谷根千が好きだ。ビルが無いから空が広くて風が大きい。起伏の多い土地に残る古い建物には工夫が散りばめられている。煎餅を食べながら散歩して、小さな商店にふらりと。余裕があればすぐにでも出かけたいのだが、最近はなかなか。谷根千を歩くとき、東大の本郷キャンパスまで流れ着いてしまうことがある。

秋口の東大などはセンチメンタルで悪くない。赤門のすぐ近く、東大敷地内に大きなコンクリート壁が伸びているのを知っているが、これが安藤忠雄の作品だとは知らなかった。建物の名前は〈情報学環・福武ホール〉。あの福武氏の寄付により2008年に完成した建物だという。福武氏とは誰だ。

Wikipediaによると“福武總一郎(ふくたけ そういちろう、1945年12月14日- )は、日本の実業家、慈善活動家。ベネッセホールディングス名誉顧問。ベネッセコーポレーションの企業メセナとして、1992年建築家安藤忠雄の設計によるベネッセハウス・ミュージアムを開設”とある。ああ、なるほど。訪れたことはないが、ベネッセハウスの名は聞いたことがある。たしか香川県の直島に建てられた美術館だ。というか、ベネッセハウスのみならず、直島全体を現代美術の活動の場として展開しようと主導したのが福武總一郎なのか。直島にはぜひ行ってみたいと思っているのだが、プライベートではなかなか難しい。取材の話でも舞い込んでこないものだろうか。

この福武ホールは、内部に200人収容のホールを含む東大の校舎だ。地上2階、地下2階で構成されている。地上部は長さ100メートルのコンクリート壁で遮られており、また敷地内からでないと地下の存在を知ることができないため、アジト施設的な雰囲気を感じさせる。

安藤忠雄はこの作品について以下のようにコメントしている。

「地上部分のファサードについては京都の三十三間堂を参照し、全体のプロポーションを決定した。キャンパス内ストリートとの境界には、建物と並行してコンクリートの壁を立てている。これは結界としてではなく、壁背後に広がる地下空間と、既存の大学空間をつなぐ〈間〉の創出を意図したものだ。」

この大きな壁は、歴史ある東大の敷地とモダンな印象のコンクリート建築の間で緩衝材としての役割を果たしている、ということなのだろうか。しかし、“間”や緩衝材としての役割を与えられたにしては存在感が大きすぎるのではないだろうか。

壁の外側にある“キャンパス内ストリート”は車道と歩道に分けられており、特に歩道を歩くとよく分かるのだが、この壁の存在感・圧迫感は無視できない。写真には壁際を歩く人の姿が映っているが、これを見ただけでも感じが伝わるだろう。安藤忠雄は自然や歴史を無視しない設計にこだわっているのだと理解していたが、その点においてやや疑問を感じる建築だ。

赤門を出ると、お気に入りの喫茶店〈ルオー〉がある。小ぶりなテーブルに運ばれたセイロンカレー(あっさりしているが、なぜか物足りなさを感じない静かな味付け)を食べながら、なんだかピンとこないなあ、安藤忠雄。と。当然ながら、知れば新たな疑問が湧いてくる。もう少し追いかけてみよう。

▼大宮 浩平(おおみや・こうへい) [撮影・文]
写真家 / ライター / 1986年 東京に生まれる。2002年より撮影を開始。 2016年 新宿眼科画廊にて個展を開催。主な使用機材は Canon EOS 5D markⅡ、RICOH GR、Nikon F2。
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〈3・11〉から7年 私たちはどう生きるか 『NO NUKES voice』15号

《取材建築漂流09》の取材で国際子ども図書館を訪れ、なんだかんだいってカッコいいよなあ、安藤忠雄、とつぶやいてしまった。“いまさら感”を邪念として追い払い、興味のままに安藤忠雄を追いかけてみようと思う。

今回紹介する『コレッツィオーネ(Collezione)』は商業施設として1989年に竣工した建物で、設計は安藤忠雄建築研究所だ。表参道を上り、青山通りを渡ってさらにそのままゆっくり10分ほど歩くと右手に現れる。最寄りの表参道駅からもやや離れており、青山通り付近に比べるとアパレルブランドの店舗も少ないようだ。ほんの少し生活を感じさせる、そんな南青山にこの建物は建っている。

