阪神・淡路大震災から30年──年月の渇きの中で 鹿砦社代表 松岡利康(被災地西宮在住)

1995年1.17の阪神・淡路大震災から30年が経った。光陰矢の如しで、あっというまだった。このかん私たちは何をしてきたのだろうか。真に復旧・復興は成ったのか? 見かけの復旧・復興は成ったかもしれないが、私たちの精神の奥深くの復旧・復興はどうか? 私は、亡くなった6432人の方々に恥じない生き方をしてきたのか、汗顔ものだ。

1995年1.17、当時私は兵庫県西宮市に住んでいた(今も住んでいる)。運命の午前5時46分、当時住んでいたマンションにドカンという衝撃があった。てっきりダンプカーがマンションにぶつかったものと思った。その後、被害の甚大さが判明するが、その衝撃の直後、新聞が投函された(新聞配達の方のその時の様子は想像できないが、いまだに不思議)。

本日1.17には、ここ兵庫、とりわけ阪神間では、いろいろなイベントがあるという。それはそれでいいだろうが、見かけの復旧・復興で取り残された人たちがいることを忘れてはならない。震災後建てられた無機質なコンクリートのビルや復興住宅で、それまであった地域の人々の交流がなくなり孤独死も多くあったという。ハコ物の建物を建てればよしとする行政の復興策は、はたして良かったのか? 

◆被災地・西宮の被害の甚大さを知って欲しい!

阪神・淡路大震災での死者数は全体で6432人、うち兵庫県6402人で、残り僅かが大阪と京都で、死者のほとんどは兵庫県だ。兵庫県では、神戸市が4564人、次いで私が住む西宮市が1126人、隣の芦屋市443人、宝塚市117人となっている。神戸市は範囲が広いので多いのは当たり前といえば当たり前だが、西宮市が1100人以上の死者数だということは、さほど知られていない。熊本地震が277人というから実に4倍近くに及ぶというのに、だ。それほど、西宮は地味な街なのだろう。ちなみに、そのこともそうだが、関西以外の人で甲子園球場が西宮にあることを知っている人も少ない。大阪のイメージが強いようだ。

西宮の公園という公園には長い期間仮設住宅があったことが記憶に蘇る。甲子園球場でプロ野球や高校野球のこだまする時でも、近くの公園において仮設住宅でつましく暮らす人々がいる異様な風景。私は折に触れて、ファックス通信「鹿砦社通信」(現「デジタル鹿砦社通信」)で批判してきた。西宮の公園から仮設住宅がなくなった時、復旧・復興が成るものと思っていたが、実際には仮設住宅がなくなっても復旧・復興は成らなかった。

その年の暮れ、全壊したビルを慌ただしく再建し(西宮市の建築許可第一号という)、そのビルに入ることができた。瓦礫を運ぶ車も日々行き来した。長い間、それを眺めながら過ごした。

東京の取次や出版関係者らが心配して電話してくれた。なかなかつながらず、「マツオカもいよいよ終わりやな」と不謹慎なことがささやかれたようだ。この10年後も同じようなことを言われた。

こういう時に強いのが私の真骨頂、不謹慎な物言いだが、「地震(じしん)で自信(じしん)をつけた」などとうそぶいたこともあった。

混乱した当地で鬱々としていても始まらない。活路を東京に求め文京区音羽、鳩山邸の崖の下に5坪の小さな事務所を借りて東京支社を設置した(会社としては、創業地は東京なので、出戻ったというのが正確)。

ちょうどこの頃を境に、私たちの出版社は、いわゆる〈スキャンダリズム〉、俗にいう「暴露本出版社」に本格的に舵を切り、取次会社のデータでは前年比「999.9%」(正確に言うと伸び率が大き過ぎてこういう数値になったものと思われる)の伸び率だったという。この意味でも、私たちにとって阪神・淡路大震災は、大きなターニング・ポイントだったといえよう。

鹿砦社と松岡の新たな歴史が始まった。──

◆当時感動した歌、『TOMORROW』と『心の糸』

阪神・淡路大震災では人々を勇気づける音楽も流れた。記憶に強く残っているのは岡本真夜の『TOMORROW』と、「阪神・淡路AID SONG」と銘打ち、香西かおり・伍代夏子・坂本冬美・長山洋子・藤あや子らレコード会社や事務所の垣根を越えて当代の若手演歌歌手5人が歌った『心の糸』だろう。

『TOMORROW』と『心の糸』

『TOMORROW』は、新人のシンガーソングライターの岡本真夜が彗星のように現れ、瓦礫の中から日々流れたことを思い出す。

「♪ 涙の数だけ強くなれるよ
アスファルトに咲く花のように
見るものすべてに おびえないで
明日は来るよ 君のために」

若いのに凄い歌詞を書くものだと思った。実際に、多くの人々の心を打ち出荷枚数200万枚超(実売約180万枚)で大ヒット、この年のNHK紅白歌合戦にも出場を果たしている。

一方、『心の糸』は公式チャリティソングとして1.17からさほど日が経たない同年4月26日に発売された。「震災ソング」としては、その後、当地の教師が作詞・作曲した『しあわせ運べるように』が作られ、こちらが有名になり定着した。最近では神戸市の公式市歌に選定されているとのことだが、私にとっては『心の糸』だ。

しかし、地元の人でもさほど知らないように(例えば、クールファイブの『そして、神戸』は誰もが知っているが、サザンクロスというグループが歌う『三宮ブルース』は地元の人でもほとんど知らないのと同じケースだ)、これだけ有名歌手を揃えていながら『心の糸』はまったく忘れられてしまった。悲劇の曲だ。アマのほうがプロに勝った格好のケースといえよう。なんとかならなかったのか。本来なら、その年の紅白歌合戦での前川清『そして、神戸』、昨年の石川さゆり『能登半島』のように、紅白歌合戦でみなで歌ってもいいような歌だった、と私は思う。私は毎日社歌のようにラジカセで流していた。──

「♪ そして陽が昇り 朝の幕があく
昨日までの悲しみ 洗い流すように
覚えてて あなた 私がここにいることを
忘れないで あなた 歩いた道のほとり
心の糸を たどりながら
過ぎし日を重ねてみたい
心の糸を 手さぐりながら
夢の続き 捜していたい

時を巻き戻すことが出来たなら
涙なんかみせずに生きてこれたけれど
ありふれた日々を送れることのしあわせを
まぶた閉じてひとり 今更ながら思う
心の糸をほどかないで
この街を捨てて行けない
心の糸を 結び直して
うつむかずに歩いて行くわ

心の糸をほどかないで
この街を捨てて行けない
心の糸を結び直して
うつむかずに歩いて行くわ」

詞の一字一句が心に沁みる。
「時を巻き戻すことが出来たなら
涙なんかみせずに生きてこれたけれど
ありふれた日々を送れることのしあわせを
まぶた閉じてひとり 今更ながら思う」

全くその通りだ。

30年以上前に「時を巻き戻すこ」とはできないけれど、「心の糸を結び直してうつむかずに歩いて行く」ことはできる。次の30年は、おそらく生きていないけれど、残りの人生、もう一度「心の糸を結び直してうつむかずに歩いて行く」ことを、いろんな人に迷惑をかけ愚鈍に生きてきた私だが、震災30年に際し、バカはバカなりに、あらためて決意した次第である。


◎[参考動画]心の糸

鹿砦社が発行した一連の震災関連出版物
鹿砦社が発行した一連の震災関連出版物
鹿砦社が発行した一連の震災関連出版物
鹿砦社が発行した一連の震災関連出版物
折に触れて書いた震災関係の「鹿砦社通信」の記事(『紙の爆弾 縮刷版・鹿砦社通信』に収録)
折に触れて書いた震災関係の「鹿砦社通信」の記事(『紙の爆弾 縮刷版・鹿砦社通信』に収録)
折に触れて書いた震災関係の「鹿砦社通信」の記事(『紙の爆弾 縮刷版・鹿砦社通信』に収録)

【緊急のお知らせ!】4月5日、『紙の爆弾』創刊20周年、『季節』創刊10周年の集い開催! 鹿砦社反転攻勢への橋頭堡に! 圧倒的なご賛同をお願い申し上げ、共に祝いましょう! 鹿砦社代表取締役社長 中川志大 同会長 松岡利康

『紙の爆弾』『季節』をはじめとする鹿砦社の出版活動を支持されるすべての皆様!

