最後はこの男と戦わないと辞められへんと思っていたので、マイクでアピールしました。」と最後の相手として小野瀬邦英を指名。

同年12月の引退試合でも特攻精神は変わらず。小野瀬の猛攻にヒジ打ちで額を切られ、4度のノックダウンを喫しながら立ち上がった判定負けで、最後まで前に出続けた壮絶な完全燃焼。5戦して一度も勝てなかったが、負けても悪態付く為、小野瀬がより一層対抗してくれたことが知名度アップに繋がった良きライバルに巡り合えた現役生活だった。

特攻精神で挑んできた現役生活で、入場テーマ曲は「勇ましくリングに向かおうぜ!」という意気込みで「出征兵士を送る歌」などの軍歌は会場が異様なムードに包まれたが、荒くれ者キャラクター、ガルーダ・テツらしさがあった。プロキック戦歴:34戦16勝(8KO)14敗4分。

引退試合の小野瀬邦英戦、最後も容赦なく攻められた(2000年12月9日)/引退セレモニーにて、小野瀬邦英から労いの言葉が贈られた(2000年12月9日)

引退テンカウントゴング後、仲間らに胴上げされたガルーダ・テツ(2000年12月9日)/戦い終えた控室、横山義明会長とのコンビも抜群だった(2000年12月9日)

◆日本列島テツジム計画!

今年、大阪から東京進出して、2月20日に葛飾区立石でテツジム東京をオープン。

引退後の、2001年8月、岡山県備前市で始めたテツジム時代から今年10月29日に森井翼がNKBバンタム級王座奪取するまで計5名のチャンピオンを輩出。

過去には、2006年9月に岡山でテツジム主催初興行「拳撃蹴破」を開催し、2013年1月には大阪市都島区にテツジム大阪開設。現在、東京を軸に国内9ジム、韓国に1ジムを開設。今後、中国四国、北陸、九州、北海道にも進出して日本列島テツジム計画を目論んでいる。

また、ジム経営とプロ興行に留まらず、2015年11月、オヤジファイトのキック版、オヤジ・オナゴキックをスタート。東京では2019年5月26日にゴールドジムで初開催。通算20回ほどの開催に達している。

「イベントは1~2回やるのは簡単なんです。でも世間に浸透させるには何回も繰り返していかないと駄目なんです!」と“継続は力なり”を実践してここまで活動範囲を広げて来たガルーダ・テツ。ここまで来れたのはガルーダ・テツの優しい人柄が表れ、支援者が多かったのも事実だろう。東京での物件探しもジム経営は難しい条件下でも京成立石駅間近に見付けることが出来たのも仲間の縁。現在、小学校一年生も通う53名の会員が居るという。

今後は、日本列島の各テツジムからプロ興行の更なる充実、オヤジ・オナゴキックの全国浸透を目指し、現役時代以上となる有言実行の活動が気になる今後の展開である。

チャンピオン4人誕生時の剱田昌弘とツーショット(2022年6月18日)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

7日発売!タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2023年1月号

◆アマチュア四冠

大城宝石(=オオシロ・ジュエル/2007年10月30日沖縄県名護市出身)は地元のエボリューションムエタイジム所属で現在中学3年生。アマチュア戦績は29戦21勝5敗3分。

試合場で昨年引退した元・J-GIRLSチャンピオン紅絹とツーショット

先日の8月7日、ゴールドジムサウス東京アネックスで開催されたRISEクリエーション主催のアマチュアキックボクシング大会「RISE Nova」で、全日本女子47kg級トーナメント優勝と共に、アマチュアRISE女子47kg級王者となりました。

大城宝石はアマチュアRISE王者と言っても、多数居るアマチュア王者の中の一人に過ぎませんが、地元では次世代スターとして、沖縄テレビやNHKに取り上げられるほど存在感があります。

大城は小学5年生からキックボクシングを習い始め、昨年、中学2年生の11月にアマチュアイベント「HATASHIAI」沖縄女子50kg級王者となり、同年12月に全日本U-15女子45kg級王者(一般社団法人アマチュアキックボクシング協議会認定)、今年3月にK-SPIRIT女子45kg級王者(沖縄県キックボクシング連盟認定)のタイトルを含む三冠王として今回、RISE王座に挑みました。

今回の試合記録。

47kg級準々決勝戦 (1ラウンド/3分制) 判定3-0
大城宝石 vs 黒川真里裳(NEXT LEVEL渋谷/東京都)

47kg級準決勝戦 (1ラウンド/3分制) 判定3-0
大城宝石 vs 安禮辰(GYM HAK/北海道)

47kg級決勝戦 (2ラウンド/2分制) 判定3-0
大城宝石 vs 髙橋美結(T-KIX/静岡県)

フライ級で活躍、現役・小林愛三チャンピオンとツーショット

◆障壁を乗り越えて

RISEとは2003年2月より活動を始め、プロでは今やビッグイベントを開催する有名な興行プロモーションで、那須川天心の出身母体でもあります。アマチュア大会に於いては全国各地で年間10大会以上(コロナ禍以前)を主催。予選や選考を勝ち抜いた精鋭によるトーナメント優勝者に全日本タイトル認定しています。

これまで15歳以下の出場年齢制限があった大会などから一転、このRISE Novaトーナメントは中学生以上の参加資格から一般成人選手の参加や、「プロ3戦まで参加可能」の規定があり、年齢的にも実績でも全国の強敵が集まっていたこと。大城宝石にとってこれまで最も慣れ親しんできたムエタイ系と比べルール制限があったこと。今回は最軽量クラスが47kg級で、大城の計量は45.7kgでパスも、対戦相手とのウェイト差など、幾つかの障壁を乗り越えて、ワンデートーナメント3試合を勝ち抜いて沖縄県人初の戴冠となりました。 

今後の試合予定は、11月20日に沖縄県豊見城市で開催される全日本選手権大会への出場が確定し連覇を目指し、その後、12月開催予定のアマチュアシュートボクシング全日本大会、更にアマチュアK-1王座も視野に入れていると言います。

来年3月の中学校卒業後は、高校進学と共にプロキックボクサーとなることを決めており、高校受験も控えた中学生としては厳しい環境にありますが、現在プロのRISEミニフライ級(-49kg)女王は、同じ沖縄のerika(SHINE沖縄)で、大城はいずれこの王座を狙えるかと期待が掛かります。

[左]ワンデートーナメント、次の試合に向け酸素吸入/[中央]試合直前、余裕ありの表情/[右]NHKの取材に備えてチャンピオンベルトを持ってきた大城宝石

ジムでのマススパーリング風景

試合後の緊張感あるファイティングポーズ

◆大島代表の評価

大城宝石は毎日、エボリューションジムに16時30分頃一番早く来て、21時ぐらいまでの一番最後に帰る超練習熱心という。トレーナーが見ていなくてもフィジカルトレーニングなど地味な鍛錬を欠かさない。その甲斐あってRISE Novaトーナメントではスタミナ切れを全く起こすことなく始終ラッシュをかけ続けることが出来たという大島健太代表。

女子の打撃競技はパワーの問題からどうしてもKO率は低いが、大城は一発で倒せる右ストレートとレフェリーストップを呼び込む高速コンビネーション連打の両面を磨き、倒せる女子ファイターとして注目されています。RISE Novaトーナメントは3戦とも判定だったが、それ以前の5試合はノックアウト勝利やノックダウンを奪う展開を残しています。

しかし、大城は極度に緊張するタイプでトーナメント初戦(準々決勝)が終わって、コロナ予防対策で両親も来場出来ない中、母親に電話したら号泣してしまうメンタルの弱さを見せたという。しかしその反面、上昇志向は強く、プロデビュー後を視野にした練習では、高速ミット蹴りは女子にしては観る者を驚かせる迫力があり、大島会長の見立てでは、日本の女子キックボクシング界を背負って立つ素質があると言います。

米軍の海兵隊員とは体格差をもろともせずスパーリングするとか

◆RENAを追い越せ!