ついでに紹介するが、コレッツィオーネの少し手前(原宿側)に建つレンガタイル仕上げの建物も面白い。1975年に完成したこの『フロム・ファーストビル』は、竣工の翌年に日本建築学会賞作品賞を受賞するなどして名を広めた。南青山界隈にインテリア関係のショップが増えるキッカケをつくったともいわれている象徴的な建築なので、コレッツィオーネを訪れる際に立ち寄ってみるといいだろう。

さて、安藤忠雄らしいモダニズム(浅田彰によればポストモダニズム)を感じさせるコレッツィオーネは、地上部分に加え地下3階の広がりを持ち、要するにボリュームの半分近くが地下に埋まっている。

安藤建築には自然とともにあろうという思想を表しているものが多い(多くはコンクリートを用いたモダンなルックスであり、そのため外から見ているだけでは気が付きづらいのだが)。あの有名な「住吉の長屋」では、中央に設けた中庭のために、雨の日に手洗いに行こうとすれば傘をささなければならない。また、安藤忠雄建築研究所のオフィスにはエアコンが設置されておらず、しかしそれでも不快にならぬよう空気と光の流れを織り込んで設計されている。

これは一例であり、こうした“自然を無視しない設計”は、あるいは安藤忠雄作品の全てにおいてなされているのではないだろうか。コレッツィオーネも例外ではなく、地表から15メートル以上離れた地下にまで自然光が入り込んでくるし、また緩やかに外気と接することができるように設計されているため密室的な息苦しさを感じない。

冬。やや風のある晴れた日。最下階の空気にはほんの少しの湿り気。雪でつくった“かまくら”に入ると感じる、あの唐突な静けさ。地上までつづく背の高いコンクリート壁を見上げると、半分影になった植木の緑が光をさえぎる。またいで届く光は薄くやわらかい。無風だが確かに外と繋がっている、そんな落ち着いた感覚が深呼吸を呼び込んだ。

▼大宮 浩平(おおみや・こうへい) [撮影・文]
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〈3・11〉から7年 私たちはどう生きるか『NO NUKES voice』15号

「 ……大橋図書館から帝国図書館へ。彼は帝国図書館の与えた第一の感銘をも覚えている。――高い天井に対する恐怖を、大きい窓に対する恐怖を、無数の椅子を埋め尽した無数の人々に対する恐怖を。が、恐怖は幸いにも二三度通ううちに消滅した。彼は忽ち閲覧室に、鉄の階段に、カタロオグの箱に、地下の食堂に親しみ出した。それから大学の図書館や高等学校の図書館へ。彼はそれ等の図書館に何百冊とも知れぬ本を借りた。又それ等の本の中に何十冊とも知れぬ本を愛した……」(芥川龍之介『大導寺信輔の半生』,中央公論,1925)と、物語の主人公を通じて語られるその印象には、帝国図書館に通いつめた芥川龍之介のことばだからこそのリアリティがある。

1897年に設置された帝国図書館は、第二次世界大戦以前の日本における唯一の国立図書館だ。庁舎の完成は1908年。アジア最大の図書館として完成される予定だったが、日露戦争で金を使いすぎたために全てを建設することができす、計画の4分の1ほどのサイズになってしまったという。関東大震災によって怪我を負うもなんとかこれに耐え、さらには第二次世界大戦をも乗り越えた。100年を超える歴史のなかで何度も名前を変え、現在は国際子ども図書館として活用されている。

さて、どっしりとした物質感をたたえて鎮座するこの建物は、やはり大きい。ファサード(建物の正面)から得られる堂々たる印象は、石造りの重みとルネサンス風の飾り付けによるものだろうか。丁寧に並べられた自転車を見て、近所に住まう親子の訪れを知る。建物と自転車の絶望的な不調和がおもしろい。

中へ入ると、受付カウンターの横にBCS賞(建築業協会賞)の受賞プレートを見つけた。ここに建築家・安藤忠雄の名が記されている。実は、安藤忠雄はこの建物が生まれ変わる際、日建設計とともにその改修設計を担当しており、2015年にオープンしたアーチ棟の設計も両者が担っているのだという。

