◆マウスピースとは

ボクシングやキックボクシングの試合で、口に入れたり、外したりするものはマウスピースと言われ、パンチを食らった際、歯によって口の中が切れたり、歯が折れたり、脳への衝撃などを軽減する防具です。

アメフトやラグビーでもマウスピースが使われますが、歯を噛みしめることによる歯の磨り減りや抜けるなど咬合性外傷に繋がる恐れの軽減や予防の為に使用され、格闘技では顔面を殴られる直接的衝撃による負傷の軽減があり、よりマウスピースが重要視されてきました。

噛みしめると外そうにもなかなか外れない場合が多い。いずれも簡易型ではない、各々の歯型タイプが一般化したものでデザインも豊富(写真は梅沢武彦選手)

◆観戦で何気に目にするマウスピース

昔はマウスピースを嵌めなかったり、試合中に吐き出したりしても、そのまま続行されましたが、プロボクシングに於いては安全面が進化していく中で、世界機構を中心に「マウスピースは必ず嵌めなければならない」と明確にルール化されてきました。

それで試合中、マウスピースを落とした選手に対して、基本的には試合を中断してコーナーに戻り、セコンドにマウスピースを軽く洗わせて口に戻して再開という流れを組んでいます。故意に吐き出したりすると減点となるケースもあります。

日本ではなるべく試合を中断せず、レフェリーがマウスピースを拾って、その選手コーナーに投げて返し、セコンドに洗わせてレフェリーが受け取り、ブレイクのチャンスを伺ってマウスピースを嵌めるという流れを組んでいます。

キックボクシングに於いては、落とした時点ですぐ拾って選手の口に戻す行為を見ますが、なるべく中断しない手段ではあるものの、見た目にも衛生的に好ましくはありません。以前は単にコーナーへ投げ返すだけで、そのラウンド終了まではマウスピース無しで進行していました。

昭和のキックボクシングでは、ロッキー藤丸(西尾)選手がマウスピースを相手に投げつけてから殴りかかったシーンもあり、今ではボクシングでもキックボクシングでも、最低限でも注意はされるでしょう。

白いマウスピースは一般的、試合前の一コマ(写真は高橋亨汰選手)

◆選手の体験談

赤土公彦氏(西川/格闘群雄伝No.10)は、「最初にマウスピースの必要性を感じたのが、デビュー前に、ジムでの先輩とのマススパーリングで、ハイキックを貰って口の中を十数針縫う裂傷を負ってしまいました!」と衝撃を語ってくれました。

更に、「タイのルンピニースタジアムでの試合では劣勢だった為、最終第5ラウンドに何としても勝ちたいという思いで打ち合いに行くと、カウンターでヒジ打ちを貰って前歯が吹っ飛んでしまいました。最終ラウンドはマウスピースを付けずに向かったようで、マウスピースの必要性を強く感じた試合でした!」といった痛々しい想い出。

平成初期の某選手の話では、「第1ラウンドにノックダウンを喫した次のインターバルで、ダメージで意識がボーっとしたまま、セコンドがマウスピースを口に入れたくれたところが、上下逆に、更に反対向き(Uの字カーブしてる側を奥に)に入れてきて、そのまま第2ラウンドが始まり、何か違和感あるなと思った途端、集中力が落ちていて倒されてしまいました!」という傍から見れば笑えるエピソードや、
昭和時代にタイで試合した選手では、「マウスピースしなかったら、ヒジ打ち貰って下の歯(犬歯)が下唇を突き抜けて外に飛び出したまま試合続けていた!」といったエピソードもありました。

牙型模様は流行りのひとつ(写真は吏亜夢選手)

◆マウスピースの進化

昭和時代からキックボクシングでよく見た光景としては、アッパー食らって口からマウスピースが真上に吹っ飛んだり、息苦しさや相手への挑発で自ら吐き出し投げ落とすことがありました。それは殆んどが白く小さい簡易型マウスピースで、ジムで売っていたり、渋谷のセンタースポーツで買ったという選手も多かったでしょう。

1983年(昭和58年)に伊原信一氏がノックアウト勝利後、投げたマウスピースが撥ね返りながら私(堀田)の鞄にスッポリ入ったことがあり、それは歯型のマウスピースでした。その時代、向山鉄也選手(格闘群雄伝No.3)もジム練習時に歯型のマウスピースをしていたところも見たことがあり、外れ易い簡易型から、徐々に各々の歯型で作る、より安全確実なものが普及してきたものと考えられます。

平成初期のまた別の某選手はジム入門後、先輩に「マウスピース作って来い!」と言われて、指示通りのゴム製の、熱湯で軟らかくして、熱いのを我慢して口に入れ、噛んで型を作り上げるタイプで、あまりに熱いので「ちょっと冷ましてから噛みましたがダメでした!」と言うと、「冷ましたらダメだろ!」と怒られる苦労が付き纏うも、安価で作れる中では一般的なタイプでした。

値段は昔ながらの簡易型タイプが1000円以下の安価なものから、歯型を作るタイプは種類に寄り、ゴム製、シリコン製などもうちょっと高めの2000円以上。

歯科技工士さん作成、特殊技巧型

これより高級タイプは、歯科技工士さんに作って貰う手法で、値段は高いが(1万円以上)、造りがしっかりハマり、食いしばりや激しい衝撃にもズレ難く、口の中も切れない高い保護力があります。

最近は、パンチ食らってマウスピースが吹っ飛ぶシーンが少なくなり、無駄な打ち合いが少なくなったテクニシャンの増加と、ガッチリ歯型に合うマウスピースを作る普及があるでしょう。その為、インターバルでセコンドが外そうにもなかなか外れない光景もよく見られます。選手の口元を見ても色付きや牙型模様などハイカラなデザインも目立つようになりました。

マウスピースは、使うと汚れや臭いが発生します。歯ブラシで洗うことと、歯磨き粉使用は配合されている研磨剤がマウスピースの表面を傷つけ、細菌が入り易くなってしまうので、この辺は部分入れ歯洗浄法と同じく、ポリデントなどを使うのもいいのかもしれません(使用上の注意は要確認)。

リングコスチュームやトランクスと違い、目立つものではありませんが、こういった装備品にも進化が伺える近年のキックボクシングです。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』8月号

◆第一次全日本キック時代

少白竜(=田中正一/元・全日本バンタム級1位/1962年3月9日、神奈川県平塚市出身)は、戦績を37戦18勝(18KO)17敗2分とする、5回戦ではラストラウンド終了のゴングを聞いたことが無かった。アグレッシブに攻めるがスタミナ切れで負けるパターンは多く、勝っても負けても早い回のKO決着必至の男だった。

再デビュー戦で水越文雄と対戦。旧・全日本キック経験者同士(1989年9月24日)

少白竜というリングネームはデビュー戦前の予定表を見て「これ誰だろう?」と思ったら自分だったという少白竜。当時のジムのトレーナーが付けたもので、合気道の創始者、植芝盛平師範から由来するものという。

現役を引退して数年後に再起する選手は何人も存在するが、少白竜は昭和50年代の全日本キックボクシング協会と平成の全日本キックボクシング連盟で戦い、その中間を跨いだ選手である。

キックボクシングを始める切っ掛けは高校一年の時、ブルース・リーや空手バカ一代を見た影響で格闘技に興味を持ち、少年マガジンの「紅のチャレンジャー」という漫画でキックボクシングに憧れ、伊勢原市にあった萩原ジムに入門。

1978年(昭和53年)2月10日、ライセンス制度も確立しない時代で、16歳になる1ヶ月前のデビューだった。1年半で5連続ノックアウト勝利を含め10戦程すると、すでに注目を集め、全日本フェザー級3位にランクされていた。

ランカーらは殺伐とした時代に合ったパンチパーマや強面が多かった。少白竜は内向的ながら、強面猛者達に初回から猛攻をかけ、とても内向的とは思えないという周囲の評判だった。

そんな強面の中では、高樫辰征(みなみ)に1ラウンドKO負け。小池忍(渡辺)には1ラウンドに2度ノックダウンを奪いながら、転んだところを蹴られて負傷TKO負け。甲斐栄二(仙台青葉)とはライト級で2ラウンドにパンチ強打で倒されるKO負け。

1981年元日には酒寄晃(渡辺)の持つ全日本フェザー級王座に初挑戦。さすがに50戦を超える獰猛なゴリラみたいなベテランの強打に屈した。

「酒寄さんはとにかく強かった。パンチ避けられたと思ったら、素早く違うとことから蹴られ重いパンチでわずか2分あまりで倒されました!」というが、この時点でまだ18歳。この先が有望視されるのは当然だった。

少白竜は後列左から2番目。赤土公彦を倒したことで年間最優秀殊勲賞獲得(1992年1月25日)

[写真左]赤土公彦と2度目の対戦。少白竜はやっぱりラッシュも同じ手は食わない赤土(1992年1月25日)/[写真右]交流戦で、時代の流れを感じさせる室戸みさき戦(1992年3月28日)

成長著しい東海太郎(=川野辺顕啓)のセコンドに付く少白竜(1992年11月21日)

◆目指す方向の違いとブランク

しかし、この年の竜馬暁(我孫子)戦でKO負けした際、胸にパンチ貰ってから咳が止まらず試合後入院。思わぬ肺結核に罹っていた為、長期休養を余儀なくされた。幸い安静にするだけで短期で完治したが、体重はかなり落ち込み、パワー不足で引退を決意。しかし再起が不可能ではなく、当時の全日本キックボクシング協会が低迷を脱する計画でマーシャルアーツ(全米プロ空手)化してしまい、方向性が変わったことでモチベーション低下したことが一番の要因だった。

たまたま引退前にはそのマーシャルアーツルール試合は2度経験していた。韓国選手欠場による代打出場での翼五郎(正武館)戦は、1ラウンド2分制の6回戦。ヒジ打ちヒザ蹴り禁止で、腰から上に8本以上蹴らないと段階的に減点で、パンタロン風ロングパンツを穿くシステム。ルールに関係なく乱打戦になると思われたとおり、パンチでノックダウン取って取られての判定、ルールが影響したが、少白竜にとって珍しく引分けた試合だった。