前々から触れる話ではありますが、技術向上が注目される選手層がアマチュアとは言え、中学生まで低年齢化するとは時代が変わったものです。大城宝石だけでなく、フットワーク速くバランスいい体幹、今時の中学生レベルのキックボクシングの進化は恐ろしく、これが21世紀の格闘技でしょう。

大城は憧れのスター選手、シュートボクシングやRIZINで活躍するRENAのような強くて華やかなファイターを目指し、「いろいろなチャンピオンベルトを獲って、もっと大きな舞台に立ちたい」と言い、「沖縄から世界へ」の目標を掲げています。

まだ学問とキック中心の人生経験で、中学3年生の大城が来年プロデビューしているか、高校時代ではチャンピオンになっているか、20歳の時点でどんな選手に成長しているか、期待は大きくも、先行き不透明なのが厳しいプロの世界。

「いつの間にか見なくなった」と言われる選手が圧倒的に多い中、大城も幾つもの壁にぶつかったとしても得意の右ストレートと右ミドルキック、高速コンビネーションで乗り越えて、いずれまた多くのメディアを騒がせて欲しいところです。

今回は沖縄エボリューションムエタイジムオーナー・大島健太氏の発信情報中心に纏めさせて頂きました。

NHKインタビューに応える大城宝石

※画像提供9枚全て:エボリューションムエタイジム・大島健太

◎堀田春樹の格闘群雄伝 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=88

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

旧統一教会問題と安倍晋三暗殺 タブーなきラディカルスキャンダルマガジン『紙の爆弾』2022年9月号

◆81歳最古参、ここが引退の潮時と……

戸高今朝明(とだか けさあき、1941年1月1日、沖縄出身)は1966年(昭和41年)、キックボクシングがまだテレビ放送される前から試合出場していた業界最古参。後に千葉(センバ)ジムを興して現在に至るが、今年4月にジム閉鎖。6月中には51年続いたジム建屋が解体に入るということであった。

平成以降は主要団体での活動は無く、2005年以降でも新木場ファーストリングでのプロ興行や、アマチュア大会を含め年数回開催するほどだったが、この2年はコロナ禍で練習生が離れてしまったことが第一の要因だったという。建屋も老朽化で雨漏りしても修繕も手が付かず、戸高氏も81歳。ここが引退の潮時と踏んだようだった。

やがて解体される千葉ジムで懐かしい話を語ってくれた戸高氏(2022年6月12日)

幼い頃、熊本で育ったという戸高今朝明氏は、高校卒業後は地元で就職も20歳で転職のために上京。「下駄履いて酒かっ食らいながら夜行列車で上京したよ!」と言う風貌が今でもよく似合う。まだ新幹線も無く、寝台列車は高いから4人BOX型自由席だっただろう。寅さん映画に有りそうな光景である。

戸高氏は上京後、空手を始めた縁から品川で自分の道場を持つまでになった頃、野口(目黒)ジムの藤本勲氏と出会う運命を辿ったことからスパーリングでタイ選手と向き合うことになった。空手が一番強いと信じていたが、ムエタイ技に全く敵わなかったことから、キックボクシングの試合に出場することになって数戦。日本で初めてキックボクシングがTBSによってテレビ放映された1967年(昭和42年)2月26日の沢村忠が東洋王座獲得する興行に戸高氏も出場。相手は門下生だったが判定勝ち。当時はセコンドに着ける人が少なかったため、選手は試合を終わってもバンテージ巻いたまま次の試合のセコンドに着いたり、試合前も進行準備が忙しかったという。

指導者は全く居ない時代で、パンチはボクシングから習い、蹴りは空手技を磨き、目黒ジムに訪れてはタイ選手を見様見真似でムエタイ技を盗み取っていった。

新興スポーツのため、ルールが曖昧だったのも初期の話。噛み付き、サミングと股間急所打ちは除いて、頭突きも投げもあった時代だった。

試合会場でリングを組み立てる戸高今朝明氏(1983年5月28日)

愛弟子2人、チャンピオン宮川拳吾とレフェリー古川輝と並ぶ(1983年9月18日)

◆隆盛期の痕跡

品川の空手道場は形式上の品川キックボクシングジムとなったが、手狭さから1969年に千葉市に移転。京成稲毛駅前のビル4階で国際ジムとして始めたが、階下に響く振動や騒音の苦情で、2年後の1971年(昭和46年)に農協が後援会に着いた支援もあって現在の稲毛区小仲台に移転。ジム名も千葉ジムに変更した。

この時期に視力の問題でプロボクシングを断念した松田忠がやって来た。名前は沢村忠と被るから国定忠治に肖って“忠治”と成り、稲毛の地名を取って稲毛忠治となった。

この稲毛忠治は日本ウェルター級新人王を獲って飛躍し、東洋戦では富山勝治(目黒)を衝撃的に倒すなど活躍が凄かった。セコンドに着く小さなオジサン(戸高氏)と“センバ”ジムの名前を全国に広め、千葉ジムが潤ったのも稲毛忠治の飛躍の御陰という。

戸高氏は計5名の名チャンピオンを誕生させた。佐々木小次郎、佐藤元巳、宮川拳吾、中川栄二。それは千葉に移ってから、プロボクシングで60戦を超える戦歴があったという市原敏雄氏が見学に来た縁から煩く指導もどきの野次を飛ばすことからトレーナーを任せて、近年まで興行を支えてくれた陰の存在があったという。分裂低迷期のリングアナウンサーやレフェリーも務めたことがある大正生まれの市原氏は2012年に亡くなられた様子。

そんな隆盛期から千葉ジム前の駐車場には大型トレーラーが停めてあり、常にリング一式が積載されていて、テレビ放映があった全盛期に、場合によっては選手もトランクに載せて全国を回ったこともあったという。荷台トランクには電灯は無い。

「真っ暗の中で寝て行け、何かあったらトランク叩け!」と言って奄美大島にも走った(トレーラーはフェリーに乗せて移動。運転手、選手は普通の乗船)。そんな各地での旅の想い出も懐かしいという。

千葉ジム建屋の中に2階宿舎を増築中の戸高氏(1983年11月13日)

日本キックボクシング連盟では暫定的ながら代表を務めたこともある(1985年6月7日)

ムエタイチャンピオン、サンユットも招聘した戸高氏(1986年6月下旬)

◆先を見据えて

1980年3月にテレビレギュラー放映が終わった時代のキックボクシング業界は衰退の一方。「このままではいけない」とどこのジム会長も考えた。

大々的な団体分裂が始まったのも1981年から。千葉ジムも参加し、日本系から9つのジム、全日本系から9つのジムが脱退して日本プロキックボクシング連盟が出来たのがこの年9月。

華々しかったが翌年には再び分裂が起こった。もう細分化されただけの見通しのつかない現状が残って、テーマの無い少ない興行が続いた。

それでも地方に行けば、戸高氏は活発にリングを組み立て、トレーナー業も大工仕事もプロの業でこなした。

誰も来ない日もあったジムが、また活気付くことを見据えて、ジム建屋の中に宿舎として二階スペースをほぼ一人で作った。

度々話題とする1984年の統合団体、日本キックボクシング連盟も分裂を辿り、1987年に山木敏弘氏が設立した日本ムエタイ連盟へ参加。

どこへ移っても同じなのは分かっていたというが、以前の日本プロキック連盟に似た活動は、半年ほどの興行を経て消滅を辿り、千葉ジムの進む方向が定まって来た時期でもあった。

夜の千葉ジム、古いボクシング漫画に出て来そうな外観(1986年6月下旬)