ロビーを過ぎるとすぐ左手に、大階段と呼ばれる立派な階段がある。大階段は壁で支える構造になっており、内側に柱が無い。これにより天井まで続く約20メートルの吹き抜けを実現させている。幅の広いステップと白壁、そして大きな採光窓が設えられており、非常に開放的な空間に仕上がっている。階段の裏に貼られたフローリングが下からの眺めを軽やかにしている一方、隅に立つ石造りの支柱と鉄製の手すりは重厚で落ち着きがある。本物の階段だ。

平日の午前ということもあってか来館者は非常に少ない。1月にしては珍しいほどの陽気のなか、ひんやりとした廊下を歩くと心静かに冴えてくる。

奥へ進むと、帝国図書館時代に「普通閲覧室」として利用されていた部屋がある。当時、ここ利用できるのは男性のみで、女性は「婦人閲覧室」を利用するものと決められていた。旧普通閲覧室の壁は漆喰で塗られているのだが、これは改修工事の際に漆喰を剥がし、構造部分の鉄骨に耐火被覆を施したのち塗り直したものだという。柱や天井の装飾は当時のままを眺めることができる。

現代的なデザインのアーチ棟には、安藤忠雄の代名詞ともいえる打ちっ放しのコンクリートが多用されている。私は打ちっ放しコンクリートが大好きだ。それで細かなところまで見てしまうのだが、やはり定評のある日本の職人の仕事。表は滑らかで面取りも丁寧。徹底して冷たく、そして味気のない表情が良し。うん、いいな。いまさら安藤忠雄だなんて、という屈折した思いをどこかに抱えている私だが、いくつか作品を追ってみようかと思い立つ。次回も安藤忠雄建築を紹介するつもりで取材に挑もう。

▼大宮 浩平(おおみや・こうへい) [撮影・文]
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最新『紙の爆弾』5月号 安倍晋三はこうして退陣する/編集長・中川が一から聞く日本社会の転換点/日本会議系団体理事が支持「道徳」を〝数値評価〟していた文科省研究開発学校 他

〈3・11〉から7年 私たちはどう生きるか『NO NUKES voice』15号

前回、2018年3月11日に東京電力本店前で催された抗議行動『東電は原発事故の責任をとれ─第54回東京電力本店合同抗議行動─東電解体!汚染水止めろ!柏崎刈羽原発再稼働するな!』の様子として東京電力株主代表訴訟事務局長・木村結さんの言葉を掲載した。

今回は元東海村村長・村上達也さんのスピーチを紹介する。村上さんは1997年に東海第二発電所が立地する東海村の村長に就任。1999年に発生した東海村JCO臨界事故では独断で村民を避難させた。辞職や損害賠償を覚悟の上、人命を尊重して行ったものだという。スピーチは、主に昨年末に運転延長申請がなされた東海第二原発に関する内容だ。

茨城県東海村・元村長の村上達也さん

◆東電が借り入れ保証をして、倒産企業の日本原電が金を借りるという背任行為

東海村で前の村長をやっておりました村上と申します。たんぽぽ舎の柳田さんにお呼びいただいて参加することに致しました。来て本当によかったと思っております。こんなに素晴らしい会があるんですね。東京電力に対して抗議されてる姿に感動しながら聞いておりました。

東海第二発電所は、ここ(東京)からちょうど120kmのところにあります。昨年の11月28日には、運転を始めてから39年が経ちまして、20年延長の申請書が規制委員会に提出されています。そして、この3月にはOKが出てしまうんじゃないかという話があります。とんでもないことです。きょうは3月11日、慰霊の日、鎮魂の日です。それなのに我々がこういうところまで出てきて東京電力に抗議しなければならない。東海第二を動かすんじゃないということを。

いま東海第二を動かすためには、なんと1740億円もかかるんです。しかし日本原電(日本原子力発電株式会社)にはその1740億円を払う力がありません。そんな金は持っていません。廃炉準備金として持っておかなければいけない金を、敦賀の3号機と4号機に投じ、使い切ってしまっている。

