◆第一次全日本キック時代

少白竜(=田中正一/元・全日本バンタム級1位/1962年3月9日、神奈川県平塚市出身)は、戦績を37戦18勝(18KO)17敗2分とする、5回戦ではラストラウンド終了のゴングを聞いたことが無かった。アグレッシブに攻めるがスタミナ切れで負けるパターンは多く、勝っても負けても早い回のKO決着必至の男だった。

再デビュー戦で水越文雄と対戦。旧・全日本キック経験者同士(1989年9月24日)

少白竜というリングネームはデビュー戦前の予定表を見て「これ誰だろう?」と思ったら自分だったという少白竜。当時のジムのトレーナーが付けたもので、合気道の創始者、植芝盛平師範から由来するものという。

現役を引退して数年後に再起する選手は何人も存在するが、少白竜は昭和50年代の全日本キックボクシング協会と平成の全日本キックボクシング連盟で戦い、その中間を跨いだ選手である。

キックボクシングを始める切っ掛けは高校一年の時、ブルース・リーや空手バカ一代を見た影響で格闘技に興味を持ち、少年マガジンの「紅のチャレンジャー」という漫画でキックボクシングに憧れ、伊勢原市にあった萩原ジムに入門。

1978年(昭和53年)2月10日、ライセンス制度も確立しない時代で、16歳になる1ヶ月前のデビューだった。1年半で5連続ノックアウト勝利を含め10戦程すると、すでに注目を集め、全日本フェザー級3位にランクされていた。

ランカーらは殺伐とした時代に合ったパンチパーマや強面が多かった。少白竜は内向的ながら、強面猛者達に初回から猛攻をかけ、とても内向的とは思えないという周囲の評判だった。

そんな強面の中では、高樫辰征(みなみ)に1ラウンドKO負け。小池忍(渡辺)には1ラウンドに2度ノックダウンを奪いながら、転んだところを蹴られて負傷TKO負け。甲斐栄二(仙台青葉)とはライト級で2ラウンドにパンチ強打で倒されるKO負け。

1981年元日には酒寄晃(渡辺)の持つ全日本フェザー級王座に初挑戦。さすがに50戦を超える獰猛なゴリラみたいなベテランの強打に屈した。

「酒寄さんはとにかく強かった。パンチ避けられたと思ったら、素早く違うとことから蹴られ重いパンチでわずか2分あまりで倒されました!」というが、この時点でまだ18歳。この先が有望視されるのは当然だった。

少白竜は後列左から2番目。赤土公彦を倒したことで年間最優秀殊勲賞獲得(1992年1月25日)

[写真左]赤土公彦と2度目の対戦。少白竜はやっぱりラッシュも同じ手は食わない赤土(1992年1月25日)/[写真右]交流戦で、時代の流れを感じさせる室戸みさき戦(1992年3月28日)

成長著しい東海太郎(=川野辺顕啓)のセコンドに付く少白竜(1992年11月21日)

◆目指す方向の違いとブランク

しかし、この年の竜馬暁(我孫子)戦でKO負けした際、胸にパンチ貰ってから咳が止まらず試合後入院。思わぬ肺結核に罹っていた為、長期休養を余儀なくされた。幸い安静にするだけで短期で完治したが、体重はかなり落ち込み、パワー不足で引退を決意。しかし再起が不可能ではなく、当時の全日本キックボクシング協会が低迷を脱する計画でマーシャルアーツ(全米プロ空手)化してしまい、方向性が変わったことでモチベーション低下したことが一番の要因だった。

たまたま引退前にはそのマーシャルアーツルール試合は2度経験していた。韓国選手欠場による代打出場での翼五郎(正武館)戦は、1ラウンド2分制の6回戦。ヒジ打ちヒザ蹴り禁止で、腰から上に8本以上蹴らないと段階的に減点で、パンタロン風ロングパンツを穿くシステム。ルールに関係なく乱打戦になると思われたとおり、パンチでノックダウン取って取られての判定、ルールが影響したが、少白竜にとって珍しく引分けた試合だった。

韓国に遠征した試合では、行ってみればWKA東洋フェザー級王座決定戦。李子炯に、これこそ慣れぬルールに阻まれKO負け。目指したキックボクシングを戦えぬ引退後は業界と疎遠になり、トラック運転手で一般社会に溶け込む生活を7年過ごしていた。

[写真左]新開実と対峙。中央のレフェリーは山中敦雄氏(1993年1月17日)/[写真右]一度倒している新開実には倒されてラストファイトとなった少白竜(1993年1月17日)

最後の試合となった新開実戦へのリングイン(1993年1月17日)

◆第二次全日本キック時代

1989年(平成元年)1月、萩原ジムを引き継いでいた東京町田金子ジムから「今度ウチの選手の指導に来てよ!」と金子修会長から誘われ、久々にキックボクシングの匂いに誘われジムを訪れた少白竜は、地元近くの伊勢原市に谷山ジムがあることを聞き、後に谷山ジムに素人のフリしてさりげなく見学に訪れた。

それでも何となく格闘技経験者のオーラは分かるもの。谷山歳於会長に「昔、何か格闘技やってたの?」と聞かれたことで昔話が弾み、家が近いこともあり早速コーチを頼まれてしまった。

だが、その3ヶ月後の7月には、後楽園ホールのリングに上がっていた。練習生より動きが良く、スパーリングでも3回戦選手に負けなかったことから谷山会長に「一回でいいから試合に出てくれないか!」と言われて「一回だけですよ!」と約束して、以前よりウェイトは落ちていたが、無駄なぜい肉の無いバンタム級での再起となった。

その聖竜(武州信長)戦では打ち合いに挑む姿は以前と変わらずも2ラウンドKO負け。すると悔しさから「もう一丁!」と申し出て2ヶ月後、水越文雄(東京町田金子)と対戦。これもKO負けながら勘は戻りつつあった。

翌年1月、元・チャンピオンの亀山二郎(正心館)をパンチとヒジ打ちで初回に豪快KO勝利。1990年7月、チューテン・シッサハパン(タイ)にはヒジ打ちで倒される敗戦も動きは全盛期に戻っていた頃だった。

1991年4月には世代も代わった若い新開実(岩本)を1ラウンドKO勝利。同年9月には全日本フライ級チャンピオンの赤土公彦(ニシカワ)とノンタイトルで対戦。長期王座に君臨する赤土公彦と戦えることに光栄に感じ、これをラストファイトと決めての一戦だった。だが開始からアッパーを強烈にヒットさせて猛ラッシュ。スリーノックダウンを奪って初回KO勝ちのベストファイトと言える内容。これで完全燃焼と思っていたところが、この結果で周囲の期待も高まると次はタイトルマッチを組まれてしまい、辞めるにも辞められなくなってしまった。

翌1992年1月、再び赤土公彦と空位の全日本バンタム級王座決定戦を争った。ハードな本業の疲れから胃潰瘍に罹り練習量も減っていたが、また早いラウンドで倒そうという猛攻は赤土に読まれ、カウンターを食ってKO負け。酒寄晃戦以来の全日本王座挑戦はまたも1ラウンドで逃した。

ラストファイトは1993年1月。一度倒している新開実(岩本)に初回KO負け。谷山ジムの看板選手として現役継続して来たが、後輩の東海太郎が育ってきたこの時期、ようやくリングを去る選択肢を選び、正式に引退となった。

◆リングが呼んでいる

引退後はレフェリーの大ベテラン、サミー中村氏に「次の試合いつだ?」と聞かれ、「やっと引退しました!」と応えると「じゃあレフェリーやってよ!」と誘われ、リングが俺を呼んでいるといったような因果に身を任せ、全日本キックボクシング連盟でレフェリーとしてデビュー。

画像の主役はレフェリー。身のこなしは抜群の少白竜の裁き(2019年11月9日)

後には団体が細分化されると交流戦が増え、昔から所属団体に偏る裁定が起こりがちだった為、2006年に山中敦雄レフェリーを中心にJKBレフェリー協会を発足した。確立したJBCには程遠いが、公平忠実な外部組織として要請があれば各団体へ派遣され、審判団として活動している。

少白竜はノックアウト必至の激闘を繰り広げた時代のトレーニングを今も欠かさない。

「ジムでもミット蹴りだけじゃつまらないんで、まだまだマススパーリングとかやってます。キックは飽きないんですよ。楽しくて!」と語る。

「新空手やオヤジファイトに出場しませんか?」という問いには「もう試合はやりませんよ、痛いの嫌いですから!」と笑うが、戦う本能は現役のように若いまま。心の中の生涯現役を貫く元・選手はここにも居たようだ。

現在はベテランレフェリーの高齢化に対し、自ら好んで批判を受け易いレフェリーを希望する者がいないのが現状。レフェリーを志す信念を持った若者を発掘し育て上げるまで、まだまだリングに立ち続けなければならない少白竜氏である。

裁く側となって中央に立つ少白竜(2019年12月11日)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』8月号

◆目白ジムが原点

青山隆(=青山隆浩/1960年10月20日、東京都板橋区出身)は高校2年の時、目白ジム(後の黒崎道場)に入門。1978年12月デビュー。

子供の頃は運動神経が鈍く、体育も苦手だったというが、高校生の頃には「男として強くなりたい」と志し、テレビで藤原敏男や島三雄の活躍を観たことから、目白ジム入門を決めた。

「後々振り返れば、業界一番と言われるほど厳しいジムだった。こんな厳しいジムで耐え切ったことがチャンピオンに上り詰める基盤が出来たのだろう。」と感慨深く思うという。

「青山の試合は好ファイトになるから楽しみ!」と常連客を呼び込む人気を得ていた青山は、フォーリーブスの青山孝に肖ったアイドルタレントのような端正な顔立ちから女性ファンも多く、花束贈呈は女性の列が長く続く現象も起きていた。

タイ遠征した頃、サンドバッグを蹴る青山隆(1983年11月)

◆ムエタイ遠征も図太く生き抜く

キックボクシング界が低迷期で興行も減った1980年代前半でも、黒崎道場はそのネームバリューから比較的マッチメイクには恵まれていた。1983年に道場は実質的閉鎖され、小国ジムに移行されたが、その傾向は変わらず、1983年11月27日、タイでの試合出場を要請された青山隆は、パタヤでパヤオ・プーンタラットがWBC世界ジュニアバンタム級王座挑戦した試合のセミファイナルでのムエタイ試合だった。

結果はKO負けながら、開始からパンチで圧倒。サバ折りや足払いで対戦相手のノックノイのリズムを狂わせ、ギャンブラーは騒ぎ始める中、ヒザ蹴りに捕まって倒されたが、WBCホセ・スライマン会長も食い入って観るほどの大いに盛り上げた試合だった。WBCがムエタイを手掛ける兆しはここかなと勘繰ってしまう当時の激闘である。

青山は試合を終えると、翌日には予定していたムエタイ修行への一人旅。バンコクに戻ると、知人から貰っていた英文で書かれたメモ書きの住所をタクシーの運転手に見せて、片言の英語だけで何とかフェアテックスジムへ辿り着いた。

主に指導してくれたのはトレーナーをしていたムエタイの英雄、アピデ・シッヒラン氏だった。青山が「一番良い先生に出会うことが出来ました!」と言う言葉どおり、お世話になった後々の日本人修行者は多い。