韓国に遠征した試合では、行ってみればWKA東洋フェザー級王座決定戦。李子炯に、これこそ慣れぬルールに阻まれKO負け。目指したキックボクシングを戦えぬ引退後は業界と疎遠になり、トラック運転手で一般社会に溶け込む生活を7年過ごしていた。

[写真左]新開実と対峙。中央のレフェリーは山中敦雄氏(1993年1月17日)/[写真右]一度倒している新開実には倒されてラストファイトとなった少白竜(1993年1月17日)

最後の試合となった新開実戦へのリングイン(1993年1月17日)

◆第二次全日本キック時代

1989年(平成元年)1月、萩原ジムを引き継いでいた東京町田金子ジムから「今度ウチの選手の指導に来てよ!」と金子修会長から誘われ、久々にキックボクシングの匂いに誘われジムを訪れた少白竜は、地元近くの伊勢原市に谷山ジムがあることを聞き、後に谷山ジムに素人のフリしてさりげなく見学に訪れた。

それでも何となく格闘技経験者のオーラは分かるもの。谷山歳於会長に「昔、何か格闘技やってたの?」と聞かれたことで昔話が弾み、家が近いこともあり早速コーチを頼まれてしまった。

だが、その3ヶ月後の7月には、後楽園ホールのリングに上がっていた。練習生より動きが良く、スパーリングでも3回戦選手に負けなかったことから谷山会長に「一回でいいから試合に出てくれないか!」と言われて「一回だけですよ!」と約束して、以前よりウェイトは落ちていたが、無駄なぜい肉の無いバンタム級での再起となった。

その聖竜(武州信長)戦では打ち合いに挑む姿は以前と変わらずも2ラウンドKO負け。すると悔しさから「もう一丁!」と申し出て2ヶ月後、水越文雄(東京町田金子)と対戦。これもKO負けながら勘は戻りつつあった。

翌年1月、元・チャンピオンの亀山二郎(正心館)をパンチとヒジ打ちで初回に豪快KO勝利。1990年7月、チューテン・シッサハパン(タイ)にはヒジ打ちで倒される敗戦も動きは全盛期に戻っていた頃だった。

1991年4月には世代も代わった若い新開実(岩本)を1ラウンドKO勝利。同年9月には全日本フライ級チャンピオンの赤土公彦(ニシカワ)とノンタイトルで対戦。長期王座に君臨する赤土公彦と戦えることに光栄に感じ、これをラストファイトと決めての一戦だった。だが開始からアッパーを強烈にヒットさせて猛ラッシュ。スリーノックダウンを奪って初回KO勝ちのベストファイトと言える内容。これで完全燃焼と思っていたところが、この結果で周囲の期待も高まると次はタイトルマッチを組まれてしまい、辞めるにも辞められなくなってしまった。

翌1992年1月、再び赤土公彦と空位の全日本バンタム級王座決定戦を争った。ハードな本業の疲れから胃潰瘍に罹り練習量も減っていたが、また早いラウンドで倒そうという猛攻は赤土に読まれ、カウンターを食ってKO負け。酒寄晃戦以来の全日本王座挑戦はまたも1ラウンドで逃した。

ラストファイトは1993年1月。一度倒している新開実(岩本)に初回KO負け。谷山ジムの看板選手として現役継続して来たが、後輩の東海太郎が育ってきたこの時期、ようやくリングを去る選択肢を選び、正式に引退となった。

◆リングが呼んでいる

引退後はレフェリーの大ベテラン、サミー中村氏に「次の試合いつだ?」と聞かれ、「やっと引退しました!」と応えると「じゃあレフェリーやってよ!」と誘われ、リングが俺を呼んでいるといったような因果に身を任せ、全日本キックボクシング連盟でレフェリーとしてデビュー。

画像の主役はレフェリー。身のこなしは抜群の少白竜の裁き(2019年11月9日)

後には団体が細分化されると交流戦が増え、昔から所属団体に偏る裁定が起こりがちだった為、2006年に山中敦雄レフェリーを中心にJKBレフェリー協会を発足した。確立したJBCには程遠いが、公平忠実な外部組織として要請があれば各団体へ派遣され、審判団として活動している。

少白竜はノックアウト必至の激闘を繰り広げた時代のトレーニングを今も欠かさない。

「ジムでもミット蹴りだけじゃつまらないんで、まだまだマススパーリングとかやってます。キックは飽きないんですよ。楽しくて!」と語る。

「新空手やオヤジファイトに出場しませんか?」という問いには「もう試合はやりませんよ、痛いの嫌いですから!」と笑うが、戦う本能は現役のように若いまま。心の中の生涯現役を貫く元・選手はここにも居たようだ。

現在はベテランレフェリーの高齢化に対し、自ら好んで批判を受け易いレフェリーを希望する者がいないのが現状。レフェリーを志す信念を持った若者を発掘し育て上げるまで、まだまだリングに立ち続けなければならない少白竜氏である。

裁く側となって中央に立つ少白竜(2019年12月11日)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』8月号

YETI達朗は4月11日に新日本キックボクシング協会興行で、リカルド・ブラボ(伊原)に1ラウンドTKO負けして以来の試合は、またもTKO負けとなり3連敗。険しい復活の道程が続く。

S-1レディースジャパン・バンタム級チャンピオン.SAHOと対戦予定だったルスター・シッチョー(タイ)が、新型コロナウイルス陽性者の濃厚接触者と判断され活動が制限された為、来日不可能となり、当初予定のS-1世界戦は中止(6月7日発表)。

SAHOは大田拓真と一航の兄弟とエキシビジョンマッチ(1ラウンドずつ計2ラウンド)を披露。

女子S-1ジャパン・スーパーフライ級トーナメントのもう一つの準決勝は、9月19日(日)に梅尾メイ(B9)vs KOKOZ(LEGEND)が対戦。年内に4人トーナメントの決勝戦となります。

珍しい男女のチャンピオン同志のエキシビションマッチ、SAHOと大田拓真

◎NJKF 2021 2nd / 6月27日(日)後楽園ホール17:30~20:33
主催:ニュージャパンキックボクシング連盟(NJKF) / 認定:NJKF

◆第7試合 70.0㎏契約3回戦

YETI達朗(キング/69.95kg)
     VS
チャンスック・バーテックスジム(23歳/タイ/70.0kg) 
勝者 チャンスック / TKO 1R 2:23 / ヒジ打ちによる鼻骨骨折
主審:宮本和俊

YETI達朗は第4代WBCムエタイ日本スーパーウェルター級チャンピオン(2018.2.25獲得~2019.2.24陥落/防衛1回)。チャンスックは元・タイラットTVライト級チャンピオン。

チャンスックの右ミドルキックを受けるYETI達朗

初回、両者蹴りの探り合いから組み合う展開に移った後、チャンスックが左ヒジ打ちを振るってきた。それまでの攻防で相手の技量が解る曲者テクニシャンと言われる実力を見せたチャンスック。すぐにYETI達朗の鼻が“くの字” に曲がり、鼻血が勢いよく吹き出す。その鼻の脇も切れた上、レフェリーはドクターの勧告を受入れ試合をストップ。

右ミドルキックから1秒程でチャンスックの左ヒジ打ちがYETI達朗の顔面ヒット

◆第6試合 NJKFライト級タイトルマッチ 5回戦

チャンピオン.鈴木翔也(2018.6.24獲得/OGUNI/61.0kg)
     VS               
挑戦者3位.吉田凜汰朗(VERTEX/61.2kg)
勝者:鈴木翔也 / 判定2-0
主審:少白竜
副審:多賀谷48-47. 竹村48-48. 宮本48-47

タイミングで吉田凛太朗の右ストレートがヒット、鈴木翔也はノックダウン

鈴木翔也がやや上回る蹴りとパンチの繋ぎ技で攻勢を続けながら、第4ラウンドに吉田の右ストレートで軽いノックダウンを喫してしまうもダメージはほぼ無く、第3ラウンドまでの公開採点がジャッジ2名が2点差、1名が1点差で鈴木優勢の採点。

これで吉田が有利となった訳ではなく、第5ラウンドは両者が懸命の打ち合い勝負に出て、鈴木が攻勢をかけたわずかな僅差で勝利を拾った形となった。鈴木翔也は引分け初防衛に続く、辛くも2度目の防衛。

打ち合いとなっても鈴木翔也は持ち前のしぶとさで前進

王座戴冠してのマイクアピールは格別、涙を浮かべての語りだった日下滉大

◆第5試合 NJKFスーパーバンタム級タイトルマッチ 5回戦

チャンピオン.久保田雄太(2019.6.2獲得/新興ムエタイ/55.65→55.25kg)
     VS
挑戦者1位.日下滉大(OGUNI/55.3kg)
勝者:日下滉大 / 判定0-3
主審:中山宏美
副審:多賀谷47-50. 少白竜46-50. 宮本46-50

日下滉大が第8代チャンピオン。3年前に対戦時は日下滉大が判定勝利。今回も初回の様子見からパンチとローキック連係から日下がリズムを作っていく中、蹴りを受ける久保田は態勢を崩しバランスが悪い。

日下は勢い付くと飛び蹴りも見せ、後半はヒザ蹴りも加えて追い打ちをかけ、攻勢を保った日下が大差判定勝利で念願の王座獲得となった。

「新人時代は連勝し、王座は近いと思ったけど簡単には獲れないものだった。」と語った日下滉大。そんな反省を経た下積み努力を重ねての王座戴冠となった。バンタム級では3度の挑戦は実らず、スーパーバンタム級でようやく奪取となった。

