植草一秀 「政治とカネ」を闇に葬る最悪連立 自民・維新金権腐敗政権

植草一秀 文責・本誌編集部(紙の爆弾2025年12月号掲載)

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◆空費された2年間

2025年10月21日、第104代内閣総理大臣に高市早苗衆院議員が就任し、高市内閣が発足しました。

様々な紆余曲折がありましたが、振り返ると2024年の年初から国民生活は極めて厳しい状態に置かれ、政治は何ら措置も取らないまま、ほぼ2年間が空費されました。この現実をまず直視すべきです。

この2年間、日本の政治を2つの事象が支配してきました。1つは自民党内の「政治とカネ」の問題、史上空前の巨大裏金不正事件です。1000万円超の不正を行なった議員が21名いたにもかかわらず、刑事事件として立件された議員は数名に留まった。これは刑事司法の腐敗も示しています。

もう1つは、深刻なインフレが進行して労働者の実質賃金が減り続け、国民生活が一段と冷え込む状態が続いたことです。2013年~23年の10年間、日銀総裁を担った黒田東彦氏はインフレ誘導政策を推進しました。不幸中の幸いでその目論見は失敗したものの、コロナ融資を契機に2022年~25年までの4年間で目標の2%を大幅に上回るインフレが発生しました。生鮮食品については2022年以降、年間8%ペースで上昇が続き、2021年を基準にすれば物価は3割も上昇しました。

一方で、賃金が上昇しているのは大企業だけ。しかも、それ以上にインフレが進み、実質賃金は減少が続いています。厚生労働省の統計では2022年4月から25年8月までの41カ月間で、1人あたりの実質賃金指数が前年比プラスになった月は4回のみ。それ以外の37カ月は前年比マイナスの有り様です。同時に日本円が暴落し、いまや円は1970年水準よりも弱いという状況です。これは、日本国民の所得や資産のドル換算での金額が激減したことを意味します。円の暴落は国民に甚大な損害を与えています。

こうした事態に日本国民は選挙で明確に意思表示をしてきました。その1つは昨年10月の衆議院総選挙で自公の議席が過半数割れに転落したことです。この時、野党がその気になれば、政権刷新も可能な状況が生まれていました。今年7月の参院選でも自公が歴史的な大惨敗を喫し、与党は参議院でも過半数割れに転落しました。

昨年10月の総選挙では裏金事件が大きな争点となりました。その主犯が旧安倍派だったため、石破茂内閣は、敗北の責任は旧安倍派にあるとしましたが、今年7月の参院選で石破内閣に明確な退場通告が突きつけられます。

政治腐敗の根源が企業・団体献金です。したがって今年1月からの通常国会は、その全面禁止を法定化する千載一遇のチャンスでした。しかし、石破首相は国会答弁で、禁止には反対だと明確な意思表示をしました。

とはいえ、自公政権は衆院で過半数割れしています。ここで野党が結束して企業・団体献金禁止の法定化を実現しようとすれば、少なくとも衆院では可決できたはずです。しかし、その機会を自民とともに潰した犯人が国民民主党です。国民民主はこの問題について全会一致が必要だと主張。自民党の反対を踏まえて全会一致を求めることは、法定化を妨げることにほかなりません。昨年の総選挙後に、自民党にすり寄る行動をとって政権交代の芽を摘み取ったのも国民民主でした。

また税の問題では、衆院選で消費税率を5%に下げるという主張を中心に、複数の野党が減税提案を示しました。しかし通常国会で決定されたのは、所得税の「103万円の壁」引き上げのみ。その減税規模はわずか0.7兆円にすぎません。しかも、所得税は岸田文雄内閣が2024年に1年限りの2.3兆円定額減税(総額3・3兆円)を実施しています。これが終わったことで、2025年度の所得税は、差し引きで前年度比1.6兆円増税となっています。これは財務省の資料によって簡単に確認できる事実ですが、メディアは1行も伝えていません。

加えて、社会保険料負担が発生する「106万円・130万円の壁」の撤廃がどさくさにまぎれて決定されました。結果、週20時間以上働く人の手取り収入が、16万円や27万円も減ることになりました。

◆議員定数削減の不埒な狙い

この2年間の政治背景を踏まえれば、改革の一丁目一番地が「政治とカネ」であることは誰の目にも明らかです。しかも、自民党と連立を組んだ日本維新の会は企業・団体献金廃止を提案してきたのですから、連立樹立の条件にこれを掲げるのが順当です。ところが維新はこの問題を放棄し、代わりに提示したのが社会保険料の引き下げと副首都構想、そして議員定数削減でした。社会保険料引き下げは若者を中心とした人気取り政策、副首都構想は大阪利権そのものです。

さらに議員定数削減とは比例代表の削減で、その真意は少数政党の殲滅です。そもそも日本の国会議員数は人口比において、G7諸国の中でも米国に次いで2番目に少ないものです。一方で、議員報酬は国際比較で突出して高い。それゆえ「身を切る改革」というのであれば、議員定数ではなく議員報酬を削減すべきです。

日本の国会議員の本給である歳費とボーナス(期末手当)だけで約2200万円。

※記事全文はhttps://note.com/famous_ruff900/n/nc1a93e4fae3f

「公安警察」とは何か

足立昌勝(紙の爆弾2025年11月号掲載)

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◆相次ぐ警察不祥事と謝罪

9月5日、警察庁の楠芳伸長官は、都道府県警の本部長を集め臨時の全国会議を開いた。被害者の訴えを黙殺した「川崎ストーカー殺人事件」における神奈川県警の不適切対応や、立件ありきの「大川原化工機事件」における警視庁公安部の捜査が違法と認定された不祥事を受けてのものである。

川崎事件では、9月4日に神奈川県警本部が「神奈川県川崎市内におけるストーカー事案等に関する警察の対応についての検証結果」を公表した。そこでは、署や本部における対処体制の形骸化や機能不全を取り上げ、今後、人身安全関連事案における被害者やその親族等の安全確保を最優先とした対処を徹底するという。ここで指摘されている内容は、現状の体制内における教育等に終始している。問題の本質が異なっているのではないか。今まで言ってきた言葉を繰り返しただけで、再発防止になるはずがない。根本的解決を図るならば、警察に批判的な人物を含め、第三者で構成する委員会に諮問すべきだ。

また、大川原化工機事件について、警視庁は8月7日、「国家賠償請求訴訟判決を受けた警察捜査の問題点と再発防止策について」を公表した。そこでは、訴訟指揮に関連して次の5つの問題点を指摘している。これらは組織内部の問題であり、公安部が抱える問題の大きさを物語っている。

①捜査機関解釈に対し経産省が疑問点を示していたにもかかわらずその合理性を再考することなく捜査を進めたこと
②温度測定実験に関する消極要素の精査の不徹底
③取調べ官に対する指導の不徹底
④捜査班運営の問題
⑤公安部長ら幹部への報告の形骸化と実質的な捜査指揮の不存在

これらを踏まえ、「公安部の捜査指揮系統の機能不全によって、公安部において組織として捜査の基本に欠けるところがあり、本件において関係者を逮捕したことが国賠法上違法であるとされる結果となったと考えられる」と結論付けた。今後は「業務の性質上現場の捜査員が声を上げにくいと言われる公安部の組織風土を十分認識した上でそれによる弊害を減らし、上司、部下が立場にとらわれず必要な意見を交わすことができる環境づくりを進めるとともに、公安部全体の捜査指揮能力の向上につなげていかなければならない」という。

大川原加工機事件で問われるべきは、公安警察の在り方そのものである。主権者である国民に見えないところで秘密の捜査を行ない、国民を監視してきたのが公安警察だ。この組織そのものにメスを入れない限り、根本的解決にはならない。

◆公安警察とは何か

1945年10月6日、GHQ(連合国総司令部)が発した人権指令「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の除去の件」に基づき、国民を弾圧し続けた悪名高き特別高等警察(特高警察)は廃止された。

しかし、戦後の社会情勢に不安を感じていた内務官僚は、これに代わる組織の必要性を考えた。そして同年12月19日、内務省警保局に「公安課」を置き、各都道府県警察に「警備課」を設けた。その後、内務省は解体され、警察の在り方も根本的に改正されたが、そのどさくさ紛れに忍び込ませたのが公安警察で、その後も解体されることなく、大きな組織へと発展していった。

さらに特徴的なことは、公職追放されていた旧特高警察の警察官の多くが公安警察に復帰し、特高警察での経験・ノウハウを活かしているといわれていることだ。
 昨年5月21日、警視庁150年を記念した特集で産経新聞は、「過激派、外国による工作…国内唯一の『公安部』誕生」を掲載した。同紙は公安警察の役割について次のように書いている(一部要約。以下同)。

〈「国事犯を隠密中に探索警防する事」。警視庁は明治7(1874)年の発足直後から、国家の秩序を乱す活動を事前に察知して防止することを、主要任務の1つとして掲げてきた。戦前では主に「特別高等警察(特高)」が対応に当たったが、GHQから「秘密警察」とされ廃止に。戦後、デモや大衆運動が活発化し、過激派による襲撃事件も発生する中、警視庁は警備課や捜査2課に置かれた係で対処する状態だった。「このような分散された弱い体制では(中略)国内の治安情勢に対処することはできない」(『警視庁史昭和中編上』)として昭和27(1952)年、公安1~3課を擁する警備2部が発足。1932年には「公安部」に改称され、日本で唯一公安部を持つ警察本部となる。東大紛争やあさま山荘事件、オウム真理教事件など、極左や右翼、カルト宗教を受け持つ「国内公安」に加え、外国機関の情報収集、対日有害活動に対応する「外事」も担う。外事は現在、主にロシアを担当する外事1課、中国の外事2課、北朝鮮の外事3課、国際テロの外事4課という態勢に。また、テロの疑いがある事案の初動捜査などに対応する公安機動捜査隊やサイバー攻撃対策センターも擁する。〉