まずは、去る1月6日、1996年以来30年近くに渡り鹿砦社の裁判闘争を支えてくださった内藤隆弁護士が急逝されました。内藤先生は、大学院生リンチ事件関連訴訟をご担当いただいており係争中でした。さらに、一昨年(2023年)7月31日には、こちらも1995年以来30年近く、主に関西での裁判闘争を支えてくださった中道武美弁護士が亡くなられました。中道先生は、『紙の爆弾』創刊直後になされた、「名誉毀損」に名を借りた言論・出版弾圧刑事事件の主任弁護人を務めていただきました。内藤先生には、この民事訴訟の代理人をも務めていただきました。鹿砦社の出版活動を背後から支えていただいたお二人の弁護士を亡くし、私たちは深い悲しみにあります。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。しかし、私たちは両先生のご遺志にお応えするためにも、いつまでも悲しみにふけってばかりもおれません。

さて、2005年に創刊された月刊『紙の爆弾』は、来る4月7日発売号にて創刊20周年を迎えんとしています。また、『紙の爆弾』の姉妹誌ともいうべき反原発情報誌『季節』(季刊)は、逸早く昨年8月5日発売号にて創刊10周年を迎えました。

かの『噂の眞相』休刊後しばらく、いわば“噂眞ロス”が続き、多方面からの強い要請で月刊『紙の爆弾』は創刊されました。創刊に至るまでに、取得が超困難といわれる雑誌コードを取得しなければなりませんでしたが、中川が足繁く取次会社に通い交渉を重ね、奇跡的にも取得できました。この面では『噂の眞相』休刊も吉に働いたようです。 

『噂の眞相』は創刊直後、「皇室ポルノ事件」によって廃刊の危機に瀕しましたが、これを乗り越え、さらには「名誉毀損」刑事事件(在宅起訴。のちに岡留氏に懲役8月、執行猶予2年。デスクに懲役6月、執行猶予2年の有罪判決)など幾多の傷を負いながらも持続し、休刊時には発行部数が10万部を超えるまでになったと聞きました。松岡が、編集長兼発行人だった岡留安則氏(故人)から生前直接聞いたりしたところによれば10年間は赤字だったとのことで、そうした幾多の修羅場を乗り越え発展・継続したそうです。(このあたりのことは松岡と岡留氏との対談集『闘論 スキャンダリズムの眞相』〔鹿砦社刊〕をご参照ください。残り僅か)

『紙の爆弾』も、創刊直後(2005年7月12日)、「名誉毀損」に名を借りた言論・出版弾圧により松岡逮捕→192日間の長期勾留→有罪判決(懲役1年2月、執行猶予4年)、巨額賠償金(一審300万円→控訴審600万円に倍増し最高裁で確定)を食らい鹿砦社は、松岡勾留中に事務所も撤去、壊滅的打撃を受けました。同じ「名誉毀損」事件ですが、岡留氏が在宅起訴、松岡が逮捕―長期勾留(身柄拘束)と、量刑も含め鹿砦社事件がいかに重大だったかが判るでしょう。

メディア・出版界、あるいは周囲のほとんどは、鹿砦社がそのまま沈んでいくことを信じてやまない中、信用不安にもかかわらず、決して多くはない取引先やライターの皆様方がサポートされ、あるいは取次会社も取引を維持して、なんとか会社は継続し、事件から4年余り後、一気にヒット、そのままヒットが続き復活、本社の甲子園返り咲きが実現したのでした。この時の感激は忘れることができません。その後、勢いに乗じ反原発雑誌『NO NUKES voice』(現『季節』)も創刊(2014年8月)しました。

その後、弾圧10周年(2015年)、また鹿砦社創業50周年(2019年)と、東京と西宮(本社所在地)にてお集まりいただき、会社復活・継続を祝っていただきました。そうして『紙の爆弾』創刊20周年を左団扇(うちわ)で迎えることを、私たちも含め誰しもが信じてやみませんでした。

しかし、人の世は何が起きるかわかりません。2020年からの新型コロナ襲来にて、世の中がそうだったように鹿砦社を取り巻く情況が一変いたしました。これを甘く見ていました。当初は売上微減、借入も必要なく、しばらくは“備蓄米”もたっぷりあり余裕さえありました。

ところが、書店の休業が続き、想定外の返品も続き、売上が激減し、途端に“備蓄米”が毎月1千万円前後なくなり、あっというまに青色吐息状態になりました。当社の規模で数千万円の“備蓄米”は何が起きても大丈夫の証だったはずですが認識と見通しが甘かったです。

こうした中、読者、寄稿者の皆様はじめ、これまで『紙の爆弾』『季節』、鹿砦社の出版活動を支えてくださった方々がご支援してくださり、新型コロナ襲撃以来5年間をサポートいただきました。あらためてお礼申し上げます。

あっというまの20年でした。そうして迎える『紙の爆弾』創刊20周年──いろいろなことが去来し胸が熱くなります。あらためて想起すると、20年という年月の重さを感じます。

そういうことで私たちは、創刊20周年記念号が発売になる直前の、来る4月5日に皆様方にお集まりいただき、20年間生き抜いてきたことを祝い、閉塞状況からの反転攻勢の橋頭堡にしたいと考えました。松岡が生きている間には最後になるやもしれません(次の30周年に松岡はおそらく生きていないでしょう。現実問題、生きていてもボケたりして尋常な状態ではないと思います)。こうした意味で松岡にとっては最後の檜舞台のつもりです。20周年の集まりまでに、もうひと山を越え、立派に集いを成し遂げ、次の10年に向けた財政の一助にするために、ぜひご賛同いただき、できれば駆け付け叱咤激励していただければ、とお願いいたします。

私たち鹿砦社は必ず閉塞状況を突破し反転攻勢を勝ち取り、腐朽化し権力のポチと堕したメディアの中で存在感のあるリトルマガジンとして『紙の爆弾』、そして姉妹誌であり唯一の反原発雑誌『季節』(紙の爆弾増刊)の旗を守り抜き、鹿砦社の名の通り、タブーなき言論の砦として皆様方と共に在り続ける決意です。圧倒的なご支援のほど、よろしくお願い申し上げます。

冒頭に挙げた内藤、中道両先生にも良いご報告をさせてください。

*集いの具体的内容が決まりましたら、あらためてお知らせいたします。

左から『紙の爆弾』創刊号、松岡逮捕後に発行された05年9月号、弾圧や裁判の詳細な内容をまとめた『パチンコ業界の アブナい実態』
https://www.kaminobakudan.com/
タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2025年2月号

〈原発なき社会〉を求めて集う 不屈の〈脱原発〉季刊誌『季節』2024年冬号(NO NUKES voice 改題 通巻41号)

『紙の爆弾』創刊20周年の2025年、メディア総体が腐朽化する中で、『紙の爆弾』と鹿砦社の役割は重大! 皆様のご支援で年末危機突破! コロナによってもたらされた低迷を打破し再復活を勝ち取り、共に『紙の爆弾』創刊20周年を迎えましょう!  鹿砦社代表 松岡利康

定期購読・会員拡大、鹿砦社出版物の積極的購読で圧倒的なご支援を!
2025年年頭にあたって

皆様、新年明けましておめでとうございます。

2025年が始動しました! 本年は4月7日に本誌『紙の爆弾』が創刊20周年を迎えます。また、7月12日には、『紙の爆弾』創刊直後に検察権力によってなされた、「名誉毀損」に名を借りた言論・出版弾圧からも20年となります。これらについて詳細は別の機会に譲るとして、ここでは触れません。

さらに本年は、1月17日に鹿砦社本社の在る兵庫県一帯を襲い小社も(わずかですが)被災した阪神淡路大震災から30年、ベトナム戦争終結50年、敗戦から80年を迎え、社会的、歴史的にも節目の年となります。

こうした中、出版・メディアをめぐる情況は、全部とは言わないまでも多くが権力のポチとなったり腐朽化していき真実が報じられなくなってきています。

わが『紙の爆弾』はミニメディアではありますが、弾圧に屈せず、一貫として愚直に<タブーなき言論>を信条として20年近くせっせせっせと一号一号発行を積み重ねてまいりました。

この間、「名誉毀損」弾圧事件で壊滅打撃を被りつつも、皆様方のご支援で奇跡の復活を遂げることができました。しかし、いいことは長く続かないのか、新型コロナという魔物によって再び地べたに叩きつけられました。