まだ団体タイトルに過ぎない段階で、国内だけでもまだ上位があるチャンピオンの座。有名なビッグイベント興行に呼ばれるには、これからがより大変になる。

日下滉大が勢いづいて攻撃力が増していく中のハイキック

終盤は飛びヒザ蹴りも繰り出す日下滉大

◆第4試合 NJKFスーパーウェルター級暫定王座決定戦 5回戦

3位.Vic.YOSHI(OGUNI/69.65kg)vs 4位.佐野克海(拳之会/69.35kg) 
勝者:Vic.YOSHI / TKO 4R 1:26
主審:竹村光一

序盤は的確さの無い攻防からVic.YOSHIがやや攻勢に傾き、次第に佐野のスタミナ切れが目立っていく。第4ラウンドにボディーへヒザ蹴りから顔面にヒザ蹴りが入ると、レフェリーがスタンディングダウンをとり、カウント中のレフェリーストップとなった。

正規チャンピオンの匡志YAMATO (大和)が7月11日、名古屋での大和ジム興行で、上位王座のWBCムエタイ日本王座獲得すれば、Vic.YOSHIがNJKFの正規王座に昇格予定。匡志が獲得成らなければ、後にNJKF王座統一戦、正規チャンピオン匡志vs 暫定チャンピオン.Vic戦が行われる。

暫定ながら王座戴冠したVicYOSHI、佐野克海を倒す

◆第3試合 女子キック46.0kg契約3回戦(2分制)

ミネルヴァ・ピン級チャンピオン.Ayaka(健心塾/45.55kg)
     VS
同級3位.奥脇奈々(エイワ/45.75kg) 
勝者:Ayaka / 判定3-0
主審:中山宏美
副審:多賀谷30-27. 竹村30-27. 少白竜30-27

◆第2試合 女子S-1ジャパン・スーパーフライ級トーナメント準決勝3回戦(2分制)

ミネルヴァ・スーパーフライ級1位IMARI(LEGEND/51.7kg)
     VS
同級2位.ルイ(クラミツ/52.05kg)
勝者:ルイ / 判定0-3
主審:宮本和俊
副審:中山29-30. 竹村29-30. 少白竜28-30

◆第1試合 フライ級3回戦

嵐(キング/50.6kg)vs 悠(GRABS/50.7kg)
勝者:嵐 / 判定3-0 (30-27. 30-28. 30-27)

《取材戦記》

YETI達朗は、「まだ戦える気持ちはありました」と言うも、レフェリーストップ(ドクター勧告による)となっては覆ることは無く、仕方無いところだった。昔はYETI達朗の師匠、キングジム向山鉄也会長が、鼻が“くの字”に曲がっても戦い続けたが、レフェリーが止めない時代でもあった。先月は額の陥没した試合もあり、脳震盪や裂傷だけではない早めのストップは、難しい見極めでもあります。

YETI達朗にTKO勝利したチャンスックは、元・タイラットTVライト級チャンピオンの肩書はあるも、ムエタイ二大殿堂から比べた下位組織のチャンピオンには、とてつもなく強者も居れば、箔付けに過ぎない三流以下も居て、見てみなければ実力が判らない選手が多いが、チャンスックはその技量を発揮し、存在感を示す。

国崇(拳之会/41歳)は4月24日(土)岡山での拳之会興行で、翔平(SHINE 沖縄)をヒジ打ちで下す勝利で100戦目を達成。戦績は100戦56勝(37KO)41敗3分。
昭和の時代は100戦超えは幾らか居ましたが、平成以降で100戦達成はおそらく国崇が最初でしょう。昭和の過密なスケジュールで怪我も完治しないまま5回戦を戦った藤原敏男さんらの時代とは環境が違うが、長く戦い続ける継続力は凄いものです。

暫定王座が幾つか誕生している現在。コロナウイルス蔓延の影響で、当初6月20日に名古屋で予定された大和ジム50周年記念興行は7月11日に延期され、WBCムエタイ日本スーパーウェルター級タイトルマッチがズレ込んだ為、暫定王座制定と二つのタイトルマッチ予定が絡み合っています。

次回興行は9月19日(日)に後楽園ホールに於いて「NJKF 2021.3rd」が行われます。ここでのタイトルマッチ予定はまだ確定してしていませんが、暫定王座が早く消えて欲しいところです。

100戦達成表彰額を持った国崇(=くにたか/藤原国崇)、表彰後役員に囲まれて撮影

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

ジワジワと後半攻め優った北川ハチマキ和裕。勝者コールの瞬間は諸々の想いが脳裏を過ぎったか、その場で泣き崩れた。

応援団に見守られ、ラストファイトのリングに向かう北川ハチマキ和裕

15年戦えた感謝を語りだすと多くの想いが過ぎり、涙が止まらなくなった北川

北川ハチマキ和裕は、昨年6月の日本キックボクシング連盟興行で引退試合を予定していたが、新型コロナウイルスの影響により、この日まで延期されていた。

カーフキックを受けた蛇鬼将矢は左脚にダメージを負って控室から車椅子で車に移動し病院へ向かった。

◎NKB 2021 必勝シリーズ 4th /
6月19日(土)後楽園ホール17:30~20:18
主催:日本キックボクシング連盟 / 認定:NKB実行委員会

◆第9試合 メインイベント 67.0kg契約 5回戦

NKBウェルター級チャンピオン.蛇鬼将矢(テツ/1989.5.31奈良県出身/66.75kg)
     VS
北川”ハチマキ”和裕(PHOENIX/1986.6.19埼玉県出身/66.8kg)
勝者:北川ハチマキ和裕 / 判定0-3
主審:前田仁
副審:仲47-50. 川上47-49. 鈴木46-50

北川”ハチマキ”和裕はREBELS-MUAYTHAIスーパーライト級、ライト級でどちらも初代の二階級制覇した元チャンピオン。

第1ラウンド、蛇鬼はパンチ主体に前に出る。北川が距離を取り、蹴り合っても攻防に差は無いが、北川の右のカーフキックが幾らかヒット。

第3ラウンドから北川のペースがジワジワ上がり、第4ラウンド以降は蛇鬼がパンチで北川を追う流れも接近すると北川が組み合ってペースをつかみ、ヒザ蹴りを繰り出す。カーフキックも続けるが、自身の脚も痛かった様子も主導権を完全支配した形で最終ラウンドを終え判定勝利。

北川ハチマキ和裕のカーフキックが度々ヒット、蛇鬼将矢はダメージが深かった

[左]ラストラウンドは北川ハチマキ和裕のペース、得意のヒザ蹴りで攻める [右]試合を終え、蛇鬼将矢から北川ハチマキ和裕へ労いの花束が贈られた

この5年間は体調面の問題から休養期間もあったが、2016年6月から全く勝てず7連敗。今回の試合前には、正直やりたくない、逃げたいと思ったという。

「でももう一回勝つところを見せたい、今まで一回も勝つところを見せられなかった人にも見せたいと思って戦った。今日は勝つところを見せられて本当に良かったです。」と公式戦最後の試合を終え、感謝の諸々の想いを涙を流しながら語った北川ハチマキ和裕。最後は引退テンカウントゴングが打ち鳴らされて、ここまで支えてくれたジムメイトと共に写真に収まり、公式戦39戦17勝(3KO)18敗4分の戦績を残し、リングを下りた。

かつて巻いたREBELSのチャンピオンベルト(現在封印)が山口元気代表より贈呈

◆第8試合 53.25kg契約3回戦

老沼隆斗(STRUGGLE/1998.8.4東京都出身/53.0kg)
     VS
NKBバンタム級4位.海老原竜二(神武館/1991.3.6埼玉県出身/53.1kg)
勝者:老沼隆斗 / 判定2-0
主審:佐藤友章
副審:鈴木29-29. 川上30-29. 前田30-28

老沼隆斗は元・REBELS-MUAYTHAIスーパーフライ級チャンピオン。
ゆっくり余裕を持ったアクションから鋭く前蹴り、後ろ蹴りなど多彩に蹴るテクニックで海老原のタイミングを狂わせる。海老原は押されながらも正攻法な蹴りパンチで応戦も、老沼のテクニックにポイントが流れ、僅差で老沼が判定勝利。

海老原に蹴り脚を取られても、回転して器用に後ろ蹴りを見せた老沼隆斗

多彩な動きの老沼隆斗に海老原竜二は正攻法のローキックをヒット

ちさとkissMeに、野村怜央の右ヒジ打ちがヒット

◆第7試合 62.75kg契約3回戦

NKBライト級3位.野村怜央(TEAM KOK/1990.3.27東京都出身/62.1kg)
    VS
ちさとkiss Me!(安曇野キックの会/1983.1.8長野県出身/62.7kg)
勝者:野村怜央 / 判定3-0
主審:仲俊光
副審:前田30-28. 川上29-28. 佐藤30-28

野村玲央が蹴りとパンチの的確差で優る展開。ちさとは押されながらも変則気味の攻めで、野村に勢い付かせない戦法で踏ん張り、振り分け難い採点はジャッジ三者一致しないラウンドはあるが、順当に野村怜央が判定勝利。

◆第6試合 フェザー級3回戦

鎌田政興(ケーアクティブ/56.85kg)vs 半澤信也(トイカツ/56.9kg)
勝者:半澤信也 / TKO 2R 0:15
主審:鈴木義和

初回の静かな展開から、第2ラウンド早々に半澤信也の軽く飛んでの左ヒザ蹴り一発で鎌田政興の顎にヒットさせ、あっさりノックダウン。ダメージは深そうですぐにレフェリーがストップした。すぐには立ち上がれなかった鎌田だったが、大きなダメージは無く、暫くして立ち上がって挨拶してリングを下りた。

半澤信也が軽く飛んで左ヒザが鎌田政興の顎にあっさりヒットし、あっけない幕切れ

◆第5試合 NKBバンタム級王座決定トーナメント予選3回戦

志門(テツ/53.3kg)vs 龍太郎(真門/53.25kg)
勝者:龍太郎 / 判定0-2
主審:川上伸
副審:佐藤29-30. 仲29-30. 前田30-30