この記事には、同紙の極右的特徴がそのまま出ている。まず、特高警察について触れながら、その悪行への批判はない。戦後のどさくさ紛れに設置された公安警察を無批判に受け入れ、旧内務省警保局への反省もない。このような治安重視の姿勢が、どれだけの善良な国民を監視し、投獄してきたのか。その事実を抜きにして、警察史を語ることはできない。

※記事全文はhttps://note.com/famous_ruff900/n/n208373083019

キックボクサーは何歳まで戦えるか

堀田春樹

「俺らの時代は試合終わると身体のあっちこっち痛くて足引き摺りながら帰ったけど、今時の選手は怪我しないよね!」とは1989年1月にタイで、当時のニシカワジム西川純会長が、試合を終えた愛弟子・赤土公彦がさっさと歩いている姿を見て言っていた話。怪我が治らないうちに次に試合がある。西川さんはそんなキックボクシング創生期に活躍した選手でした。

そして、「キックボクシングなんて長くやるもんじゃないよ!」とも言われ、大怪我したり、ダメージ蓄積すれば、その後の人生に影響が出るという、そんな風潮があった昭和の時代。30歳以上のキックボクサーは居るには居たが、その数は少なかった。

特に世界の頂点極めた者がその地位を維持出来なくなったら引退が濃厚。そこからデビュー当時のゼロ地点に落ちるまで戦い続ける者はほぼ居ない。

他のスポーツと比べて身体を酷使する打撃格闘技は動体視力やスピードと反射神経が重要で、全盛を維持出来なくなると、もう引退というのも一般認識だろう。

◆現役に拘った選手達

しかし、キックボクシングは第一線級を退いても、存在価値があれば続けられる、メインイベンターは無理でも、使って貰える環境が有る。それはチケット売れるなら使ってやろうという主催者都合もあるだろう。

元・全日本フェザー級チャンピオン、立嶋篤史は1971年12月28日生まれで、1987年に15歳でタイで初試合。国内では翌1988年4月デビュー。1991年4月に王座獲得後、防衛は成らなかったが、二度奪還した功績は大きかった。身体のメンテナンスを怠らず、負けが込んで、その下降線を辿っても、新たな目標持って戦う立嶋篤史は今年4月27日に53歳で101戦目を戦い敗れたが、ストイックに凄いキャリアを残した。

ストイックな立嶋篤史。フェザー級に拘った37年。変わらぬ体形(2025.4.27)

近年、48歳まで戦った笹谷淳(現・レフェリー)は、1975年3月17日生まれで、2002年11月に27歳でデビュー。2010年10月10日にJ-NETWORKウェルター級王座獲得。2023年2月18日のNKBウェルター級王座決定戦でカズ・ジャンジラに敗れて引退を決意。怪我を克服しながら諦めずチャンピオンへ再チャレンジを続けた。

笹谷淳は最終試合の翌興行で引退式。更にレフェリーになるのも早かった(2022.2.19)

笹谷淳と同時期デビューした竹村哲(現・マッチメイカー)は、1971年8月18日生まれで2002年に31歳でデビュー、2014年10月11日、NKBウェルター級王座獲得したが翌年12月に引退。44歳まで戦った。

竹村哲は遅咲きの43歳で王座獲得。引退は44歳。当時はもう少し頑張れたかも(2015.12.12)

目黒系藤本ジム所属だった勝次(=高橋勝治)は1987年3月1日生まれで、2006年5月21日デビュー。2015年3月15日に日本ライト級王座獲得し、2019年10月20日にWKBA世界スーパーライト級王座獲得。その後は鳴かず飛ばずの状態が続くも、先月の9月28日にWBCムエタイ日本王座への挑戦が実現。HIRO YAMATO(25歳)に初回早々ノックダウン奪いながら巻き返されての僅差判定負けとなった。もう一度花を咲かせるか、引き際を考えるかの去就が注目される現在だが、まだ40歳手前で、衰えより若い世代の台頭に圧された感じである。

勝次は連敗脱出成るか。更なる王座奪取成るか。現在においてはまだ引退は早い(2025.9.28)

10月18日の日本キックボクシング連盟興行に出場した小磯哲史は、1973年8月8日生まれで1999年にデビュー。元・J-NETWORKライト級チャンピオンで、最近は負けが込む中、元・新日本キックで日本ライト級ランカーだった大月慎也(39歳)に初回早々から攻勢を掛け、主導権支配してレフェリーストップに追い込む圧倒のTKO勝利。スピードは落ちたが52歳の小礒哲史は、この中堅域ならまだまだイケそうな雰囲気である。

52歳で圧倒のTKO勝利を飾った小礒哲史。現役はまだ続けられそうである(2025.10.18)

思い付く代表的選手を抜粋しましたが、他にも息の長い選手は多いところです。

◆ルール的には

プロボクシングならば日本ボクシングコミッションによる厳格な規定があり、ボクサーライセンス取得資格は16歳(試合は17歳から)以上37歳未満まで。37歳以上はチャンピオンであることやランキングに入っていて王座挑戦の見込みがあることなど幾つかの条件が付く。条件に満たなければライセンス失効となる。それは健康で将来を重要視した規定でしょう。

キックボクシングはコミッションといった管轄組織は無く、有っても名前だけで厳格な機能はしていない。年齢制限は団体によっては制定されているだろうが、任意団体の御都合主義で大方が明確ではない。だから50歳過ぎても現役を続けられたり、60歳プロデビューも起こる業界である。

◆50歳が境界線

因みにプロボクシングでは世界第一線級に立つ中で、ジョージ・フォアマンが48歳9ヶ月まで戦い、バーナード・ホプキンスが51歳11ヶ月まで戦ったという驚異的記録があります。

国内のキックボクシングでは、立嶋篤史が「先はそんなに長くない」と言う中、今後の動向が注目されます。

私ども“完全燃焼”という言葉を使うこと増えていますが、その時戦える自分に合った最強の相手と戦って、結果に関係無く全力を尽くして悔いなく引退するのが最近の風潮かもしれません。もし大きな怪我無くとことん戦い続けたら、体力の限界は50歳が一つの境界線でしょうか。何歳まで戦えるかは二十代でも、三十代で引退も選手各々の人生次第でしょう。

大金を稼ぐ夢を持った時代から、逆に赤字でもやる者も多いのが今の時代。長くやるもんじゃなかった時代からずいぶんと様変わりした競技となったものです。

最後にこのテーマから論点ズレしますが、6月に立嶋篤史氏と他数名で会って久々に食事しました。打たれ脆くなった、反射神経が著しく落ちたと言われても、彼の身体そのものはなかなか丈夫である。試合でKO負けしても後楽園から船橋まで走って帰る逞しさ。昔のことはしっかり覚えている。議論すればしっかり自論で言い返して来る。32年前、タイで会っていた頃と同じだった。立嶋篤史氏についてはまだ時期未定ながら、格闘群雄伝に登場予定です。

憧れの後楽園ホールのリング。ここを目指して来た選手は多い(2025.5.11)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
昭和のキックボクシングから業界に潜入。フリーランス・カメラマンとして『スポーツライフ』、『ナイタイ』、『実話ナックルズ』などにキックレポートを寄稿展開。タイではムエタイジム生活も経験し、その縁からタイ仏門にも一時出家。最近のモットーは「悔いの無い完全燃焼の終活」

「鹿砦社カレンダー2026」完成! これが最後となります。『紙の爆弾』『季節』の定期購読の方、会員、支援者の皆様には12月初め発行の両誌次号と共にお届けいたします!

鹿砦社代表 松岡利康

鹿砦社カレンダー2026の一枚

「鹿砦社カレンダー2026」が出来上がりました!

2012年版(東日本大震災の年2011年制作)から始まった「鹿砦社カレンダー」も恒例となり、毎年首を長くしてお待ちいただいている方もおられます。

これは、松岡の大学の後輩で書家の龍一郎が、魂を込めて揮毫したものです。

本年もまた多くの自然災害、事件などがあり、目を海外に向ければ、ウクライナ、パレスチナの戦火はまだ続いています。本当の平和はいつ訪れるのでしょうか。

こういう時勢だからこそ、私たちは強い想いを持って、このカレンダーの制作にあたり、ここにお届けすることができました。ぜひ、お部屋の片隅にでもお飾りいただければ幸いです。

この制作の過程で、龍一郎に肺ガンが発見され左肺の半分を取る手術をし、現在抗がん剤治療を行っています。彼は重度の糖尿病、大動脈解離などを経験し、不屈の精神で病を乗り越えてまいりました。今回もおそらく乗り越えることでしょう。心ある皆様方のご支援(闘病資金)をお願いする次第です。

振込先:郵便振替 01760-0-130407    
口座名:井上龍一郎
空欄に激励のメッセージなどお書きください。

来年3月11日で東日本大震災-原発爆発から15年となります。このカレンダーも、龍一郎の体力を鑑み、ひとつの区切りとして今回でいったん最後にさせていただくことになりました。龍一郎も私たちも頑張りました。今は清々しい気分です。機会あれば、なんらかの形で再び登場いたしたく思っています。

【お断り】このカレンダーは基本的に『紙の爆弾』『季節』の定期購読者、会員、いつもカンパをいただいたり継続的にご支援をくださる方、執筆者などに限り送らせていただいております。龍一郎や私たちの想いの籠もったこのカレンダーは毎年好評で、数を限って制作しており、毎年ほとんどなくなります。カレンダーだけを送れという方はお断りさせていただいております。

https://www.rokusaisha.com

矢島祥子さんがいた頃の釜ヶ崎と貧困ビジネス

尾﨑美代子

11月16日(日)、大国町ピースクラブで、16年前に殺害された釜ヶ崎の女医・矢島祥子さんを偲ぶ会があった。例年以上に大勢の人が集まった。初めての方も多かった。私が冤罪問題で何かやるとき必ず遠方から来て下さる方が、名古屋と和歌山からきてくださった。広島から駆け付けた方もいたとか。