藤本勲氏と出会ってキックボクシングを始めた戸高氏、50年間のライバルである (2014年8月10日)

◆昭和のキックボクシング終焉

そこからフリーの道を選んだが、一時は隆盛を極めた千葉ジムの存在感は大きく、なかなかフリーでは活動し難い時代でも、交流戦で試合出場を増やしていく手腕も発揮。更には他から参加し易い体制を作る為、日本プロキックボクシング連盟を復活させ、チャンピオンも誕生させたが、大手の団体には敵わなかったのは仕方無いだろう。

キックボクシング界が最も低迷期だった1983年に戸高氏は、「もうこれ以上キックは下がりようがないから、諦めずに続けていればこれから少しずつでも楽しくなっていくんじゃないかな。団体という枠に拘らず、ジム単位で、あちこち戦う場を作っていけばいいムードになっていくと思うよ!」と語っていたが、その後、業界は何度も明るい話題が盛り上がりながら停滞。統一は叶わないどころか、より一層細分化した現在の団体やフリーのジム、プロモーターが増えた。

しかし、団体の敷居は低くなり、協力体制で興行が打てる時代となった。アマチュア大会も増え、若年層の成長によって選手層は厚くなり、テレビ地上波に扱われるほど有名選手が現れるほどにもなった。創生期からキックボクシング界を見て来た戸高氏の昭和期での予想は大凡当たっていたのである。

今回、ジムが閉鎖解体されると聞いて、私(堀田)は6月12日に千葉ジムを訪れた次第。1年前にも戸高氏に電話したことがあるが、その時はまだ閉鎖までの話は出ていなかった。

訪れてみると、昔からある古めかしいリングとサンドバッグはまだ有り、古いポスターは誰かが頂いたか、昭和の物は少なかった。会話中にスコールがやって来て、声が聞き取れないほど大雨がトタン屋根を激しく叩いた。正にタイのようなジムである。雨漏りは激しく、リング上には前もって洗面器が置かれており、ウェイトトレーニングスペースでは靴下が濡れてしまった。でもお金が有ったらこのまま買い取りたいと思うほど味ある千葉ジムだった。

戸高氏は1985年にタイ女性と結婚。娘さんの戸高麻里さんは同・連盟でリングアナウンサーを務めたこと多く、戸高氏は現在4人のお孫さんが居るが、ジムを引き継いで貰うには至らぬ運命だった。2020年1月に目黒藤本ジムが閉鎖され、そして今回の千葉ジム閉鎖は昭和キックボクシングの終焉を迎えたようで寂しい限りである。

古めかしい昭和のリング、貴重である(2022年6月12日)

建屋の前でファイティングポーズをとる戸高氏、TBSの文字も懐かしい(2022年6月12日)

◎堀田春樹の格闘群雄伝 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=88

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン『紙の爆弾』2022年8月号

◆運命の導き

ムエタイトップクラスがスタジアム定期出場の合間を縫って来る1試合のみの数日滞在と、ビザの期限まで滞在して数試合出場するパターンは過去に述べたとおりで、ムエタイトレーナーとしての役割を担っている場合も多かったでしょう。それぞれに出会いがあり、日本に行く決断があり、過去のテーマで述べた国際結婚にも至るなど、人生の運命も変わるものでした。

チャイナロン・ゲーオサムリット(本名チャッチャイ・スカントーン。1973年5月21日、タイ国スラタニー県出身)は初来日はまだ19歳だったが、日本のキックボクサーが乗り越えるべき壁となって立ちはだかる存在でした。

唯一のタイトル歴は1995年1月29日、チェンマイでのIMF世界ウェルター級王座決定戦で欧州ウェルター級チャンピオンにKO勝利で王座戴冠しています。

チャイナロンが日本に来る運命は、1991年(平成3年)5月にOGUNI(小国)ジムの斎藤京二氏が現役引退し、会長に就任した当初から、自身の現役時代に足りなかった部分を補い、選手育成に繋げようと、ムエタイトレーナーの招聘を計画していたことから始まりました。

◆「チャイナロン、日本に行きたいか?」

現在は多くのジムで、比較的取得し易くなったと思われる技能指導のビザで来日していますが、当時、タイ人トレーナーはまだ限られたジムしか呼べなかった時代。その頃、タイに行くこと多かった私(堀田)は、その相談を受けたことが諸々の出会いから繋がっていく因果応報でした。

1992年夏に渡タイした際、親密な関係にあったゲーオサムリットジムのアナン・チャンティップ会長から紹介してくれたのがチャイナロンでした。

「身体の発達が早くて、もう軽量級では戦えないから、トレーナーにさせたんだ!」と言い、更に「試合は出来るし、トレーナーも出来るし、肉体労働も出来るし、ホームシックにも掛からないよ!」と太鼓判。

ジムワークのチャイナロンは蹴りが重そうなテクニシャンで、ミット持ち指導も難無くこなす。当時、フェアテックスジムでトレーニングしていたOGUNIジムのソムチャーイ高津にも来てもらってチャイナロンへのミット蹴りを試して貰う。トレーナーとしては若過ぎるかとは思ったが問題は無さそうだ。

ミット蹴りを受けるチャイナロン、査定は合格(1992年7月)

「チャイナロン、日本に行きたいか?」と聞くと、考え込むことも無く「行きたい!」と応えた。

「日本の冬は寒いし友達も居ないしタイ語は通じない。指導以外に肉体労働もあるかもしれないし楽じゃないよ!」とは伝えたが、そんな苦難まで想像できるものではなかっただろう。

出稼ぎ目的で、あの手この手で来日しようとするアジアの人々は多かった時代。有名ムエタイ選手でもビザ審査は難しい立場にあったが、招聘する日本側、送り出すタイ側も実績に問題無くビザ申請は進行。チャイナロンは同年10月10日に初来日した。

斎藤会長の厳しい視線の中、来日当初のジム風景(1992年11月)

◆日本人選手の壁となった8年間

成田空港に着くとすぐ用意されていた高島平の宿舎に連れて向かった。一般の団地である。19歳の若者が、拉致されて来たかような環境に耐えられるだろうか不安はあったが、夜はトレーナー業での選手との触れ合いは和やかで、慣れるのは早かった。

予定された最初の試合は10月24日、フェザー級ランカーの延藤直樹(東京北星)戦。タイではフェザー級(-57.1kg)だったが、契約ウェイトは57.6kg。日本人の前に立ちはだかる強さを想定していたが、2-0判定負け。1ポンド増しでも環境変化による減量は思うようにいかなかったようだ。

ジムワークではヒジ打ち、ヒザ蹴り、首相撲からの崩しの指導が上手く、ミット蹴り指導は抜群だった。

「指示通りにやるミット蹴りはでなく、どこからパンチを打っても蹴っても選手側がいい感触になるように受けてくれて、こんなフリースタイルは才能ある人じゃないと出来ないと思います!」という当時の所属選手の感想だった。

スパーリングはテクニック全開で指導。「こんな強えーのに何で負けたんだ!?」そんなベテラン選手の声も上がるほど誰も寄せ付けなかった。

翌1993年3月27日には内田康弘(SVG)と対戦。今度は59.0kg契約。体調は万全で初戦とは違った素早い動きと重い蹴りで内田を翻弄しノックアウトで仕留め評価も上げた。

[写真左]初戦は延藤直樹(延藤なおき)に僅差判定負け(1992年10月24日)/[写真右]評価を上げたノックアウト勝利、内田康弘戦(1993年3月27日)

更なる試合は再来日のタイミングで1994年6月17日、全日本ライト級チャンピオン杉田健一(正心館)に判定勝利。その翌年の来日ではウェルター級ランカーの松浦信次(東京北星)に判定勝利。身体の発達が早かった為の階級アップが続いた。その後も勝山恭次(SVG)をヒジ打ちTKOで下し、松浦信次を判定で返り討ち、佐藤堅一(士道館)に判定勝ち。いずれもテクニックで翻弄した展開。その後、青葉繁(仙台青葉)にはヒジ打ちで切られて敗れたが、ノックダウンを奪う攻勢を続けていた。