しかし、青山が修行したこの時代は、現在のようなムエタイ留学や外国人受け入れ態勢など無く、住み込みのタイ選手と同じ待遇で雑魚寝だった。

言葉の壁や選手と輪を囲む食事も問題無くこなし、生水をガブガブ飲んでも下痢は一度もしなかったという。

タイ語を覚える気は全くなかった青山は「俺が覚えたのは“バミーミーマイ?”だけだ!」と言うが、屋台で食べたラーメン。これだけは何度も注文したから二度と忘れることはなかったという。後々、日本でタイラーメン店を経営に至る原点はここにあったのかもしれない。

ヤンガー舟木と共に30代半ばまで長い現役生活となった両雄(1983年3月19日)

渡辺明に判定負け、団体分裂で再戦は叶わず(1983年9月10日)

◆ピークを過ぎても闘志衰えず

ライト級ではパワー不足と言い、フェザー級に拘った新人時代から「俺は骨太で体重は落ち難い」という減量苦が付き纏いながらも激戦を展開した青山隆。

1982年11月からの1000万円争奪オープントーナメントでは56kg級を諦め、62kg級で挑むも、初戦で日本系の大ベテラン、千葉昌要(目黒)にあっさり1ラウンドKOで敗れ去った。

1984年11月のメジャー化に向けて動き出した画期的4団体統合の日本キックボクシング連盟では、王座に向けて2連戦となった鹿島龍(目黒)にはいずれも激戦の判定負け。

その打たれても向かっていく凄絶ファイトで不破龍雄(活殺龍)、嵯峨収(ニシカワ)を下し、再び王座挑戦のチャンスを掴んだ1986年9月20日、かつて黒崎道場で、一歳年上ながら後輩でほぼ同期の親友でもあったチャンピオン、葛城昇(=稲葉理/習志野)をわずか1ラウンド37秒、右フックで倒し、念願の日本フェザー級王座奪取に成功(第3代MA日本)。

鹿島龍には2連敗、後々もう一度観たいカードであった(1985年3月16日)

不破龍雄に判定勝ち、我武者羅に向かうファイトが人気を呼んだ(1985年11月22日)

タイトル挑戦前哨戦での山崎道明戦は、なんと3回戦で引分け(1986年7月13日)

花束を贈るファンは多く、華やかなリング上だった青山隆(1986年7月13日)

チャンピオンとして真価が問われる戦いは、当時復興の全日本キックボクシング連盟へ移行する事態はあったが、欧米等の国際戦を経て、1988年3月の初防衛戦で、ついに減量の限界がやってきた。試合の3日前、蒸し風呂に入って意識を失い倒れてしまい、減量は断念。オーバーウェイトで王座は剥奪されたが、挑戦者のスイート金吾(大和)をヒジ打ちで圧勝。更なる上位へ踏み出した(移籍時は第8代全日本フェザー級チャンピオン認定)。

その後のライト級転向も、懸念されたパワー不足と、台頭してきた川谷昇(岩本)や杉田健一(正心館)に敗れるも、引退の兆しは感じさせず地道に這い上がってきた。

1992年1月、全日本ライト級チャンピオンとなっていた川谷昇への挑戦は引分けで二階級制覇は成らず。その後ブランクを作ると、誰もが引退したと思ったが、「まだ辞めないよ。ウェルター級で再起しようかと思って!」と冗談交じりに話す青山だが、キングジムへ移籍しての再起は2年後の1994年6月。時代も更に移り変わり、若い内田康弘(SVG)にヒザ蹴りで1ラウンドKO負け。

更に翌1995年3月に勝山恭次(SVG)に判定負けした試合を最後に、今度は完全にリングから遠ざかったようだった。

しかし40歳を超えた頃、「ジョージ・フォアマンの年齢を超えてやろうか!」と、45歳で世界ヘビー級チャンピオン(WBC・IBF)に返り咲いたジョージ・フォアマンを例えて笑っていたが、いずれ本気で再起する気だったのだろうか。ジムワークを続けていた青山ならやりかねない状況が続いたが、タイで覚えた“バミー”(タイラーメン)を引き金にいろいろな飲食業に挑戦したビジネスも軌道に乗り、さすがに復帰の道は無くなっていた。

王座まで長い道程だったが、わずか37秒であっさり奪取、葛城昇を倒す(1986年9月20日)

初めてのチャンピオンベルトを巻いたリング上の姿(1986年9月20日)

◆兄貴分気質

最終試合後はキングジムで、ミットを持って若い選手の指導に厳しく当たっていた。黒崎道場出身者は皆、存在感にオーラがあり、キツい練習をさせるのが当たり前だった。青山隆もミット蹴りの終了間際では、選手がバテているところで終わらず強い連打を蹴らせ、「最後に強いの一発!」と声を荒げ、バテて強く蹴れないと「弱い! もう一発!!」と延々終わらない鬼コーチぶりを発揮する。しかし厳しさを撥ね返してくる選手は手応えがあるが、昭和の殺伐とした時代を知らない現代っ子には意思疎通が難しくなった様子も伺えるようだった。

そんな厳しい指導をする青山もプライベートでは後輩を連れて飲みに行く等、慕われる存在である。

かつて青山隆の後輩で、後にタイでムエタイジムを運営して殿堂チャンピオンを育て上げた伊達秀騎氏は、アルバイトしてはタイ修行を繰り返して金を使い果たしていた時期のことについて、「青山さんから電話が掛かってきて、『メシ喰ったか?』と聞かれ、『ちょっと今金無くて……』と苦し紛れに応えると、『バカッ、お前、電話しろよっ!』って怒られて、食事に連れて行ってくれる情に厚い兄貴分でした。食えない時期に何度も助けてくれたことは一生忘れられないですね!」と語る。

2012年12月には、肺癌を患って入院していたアピデ・シッヒラン氏への御見舞に約30年ぶりにタイへ渡った青山隆氏。アピデ氏や家族の方々もわざわざタイまで来てくれたことに感激していたという。30年前の恩を忘れない、恩師は親、後輩は弟のように人情が厚い。

青山氏は現役引退したつもりは無いようで、「自分の中では死ぬまで現役です。今でもトレーニングはしています!」と力強く言う。

後輩への指導は、昭和の厳しさではなかなか付いて来ない時代だが、人情厚い指導で令和の青山流チャンピオンを育て上げて貰いたいものである。

画像はおとなしく見えるが、指導はここから厳しくなる青山隆(1996年9月12日)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』7月号

◆90年代のパフォーマー

寺田ヒロミ(寺田大実=ひろみ/1970年、千葉県市原市出身)は、元・日本ウェルター級チャンピオン。

ノンタチャイジムでふざけっこのスパーリング(1991.7)

デビュー当時から明るく目立ち、ちょっと生意気な言動と、飛び蹴りやバックハンドブローをハッタリでも思いっきり打ち込み、なりふり構わない戦法はファンの心を掴んだ。

現在では珍しくはないパフォーマンスは、自分が楽しめば周りも引き込まれるムードメーカー的存在だった。

デビュー当時は市原一門のウシオ太田ジム所属だったが、後に市原ジムへ統合されている(同じく市原一門のシンセイジム会長だった小泉猛氏が市原ジム2代目会長となる)。

◆地道に駆け上がった王座への道

寺田ヒロミは何度かタイ遠征を行なっているが、私(堀田)がタイに滞在した時期と二度ほど重なる時期があった。

1990年7月9日、バンコクの北、パトゥムタニーにあるランシットスタジアムで、寺田ヒロミが試合すると渡タイしていた市原一門勢から聞いて観に行くと、相手を挑発しながら蹴りでリズムを掴んで判定勝利。

翌1991年7月には、ノンタブリーにあるノンタチャイジムでの修行中だった。この時期、互いのアパートが近い、同じ集落で過ごす機会があった。

しかし寺田は韓国での試合が決まり、太田会長から帰国命令が出されて早々の帰国。一緒に過ごしたのは2週間程だった。

[写真左]タイ・ランシットスタジアムで勝利(1990.7.9)[写真右]ムエタイで勝利のポーズ(1990.7.9)

後に届いた手紙には、その韓国の試合はKO勝ち。9月15日の後楽園ホールでは日本ライト級チャンピオン、飛鳥信也(目黒/格闘群雄伝No.2)と引分けたという実力はチャンピオンクラスと印象付けたと思ったら11月15日、飛鳥信也の後輩、新妻聡にはKO負けし、1年後の再戦もKO負け。1992年5月23日にはランキングを上げてきたワセダ大久保(山木)に判定負け。

[写真左]勝てばコーナーに上って喜びのアピール(1992.3.21)[写真右]ワセダ大久保にはパワーで押されて判定負け(1992.5.23)

新妻聡には2度KO負け、何気に役者揃った4名(1992.11.13)

次々とライバルに追い抜かれても、1995年5月6日には市原臨海体育館で細川英男(花澤)を倒し、ようやく日本ウェルター級王座奪取(第8代MA日本)。しかし半年後の11月5日、同会場でハンマー松井(花澤)に倒されあっさり王座陥落。それでもハンマー松井とは控室で明るく健闘を称え合い、また当たり前のように雪辱を目指す前向き思考だった。

[写真左]チャンピオンベルトを巻いた勇姿(1995.11.5)[写真右]ハンマー松井に敗れ、初防衛成らず(1995.11.5)

◆思わぬ病

1996年12月、名古屋での興行で寺田ヒロミは、まだ6戦目の武田幸三(治政館)と対戦。試合前、リング上でウォーミングアップする武田を見て、「なかなか好戦的でいい選手みたいですけど、倒しますよ!」と自信満々の話っぷりから無様なKO負けは想定外ではないが、その2週間後のクリスマスイブには想定外の入院となった。試合や練習の負傷ではなく体調不良で受けた検診の結果、重い病に罹っていたという。そんな知らせを聞いたのは年が明けて3ヶ月ほど経ったある日のこと、夜9時過ぎに私に電話が掛かってきた。

「堀田さん、俺、リンパ癌なんですよ。もう全身に転移しているらしいんですよ!」

いつもの明るい声で高笑いも起こる話っぷりだった。

「嘘だろ、元気そうじゃないか。何かエッチな店行って病気貰ったか?」

咄嗟にいつものふざけた、そんな返ししかできなかった。本当に癌ならそれはそれで仕方無い。

その電話をしている場所は病院のロビーだという。病室はもう消灯で、携帯電話も禁止なので、眠れないからロビーに居るのだという。

「ロビーって誰も居ない真っ暗じゃないの?」と言うと、そのとおりの処方箋薬局も外来受付けにも誰も居ないソファーだったようだ。

クリスマスイブの入院では順調な回復で一旦退院し、キックボクシングの試合会場で、知人の試合のセコンドに付いたらしい。

「抗癌剤で髪の毛は抜けていたけど、元から短髪だからあまり目立たなかったかな。何人かには、どうしたの?って言われたけど!」というが、娑婆の空気を吸ったのは、ほんの1週間ほどでまた調子が悪くなって病院へ戻ったという。

更に10分程、病気とは違う話をしたかと思うが、「今度、見舞いに行くわ!」と言って電話を切った。終始明るい会話だったが、その直後、また気晴らしに誰かに電話していたのだろうか。それとも誰も居ない暗闇のロビーで心細く泣いていたのだろうか。そんなことを想像するといたたまれなかった。

[写真左]ケイゾー松葉には2勝。大きなアクションで目立つ存在だった(1996.2.9)[写真右]武田幸三に敗れ、これが最後の試合となる。やり残したことは多かった(1996.12.1)