初めての方が参加されることは事前に知っていたので、ぜひパワポを使って「あの日、矢島祥子さんに何がおこったか」の解説をしたかった。とりあえずやったのだが、考えたら会場を暗くするので、手元が見えない。近くにいた方が携帯で照らしてくれたが、字が小さくて読みにくい。頭に入っている範囲でお話したが言い忘れたこともあった。ぜひレジュメを読みなおしてね。

当日の様子はほかの方の投稿で確認してください。私が一つ気になったこの、こういう会で必ず「犯人はわかってますからね」と発言される方がおられることだ。そのたび私は「知りませんけど」と言いたくなる。遺族だってそう思っていると思う。私たちの活動は犯人逮捕のために捜査機関に動いてもらうこと、そのためメディアを動かすこと、そのため支援の輪を広げることだ。憶測で「あの人が犯人に違いない」と決めつけ、新たな冤罪を作ったら元も子もないではないか。

ただ、私は事件の背景には当時から今まで延々と続く貧困ビジネスの問題があると思う。先日、釜ヶ崎で火災が発生し、共同住宅に住む4人の方が犠牲になった。非常階段のドアが開かずに部屋に閉じ込められた住民もさぞかし恐ろしかったろう。火災の原因は未だに明らかにされてないが、寝煙草の人が多かったともいわれるから、それが原因かもしれない。にしても、車いすや寝たきりの人も多い50人ほどの住宅で、深夜常駐のヘルパーさんが1人だったとか、施設側の問題も大いにあるようだ(しかもそのヘルパーさんも犠牲になった)。

就労支援事業などを手広く展開するこの業社は、近年この界隈で多くのビルを建てている。お洒落な白いビルの壁面には業社の頭文字のCが書かれ、火災が起きたビルはC5、その近くで1階に地ビール工場が入るビルはC6だ。

火災が発生、5階に住む3人が死亡したコレクティブハウス

私は以前このCとちょっとした出会いがあった。「あれは甘く切ない思い出」ではなく、ちょっと恐怖を感じたものだ。客のNさんが腰痛なので週1回ほどヘルパーに入って貰おうとした。三角公園で連れに紹介されたのがCだった。CはNさんに役所が来たら、万年床にして入口に杖を置いてと指示したそうだ。布団も上げれない、杖なしで歩けない大変な身体だから、ヘルパーを毎日付ける必要ありとしたいのだろう。しかし、元ヤクザだが超真面目なNさん「俺はそんな嘘はつけない」ときっぱり断わり、週1回入ってもらうことになった。

私はこのいきさつを当時のTwitterに投稿した。もちろんNさん、C、三角公園などの名称はださずに。ところがだ、数日後Nさんに入った若い女性ヘルパーがNさんに「Nさん、はなままという人を知ってますか?」と聞いてきたそうだ。Nさんは「最後に逮捕されたとき、世話になった」と言ったそうだ。ヘルパーはまた「Nさんは元ヤクザなのですか」と聞いたという。小指欠損状態をみればわかるだろうと言いたいが、私の投稿で知ったのだろう。若いヘルパーが見たのではない。Cがエゴサーチしたのだろう。しかし、前述したが、三角公園もNもCも書いていない。しかもTwitterはたかが400文字だ。凄いエゴサーチ力だ。ていうか、どんなエゴサーチをするのだろう。「杖」「万年床」あたりか? ヘルパーが私のことをしつこく聞くと、後にNさんが私に話してくれて、ちょっと怖くなったものだ。

萩ノ茶屋駅近くの無料炊き出し(11月19日撮影)
長い行列を作る無料炊き出し(11月19日朝8時)

話を戻すと、祥子さんがいた2008~2009年当時の貧困ビジネスは今とちょっと違っていた。2008年リーマンショック後、釜ヶ崎に流れてきた困窮者を狙う業者がどっと増えた。が、彼らはまだ雑だった。店の近くの相談所には、開く9時前には長蛇の列ができ、相談後に彼らを狙う連中が、私の店の前で勧誘をはじめ、その光景はまるでミナミのひっかけ橋で黒服が客をキャッチするような状態だった。ヤクザ、反グレが慣れない手つきで炊き出しを行い、集まった困窮者を自社ビルに入れる。生活保護制度自体を理解してないのか「今なら部屋も食事もついてて、おまけにお小遣いまでもらえるよ」などと通帳、カード取り上げ、囲い込む気満々の業者も多かった。

奈良の山本病院事件で院長らが摘発されたのは2009年だ。しかし、山本病院が大阪市内から野宿者や生活保護者を病院に入院させ、不適切、不必要な手術を行い死亡させはじめたのは、10年前からだった。山本病院に患者を送り込んでた福祉病院は釜ヶ崎周辺でも多かったはずだ。祥子医師は自身が診た患者の入院先に見舞いに行きながら、治療方法や処方された薬を確認し、おかしいと思ったら、病院側に忠告していたという。そんな祥子医師が疎んじられたのか、事件の少し前、ある福祉病院の事務局長から名刺を渡され、「もう来ないでくれ」と言われていたらしい。生活保護者を囲い込んで儲けようとする連中にとって、祥子さんはじゃまだったのかもしれない。

『病院ビジネスの闇』(宝島新書)。NHK奈良支局取材班によるこの本は釜ヶ崎周辺で当時展開されていた貧困ビジネスを刑事のように追跡している。「コトリバス」(コジキをとるバス)や、福祉マンションから福祉病院に利用者を送るタクシーを追跡する様子などはまさにヒヤヒヤしながら読んだものだ。

あの当時は、役所の窓口には刺青見せた大男が「はよ、保護出してやらんかい」と怒鳴りこみ、逮捕されるようなことも続出した。本当にやることが雑だった。もちろん今でもそのような業者はいる。しかし、Cのようにメディアで取り上げられるような、ある意味洗練された業者も増えた。噂だが、Cには次々と元役人が天下るという。何かあったら責任をとらされる代表者も次々と変わるという。噂がどこまで事実かわからんが、事実だったのは、あの小綺麗な白いビルの中では、かつてと変わらないエグい貧困ビジネスが続いていたということだ。

ちなみに知り合いがCのホームページを見たら、火災についての「お詫び」あるいは「ご報告」が全くなかったという。

被ばく労働者同様、単身者の釜のおっちゃんが亡くなっても、誰も抗議しないと考えているのだろうか。

尾﨑美代子(おざき みよこ)
新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを「西成青い空カンパ」として主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。
◎著者X(はなままさん)https://x.com/hanamama58

◎amazon https://www.amazon.co.jp/dp/4846315304/

60年代同志社ラジカリズムとは何だったのか? ──市民運動の狭間から

高橋幸子(市民運動家)

堀さん、吉田さんたちが尽力されてきた同志社大学学友倶楽部がこのたび松岡さんの裁量で再び起き上がる日にカンパイを重ねます。参加がかなわず残念ですが、自分にとっても力強い支えをいただく思いでいます。在宅参加の気分で松岡さんにお便りしますが、雑な走り書きです。お時間がなければ読み飛ばしてください。

私は1963年度生。60年安保と70年安保のハザマにあたる「谷間の世代」です。入学当初は、自主管理を勝ち取る「学館闘争」の最中、大詰めでした。新館に入って学友会は向かいのボックス、私はDSB(同志社学生放送局)の報道課に属していました。

今、目に焼き付くのはなんたってデモだ!! 昨今、観光ブームで祇園祭の四条河原町とか八坂さんの石段下がテレビに映るとチラチラあの風景、ジグザグデモの元気が蘇ります。ついでながら若い頃、何かで読んだ「古代都市は観光ブームと健康ブームで崩壊した」という幻の一文が思い浮かびます。最近アメリカ大統領が来日会談。カメラを向ける野次馬?の報道で、まず耳に聞こえたのは「日韓会談反対」の声。反対といえば、「産学共同」「エンタープライズ原潜寄港」「家族帝国主義」「市電・市営バスの値上げ」などに反対が続きました。ジグザグデモは(とうに承知の松岡さんに言うのもなんですが、(笑))、路上蛇行するヘビのうねりからスネーク・ダンスとも呼ばれたようで、歩く、走る、広がる、集結してつながるなど、いわば自由の象徴の一つ。問題意識はそれぞれに多種多様、同時に問題の根は一つ、という連帯を感じます。そしてあの四条河原町の交差点で、がっちりとスクラムを組んで前に突入する、激しいジグザグがありました。

学友会OBの集まりで挨拶する高橋幸子さん

卒業したあと、学生運動にはいろいろな方向があったことを知り、さまざまな活動をした人と追々知り合いました。ハンセン病回復者とともに「交流(むすび)の家」建設から始まった運動は、同じゼミの人も多く参加して、60年近く今も続いています。公教育の「君が代」強制に反対する裁判では、学生のころ釜ヶ崎に通って闘争した人、労働組合の活動家たちとも組みました。公害の浮上で「水俣」へ向かう友、「三里塚」の闘い(強制撤去の問題は今も続きます)、「狭山裁判」や「べ平連」に参加する人、暮らしを問う「婦人民主クラブ」や「ウーマン・リブ」の闘い、21世紀に入って特に潮目が変わった其地問題で沖縄に行って移住した友もいます。が、いずれも若い頃、根拠の一つは学生運動が確かな火種となり、燃えていると感じます(もちろん壮年期に突然迫った問題がふりかかり、当事者になった人が起ち上がる力強さは凄いと思いますが)。学生時代から、みかんの農薬問題に取り組んだ人がのちに起ち上げた「市民環境研究所」活動に私は今、属しています(ただいま参加がほぼできず心苦しいのですが)。思えば古代より!?日本神話やギリシャ神話にも出てくる人間の問題として、その根は一つ。とどのつまり私、自分への問いかけを思います。