テクニックで圧倒、杉田健一に大差判定勝利(1994年6月17日)

[写真左]チェンマイで初のベルト戴冠(1995年1月29日)/[写真右]松浦信次とは2戦とも判定勝利(1997年6月27日)

1998年6月にはOGUNIジム後援関係者の縁で出会った女性と結婚。奥さんの父親が経営する配管工事の会社で働き、親方と言われるまでの昇格もあった。後の現役引退後は生活形態が完全に変わってトレーナー業からも離れたが、以前からダウンタウンの松本人志さんから度々呼ばれ、「ガキの使いやあらへんで」などでお笑いタレントを蹴っ飛ばすムエタイ技を見せる番組にも多く出演し人気を得た。

生活環境が変わり、時代の変わり目でもあった1999年4月には、日本キック連盟エース格の小野瀬邦英(渡辺)と対戦。第1ラウンド、チャイナロンの上手さが目立つ中、小野瀬が接近した一瞬のヒジ打ちで額をカットされTKO負け。

[写真左]佐藤堅一が冷静さを失うほど、チャイナロンがテクニックで翻弄(1997年6月27日)/[写真右]小野瀬邦英の圧力は、それまでの日本人とは違っていた(1999年4月10日)

プライド傷つけられたチャイナロンは同年12月、再戦で初回から猛攻、小野瀬の顔をボコボコに鼻も折るも、第2ラウンドにボディーへのヒザ蹴りを受け逆転KO負け。小野瀬の飛躍への踏み台とはなったが、日本に長期滞在、結婚して生活のリズムも変われば、ムエタイの強さを発揮した時期より勘の鈍りは免れなかった。

翌年、中村篤史(北流会君津)をノックアウトで下し、有終の美を飾った。日本での通算戦績は11戦7勝(3KO)4敗。日本選手がこの壁を超えなければ本場タイで通用しないといった一つのステータスとなったのがチャイナロンや、現在も度々試合出場する常連在日タイ選手である。

ウェイトトレーニングで元気いっぱいの現在(2022年4月10日)

◆日本男児

すっかり日本に溶け込んだ2011年の夏、チャイナロンが脳内出血で倒れた。ある日の朝食後、仕事に行こうと立ち上がったところ、急に身体がフラフラし、バランスがとれず倒れてから記憶が無いという。家族が救急車を呼んで緊急搬送され手術で一命を取り止めたが、10日間ほど昏睡状態が続き、幸いにも意識が戻ったが、それまでの記憶が乏しかった。

医者は「後遺症は残るが、まだ若いから普通の生活が送れるほどへの回復の可能性は高い」と言い、リハビリテーションを経て退院後、仕事復帰まで回復。現在も右腕と右足に麻痺は残るが杖無しで歩き、初来日当初や延藤直樹戦もしっかり覚えていた。

当初は日本語は全く話せなかったが、「カラオケで歌詞が読めず歌えないことから日本語を覚えようと思ったこと、結婚して日本で暮らすことになったことがより必要不可欠になった!」という。来日当初は私やソムチャーイ高津らの初級タイ語で会話していたが、現在は完全な日本語のみの会話である。

3人のお子さんは長女、次女、末っ子の長男が現在高校三年生で、「大学に行きたい」と言えば行かせるつもりと言う。急病前までは奥さんには働かせず、俺が働くという振る舞いと、実家があるタイのスラタニー県には両親への家も建てたという昔ながらの日本男児たる大黒柱である。

日本人女性との結婚も多い在日ムエタイ選手。国際結婚は苦労多いが、長く連れ添う奥さん側に忍耐ある人が多い。こんな経緯で日本永住となったムエタイ戦士の一人を紹介しましたが、他にも日本で活躍する元ムエタイボクサーにもそれぞれのドラマが存在するでしょう。

◎堀田春樹の格闘群雄伝 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=88

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン『紙の爆弾』2022年7月号

◆二代目ヤンガーとして

船木実(1961年7月13日、秋田県秋田市出身)はヤンガー舟木、後に船木鷹虎というリングネームで名を馳せた、第14代・16代全日本ウェルター級チャンピオンである。

新人時代から仙台青葉ジムの若きエースとして、ハイキックを得意とする急成長で全日本ライト級5位まで上昇。後には藤原敏男戦をはじめ、名選手との対戦多い昭和のヤングマンだった。

船木は秋田で中学卒業後、一人で宮城県仙台市へ移り東北高校に入学すると、部活動以外で空手かボクシングをやりたかったところ、偶然キックボクシングの仙台青葉ジムを見つけると吸い込まれるように即日入門した。

すぐに船木の素質を見抜いた瀬戸幸一会長は、最も期待を懸ける選手に与える“ヤンガー”というリングネームを二代目として与え、入門半年後の1978年(昭和53年)11月のデビュー戦からヤンガー舟木となった(ヤンガー時代は舟木と表記)。

オープントーナメント62kg級初戦で須田康徳には敗退(1982年12月18日)

◆船木鷹虎へ

船木は小学生の頃、テレビで観たキックボクシングで、「全くやりたいスポーツではなく、特に藤原敏男さんの目白ジム系のキックボクシングは激しいイメージで怖かった」と言うが、1982年7月、斉藤京二(黒崎/当時)との新格闘術ライト級王座決定戦で、結果は引分けだったが、得意の左ハイキックで斉藤のアゴを折る重傷を負わせた。しかしその16日後に待ち構えていたのは新格闘術世界ライト級チャンピオン藤原敏男(黒崎)だった。

斎藤京二戦でのダメージを残しながら、瀬戸会長から「藤原敏男との試合が決まったぞ!」という指令が下ってヤンガー舟木が出場。

テレビの中の怖い人だった藤原敏男を前に、「どうせなら一気に大物を喰ってやろう」と強気のパンチで13歳年上の藤原に鼻血を流させる予想以上の健闘。偉大なチャンピオンの威圧感ある反撃に呑まれ5ラウンドKO負けしたが、積極果敢に挑んだ試合だった。この2連戦に船木は「勝てなかったけど、一番記憶に残る貴重な体験だった」と語る。

当時のヤング対決、後にはチャンピオンと成る者同士、青山隆戦(1983年3月19日)

日本ナックモエ連盟ライト級チャンピオンのタイガー岡内を倒す(1983年9月10日)

その後、1984年7月、内藤武(士道館)を下し、新格闘術ライト級王座を獲得。1985年11月には向山鉄也(ニシカワ)の持つMA日本ウェルター級王座挑戦は判定負けで跳ね返されたが、1987年5月には当時存在した日本ムエタイ連盟ウェルター級王座決定戦で甲斐拳明人(甲斐拳)を倒し二つ目の王座獲得。まだまだ知名度は低かったが、円熟期を迎えた船木は風格も身に付けていった。

翌、1988年初春、仙台青葉ジムが古巣の全日本キックボクシング連盟に加盟した際、この活気を取り戻したメジャー団体で、船木が天下獲れると確信した瀬戸会長が、連盟エース格となって、家庭もしっかり守ってくれるよう名付けた“船木鷹虎”に改名した。

その船木はこの前年11月22日(いい夫婦の日)、瀬戸会長の次女、純子さんと結婚していた。彼女が瀬戸会長の経営する喫茶店を手伝っていたことから船木も練習後にお店に出入りし、交際が始まったが瀬戸会長も公認の仲だった。「家庭をしっかり守れよ」といった願いも鷹虎命名に込められていたのである。