実質、日本原電は完全なる赤字会社です。その赤字会社が1740億円という金を投じて東海第二原発の稼働を20年延長したいと言っているわけです。そこで、東京電力が借り入れの保証をすると言っているんです。そんな馬鹿なことがあっていいはずがない。倒産企業が金を借りる。このことを保証するというのは背任行為だと思います。こんなことが許されてはならないと思っております。

◆福島・白河で話をした時に気がついた東海第二再稼働の理由

福島県の白河で話をした時に気がつきました。どうして東海第二を動かしたいのかと。結論から申し上げますと、東京電力は福島第二原発を動かしたいということなんですね。福島第二原発はBWR、つまり沸騰水型110万KW。この型を採用したのは、東海村が第1号なんですね。東海村の沸騰水型110万KWを動かせば、福島第二も動かせると考えているんですね。茨城には、東海第二を動かすなという団体が50もあります。そして約20の市町村の議会では東海第二再稼働反対の請願を採択しております。しかし、なかなかまとまらない。首都圏との連携をとるということが大切だと思っております。自民党や日立製作所の力が大きく四苦八苦しておりますが、茨城県もがんばりますので、どうかこれからもよろしくお願い致します。

第54回東京電力本店合同抗議行動(2018年3月11日千代田区内幸町)

▼大宮 浩平(おおみや・こうへい) [撮影・文]
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『NO NUKES voice』15号 〈3・11〉から7年 私たちはどう生きるか

多くの人たちと共に〈原発なき社会〉を求めて『NO NUKES voice』

第54回東京電力本店合同抗議行動(2018年3月11日千代田区内幸町)

2011年3月11日に発生した大震災は歴史の中にすでに確固とした座を占めている。ナショナル・ジオグラフォックが2012年に発行した『ビジュアル 1001の出来事でわかる世界史』でも、古代から続く人類の歴史で3・11が最新の1ページに記されているほどだ。

でも、福島第一原発事故はすでに歴史になったのか? 地震と津波が発生したのは7年前の3月11日で間違いない。けれど、そもそも福島第一原発の事故とはメルトダウンしたことなのか? それとも放射性物質の拡散? あるいは風評被害を与える言説も事故なのか? あれ、そもそも福島第一原発はいまだに“事故ってる”んじゃないのか!? だとしたら、歴史に刻まれる前にやらなければいけないことがあるはずだ。

第54回東京電力本店合同抗議行動(2018年3月11日千代田区内幸町)

2018年3月11日千代田区内幸町にて

2018年3月11日に東京電力本店前(東京都千代田区内幸町)で催された抗議行動『東電は原発事故の責任をとれ-第54回東京電力本店合同抗議行動-東電解体!汚染水止めろ!柏崎刈羽原発再稼働するな!』には前年の500人をはるかに上回る900人が参加し、現況を共有。東電に対する抗議と申し入れを行った。

集会では作家の落合恵子さん、ルポライターの鎌田慧さん、東海村(茨城)の元村長の村上達也さんなど多数のスピーカーが脱原発のスピーチを行った。今回は、当日の様子と共に、東京電力株主代表訴訟事務局長で「原発ゼロ・自然エネルギー推進連盟」(原自連)事務局次長を務めている木村結さんのスピーチを紹介する。

第54回東京電力本店合同抗議行動(2018年3月11日千代田区内幸町)

◆6月の東電株主総会では株主65万人に私たちの提案を届ける

「原自連」事務局次長の木村結さん

木村結さん

こんにちは。木村結でございます。私たちは30年も前から、東京電力に対して「原発をやめよう」という株主提案を続けてまいりました。いま、6月の株主総会に向けて提案を10件ほど準備しております。法務省は、10件は多すぎるから5件にしろとかですね、そういう具体的な数字で締め付けをしてきております。現在は3万株で提案できるのですが、そのハードルを上げるというようなことも言ってきております。

全国には東京電力の株主が65万人もいるんです。その65万人の株主に私たちの提案を届けることができるという、かなり壮大な運動なんですね。「原発を動かしてもいいじゃないか」っていう人たちにも声を届けることが出来るんです。