それでも読者の皆様方は見棄てずご支援を続け、青色吐息ながら命脈を保ってきています。

この20年近くの間に、『紙の爆弾』『季節』の定期購読・会員が総計で1千名余りとなりました。この皆様方が中心になって、定期購読・会員の更なる拡大、書籍・雑誌の積極的購読、あるいはまとめ買い(1万円以上)を行っていただくだけで、かなり資金繰りは楽になります。

一昨年(2023年)は一時はコロナ前の水準に回復しましたが、昨年(2024年)に入りドツボに嵌ってしまいました。油断や見通しの誤認などがあったことは否定しません。

毀誉褒貶はありますが、この30年間、鹿砦社の、いわば〝ビジネスモデル〟として芸能(スキャンダル)本を出し続けて、この利益で硬派の社会問題書や『紙の爆弾』『季節』の赤字を埋め、これらを出し続けてきました。『紙の爆弾』はようやく利益が出るようになりましたが、とはいってもこれで人ひとりの人件費が出るほどでもありません。ちょっと黒字といったところです。

しかし、私たちの出版社は芸能出版社ではなく、本丸の勝負所は社会問題書です。そうでないと単なる、どこにでもある柔な芸能出版社になってしまいますから。

ところが、この‟ビジネスモデル”が壊れたのは、コロナ禍を機に最近のことです。儲け頭となっていた芸能本が売れなくなりました。何としても他に‟鉱脈”を発掘しなければなりません。それは何処にあるのでしょうか? 皆様方のアイディアや企画、ご意見を募ります。

このかん、「身を切る改革」ではありませんが、いつのまにか肥大化していた会社の態勢もスリム化し、経費圧縮も最大限行いました。お引き受けいただいた社債は総額2千万円に達しました。コロナ前、鹿砦社創業50周年を機に私松岡は後進に道を譲るつもりでしたが、すぐに新型コロナ襲撃(まさに襲撃という表現が正しい)、これにより、これだけの社債、さらには会員や定期購読などでご支援いただく方々が多くおられ、現状がコロナ前の状態に正常化し、社債の償還が解決するまでは無責任に身を引くわけにはいかなくなりました。若手の後継者・中川志大と二人三脚で頑張ります! 中川には無垢の状態で引き継ぐことができなく申し訳なく忸怩たる想いですが……。

2019年の鹿砦社創業50周年を東京と地元西宮で多くの皆様方にお集まりいただき祝っていただいてから新型コロナ襲撃、そして以来この5年間は、正直大変でした。今もまだ大変な情況は続いています。それは私たちの業界・出版界でもそうで、店閉まいした書店さんも多いです。出版社も、一部を除き大変な情況です(特に中小零細出版社は)。

しかし、私(たち)は諦めません。もう一度復活したい、いや復活するぞとの決意で、年の瀬をやり繰りし新年を迎えました。私たちの出版社・鹿砦社、あるいは『紙の爆弾』『季節』には、社会的にもなすべき仕事がまだまだ多くあります。例えばジャニーズ問題、一昨年英国BBC放送が世界に向けて告発放映したことをきっかけに大きな社会問題になりましたが、この後、日本の大手メディアも追随しましたが、一体それまで何をやっていたのでしょうか。

私たちは大手メディアには無視されつつ「イエロージャーナリズム」と揶揄、蔑視されながらも1995年以来四半世紀余りも細々ながら告発本を出し続け、BBCにも事前に資料提供など協力し、これが実を結んだといえるでしょう。こういうこともありますので、あながち「イエロージャーナリズム」も馬鹿にできません。こういった意味では『紙の爆弾』も「イエロージャーナリズム」の権化といえるでしょうが、こういうメディアは他にありませんので、この意味だけでも存在価値があるでしょう。

また、私たちは以前から、「たとえ便所紙を使ってでも」発行を続けると言い続けてきました。「便所紙」とは、昔々、日本がまださほど裕福ではなく、良質なトイレットペーパーがなかった時代、尻拭き紙として安価な紙を使っていたものを揶揄した言葉です。今では死語かもしれませんが、私たちの決意を表す言葉として使ってきました。これは今でもなんら変わりはありません。

新年を迎え、苦難の中、本年一発目の『紙の爆弾』をお届けするにあたり私松岡の個人的な想いを書き連ねさせていただきました。厳しい経営環境は、決して恥ずべきことでもなく、これを明らかにし、この一年必死で頑張り、来年の年初にはもっと明るいご報告ができるように努めます。

具体的には『紙の爆弾』『季節』の定期購読を1千人→2千人へ倍増、会員も倍増を目指します。そうして、従来の方々に加え新規の定期購読、会員の方々が‟最大のスポンサー”として鹿砦社の出版物の積極的直接購読を促進し、会社の売上や資金繰りに貢献いただきたく強く希望いたします。

本年も旧に倍するご支援、叱咤激励をお願い申し上げます。

株式会社鹿砦社代表 松岡利康

人生に夢や希望を持つ者は誇り高く生きてゆける(揮毫:龍一郎)
人生に夢や希望を持つ者は誇り高く生きてゆける(揮毫:龍一郎)
https://www.kaminobakudan.com/
タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2025年2月号
〈原発なき社会〉を求めて集う 不屈の〈脱原発〉季刊誌『季節』2024年冬号
〈原発なき社会〉を求めて集う 不屈の〈脱原発〉季刊誌『季節』2024年冬号

「カウンター大学院生リンチ事件」(別称「しばき隊リンチ事件」)から10年 ── あらためてその〈意味〉と〈責任〉を問う(中) 鹿砦社代表 松岡利康

去る12月17日、標記事件から10年が経った。この日、私はリンチ被害者М君に仕事が終わった頃を見計らって電話した。М君は、やむなく研究者生活を離れ今は給与生活者を送っている。電話越しの声は元気そうだったが、彼の10年を想起すると胸が詰まる。

李信恵ら加害者、仲間、つながる者、蠢いた「知識人」と呼ばれる者(特に岸政彦〔当時李信恵さんの裁判を支援する会事務局長にして龍谷大学教授、現在京都大学教授〕、中沢けい〔作家〕、安田浩一〔ジャーナリスト〕、有田芳生〔国会議員〕、師岡康子〔弁護士〕、香山リカ〔医師〕)らは一体このリンチ事件を血の通った人間としてどう思っているのだろうか──あらためて問い質したい。

◆この国の社会運動から暴力はなくなっていなかった!

この事件を初めて知った時の第一印象は、時代が逆戻りしているかの錯覚に陥ったことだ。かつて戦後民主主義の揺籃期には連合赤軍事件を筆頭として社会運動内部における暴力事件は数知れずあった。当時の人気作家・高橋和巳は『内ゲバの論理はこえられるか』に代表されるように、その運動内部の暴力に対して積極的にコミットし、実際に解決に向けて動いた(が、彼の志に反し内ゲバは激化し100人を優に越す死者を出した)。

しかし、1972年初頭の連合赤軍リンチ殺人事件を頂点として、内ゲバ(内部暴力)に対する嫌悪が、この社会に浸透し、内ゲバもいつしかなくなっていったように思える。

そこには運動内部とこの担い手、また社会全体がそうした暴力を忌避する良識的な動きがあったことは私の体験としても理解してきたつもりである。

だから、このリンチ事件を知った時、その凶暴性、これから来る悲惨さ、残酷さを思い知り、絶望感に苛まれた。

この民主主義社会にいまだにこんな事件があったのか、そしてこの中心的人物=李信恵は、この国の「反差別」運動の象徴として、つとに知られる人物だ。現今のこの国の社会運動、長い歴史を持つ「反差別」運動は一体どうなっているのか、疑問に感じられた。連合赤軍事件、内ゲバ、部落解放運動などにおける暴力的展開、この帰結と反省によって、社会運動から暴力を排除してきたはずではなかったのか?

個人的ながら、私は大学に入ってからそうした事件を直接的、間接的に見聞きしてきた。特に部落解放運動にあって、私と一緒に自治会運動に関わり、いろいろ指導してくれた先輩が、卒業後教師になり、赴任した高校(兵庫県八鹿高校)で社会的に大きな話題となった事件に巻き込まれ激しいリンチを受けたことを知った時には大きなショックを受けた。いつかネットで凄絶な暴行を受けている場面(裁判資料)を見た時のショックは言葉にならない。こういうことも、かつては表立っては言えなかった。

民主主義社会を自認する、この国の社会運動から暴力はなくなっていなかったのか──。

◆人はかくも凶暴になれるのか ── 加害者らの暴力的体質

本件大学院生リンチ事件の加害者側5人、特に金良平(通称エル金)、李信恵、伊藤大介らの凶暴性には驚く以外になかった。李信恵など、前記したように、この国の「反差別」運動の象徴的人物としてつとに知られ、その人物が関わり、リンチの最中にも平然とワインを飲み、これをツイッターで発信するという神経が私には理解できない。危うく、この国の「反差別」運動が崩壊しかねない事態だったことの自覚はあったのか、あるいは加害者側の周辺の者らもそうだ。

リンチ直後の被害者M君の顔写真。これを見て何も感じない者は人間ではない!
リンチ直後の被害者M君の顔写真。これを見て何も感じない者は人間ではない!