当時、寺田ヒロミと親しく接していたのがキックボクサーでプロカメラマンの早田寛氏だった。その後、早田氏から「なるべく早く見舞いに行ってやってくださいね!」と言われて、そう長くないことを察した。

仕事の合間を縫って1997年12月4日の午後に初めて見舞いに行くことが出来た。内房線八幡宿駅には昔、何度も来た旧・市原ジムの最寄り駅である。駅からバスに乗っていく千葉労災病院。寺田ヒロミの病室は個室で一般病棟とは違う階にあった。彼は静かにベッドに寝ていた。目はしっかり開いているが眠っているような不動の静かさ。声は小さく、身体は痩せて頭髪はスポーツ刈りの形は残っているが、想像した程度には少なくなっていた。

上体を起こし、「体重は今50.8kgですよ!」とフライ級リミットまで落ちてしまったことを言い、私が来て元気を見せようとしたか、シチューを一皿しっかり食べると、お母さんが「普段は一口しか食べようとしないんですよ!」と言ってちょっと安心したような表情。

彼の試合の写真なども持って行ったが、見ていても次第に見え難くなるようでまた横になった。点滴を換えた後も、ナースコールで「すみません、痛み止め打ってください!」と要請。「モルヒネですからね!」と言うが、癌患者に使われる鎮痛剤で、一般的麻薬悪影響は無い。

タイで過ごした時は、貶す冗談言えば、デッカイ声で「酷っでえー!」と返していた大声も、新聞紙面に載った、ヒジ打ち貰ったシーンには「ひでえ!」と微笑む程度に笑うが、声は細々と次の笑いに繋がらない。

寺田ヒロミは抗癌剤投与の毎日ではあったが、「飯はツラくてもちゃんと食って頑張ってね。また来るよ!」としか言ってやれなかった。吐き気で食える訳もない飯を食えと言うのも、「ふざけるな!」と言いたくなる酷な励ましだっただろう。
試合で負けても毎度元気だったが、こんな弱々しい寺田ヒロミを見たのは初めてだった。

「これが最後かな!」八幡宿駅のホームでそんなことを考えてしまった。

入院中はキックボクシング関係者を含め、大勢が見舞いに訪れ、2度KO勝利した新妻聡氏も「また俺とやるんだぞ、待ってるからな、頑張れよ!」と激を飛ばして来たという。

◆もう一度呑みたい奴

翌、1998年3月8日に永眠された寺田ヒロミ。4月19日の市原ジム興行は恒例の市原臨海体育館で開催。当時の現役チャンピオンと協会役員、市原ジム小泉猛会長、寺田ヒロミのチャンピオンベルト姿の遺影を持った御両親がリングに上がり、追悼テンカウントゴングで送られた。

寺田ヒロミが病に罹らず現役を続けていたら、日本ウェルター級戦線には生き残っていただろう。武田幸三が飛躍し、ライバルも増えた時代で、再びチャンピオンには至らなかったかもしれないが、ランカーらを手古摺らせる面白い存在にはなっていただろう。

戦績は正確ではないかもしれないが、28戦13勝(5KO)13敗2分。勝っても負けても話題を振りまいた。そんな1990年代の寺田ヒロミを偲び、

「あいつの分も頑張らねば!」と思っているキックボクサーは多く居たことと思う。引退してもその精神を持っている市原ジム勢をはじめとする関係者とファンは、寺田ヒロミのプロ意識を持った活躍を語り伝えてやって欲しい。私も当時のフィルムを引っ張り出して、寺田との触れ合いの記憶が蘇えった。格闘群雄伝を書く度に、その対象者を深く掘り起こすが、寺田ヒロミだけはインタビューすることが出来ない切なさが残る。もう一度会って?み交わしたい奴であった。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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◆マニー・パッキャオの存在

寺尾新(てらお・しん/本名:井之上新介/1970年12月24日、東京都八王子市出身)は、マニー・パッキャオと対戦した唯一の純粋な日本人として、後々注目を浴びる存在となっていった異色の格闘家である。

マニー・パッキャオは寺尾新戦の後、複数階級を制覇していくだけでもカリスマ的存在だったが、2008年12月にオスカー・デラホーヤに不利な体格差を覆しTKO勝利したことで世界を震撼させるスーパースターとなった。後も世界同時配信されるビッグマッチを続け、更には母国フィリピンで議会議員に当選し政治家活動も開始。それらの影響は思わぬ形で日本にも及んだ。

後にマニー・パッキャオは日本人記者のインタビューで、「日本は寺尾新と戦った思い出の国!」と語り、寺尾新への注目度が増すことへの拍車をかけ、マニー・パッキャオが活躍すればするほど、寺尾の株は更に上がっていった。

寺尾自身も大ブレイクに繋がった因果は、それまでの生き様が物語っていた。

小野瀬邦英さん(左)登場、後楽園ホールで偶然の出会いツーショット(2~3年前/写真提供=寺尾新)

◆前身はプロレス・ファン

寺尾新は幼い頃からプロレス好きで、カメラ小僧としてプロレスを追いかけるマニアックな青春期を送っていた。

1986年(昭和61年)4月、帝京八王子高校に入学し、プロレス好きが高じてリングを見たくてボクシング部を覗きに行くと、待ち構える先輩方の勧誘の威圧感で入部せざるを得ない雰囲気に呑まれ、渋々アマチュアボクシングを始めるに至った。

高校3年の春には、キックボクシングの小国(OGUNI)ジムに入門。プロレス好きから格闘技全般に興味を示し、シュートボクシングやキックボクシングの観戦をしていた中、斎藤京二(格闘群雄伝No.15)、青山隆、菅原賢一といった黒崎道場から育った強い選手と一緒に練習出来ることが決め手だった。

そこまでの努力は、3年生でのアマチュアボクシング東京都大会でのトーナメントはライトフライ級で優勝。

1989年(平成元年)4月には、東京都大会優勝の実績で帝京大学に推薦入学したが、ここからは思うようには勝ち上がれず、ボクシングを諦め、大学も1年で中退の道を選んだ。

小国ジム入門時期では、3ヶ月ほど後に入門する一つ年上のソムチャーイ高津(格闘群雄伝No.7)より先輩にあたるが、寺尾はまだ学生アマチュアボクサーだった為、ソムチャーイ高津が先にプロデビューし、鮮やかなKO勝ちをしたことから、「高津さんは僕の先輩です!」と尊敬の念を強めた。

山本一也(平戸)をローキックで倒す、パンチはフォロー(1994年/藍原高広氏の撮影ビデオより編集)

勝者・寺尾新の表情(1994年/藍原高広氏の撮影ビデオより編集)

身軽になった翌1990年4月、キックボクシングのアマチュア版と位置付けされる全日本新空手道大会に出場。55kg級でトーナメント初戦(1回戦)は勝利も2回戦で敗退すると、悔しさから格闘技雑誌で見た、1ヶ月のムエタイ体験入門の募集に申し込んで、謳い文句どおりの有名選手が所属するバンコクのハーパランジムで修行も行なった。

ソムチャーイ高津は帰国後の寺尾を見て、「寺尾さんはそれまでパンチしか印象がなかったのに、サンドバッグに重い蹴りをバンバン蹴っていて、人はたった1ヶ月でこんなに変われるんだ!」と成長に驚いたという。

1991年、寺尾は実家のある八王子から板橋の小国ジムに通うには遠く、すでに足が遠のき始めていたが、伊原ジムの八王子支部があることを知ると、まだプロデビューする前だった為、円満に伊原八王子ジムへ移籍した。暫くは派遣されて来た元木浩二(格闘群雄伝No.4)氏らの指導を受け、通うには近くて楽だったが、やがて八王子支部が閉鎖に陥り、遠い代官山の伊原ジム本部まで通わされることになってしまった。伊原信一会長の厳しさと指導のもと、1992年7月11日、キックボクシングの本格的プロデビューはKO勝利。

1994年12月の宮野博美(光)戦で1ラウンドKO負けが最終試合となったが、通算8戦6勝(5KO)2敗、勝利ではKO率が高い結果を残した。

キックボクシングでの最終試合となった1994年12月の宮野博美戦プログラムより

◆プロボクシング転向

やはり実家のある八王子から通うには遠かった伊原ジム。1995年春、プロボクシングの八王子中屋ジムが開設されたことを知ると、家から近いジムに通いたい願望や、アマチュアで諦めた悔いを払拭する想いも沸き上がり、プロボクシング転向を決意。円満に伊原ジムを退会し、八王子中屋ジムへ入門。

経験豊富な寺尾は間もなくプロテストを受け、C級ライセンス取得。同ジム第1号プロとして1995年(平成7年)9月22日プロデビュー。後に日本フライ級1位まで駆け上がった。

1998年5月18日に当時、東洋太平洋フライ級チャンピオンで世界タイトル前哨戦を迎えていたマニー・パッキャオと対戦。マッチメーカーのジョー小泉氏が対戦相手を探していたところ、寺尾新に白羽の矢が立った。八王子中屋ジムへ打診が入ると、強い奴と戦いたかった寺尾新は迷わず受けて立った。

各メディアに登場して、マニー・パッキャオに関して語られることは似たものになってしまうが、パッキャオと対峙しても、細身でヒョロヒョロのパッキャオに負ける気なんて全く無かったという。

しかし「遠い距離から左ストレートがいきなり飛んできた。更にあっちこっちから千手観音のようなパンチの嵐。根性やテクニックで凌げるものではなく、凄い威力で逃げられなかった!」という1ラウンド 2分59秒で、3度のダウンを奪われKO負け。

「いつもは負けたら、必ずリベンジしてやろうと思ったが、パッキャオに負けた時は二度と顔も見たくないと思った!」と敗戦後の心境を明かしていた。

寺尾は翌1999年7月3日、指名挑戦者としてセレス小林(国際)の持つ日本フライ級王座挑戦も9ラウンドTKO負け。パッキャオ戦から調子は戻らず3連敗で燃え尽きたように引退。通算16戦10勝(1KO)5敗1分の戦績を残した。勝利でのKO率は低く、ボクシングではパンチを的確にヒットさせることの難しさを表していた。

元・日本ミニマム級、ライトフライ級チャンピオン、横山啓介とのチャリティーイベントのエキシビションマッチにて(写真提供=寺尾新)

◆精力的な格闘技人生

寺尾新はプロボクシングは引退したが、元々はプロレス中心の格闘技好き。寺尾道場としたサークルを作って全日本グローブ空手道大会に出場。長瀬館長率いるTAMAプロレスへも参加。2007年9月2日、UKFジャパンのキックボクシングに出場すると、初代UKF東洋フェザー級王座を獲得。いずれも第一線級を去った後だが、プロレスとキックボクシングでチャンピオンベルトを巻くことも出来た。その後もマニー・パッキャオがどんどん活躍していくことで、寺尾新にもさまざまな格闘技のオファーが殺到したという。

2017年12月18日にはテレビ朝日の「激レアさんを連れてきた」に出演。マニー・パッキャオと戦った恩恵の多くを語り、笑いに包まれる明るくオモロイキャラクターとして寺尾新の名は格闘技界に限らず全国へ広まった。