◆今がチャンスの〈原発ゼロ〉実現

もうひとつ、去年の4月に原自連というものを立ち上げました。『原発ゼロ自然エネルギー推進連盟』と名前が長いんですけれども、これは電自連(電気事業連合会)の向こうを張って原自連というふうにいいます。脱原発大賞というのを3月7日に発表したのですが、今日もこれから挨拶をします『さようなら柏崎刈羽プロジェクト』が金賞を獲りました。そして銀賞は『反原発議員市民連盟』です。審査員賞に『再稼働阻止ネット』も入りました。賞金も出ますので是非ご応募していただければと思います。

そしてですね、今皆さん気になってらっしゃるのが、立憲民主党、希望の党、そして共産党、社民党が共同して出している『原発ゼロ法案』です。1月10日に、私たち原自連も原発ゼロ法案を出しました。私たちのものは即時ゼロ。非常に明快な法案でございます。しかし、議員でない私たちには提案権がございません。そこで、全ての野党を回って「是非法案を出して欲しい」という呼びかけや意見交換会を重ねてきました。そうしましたら、立憲民主党、希望の党の心に響いたようで、ようやく法案を出すことができました。原自連は、普段声が届かない人たちに声を届けたいと考えております。あいつは嫌いだから手を組まないとか、あの時あんなことを言ったから許さないとか、そんなことを言っていたら脱原発はいつまでたってもできません。今がチャンスなんです! みんなで手を繋いで前に行きましょう! 進みましょう!

木村結さん

▼大宮 浩平(おおみや・こうへい) [撮影・文]
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『NO NUKES voice』15号 〈3・11〉から7年 私たちはどう生きるか

多くの人たちと共に〈原発なき社会〉を求めて『NO NUKES voice』

伊方原発のゲート前にて、原発に向かって声を張り上げる斉間淳子さん

 

伊方原発3号機の運転差し止め決定を下した広島高裁の野々上友之裁判長を賞賛して「ありがとう野々上裁判長」と書かれた手作りの旗を掲げる

四国電力が本日(3月27日)にも伊方原発2号機の廃炉を正式決定する。1号機に次ぐ廃炉決定で、伊方で再稼働可能な原発は3号機のみとなり、少なくとも四国では〈原発ゼロ〉が遠からず現実味を帯びてきた。

伊方では昨年12月13日、広島高裁抗告審決定で九州・阿蘇山の「噴火リスク」がまっとうに強調され、再稼働が差し止められた。とはいえ、この司法の快挙に喜んでばかりはいられないと現地では1月20日、21日の二日間、廃炉を求める集会が開かれた。以下、その現地レポートを『NO NUKES voice』15号から一部加筆転載する。

      ※   ※   ※  

伊方原発3号機は2015年7月、原子力規制委員会が東日本大震災後に策定した新規制基準による安全審査に合格し、2016年8月に再稼働した。住民側は、四国電力の安全対策は不十分で、事故で住民の生命や生活に深刻な被害が起きるなどとして広島地裁に仮処分を申請したが、広島地裁はこの申し立てを却下。住民側は即時抗告していた。そして昨年12月13日、伊方原発3号機をめぐっての抗告審が開かれた。広島高裁は、伊方原発から130キロ離れた阿蘇山の巨大噴火を挙げ、9万年前の破局的噴火の規模なら火砕流到達の可能性は否定できないとして広島地裁の決定を覆し運転停止を命じた。

原発の運転を差し止めた司法判断は高裁では初めてだ。伊方原発は愛媛県の伊方町に建てられている四国唯一の原子力発電所で、福島第一原発事故後の2012年に全三基が停止。その後1号機は廃炉されることになり、また2号機は再稼働に必要な審査を受けるための申請がされておらず、運転を停止したままだ(※3月27日にも四国電力は2号機廃炉を正式決定)。残る3号機は2016年8月に再稼働するも昨年10月からは定期検査のために運転を停止。この司法決定で伊方原発は2018年9月30日までは運転を再開することができない。

こうした状況にある伊方原発だが、立地する伊方町では引き続き抗議活動が行われている。1月20日に催された集会には現地の方のみならず全国各地から参加者が集まり、その数約250人。近くに駅も無いのによく集まるものだと思う。

◆沖縄から山城博治さんがやってきた!