だから、真摯に反省することなく、逆に開き直り隠蔽に走ることになったのだろう。事件の隠蔽は1年余り成功したが、こういうことはいつかは明るみに出るものである。

われわれはこの事件に一人の人間として関わることを決意し、できうる限りの調査と取材に動いた。前回私を「デマゴギスト」呼ばわりする者のことを書いたが、そう呼ばれないようにわれわれは動いたのだ。そこで多くのことがわかり、6冊の出版物にまとめ世に問うた。この際、表に出さなかったディープな情報も少なからずある。「反差別」「人権」を謳う運動にしては、到底目を向けられないことも多かった。いわゆる「プライバシー」とやらに配慮し、あえて表にしなかったことも少なからずあった。

今、思うと、無慈悲に長時間も大学院生(当時)М君に対し凄惨なリンチを加え、挙句救急車もタクシーも呼ばず放置して去った者らに配慮する必要があったのか? М君は本件で人生を狂わされ、いまだにリンチのPTSDに苦しんでいることを想起すれば、そうした徒輩に対して配慮する必要などなかったと、一種反省さえしている。変に配慮したことで、非人間的な徒輩を生き長らえさせてしまったのではないか──。とはいえ、それらをここで暴露するかどうかは今は保留する。
 
昨年(2024年)はじめ、くだんのリンチ事件の主たる暴行実行犯の金良平が、みずからの犯歴を暴露されたとして鹿砦社と作家・森奈津子を提訴した。「М君にあれほどの激しい暴行を加え人生を狂わせた男が何を言ってんだ?」──このことで私は、М君リンチ事件の悪夢を思い出し、ちょうど10年になることもあり、いろいろ思慮せざるをえなかった。

一昨年来、金良平と森はX上で応酬し、金良平の瞬間湯沸かし器的な性格から、М君へのリンチのようなことをやりかねないことを強く懸念し刑事事件の略式命令書のコピーを森に送った。すでに公知の事実であり、森はこれをXにアップし金良平の脅しも止んだ。

この提訴に触発されて、最近の金良平の言動をつぶさに見聞きし、また提出された金良平の準備書面を見るに、あれだけの残忍な集団リンチ事件(金良平らは「リンチ」という言葉が嫌いなようなので、暴行傷害事件でも表現はなんでもいいが)を起こし、その中心になって被害者の大学院生(当時)М君に激しい暴力を行使しながらなんら反省せず開き直っているのを見て怒りを禁じえなかった。本件リンチに関わった他4人よりも遙かに凶暴な金良平の暴力性の源はどこにあるのか? 幼少期から差別され虐げられてきたことにあるのか? しかし、差別され虐げられた人たちは多くいて、ほとんどはまともな生活者として、この社会で生きている。

金良平が、みずからが中心的な暴行実行犯として関わった集団リンチ事件に対する刑事、民事訴訟の判決共に被害者にとっては、受けた肉体的、精神的被害に比して賠償額も低く、裁判所は被害者М君の言い分の肝要な部分は認めず、決して満足のいく内容ではなかった。だからといって、「リンチはなかった」のではなく現実にあったのだ。このことは、偏頗な判決を下した裁判所さえも認定しており、だから金額や内容に不満はあってリンチがあったことは厳とした事実なのだ。いい加減なことを言わないでいただきたい。

なかでも金良平については、リンチ被害者М君が金良平らを訴えた民事訴訟では、一審大阪地方裁判所は金良平に、リンチに連座した伊藤大介と共に79万9749円の賠償を命じたが、これが控訴審大阪高騰裁判所では金良平単独で113万7640円に跳ね上がった。これこそ金良平の暴力性、凶暴性を裁判所が認定した一端といえるだろう。

もっとも、普通の一般人の感覚から、リンチ直後の被害者の顔写真を見、リンチの最中の音声データを聴いて、どう感じるのだろうか。実際に私は100人以上に直接、その写真を見せ音声を聴いてもらい感想を聞いたが全員がリンチがあったと考えざるを得ないと述べた。今、この記事を読んでいる読者一人ひとりも、普通の一般人の感覚から見て、酷いと思わないだろうか? 思わないのであれば、あなたは人間ではない。

「リンチはなかった」というのは歴史を偽造するもので、「街角の小さな喧嘩」(金良平訴状)などというのは被害者の人格を矮小化するものと言わざるを得ない。いやしくも「人権」や「反差別」を標榜する加害者らが使う言葉ではない。特に金良平よ、あなたは、まずみずからの拳を眺めよ! これで数十発М君を殴り、金利含め130万円ほどの賠償金を支払ったのだが、おそらくお金を集めるのにかなり苦労したのではないだろうか? 支払いは遅れた。この時、もう暴力は振るわないことをみずからの良心に誓わなかったのか? 誓わなかったのなら、あなたには人間としての良心はない。はっきり答えよ。

◆主たるリンチ実行犯=金良平はなぜ転落したのか?

同じく準備書面によれば、金良平は関東に居を移し「新たな生活を形成している」そうだ。それがどうしたというのか!? 金良平に半殺しの目に遭わされた被害者М君は人生を狂わせられ、М君が思い描いた人生とは違った「新たな生活を形成している」のだ。判っているのか?

金良平が、過去の犯歴を明らかにされたのが違法だとかどうかを言う前に、今からでも被害者М君に土下座し謝るべきだ。いったんは「謝罪文」を渡しながら、これを反故にし、さらに仲間らに村八分運動(「エル金は友達」運動)をさせたりして、被害者を精神的に苦しめたことを今どう思っているのか?

私がこのことにこだわるのには理由がある。

私(たち)はリンチ被害者М君に対する集団リンチの事実を知り、とりわけリンチ直後の顔写真を見、リンチの最中の音声データを聴き、近年にない強い衝撃を受け、他の資料も一読し、М君本人からも直接話を聞き、これらには信憑性があり、直ちに被害者支援、真相究明の行動に移った。それまで好調だった会社の業績をも後回しして、この件に費用をかけ、集中して動いた。何としても孤立し苦悩している青年、研究者の卵に、できる限りの支援をし救済しないといけないと咄嗟に思った。

当初、金良平や李信恵らが真摯に反省し、いったんは反故にした「謝罪文」を元に戻し再び謝罪し賠償金も支払い公的な和解へ至るのであれば、「反差別」「人権」を標榜する社会運動にとっても有益だと考え、われわれも前向きな解決に汗を流し、さほど時間もかからず解決するものとばかり予想していた。甘かった。金良平ら加害者らは開き直り、約束した活動自粛も反故にし、逆に他の仲間と共に被害者М君を村八分にし、執拗にネット・リンチを続けた。

金良平ら加害者、そして彼らに連携する者たちにとっての「人権」「反差別」とは一体何なのか? 疑問が湧いてきた。

私は五十年余り前、当時の多くの若者がそうであったようにノンセクトの学生運動に関わったので、そうした運動に関わる者なら、過ちは過ちとして素直に認め、昔の言葉でいえば「自己批判」するだろうと思っていた。過去の反省から、当時よりも運動のやり方は改善されてきたはずだから。

それまで被害者М君とは一面識もなく、ましてや利害関係もなかった。社会正義上、これはきちんとしないといけないと思った。私(たち)の世代は、連合赤軍事件を知っているし、いわゆる「内ゲバ」の陰惨さも知っている。どれもМ君に対するリンチ(私刑)と、程度の差はあれ本質的に同じだ。社会運動内部では、それなりに反省したはずだった。しかし、いまだにかつての轍を踏んでいる。縁あって持ち込まれた相談事、困っている若者を見て放ってはおけない損な性分、後先考えず被害者支援に動くことにした。