1992年、自衛隊がカンボジアへ初の海外派遣に行くという大きな曲がり角を迎え、「自衛官人権ホットライン」という電話相談運動の呼びかけ人の一人になりました。自衛官を自衛隊というかたまりで見るのではなく、釣りが好きな人とか二人の子どもがいる、とか暮らしから同じ市民として見る、それが土壌の基本です。「企業戦士の方がもっときついのに、なぜ自衛官なんだ」と当時、からかうような抗議の電話も入りました。旧日本軍隊と今の自衛隊はどこが違って、どこが同じなのか、及ばぬながら考え合いました。

同時期もう一つ、情報公開運動を発足して、先細りながら35年近く、今も続いています。発足当時は「官官接待」など見た目も派手な不法公金。全国集会も盛り上がりましたが、いま問題は絶妙に隠れて、ますます埋もれたりして、「メディアを通じて成り立つ社会」の急速な発展、その誘導、向かう先を案じます。

そうだ、同志社学館ホールにジェーン・フォンダが見えた日、かぶりつきの席で見たというか、目の前で会いました。小柄で華奢な人、でもその迫力・魅力の残像は今も新鮮です。しかし当時、ベトナム戦争の現状はアメリカでも報道されながら、反戦の世論は盛り上がらず、世論とは何か?を考え続けてきました。

私は新聞学専攻です(今はメディア学科?)。「新聞学原稿」や「放送概論」、「社会思想史」や「社会統計(アンケート)論」などの授業があったかと思いますが、強く残るのは「世論・宣伝」です。世論には必ず虚像が入る。私たちは虚像の現実から免れない。国家が「反共」を作って「文明進歩」の旗の下に現実を屈折させ、虚像のモデルを作っていかに市民に押し付けてくるか。屈折を知れば、実態に近寄れるが、それも丸っぽい私たちの考え、一人一人の暮らし、生の声の実態ではない、という問いかけです。

百貨店の労働ストライキが1、2年前ニュースになり、「街の声」として「こんな暴力行為は過激なテロです。すぐ取り締まってほしい」といった(ストライキを知らない?)若い人の声が取り上げられ、驚きました。報道記者一人一人は現場で踏ん張る人もいると思いつつ、選択された「街の声」の奥向こう、その行方を考えます。このたびアメリカNYにマムダム市政が誕生しましたが、今後の世論、その行方も気になります。

「同時代の日本には“ピンとこない一方幕末期には“ピンとくる”ものを感じる」という若い友人から先日、新刊『列島哲学史』(野口良平著)が届きました。中国、インド、ヨーロッパ、米国という強大文明、その辺境にある日本列島で幕末期の世界像はたぶん最大級に揺らいだだろう。幕末の密教(優等生)と顕教(劣等生)が現在は逆転している例題も追跡されて、ただいまノロノロゆっくり読んでいるところですが、日本のメディアでは今、クマ出没の被害が大きなニュースになっています。その折々、同じゼミだった藤本敏夫さんの「自然王国」里山文化の重要性を訴え、壮大にして具体的な「里山運動」の提唱、構想が思い重なりました。

テレビで大谷選手などの米リーグを見れば、ふと、60年安保の首相の姿が思い浮かびます。集結した抗議デモに向かって「野球観戦に大勢が一体して集まっている。あの“声なき声”が安保に賛成している」といったような発言をしました。だから今も野球観戦に惑うのではなく、見るのは私の自由ですが、いま「自由ほど高くつく」時代を思います。旅行も与えられたパックで行くと便利で安い。自由は当時、高値にして買う時代です(家で観るテレビ観戦はひとまずタダ?いや「タダほど高いものはない」とも言いますが)。ともあれ岸首相の「声なき声」にピンと来て、60年安保から生まれたのが「声なき声の会」のデモでした。

65年を経て戦争もさらに文明化、言葉(政治用語)のすり替えも進歩しています。「平和」とは防衛(費)、「抑止力」を宣伝して武器を作る、売る、買う競争。武器を売り歩いた首相が「わが法治国家は~」を連発しました。数々の「戦争法」に取り囲まれる今を思います。(コロナまでですが)あの四条河原町コースをデモると、歩道の観光客(?)からカメラがパチパチ向けられ、デモが風物詩みた~い!! でも自分と同じ市民として誘ってみたら、デモの輪へ面白そうに若い人が二人三人寄って入り、ふと一瞬、現代版「声なき声の会」かと妄想がちらつきました。

先を歩いた人がどこでつまずいたか、どこで弾圧されたか。あるいはどんな虚像を見たか、どう「転向」したか。しないで立ったのか。前の時代は、次の時代がどう闘うか?によって位置づけられ、先人の転んだ地点が次の世代の出発点ともいいます。しかし私は転んだ覚えもないのに「いつのまにか骨折」。老いて圧迫骨折。イテテテ~と背中をさすりながらお便りしました。ご勘弁ください。

年の瀬へ“世界”を見据えたキックボクシング7つの興行概要!

堀田春樹

ジャパンキックボクシング協会は従来どおりWMOが主流の世界戦開催!
NJKFはWBCムエタイと併行してIBFムエタイも日本タイトル本格始動。
NJKF西日本ではS-1の世界と日本のタイトル開催。
全日本キックボクシング協会は10月20日、栗芝貴代表が世界プロムエタイ協会日本代表に就任。


KICK Insist.25 / 11月23日(日・祝)後楽園ホール17:15~
主催:VICTORY SPIRITS、ビクトリージム
認定:WMO、ジャパンキックボクシング協会

KICK Insist.25 睦雅と瀧澤博人の揃い踏み

睦雅と瀧澤博人の揃い踏み。それぞれの立場で挑む世界戦。
注目の新星はBANKIと西山天晴。どんなインパクトを残すか。

◆第12試合 WMO世界ライト級王座決定戦 5回戦
WMOインターナショナル・スーパーライト級チャンピオン.睦雅(=瀬戸睦雅/ビクトリー)
         vs
ペッダム・ペッティンディーアカデミー(タイ)

9月19日、ルンピニー・スタジアムで開催されたONE Friday Fightsに於いて、睦雅はラヤン・メッキ(フランス)に2度のノックダウンを奪い3-0の判定勝利。現在4連勝で好調を維持しての世界挑戦となる。ペッダムは過去、WBCムエタイ世界フェザー級、ルンピニー系バンタム級、タイ国(PAT)バンタム級の元・選手権者。

◆第11試合 WMO世界フェザー級王座決定戦 5回戦
WMOインターナショナル・フェザー級チャンピオン.瀧澤博人(ビクトリー)
vs
世界同級10位.チャイトーン・ウォー・ウラチャー(タイ)

昨年7月28日にWMO世界フェザー級王座決定戦に挑んだ瀧澤博人だが、ペットタイランドに2-1判定で敗れ王座奪取は成らず。落胆しつつ「もう一回やり直しですね。」とは語っていたが、地道に堪え、再びチャンスはやって来た。ここは絶対獲っておきたい、もう負けられない立ち位置だろう。

◆第10試合 58.5kg契約3回戦
ジャパンキック協会フェザー級チャンピオン.勇成(Formed)
        vs
ワタナー・ウォー・ウラチャー(元・True4Uスーパーバンタム級7位/タイ)

◆第9試合 52.5kg契約3回戦
ジャパンキック協会フライ級チャンピオン.西原茉生(治政館)
         vs
ローマ・ルークスワン(IMSAスーパーフライ級Champ/タイ)

◆第8試合 52.5kg契約3回戦
ジャパンキック協会フライ級1位.細田昇吾(ビクトリー)
         vs
ソッサイ・ウォー・ウラチャー(元・タイ国スラナリーstadiumライトフライ級Champ/タイ)

◆第7試合 66.7kg契約3回戦
ペップンミー・ビクトリージム(元・タイ国イサーン地方フライ級2位/タイ)
         vs
NKBウェルター級チャンピオン.CAZ JANJIRA(Team JANJIRA)

2月に王座初防衛戦で引退試合を迎えるカズ・ジャンジラがペップンミーと前哨戦。

◆第6試合 ライト級3回戦
ジャパンキック協会ライト級5位.林瑞紀(治政館)
        vs
乱牙(前・NKBライト級Champ/無所属)

◆第5試合 フェザー級3回戦
ジャパンキック協会フェザー級3位.石川智崇(KICKBOX)vs 同級5位.海士(ビクトリー)

◆第4試合 スーパーフェザー級3回戦
青木大好き(OZ)vs 松岡優太(チームタイガーホーク)

◆第3試合 フェザー級3回戦
BANKI(=竹森万輝/治政館)vs 渡部有偉(BOMスポーツジム八戸)

◆第2試合 バンタム級3回戦
西澤将太(ラジャサクレックムエタイ)vs 未定

◆第1試合 フェザー級3回戦
西山天晴(治政館)vs 石井隆浩(尚武会)

他、アマチュア1試合


DUEL.36 / 11月23日(日)GENスポーツパレス OPEN 17:00 / START 17:30
主催:VALLELYジム / 認定:NJKF

DUEL.36 愁斗と悠のチャンピオンロードへの戦い

DUELは若手の登竜門と中堅の活躍の場。その中でメインイベンター愁斗と悠はチャンピオンロードに向かう重要な戦いとなります。

◆第7試合 フライ級3回戦
NJKFフライ級4位.愁斗(Bombo Freely)vs 同級5位.悠(=吉仲悠/VALLELY)

◆第6試合 スーパーフェザー級3回戦
コンゲンチャイ・エスジム(タイ)
         vs
NJKFスーパーフェザー級6位細川裕人(VALLELY)

◆第5試合 フライ級3回戦
煌(KANALOA)vs 手塚瑠唯(VERTEX)

◆第4試合 ウェルター級3回戦
NJKFウェルター級4位.JUN DA LION(E.S.G)vs 梅沢遼太郎(白山道場)

他、アマチュア含む4試合。


NJKF CHALLENGER 11 / 11月30日(日)後楽園ホール17:15~
主催:オフィス超合金 / 認定:ニュージャパンキックボクシング連盟、IBFムエタイ日本