船木は「どの団体にも強い選手がいましたが、結婚した直後に全日本キック連盟に加盟すると言われた時はより責任感が増し、気合いが入りました」と語る。

加盟して間もなくの同年5月、村越浩信(光)から全日本ウェルター級王座を奪取。それまでにない注目度と周囲からは期待感も高まっていった。

[写真左]全日本キック連盟に移って、村越浩信を倒してメジャー王座獲得(1988年5月29日)/[写真右]竹山晴友を下したアルンサック戦には注目が集まったが引分けに終わる(1989年5月20日)

借りを返したい向山鉄也戦は引分けも圧し負けない好ファイトを展開(1990年1月20日)

1989年1月、弾正勝(習志野)をKOで退け初防衛。

1990年1月、先を行くライバル向山鉄也とは立場が入れ替わって挑戦を受け、引分け防衛ではあったが、「最初の対戦はまだウェルター級に慣れていなく、パワーでの差が顕著に出たと思います。2戦目は、それまで大きい人と揉まれてきていたのでパワーの差は感じず、良い試合が出来たと思います」と名実ともに業界トップクラスに立った時期だったが、ここまでが昭和のキックを牽引した時代と言えるだろう。

◆衰えぬ闘志

1990年代に入ると、キックボクシング衰退期脱出後にデビューした若い選手が台頭して来たが、船木は海外の強豪と戦いつつ全日本王座は4度防衛。

1992年(平成4年)3月に小島圭三(藤)に王座を奪われるも翌年に奪回(防衛1度)。

1995年に松浦信次(東京北星)に敗れ王座を失い、翌年、ニュージャパンキックボクシング連盟発足に伴う大量移籍後、新田明臣(SVG)とNJKFミドル級王座を争う2連戦はいずれも判定で敗れ、周囲からは引退も囁かれたが、船木は気力が衰えるどころか再浮上の闘志が湧いていたのだった。

瀬戸幸一会長に続いてリング入場(1994年6月25日)

当時においては40歳過ぎてなお頂点を目指す執念は周囲を驚かせた。話題を呼んだK-1中量級グランプリ出場も目指し、パワー増強と、得意のハイキックに磨きをかけていたという。しかし、後のスネーク加藤(現PHOENIX会長)戦で左腕を折る怪我が響き、戦線離脱は止むを得ない状況に陥っていた。

「体調や試合内容まで全て納得してならすぐに諦めたかも知れませんが、余力を残した敗戦が続いたので納得して引退したかったんです。50歳位まではいつでも試合が出来る準備をしていました」と当時を語るが、試合出場のチャンスは巡って来ず、時は大きく流れてしまった。

船木はタイ修行に行ったことは無く、タイ人コーチに指導を受けたことも無いが、先輩の初代ヤンガー石垣氏(信夫/後の轟勇作)から基本を教わり、あとは自分なりの研究だったという。

20年あまりもダメージ無く戦って来られたのはディフェンスの巧さ、クレバーな学習能力にあった。学業成績に関しては秋田県で中学生県統一試験で一番を取ったこともあり、高校時代も成績は学年で一番。そのIQの高さには戦いにも鋭い勘を養うことに結び付いていた。

しかしそんな船木の視力は0.1に満たない。陰がぼやけて動く程度の物の見え方で永く戦って来たのだった。それでも顔に傷をつくらないよう心掛けた。現役時代までの本業は仙台にあるホテルのフロントマンだったが、傷ある顔で勤務するわけにもいかず、例え顔を腫らしても妻の化粧品を借りてごまかし。宿泊客にも同僚にも気付かれなかったという。

小島圭三とは4戦目となった奪回後の初防衛戦、蹴りで圧倒(1994年6月25日)

仙台での毎年続くメインイベントで堂々防衛(1994年6月25日)

◆現役のまま

2002年初春には仙台市泉区に鷹虎ジムをオープン。

現在は、鷹虎ジムのプロ部門をチーム・タイガーホークとして活動中。J-NETWORKスーパーウェルター級チャンピオン.平塚洋二郎やフライ級で現在急成長の阿部晴翔を育て上げている。

昨年12月には元木浩二氏主催の、昭和のキック同志会忘年会で、かつて対戦した藤原敏男氏や向山鉄也氏、青山隆氏と再会した船木氏。

「藤原さんの目白ジム系(東京12ch系)はエゲツない強さが怖くて、日本系(TBS系)でデビューしたかったんですよ!」と本音を漏らしたが、藤原敏男氏に「な~に言ってんだよ!」とコツかれながら和やかに懐かしい話に花が咲いていた。現役を遠ざかったままなのは向山鉄也氏、青山隆氏と同じだが、気持ちの上では生涯現役を貫く同志であろう。

現役時代から子煩悩で妻と長女、長男、次女の3人のお子さんとの家庭を大切にした船木。次女の船木沙織さんは現在YouTuberとして登録者数132万人の「ヘラヘラ三銃士・さおりん」としてアイドルの才能を発揮、畑違いの“二代目ヤンガー舟木”と言える存在である。

船木の古巣・仙台青葉ジムは2011年に東日本大震災の影響で閉鎖されたが、かつてのヤンガー、三代目はヤンガー秀樹(鈴木秀樹/後の伊達秀騎)。四代目はヤンガー真治(鈴木真治)で、いずれも上京の為、移籍。更なる“ヤンガー”は現れないかもしれないが、顔は怖いが語り口は優しいという周囲の声は多い船木氏。IQの高さで選手育成も上手く、地方からでも強い選手が生まれること、仙台から新たなインパクトを持つ選手は近い将来に現れるだろう。

藤原敏男さんと再会のツーショット(2021年12月)

◎堀田春樹の格闘群雄伝 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=88

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン『紙の爆弾』2022年5月号!

◆立嶋篤史の側近

小林利典(1967年3月、千葉県船橋市出身)は、目立った戦歴は無いが、スロースターターで、圧倒的に押されながら巻き返し、粘り強さで逆転KOに導いた試合もある、長丁場で実力を発揮するタイプのフライ級からバンタム級で戦ったキックボクサーだった。

立嶋篤史のセコンドに着く小林利典(右)(1991年10月26日)

また立嶋篤史のセコンドとして静かな注目を浴び、引退後はレフェリーを長く務めている。

習志野ジムで小林利典の後輩だった立嶋篤史は1990年代のカリスマで、余暇と試合に向けたトレーニングに入った時のメリハリが強く、部外者が接することはなかなか難しい空気が漂った。控室などは特にそんな空気が凍り付く場である。そこに常に居たのが小林利典やタイから来たトレーナーのアルンサック達だった。

ビザ期限が迫った際のアルンサックからは「俺が居ないときはお前がアツシを支えろよ!」と言われていたという小林利典はプレッシャーもあっただろう。

しかしその反面、立嶋篤史が、「セコンドの小林さんの方がモテて、ファンレターとか来るんですよ!」と言うようなホッコリする話題も多い。

◆目立たぬ新人時代

小林利典は1983年(昭和58年)秋、習志野ジム入門。閑散とした選手層の薄い時代に、このジムに居たのはベテランの弾正勝、葛城昇。他、記憶に残るほどの練習生は居なかったという。

デビュー戦は早く1984年3月31日、千葉公園体育館で村田史郎(千葉)に判定負け。

同年8月19日には、全日本マーシャルアーツ連盟興行でのプロ空手ルールで佐伯一馬(AKI)に判定負け。現在の活気ある時代とは事情が違うが、ややルールの違う競技に赴いてでも試合の機会を増やしたい時代であった。

閑散とした時代のデビュー戦同士は判定負け(1984年3月31日)

やがてキックボクシング界は最低迷期を脱し、定期興行が安定する時代に移ったが、それでも試合出場チャンスは少なく、先輩のチャンピオン、葛城昇氏から「タイは若いうちに行け!」と言われたことは、多くの選手が言われた“本場修行の勧め”であった。