「あの時試合しておいてよかった。悔しい思いが今となっては嬉しい想い!」という本音は、パッキャオに負けても後々に受けた恩恵は計り知れず、生活の糧となる職業は転々とするが、「パッキャオと対戦した唯一の日本人選手」と書いた履歴書は採用にかなりの効力を発揮。職探しに苦労することなく不動産会社や介護施設で働いた後、2011年12月、神奈川県相模原市緑区に、知人の会社経営者から格闘技フィットネスジムの経営を任され、「雇われ会長です!」とは言うが、知名度抜群の看板となってPREBOジムの名で運営開始。プロ選手も育てられる環境である。

PREBOジムで会員さんを指導する寺尾新会長(写真提供=寺尾新)

PREBOジム内覧風練習風景。結構広い(写真提供=寺尾新)

寺尾新自身は「生涯現役を貫こうと思っていましたが、もう燃え尽きたので現役は引退です!」と笑うが、奥様の井之上弥生選手は、4月25日に後楽園ホールでの「KNOCK OUT 2021 vol.2」に於いて、女子45.0kg契約3回戦(2分制)で、川島えりさ(クロスポイント吉祥寺)と対戦予定で、寺尾新の指導の技が試される試合でもある。

2年前の夏には熱海の海岸で、元木浩二氏主催の、昭和のキック同志会主催バーベキューパーティーが行われ、寺尾新はソムチャーイ高津氏、元木浩二氏と感動の再会となって懐かしい語り合いとなっていた。

多くの体験を経て、多くの名選手をも先輩に持つ寺尾新。運命を変えてくれたマニー・パッキャオを初め、多くの対戦者との縁も大切に、今後も指導においても格闘技の楽しさ面白さを教え、少しでも格闘技を盛り上げる力となっていきたいという寺尾新氏である。

熱海で再会、元木浩二氏(左)と寺尾新氏(2019年8月25日)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

◆バイク事故で運命を変えた新人時代

小野瀬邦英(1973年6月27日、茨城県水戸市出身)は、高校入学後、地元の茨城県水戸市で平戸ジム入門。倒すか倒されるかの躍進で日本キックボクシング連盟のマイナー的存在から逆襲へ流れを変えた革命児である。

「学生時代は何をやっても長続きしない人間でした」という小野瀬だが、中学の野球部ではサードで4番、勉強も常に学年トップ。でも途中で飽きて不登校になったという頭脳明晰、運動神経抜群の変わり種。

中学3年頃、テレビでマイク・タイソンの試合を見て、その強さに憧れてボクシングを始めようと思うも、水戸市には平戸ジムしか無かったことから高校入学と同時に入門。当時はボクシングとキックの違いも分からないまま練習を始めたというが、次第にキックボクシングに目覚めていった。

高校2年の1990年10月13日、フェザー級デビュー戦は2ラウンドKO勝利するも、同年12月、バイクの交通事故で左足踵断裂、アキレス腱がパックリ飛び出す重傷を負ってしまった。これでくっつく迄手術を繰り返すも、左足が満足に使えなければ選手生命は絶たれたも同然だった。

1992年3月、高校卒業すると鍼灸専門学校入学の為上京。学校に通いつつ、身体を持て余していた小野瀬は身体慣らしに運動できればと学校の近くにあった渡邉ジムを訪れ、プロではなく、足のリハビリ目的で入門を申し出た。

現在のキックボクシングジムでは、フィットネス目的での入門は多いが、当時の渡邉ジムは、そんな目的での入門はほぼ受け入れなかった。受入れたとしても、渡邉信久会長がハードな練習を強制するから、あっという間に去ってしまう。

だが、渡邉会長にとって平戸ジムの平戸誠会長はかつての後輩だった縁から「平戸の弟子ならまあいいだろう!」と特別に小野瀬の入門を許した。

しかし折角のジムワーク。リハビリは解るが、キックボクサーとしての恰好ぐらい付けてあげられないものかと周囲の協力体制が芽生えていった。左足のアキレス腱や脹脛に衝撃を与える蹴り禁止。小野瀬は左回し蹴りはフリか軽く蹴るといったフェイントで形を作り上げていくことになった。

半年程経って、現役のチャンピオンだった先輩の佐藤正男とのマススパーリングが増えていった。小野瀬は速い動きと、他の技、更に右・左とスイッチを繰り返す対応で攻撃もディフェンスも出来るまでになっていた。

通算5戦して5勝(4KO)だったが、ガルーダ・テツは好敵手だった(1996.2.24)

◆戦うスタイル、渡邉ジムで開花

その辺りを見計らい、渡邉会長は「小野瀬、試しにリングに上がってみろ!」と試合出場を促した。当然不安はあるところ、「左足は使わなくてもいいから!」と促されて出場。

再デビュー戦を3ラウンドKO勝利。2年程で7~8戦した中、負けもあるが幾つかKO勝利出来たことは自信に繋がっていた。

渡邉会長は「ここまでやれたんだから、もっと上を目指せ!」と叱咤激励。

小野瀬は後に「ローキックのカットは出来ますが左の蹴りは無し。その分、他の攻撃力を上げればいいと思っていたので現役時代は苦にはなりませんでした。」と自信を語る。

新人時代を経て、倒すか倒されるかの攻防は大阪からやって来たガルーダ・テツ(大阪横山)とは互いの発言も過激で、東西対抗戦的話題性は新風を巻き起こした。

1997年2月23日、日本キックボクシング連盟ライト級王座決定戦で、小野瀬は根来侑市(大阪真門)に1ラウンドKO勝利で王座獲得したが、他団体交流に備えた肩書では、選手層が厚かった他団体に比べ、注目を浴びる存在ではなかった。

[左]初めてのチャンピオンベルトを巻いた根来侑市戦後、飛躍はここから(1997.2.23)/[右]佐藤孝也には苦しんだが、しっかり打ち合えた戦いだった(1997.4.29)

チャイナロンにやられた顔面、鼻は折られ腫れ上がる(1999.12.12)

日本キックボクシング連盟は1984年11月の設立当初、統合による人材豊富な活気があった。その後の分裂で他団体勢力には押され気味の時代が10年以上も続く中、渡辺明(渡邉)、佐藤正男(渡邉)らが連盟代表的エース格の時代はあったが、団体そのもののメジャー化には程遠かった。

時代の流れは、1996年8月に設立したニュージャパンキックボクシング連盟(NJKF)との交流戦が始まった。小野瀬は、すでに多くのトップ対決を経験していた佐藤孝也(大和)には苦戦の辛勝だったが、実力が計れる対戦相手との対戦はより存在感を増すことには成功した。

1999年には、日本で実績を残していたチャイナロン・ゲオサムリット(タイ)を1ラウンド、ヒジ打ちで下し、プライド傷つけられたチャイナロンは再戦で猛攻、小野瀬は鼻は折られるも、2ラウンドボディーブローで逆転KO。小野瀬の実力は紛れもないトップクラスという証明をもたらした。

「チャイナロンとの2戦目が現役中一番しんどい試合でした。でも勝ったことで、より私の評価は上がりましたが、今も鼻は曲がったままです。」と負った痛々しい勲章を語る。

◆やり残した武田幸三戦

2000年にはNJKFウェルター級チャンピオン青葉繁(仙台青葉)や元チャンピオン松浦信次(東京北星)、上位ランカーの大谷浩二(征徳会)との計4選手によるトップオブウェルターリーグに出場すると、ライト級の小野瀬はやや押される展開も見せたが、「体格の圧力は特に無く、何発か当てれば絶対倒せる」と確信していたという小野瀬が3戦3勝(2KO)の?日本キックボクシング連盟ここにあり”をもって示した優勝を果たした。

優勝者に約束されていたムエタイチャンピオンとの対戦は、同年9月24日、ムエタイ殿堂スタジアムで長く人気を博したオロノー・ポー・ムアンウボンとの試合が組まれたが判定負け。

「ハードパンチャーとの謳い文句でやって来たオロノーは打ち合いを避けて首相撲で来ました。やはり首相撲は地味だが疲れます。ムエタイとキックボクシングの競技性の違いを痛感しました。」と語る小野瀬の、目指す先は限られてくる難しさも見えてきた。

[左]松浦信次戦、体格差凌いで豪快にKO(2000.4.22)/[右]オロノーもムエタイ技で打ち合いを凌ぎ、追い詰める小野瀬(2000.9.24)

同門対決と言われた職場の後輩、石毛慎也に敗れる(2002.6.29)

この時代はより細かく乱立する8団体の中の、柵(しがらみ)の無い4団体が統一的なNKB(日本キックボクシング)タイトル化を進め、トーナメントを経て2002年には各階級チャンピオンが誕生した。

6月29日、ウェルター級決勝で小野瀬は動きが悪く、若い石毛慎也(東京北星)のヒジで斬られるTKO負け。隆盛を極めた小野瀬の終焉を迎える時期でもあった。
その後、小野瀬は引退宣言をし、「最後に我儘を言わせて貰えるならば、ラストファイトには武田幸三さんと対戦したい。」という公言は、周囲は実現に動くかと期待が膨らんだ。

しかし、どうしても拭えない古い柵に取り憑かれた中では、この対戦は実現に至らなかった。

同年12月14日、小野瀬のラストファイトに相応しい最強として用意された、ラジャダムナンスタジアム・ライト級チャンピオン、マンコム・ギャットソムウォンは、やはり打ち合いに来ないテクニシャンタイプで判定負け。そのリング上で引退式を行ないリングを去った。

小野瀬にとって最も噛み合う、倒されるにしても完全燃焼させてくれる相手と願っていた元・ラジャダムナン系ウェルター級チャンピオン武田幸三(治政館)が激励に駆け付け、リング上でのツーショットに収まるのが精一杯の対峙となった。

小野瀬は後に「バイク事故でもう元通りには回復しないほど足を痛めてしまい、キックボクシングはもう無理と諦めていました。縁もあって渡邉会長に特別な指導を受け、周りのサポートもありここまで来れました。心より感謝してます!」と何はともあれ、現役を続けられたことへの感謝を語っていた。

[左]武田幸三とは夢の対決ではなく対峙(2002.12.14)/[右]引退試合でのマンコム戦、倒せなかった(2002.12.14)

引退式の後、渡邉会長から労いの言葉を掛けられる(2002.12.14)

◆次代を担う立場

小野瀬は新人の頃、自身の腰の故障治療の為に受けた経験から上京後、鍼灸専門学校を経て柔道整復師、鍼灸師、マッサージ師の資格を取得し、現役時代の1999年1月7日、江戸川区葛西に「まんぼう・はりきゅう整骨院」を開業。自らの事故と試合での負傷経験から、傷みの分かる治療が施されている評判良い整骨院である。

引退後は同じ葛西にSQUARE-UP道場を開設。倒しに行く、自分で勝ちを掴めという教えで、夜魔神、大和知也、安田一平をNKBチャンピオンに育て上げている。

2014年には日本キックボクシング連盟で興行担当と成り、古い柵からの改革が始まった。斬新なプロデュースを行ない、新たにフリーのジム所属選手との交流戦を始め、高橋三兄弟の活躍の場を広げ、NKBの活気が増してきたところで小野瀬は2017年12月末で、諸事情により興行担当とSQUARE-UPの会長職を円満に辞任し後輩に託したが、キックボクシングの底上げの努力に後退は無い。平成時代に戦った世代の小野瀬邦英は、同じ世代の会長、プロモーター達とキックボクシング競技確立へ、今後の時代を担う一人である。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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◆新人時代