開会直前に現場に到着した沖縄平和運動センター議長・山城博治氏に注目が集まる。愛媛新聞の記者やローカルテレビ局が取材のタイミングを見計らうなか、経験は浅いが決断と短距離走がやたらに早い私はまっさきに山城氏の元に駆けつけ、登壇するので解放してくれという付き添いの声が聞こえるまでの7分間だけ、直接インタビューを行うことができた。

壇上から連帯を呼びかける沖縄平和運動センター議長・山城博治さん。スピーカーが弾けてしまうような張りのある声で集会に熱を加えた

伊方でも叫び、歌い、踊りだす山城博治さん

沖縄平和運動センター議長・山城博治さん

1月20日(土)に催された集会場の様子

 

四国電力の用地買収に対して「原発反対、プルサーマル反対」を生涯貫き農地を売らなかった地主農家の広野房一さん(2005年、92歳逝去)の碑

◆ここには怒りが備わっている

伊方原発への反対運動には怒りが備わっている。人間そのものが発する怒りが備わっている。他方、首都圏の運動に欠けているのは、この怒りだ。たとえば国会前での抗議活動はまさにその典型。ふざけるな。よし殴る。今スグぶち壊してやろう。といったフィジカルな気迫はどこからも感じられない。それは結局のところ、当人たちが苦しんでいないからではないだろうか。社会に不満があるとはいいつつも、その中でそこそこの安寧を得ており、だからこその腑抜けた態度が身について、その取り組みがポーズだということにも気がつかない。彼らは既に漂白されている。

ところが伊方ではどうだろう。この伊方町に暮らす人々は、原発が誘致されたことによりおよそ非倫理的とも言える苦しみのなかに蹴落とされた。南海日日新聞社の斉間満さんが著した『原発の来た町』には、その事実と怒りが淀みなく記されている。魚を殺し職を奪い、暴力的に金をばら撒き人間とその生活を引き裂く。

これが原発だ。許せるはずがない。「もし事故が起きたら被曝して苦しい思いをするかもしれないからイヤだ」などという思いから発せられる行動とはまるで違う。事故を起こした福島第一原発と同じように、既に、そして常に暴力を振るい被害を生んでいるのだ。

◆福島からは大熊町議の木幡ますみさん

大熊町議会議員・木幡ますみさん。たんぽぽ舎代表・柳田真さんや大間原発反対現地集会実行委員会・中道雅史さんの姿が見える

大熊町議会議員・木幡ますみさん

壇上でマイクを握る木幡ますみさん

夜は八幡浜の公民館にて大熊町議会議員・木幡ますみさんの講演会が行われた。講演が始まって一時間もすると、日中の疲れのためか、ウトウトとしている人がチラホラ。そんな時、前に出て休憩の提案をしたのは愛媛有機農産生協理事の秦左子さんだ。

現場ではリーダーとして常に笑顔で動き回りとてつもないエネルギーを周囲に振りまく。2016年の夏に伊方を訪れたときには「市民運動というのは、思想とか哲学から始まっているものが多かったんです。現地の人たちは命の戦いをしているのに、私たちは思想や哲学で原発反対と言ってきた。そこには大きな距離がある。」という話を聞かせてくれ、私はそのことについて時間をかけて熟慮したのを覚えている。『原発の来た町』をプレゼントしてくれたのも秦さんだ。

そんな秦さんが、集会の終わりにチラッと声に出した「原則として原発に反対しています!」という言葉は、伊方の反原発運動の特徴をバシっと表現しているのではないだろうか。放射能は子供達の未来を……、差別被差別の構造が……、事故の起こる可能性がゼロでないのなら……等々の理由を飛び越え、とにかく原発には反対なんだ。もう検討の余地などない。償って償いきれるものではない。誰がなんと言おうと絶対に認めない。そんな本当の信念を、希望や期待では無く信念を、特別な意図なく発したであろう「原則」という言葉からはっきりと感じ取ることができた。