龍太郎に比べ長身の志門がパンチと蹴りの距離感で押し気味の展開ながら、龍太郎はアグレッシブに手数を出し、わずかに的確差が優った僅差判定勝利となった。

◆第4試合 59.0kg契約3回戦

山本太一(ケーアクティブ/58.95kg)vs ガイヤーン・MFC(MFC/56.9kg)
勝者:山本太一 / 判定3-0
主審:鈴木義和
副審:佐藤30-29. 前田30-29. 川上30-28

◆第3試合 54.5kg契約3回戦

森井翼(テツ/54.15kg)vs 湯本和真(トイカツ/54.1kg)
勝者:森井翼 / 判定3-0 (30-27. 30-27. 30-28)

◆第2試合 60.0kg契約3回戦

辻健太郎(TOKYO KICK WORKS/59.75kg)vs 源樹(リバティー/59.75kg)
引分け0-0 (29-29. 29-29. 29-29)

◆第1試合 64.5kg契約 3回戦

平田純一(ダムファイトジャパン/64.3kg)vs 折戸アトム(PHOENIX/64.35kg)
勝者:折戸アトム / 判定0-3 (28-30. 29-30. 28-30)

《取材戦記》

引退試合を行なった北川ハチマキ和裕は、主戦場をREBELS興行中心に活躍して来た中、7連敗しても戦う場があるのは、北川の実績と人柄の良さで、まだまだ必要な存在と導いてくれたプロモーターであり、そんな戦う場があるキックボクシング業界であることが幸いする。

所属するPHOENIXジムは、今時は多数存在するフリーのジムで、どこの団体・興行に出ようが受け入れられるなら活動は自由だが、頑固な仕来りの日本キックボクシング連盟で、加盟しない選手の引退式とは過去に無い引退セレモニーだった。それだけ若い世代が現場を仕切る時代になったものである。

試合後、控室を訪れると、蛇鬼将矢は左脚脹脛周辺を氷で冷やしていた。カーフキックは第1ラウンドから効いていたという。それを感じさせない蛇鬼の戦いぶりはさすがのチャンピオン。しかし観戦するプロ選手の目には、蛇鬼の脚が効いた様子が伺えた声もあった。

控室には車椅子が運ばれ、蛇鬼は病院に移動し、検査の結果は骨には異状なく軽傷で済んだ模様。

「インターバル中、相手陣営の様子を見ないで、自軍の選手の加療やアドバイスに集中し過ぎるセコンドをたまに見かける。」というリングサイド関係者の話を聞いたことがあります。相手陣営の打たれた箇所の加療、肩で大きく深呼吸をしている様子などからダメージやスタミナ切れを察することも出来るから、自軍陣営は相手陣営の様子も見ておくべきらしい。

私(堀田)も家に帰ってからパソコンに画像を取り込んで見て、改めてセコンドの動きに気付くことがある。速報を扱う媒体だったらこれでは遅いだろう。現場で気付くプロの目はやっぱり凄いのである。

次回、日本キックボクシング連盟興行は10月16日(日)後楽園ホールに於いて「必勝シリーズvol.5」が開催されます。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』7月号

◆目白ジムが原点

青山隆(=青山隆浩/1960年10月20日、東京都板橋区出身)は高校2年の時、目白ジム(後の黒崎道場)に入門。1978年12月デビュー。

子供の頃は運動神経が鈍く、体育も苦手だったというが、高校生の頃には「男として強くなりたい」と志し、テレビで藤原敏男や島三雄の活躍を観たことから、目白ジム入門を決めた。

「後々振り返れば、業界一番と言われるほど厳しいジムだった。こんな厳しいジムで耐え切ったことがチャンピオンに上り詰める基盤が出来たのだろう。」と感慨深く思うという。

「青山の試合は好ファイトになるから楽しみ!」と常連客を呼び込む人気を得ていた青山は、フォーリーブスの青山孝に肖ったアイドルタレントのような端正な顔立ちから女性ファンも多く、花束贈呈は女性の列が長く続く現象も起きていた。

タイ遠征した頃、サンドバッグを蹴る青山隆(1983年11月)

◆ムエタイ遠征も図太く生き抜く

キックボクシング界が低迷期で興行も減った1980年代前半でも、黒崎道場はそのネームバリューから比較的マッチメイクには恵まれていた。1983年に道場は実質的閉鎖され、小国ジムに移行されたが、その傾向は変わらず、1983年11月27日、タイでの試合出場を要請された青山隆は、パタヤでパヤオ・プーンタラットがWBC世界ジュニアバンタム級王座挑戦した試合のセミファイナルでのムエタイ試合だった。

結果はKO負けながら、開始からパンチで圧倒。サバ折りや足払いで対戦相手のノックノイのリズムを狂わせ、ギャンブラーは騒ぎ始める中、ヒザ蹴りに捕まって倒されたが、WBCホセ・スライマン会長も食い入って観るほどの大いに盛り上げた試合だった。WBCがムエタイを手掛ける兆しはここかなと勘繰ってしまう当時の激闘である。

青山は試合を終えると、翌日には予定していたムエタイ修行への一人旅。バンコクに戻ると、知人から貰っていた英文で書かれたメモ書きの住所をタクシーの運転手に見せて、片言の英語だけで何とかフェアテックスジムへ辿り着いた。

主に指導してくれたのはトレーナーをしていたムエタイの英雄、アピデ・シッヒラン氏だった。青山が「一番良い先生に出会うことが出来ました!」と言う言葉どおり、お世話になった後々の日本人修行者は多い。

しかし、青山が修行したこの時代は、現在のようなムエタイ留学や外国人受け入れ態勢など無く、住み込みのタイ選手と同じ待遇で雑魚寝だった。

言葉の壁や選手と輪を囲む食事も問題無くこなし、生水をガブガブ飲んでも下痢は一度もしなかったという。

タイ語を覚える気は全くなかった青山は「俺が覚えたのは“バミーミーマイ?”だけだ!」と言うが、屋台で食べたラーメン。これだけは何度も注文したから二度と忘れることはなかったという。後々、日本でタイラーメン店を経営に至る原点はここにあったのかもしれない。

ヤンガー舟木と共に30代半ばまで長い現役生活となった両雄(1983年3月19日)

渡辺明に判定負け、団体分裂で再戦は叶わず(1983年9月10日)

◆ピークを過ぎても闘志衰えず

ライト級ではパワー不足と言い、フェザー級に拘った新人時代から「俺は骨太で体重は落ち難い」という減量苦が付き纏いながらも激戦を展開した青山隆。

1982年11月からの1000万円争奪オープントーナメントでは56kg級を諦め、62kg級で挑むも、初戦で日本系の大ベテラン、千葉昌要(目黒)にあっさり1ラウンドKOで敗れ去った。

1984年11月のメジャー化に向けて動き出した画期的4団体統合の日本キックボクシング連盟では、王座に向けて2連戦となった鹿島龍(目黒)にはいずれも激戦の判定負け。

その打たれても向かっていく凄絶ファイトで不破龍雄(活殺龍)、嵯峨収(ニシカワ)を下し、再び王座挑戦のチャンスを掴んだ1986年9月20日、かつて黒崎道場で、一歳年上ながら後輩でほぼ同期の親友でもあったチャンピオン、葛城昇(=稲葉理/習志野)をわずか1ラウンド37秒、右フックで倒し、念願の日本フェザー級王座奪取に成功(第3代MA日本)。

鹿島龍には2連敗、後々もう一度観たいカードであった(1985年3月16日)

不破龍雄に判定勝ち、我武者羅に向かうファイトが人気を呼んだ(1985年11月22日)

タイトル挑戦前哨戦での山崎道明戦は、なんと3回戦で引分け(1986年7月13日)

花束を贈るファンは多く、華やかなリング上だった青山隆(1986年7月13日)

チャンピオンとして真価が問われる戦いは、当時復興の全日本キックボクシング連盟へ移行する事態はあったが、欧米等の国際戦を経て、1988年3月の初防衛戦で、ついに減量の限界がやってきた。試合の3日前、蒸し風呂に入って意識を失い倒れてしまい、減量は断念。オーバーウェイトで王座は剥奪されたが、挑戦者のスイート金吾(大和)をヒジ打ちで圧勝。更なる上位へ踏み出した(移籍時は第8代全日本フェザー級チャンピオン認定)。

その後のライト級転向も、懸念されたパワー不足と、台頭してきた川谷昇(岩本)や杉田健一(正心館)に敗れるも、引退の兆しは感じさせず地道に這い上がってきた。

1992年1月、全日本ライト級チャンピオンとなっていた川谷昇への挑戦は引分けで二階級制覇は成らず。その後ブランクを作ると、誰もが引退したと思ったが、「まだ辞めないよ。ウェルター級で再起しようかと思って!」と冗談交じりに話す青山だが、キングジムへ移籍しての再起は2年後の1994年6月。時代も更に移り変わり、若い内田康弘(SVG)にヒザ蹴りで1ラウンドKO負け。

更に翌1995年3月に勝山恭次(SVG)に判定負けした試合を最後に、今度は完全にリングから遠ざかったようだった。

しかし40歳を超えた頃、「ジョージ・フォアマンの年齢を超えてやろうか!」と、45歳で世界ヘビー級チャンピオン(WBC・IBF)に返り咲いたジョージ・フォアマンを例えて笑っていたが、いずれ本気で再起する気だったのだろうか。ジムワークを続けていた青山ならやりかねない状況が続いたが、タイで覚えた“バミー”(タイラーメン)を引き金にいろいろな飲食業に挑戦したビジネスも軌道に乗り、さすがに復帰の道は無くなっていた。

王座まで長い道程だったが、わずか37秒であっさり奪取、葛城昇を倒す(1986年9月20日)

初めてのチャンピオンベルトを巻いたリング上の姿(1986年9月20日)