斉藤京二(1955年12月1日、山形県西置賜郡小国町出身)は、昭和のテレビ放映時代から平成初期まで幾多の苦難を乗り越えながら名勝負を展開した、オールドファンの記憶に残る名チャンピオンである。

キックボクシングを始める切っ掛けは、テレビで観たスーパースター沢村忠を倒すことを目標として全国から上京し、ジム入門を果たした若者が多かった時代の一人でもあった。
     
知人に、沢村忠の所属する目黒ジムに対抗する強いジムはどこかを尋ねて、目白ジムの存在を知り、20歳の夏、1976年(昭和51年)7月に上京すると翌日には目白ジムに入門した。

だが、キックボクシング業界の仕組みを知らない者でもやがて気が付くのが、目黒ジムと目白ジムは加盟する団体が違い、通常対戦する機会は無いことを知ることとなった。

「残念でした、もう遅いよ!」と友人なら笑える事態も心機一転、目標を同じ全日本系の偉大なるチャンピオン藤原敏男に定め、厳しい練習に耐える日々が続いた。
入門当時の目白ジムは、先輩の指導も厳しいのは当然として、黒崎健時先生がジムに現れるとジムの空気が一変したという。先輩達もピリピリしていたその威圧感に驚き、皆この環境下で強くなったんだと悟った斎藤は、初めは島三雄先輩からまず構えとワンツー、ローキックから教わり、入門一週間程経った頃、先輩達とのマススパーリングをやらされ、太腿を蹴られて真っ赤に腫れ、脚を引きずりながら帰る日々が続いたという。

この悔しさで、「早く強くなって必ずやり返すんだ!」と自分に言い聞かせながら、一日も休まず練習に通った頑張りを認められて同年9月11日、入門から一ヶ月半でデビュー戦を迎えた。

「技術は全く無く勢いだけでしたが、KO勝利出来たあの時の快感は今でも忘れられず、練習がキツくても試合で良い結果が出た時の達成感は、何物にも変えられない喜びでした。」と語る。

変則ファイター内藤武に左フックを合わせる(1983.5.28)

◆試練続きの現役生活

デビュー戦から5戦5勝(5KO)し、ランキングが上がるとなかなか倒せずも10戦超えまで連勝は続いた。当然“ポスト藤原敏男”と期待は高まる中、1981年(昭和56年)5月30日には、意外にも早く藤原敏男との同門対決が実現した。第2ラウンドに斎藤のローキックから隙を突いた右フックで藤原敏男はノックダウン。タオル投入によるあっけない幕切れながら新スター誕生となった瞬間であった。

藤原敏男を倒した男という注目度が増したところで、ここからが本当の試練が始まった。1982年7月9日にはヤンガー舟木(後の船木鷹虎/仙台青葉)と引分けるも、ハイキックで顎を砕かれる重傷。手術で口が開かないよう上歯茎と下歯茎を糸で縛られ、歯の間から流動食という日々を6週間も送った。

この負傷で同年秋に始まった1000万円争奪オープントーナメントには出場辞退となったが、1984年5月26日、オープントーナメント62kg級優勝の長浜勇(市原)に右ストレートで2ラウンドKO勝利。それまでにも内藤武(士道館)やレイモンド額賀(平戸)、日本系の実力者、河原武司(横須賀中央)、千葉昌要(目黒)に勝利と交流戦には恵まれるもタイトルマッチは停滞した時代で、なかなかチャンピオンベルトには縁が無かった。

しぶといレイモンド額賀を逆に翻弄、TKO勝利する(1984.1.28)

事実上の頂点、長浜勇を倒し、実力を証明(画像はKO前、この後にKO)(1984.5.26)

統合により業界が再浮上した後の1985年5月17日には、三井清志郎(目黒)との打ち合いで左頬骨陥没の重症。この年の3月、飛鳥信也(目黒)に判定勝利して得た、長浜勇が持つ日本ライト級王座への挑戦権は棄権せざるを得なかった。デビュー10年目でやがて30歳。2度目の顔面骨折。周りは「斎藤は終わった!」と囁かれる中、見舞いに来た後輩には「クソ、このままで終ってたまるか、怪我を治して絶対に上を目指す!」と語気強く再起を誓っていたという。

ここに至るまでにも別の苦難があった。斎藤京二が所属する黒崎道場(1978年に目白から名称変更)は、藤原敏男が引退興行を行なった1983年6月17日で事実上閉鎖となっていた。

その決定からすでに小国ジム開設が計画されており、この翌日から斉藤京二後援会会長であった矢口満男氏がジム会長となり、移籍した選手をマネージメントされていた。実際はジム建屋は無く、公園や路地での練習や、他のジムを間借りする肩身の狭い日々を3年あまりも送ったが、現役生活を続けながらの建屋計画は後援会の協力もあって1986年10月、板橋区中台にようやくバラック小屋ながらもジムが完成。そこから充実した練習で同年11月24日、一度引分けで逃した甲斐栄二(ニシカワ)が持つ王座を4ラウンドKOで念願の日本ライト級王座に就いた(第3代MA日本)。
翌年4月19日、飛鳥信也に再度判定勝ちし初防衛のあと、斉藤にまた新たな試練がやって来た。

念願の日本ライト級王座獲得、甲斐栄二を倒す(1986.11.24)

◆エース格として、常に上を目指す戦い

1987年5月、復興した全日本キックボクシング連盟に移ったジムの中、小国ジムもその一つだった。斎藤京二は認定による第5代全日本ライト級チャンピオンとして連盟エース格。これまでにない若い世代の石野直樹(AKI)、小森次郎(大和)、杉田健一(正心館)の挑戦を受けての3度の防衛と3度のWKA世界王座挑戦(王座決定戦含む)を経験。後楽園ホールでロニー・グリーン(イギリス)、フランスでリシャール・シーラ、オランダでトミー・フォンデベーといずれも敗れたが、常に上位を目指した挑戦はエース格に相応しい軌跡を残した。

[左]王座獲得後のチャンピオンベルト姿撮影(1987.1.25)/[右]飛鳥信也を下し初防衛(1987.4.19)

1990年11月23日、元・タイ国ラジャダムナン系ジュニアフェザー級チャンピオン、マナサック・チョー・ロッチャナチャイにローキックで散々足を攻められ、5ラウンドTKOで敗れたことで引退を決意。試合で負けると毎度「クソ、今度は絶対に倒してやる!」という悔しさ満々だったが、その燃える気持ちがだんだん薄れてしまったという気力低下が要因だった。かつての激戦を経た対戦相手らのほとんどはすでに引退しており、闘志が薄らぐのも止むを得ない時代の流れであった。そして1991年5月26日、功績を称えられ、日本武道館で華々しく引退式を行なった。

心残りは、日本人の誰もが勝てなかった全米プロ空手(WKA)で長く世界王座に君臨したベニー・ユキーデや、分裂によって対戦の機会を失ったが、元・日本ライト級チャンピオン須田康徳(市原)と戦いたかったという。ファンも期待した昭和時代に残されてきた期待のカードでもあった。

[左]全日本キックに移っての初防衛、若い石野直樹を倒した(1988.1.3)/[右]全日本キックでは国際戦が多かった、ジョアオ・ビエラに判定勝利 (1988.7.16)

小国ジム新会長就任パーティーにて、抱負を語る斎藤京二氏(1992.2.9)

◆引退後もなお新たな挑戦

引退後は小国ジム新会長に就任(矢口満男氏は名誉会長へ)し、自身が受けられなかったタイ人コーチの指導を若い選手に受けさせてやろうとタイからコーチを招聘し、1995年1月には立地条件と練習設備向上を目指し、現在の豊島区池袋本町にジムを移転した。

1996年8月、ニュージャパンキックボクシング連盟を設立した藤田真理事長と共に興行運営に力を注ぎ、後の2007年1月には藤田理事長の任命を受け新理事長就任。

2008年にはJPMC山根千抄氏が掲げたWBCムエタイ日本実行委員会発足に賛同し、「プロボクシングの世界組織の在り方に非常に羨ましくもあり、キックボクシングもこうならなければならない。」という理想を持って、これまでにない組織運営に乗り出した。

2018年末、若い会長との世代交代として連盟理事長を勇退したが、2019年5月1日、新たに発足したWBCムエタイ日本協会長に就任し、より一層体制を整え「キックボクシングが、社会的に認知されるスポーツ組織として未来永劫続くよう運営していく。」と抱負を語る。

小国ジム(2003年6月、OGUNIに改名)は当初、黒崎イズムを継承するジムとして入門して来る選手が多かった。ソムチャーイ高津もその一人である。斎藤京二氏の現役時代、練習時や試合前は誰もが近付き難い黒崎道場独特のピリピリした威圧感があったが、引退後は人が変わったようにニコニコ笑顔の穏やかな人柄で、これが本来の斎藤さんだったのかと驚くほどムードも変わったが、タイ人コーチによる指導も成果を出し、10名あまりのチャンピオンを誕生させてきた。

現在は多くのプロモーターが独自の開催するビッグイベントが増えた中、WBCムエタイの権威向上へ舵取りが注目される斎藤京二氏である。

時代は移り変わりNJKF理事長を勇退、坂上顕二新理事長より花束が贈られる(2019.2.24)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

◆通信教育でスタート

高谷秀幸(たかや・ひでゆき/1963年8月31日、東京都大田区出身)はタイトル歴は無いが、「目立ってやろう精神」は好奇心旺盛に団体と時代を渡り歩いた名脇役であった。全日本キックボクシング連盟ではリングネームを兜甲児としてリングに上がった。

空手会場で演舞を披露していた頃もある高谷秀幸(20歳頃)

幼い頃から活発で、ブルース・リーなどを見様見真似のアクションで遊んでいたが、15歳で空手を始めた。そんな頃、雑誌ゴングの広告で見た、みなみジムのキックボクシング&マーシャルアーツの通信教育に興味を持って申し込み、日々テキストに従った練習に励んだ。

一定の通信過程を経て実技審査に入る際はスクーリング制度で、みなみジム宿舎泊まり込みで技術を披露。

元々から充分鍛えていた高谷は何一つ劣ることなく体力テストもクリアし修了審査を終えると、「じゃあまた連絡するから!」と南会長に言われてジムを後にし、10日ほど経ったある日、電話が入った。

「オイ高谷、デビュー戦決まったから入門しろ!」

「えっ、デビュー戦? 入門前にデビュー戦って決まるもんなの?」という疑問は聞ける雰囲気ではなく「ハイ、分かりました!」と応えるのみ。

入門したのは1981年10月1日、デビュー戦は10月25日だった。これが当時、日本キックボクシング協会と全日本キックボクシング協会で分裂が起こって設立された日本プロキックボクシング連盟の設立記念興行だった。ライト級デビュー戦同士で鈴木庄二(西川)と対戦した高谷は勝つよりも目立ってやろうという意識が強く、バックハンドブローを炸裂させたことが判定勝利に結び付いた。これで自信を持った高谷は後々の得意技となっていった。

デビュー戦のリングに立った日(1981年10月25日)

◆夜逃げ

みなみジムでは1戦のみだったが、会長は「もっと左ミドルキック蹴らなきゃダメだ!」といった試合のダメ出しが多く、何かと威圧的に煩いこと言われ続け、傍から見ればどちらも血気盛んな性格なだけだったが、高谷は突然の退会を申し出て、後は夜逃げ同然のように宿舎から去った。