われわれは「特別取材班」を作り、大手マスコミには到底及ばないが、一定のヒトとカネを使い、被害者支援、その裁判での主張を裏付けるための調査・取材を始めた。

M君の研究者らしい几帳面な性格で資料は数多く整理されていた。加害者の中で、夜な夜な飲み歩き(事件当日も「5件のお店まで日本酒に換算して1升近く飲んでいた」との本人の弁)、異性関係も放縦、一方で在日差別と闘っているヒーローとしてマスメディアに持て囃され、多くの行政、教育関係、果ては弁護士会など各方面に赴いて講演で稼いでいる。準公人ともいえる人物の言動は多くの人々の注目を浴び、リンチもそうだが、そうした問題行動は社会的にも明らかにし叱責されるべきだとわれわれは考えた。しかし、М君の裁判支援に注力することを優先しその他の問題行動の追及は断念した次第だ。

同様にリンチの主要実行犯・金良平についての情報もかなり集まったが、やはり最低限以上のこと以外は、衝撃的な事実も多くあったにもかかわらず、あえて秘匿してきた。

しかし、今それが正しかったのかどうか疑問に思うようになった。ダイナマイト級の情報もあるが、この記事でも、あえて保留しておき、時機を見て放出することも念頭に置いておく。М君が人生を狂わせられた一方で、李信恵は講演三昧。世の中にこんな不条理があってもいいのだろうか、と考えるからである。

金良平は、М君に対し暴虐の限りを尽くしておいて、いまだに反省もせず開き直っていることに怒りを感じる。金良平の激しい暴力で、何度も言うが、М君は人生を狂わされ、いまだにリンチに対するPTSDに苦しめられているというのに──。


今回、提訴しながら現住所も仕事や具体的生活内容も明らかにせず(メディアでよく使われる「住所不定無職」か?)、みずからが中心になって行ったリンチなどなかったかのような言説を目にし、さすがの私も堪忍袋の緒が切れた。

さて、われわれがМ君を支援することになり、М君は李信恵、金良平、伊藤大介ら5人に対して損害賠償を求め大阪地方裁判所に民事訴訟を起こした。

まずは他の4人同様金良平にも謝罪文に記された住所に訴状が送達されたのだが戻ってきた。驚いた取材班は、その住所に行ったが、すでに引っ越した後だった。そこで金良平の代理人(その後代理人に就く神原元弁護士とは別の弁護士)も困り、修正して最終的には届いたようだが、姑息なことをするものだ。

ところが、その後、訴訟の本人調書に記載した住所に行ってみると、そこは、なんと駐車場だった。法廷で宣誓したにもかかわらず虚偽の住所を記載したことになる。あらためて当時が想起され怒りが戻ってきた。М君は尚更だろう。

さらにそれ以前の金良平の生活実態も調査した。М君への謝罪文に記された住所の前は「О寮」という大阪市の外郭団体による救護・厚生施設に住んでいた。ここは謝罪文に記載された住所の近くに在ったが、今はない。

さらにそれ以前に諸事情があったのか、もっと深刻なことも判ったが、これもここでは記述しない。その団体の更生プログラムに従って金良平なりに頑張っていたようで、「勉強したいので、いろいろ教えてください」と相談を受けたと証言する人もいた。

そこで取材班は、この謝罪文に記載されたHマンションを直接訪問し、そこにいた管理人に話を聞くことができた。

ここに住みはじめてしばらくした2013年頃から(リンチ事件の前年頃。反差別運動に関わり出した時期と一致する)深夜の帰宅が多くなり、他の住民から苦情が出ていたそうだ。そこからしばらくして「新しく仕事が見つかった」などと言って更生プログラムの職業訓練にも行かなくなっていたという話も聞けた(おそらく可愛がってもらい、リンチ事件に連座した伊藤大介から経済的援助を受けるようになったのがこの頃だろう)。

ちなみに伊藤は、M君が提訴した民事訴訟の控訴審で逆転勝訴し免責されたが、その後、深夜に、あるネトウヨ活動家を呼び出し暴行傷害事件を起こし有罪判決を受けている。集団リンチ事件についての反省がないことの証左だろう。奇しくも鹿砦社と李信恵の訴訟の尋問後のことである。

M君リンチ事件直前、酔っておどける加害者の面々。左から李信恵、金良平、伊藤大介

これらの話を総合すれば、質が良くない「反差別」運動(誤解ないように申し述べておくと、反差別運動自体を否定しているのではなく、友人、知人らもこれに関わっている者が多数いる。要は、悪質な反差別運動を指弾しているのだ)に関わって、立ち直る努力を放棄した過去があること、これらの悪質な「反差別」運動に今も関与し現場でニラミを利かしていること、昼夜を問わず頻繁にSNSに時間を費やしていることなどから生活再建の努力などしていようはずもない、ということは言えるだろう。だから、われわれは、みずからの「新たな生活」の実態を具体的に明らかにせよと求めるものである。抽象的に言っていても始まらない。でないなら、「住所不定無職」の者がいくらみずからの「被害」を叫んでも身勝手というものだ。

われわれは、いたずらに金良平の前科を晒したのではなく、これはすでに〈公知の事実〉として流布しており、金良平の凶暴性と関東地方に移住しているが故に、24時間看護の障碍者の夫を持つ森奈津子の身の安全を危惧し、やむなく金良平の略式命令書を森に送り、森はこれを公開し、これ以上の森への攻撃を阻止したのだ。法律のあれこれよりも、生身の人間の身の安全が優先されることは言うまでもない。「事件」が起きてからでは遅いのだ。判例を教条主義的に突つくのではなく、人間の安全第一で思料されるべきである。(本文中、一部を除き敬称略)

※本稿は、2回で終わる予定でしたが、書くことが多く、もう1回続きます。次回は、一部を除きトンデモ判決を相次いで出した裁判所、被害者の苦しみを蔑ろにし偏頗に加害者らに加担したメディア、逃げたり加害者側を擁護したり開き直ったりした「知識人」らの責任を問う予定です。本稿についてのご意見、ご批判などをお寄せください。

(松岡利康)

◎「カウンター大学院生リンチ事件」(別称「しばき隊リンチ事件」)から10年 ── あらためてその〈意味〉と〈責任〉を問う

(上) http://www.rokusaisha.com/wp/?p=51771

(中)https://www.rokusaisha.com/wp/?p=52111

《関連過去記事カテゴリー》  M君リンチ事件 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=62

Amazon https://www.amazon.co.jp/dp/B07CXC368T/

鹿砦社 http://www.rokusaisha.com/kikan.php?bookid=000541

中学の同級生・有田正博君のこと  鹿砦社代表 松岡利康

中学校の同級生、有田正博君が11月いっぱいで店を閉め引退するという地元紙・熊本日日新聞の記事を、同紙の元記者のH君が送ってくれた。実際には諸事情で延期、12月15日に閉店した。

店を閉めることは、今年初め同窓会で帰郷した際に本人から聞いていた。その時は10月いっぱいで、ということだった。前出熊本日日新聞で1カ月インタビュー記事を連載するなど地元熊本ではちょっとした有名人だ。

熊本日日新聞2024年11月20日

有田君とは、中学3年の時に転校してきて一緒だった。卒業してからずっと別の人生を送り音信が途絶えていたが、偶然に、こちらは高校の同級生で、ライフワークとして島唄野外ライブ「琉球の風」を始めた東濱弘憲君(故人)の追悼本『島唄よ、風になれ! ── 東濱弘憲と「琉球の風」』(鹿砦社刊)の校正の過程で「有田正博」という名が出て来てピンときて前出H君(当時熊本日日新聞記者)に調べてもらったところ中学の同級生の有田君その人だった。

有田君は一時東濱君のブティックで働いていて、これが閉店するや、その後独立し海外に行ったりしてファッションの勉強をして名を挙げた。一番有名なのは、まだ無名だったPaul Smith(ポール・スミス)と出会い、日本に持ってきたことだろう。Paul Smithは今や世界的ブランドとなった。

熊本日日新聞2016年6月8日

H君の取り計らいで、実に40数年ぶりに再会した。……

その後、有田君の店が私の一族の墓が近くに在るということもあり帰郷するごとに立ち寄って歓談したり食事と共にしてきた。

有田君(左)らと旧交をあたためる

それにしても、中学の同級生と高校の同級生との関係と私との関係など因縁を感じる。

Paul Smithさんは義理堅い男のようで、このライセンスを日本に上陸するや有田君に渡した。このライセンスもあり有田君は一時ビル3つ所有し釣り三昧の日々を送ったという。そんなこともあり妻子から三行半を突きつけられ離婚、ビル3つとPaul Smithのライセンスを潔く渡し、ゼロから出発したという。一時は東京の青山にも店を出したこともあった。