IBF日本タイトル初登場。ひとつの団体で絡み合っていくNJKF内の複雑なタイトル。

以下は10月27に行われた記者会見で発表されたカードとなります(試合順未定)。
トーナメント決勝(王座決定戦)は来年2月。

◆IBFムエタイ日本ウェルター級王座決定4名参加トーナメント 3回戦
高橋幸光(飯伏プロレス研究所)vs 井原浩之(ハーデスワークアウト) 

◆IBFムエタイ日本ウェルター級王座決定4名参加トーナメント 3回戦
NJKFウェルター級チャンピオン.亜維二(新興ムエタイ)vs 佐藤界聖(PCK連闘会)

小林亜維二は初防衛を果たし、今回の争奪戦に出場

◆IBFムエタイ日本ライト級王座決定戦 5回戦
NJKFスーパーライト級チャンピオン.吉田凜汰朗(VERTEX )
        vs
JKイノベーション・スーパーライト級チャンピオン.切詰大貴(武勇会)

前回興行前の記者会見にて、吉田凛汰朗の堂々たるスピーチ

◆女子フライ級超3回戦
S-1女子世界フライ級覇者.真美(Team ImmortaL)vs ジョン・アヨン(韓国)

◆64.0kg契約3回戦
NJKFスーパーライト級1位.健太(E.S.G)vs 同級3位.佐々木勝海(エス)
※健太はラストファイトを宣言。

◆NJKFバンタム級タイトルマッチ 5回戦
チャンピオン初防衛戦.嵐(キング)vs 山川敏弘(京都野口)

他、アンダーカード数試合


MuayThaiOpen.51 / 12月6日(土)墨田区体育館(ひがしんアリーナ)
アマチュア大会:11:00 / プロ興行: 開場16:30 開始17:00 
主催:センチャイジム

与那覇壱世は10月にWBCムエタイ日本王座奪取してからの初戦

ここにもルンピニージャパンとムエタイオープン国内タイトルは存在するが、今回は壱世がメインイベンターを務める(11月9日時点でラウンド数、契約ウェイト、試合順等未確定)。

◆スーパーバンタム級超(ラウンド未定)
WBCムエタイ日本スーパーバンタム級チャンピオン.壱・センチャイジム(=与那覇壱世)
            vs
ワイトップ・ソー・ガムジン(タイ)

◆バンタム級超3回戦
JKイノベーション・バンタム級チャンピオン.蒔・センチャイジム(=佐藤蒔音)
        vs
アイティポン・ポー・ジョー・ウォー(タイ)

◆フェザー級3回戦
夢叶(エムトーン)vs 稔之晟(マイウエイスピリッツ)

◆女子バンタム級3回戦(2分制)
真秀鷹虎(センチャイ)vs 優波(TFG EVOLVE)

他8試合


NKB爆発シリーズvol.6 / 12月13日(土)後楽園ホール17:15~
主催:日本キックボクシング連盟 / 認定:NKB実行委員会

日本キックボクシング連盟は世界戦が行われたことはありません。ネットワークが無いのも厳しい本音だが、その以下でも他団体タイトルマッチは行なわないのが渡邊信久代表の信念。

この日の注目カードは今後のNKBを背負う雄希vs 杉山海瑠の戦い。

雄希はテツジムの秘密兵器、勇志に続いてチャンピオンを目指す
杉山海瑠は杉山空の実弟。次なるメインイベンターへ期待が掛かる雄希との対戦

◆第11試合 65.5kg契約 5回戦
セーンダーオレック・スターライトジム(タイ)vs 大月慎也(Team arco iris)

◆第10試合 フェザー級3回戦
ホワッチャイ・スターライトジム(タイ)vs 安河内秀哉(RIKIX)

RIKIX小野寺力の愛弟子、安河内秀哉はムエタイに挑む

◆第9試合 バンタム級3回戦
NKBバンタム級2位.雄希(テツ)vs 杉山海瑠(HEAT)

◆第8試合 フェザー級3回戦
NKBフェザー級5位.半澤信也(Team arco iris)vs 堀井幸輝(ケーアクティブ)

◆第7試合 バンタム級3回戦
シャーク・ハタ(=秦文也/テツ)vs 磯貝雅則(STRUGGLE)

◆第6試合 ウェルター級3回戦
安田学登(クボ)vs ソムプラユン・ヒロキ(=緑川広樹/DANGER)

◆第5試合 フライ級3回戦
滑飛シオン(テツ)vs 緒方愁次(ケーアクティブ)

◆第4試合 63.0kg契約3回戦
菅野登生(テツ)vs 清水和也(アルン)

◆第3試合 フェザー級3回戦
鈴木ゲン(拳心館)vs 加藤宙(神武館)

◆第2試合 53.75kg契約3回戦
風間祐哉(WSR三ノ輪)vs 早川曜平(ケーアクティブ)

◆第1試合 62.0kg契約3回戦
大利一真(テツ)vs 藏田浩二(SRK)

他、アマチュア 問答無用「東西中四国対抗戦」2試合。


NJKF×S-1「WORLD ROAD」 / 12月14日(日)京都KBSホール(開場12:30 /開始13:00)
主催:京都野口ジム、R.Sジム / 認定:ニュージャパンキックボクシング連盟、S-1本部

NJKF west 京都はS-1で盛り上げる

NJKF西日本はS-1ロードで勝負。S-1はタイの名声あるソンチャイ・ラタナスワン氏が生み出したプロモーター主体のタイトルである。
庄司理玖斗が飛躍の第一歩となるか。新設タイトル争いをベテラン金子貴幸との勝負は見物。

◆第11試合 S-1世界ジュニアフェザー級王座決定戦 5回戦
NJKFスーパーバンタム級チャンピオン.繁那(R.S)
vs
シャーク·チャラムスックジム(タイ)

◆第10試合 S-1世界フライ級タイトルマッチ 5回戦
優心(前・NJKFフライ級Champ/京都野口)
vs
ウドンノーイ·ゲッソンリット(元・WPMF世界ミニフライ級2位/タイ)

◆第9試合 S-1ジャパン・フェザー級王座決定戦 5回戦
NJKFフェザー級2位.TAKAYUKI(=金子貴幸/K-CRONY)
vs
NJKFフェザー級1位.庄司理玖斗(拳之会)

◆第8試合 スーパーバンタム級3回戦
NJKFスーパーバンタム級5位.中島凛太郎(京都野口)vs 同級6位.中島大翔(GET OVER)

◆第7試合 63.0kg契約3回戦
NJKFライト級5位.田邊裕哉(京都野口)vs 平田康輔(平田道場)

◆第6試合 バンタム級3回戦
NJKFバンタム級5位.中島隆徳(GET OVER)vs 同級8位.柚子貴(京都野口)

◆第5試合 女子ミネルヴァ・アトム級(102LBS)王座決定戦 3回戦
1位.祥子JSK(治政館)vs 3位.ユリカ・グラップリングシュートボクサーズ(GSB名古屋)

◆第4試合 フライ級3回戦
NJKFフライ級8位.大久保貴宏(京都野口)vs 同級9位.庄司翔依斗 (拳之会)

◆第3試合 60.0kg契約3回戦
NJKFフェザー級8位.和斗(大和)vs 希祈(京都野口)

◆第2試合 女子ミネルヴァ49.0kg契約3回戦(2分制)
アトム級4位.RIANA(TOKEN KICKBOXING)vs 土井乙花(GSB多治見)

◆プロ第1試合 70.0kg契約3回戦
村木太樹(京都野口)vs MOTOKI(レジェンドドラゴン)

他、アマチュア5試合。


SAMURAI WARRIORS 4th / 12月28日(日)後楽園ホール17:30~
主催:全日本キックボクシング協会 / 認定:WPMTA

全日本キックボクシング協会は恒例の日韓対決

10月5日、鄭相鉉に判定勝利した瀬川琉。もう一回いい試合して、自分の言いたいこと、しっかりアピールしていきたいと語っていたが、今回思い切りアピール出来るか。

ベテランのオーシャン・ウジハラはその瀬川に敗れた鄭相鉉を迎え撃つ。
野竹兄弟がライバルという広翔の戦い方も注目。存在感で越えなければならない。

◆第12試合 60.0kg契約3回戦
全日本フェザー級チャンピオン.瀬川琉(稲城)vs 權賢佑(=クォン・ヒョンウ/韓国)

◆第11試合 ライト級3回戦 
オーシャン・ウジハラ(=氏原文男/無所属)vs 鄭相鉉(=チョン・サンヒョン/韓国)

◆第10試合 ライト級3回戦
全日本ライト級8位.山田旬(アウルスポーツ)vs ジョカミ・ナカジマ(中島道場)

◆第9試合 ライト級3回戦
野竹生太郎(ウルブズスクワッド)vs 柳權(=リュウ・グオン/韓国)

◆第8試合 スーパーバンタム級3回戦
全日本スーパーバンタム級10位.広翔(稲城)vs 前田翔太(ウィラサクレックムエタイ)

◆第7試合 66.0kg契約3回戦
KATSUYA NORASING FAMILY(Norasing Family)vs 蘆立亮太(YS’K YAMAGATA)

◆第6試合 ヘビー級3回戦
チャン(MONSTAR)vs ピクシー犬塚(府中ムエタイクラブ)

◆第5試合 59.0kg契約3回戦
中村健甚(稲城)vs 近藤祐一(デボルターレ)

◆第4試合 65.0kg契約3回戦
小玉倭夢(Norasing Family)vs 内田航太郎(TRIM)

◆第3試合 フライ級3回戦
横尾空(稲城)vs パク・スンミン(韓国)

◆第2試合 65.0kg契約3回戦
滝口遥輝(中島道場)vs 亀田蓮(亀田同志会)

◆第1試合 スーパーバンタム級3回戦
渡邉獅生(JTクラブ)vs 申大容(=シン・デヨン/韓国)

《取材戦記》

キックボクシングとムエタイには、生まれては消えていくもの含めて、過去どれだけ世界認定組織があっただろうか。期待したWPMFは衰退し、世界プロムエタイ協会(WPMTA)は以前から存在するが、大きな活動実績は無いらしい。今後の活動に注目だが、現時点ではプロボクシングのワールドエリアネットワークに乗ったWBCムエタイやIBFムエタイが主流になっていく可能性は大きい。