高谷は千葉県内に移り住んでいたが、一度やったキックボクシングは簡単には止められない魔力に憑りつかれていた。やがて千葉県内のキックボクシングジムを探し出すと、総武線の稲毛駅付近で車窓から見えたのが「TBSで放映中!キックボクシング千葉ジム」の古い看板。迷わず稲毛駅を降りてすぐに向かった。

当時はテレビも離れ、分裂も繰り返し起こったキックボクシング業界低迷期で、ジムは閑散としたもの。戸高今朝明会長も「こんな時代だが、やりたい奴はやればいい」と、過去の経歴は拒むことなく高谷を迎え入れた。みなみジムとは難なく話は纏まっていた様子だったという。ジムのバラック小屋には後々、中二階が作られ宿舎スペースと高谷はそこで暮らすことになった。

再デビューもライト級で1982年10月3日、三浦英樹(西川)に判定勝利。

1984年3月31日には、あのベニー・ユキーデと戦った新格闘術ライト級の内藤武(士道館)と対戦(5回戦)。高谷は映画・四角いジャングルや梶原一騎の影響を受けた世代として、憧れの内藤武には上を行く変則ファイトに翻弄され判定負け。

この頃は10kg以上あろうと格上だろうと堂々とマッチメイクするのが千葉ジム流。というのもキックボクシング創生期からそんな大雑把なこと当たり前の時代の名残りだった。

甲府での北島利秋(西川)戦(1983年9月18日)

日本キックボクシング連盟設立興行での西純猛(渡辺)戦(1984年11月30日)

千葉ジムでの練習。今時少ないパンチングボール(1985年頃)

翌1985年6月、ここでも思わぬマッチメイクも発生した。

日本フェザー級タイトルマッチ、渡辺明(渡辺)vsロバート高谷(千葉)と書かれたポスター。「ロバートって誰だ?」と思った途端、自分の顔写真に気付いた。

「えっ? 渡辺明と? フェザー級? 無理だろ!」

ここには1ヶ月前に起こった日本キックボクシング連盟の分裂からくる皺寄せが来ていた。そのもう一方の団体ならフェザー級は充実したランカーが揃っていたが、こちら側の団体では閑散としたもの。知らぬ間に一階級下のフェザー級でマッチメイク、更に格上過ぎる勢いある渡辺明。キック人生初のタイトルマッチだったが、バックハンドブロー炸裂で渡辺明が鼻血を流すシーンを見せるも、無理な減量も影響し、ヒザ蹴り猛反撃を食らった高谷は1ラウンドもたずの2分55秒KO負けを喫した。

こんな減量が響く無理なマッチメイクがあったり、千葉ジムにはしっかり指導できるトレーナーが居ないことからこれで引き際と決意し、次の試合が決まったと聞きながら、そっと千葉ジムを離れた。二度目の夜逃げ同然だった。

◆兜甲児となって

暫く空手などの試合に出場していたが、やがてまた「もう一度キックボクシングをやってみたい」という憑りつかれた魔力には勝てず、新空手の試合会場で山梨県の不動館・名取新洋会長に会うと、「現役を離れて5年のブランクがありますが、キックをやらせて頂けないでしょうか!」と入門を願い出ると、かつて不動館の興行に出場したことある高谷のことを知っていた名取会長は難なく了承。

この時期はキックボクシング低迷期を脱し、徐々に若い世代が台頭してきた時代で、各階級で充実したランカーが揃っていた。再起のリングとなった全日本キックボクシング連盟で、高谷はマジンガーZの主人公・兜甲児の名をリングネームとして3回戦(新人戦)からやり直すことになった。

ここから対戦した相手は後々、チャンピオンとなる選手が多かった。再々デビュー戦は1991年4月21日、林亜欧(SVG)に左フックでKO勝ち。松浦信次(東京北星)にバックハンドブローでKO勝ち。金沢久幸(富士魅)には判定負け。全日本キックで最後の試合となったのが1994年3月26日、小林聡(東京北星=当時)に僅差の判定負け。5回戦に上がることは無いままだったが、対戦相手には恵まれた3年間を送って30歳で引退を決意。最後は綺麗な引き際で不動館を後にした。

[写真左]再々デビュー戦となった林亜欧(SVG)戦(1991年4月21日)/[写真右]勝山恭二(SVG)戦(1991年10月26日)

[写真左]松浦信次(東京北星)戦(1992年3月28日)/[写真右]松浦に勝利した兜甲児(高谷秀幸)(1992年3月28日)

レフェリーを務める高谷秀幸(2006年12月10日)

◆引退してもキックとは腐れ縁

引退後はアマチュアキック・空手関係の試合でレフェリーを務めていたが、日本ムエタイ・レフェリー協会を発足させていたサミー中村氏から「プロでもやってくれないか」と誘われた。好きなキックとは腐れ縁で、なるがまま新日本キックボクシング協会でレフェリーを務めた。ちょっとユニークな動きを見せるレフェリーとして異質な存在感を見せたが、新日本キックで審判団入れ替えの事態が起きた2014年11月に終了となった。

高谷は2008年頃には35歳以上が参加出来るアマチュア枠のイベント「ナイスミドル」にも何度か出場しKO勝利を収めている。

タイへ観光に行った際には、田舎やお祭りのリングで余興にも出場。バックハンドブローを元・ラジャダムナン系ランカーにヒットさせると、そこから物凄い首相撲で何度もひっくり返されヘロヘロになったという仕打ちも「キックボクシング第4の人生の楽しい経験」と笑って言う。

高谷のバックハンドブローは、怯んだフリをして相手に背中を向け、向かって来たところを迎え撃つ手法で、チャンスと見た相手はガードが下がり気味でヒットし易いという。

新人戦から元・ムエタイランカーにまでヒットさせた、バックハンドブローの名手・高谷秀幸だった。

2017年3月にこの鹿砦社通信で掲載されたテーマ「試合から逃げた選手たち」に挙げた一人は高谷秀幸だった。しかし高谷は試合から逃げたのではなく、会長から逃げたパターン。若気の至りだった。

完全引退してから千葉ジムを訪れた際、「そんな昔のこと忘れちゃったよ、元気だったか!」と言ったのは戸高今朝明会長である。

みなみジム・南俊夫会長には、高谷がまだ現役時代にリングサイドで、「押忍、御無沙汰しております!」と元気よく挨拶すると「オウ、久しぶりだな、元気にやっとるか!」と返す南会長の笑顔があった。爽やかさが残るのが高谷秀幸という男。

現在は依頼があれば指導、演舞などをこなし、公園や体育館で空手やキックボクシングを、歳に合わせた自己練習の日課を今も続ける少年の心を持ったオッサン高谷秀幸57歳である。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

タブーなき月刊『紙の爆弾』2021年4月号

◆キックボクシングの衝撃

新日本キック時代の玉川英俊レフェリー(2004年5月30日)

玉川英俊(1968年12月4日東京都葛飾区出身)はプロキックボクシング試合出場の経験は無いが、空手経験が縁でキックボクシングレフェリーを長く務めた経験を持つ大田区議会公明党議員である。

玉川英俊は玩具卸売りを営む両親に育てられた三人兄弟の末っ子で、兄によくプロレス技をかけられていたという遊びから、小学生の頃は漫画タイガーマスク、あしたのジョーが大好きだった。

高校生になって、空手部に所属していたクラスメイトの教室での大人しい姿と、道場での勇ましい姿とのギャップに驚き、玉川自身も空手部に入部。そこから空手バカ一代や四角いジャングルの漫画をはじめ、格闘技雑誌の創刊ブームなど、時代の流れに乗って格闘技にどんどん夢中になっていった。

1987年5月、創価大学一年の時、友人に元・極真空手の竹山晴友の試合を観に行こうと誘われ、後楽園ホールで初めてのキックボクシング生観戦。プロの技の衝撃、興奮が収まらず、どんどんキックボクシングにハマっていく中、大学でフルコンタクト空手のサークルを創設。大丈会(=ますらおかい)として試合出場も果たし、打撃技術を求めて、大学のある八王子市在住のキックボクサーとして、日本ライト級チャンピオンとなる頃の飛鳥信也(目黒)氏に指導者として丈夫会に迎え入れ、目黒ジムに見学や体験入門を果たした。

1990年5月、大学4年の時、第1回全日本新空手道選手権大会では、師である飛鳥信也氏と同門で、後にWKBA世界スーパーライト級チャンピオンとなる新妻聡と対戦していた。結果は「もうやめてくれ!」と言わんばかりの防戦一方のTKO負け。 他にも杉山傑(治政館)に判定勝利、今井武士(治政館)に判定負けと、後のチャンピオンとの対戦は多かった。大学卒業後は目黒ジムに正式入門。1995年頃までプロデビューは目指さず練習生のまま、ミット持ちなどトレーナーも務めた。

NO KICK NO LIFEにて緑川創vsアンディー・サワー戦を裁く(2014年2月11日)

◆レフェリーに転身

1995年頃から、新空手道、学生キックボクシング連盟等でレフェリー(主審・副審)として要請され参加。その後、新日本キックボクシング協会の運営関係者からもレフェリーとしての依頼の声が何度となく掛かり、「アマとプロは違うから」と断り続けていたが、最後は目黒藤本ジムの藤本勲会長から直接お電話でお願いされたことで、それまでたくさんお世話になってきたことへの恩返しとの思いで引き受けることになった。 しかし、プロのレフェリーでは思った以上に厳しい局面に立たされ、苦労が絶えなかった。

「アマチュアの試合では“早めのストップ”が重視され、その癖がプロの試合でも出てしまい、セコンドから罵声を浴びせられることは多々ありました。早く止めてKO負けにしたとき、その選手所属のジムの会長が泣きながら主催者に抗議されていたのを覚えています。またジャッジでも、興行終了後に某ジム会長が審判控室に『この採点したのは誰だ!』と怒鳴り込んで来られたこともありました。」という威圧的な抗議は脳裏から消えないという。

また2006年には「チャンピオンの地元での日本タイトルマッチで、1-2判定で挑戦者が勝った試合がありました。判定結果が出た直後、不服とした関係者がリング上でレフェリーを平手打ちし、会場は暴動寸前となり、その後、審判団は一旦全員解雇。継続したい者は残れと言われたものの復帰の見込みは無く、その後暫くして退くことにしました。」という形で一旦、プロ興行のレフェリーから去ることになった。

その後、アマチュアのみに戻り、学生キックボクシング連盟でのレフェリーを務め、ナイスミドル(キック版オヤジファイト)から声が掛かり、ここでのレフェリーも務めていた。そして2014年2月11日、リニューアル大田区総合体育館として初めてのキックボクシング興行が開催された、小野寺力氏の「NO KICK NO LIFE 2014」で、レフェリーとして依頼され復帰をしたが、2016年6月24日、「KNOCK OUT」移行による「NO KICK NO LIFE~THE FINAL ~」を最後にレフェリーから退くことになった(主に議員活動の多忙と興行が重なる事情有)。

審判を務めた経験の中には失態もありつつ、「2005年のある日本の王座決定戦で、本戦・延長戦共に、私のみ勝者“青コーナー選手”の採点を付けましたが、結果は2-1で赤コーナー選手“の勝ち。赤コーナー陣営から罵声を浴びましたが、あの時の自分の採点は間違っていないと毅然と立ち振る舞った試合もあります。」と言い、これが採点が分かれる場合もレフェリー・ジャッジそれぞれが取るべき大事な姿勢であろう。