1989年(平成元年)4月、初のタイ修行に向かった先は、日本と馴染み深いチャイバダンジム。日本人にとって比較的過ごし易いジムだが、日本では味わえない雑魚寝の宿舎では度々争いごとにも遭遇。でも競技人口多いタイでは試合はすぐに組まれ、日々の練習と共に不便な環境でも充実した経験に繋がっていた。

タイで最初の試合はランシットスタジアムで判定負け(1989年4月 提供:小林利典)

◆大抜擢は貴重な経験

周囲から見て小林利典の戦歴で印象的なのは1994年10月18日、東北部のメコン河に近いノンカイで行われた国際的ビッグマッチ。日本からは伊達秀騎(格闘群雄伝No.11)と、小林利典が出場。前夜にバンコクからバスでノンカイに向かい、朝9時に到着したホテルのレストランでは隣のテーブルに対戦相手のソムデート・M16が居た。小林は小声で「殺さないでね!」とは冗談で笑わせていたが、内心は本音でもあっただろう。

この経緯は、我々と馴染み深いゲオサムリットジムのアナン会長が試合10日程前に、当時はジッティージムで練習していた小林利典を訪ね、ビッグマッチ出場を依頼。日本vsタイ戦として予定していた日本選手が出られなくなり、どうしても日本人が必要で、断り切れずに受けて立った小林利典。後々アナン氏のジムに居たソムチャーイ高津(格闘群雄伝No.7)から、相手がソムデートだと知ることになる。

当時、ルンピニースタジアム・フライ級2位で、倒しに掛かる強さだけでなく、派手なパフォーマンスで賑わせていた人気者だった。実質、日本の3回戦vsムエタイランカーの試合。

小林利典が対戦相手を知ったことを察したアナン氏は「逃げないでね!」と念を押すが、小林は“やってやろう”という特攻精神が強く働き、置かれた日本代表の立場から逃げる気など全く無かった。

ソムデートに終始攻められたが、貴重な経験となった(1994年10月18日)

国歌斉唱は選手二人で歌った異例の事態(1994年10月18日)

しかし、戦ってみれば全く格の違いを見せつけられた展開。ソムデートはアグレッシブな態勢で蹴り合えばスピードも違った。脇を広げ、ワザと蹴らせる余裕も見せたソムデート。インターバルでは「オーレー・オレオレオレ~♪」と観客に向かって歌い出す余裕のパフォーマンス。

完全に翻弄され続けるも、アナン氏は心折れない小林を、第3ラウンドも「よし行け!」と尻を叩いて行かせた。結果はパンチで防戦一方となったところでレフェリーストップ。惨敗ではあったが持つ技全て出し切り勇敢に戦い、多くの観衆が小林を拍手で称えていた。

「ソムデートはローキックが重く、絶対的な差を感じました。試合で怖いと思ったことはなかったですが、ソムデート戦は初めて怖いと思いました!」という感想。
この試合はタイ全土に生中継された一つで、IMF世界タイトルマッチだったが、それを知らされないままノンカイに向かう途中のバスの中で、日本国歌独唱を命ぜられてしまい、伊達秀騎と二人で斉唱となった。「小林さんの歌の上手さに驚きました!」という伊達秀騎。

小林は「高校の頃、校訓に“国を愛し、郷土を愛し、親を敬う”とあった為、国歌と校歌はしっかり歌わされてたので緊張はなかったです!」と、ソムデート戦を前に群衆の前で歌うことなど全く苦ではなかっただろう。

翌日のビエンチャン観光、ソムデートとツーショット(1994年10月19日)

タイでの試合も風格が増してきた小林利典(1995年3月24日)

◆キックからは離れられない人生

小林利典はタイでは10戦程経験し、1995年5月18日、タイ・ローイエット県での試合をしぶとさ発揮で判定勝利し現役引退したが、その後トレーナーとなることはなかった。

性格的に優しく、強い言葉で檄を飛ばすタイプではないが、選手に掛けるアドバイスは情熱が厚い。そこに信頼関係が生まれることは他のジムの選手に対しても多かっただろう。

日本では他所のジム同士であっても、タイではチームとなって行動することが多かった国際戦シリーズ。

「一緒に出場した戦友のような感じ、小林さんは漢気ある人です!」と言う伊達秀騎。

同時期にタイでも活躍した、ソムチャーイ高津にとっては小林さんによって選手生命を延ばしてくれた恩人だという。

自身がヒジ打ちを貰い大流血した試合で、同じ箇所に肘打ちを貰ったら命が危ないと直感し棄権TKO負け。セコンドに着いて貰った小林さんに、引退することを話したところが、

「俺はまだまだ、高津くんの試合を観たいと思ってるよ。まだまだこれからの選手だから高津くんは成長すると思うよ!」と励まされ、「この言葉を掛けられなければ、タイで勝つことも、この先の充実した現役生活も無かったと思う!」と語る。

バイヨークタワー脇の路地での興行だが、プロモーターは金持ちです(1995年3月24日)

ローキックで仕留めた、タイでの鮮やかKO勝利(1995年3月24日)

引退した翌年、MA日本キックボクシング連盟で審判員が人手不足となり、小林は先輩方に依頼されて、ジャッジ担当で一度だけの協力をしたつもりが、毎度声を掛けられてしまう。そして断り切れずに続けるうち経験値が増してベテラン域に達した。レフェリーとして25年経過。これまでの多くの経験値から、消え去るのは勿体無いと、キックボクシング界に携わるよう導びかれたような因果応報である。

プロボクシングではレフェリーは立場上、ジム関係者と親密になれない厳しさが常識的だが、コミッションの無いキックボクシング界は、昔から緩やかな傾向がある。それでも試合裁定に影響がないようにジム側と接触を避ける必要も生じ、自然と疎遠となる関係者も居たという。ソムチャーイ高津もその一人で、引退後OGUNIジムのトレーナーとなったが、現在はトレーナー業を離れて長い年月を経た高津氏。現在は小林氏とは度々親しく飲み会に誘うとか。

私(堀田)もタイで高熱を出して入院した時もたまたま小林氏が近くに居て、大阪から来た選手がタイの田舎でデビュー戦を行なう時もセコンドを買って出て、小林氏の声が耳に残るほど何かと手助けを受けたり、他の選手へのその姿を見る縁は深い。良い腐れ縁が続くのもこの業界の傾向。多くの古き関係者も、小林利典氏とは現役時代を語ること多き晩年となるだろう。

ベテランレフェリーとなって試合を裁く小林利典(2016年7月23日)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン『紙の爆弾』11月号!

◆キックの貴公子

選手コールを受ける松本聖(イメージ画像)

松本聖(まつもとさとる/1953年12月16日、鳥取県出身/目黒)は沢村忠、富山勝治に次ぐ、日本キックボクシング協会系最後のエース格に上り詰めた選手だ。

スロースターターで独自の悲壮感を漂わせながら、忍耐と強打で勝利を導き、後々語り継がれる多くの名勝負を残した。

1972年(昭和47年)春、鳥取県の地元の高校を卒業するとすぐに上京。

キックの名門、憧れの聖地だった目黒ジムに入門した。

当時は入門者が後を絶たない中でジムは溢れかえり、その中では松本聖は無口で社交性も無く、存在感は薄かったと藤本勲(当時トレーナー)氏が語る。

だが練習には毎日通い、受ける指導の素直さ根気強さで成長は早く、同年12月、19歳になってすぐデビュー戦を迎えた。

一見、弱々しくもパンチは強く、勝利を導く試合運びは上手かった。

色白の二枚目で女性ファンも増えたことは、すでにスター候補生だったと言うのは藤本氏。

テレビ放映ではTBSの石川顕アナウンサーから「キックの貴公子」と呼ばれ、更に存在感を増した。

ローキックでのKOも多い松本聖(イメージ画像)