日本でもやたら増えるだけの国内タイトル。ニュージャパンキックボクシング連盟(NJKF)がIBFムエタイ日本タイトルにも乗り出したことで、WBCムエタイと共にNJKFが独占的に主戦場にしていこうという意図があるとしても、ファンや業界関係者は「もう日本(国内)タイトルは結構です。」という意見は多い。

今後行われる世界や日本タイトル戦も、世間からどれだけ注目が集まるか、それぞれがどれだけのネットワークを持ち、活性化しているかが権威の象徴となるだろう。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
昭和のキックボクシングから業界に潜入。フリーランス・カメラマンとして『スポーツライフ』、『ナイタイ』、『実話ナックルズ』などにキックレポートを寄稿展開。タイではムエタイジム生活も経験し、その縁からタイ仏門にも一時出家。最近のモットーは「悔いの無い完全燃焼の終活」

筆者がかつてのライバルを挑んだ擁立 広島県知事選挙 奮闘記〈1〉

さとうしゅういち

広島県知事選挙は2025年11月9日執行されました。
投票率は30.09%で、2005年に次ぐ過去ワースト2の投票率となりました。

【当選】横田美香 無新 54歳 推薦:自民・立民・国民・公明 前広島県副知事 552,614(83.4%)

猪原真弓 無新 64歳 推薦:共産 共産党広島県東部地区常任委員 75,468(11.4%)

大山 宏 無新 77歳 元電気機器メーカー社員 34,333(5.2%)

4期16年を務めた湯崎英彦知事がご勇退表明された後、事実上後継指名した前副知事の横田さんが与野党の応援を受けて当選。ただし、前回2021年に湯崎英彦知事が取られた707,371票からは15万票減らしました。

共産党が推薦した猪原さんは、共産党系候補としては2013年以来、久しぶりに10%を超えました。

筆者が政党の枠を超えた県民ファーストの「庶民革命ひろしま」として擁立した大山候補は、34333票。

地元最大手の「中国新聞」などによる政党中心の報道で、大山さんは無視される(日々の記事で陣営の主張も、写真も載せてもらえない)中で、5.2%という票を獲得しました。大山候補は2021年参院選再選挙で筆者とはライバル関係にありましたが、それを超えて筆者が大山さんを擁立した形になり、2021年参院選再選挙の票での両社の合計票を投票率が低下する中で上回る形になりました。

以下は、開票日に筆者が出したコメントです。

◆2025年広島県知事選挙を終えてのご報告と御礼

このたびの広島県知事選挙において、「庶民革命ひろしま」推薦の大山宏候補は34,333票(得票率5.2%)を獲得し、当選には至りませんでした。ご支援くださった皆様に、心より感謝申し上げます。

今回の選挙は、湯崎英彦知事が事実上後継指名した前副知事・横田美香氏が、与野党相乗りの支援を受けて当選するという構図でした。私たちは、既成政党の枠を超え、市民の手でつくる新しい県政を目指し、大山宏氏を擁立して挑みました。

もともと私は「庶民革命ひろしま」を立ち上げ、知事候補を公募していましたが難航。県選管の説明会で大山氏と再会し、2021年参院選再選挙でのライバル関係を超えて、共に挑戦する決意を固めました。

マスコミ報道が既成政党の候補に偏る中でも、私たちは前回の参院選再選挙での大山宏票13,363票+佐藤周一票20,848票=34,211票を122票上回る結果を得ました。これは、草の根の力で積み上げた一票一票の重みの証です。

大山候補のポスターと選挙カー
呉駅前で大山候補の応援演説をする筆者

特筆すべきは、呉市での躍進です。得票数は2,926票→5,412票と倍増に近く、得票率も7.2%と突出しました。呉日鐵跡地への防災省・防災科学アカデミー誘致という具体的な代案や、PFAS、産廃、カキの大量死といった地元課題への訴えが、現地の皆様に届いた結果だと実感しています。

また、大山候補の地元・東広島市でも2,907票、6.5%と、前回の合計票を上回る結果となりました。ポスター掲示やチラシ配布にご尽力くださった支援者の皆様の奮闘に、心から敬意を表します。「政策が良いから手伝いたい」と申し出てくださった有権者の声にも、希望を感じました。

一方で、選挙運動を担う人手の絶対的不足や、「自民か共産か」という二項対立に偏った報道には苦しめられました。多様な選択肢があることを示すには、まだまだ力が足りませんでした。

それでも、私たちは一歩を踏み出しました。草の根から、現場から、倫理を軸にした政治文化を広げていく挑戦は、これからも続きます。

最後に、今回の挑戦を支えてくださったすべての皆様に、心より御礼申し上げます。ありがとうございました。

※本コメントはネット上での発信に限らせていただきます。

今後、広島県知事選挙2025について取り上げる記事を出させていただきます。

▼さとうしゅういち(佐藤周一)
元県庁マン/介護福祉士/参院選再選挙立候補者。1975年、広島県福山市生まれ、東京育ち。東京大学経済学部卒業後、2000年広島県入庁。介護や福祉、男女共同参画などの行政を担当。2011年、あの河井案里さんと県議選で対決するために退職。現在は広島市内で介護福祉士として勤務。2021年、案里さんの当選無効に伴う再選挙に立候補、6人中3位(20848票)。広島市男女共同参画審議会委員(2011-13)、広島介護福祉労働組合役員(現職)、片目失明者友の会参与。
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◎広島瀬戸内新聞ニュース(社主:さとうしゅういち)https://hiroseto.exblog.jp/
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◎鹿砦社 http://www.rokusaisha.com/

11月16日(日)追悼集会「矢島祥子と時間を共有する集い」にお集りを!

尾﨑美代子

追悼集会「矢島祥子と時間を共有する集い」
11月16日(日)14時開演 
社会福祉法人「ピースクラブ」4階ホール
(大阪メトロ「大国町駅)5番出口南へ6分)
参加費 無料
冤罪「和歌山カレー事件」を題材にしたドキュメンタリー映画
「マミー」の二村真弘監督にお話して頂きます。

以下、釜ヶ崎のこの事件について、あまり知らない方に、当時何が起こったかを知って頂くために、事件前後に起こったことを時系列でまとめてみました。ご遺族、関係者に確認しつつやっております。訂正があった場合には速やかに訂正致します。ご一読を!! そして是非ご参集を!!

◆あの日、矢島祥子さんに何がおこったのか?

2009年11月16日(月)午前1時20分、大阪市西成区木津川河口の千本松渡船場で釣りをしていた男性2人が、女性の遺体を発見した。女性は14日早朝から同区内のK診療所から行方不明になっていた女医の矢島祥子さん(当時34歳)だった。遺体から発見されたカードケース付の財布に診察券、カード類、運転免許証などが入っており、祥子さんと判明した。

11月13日(金)祥子さんが最後の患者を診終えたのは19時45分頃、20時過ぎにはB看護師が、22時頃にk所長と職員Cさんが診療所を退出。Cさんによれば、祥子さんは奥の部屋でパソコンで作業をしていたという。

23時18分~37分の間、祥子さんが退出・入室していることが、祥子さん名義の警備会社ALSOKのセキュリティカードの履歴から判明している。

11月14日(土)4時15分頃、電子カルテがバックアップされ、同48分に退出が記録。しかし、最後にカードを使用した際、誤作動が生じ、警備会社が祥子さんに電話を架けていた。それまでも祥子さんは誤作動が生じると、自ら警備会社に「間違いでした」と連絡したり、警備会社からの電話にでていた。しかし、その日、祥子さんが電話にでることはなかった。そこで警備会社が緊急出動したが、すでに30分も経過していたため、診療所に問題なしと報告されている(天候は強い雨、しかし、鶴見橋商店街の監視カメラに祥子さんの姿は映っていなかった)。

同じ頃、祥子さんの携帯電話から翌日15日(日)会う約束だった友人Ⅹさんに予定をキャンセルするメールが送られていた。のちに、Xさんが遺族と診療所へ報告した祥子さんからのメールの着信時刻が違っていたため、遺族が正確な時刻を確認したいとⅩさんに申し出た。しかし、携帯が壊れたとの理由で確認は出来なかった。

14日10時過ぎ、出勤しない祥子さんを心配して、看護師Dさんが徒歩10分ほどの祥子さんの部屋を訪ねた。祥子さんは不在で、施錠されていなかったため中を覗くと、室内は整然としていた。なお、アパートに祥子さんの自転車もなかった。その後も職員らが何度か祥子さんの携帯に連絡をいれたものの繋がらず、午後13時10分過ぎには、K所長とD看護師が再び祥子さんの部屋を訪ねたが変わりはなかった。

翌15日(日)祥子さんと連絡が取れないままだったため、彼女の身に何かあったのではと危惧し、K所長らが西成署に相談。警察からは捜索願は親族から提出する必要があるといわれた。それを受けて、10時26分、K所長は初めて群馬の祥子さんの実家に電話をかけた。電話でK所長は、父・祥吉さんに「祥子さんが行方不明になりました。高崎警察署に行って捜索願を出してください」といった。電話の直後、これまでの経緯が書かれたメモがFAXで送られてきた。

【注】敏さん「父から送られてきたFAXを見たとき激昂しました。”なんでこんなもん作ってんだよ”そのFAXには祥子が行方不明になってから、その行方を知るために、誰とどういう行動をとったかが時系列と共に事細かに書いてあり、極めつけは祥子に最悪のことが起こった場合の対処まで書いてあったのです。これを制作する前、もしくは途中でも、何故家族に1本の電話もくれなかったのか?」と。

【注】父・祥吉さんが2010年1月11日、診療所でK所長と面談した。そのなかで、k所長から「2009年11月14日釜ヶ崎の一部に人たちに集まってもらい、対策を行った」ことが明かされた。しかし、翌日15日、K所長から届いたFAXに、その対策会議については書かれていなかった。