◆兄貴分気質

最終試合後はキングジムで、ミットを持って若い選手の指導に厳しく当たっていた。黒崎道場出身者は皆、存在感にオーラがあり、キツい練習をさせるのが当たり前だった。青山隆もミット蹴りの終了間際では、選手がバテているところで終わらず強い連打を蹴らせ、「最後に強いの一発!」と声を荒げ、バテて強く蹴れないと「弱い! もう一発!!」と延々終わらない鬼コーチぶりを発揮する。しかし厳しさを撥ね返してくる選手は手応えがあるが、昭和の殺伐とした時代を知らない現代っ子には意思疎通が難しくなった様子も伺えるようだった。

そんな厳しい指導をする青山もプライベートでは後輩を連れて飲みに行く等、慕われる存在である。

かつて青山隆の後輩で、後にタイでムエタイジムを運営して殿堂チャンピオンを育て上げた伊達秀騎氏は、アルバイトしてはタイ修行を繰り返して金を使い果たしていた時期のことについて、「青山さんから電話が掛かってきて、『メシ喰ったか?』と聞かれ、『ちょっと今金無くて……』と苦し紛れに応えると、『バカッ、お前、電話しろよっ!』って怒られて、食事に連れて行ってくれる情に厚い兄貴分でした。食えない時期に何度も助けてくれたことは一生忘れられないですね!」と語る。

2012年12月には、肺癌を患って入院していたアピデ・シッヒラン氏への御見舞に約30年ぶりにタイへ渡った青山隆氏。アピデ氏や家族の方々もわざわざタイまで来てくれたことに感激していたという。30年前の恩を忘れない、恩師は親、後輩は弟のように人情が厚い。

青山氏は現役引退したつもりは無いようで、「自分の中では死ぬまで現役です。今でもトレーニングはしています!」と力強く言う。

後輩への指導は、昭和の厳しさではなかなか付いて来ない時代だが、人情厚い指導で令和の青山流チャンピオンを育て上げて貰いたいものである。

画像はおとなしく見えるが、指導はここから厳しくなる青山隆(1996年9月12日)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』7月号

新日本キックボクシング協会の屋台骨を支える勝次、重森陽太、リカルド・ブラボ、高橋亨汰、瀬川琉は前回4月に続き連続出場。

チャンスを逃さなかった勝次の左フックが剣夜にヒット

沖縄拠点の「TENKAICHI」からの刺客を退けた勝次、リカルド・ブラボ、高橋亨汰。

勝次は4月興行に続き2連勝で10月興行も出場予定。

重森陽太は、NJKFのベテラン健太を退けた。

◎MAGNUM.54 / 2021年6月6日(日)後楽園ホール / 17:30~19:40
主催:伊原プロモーション / 認定:新日本キックボクシング協会

◆第9試合 メインイベント 64.0kg契約3回戦

左フック喰らった剣夜が崩れ落ちノックダウン

WKBA世界スーパーライト級チャンピオン.勝次(藤本/1987.3.1生/63.9kg)
     VS
剣夜(前TENKAICHIスーパーライト級C/SHINE沖縄/63.45kg)
勝者:勝次 / TKO 3R 2:24 / 主審:少白竜

勝次が慎重に距離を取ってパンチとローキックで前進。剣夜はスピードは無いが、パンチと蹴りの伸びが良い。

勝次は剣夜のパンチで鼻血を流す様子も有り。3回戦では勝負が付き難い流れも接近したパンチの距離の中、タイミングを逃さず左フックを浴びせると剣夜が崩れ落ちるノックダウン。

ノックアウトのチャンスを迎えた勝次は連打で剣夜をコーナーに追い詰め更に連打する中、右ストレートが強烈にヒットすると剣夜陣営からタオル投入し、レフェリーが受入れ勝次のTKO勝利。

勝次が連打からコーナーに追い詰め、右ストレートをヒット、決定打となった

剣夜は暫く立ち上がれずも、致命傷とはならず無事にリングを下りた

◆第8試合 62.0kg契約3回戦 

WKBA世界ライト級チャンピオン.重森陽太(伊原稲城/1995.6.11生/61.45kg)
     VS
WBCムエタイ日本スーパーライト級1位.健太(E.S.G/1987年6月26日生/61.7kg)
勝者:重森陽太 / 判定3-0
主審:椎名利一
副審:桜井30-28. 仲30-28. 少白竜30-28

健太が独特の圧力で前進。重森はいつもよりは蹴り難くそう。それでも時折、強い前蹴り、ミドルキックで健太を突き放す。落ち着いた試合運びの健太として焦りはないが突破口は開けない。パンチで出る健太を的確な蹴りを多発した重森が上回り判定勝利。

重森陽太のミドルキックが健太にヒット

重森陽太の前蹴りで健太の前進を阻止

◆第7試合 70.0kg契約3回戦 

日本ウェルター級チャンピオン.リカルド・ブラボ(伊原/アルゼンチン/69.85kg)
      VS
TENKAICHIウェルター級3位.杉原新也(ワイルドシーサー前橋/69.55kg)
勝者:リカルド・ブラボ / TKO 1R 2:43 / 主審:宮沢誠

様子見の展開は少なく、リカルドがパワーで押し勝つと、接近戦でパンチから左ヒジで杉原の眉間から流血しドクターチェック再開後、リカルドが連打で杉原をノックダウンさせると、ここで流血が激しくなった杉原が再びドクターチェックを受け、ドクターの勧告を受入れレフェリーストップ。リカルドは4月に続き、2試合続けて1ラウンドTKO勝利となった。

リカルド・ブラボがハイキックで圧力掛けて出る

接近したところでリカルド・ブラボがヒジ打ちヒット

◆第6試合 62.5kg契約3回戦

日本ライト級チャンピオン.髙橋亨汰(伊原/ 62.4kg)
     VS
TENKAICHIスーパーライト級チャンピオン.リュウイチ(無所属/ 62.55→62.5kg)
勝者:髙橋亨汰 / TKO 2R 1:47 / 主審:桜井一秀

様子見の攻防から髙橋のローキックでリュウイチはバランスを崩し気味。更に高橋はローキックからハイキックに繋ぎ、勢いづいて顔面に前蹴りを叩き込み、ロープを背負ったリュウイチに連打でリュウイチがダウン。立ち上がったリュウイチに更に顔面前蹴りでコーナーに吹っ飛ばし、パンチのラッシュでリュウイチが崩れ落ちたところでレフェリーストップとなった。

高橋亨汰の前蹴りがリュウイチを突き飛ばす

高橋亨汰が連打したところでレフェリーストップ

◆第5試合 フェザー級2回戦

中村哲生(伊原/ 56.75kg)vs 新保基英(OGUNI/ 56.5kg)
勝者:新保基英 / KO 2R 1:05 / 3ノックダウン
主審:仲俊光

中村哲生は昨年9月、55歳でデビュー。50歳でデビュー戦を迎えた新保基英がKO勝利。

◆第4試合 58.0kg契約3回戦

瀬川琉(伊原稲城/ 57.8kg)vs TAKAYUKI(=金子貴幸/REV/ 57.55kg)
勝者:瀬川琉 / 判定3-0
主審:少白竜
副審:椎名30-27. 仲30-27. 宮沢30-26

大輔(TRASH)が体調不良で欠場で元NJKFスーパーバンタム級チャンピオンの金子貴幸が代打出場。瀬川琉の左ストレートが効果的にヒットしリズムを作り、ノックダウンも奪って大差判定勝利を掴む。

◆第3試合 フェザー級2回戦

木下竜輔(伊原/ 56.75kg)vs 松山和弘(ReBORN経堂/ 57.1kg)
勝者:松山和弘 / 判定0-2 (19-19. 18-20. 19-20)

◆第2試合 女子キック(ミネルヴァ) 49.0kg契約3回戦(2分制)

オンドラム(伊原/49.7→49.4kg/計量失格ペナルティー有り)
     VS
紗耶香(格闘技スタジオBLOOM/48.7kg)
勝者:紗耶香 / 判定0-3 (28-30. 28-29. 29-30)
オンドラムは前日計量で制限時間ギリギリまで汗を流して頑張った様子も落とし切れず。

◆第1試合 女子ジュニアキック 45.0kg契約2回戦(2分制)

曽我さくら(クロスポイント大泉)vs 堀田優月(闘神塾)
勝者:堀田優月 / 判定0-2 (19-20. 19-20. 19-19)

《取材戦記》

勝次はコーナーに詰めてのパンチ連打で、レフェリーが止める少し前の右ストレートのヒットが凄く手応えがあったという勝次。見かねたセコンドがタオルを投げた流れになるが、先週の喜入衆のような後ろに倒れて後頭部を打つような大事に至らず、剣夜は立ち上がって歩いて無事にリングを下りた。

「新日本キックボクシング協会、選手全員が強くなって大きな団体にしたい。大きな興行に出て行きたい。」とマイクで語った勝次。RIZIN、RIZE、KNOCK OUTなどのイベントが注目される現在、重森陽太は7月18日にKNOCK OUT興行に出場。江幡睦(伊原)は同7月18日、大阪でのRISE 興行に出場。勝次も大きなイベント出場を目指しつつ、新日本キックボクシング協会が再び大きな団体へと、勝次が現役中にどこまで老舗復活へ導けるか。

試合翌日6月7日で古希を迎えた伊原信一代表。そのお祝いの言葉が勝次や江幡睦から贈られました。昭和の名選手が次々と70歳代突入する時代です。我が身もいつかそれを追う。時の流れは早いものです。

老舗の年間興行が3回とは寂しい限りの2021年。次回興行は10月17日(日)後楽園ホールで開催予定。興行タイトル「TITANS NEOS.29」か「MAGNUM.55」どちらかは未定です。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』7月号