中学校の時にはそんな大それた男とは思わなかったが、引退かあ、本来なら私もその予定だったが、コロナのお蔭でもうひと踏ん張りしないといけなくなった。
時は過ぎ行く ── 人は老いていく。

閉店後電話した。「お疲れ様! よか人生だったね」と言い、「祝 人生勝利!」の文字の刻印を入れたクリスタル置き時計を贈った。

(松岡利康)

「カウンター大学院生リンチ事件」(別称「しばき隊リンチ事件」)から10年 ── あらためてその〈意味〉と〈責任〉を問う(上) 鹿砦社代表 松岡利康

一つの事件が一人の人生を狂わせることがある。この事件もそうだ。被害者M君は関西の某国立大学大学院博士課程に通う若き研究者だった。〝かの事件〟さえなければ、今は、どこかの大学で学生に囲まれ研究者生活を送っているだろうと思うと不憫に感じられて胸が詰まる。さらには今でもリンチのPTSDに苦しんでいる。それを仲間とのラクビーで紛らわせているという(おそらくラクビーで鍛えた体力がなければ、壮絶なリンチで亡くなっていただろう)。一方加害者の李信恵は能天気に講演三昧の生活を送っている。行政機関や弁護士会、市民団体などが、リンチ事件の存在を知ってかどうかわからないが、李信恵のしたり顔に騙され「もっともだ、もっともだ」と聞き惚れている。世の中どこか狂っている。

10年前の2014年師走12月17日未明、大阪一の盛り場・北新地、その一角で、〝かの事件〟は起きた。 ──

〝かの事件〟から10年が経とうとしている。ここでは2回に分けて、この事件を振り返り、現代の社会運動における〈意味〉を考え、加害者、これに連なる者、あるいは被害者M君やわれわれに敵意さえ抱きトンデモ判決を出した裁判所、無視・隠蔽を決め込んだマスメディア、「知識人」らの〈責任〉を問いたい。

さて、〝かの事件〟とは、「反差別」運動の象徴とされる李信恵ら5名が、この中の1人、金(本田)良平がネトウヨ活動家から金銭を授受したとの噂を撒いたとして深夜、仲間だったはずの大学院生M君を呼び出し激しいリンチを加え瀕死の重傷を負わせたという事件である。

事件の詳しい内容は、私の話を聞き驚き途中から真相究明活動に加わったジャーナリストの黒薮哲哉が本誌、みずからのサイトMEDIA KOKUSHO、「デジタル鹿砦社通信」などでレポートし、なによりわれわれは「特別取材班」を作り、精力的に調査・取材を行い、これまで6冊(紙の爆弾増刊)の本にまとめ発行しているので、本誌では紙幅の都合もあり、ここでは省く。それらをぜひご一覧いただきたい。

ただ、私に対し意図的な誹謗中傷を振り撒く人間がいるので、一言だけ述べておく。かつて構造改革系の新左翼系小党派のリーダーだった笠井潔という人が、リンチ加害者側に立って被害者M君を執拗に攻撃し提訴され敗訴した野間易通と昵懇(共著もある)の仲ということからか、私を「デマゴギスト」などと言いふらしているようだが、われわれはそう言われないように、これまでになくヒトとカネを使って最大限の調査・取材を行い、これはそれなりに評価されている。

ちなみに、笠井にはかつて一度だけ会ったことがある(1985年)。原稿執筆の依頼で尼崎で行われた、その党派も含む構造改革系の追悼集会でだったと記憶する。彼の文章は『敗北における勝利』という本に掲載され、彼は田舎に引っ込んだりで、以来会ってはいなかったが、そんな誹謗中傷を行っているということで思い出した次第だ。それなりの知識人だと思っていたが見損なった。彼は私たちが心血を注いで取材した本を読んで私を「デマゴギスト」と言ったのだろうか? おそらく読んでいないだろうと思い、関係者を通じ届けるように送っておいた。読んだのであれば、読後感を聞きたいところだ。それでも「デマゴギスト」と言うのか!?

◆事件は1年以上隠蔽された

くだんのリンチ事件は、加害者側に立つ者らによって必死の隠蔽工作が図られ、なんと1年余りも隠蔽された。さらに驚くのは、やはり加害者側につながる人物が当社内にもいたことが発覚し、3年も勤め、それでも尻尾を出さなかった。

当時われわれは「西宮ゼミ」といわれる市民向けのゼミナールを隔月ペースで開いていたが、たびたびこれに参加していた者が「相談があります」と言って別の日に資料などを持ってやって来て初めて、このリンチ事件の事実を知ったのである。なかでも驚いたのはリンチ直後の被害者の顔写真だった。言葉もなかった。これが2016年の1月のこと、事件から1年以上が経っていた。

この間、被害者M君らが手を拱いていたわけではなかった。メディアの記者に会ったり、弁護士に会ったりしながら、その都度失望の目に遭ってきた。あえて名を出すが阿久沢悦子なる、当時大阪朝日社会部の記者に相談し、関西の社会運動のいろんなところに顔を出している自称「浪速の歌う巨人」歌手・趙博を紹介され、貴重な資料一式を渡し、われわれとも会い加害者糾弾を共に行おうと約束したが、この直後、趙は李信恵に会い謝罪するという掌返しに行っている。その資料がどこに行ったのかわからないが、万が一権力に渡ってでもいたら、度し難いスパイ行為である。この男は、関西の社会運動のいろんなところに顔を出しているが用心したほうがいい。一部の党派では「スパイ」と見なされていると聞く。

この事件が1年以上も隠蔽されていたのにはいくつか理由がある。加害者・李信恵が「反差別」運動のリーダーで当時ネトウヨ活動家を相手取り裁判闘争を行っていたこと、いわゆる「ヘイトスピーチ規制法」国会上程が準備されていたことなどが挙げられる。関係者一同、心の中では「なんということをやってくれたんだ」と思っていたとしても不思議ではない。

◆われわれは即刻行動を起こした!

驚いたわれわれが躊躇することはなかった。われわれの出版活動は弱い者の味方ではなかったのか、という素朴な正義感のようなものが自然と沸き起こった。

また、「反差別」運動の旗手といわれる者が起こした傷害事件なのに、なぜマスメディアは報じないのか、という素朴な疑問も湧いた。阿久沢記者のような、スパイ行為に加担するような行為をする者までいるのには驚いた。その後、阿久沢記者は静岡に異動になったりしたが、その際、私たちが追及したところ、驚き狼狽し逃げ回った。今からでも取材に応じるなら静岡でもどこでも行く用意はある。

一方被害者M君の味方は、いなかったわけではないが、正直言って力が弱い者ばかりだった。メディア関係者はいなかったので情報が外に向かうことはなかった。

◆事件前後

ここで少しリンチ前後の情況を振り返ってみる。李信恵ら加害者は、前日夕刻から飲み始め、事件に至るまでに5軒の飲食店を回り「日本酒に換算して1升近く飲んでいた」(李信恵のツイッター)ことをみずから明らかにしている。「1升」といえば、常識的に見れば泥酔の域にあったといえよう。前日は対ネトウヨ訴訟の期日で、これが終わり報告会、そして十三の仲間のたまり場の店・あらい商店で食事をしながら飲み始め5軒の店を飲み歩いていることが明らかになっている。

リンチ直後の被害者M君の顔写真。これを見て何も感じない者は人間ではない!