両親は地元の警察署に捜索願を提出。病院の事務局長を務めていた次男・洋(ひろし)さんを大阪へ向かわせた。

洋さんは西成に到着後、診療所でK所長と面談、その後ホテルで警察の連絡を待っていた。日が変わった16日深夜、洋さんは茅ケ崎に住む長男の敏さんに電話で報告を行った。

敏さんの携帯に再び洋さんからの連絡が入ったのは、それから1時間ほど経った時。その時の心境を敏さんはこう振り返る。「洋との電話を切り、少し横になっていたら電話が鳴った。いつでもとれるように着信音を最大にしていたんです。もう嫌な予感しかありませんでした」。

洋さんの電話は、祥子さんらしい遺体が見つかったことを知らせるものだった。群馬の両親には直接知らせる必要があるということで、敏さんが車で群馬へ向かう。知らせを聞いた両親は泣き崩れた。そのまま両親、敏さんは始発の新幹線で大阪に向かう。

警察からの知らせを受けた洋さんは西成署に向かい霊安室で祥子さんの遺体と対面。昼前には両親と敏さんが西成署に到着、霊安室で祥子さんと対面。その際、祥子さんの両首に赤黒い傷(頸部圧迫痕)があるのを見つけ、医師である母・晶子さんに告げた。祥子さんの遺体を司法解剖の結果をうけて西成署は、死因を「溺死」とし「過労による自殺の可能性が高い」と遺族に説明した。

【注】祥子さんが亡くなる直前、祥子さんからハガキを受け取った男性Mさんが、絵ハガキを西成警察に届けた。ハガキには「出会えたことを心から感謝しています。釜のおじさんたちのために元気で長生きしてください」とあった。男性(当時60歳)は当時釜ヶ崎の労働組合の組合員であり、K診療所の患者でもあった。なお群馬で執り行われた葬儀の席で、釜ヶ崎のNPO団体の女性(当時)から、「祥子さんには交際していた男性がいた」と告げられた。それがMさんだった。

【注】2018年ジャーナリスト寺澤有氏が「尾崎さん、矢島祥子さんの事件を取材しますよ」と来阪、2日目にMさんをアポなし取材し、難波屋横の喫茶店「ミチ」で2時間ほど話を聞いていた。その際、Mさんは、ハガキについて「警察に見せたが、それが遺書で自殺の根拠だと主張したわけではない。こういうハガキが届いていたと見せておかないと、あとで警察が知ったとき、『どうして隠していたんだ』と追及されるからだ」、自殺、他殺どちらだと思うかとの質問に「自殺だと確信しているが、とくに根拠はない」と述べていた。

遺体がみつかった16日の夜、釜ヶ崎「社会福祉法人聖フランシスコ会ふるさとの家」で「お別れの会」が開催された。「ふるさとの家」は敬虔なクリスチャンだった祥子さんがミサに通っていた場所で、彼女を知る多くの人が集まったが、祥子さんの死を「自死」という人が多く、それを遺族に告げる人までいた。

遺族は、祥子さんの自死説には到底納得いかなかった。クリスチャンの祥子さんは「死にたい」という患者らに常々「死んではだめ」と強く諭していたこともあるが、遺族がその目で祥子さんの首の傷を確認しているからだった。そのため遺族は祥子さんの母校・群馬大学医学部付属病院に再度司法解剖を依頼した。

祥子さんの死からひと月後の2009年12月11日、遺族は西成署の捜査担当者と面談。捜査員は、祥子さんの遺体には「頭血腫」(ずけっしゅ)と「頸部圧迫痕」(けいぶあっぱくこん)があり、2つの傷は、第一発見者の釣り人が遺体を引き上げる際、誤って遺体を落とし、できたものと説明した。「鑑定書」に納得いかない遺族は、解剖医に説明を聞きたいと申し出、捜査員と医師、遺族の3者での面談。医師からは「頭血腫は平らな鈍体よって出来たこと、生活反応があったこと(生きていた時にしかできない)、それによって脳震盪(のうしんとう)を起こしたと説明をうけた。警察が説明した、釣り人が遺体を引き上げるとき誤って落として出来たものは噓だったことがわかった。

【注】遺族によれば、現時点においても、誰が遺体を引き上げたかはわかっていないという。

遺族は、自分たちで不審点を調査し、「被疑者不詳」のまま、殺人と死体遺棄での疑いで西成署に告訴状を提出。祥子さんの死から3年目の2012年8月22日、告発状は受理され、再捜査が行われることとなった。

その後も闘いは続いております。ご支援をよろしくお願いいたします。

尾﨑美代子(おざき みよこ)
新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを「西成青い空カンパ」として主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。
◎著者X(はなままさん)https://x.com/hanamama58

◎amazon https://www.amazon.co.jp/dp/4846315304/

60年代同志社ラジカリズムとは何だったのか?──ニューヨークから 

矢谷暢一郎(アルフレッド州立大学〔ニューヨーク州立大学機構アルフレッド校〕心理学名誉教授)

◎このかん連続して記述してきた11・9同志社大学ホームカミングデーの集いにお二人の先輩からメッセージが寄せられましたので掲載いたします。一人目は元学友会委員長・矢谷暢一郎さんです。(松岡)

左から矢谷暢一郎さん、加藤登紀子さん、松岡鹿砦社代表

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第二期第一回目の「同志社大学学友会倶楽部ホーム・カミングデーの集い」に主催者の松岡利康さんから、この「集い」にアピールを頼まれてニューヨークからこのメールを送っている矢谷暢一郎です。50年以上も前の同志社の学生運動やサークル運動に活躍された人々も招いて、「60年代同志社ラジカリズムとは何だったのか?」をテーマに昔の話をしようじゃないか、という趣旨です。「昔の話をしよう」というのは、歌手の加藤登紀子さんの『時には昔の話を』の題名から来ていると推測しますが、彼女が歌い始めたのは1980年代の後半でした。40年近くも前の古い歌です。日本人で加藤登紀子さんを知らない人はそんなの多いとは思いませんが、歌を知っている人たちはもちろん今日の「集い」に刺激され歌を聴いてみたくなった、とりわけ若い人たちがこの古い歌を聴けば、80才を越した登紀子さんが、激動の1960年代ご自分を重ねた主人公が後に彼女の夫となるかつてのボーイフレンドと共に、貧しいながらもたくましく生き抜いてきた昔のことを思い出すような内容となっているのが判ります。

加藤登紀子さんの夫は2002年の夏7月31日肝臓ガンで倒れた藤本敏夫さんです。

藤本敏夫さんは1963年同志社大学文学部新聞学専攻に入学。新聞記者になる目標があって同志社の新聞学専攻に入ったのですが卒業していません。グーグって(グーグルして)みると中退となっています。彼は「鶴俊のゼミ」(鶴見俊輔の新聞学ゼミ)に入っていましたが、60年代後半京都府学生自治会連合(府学連)書記長としてアメリカのヴェトナム戦争に反対、日本政府の戦争加担政策に抗議する過激な学生運動を指導しました。新聞学卒業証書で身を立てたわけではありませんが、鶴見俊輔教授は藤本敏夫さんの思想、実績そして人物的価値を高く評価していました。

1922年生まれの鶴俊は日本の高校を卒業せず、中退です。16才の時リベラル派の衆議院議員・政治家だった明治18年生まれの父・鶴見祐輔の計らいでアメリカ留学、18歳の時アメリカの大学共通入学試験にパスして、ハーヴァード大学入学、1941年日本軍のアメリカ真珠湾攻撃で日米開戦、アメリカ在住の日本人は鶴見俊輔も含めてアメリカ政府・FBIによる逮捕・拘留となります。捕虜としてメリーランド州の拘置所に拘留されていたハーヴァード大学三回生の鶴俊は授業に出ることができず拘置所で後期の哲学の試験を受けますが不合格。しかし拘置所内で書き上げた卒業論文とそれまでの学業成績が良かったことで教授会の特例で卒業が認められた。多分政治家の父の計らいもあったでしょう、1942年6月に日米捕虜交換船グリップスホルム号に乗船、大西洋を南下、モザンピーク経由で8月に日本に帰国。第二次大戦中の軍属としての仕事やカリエスや結核にまつわる病気に苦しめられた私生活を説明するのは省きますが、戦後の進歩的な思想家たちや知識人たちの「転向」問題研究、丸山眞男、都留重人、鶴見和子、武田清子等7人と 思想の科学研究会創設や『思想の科学』創刊。1948年桑原武夫の推薦で京都大学の嘱託講師、1949年に京都大学人文科学研究所の助教授、1954年東京工業大学の助教授、60年日米安保条約の強行採決に抗議して東京都立大学人文学部の竹内好教授が辞職、竹内の大学人・知識人の心意気に賛同し、鶴俊も東京工業大学を辞職。翌年同志社大学文学部社会学科教授に就任。長くなった感じがしますが、「60年代同志社ラジカリズム」の前置き、イントロダクションを話し始めたところです。

「同志社のラジカリズム」は同志社のリベラリズムが長年存在していて、60年代後半の運動の中で生まれたものだというのが、わたしはの考えです。それ抜きにしては存在しようがありません。リベラリズムというのは、簡単に言えば、伝統的な権威や規範にとらわれず、進歩的で、個人の自由や権利を尊重する考えで、寛大で心が広く、他人の多様な意見や行動を受け入れ、偏見のない態度を示します。リベラルな同志社が臨済宗禅寺の総本山である相国寺と神道の皇居の御所の間に挟まれ位置していることに、日本海の隠岐の島の崎村から出てきた18歳の田舎者のわたしは、浄土真宗の家に生まれ育てられてきたこともあって驚嘆させられました。毎週水曜日のチャペル・アワーで、「真理はあなたがたに自由を得させるであろう」(ヨハネによる福音書)と神学教授から説教されると、大学入学前に言われてきた高等教育(higher education)の目的の「真理探究」が、キリスト教を土台にしイエス・キリストの言葉を通した神の教えが真理であると聴き、古い都の京都での新しい大学生活は新入生にとって誇り高くもあり、緊張に満ちたものでもありました。