「覚悟は、あるか?」と謳われた今回の興行テーマ。正に覚悟が無ければ臨めない試合と結末。

今年20歳、大学生のモトヤスックは豪快なTKO勝利。敗れた喜入衆は42歳、リング上で一時は緊急事態も意識は回復。

内田雅之が残り数秒でバックヒジ打ちで興之介の額を激しく砕く。

瀧澤博人が右ハイキックでコンゲンチャイを倒し、すぐには立ち上がれないダメージを与える。

◎challenger2 ~Beyond the limit~
5月29日(土)後楽園ホール / 17:30~20:30
主催:治政館ジム / 認定:ジャパンキックボクシング協会(JKA)

◆第8試合 メインイベント 67.0kg契約 5回戦

JKAウェルター級チャンピオン.モトヤスック(=岡本基康/治政館/19歳/67.0kg)
    VS
喜入衆(元・ルンピニージャパン・ウェルター級C/NEXT LEVEL渋谷/42歳/66.8kg)
勝者:モトヤスック / TKO 1R 1:09 / 主審:少白竜

左フックから右のヒザが喜入衆の額にヒットし、上体を起こされ仰向けに倒れる

暫く意識が戻らなかった喜入衆、緊張の時間が続いた

モトヤスックの強烈な左フックを食らった喜入衆が脚から崩れ落ちるところに、右廻し蹴りが顔面に入ると喜入衆は仰向けに倒れ、ほぼノーカウントのレフェリーストップ。

喜入は痙攣し、鼾をかく危険状態。ジャパンキック協会興行を担当するベテランドクターがすぐ適切な処置に当たるも、周囲は見守るしかない状態が続く。

喜入は数分後に目を開き、ドクターの指示で手足を動かすことは出来る反応は見せた。意識は回復した様子も立ち上がることは出来ない状態で担架に乗せられ青コーナー側控室通路エレベーター前まで運ばれた。

JBC管轄下ではないが、救急搬送出来る素早さは後楽園ホールならではのスピード。バックステージに運ばれた時点で救急隊は到着している様子が伺えた。喜入の額が切れていたが、最後に当たったモトヤスックの右ヒザで切れたものと思われる。

モトヤスックは8月22日に元・WKBA世界スーパーウェルター級チャンピオン、緑川創(RIKIX)と対戦。

◆第7試合 セミファイナル 56.5kg契約 5回戦

WMO・INスーパーバンタム級チャンピオン.馬渡亮太(治政館/56.4kg)
     VS
ポンチャン・ペッノンセン(タイ/56.3kg)
勝者:馬渡亮太 / 判定3-0
主審:椎名利一
副審:仲50-46. 桜井50-46. 少白竜50-46. (三者共第3Rを除く他は10-9)

両者の蹴りパンチの上下打ち分けは馬渡が手数、的確差で上回り、強烈にボディーを付き飛ばす前蹴りは完全に主導権を奪う馬渡のペース。

ポンチャンもベテランのテクニシャンぶりを発揮し、接近すると逆転のヒジ打ちを狙う気を抜けない展開が続いたが、馬渡も強気の応戦でペースを崩さず大差判定勝利を掴む。

馬渡は8月22日にWBCムエタイ日本バンタム級チャンピオンの、大田一航(新興ムエタイ)と対戦。

ハイキックをかわしたポンチャン、馬渡亮太は空を切る

ムエタイテクニシャン馬渡亮太は毎度しなる蹴りを見せる

◆第6試合 59.0kg契約3回戦

WMO・INフェザー級チャンピオン.瀧澤博人(ビクトリー/58.95kg)
     VS
コンゲンチャイ・エスジム(元・ルンピニー系バンタム級3位/タイ/58.75kg)
勝者:瀧澤博人 / TKO 2R 2:35 / 主審:松田利彦

瀧澤は試合後「慎重になってしまいました。」と語り、コンゲンチャイが距離を詰めに出て来て下がり気味ではあったが、手足の長さ活かした距離を測り、ジャブでけん制し、ミドル、ハイキックで入り込むタイミングを見極めた。

第2ラウンドには低めの蹴りを意識させたか、狙い定めた右ハイキック一発で、コンゲンチャイを倒し切った。

瀧澤博人が慎重に攻めていく序盤

瀧澤博人が右ハイキックでコンゲンチャイを仕留める

◆第5試合 53.5kg契約3回戦

石川直樹(前・JKAフライ級C/治政館/53.3kg)
     VS
ジョッキーレック・ZERO(元・タイ東北部スーパーフライ級C/タイ/ 52.5kg)
勝者:ジョッキーレック / 判定0-3
主審:仲俊光
副審:椎名29-30. 松田29-30. 少白竜29-30 (三者共第2Rが9-10)

石川直樹はバンタム級転向の為、ジャパンキック協会フライ級王座を返上。

互いがローキックから前蹴りで距離を測り、パンチに繋ぐ主導権争いから首相撲に持ち込む中、経験値あるジョッキーレックが攻め優り、石川にチャンスを与えない上手さが目立つく。ロープ際に下がり気味でも迎え撃つチャンスを伺うジョッキーレックが戦略勝ち。

ジョッキーレックの小技が上手い接近戦

内田雅之が計4度のノックダウンを奪う圧勝だった

◆第4試合 ライト級3回戦

JKAライト級3位.内田雅之(KICK BOX / 60.95kg)
     VS
同級4位.興之介(治政館 / 61.23kg)
勝者:内田雅之 / TKO 3R 3:00=公式発表(正確には2:56辺り)
主審:桜井一秀

内田雅之のベテランらしさが伺え、第1ラウンドから蹴りパンチでリズムを作り接近する中、右フックでノックダウンを奪う。第2ラウンドにも右ストレートでノックダウンを奪い、第3ラウンド終盤にも内田が右フックをヒットさせて3度目のダウンを奪う。

残り時間は7~8秒の少ない中、内田が右バックヒジ打ちを興之介の額にクリーンヒットさせるとバックリ裂け、陥没したような凹みも見られた。即座にレフェリーが試合をストップし、内田が衝撃TKO勝利を飾った。

最終ラウンド、残り僅かで内田雅之がバックヒジ打ちをヒットさせた

興之介は額がバックリ裂け、陥没の疑いも見れる傷跡

◆第3試合 55.0kg契約3回戦

義由亜JSK(治政館 / 54.8kg)vs 中島大翔(GETOVER / 54.75kg)
勝者:義由亜JSK / 判定3-0
主審:少白竜
副審:仲30-28. 松田30-28. 桜井30-28

◆第2試合 ウェルター級3回戦

山内ユウ(ROCK ON/66.1kg)vs正哉(誠真/65.85kg)
勝者:正哉 / 判定0-3 (27-30. 27-30. 27-30)

◆第1試合 女子ピン級(100LBS) 3回戦(2分制)

藤原乃愛(ROCK ON/44.8kg)
    VS
女子キック(ミネルヴァ)ピン級(100LBS)6位.須藤可純(笹羅/45.0kg)
勝者:藤原乃愛 / 判定3-0 (30-27. 30-27. 30-27)

《取材戦記》

近年は40歳過ぎても現役を続ける選手が増えた現在、身体のメンテナンスも充実し、技術、スタミナ、経験値は豊富でも、一発で倒された場合にはマットに後頭部を打ち付ける場合もあります。高年齢選手がそんな事態に陥ると、より危険と隣り合わせであると感じる試合後でした。正に覚悟を持って挑まなければならないプロの試合であります。

喜入衆は大事には至らず入院は一泊のみ。「ちょっと休んでまた復活します。」という前向きなフェイスブックでの書き込みあり。ホッとした応援団、ジム関係者は多いでしょう。元々から頑丈そうな骨格だったが、慢心せず精密検査を受けながら暫くは安静に過ごして頂きたい。

石川直樹は階級を上げる為の王座返上。王座を獲っても「上位を目指す為」「後進に道を譲る為」といった理由ですぐ王座返上という防衛戦を行わない、チャンピオンシップ制度が成り立たない事態が多いキックボクシング界で、ウェイトアップによる階級変更は仕方無い範疇ではあります。今後はバンタム級でこれまで以上の実績を残して頂きたいものです。

6月13日に予定されていた市原ジム興行は中止となり、開催会場だった市原臨海体育館を含め、「千葉県域の会場が10月まで、コロナ禍による影響で使用中止が多いんです。」という小泉猛代表のお話でした。

ジャパンキックボクシング協会次回興行はコロナ禍により、すでに3月28日新宿フェース興行が中止されており、今回は5月9日からの延期でしたが、政府の要請を鑑みながら、次回は8月22日に後楽園ホールで「CHALLENGER.3」が開催。リング上での発表どおり、モトヤスックvs緑川創。馬渡亮太vs大田一航の2カードが予定されています。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』7月号

◆太った?!