長時間のリンチ後、加害者らは苦しむ被害者を放置して立ち去っている。人間の心があれば、急救車を呼ぶとかタクシーを拾って乗せるとか、それぐらいはするだろう。それさえせずに……。被害者M君は必死でみずからタクシーを拾い自宅まで戻っている。この時のM君の心中は察するに余りある。異変を感じたタクシーの運転手は運賃を受け取らなかったという。

一夜明け、酔いが醒めた加害者らは、おそらく「しまった!」「まずい!」と思ったに違いない。身近な者らも、「なんということをしてくれたんだ」と思っただろう。

その日のうちに、加害者と昵懇の有田芳生(当時参議院議員)が、そして中沢けいらが相次いで来阪している。そこで何が話し合われたかはわからないが、おそらく混乱していたことは容易に想像できる。

そして、年が明け事件から1カ月余りが経った2015年1月27日、李信恵の姉貴分の辛淑玉が悲痛に「Mさんリンチ事件に関わった友人たちへ」と題する文書を配布する。

また、2月3日には李信恵らによる「謝罪文」も送られ、同時に活動自粛も約束される。

辛淑玉文書にしろ李信恵の謝罪文にしろ、また実行犯の金良平、李普鉉の謝罪文にしろ、のちに反故にされるが、少なくともこの時点では、多少なりとも反省の念があったことは認められる。

しかし、被害者が、ほぼ孤立無援状態であることを見透かした加害者らは反省も活動自粛も反故にし、逆にM君に対して村八分にし、あらん限りの罵詈雑言を加え攻撃に転じる。被害者なのになぜ攻撃されなければならないのか? M君のどこに非があったのか? 加害者、陰に陽に彼らをサポートした者らは、われわれの素朴な疑問に答えていただきたい。月日が経っても、われわれは許さない。

◆訴訟の果てに ──

まずM君は、逡巡しながらも、加害者らの不誠実な態度に怒り刑事告訴に踏み切った。しかし、加害者らは逮捕されるまでもなく略式起訴で、最も暴行を働いたエル金こと金良平に罰金40万円、凡こと李普鉉に罰金10万円、あろうことか李信恵は不起訴だった(2016年3月1日)。この刑事処分には大いに疑問が残る。これだけの傷を負い、今に至るもPTSDに苦しみ、人生を狂わせられて、これか。あまりにも理不尽だ。

しかし、M君の苦難は、以後の民事訴訟でも続いた。 ──

民事訴訟は、鹿砦社の顧問弁護士の大川伸郎弁護士を中心として進められた。当初弁護団に名を連ねた弁護士でサボタージュしたり利敵行為を行った者もいて、それなりに加害者(特に李信恵)防衛で一致する加害者側弁護団に比すると脆弱さは否めなかった。

実際に、被害者M君が李信恵ら加害者5人を訴えた訴訟では、勝訴したとはいえ、金額的にも内容的にも被害者、およびM君に寄り添ったわれわれにとっては不満の残るものであった。金良平(控訴審で賠償金113万円+金利確定)、李普鉉(同1万円+金利確定)に賠償金が課されたとはいえ、李信恵ら5人は免責された。特に実質的首謀者と見なしてきた李信恵に何の咎も課されなかったこと、そして共謀を認めなかったことには被害者のM君のみならずわれわれにとっても意外だったし大ショックだった。普通の感覚で常識的に見れば、李信恵の教唆、5人の共謀は当然と言えるが、裁判官という人種の眼は常人とは異なるようだ。

司法はもはや被害者の味方ではない。われわれには計り知れない〝力〟が働いているのかもしれない ── 実際に、М君対加害者5人組との訴訟、鹿砦社対李信恵との訴訟、あるいは鹿砦社対藤井正美(鹿砦社の元社員にしてしばき隊/カウンターのメンバー)との訴訟にしても、裁判官は1件(後述)を除いて、ハッキリ言って公平・公正ではなかった。むしろわれわれに対し敵意さえ窺われた。

こうしたことを認識したわれわれは、訴訟合戦の後半になって、「日本裁判官ネットワーク」の中心メンバーで「市民のための司法」を目指して活動してきた、元裁判官の森野俊彦弁護士に依頼、森野弁護士は受任され、一審で全面敗訴に屈した、李信恵が原告、鹿砦社被告の訴訟の控訴審では、著名な精神科医・野田正彰によるM君の「精神鑑定書」、国際的な心理学者・矢谷暢一郎ニューヨーク州立大学元教授、ジャーナリスト寺澤有の意見書を提出し真っ向から押し戻し、大阪高裁は李信恵の非人間性を認定した。さすがに、瀕死の重傷を負わせておきながら、無垢のままにしておくわけにはいかなかったのだろうか。裁判官としての良識の欠片は残っていたといえよう。一部を挙げ、ひとまず本稿を擱く。

「被控訴人(注:李信恵)は、本件傷害事件の当日、本件店舗において、最初にMに対し胸倉を掴む暴行を加えた上、その後、仲間である金がMに暴行を加えている事実を認識していながら、これを制止することもなく飲酒を続け、最後は、負傷したMの側を通り過ぎながら、その状態を気遣うこともなく放置して立ち去ったことが認められる。」

「本件傷害事件当日における被控訴人の言動自体は、社会通念上、被控訴人が日頃から人権尊重を標榜しておきながら、金によるMに対する暴行については、これを容認していたという道義的批判を免れない性質のものである。」

「被控訴人の本件傷害事件当日における言動は、暴行を受けているMを目の当たりにしながら、これを容認していたと評価されてもやむを得ないものであったから、法的な責任の有無にかかわらず、道義的見地から謝罪と補償を申し出ることがあっても不自然ではない。」(以上、令和3年7月27日、大阪高裁第2民事部判決から)

(松岡利康)

《関連過去記事カテゴリー》
 M君リンチ事件 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=62

《11月のことば》限界突破 あきらめたらそこでおしまい 鹿砦社代表 松岡利康

《11月のことば》限界突破 あきらめたらそこでおしまい(鹿砦社カレンダー2024より。龍一郎揮毫)

速いもので、今年もあと2ヵ月となりました。
新型コロナ襲来によって、それまで左団扇状態だった雰囲気は暗転しました。
何度も「限界」を感じました。

「あきらめたらそこでおしまい」──

「限界」を「突破」するために皆様のお力を借りて「歯を食いしばって」頑張ってきました。
「限界」に次ぐ「限界」で「あきらめ」かけたりもしました。
コロナで似たような経験をされた方も少なくないでしょう。
しかし、「あきらめ」なければ、浮かぶ瀬は必ずあるものと信じています。

20年近く前の出来事、「名誉毀損」に名を借りた出版弾圧でも打ちのめされ「限界」を感じましたが、運良く「突破」できました。
奇跡としか言いようがありません。出版業界ではそういわれているそうです。

「限界」は「突破」でき、奇跡は起きると信じたい。

(松岡利康)

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2024年11月号

〈原発なき社会〉を求めて集う 不屈の〈脱原発〉季刊誌『季節』2024年夏・秋合併号《創刊10周年記念特集》どうすれば日本は原発を止められるのか

『LGBT異論 キャンセル・カルチャー、トランスジェンダー論争、巨大利権の行方』女性スペースを守る諸団体と有志の連絡会=編著

鹿砦社の書籍を購読し、私たちの出版活動継続をお支えください! 松岡利康

つい先日までの猛暑が嘘のように、すっかり秋めいてまいりました。平素は鹿砦社の出版活動につきまして多大のご支援を賜り有り難うございます。

◆最新刊書籍は黒岩卓夫著『アルプス少年 医を拓く』

最新刊書籍として黒岩卓夫著『アルプス少年 医を拓く』が出来上がってまいりました。小社としては特に力を入れた本ですのでぜひご購読ください。最も鹿砦社らしい本だと多くの方々から言われますし、私たちもそう自負いたします。

黒岩先生は60年安保闘争を樺美智子さん(60年 6・15国会前で機動隊の暴虐で死亡)らと共に闘い、その後、僻地医療に取り組まれ、障碍者施設、高齢者施設も併設し今に至っています。これは、昨秋刊行した、大学の先輩の矢谷暢一郎さんの『ヤタニ・ケース アメリカに渡ったヴェトナム反戦活動家』もそうですが、卒業後、あるいは運動を離れてからの人生の苦闘をいかに過ごすかということが生き生きと描かれています。

それも含め、昨年の今頃から社会問題についての書籍(紙の爆弾増刊号含む)を精力的に刊行してまいりました。皆様方にはぜひともご購読いただきたいものばかりです。

黒岩卓夫著『アルプス少年 医を拓く』

◎『アルプス少年 医を拓く』 https://www.amazon.co.jp/dp/4846315649/

◆『LGBT問題を考える』と『LGBT異論』

『アルプス少年 医を拓く』の前には、気鋭の女医・斉藤佳苗著『LGBT問題を考える』(8月)、オウム事件で殺されかけながらもカルトと闘った滝本太郎弁護士を中心とした女性スペースを守る諸団体と有志の連絡会=編著『LGBT異論』(9月)を相次いで刊行いたしました。

現在、LGBT問題を語ることには一種のタブーがあり、小社は一部から「ヘイト出版社」のレッテルを貼られているほどです。本来なら「性の多様性」というのであれば自由な議論が必要なのに、逆の情況が続いています。両書は、広義のリベラル(左派、中道)の立場からこの問題に議論の材料を提起するものです。ご一読いただければ解りますが、間違っても「ヘイト本」ではありません。私たちの疑問も多々提起してありますので、LGBT思想、とりわけトランスジェンダリズム(性自認至上主義)の信奉者の方々は、「ノーディベート」(議論しない)として逃げるのではなく、これに丁寧に答えていただきたいと思います。双方の議論、対話があってこそ、LGBT当事者のみなさんとの理解がなされるのではないでしょうか。そうでないと、「性の多様性」が社会的に理解されないまま分断、対立だけが進んでいくのではないでしょうか。