ザカリア・ゾウガリーvs水落洋祐戦を裁いた後の勝利者コール(2016年3月12日)

NO KICK NO LIFEでの審判団(提供:玉川英俊氏)

選挙演説に出向いてマイクを握る(提供:玉川英俊氏)

◆大田区議会議員へ挑戦

1991年、格闘技人生とは裏腹に、日常では大学卒業と共にIT関連会社に就職し、後に大田区北千束に移り住むと、26歳で大学時代の同級生と結婚し、一男一女を儲け、後々には大学卒業まで立派に育て上げていた。

2011年には19年間勤めた会社を退職し、大田区議会議員選挙に挑戦していた。在職中の総務部で防災担当として培ってきた経験を活かして、災害に強い街づくりに取り組んでいくことを志していたが、選挙の一ヶ月前に東日本大震災が起こり、その志は更に強く持ち、格闘技に関わって来た忍耐と、どこにでも足を運ぶ行動力が基盤となった活動で同年4月24日、見事当選されている。

議員としての活動は日々忙しく多岐に渡るが、この3期10年間、東北や伊豆大島の被災地支援ボランティアにも参加し、現地で学んだことを大田区の防災強化に活かす為、議会で提案・討論を続けている模様。

また小中学校との交流も重ね、防災教育にも力を注ぐことが、人の命を救うこと、いじめや差別を無くす人間教育にも繋がるという取り組みも行ない、玉川氏が格闘技を通じて身に付いた、人の痛みの分かる指導が今後も活かされるだろう。

PETER AERTS SPIRITイベント開催に際し、ピーター氏表敬訪問にて、右から2番目が松原忠義大田区長、中央がピーター・アーツ、左端は大成敦レフェリー(提供:玉川英俊氏)

選挙演説にてマイクを持って公約、抱負を語る(提供:玉川英俊氏)

◆議員として格闘技界に手助け出来ること

旧・大田区体育館は新日本プロレスが1972年(昭和47年)3月6日に旗揚げ興行を行なった会場として有名だが、2008年3月に老朽化により解体、新たに建設され2012年3月に新・大田区総合体育館として竣工。ここから大晦日にプロボクシングの世界戦が行われる年が多く、玉川英俊氏は「ここで格闘技興行を行ないたい人達が多く居る」ということを議会でも訴え、主催者や選手たちの想いを直接、大田区・松原忠義区長に届ける為に、イベント告知や結果報告などで、小野寺力会長やピーター・アーツ氏、那須川天心選手他、多くの格闘技関係者による区長・区議会への表敬訪問の場をセッティングしてきた。

玉川英俊氏は「大田区には21世紀の“格闘技の聖地”大田区総合体育館があり、この会場でプロレスや格闘技の名勝負が繰り広げられてきたという歴史、伝統を継承し、この格闘技の聖地を世界に知らしめていきたい!」と語り、敷居の低い、使い易い、観戦し易い、格闘技に優しい会場として位置付けようと活動に力を注いでいる。

ここ数年はJR大森駅前ロータリーで開催されるお祭「ウータンフェスタ」で、KICKBOXジム鴇稔之会長のもと、所属選手やチビッコ等による公開スパーリングやアトラクションマッチのレフェリーもしているという(昨年はコロナ禍で中止)。今後、またプロ興行でその姿が見られるとしたら、その玉川議員レフェリーの姿をカメラに収めたいものである。

お祭りイベントにて、女子選手不満爆発のイジメ!?に耐える玉川レフェリー(提供:玉川英俊氏)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

タブーなき月刊『紙の爆弾』2021年4月号

◆バンドからダイエットへ

北沢勝(1968年10月10日、東京都大田区出身)は26歳でプロデビューし、あまり注目される存在ではなかったが、頑丈な体格とバンド時代からの得意技の気合と根性で日本ウェルター級チャンピオンに上り詰めた。

北沢勝は高校時代にコピーバンドを始め、後にSHELL SHOCKというバンドに誘われ、ドラマー担当をした。卒業後もアルバイトしながらスタジオでレコーディング。ライブをして全国をツアーするという生活だった。

「ライブが終わったら飲み会。そんな生活をしていたら太り始めて80kg超え。何かダイエットしなくてはと思いました。」という北沢は元々プロレスファンで、当時UWFに夢中だったが、テレビで安生洋二と対戦するチャンプア・ギアッソンリットのミット蹴りを見た衝撃でムエタイこそが最強と確信し、これがキックボクシングを始める切っ掛けとなった。

SHELL SHOCKのリリースされたCDの一枚、いちばん右側が北沢勝(提供:北沢勝)

◆ムエタイから学ぶ

1993年4月、ダイエットにはキックボクシングをと、家から近くのジムを探すと目黒ジムが見つかったが、そこは名門といった歴史は知らないまま入門。

それまでスポーツというスポーツはやったことは無かったという北沢は腹筋が割れるほどの筋肉質のダイエットに成功。こうなると目指すはプロデビュー。チャンプアの蹴りの影響から始まった本場ムエタイの体験を希望すると、先輩に勧められるがまま翌年2月、バンコクのソー・ケーッタリンチャンジム(後々ゲーオサムリットジムへ移行)での修行に向かった。バンドは我儘を言って辞めた後だったが、辞めた以上は強くならねば恰好がつかない追い詰められた立場でもあった。

渡タイ目的の一つはムエタイ観戦だった。週に三日は夕方の練習が終わると一人でスタジアムに向かって、出来る限り間近で一流の試合を観て、技を真似て練習で実践して、またそこで一流のトレーナーに修正してくれたことが後々役立っていった。

1994年11月25日、ライト級でデビューすると10戦目に日本ライト級1位の今井武士(治政館)に判定負けするまでは、一つの引分けを挟み8連勝(3KO)。26歳でデビューは年齢的には遅いデビューだが、ランキング上昇は努力と研究の賜物。身体が頑丈でコツコツ頑張る気持ちのある努力型という周囲の見方が多かった。

デビュー1ヶ月前のタイでの練習(1994年10月17日)

伊東マサル戦に備えた目黒ジムでの練習(1996年1月24日)

伊東マサル(トーエル)戦は判定勝ち(1996年2月9日)

1998年8月には元・ラジャダムナンスタジアム・ウェルター級チャンピオンだった第一線級から離れて間もないパヤックレック・ユッタキットと68.0kg契約で対戦の話が舞い込んだ。人生最大の危機……いやチャンス。これを逃せば悔いが残ると思うと断る理由は無かった。結果は重い蹴りを受け続けた判定負け。無事生きて帰れたと安堵するが、下がらぬ戦いに周囲の評価は高い。

北沢は身長が170センチには至らず、周囲から「ライト級でも低い方!」と言われたり、体格を活かす為にも1998年末まではライト級登録のままリミット超えの契約ウェイトで頑張ったが、鷹山真吾(尚武会)との日本ライト級挑戦者決定戦は、走っても利尿剤を使っても体重はリミットまで落ちず、ウェイトオーバーという屈辱的な失態は残酷な展開で判定負け。

後日、偶然前回対戦のパヤックレックと会うと、「アナタ、私と試合したのに何、この前の酷い試合は! 今後はウェルター級でやりなさい!」とダメ出しされ即答で承知。小野寺力先輩方にも諭されていたが、「後々思えば無理してライト級でなくてもよかった。ムエタイボクサーにもいろいろなタイプが居た。そこから背が低くてもその戦い方があるのだ」と悟った。「スーパーライト級があればいいのにね。」という声にも「ウェルター級では俺が一番強いからスーパーライト級なんて必要ないですよ。」と笑って返していた。

武田幸三から健闘を称え合う笑顔(2000年1月23日)

武田幸三(治政館)戦、アッパーが鼻をかすめる、棒立ちで次に繋げない(2000年1月23日)

◆チャンピオンへ上り詰める

北沢勝はウェルター級に上げ、適正階級となると3連勝し、2000年1月23日、日本ウェルター級タイトルマッチに挑んだ。チャンピオンはタイ・ラジャダムナンスタジアム王座に挑む前の武田幸三(治政館)。「武田を倒せばラジャダムナン王座挑戦権は俺のもの!」という図式は成り立たないが、全てを奪いに行く覚悟で挑むも、武田の蹴りは速くて上手かった。武田を苦しめ善戦はしたが「武田には負けると思っていたけど、よく頑張ったな!」と言われるのもそう思われるのも嫌いだった。

「あそこまでの引き出ししか無かった。もっと頭使って技を出していればと思います。アッパー当たっても棒立ち状態で、次に繋げていない。」と反省の弁は多いが、「やっぱり北沢は凄いよ!」という声は多かった。

2002年1月27日、次のチャンピオンとなっていた米田克盛(トーエル)から王座奪取。チャンピオンにはなったが、国内無敵の武田幸三を倒せなかったことが心残りも再戦は叶わなかった。

北沢は新日本キックボクシング協会が年一回行なっていたラジャダムナンスタジアム興行「Fight to MuayThai」にはチャンピオンとして2回出場。

2002年のラジャダムナンスタジアム初出場の際には「ビデオで見てた計量のシーンとかに自分が居る。感慨深いという言葉では表せないような舞い上がりでした。」という大舞台に立つ感想。

更に「相手のフェートサヤームはゴツゴツした腹筋は無く、三流のタイ人を連れて来たなと思っていたら、ゴングが鳴った瞬間に貰った蹴り、パンチのあまりの重さにイヤな予感がした瞬間にヒジ打ちを貰って流血。日本人観戦ツアーもいる中、もう死ねるもんなら死にたい、でもその前にお前を殺す。と立ち向かったタフネスさで、最後はフェートサヤームが諦めるように倒れ込んでKO勝ちはしたけど、誰が一番強かったかと言われたら、武田幸三でもパヤックレックでもなくフェートサヤームでした!」というラジャダムナンスタジアム初出場の感想だった。

[左写真]米田克盛(トーエル)から王座奪取(2002年1月27日)/[右写真]初のチャンピオンベルトを巻いた北沢勝(2002年1月27日)

庵谷鷹志(伊原)をKOし初防衛(2003年1月26日)

2003年1月26日、北沢は庵谷鷹志(伊原)にKO勝利で初防衛後、ヒジ関節を手術する時期はあったが、リハビリも順調に進み、ブランクを空けるつもりもなく試合出場の準備は整えていたが、出場停止でもないのに試合が組まれない時期が9ヶ月続いた。その間にランキング1位の米田克盛がムエタイ王座挑戦となれば、やりきれない気持ちになるのも当然だった。ブランク明けの外智博(治政館)とのノンタイトル戦は凡戦の引分け、2年目「Fight to MuayThai」は判定負け。翌2004年1月25日には米田克盛に判定負けで王座を奪回されてしまう。

最終試合が2004年5月8日、阿佐見義文(治政館)戦は1ラウンドKO負けで、不甲斐ない試合が続くに至ったと悟り、リングを去る決意をした。

◆ジム経営を任せられる

引退後は小野寺力氏のRIKIXジムや現役時代にお世話になったジムでトレーナーとしてお手伝いを続けていたが、現役時代のスポンサーで応援団長だった「がぜん」という全国規模の居酒屋チェーン店のオーナーからジム経営を任された。「まさか自分がジム経営なんて!」と戸惑う間もなくジム会長として、ジム名は幾つも候補が却下される中、西岡利晃が対戦したレンドール・ムンローの腹筋が6パック割れより凄いと言われていたことや、タイでは9がラッキーナンバーというこじつけが認可され“ナインパック”に決まり、2011年3月1日、足立区関原の東武伊勢崎線西新井駅から近い地域にオープンとなった。