久々に出会った知り合いの元・キックボクサーを一瞬で、「あっ、太った!」と声に出さぬも本能が意識してしまう。ふっくらと丸みを帯びる体型。

現役時代は過酷な練習と減量に耐え、引退後はそこから解放され、しっかり脂肪が付いてしまう、かつてのボクサー、キックボクサーを時折見かけます。

しかし、ボクサーたちが“引退すると太る”という固定観念を持つと誤解を招くことにも繋がるようである。太る比率は決して高くはなく、現役時代とさほど変わらない体型を保つ元・選手も多い。

丸みを帯びた高谷秀幸氏(格闘群雄伝No.14)だが、今もトレーニングは欠かさない(2008.2.10)

◆現役時代からの流れ

現在、ナインパックジムを経営する北沢勝会長(格闘群雄伝No.12)は、「私の現役時代はだらしなかったので、試合が終わったら暴飲暴食。10キロくらい減量して試合してたので良い結果が残せなかったと思います!」と謙遜するが、暴飲暴食も試合毎の10キロ減量もざらに存在する。

北沢勝氏は続けて「今は走ってミットを蹴って、何とか体型を保っています。『痩せるよ!筋肉質になるよ!』と謳っている店主がデブではマズいですから!」と自覚を持った経営者の几帳面な努力。

その北沢勝氏が現役時代、鴇稔之先輩(格闘群雄伝No.1)から、「減量出来ない奴はハートが弱い!」と教えられたと言う。食べたい気持ちを抑えられないと、あらゆる事態で我慢ができない、試合でも諦めが早いようである。

私(堀田)の知り合いで昭和のあるキックボクサーの現役中、減量の無い時期に一緒に食事をさせて頂いた時、かなりの量のビールと食べ放題の焼き肉を、元取らなきゃ損といった狙いでガツガツ食べていました。

そのフェザー級(-57.15kg)の選手が飲んで食って70キロもあっても、傍から見て心配しても仕方無く、試合が決まって減量の時期に入ればそこはプロ。しっかりリミットまで落としましたが、この選手がこのまま引退したら体型はどうなるのだろうと思ったことはありました。

フライ級(-50.8kg)だった選手でも引退後、70キロ超えはよく聞く話で、現在50歳超えのこの選手は、「現役の20歳当時、通常時60キロ平均で、ジムワーク後57~58キロ、試合までにはフライ級リミットまで落とし、引退後、仕事はガテン系で重い物を持って運ぶことが多いので筋肉も落ちず体型は維持していたものの、歳と共に徐々に体重は増えていきました。その後、結婚してジムにもほとんど行かなくなり、飲酒の量も増え、中年オヤジに向かって真っしぐらという感じで今は72~73キロくらいです!」

またこちらも50歳超えの元・ウェルター級選手の話では、「私は引退後も太るタイプではないと勝手に思っていましたが、日常生活と事務的仕事上の移動以外は全く動いていないので、現役時代の通常体重より20kgほど太って現在90キロです。腹も出てきましたし、たまにキックのトレーニングしようと動いても、あまりの動きの悪さにショックが大きいのでやらなくなりました。頭では現役の頃の動きを覚えていても身体はついてきません。」といった生活習慣の乱れは多くの例があることでしょう。

会長として、トレーナーでもある伊原信一氏、筋肉質体型は変わらない(2019.12.8)

元木浩二さん(格闘群雄伝No.4)はあまり変わらない。佐藤正男さん(格闘群雄伝No.6)はドラえもん体型へ(2017.11.18)

◆改善に向けて

引退して過酷なトレーニングと減量から解放されても、食べる量を減らしていない場合は、消費カロリー低下で体重や体脂肪が増加し太り易くなります。

またそれまで過酷に使っていた心肺機能から、一般人並みに運動しない状態が続くと、心臓がリズムを乱す為、適度な運動は続けた方がいいという説もありますが、ジョギングなどの有酸素運動より、ウェイトトレーニングで筋肉を鍛えるような運動を中心に行なうと、食事による糖質量オーバーを予防することもでき、痩せ易く太り難い身体に近づくようです。

プロボクサーとして“浪速のロッキー”として名を馳せた赤井英和さんが5年ほど前、現役時代の身体が嘘のように腹が出てしまっていた姿から、トレーニングジムRIZAPのCMで、2ヶ月で7キロの減量に成功し、現役時代に返った筋肉美を披露し話題となりました。

体重は77キロから、高校時代と同じという70キロまで減少。ウェストは100センチから84.5センチ、体脂肪率は20.8%から13.2%となる変化を遂げ、現役時代の肉体を取り戻したと言われます。後々には謳い文句に反し、少々リバウンドはしているようですが、CMの為だけでない自身の魅力を保つ意志があれば体型は維持できるでしょう。

現役としても階級上げることなく体型を維持した立嶋篤史(2018.11.25)

勝手な理想論ながら、ふっくらした元・ボクサー、キックボクサーには挑戦して貰いたいところで、“夢よ、もう一度”ではないが、現役復帰は難しくても、筋肉美を取り戻すことは難しくはないでしょう。

◆気を付けたい生活習慣病

キックボクサーや一般人に関わらず、運動不足と太ることで気を付けて貰いたいのは糖尿病や高血圧などの生活習慣病。

“キックの鬼”沢村忠さんは引退後も体型は変わらない人生を送り、富山勝治さんもスラっとした俳優さんのような佇まいの現在。

今も現役中と思われる立嶋篤史選手は、2018年11月の試合で、新人時代と変わらないフェザー級リミット(-57.15kg)で戦っていましたが、長年現役を続け、減量に耐えていても階級を上げることなく30年前と体型が全く変わらない。もし、30歳ぐらいで現役を退いていたとしても、太るタイプではないでしょう。

酒と煙草が止められない元・チャンピオンもいますが、昭和の群雄割拠の時代を生きた名選手の方々は生活習慣病に気を付け、歴史を語り継ぐ生き証人として健康で長生きして頂きたいものです。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

最新刊!タブーなき月刊『紙の爆弾』6月号

◆珍しいリングのクレーム

先日の5月8日、アメリカでの世界スーパーミドル級3団体王座統一戦で、サウル・カネロ・アルバレス(メキシコ)と対戦したビリー・ジョー・サンダース(イギリス)がリングのサイズについて「20フィート四方では狭すぎる。22フィートに変えないとリングに上がらない。」と注文を付けたそうである。そこで交渉の末、22フィート(6.7m)で同意となったという発表(1フィート=30.48cm)。

過去にリングのサイズに於いて両陣営間で問題になったことはあまり聞かないが、古くは1976年(昭和51年)10月27日に金沢で、辻本章次(ヨネクラ)がホセ・クエバスに挑戦したWBA世界ウェルター級タイトルマッチで、「クエバス陣営が、リングが広過ぎるのではないかとアピールした」という実況の中でのアナウンスがありました。

ラジャダムナンスタジアム。見た目には分からないが後楽園ホールのリングより広い(2017年5月25日)

◆ルール上は……

これまでの日本でのプロボクシング世界戦で、後楽園ホールのような常設リングとはいかないその他の会場、地方などの場合、試合当日までに使用リングを確認できる機会はほとんど無いと考えられ、セットされるリングの広さ、そのキャンバスの軟らかさ、滑り具合、ロープの張り具合は会場都合もあり、試合当日になって組み立てられたリングを見るしかない場合が多いでしょう。

その当日になって「このリングは使用許可できない」といったことが過去にあるだろうか。

JBCルールではリングの各サイズを明確な数値で表していますが、最近は数値に加え「条件を満たさない場合であっても、安全管理上支障が無いものと判断したときには、試合を許可することができる。」と緩やかな表現を加えています。守れていない項目があっても極力不備を修正し、開催可能にできるこの規定の方が妥当でしょう。

リングの広さの規定はその正方形の骨格と水平とするキャンバス全体を含む、ロープの内側とロープの外側の規定があり、ロープの内側(選手が戦うエリア)の一辺が18フィート(5.48m)以上24フィート(7.31m)以内、ロープの外側((呼称は諸説あり=プラットホーム/セコンドエリア)は2フィートと一定の基準は決められています(リングの高さ、4本の各ロープの高さも規定にあり)。

両国国技館などにはトラック輸送で現地組み立てリング(規定内)が持ち込まれる。(2003年10月4日)

◆錯覚ではなかった!

プロボクシングのような厳格なルール下ではないが、1983年9月18日、山梨県甲府市石和小松パブリックホールでのキックボクシング興行では、昭和のキックボクシング全盛期に千葉ジムがトラックに積んで全国に巡業したと言われるリングでした。

ゲストで紹介された稲毛忠治氏(元・東洋ウェルター級チャンピオン)がコーナーに待機した際、私(堀田)がカメラを構えると、フレームの収まり方で距離が近いことに気付き、「あっ、このリング、後楽園ホールより狭いな」と感じ、数あるリングは広さが多様であることを察しました。

後楽園ホールでは二等分された骨格リング(解体、輸送不可)。(2003年7月26日)

ロープと鉄柱を繋ぐ重要なフック(締め付け金具)(2003年7月26日)

またその後、後楽園ホールのリングで、ウォーキングするラウンドガールを撮ろうと乗り出したらロープを避けきれず、いつもよりロープまで遠いと感じたことがありました。それを当時、仕事をさせて頂いていた出版社の社長に告げると、「後楽園ホールのリングのサイズは変わらないはずだよ」と言われましたが、鉄骨で組み立てられたリングの骨格とそのキャンバス面積は不動でも、ロープの内側が狭いロープと広いロープの興行があることに気付き、内側が広ければ、当然反比例して外側が狭い。

ここに選手がロープの外側まで足を滑らすと、リングの縁で脛を抉ったり、下手すればリング下まで転落の恐れがある。その危険性は想像するだけで痛そう。これは1995年(平成7年)頃までかと思いますが、その後はロープ外側は広めに一定化された様子。これでロープの内側が最少で18フィートと言われる現在の後楽園ホールのギリギリのサイズであろうと考えられます。

後楽園ホールのリング。見た目には分からないが、ラジャダムナンスタジアムより狭い(2019年5月12日)

◆リングもいろいろあり

タイのラジャダムナンスタジアムの以前のリングは、ロープ内側の正確な数値は分かりませんが、後楽園ホールのリングより広く、ロープ外側も幅が広く、4フィート(1.22m)ぐらいあったかと思います。これで選手が縺れてロープ外に落ちてもリング下まで落ちる可能性は低くて安全だが、カメラマンは這うように、うつ伏せに寝っ転がって動き難い体勢で撮影していました。4年前に訪れたラジャダムナンスタジアムのリングは改装され、ロープ外側はだいたい2フィートぐらいで昔ほど広くはなかったので、やや背伸びしつつ地面に足を付いたまま撮ることができました。

昔のラジャダムナンスタジアム。ロープ外側が広い(2000年頃)

現在のラジャダムナンスタジアムのリング。ロープ外側は2フィートぐらい(2017年5月25日)

タイの地方に行くと極端に狭いリングや、未だ三本ロープ、キャンバスがフワフワに軟らかいといった公式には認められないようなリングもあり、それが大雑把なタイらしいという声も聞かれます。