◆松本頼み

デビューから勝ち進むとランキングはジワジワ上昇し、3年後には日本フェザー級1位に定着。チャンピオンは同門の大先輩・亀谷長保だった為、長らく待たされた王座挑戦は、1977年(昭和52年)1月3日、2度のノックダウンを奪われ判定負け。翌年も正月決戦で再挑戦。第1ラウンドに亀谷からパンチでノックダウンを奪うも第3ラウンドに逆転のKO負け。亀谷にブッ倒された衝撃は放送席に白目をむいての失神状態だった。

亀谷長保がライト級に転級後の同年10月、松本聖は日本フェザー級王座決定戦で、河原武司(横須賀中央)に判定勝利し、念願のチャンピオンとなったことで松本の役割はより重大となっていった。

翌年(1979年) 1月、野本健治(横須賀中央)を4ラウンドKOで破り初防衛後、10年半続いていたTBSテレビのゴールデンタイム放映は4月から深夜放送に移行し、そして打ち切りへと業界低迷期へ突入していく中、野口プロモーション・野口修氏は成長著しい松本を起死回生のビッグマッチに起用していった。

野口氏が東洋と日本王座活性化を図り、同年5月、松本は東洋フェザー級王座決定戦に出場。タイの現役ランカーのジョッキー・シットバンカイに圧倒される展開も、右ストレート一発で逆転KOし、日本から東洋への飛躍となった。


玉城荒次郎の勢いに苦戦も狙いすました右ストレートでKO(1983年1月7日)

赤コーナーに立つ姿も定着した松本聖(イメージ画像)

王座獲得後の7月30日、東洋チャンピオンとしてタイ国ラジャダムナンスタジアムに乗り込むと、当時のランカーでムエタイの英雄と言われた、パデッスック・ピサヌラチャンに左ミドルキックで圧倒され2ラウンドKO負け。パデッスックはこの年、タイのプミポン国王から直々にムエタイNo.1(最優秀選手)の称号を与えられるほどの名選手だった。本場で惨敗ではあるが、松本にとってキック人生最も栄誉ある経験を残した。

同年秋、キック黄金期へ再浮上を目指す初のトーナメント企画、500万円争奪オープントーナメントが中量級(63.0kg~58.0kg)枠で行なわれ、松本は初戦で亀谷長保と対戦。雪辱を果たすチャンスと見えた3度目の対戦は、立場逆転した勢いで圧倒的松本有利の声が多かった。しかし亀谷の意地のパンチの猛攻で松本は1ラウンドKO負け。結局松本は先輩亀谷には一度も勝てなかったが、下降線を辿ることなく、亀谷から勝ちへの貪欲さを学んでいった。

東洋王座はタイ人選手に2度防衛。1980年6月28日には樫尾茂(大拳)の挑戦も退けて3度防衛とここまでは短い試合間隔でのタイトル歴とビッグマッチを残していた。

ここからキック低迷期を上昇に導くチャンピオンの責任を背負って戦い続け、1982年(昭和57年)の1000万円争奪オープントーナメントでは56kg級に出場し、苦戦しながらも決勝に進出。酒寄晃(渡辺)との事実上の国内フェザー級頂上決戦では、キック史上に残る名勝負を展開。第1ラウンドに3度のノックダウンを奪われながら、ひたすら反撃のチャンスを待ち、第5ラウンド逆転KOでフェザー級域国内最強の座を手に入れ、年間最高試合に値する激戦を残した。

業界はせっかくのオープントーナメントでの上昇気運も終了と共に再び沈静化に戻ってしまい、松本聖もスーツ姿で会場には姿を見せるが、燃え尽きたかのようにリングに上がることは無くなり、時代の変わり目に立った松本の活躍は見られなくなってしまった。

しぶとい小池忍にノックダウンを奪い返されつつ、圧倒の判定勝利(1983年2月5日)

◆強打の秘訣

松本聖の強打の特徴は手首のスナップにあった。中学時代から器械体操での鉄棒運動で自然と握力が強化されたという。当たる瞬間、手首のスナップを利かした衝撃が多くのKO勝利を生んだ。“スナップを利かせたパンチ”とは実際に他のパンチより効くのか素人には分からないが、当時、別団体のあるジム会長が「松本のパンチはこう打つんだよ!」と若い選手を見本に、アゴに軽く手首のスナップを利かせて打って見せてくれたことがあった。確かに松本氏のパンチは拳を小さく捻るという印象だった。

松本聖と対戦したうちの一人、玉城荒次郎(横須賀中央)氏は、試合の3ヶ月後に「ほんのこの前まで頭の奥が痛かったの取れなかったよ」と語っていた。

また野口ジムのトレーナーは、「松本の打ち方はボクシングの七不思議だな、何であんな打ち方であんな威力出るんだ?」と語ったり、松本聖とスパーリングやった経験がある鴇稔之(目黒/格闘群雄伝No.1)氏は、「ヘッドギアー越しにストレート喰らって、スパー終わって見たら、額に凄いコブができていてびっくりしたのは今でもよく覚えています。松本さんのパンチは豪快さは無く、コンパクトに打つから見た目では凄さは分からないですね!」と語る。

酒寄晃と対峙する松本(1983年3月19日)

ラッシングパワー、酒寄晃とは名勝負となった(1983年3月19日)

1984年(昭和59年)11月、統合団体設立による定期興行の充実により、キック業界が息を吹き返した翌年夏、松本聖が目黒ジムで練習する姿が見られた。

31歳となったが、その動きは悪くなく強打は健在。再起へ確信が持てたのだろう。周囲の要望に応え、2年半ぶりの復帰戦を行なったが、嵯峨収(ニシカワ)と凡戦の引分け。ムエタイスタイルで打ち合いに出て来ないタイプにはやり難さはあったかもしれないが、本番では松本聖の強打は不発。かつての輝きは見られなかった。団体は移り、すでに東洋の松本ではなく、時代が大きく流れた感もあったのも事実。豪勢な引退式に送られることはなく、静かな去り際だったが、観る側が手に汗握る「松本の試合が観たい!」と言う声は絶えることはなかった。

酒寄晃の強打を凌ぎ、ローキックとパンチで逆転KOに至った松本聖(1983年3月19日)

激闘を終えて、国内フェザー級頂点に立った松本聖(1983年3月19日)

◆最後のエース格

日本系やTBS系とも言われた野口プロモーション主催興行は事実上1982年4月3日まで。このメインイベントを務めたのは松本聖だった。轟勇作(仙台青葉)に2ラウンドKO勝利した試合はテレビ東京で放映されていた。団体は移り変わり、後々も目黒ジムから多くのチャンピオンは誕生したが、野口プロモーションが育てた、一時代を担うエース格に成長したスターは松本聖までという区切りとなった。

生涯戦績を見れば日本人とは対戦が多いが、新人時代に村上正悟(西尾)に判定負けと、亀谷長保には3度、あと2人のタイ人との少ない敗戦を含め、63戦54勝(37KO)6敗3分の戦績を残した。

松本聖は引退前から大田区蒲田で妹さんとスナック(=チャンプ)を経営していたという関係者の話。チャンピオンベルトやパネルも飾ってあったとか。その後、松本聖氏は出身地、鳥取に帰郷された様子。

2005年4月に目黒ジムを継承した藤本ジムが元々の下目黒の聖地でジムを建替え、落成懇親会パーティーを開いた際、過去の目黒ジム出身者が集結。松本聖氏も姿を見せ、紹介されていたが、私(堀田)はあの独特の強いパンチの秘密を聞き逃してしまった。指導者となる道には進まなかったが、技術論を語らせればテレビ解説者として技量を発揮しそうな松本聖氏。そんなキックボクシングとの関わりを見てみたいものである。