キックボクシングはチャンピオンになっても生活が成り立たない職業。チケット売りながら将来のことも考えながら暮らしていたら勝てるものも勝てない。そんな苦労を経験した北沢は「毎日お酒を飲んでも腹筋は割れるよ!」という誰でも出来るダイエットや健康増進をモットーに、「プロで教わったパンチや蹴りの効果を教えて、会員さんが試合観ても技の解説できるような楽しめる教え方をしたい。」と語る。現在は会員数が150名ほど。入会が増えたと思っても退会も多かったり、関わってみてわかるが、経営は難しい部分が多いという。

ジムへ務める今はバンドのSHELL SHOCKからも復帰の声も掛かるという。新たな展開が見られるかもしれない北沢勝のバンドの活動にも進展があるならば注目したいものである。

ナインパックジム会長北沢勝 M-150(タイで有名、エナジードリンク)を持つ(2021年1月7日)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

◆ヤンガー秀樹時代

元・全日本ウェルター級2位.伊達秀騎(本名・鈴木秀樹/1970年5月、宮城県仙台市出身)はチャンピオンには届かなかったが、その叶わなかった夢をタイに向け、現地で正規のジムを構え、ムエタイ二大殿堂チャンピオンを誕生させたことは、タイ側から見た外国人初の快挙を成し遂げた。

フェアテックスジムでのミット蹴り(1991年7月)

鈴木秀樹は中学1年から器械体操を学んでいたが、通学中に「練習生募集中」の看板を見て興味本位に仙台青葉ジムを覗いた。

「丹下段平ジムみたいな掘っ立て小屋の窓から覗いてみたら、蹴ったら自分の脚を痛めそうなヘビーバッグが吊るしてあって、これは普段見る学校のクラブとは比べられない別世界と感じた」というキックボクシングという世界の最初の印象だった。

高校は体育科だったが新設校で、1年目はまだ体操部が無かったことや、兄がブルース・リーが好きだった影響で格闘技に興味があった鈴木秀樹は、運命に導かれるがまま仙台青葉ジムに足を運んだ。

器械体操で鍛えた体幹はバランス抜群の蹴りを備え、デビュー戦は高校2年になった1987年(昭和62年)6月25日、地元の宮城県スポーツセンターで高橋真(山木)に判定勝利。

ここで瀬戸幸一会長からジムの次期エースと期待できる選手に与える、歴代リングネーム“ヤンガー”を授けられた。初代はヤンガー石垣(後の轟勇作)、二代目はヤンガー舟木(後の船木鷹虎)に続く“ヤンガー秀樹”となった。しかし、素質は誰もが認めるも高校卒業時までに7戦2勝5敗。三代目ヤンガーを継承したが、連敗が続くことにプレッシャーを感じていたという。

◆伊達秀騎時代

「戦績も悪くなり、何か練習環境を変えなければと、東京でやろうと思ったのが切っ掛けです」という鈴木秀樹は、高校卒業後上京。親戚が居た板橋区に住むと、やがて近くにあった小国ジムを見つけ仮入門。当初はまだ仙台青葉ジム所属のまま試合出場して大村勝巳(SVG)にTKO勝利。特に難しい条件は無く、これで円満移籍した。

リングネームは自身で考えた、伊達秀騎に改名(以後文中、伊達秀騎)。出身地の英雄、伊達政宗から名前を肖った。

移籍初戦は勝山恭次(SVG)に判定負け。それまでにも判定に納得いかないことが多かった為、リスクを伴うが倒すスタイルに移行。2連続KO勝利するが、1992年(平成4年)10月、全日本ライト級挑戦者決定トーナメントで杉田健一(正心館)に顎を打ち抜かれKO負けしてしまう。

ダメージ回復の休養と自分を見つめ直す為にブランクを作るが、空手大会出場やパンチの技術を学ぶ為、プロボクシング転向を試み、沖ジムに入門を果たしていた。自分のパンチはどこまで通用するか、当初は真剣にプロボクシングデビューを志し、プロテストは無事合格を果たすが、キックボクシングへの情熱を拭いきれず、デビュー戦を前に、お世話になりながらも感謝の気持ちを持って沖ジムを後にした。
後のキックボクシング復帰は1994年6月、仙台興行で日本人キラーだったジャルワット・オーエンジャイ(タイ)にKO勝利して再起を飾る。

ここから全日本ウェルター級挑戦者決定トーナメント出場となるが、松浦信次(東京北星)にKO負けする大失態。大飛躍のチャンスを落としたことは周囲にとっても大きな落胆だった。

アナン会長のゲーオ・サムリットジムで調整(1993年9月)

ジャルワット・オーエンジャイ戦、仙台での復帰戦をKO勝利(1994年6月25日)

王座挑戦へのトーナメント、松浦信次戦は悔しい敗戦となる(1994年9月23日)

◆ムエタイ修行で人生転換

伊達秀騎が初めてタイ修行したのは1990年5月、バンコク・ドンムアン空港から発つ飛行機の真下で、騒音が酷い地域にある名門ムアンスリンジムだった。練習以外もキツい環境で、通気性の悪い倉庫のような選手の宿舎。初めてタイ修行に行く者にとって、文化や生活環境の違いは耐え難い状況だっただろう。

もう行きたくないと思っていたというタイだったが、1991年7月、「同門の高津さんに付き合う形で一緒に行きました」と言う、ジムで先輩から勧められていたフェアテックスジムに赴いた。トレーナーを務める伝説のチャンピオンと言われるアピデ・シッヒランさん宅にホームステイする形で修行し、1ヶ月ほど我が子のように慕って貰ったことから一転、タイとムエタイに惚れ込んでいき、後々の運命を変える人生の分岐点となる修行であった。

タイでの初試合は1993年9月のバンヤイシティースタジアム。それまでフェアテックスジムでの修行だったが、層の薄い重量級では試合は組まれ難いものの、逆に選手が足りない事態も起こり、後々深い縁となるゲーオサムリットジムのアナン・チャンティップ会長から声が掛かり試合出場した。

「逆転KO勝ちでしたが、試合が盛り上がると、インターバル中にもギャンブラーからチップをくれて、興行一座のドサ周りみたいな感じが面白くて、タイでの試合にハマりました」とムエタイ初試合の印象を語る。

1994年10月には、メコン河を挟んだラオスとの国境となる街、ノンカイでの試合はKOで敗れたが、タイ全土にテレビ生中継され、倒しに行く姿勢で相手を苦しめた試合内容を評価されたことで再戦が決まり、翌年1月、チェンマイでもタイ全土にテレビ生中継の中、敗れるが大激戦となり、アナン氏からより一層信頼される存在となっていた。

当時、日本で大事な試合に敗れ、更に団体は分裂を起こし、目指していた目標は消え、モチベーションも低下する中、タイで仕事をしながら現役を続けられるのではと考えた伊達秀騎は日本のリングを去った。

アナン会長が冗談を言いながらバンテージを巻くリラックスした試合前(1994年10月18日)

[左]ノンカイでの試合、タイ全土に放映されるサーティット戦(1994年10月18日)/[右]チェンマイで再戦、バックヒジ打ちでサーティットを苦しめる(1995年1月29日)

1996年10月、心機一転タイに移住し、人材紹介会社に就職した。

しかし、タイでも仕事を任せられれば徐々にジムに向かう時間が無くなるのは当然だった。それでもアナン氏から試合のオファーが来ると断らずに受けていた。まだ26?27才で、現役時代の厳しいトレーニングの貯金で動けていた身体だったが、移住1年程経った時期、ラジャダムナンスタジアムでの試合で3ラウンドTKO負けの頬骨陥没骨折。全身麻酔で手術を受けて8日間入院。今でも頬骨にボルトが入っているという。舐めてはいけない本場ムエタイの仕打ちだった。

怪我は癒えた後々、現役に悔いを残さない想いをもって挑んだラジャダムナンスタジアム・ミドル級1位の強豪にKO負け。これでリング上では全てをやり終えた伊達秀騎だった。

同スタジアム、激戦に持ち込む伊達秀騎(1995年6月)

サムローンスタジアムでワイクルー(戦いの舞い)を舞う伊達秀騎(1995年6月)

◆タイビジネスの恩人

その後、30歳を目前にして起業。ムエタイや撮影のコーディネート、ムエタイ日本語情報誌の発行などを興し、2002年2月、バンコク中心部スクムビット地区に目標としていたイングラムジムを設立した。

2004年にブアカーオ・ポー・プラムックを来日させると、K-1 MAX初出場で優勝。その後、サガッペット・イングラムジム(タイ)をルンピニースタジアム・ライト級、ジョイシー・イングラムジム(ブラジル)は欧米人初のラジャダムナンスタジアム・ウェルター級の二大殿堂スタジアムでチャンピオンを輩出する日本人としては初の快挙を成し遂げた。

しかしムエタイ業界に限らず、どこも競争が激しい世界。ルンピニースタジアムのプロモーター傘下では、あらぬ嫌がらせも受けたという。そんなことはよくある業界内特有のしがらみで、ラジャダムナンスタジアムに移ることもあった。

しかし、ルンピニースタジアムに出場していた弟子のダーウサミン・イングラムジム(後のWPMF世界スーパーフライ級チャンピオン)が、前座ながら白熱した試合で、チャンピオンやランカーを差し置いて月間最優秀試合賞を獲得し、本気になって選手を輩出していれば外国人でも認めてくれるのだと、イングラムジムの名前が認められてきたと思ったという。

ここまで這い上がって来れたのは、アナン会長との縁で、試合オファーには出来る限り応じた為、ジム運営やビジネス面では多くのバックアップをしてくれた恩人だという。アナン氏自身も苦労人から這い上がり、多くの強豪選手を輩出し、タイ国ムエスポーツ協会監査役員になるなど実績高い人物だった。そのサクセスストーリーを間近で見てきた伊達秀騎の成功があるのだろう。

2020年初頭は、スポンサーだった日本企業のバックアップで、BTS(バンコク高架鉄道)エカマイ駅近くの800平米もの好物件を見つけジムを移転し、オープン当初は順調だったが、コロナ禍が直撃し3月には政府からタイ全土に営業禁止の通告が出され苦境に陥り、9月末を持ってジム閉鎖に至ってしまった。

その後、ムエタイ界の重鎮達からは、新たなジム開設を勧められているが、現在はどのような形で再開可能かをいろいろと模索している状況という。

2015年には結婚し、翌年長女が生まれて現在4歳。もう言葉が話せるのは当然として、日本語、英語もある程度話せるという。生き甲斐は我が妻と娘いう伊達秀騎。もうとっくの昔に“ビジネスマン鈴木秀樹”に戻っているが、2021年は新たなビジネス展開を見せてくれるだろう。

国家が絡むビッグイベント記者会見に並ぶ、前列左から伊達秀騎、アナン会長、ブンソン大佐(タイ国ムエスポーツ協会副総裁) (2017年3月)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

月刊『紙の爆弾』2021年2月号 日本のための7つの「正論」他

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