わたしが1965年に同志社に入学した時、社会学科新聞学専攻には鶴俊がおり、神学部には笠原芳光や竹中正夫が講義をし、わたしの専攻文学部英文科には斎藤勇教授、アーモスト大学で修士課程を終えたばかりの「三山」-岩山太次郎、秋山健、北山- 三人がアメリカから帰国したばかりで英語だけで授業を行う若手教授の「国際主義的」な華やかさがあり、翌66年には日本にカミュ、サルトルの実存主義を紹介した矢内原伊作が助教授として就任。秋には20世紀最大の思想・哲学・文学の実存主義を展開したサルトル、ボーヴォアールが訪日し、同志社での二人の講演で矢内原伊作が通訳を担当した。法学部には憲法学の第一人者で護憲活動を進める田畑忍、同志社卒での後に社会党の委員長を務める土井たか子、政治学科には岡本清一、数え上げれば時間が足らないほどの錚々たる教授達が同志社のキャンパスを自由・自治・平等・平和・護憲・民主主義擁護のリベラルで革新的な文化・校風を形成し、その環境の中で我々学生は大学生活を繰り広げたわけです。勿論、これらのリベラルな同志社精神や教育方針が、「一国の良心」たる人物を要請する目的で、1864年(元治元年)国禁を破って鎖国の日本を脱出し、アメリカのアーモスト大学で日本人初の理学士の学位を収得し、100年前の明治8年、京都に同志社英学校を創設した新島襄の歴史が基礎に在ります。

ヴェトナム反戦運動に参加したのは、ちょっとした事件がきっかけでした。二回生の春、小、中、高校と運動会のフォークダンス以外手も握ったこともないのに、誘われて女子学生とダンスパーテイに行くことになりました。今出川河原町から四条まで、市内何処まで乗っても15円の市電に乗って 四条河原町まで向かいました。すると、市電の横を学生100人ばかりの反戦デモが通りました。後でわかるのですが、鶴俊と作家の小田実が始めた「ベトナムに平和を!市民連合(ベ平連)」だった、らしい。二列か三列のデモ隊を警備する京都府警の機動隊が、大人しく整列してヴェトナム戦争と日本政府の戦争加担に抗議するデモ隊の学生達にちょっかいだし、ちょっとしたイザコザを電車の中から見物していました。ところが、よく観ると学生たちに対してちょっかいだしているのは機動隊の方。「卑怯やないか」とカチンときて、文句言ってやろうと彼女を残して突然電車をおりました。機動隊をそばで見ると怖くなって、何も言えなくなり、引き返そうと電車を見ると彼女を積んだまま走り去っていた…。それから2、3週間して、明徳館前の反戦集会に行きヴェトナム反戦・日本政府戦争加担抗議デモに参加した。しばらくして、此春寮の藤本敏夫さんの部屋に呼ばれ、学友会・自治委員選挙に出るよう説得されました。アジテーションなどしたこともなかったが、英文科の上級生の横山たかこさんに付き添って選挙活動。当選して文学部自治委員。それまで執行部を握っていた共産党の学生組織、民主青年同盟(民青)の文学部自治委員数を抜き、「反民青」の新しい執行部となりました。60年安保闘争敗北で日本共産党や社会党から袂を分かった、後の三派全学連を指導する社学同、社青同、中核派などの事ですが、複雑でわたし自身にも解らないことばかりですから省きます。新しい執行部でわたしは文学部自治会書記長に選出されました。

ヴェトナム反戦運動がどんどん先鋭化する中、1967年10月8日、佐藤栄作首相のヴェトナム訪問を阻止する「羽田闘争」があり、そこで京都大学生の山﨑博昭さんは機動隊に撲殺され命を落とし、それは60年安保闘争の樺美智子さんの死と重なり、先鋭化した学生運動の参加者たちは党派ごとに赤ヘルメット、青ヘルメット、白ヘメットを被り、それは抵抗と防衛の象徴することになりますが、以来「平和と護憲」の先鋭化したラジカルな私達は「暴力学生」として否定的な取り扱いを受けるようになりました。因みに、誰が選んだのか知りませんが、同志社の学生運動は赤いヘルメットになっていました。

すぐ1968年1月アメリカ原子力空母エンタープライズが長崎県佐世保寄港反対闘争に継続されます。佐世保に行く前に、神戸のアメリカ領事館への抗議行動があり、わたしは生まれて初めて逮捕され、三日間の留置所拘留となりました。出所の時に迎えに来たのは同志社大学学生課の田淵正孝(故人)さん一人でしたが、京都の北白川のレストランで、「出所祝い」(?)と美味い飯を食わせてくれました。田淵さんはそのあと同志社大学の総務部長となりましたが、同志社のリベラリズムを象徴している一例のようにも思います。

1968年は10月21日の国際反戦運動に象徴されるように、ヨーロッパ、北アメリカ、日本を含むアジアで、ヴェトナム反戦運動が燃えさかりました。この年の春の新学期に行われた全学部自治会選挙では、わたしは学友会中央委員長に選ばれ、全学学生大会で、10月21日同志社は全学ストライキを決議し、ヴェトナム反戦・国際反戦運動に加わりました。ヴェトナム反戦・国際反戦運動の盛り上がりは、翌69年の東大・日大を頂点とする各地の学園闘争に引き継がれていきましたが、それは権力との対決に於けるダイナミックで過激な「ラジカリズム」として変化・展開されました。羽田、佐世保、新宿、各地の街頭で、キャンパス内で、機動隊との対立、解体が進み、学生運動の終焉へと向かいました。

同時に学生運動の急進性・ラジカリズムは「革命運動」とそれを指導する革命党の建設を巡る学生運動の指導者たちの論争、いわゆる党派・党内、三派セクトの学生運動の指導権争いともなったわけです。そして、60年安保後の日本共産党の指導部から離れた新左翼・三派全学連の指導部内の内ゲバを伴う党派闘争が起こったのは皆さんが承知している通りです。党派・党内闘争は、同志社の学生運動の「学友会委員長」としてどのように捉えるのか、今日のわたしには判らないとしか言いようがありません。

そもそも、70年安保闘争が三派の言う、「日本の労働者の社会主義・共産主義革命」の成熟があって方針を叫んでいるのか、わたしは疑問視していました。この革命論から、同志社のラジカリズムを語ることはわたしにはできません。

実は11年前に「学友会倶楽部のホームカミングデーの集い」がもたれました。主催者はわたしの前の1967年学友会中央委員長だった堀清明さんで、講演者に呼ばれたわたしはニューヨークから飛んできました。講演の後、質疑応答の際に、若い出席者から、「今日の学生運動が低調で活発でないのは,60年代終わりごろの内ゲバを伴ったあなた方世代の党派・党内闘争で、一般大衆を無視した行動ではなかったか?」というような発言でした。ズバリ的を射た質問だと直感したわたしは、沈黙したまま答えることができませんでした。沈み返った「良心館」のこの同じ会場で、「その通りです…」とぼそぼそ声を出すのが精一杯でした。「大学解体!」を叫んだ学園闘争末期のスローガンは、極めて「自己否定」的ではありましたが、哲学的な深さに対応したわたしが取り得た唯一の行動は、同志社を卒業しない、ことでした。

この辺のわたしの個人的な考え、行動は鹿砦社が出版してくれた『日本人の日本人によるアメリカ人のための心理学』(2014年)と『ヤタニ・ケース:アメリカに渡ったヴェトナム反戦活動家』(2023年)に載せてあります。

卒業証書を持たずに大きな青年が仕事を探すと、高度成長期の日本に在ってもなかなか大変な境遇でした。たまたま見つかって翌日出社すると、「先ほど、警察の人がいらっしゃって話を聞いたが、君を雇うわけにはいかんわ」と。運よく拾われて仕事に励んだら、学生時代に無理したことで結核と腎臓病に侵され、一年半の入院。退院したが、肉体労働は無理だと医者に言われ、受験生用にと部屋を借りて「私塾」を開くと、そこの家主が大阪府警の警察官だったり…。

日本で仕事をするのは無理だと、決心して日本脱出。1977年アメリカはユタ州の州立大学に「海外留学」しました。日本の大学は無理でも、まだ「解体されてないアメリカの大学に入るのは許される」と詭弁を弄してでした。わたし達の同志社創設者・新島襄の日本脱出ほど危険は無かったけれども。生まれ育てられた日本に31年間、アメリカで48年間暮らしてきました。同志社のリベラリズムに育てられたけれど、そのリベラリズムを纏ってアメリカに遣って来たわたしだったが、アメリカ政府から「undesirable alien」(アメリカに好ましくない異邦人)として今日でも「ブラックリスト」に載ったままです。とりわけ、トランプ大統領のアメリカではグリーンカード(Green Card:永住権を持つ労働許可証)持った外国人でも保証のない排外主義が2025年の今日吹き荒れています。

Ж下の写真は2013年のホームカミングデーで来日した際、講演がが終わった後、ライブで京都に来ていた加藤登紀子さんが祝ってくださった時のもの。左から矢谷、加藤、松岡。京都四条・キエフにて。

【筆者について】
1946年生まれ。島根県隠岐の島出身。1960年代後半、同志社大学在学中、同大学友会委員長、京都府学連委員長としてヴェトナム反戦運動を指揮。1年半の病気療養などのため同大中退。77年渡米、ユタ州立大学で学士号、オレゴン州立大学で修士号、ニューヨーク州立大学で博士号を取得。85年以降、ニューヨーク州立大学等で教鞭を執る。86年、オランダでの学会の帰途、ケネディ空港で突然逮捕、44日間拘留、「ブラック・リスト抹消訴訟」として米国を訴え、いわゆる「ヤタニ・ケース」として全米を人権・反差別の嵐に巻き込んだ。