ブランクを経ての再起は思うように動けなかった嵯峨収戦(1985年9月21日)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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◆柔道の達人

甲斐栄二(かいえいじ/1959年8月19日、新潟県佐渡ヶ島出身)は柔道で鍛えたパワーとテクニックで独特のKOパターンを確立し、そのハードパンチは上位を倒す厄介な存在として注目を集めた。

試合ポスター用に撮られたベルト姿(1986年5月25日)

甲斐は「現役時代はそれほど練習した方ではなかったよ!」と謙遜するが、その基礎となったのが学生時代の柔道。全国高等学校総合体育大会の新潟代表にもなった技術が、キックボクシングでの飛躍に大いに役立っていた。

柔道では「山下泰裕さんとも対戦したことがあるけど、あっと言う間に投げられた!」と笑って言う。

キックボクシングとの出会いは、柔道整復師の資格を取得するため、高校卒業後に仙台の専門学校に通っていた時に「キックボクシングをやりたい!」と言う友人に誘われ、仙台青葉ジムに見学を同行した。瀬戸幸一会長に「キミもやってみないか?」と言われ、興味を持ったことからすぐに入門した。

◆脅威の存在

甲斐栄二は1979年(昭和54年)1月デビュー。4戦目でランク入り。1981年1月にはノンタイトル戦ながら早くもWKA世界ライト級チャンピオン、長江国政(ミツオカ)と対戦。同年5月25日には宮城県で全日本フェザー級チャンピオン、酒寄晃(渡辺)にタイトル初挑戦。いずれも判定で敗れたが、当時の名チャンピオンと対戦する機会に恵まれ、将来を嘱望されていた。

1983年には二人の元・日本ライト級チャンピオン、須田康徳(市原)と千葉昌要(目黒)を右アッパーで次々とKO。この後も甲斐の実力はチャンピオンクラスをKOする脅威の存在となりながら業界は最低迷期。同時期、酒寄晃と再戦もあったが激闘となりながら惜しくも倒された。甲斐に限らず、どの選手も目標定まらず、モチベーションを持続させるのも難しい時代だった。

酒寄晃には今一歩及ばずも強打は唸った(1983年9月10日)

甲斐はビジネスの都合もあって上京。半ば引退状態の中、業界低迷期を脱した時期の1985年7月、ニシカワジムに移籍した甲斐は再び開花。復帰戦ではブランクは関係無いと言える鋭い動きを見せ、越川豊(東金)をまたも右の強打でぐらつかせ、連打で倒した。

甲斐の強打で越川豊をKO(1985年7月19日)

須田康徳には勝利寸前も逆転KO負け(1985年9月21日)

1986年1月には日本ライト級タイトルマッチ、チャンピオンの長浜勇(市原)に挑戦し、頬骨を陥没させる強打でKOし王座奪取。相変わらずのハードパンチャーの脅威を示した。

しかし、追う者から追われる者へ立場が変わるとハードパンチも研究され苦戦が続いた。

同年7月、斉藤京二(小国)との初防衛戦は、やはり狙いを定めさせず、サウスポースタイルに切り替えて来た斉藤を捕らえきれずドロー。11月の再戦では一瞬のタイミングのズレに斉藤の左フックを食って4ラウンドKO負けして王座を奪われた。これで引退を決意したが、翌1987年7月、全日本キックボクシング連盟復興興行に際して国際戦出場を要請され、ロニー・グリーン(イギリス)と対戦も1ラウンドKO負け。9年間の充実したキック人生に幕を下ろした。

◆ハードパンチャーの原点

甲斐栄二は30戦19勝9敗2分のうち、17KO勝利はすべてパンチによるもの。ハイキックも多用したが、蹴りのKO勝ちはひとつもなかった。名ハードパンチャーも「一度はハイキックでKOしてみたかった!」と唯一の心残りを語っていた。

甲斐は元から右利きで、当然ながらジム入門後も右構えで基本を教えられた。しかし元々、柔道で鍛えられて来た経験はキックの右構えに違和感を感じていた。それは柔道の右構えは右手・右足が前に出るキックの左構えに相当したことだった。

斉藤京二第一戦は互いが警戒した中の引分け(1986年7月13日)

チャンピオンとしてリングに立つ甲斐栄二(1986年11月24日)

1983年に須田康徳(市原)を倒した時の甲斐は実績では劣り、勝利はフロックと言われた。余裕の表情のベテラン須田に、右構えからいきなり左にスイッチし、背負い投げを打つ要領で、右アッパーが須田のアゴを打ち抜くKO勝利を掴んだあの瞬発力は柔道仕込み。元々背負い投げが得意だった甲斐は、反則ながら時折、背負い投げも仕掛けたが、右構えでも左構えでも戦えるスイッチヒッターであった。1985年9月に須田と再戦した時も、強打でKO寸前のノックダウンを奪うも、須田の猛攻を受け逆転KO負けしたが、前回の勝利はフロックではないインパクトを与えた。

甲斐は「柔道は空手よりキックボクシングに向いているのではないか!」と語る。腕力と握力、肩と腰の強さ、どの角度からもパンチが打ちやすい柔軟さで戦える柔道の基本は有利だという。

甲斐は身長が162cmほど。「過去のライト級では、俺が一番背が低いチャンピオンだろうなあ!」と笑うが、柔道で培った技術をキックボクシングで最大限に活かし、身長差の影響も感じさなかった。

甲斐栄二の戦歴の中には、1981年に翼五郎(正武館)と引分けた試合があるが、甲斐は総合技ミックスマッチでの再戦を申し入れたという。翼五郎はプロレス好きで、投げを打ち、縺れた際には腕間接を絞めに来たり、足四の字固めを仕掛けたこともある話題に上る曲者だった。当時、総合系格闘競技は無く、一般的にも競技の範疇を超えており、当時所属した仙台青葉ジムの瀬戸幸一会長も取り合ってくれなかったという。

タイ旅行の途中、ムエタイジムを訪れて、久々のサンドバッグ蹴り(1989年1月7日)

◆仲間内

一時ブランクを作り、上京後に復帰を目論んでいた頃、ニシカワジムに移籍する経緯があったが、西川純会長に現役を続ける場を与えてくれた恩は、後に甲斐栄二氏は「意地でもチャンピオンになって西川さんへ恩を返したいと思った!」と語っていた。最後のロニー・グリーン戦は引退を延ばし、最後の力を振り絞っての出場も西川会長への恩返しだっただろう。

ジムワークでは後輩に対し、怒鳴る厳しさはないが、技の一つ一つに「こうした方がいいよ!」など見本を見せて細かいアドバイスをしてくれる先輩だったという後輩達の声は多い。練習時間以外では明るい笑い声で周囲を和ますのが上手。ジム毎に独特のカラーがあるが、ここでは甲斐栄二氏がムードメーカーとなる存在だった。

当時、一緒に練習していた赤土公彦氏は「甲斐さんがスパーリング相手をして頂いたことがあるのですが、手加減してくれていたのに、ガツンとくる重いパンチで、瞼の上が内出血して青タンになったことがあり、やはり凄いキレのあるパンチと実感しました!」と語る他、「甲斐さんは踏み込みのスピードが凄く速くて、蹴りも凄く重いんです!」とその体幹の良さが垣間見られるようだった。

でも「ローキックはカットされると痛いから蹴らないよ!」と甲斐さん本人が笑って語っていたらしい。

引退後は現役時代から勤めていた市川市の不動産会社を受け継いで、社長となって責任ある立場で運営に携わっていた。

後進の指導など業界に残る様子は全く無かったが、後々に出身地の佐渡ヶ島へ里帰りされた模様。現在が現役時代だったら、甲斐栄二氏の柔道技を活かした総合格闘技系の試合出場を観たいものである。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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