『LGBT異論』と『LGBT問題を考える』

◎『LGBT異論』 https://www.amazon.co.jp/dp/B0DHGBQC8X/
◎『LGBT問題を考える』 https://www.amazon.co.jp/dp/4846315592/

こうした私たちの想いは、偶然ながら新左翼系といわれる雑誌『情況』も同様の位相で取り組み大きな波紋を拡げました。決して私たちだけではなく、考えることはみな同じだと思いました。同誌も今後この問題を継続するということですので、共同歩調を取っていきたいと考えています。

◆『日本の冤罪』と『広島の追憶』

つい最近の大きな出来事として、袴田巖さん冤罪事件無罪確定と「日本被団協」ノーベル賞受賞があります。冤罪については、『紙の爆弾』で長年複数のライターによって連載しております。月刊誌で冤罪問題を連載している雑誌はありません。この中で尾﨑美代子さんが寄稿した分をまとめたものが『日本の冤罪』です。

また、被爆問題については、古くからの知人、梓加依さんが『広島の追憶』を出されました。原爆投下直後の長崎、広島で過ごした体験を元にしたノンフィクション・ノベルといっていいでしょう。

これら二著は、今こそ皆様にぜひご購読いただきたい書籍です。

『日本の冤罪』と『広島の追憶』

◆『ジャニーズ帝国 60年の興亡』と『ドキュメント タカラヅカいじめ裁判 乙女の花園の今』

昨年、ジャニー喜多川による未成年性虐待が英BBC放送によってワールドワイドに報道され大きな問題となりました。BBCには事前に水面下で協力しましたが、この問題に実に28年にもわたり取り組んできた私たちの言論活動が陽の目を見た結果です。それを集大成したのが『ジャニーズ帝国 60年の興亡』です。辛辣な批評で有名な斉藤美奈子さんも「労作」と評価してくださいました。

さらに昨年末から本年にかけて鹿砦社本社所在地・西宮の隣の宝塚市にある宝塚歌劇団にて若き劇団員が激しいイジメを苦にして自殺するという痛ましい事件がありました。ジャニーズ同様、宝塚歌劇団の問題に対しても鹿砦社は1995年以来取り組んで来ました。宝塚歌劇団内のイジメ問題について、かつてこの訴訟をリアルタイムに寄り添ってきた記録『ドキュメント タカラヅカいじめ裁判――乙女の花園の今』を復刻出版いたしました。この訴訟時と以後、歌劇団は真摯に反省し根本から自己改革に取り組んでいたなら、今回の劇団員自殺という悲劇は避けられたと思うといたたまれません。歌劇団、そしてそのバックの阪急資本と友好関係にある在阪メディアも、ジャニーズと癒着しジャニー喜多川の犯罪を報じなかった大手メディア同様、断罪されなければなりませんし真摯な自己反省が必要です。

『ジャニーズ帝国 60年の興亡』と『[復刻新版]ドキュメント タカラヅカいじめ裁判』

◎『ジャニーズ帝国 60年の興亡』 https://www.amazon.co.jp/dp/4846315290/
◎『[復刻新版]ドキュメント タカラヅカいじめ裁判』https://www.amazon.co.jp/dp/4846315355

こうしたジャニーズ、宝塚問題によって、これまでの鹿砦社の言論・出版活動が、あらためて評価されたのです。これらを単に芸能問題とバカにしてはいけません。私たちは、芸能問題も含め広く社会問題に、「われわれにタブーはない!」と宣揚しつつ大手メディアにない視点と方法で取り組んでまいりました。コロナ以降、苦戦を強いられていますが、初心を忘れず頑張りますので、さらに継続してご支援のほど、よろしくお願い申し上げます。
                          

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皆様方にお願いしたいこと
  

当面具体的には、次のような形で更なるご支援をお願いいたします。

① 上記に挙げた書籍の直接ご購読をお願いいたします(すべて送料無料サービス)。1冊からでも構いませんが、よければ2冊、3冊とまとめてご購読いただければ助かります。
sales@rokusaisha.com か鹿砦社HP通販サイトからご注文ください。

② ラディカルスキャンダルマガジン『紙の爆弾』、唯一の反原発雑誌『季節』の定期購読をお願いいたします。『紙爆』1年分7700円、『季節』1年分3080円。こちらは前金となっていますので、郵便振替(01100-9-48334 口座名=株式会社鹿砦社)にてお申し込みください。送料はサービスです。すでに低購読の方は(前倒し)継続更新をお願いいたします。

③ その他、もっと支援してもいいという方は会員になってください。詳細は『紙の爆弾』巻末案内をご覧ください。

なお、シルバー会員(3万円。3年間『紙爆』『季節』を送付)には毎年1冊鹿砦社刊行書籍を贈っておりますが、今年は『アルプス少年 医を拓く』を送らせていただいております。それ以上の高額会員も同様です。
 
物価高騰の折り心苦しい限りですが、よろしくお願い申し上げます。

鹿砦社代表 松岡利康

今こそ、鹿砦社の雑誌!!

◎『紙の爆弾』 amazon https://www.amazon.co.jp/dp/B0DG578D28/
◎『季節』 amazon https://www.amazon.co.jp/dp/B0DB1GZ5CM/

《10月のことば》絆 あなたとここにいることがなによりすばらしい 鹿砦社代表 松岡利康

《10月のことば》絆 あなたとここにいることが なによりすばらしい(鹿砦社カレンダー2024より。龍一郎揮毫)

ようやく暑さも和らいで来ました。
もうすぐ秋風が吹き木枯しの季節となるのでしょうか ──

もうこの仕事に本格的に関わり始めて40年になります。
大学を出て10年、出版とは全く関係のないサラリーマンをやりました。
毎日、大阪御堂筋のビルの7階から四季の移ろいを眺めながら過ごしました。

会社を整理するというので、それまでに同人誌のようなものや資料集を出したりはしていましたが、他に仕事を探すこともなく、わずかな退職金を元手に出版を生業にすることにしました。

若かったな。すでに子どももいたし、今だったら踏み止まっていたでしょうね。
他人より10年遅れて出発しましたが、これまで多くの方々に迷惑をかけたり助けてもらったりして〈絆〉をこしらえてきました。
大学関係の先輩・後輩、多かれ少なかれ学生運動や社会運動に関わった人たちなどが多いです。

決して一人でやって来れたわけではありませんでした。むしろ助けてくれる方がいたからこそ、生来鈍愚な私でもここまでやって来れたと思っています。

自分で望んだわけではありませんでしたが、これまで他人よりは起伏のある人生でした。

特に2005年、『紙の爆弾』創刊直後の「名誉毀損」に名を借りた出版弾圧は「人質司法」による長期勾留を強いられ正直きつかったです。

これまでこの通信でも何度も述べているので繰り返しませんが、これを皆様方との〈絆〉で乗り越えれたことは大きいです。誰もが「松岡も鹿砦社も終わりだろう」とささやいでいたということですが、人の運命というのはわからないものです。その前の阪神大震災でも、「松岡も鹿砦社も終わりだろう」と東京ではささやかれたそうですが、自分で言うのも僭越ですが、我ながらしぶといです。

その後、奇跡ともいうべき復活を遂げることができ、これでこのまま後の世代にバトンタッチをしようと思っていたところ新型コロナ来襲で、またペシャンコにされようとしました。

ところが、ここでも皆様方との〈絆〉で生き残っています。思い返せば、20年、30年、40年と、付き合いの長い方が多いです。これで知らず知らず〈絆〉が出来たのだと思っています。

そう、「あなたとここにいることがすばらしい」ということです。

これからもいつまでも「あなたとここにいること」、そしてもっともっと強い〈絆〉で『紙の爆弾』『季節』を継続させ鹿砦社を継続させていければと願っています。

(松岡利康)

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2024年10月号

〈原発なき社会〉を求めて集う 不屈の〈脱原発〉季刊誌『季節』2024年夏・秋合併号《創刊10周年記念特集》どうすれば日本は原発を止められるのか

『LGBT異論 キャンセル・カルチャー、トランスジェンダー論争、巨大利権の行方』女性スペースを守る諸団体と有志の連絡会=編著