また、身体の小さい軽量級が後楽園ホールのような小さいサイズ、ヘビー級ボクサーはより大きいサイズのリングを利用できるよう規定サイズに幅があるという説もあります。

WOWOWエキサイトマッチ等を観ると、周囲の設備や人の並び具合で「このリングは広いぞ、狭いぞ、」を感じることも出来、海外での重量級の試合でも狭いリングが使われていることも見受けられます。リング自体だけで戦略は分かりませんが、アウトボクサーは逃げ回るのに広い方がよく、打ち合うファイターは狭い方がいいという狙いもあり、試合は選手の実力以外での駆け引きがあるもので、こんな目線での観戦も面白いものです。

戦うエリアは広く、ロープを支える鉄柱を少なく観衆から見易くしたのが丸くはない四角いリング。

勝手な妄想ながら……以前は総合格闘技系の修斗で六角形リングがあったように、世代が大きく変わるほどの将来的には、ボクシングでもより戦い易く、鉄柱は増えるが新たな形のリングの登場も起これば面白いかもしれません。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

最新刊!タブーなき月刊『紙の爆弾』6月号

◆90年代のパフォーマー

寺田ヒロミ(寺田大実=ひろみ/1970年、千葉県市原市出身)は、元・日本ウェルター級チャンピオン。

ノンタチャイジムでふざけっこのスパーリング(1991.7)

デビュー当時から明るく目立ち、ちょっと生意気な言動と、飛び蹴りやバックハンドブローをハッタリでも思いっきり打ち込み、なりふり構わない戦法はファンの心を掴んだ。

現在では珍しくはないパフォーマンスは、自分が楽しめば周りも引き込まれるムードメーカー的存在だった。

デビュー当時は市原一門のウシオ太田ジム所属だったが、後に市原ジムへ統合されている(同じく市原一門のシンセイジム会長だった小泉猛氏が市原ジム2代目会長となる)。

◆地道に駆け上がった王座への道

寺田ヒロミは何度かタイ遠征を行なっているが、私(堀田)がタイに滞在した時期と二度ほど重なる時期があった。

1990年7月9日、バンコクの北、パトゥムタニーにあるランシットスタジアムで、寺田ヒロミが試合すると渡タイしていた市原一門勢から聞いて観に行くと、相手を挑発しながら蹴りでリズムを掴んで判定勝利。

翌1991年7月には、ノンタブリーにあるノンタチャイジムでの修行中だった。この時期、互いのアパートが近い、同じ集落で過ごす機会があった。

しかし寺田は韓国での試合が決まり、太田会長から帰国命令が出されて早々の帰国。一緒に過ごしたのは2週間程だった。

[写真左]タイ・ランシットスタジアムで勝利(1990.7.9)[写真右]ムエタイで勝利のポーズ(1990.7.9)

後に届いた手紙には、その韓国の試合はKO勝ち。9月15日の後楽園ホールでは日本ライト級チャンピオン、飛鳥信也(目黒/格闘群雄伝No.2)と引分けたという実力はチャンピオンクラスと印象付けたと思ったら11月15日、飛鳥信也の後輩、新妻聡にはKO負けし、1年後の再戦もKO負け。1992年5月23日にはランキングを上げてきたワセダ大久保(山木)に判定負け。

[写真左]勝てばコーナーに上って喜びのアピール(1992.3.21)[写真右]ワセダ大久保にはパワーで押されて判定負け(1992.5.23)

新妻聡には2度KO負け、何気に役者揃った4名(1992.11.13)

次々とライバルに追い抜かれても、1995年5月6日には市原臨海体育館で細川英男(花澤)を倒し、ようやく日本ウェルター級王座奪取(第8代MA日本)。しかし半年後の11月5日、同会場でハンマー松井(花澤)に倒されあっさり王座陥落。それでもハンマー松井とは控室で明るく健闘を称え合い、また当たり前のように雪辱を目指す前向き思考だった。

[写真左]チャンピオンベルトを巻いた勇姿(1995.11.5)[写真右]ハンマー松井に敗れ、初防衛成らず(1995.11.5)

◆思わぬ病

1996年12月、名古屋での興行で寺田ヒロミは、まだ6戦目の武田幸三(治政館)と対戦。試合前、リング上でウォーミングアップする武田を見て、「なかなか好戦的でいい選手みたいですけど、倒しますよ!」と自信満々の話っぷりから無様なKO負けは想定外ではないが、その2週間後のクリスマスイブには想定外の入院となった。試合や練習の負傷ではなく体調不良で受けた検診の結果、重い病に罹っていたという。そんな知らせを聞いたのは年が明けて3ヶ月ほど経ったある日のこと、夜9時過ぎに私に電話が掛かってきた。

「堀田さん、俺、リンパ癌なんですよ。もう全身に転移しているらしいんですよ!」

いつもの明るい声で高笑いも起こる話っぷりだった。

「嘘だろ、元気そうじゃないか。何かエッチな店行って病気貰ったか?」

咄嗟にいつものふざけた、そんな返ししかできなかった。本当に癌ならそれはそれで仕方無い。

その電話をしている場所は病院のロビーだという。病室はもう消灯で、携帯電話も禁止なので、眠れないからロビーに居るのだという。

「ロビーって誰も居ない真っ暗じゃないの?」と言うと、そのとおりの処方箋薬局も外来受付けにも誰も居ないソファーだったようだ。

クリスマスイブの入院では順調な回復で一旦退院し、キックボクシングの試合会場で、知人の試合のセコンドに付いたらしい。

「抗癌剤で髪の毛は抜けていたけど、元から短髪だからあまり目立たなかったかな。何人かには、どうしたの?って言われたけど!」というが、娑婆の空気を吸ったのは、ほんの1週間ほどでまた調子が悪くなって病院へ戻ったという。

更に10分程、病気とは違う話をしたかと思うが、「今度、見舞いに行くわ!」と言って電話を切った。終始明るい会話だったが、その直後、また気晴らしに誰かに電話していたのだろうか。それとも誰も居ない暗闇のロビーで心細く泣いていたのだろうか。そんなことを想像するといたたまれなかった。

[写真左]ケイゾー松葉には2勝。大きなアクションで目立つ存在だった(1996.2.9)[写真右]武田幸三に敗れ、これが最後の試合となる。やり残したことは多かった(1996.12.1)

当時、寺田ヒロミと親しく接していたのがキックボクサーでプロカメラマンの早田寛氏だった。その後、早田氏から「なるべく早く見舞いに行ってやってくださいね!」と言われて、そう長くないことを察した。

仕事の合間を縫って1997年12月4日の午後に初めて見舞いに行くことが出来た。内房線八幡宿駅には昔、何度も来た旧・市原ジムの最寄り駅である。駅からバスに乗っていく千葉労災病院。寺田ヒロミの病室は個室で一般病棟とは違う階にあった。彼は静かにベッドに寝ていた。目はしっかり開いているが眠っているような不動の静かさ。声は小さく、身体は痩せて頭髪はスポーツ刈りの形は残っているが、想像した程度には少なくなっていた。

上体を起こし、「体重は今50.8kgですよ!」とフライ級リミットまで落ちてしまったことを言い、私が来て元気を見せようとしたか、シチューを一皿しっかり食べると、お母さんが「普段は一口しか食べようとしないんですよ!」と言ってちょっと安心したような表情。

彼の試合の写真なども持って行ったが、見ていても次第に見え難くなるようでまた横になった。点滴を換えた後も、ナースコールで「すみません、痛み止め打ってください!」と要請。「モルヒネですからね!」と言うが、癌患者に使われる鎮痛剤で、一般的麻薬悪影響は無い。

タイで過ごした時は、貶す冗談言えば、デッカイ声で「酷っでえー!」と返していた大声も、新聞紙面に載った、ヒジ打ち貰ったシーンには「ひでえ!」と微笑む程度に笑うが、声は細々と次の笑いに繋がらない。

寺田ヒロミは抗癌剤投与の毎日ではあったが、「飯はツラくてもちゃんと食って頑張ってね。また来るよ!」としか言ってやれなかった。吐き気で食える訳もない飯を食えと言うのも、「ふざけるな!」と言いたくなる酷な励ましだっただろう。
試合で負けても毎度元気だったが、こんな弱々しい寺田ヒロミを見たのは初めてだった。

「これが最後かな!」八幡宿駅のホームでそんなことを考えてしまった。

入院中はキックボクシング関係者を含め、大勢が見舞いに訪れ、2度KO勝利した新妻聡氏も「また俺とやるんだぞ、待ってるからな、頑張れよ!」と激を飛ばして来たという。

◆もう一度呑みたい奴

翌、1998年3月8日に永眠された寺田ヒロミ。4月19日の市原ジム興行は恒例の市原臨海体育館で開催。当時の現役チャンピオンと協会役員、市原ジム小泉猛会長、寺田ヒロミのチャンピオンベルト姿の遺影を持った御両親がリングに上がり、追悼テンカウントゴングで送られた。

寺田ヒロミが病に罹らず現役を続けていたら、日本ウェルター級戦線には生き残っていただろう。武田幸三が飛躍し、ライバルも増えた時代で、再びチャンピオンには至らなかったかもしれないが、ランカーらを手古摺らせる面白い存在にはなっていただろう。

戦績は正確ではないかもしれないが、28戦13勝(5KO)13敗2分。勝っても負けても話題を振りまいた。そんな1990年代の寺田ヒロミを偲び、

「あいつの分も頑張らねば!」と思っているキックボクサーは多く居たことと思う。引退してもその精神を持っている市原ジム勢をはじめとする関係者とファンは、寺田ヒロミのプロ意識を持った活躍を語り伝えてやって欲しい。私も当時のフィルムを引っ張り出して、寺田との触れ合いの記憶が蘇えった。格闘群雄伝を書く度に、その対象者を深く掘り起こすが、寺田ヒロミだけはインタビューすることが出来ない切なさが残る。もう一度会って?み交わしたい奴であった。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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