現場で誰よりも明るく大きな声で動き回る秦左子さん。斉間淳子さんと共に活動を続けるリーダー的存在だ

愛媛新聞の記者からインタビューを受ける二木洋子さん。40年以上前から伊方原発反対運動に参加している

集会を盛り上げる原発さよなら楽団、通称“原さよ楽団”のメンバー

◆ふるさとは原発を許さない

翌朝は8時45分に伊方原発のゲート前に到着した。天気は晴れ。怒声あり。警察とデモ参加者あわせて10人ほどで早速揉み合っている。さてさて、とカメラと共に駆け寄る。「せめて確認しろよ!勝手に何やってるんだ!」「車を止めることを認めていないんだから!」「メモした紙を破れ!いますぐここで破りなさい!」不承不承その通りにするリーダーらしき警察官。

到着したころには少なかった警察官の数がいつの間にか倍増していた。

「彼らが守っているのは原発です! 私たちを監視するためにここに来ている! まず君達が一番最初に守らなければならないのは憲法だ! そのことを忘れてここにいる資格はない! 原発ではなく国民を守るのが君たちの仕事だ!」

伊方原発を背に反対運動参加者を無表情に見つめる警察官の隊列。ゲート前近くから望む四国電力伊方発電所。中央に見えるのが1号機、右が2号機、そして左に見えるのが、昨年12月に広島高裁が運転差し止めの決定を下した3号機

原発に背を向け抗議行動を監視する警察官。全員がマスクをしており匿名性が保たれている

反対運動参加者に対峙する警察官の隊列。数がどんどん増えていく

1月21日の朝、伊方原発ゲート前に到着すると怒声が聞こえた。警察の対応への抗議の声だ。警察も簡単には引き下がらない

伊方原発に向かって抗議の声をあげる参加者たち

「伊方原発、廃炉! 伊方原発、廃炉!」と始まりの挨拶があるわけでもなく徐々に抗議活動は熱を帯びてきた。「西日本で事故が起これば日本には住むところがなくなるんだ!」

「我々は微力だが無力ではないことを証明し、原発を廃炉にしよう!」
「この故郷には誇ることのできないものがひとつある!」

集会の最後には『ふるさとは原発を許さない』が歌われた。

国道197号沿いに設えられたステージにあがりマイクを握る、伊方の家主宰・八木健彦さん

▼大宮 浩平(おおみや・こうへい) [写真・文]
写真家 / ライター / 1986年 東京に生まれる。2002年より撮影を開始。 2016年 新宿眼科画廊にて個展を開催。主な使用機材は Canon EOS 5D markⅡ、RICOH GR、Nikon F2。
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※伊方集会の詳細は木幡ますみさん、山城博治さんのインタビュー等を掲載した『NO NUKES voice』15号をご購読ください。

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多くの人たちと共に〈原発なき社会〉を求めて『NO NUKES voice』

タイトルの通り、今回は国立新美術館を紹介します。そんなもんメディアで紹介されてて超有名だしネットにも写真いっぱいあるしそもそも何度も行ってるんだけど!なんて声が聞こえてきそうですが、写真については他のどんなものよりもカッコよく撮ったつもりなのでとりあえず見てもらいたいということと(ああ怖い……)、すでに紹介されているとはいっても建築の思想に触れたものは少なく、そのあたりのオモシロイところを軸に改めて国立新美術館を紹介します。

◆1960年から黒川紀章が育んだ2つのキーワード

2007年に完成した国立新美術館は、森美術館・サントリー美術館とともに六本木界隈の美術館の中心として迫力ある大規模な展示を行っています。国立新美術館を設計したのは〈メタボリズム〉運動や〈共生〉思想で知られる建築家・黒川紀章。黒川は国立新美術館のことを「1960年から続けてきた〈共生〉と〈メタボリズム〉の集大成である」と表現しています。この2つのキーワードを追いかけてみましょう。

◆機械的潮流の終焉

20世紀以降の主流であるモダニズム建築[※1]は、近代社会的な工業化の潮流のなかで科学技術や経済の発展と共に築かれたものであると言えます。第一次世界大戦後の都市再生を目指したル・コルビュジエの画一的な建築様式や、普遍的な空間としてのユニバーサルスペースを夢見て尽力したミース・ファン・デル・ローエの仕事は、やがて圧倒的な量産によって徹底的に工業化されていきます。

もはや出番のなくなったル・コルビュジエは1958年、日本の丹下健三へ宛て大人が子供を肩に乗せた象徴的なスケッチを送ります。ここには「次の世代へ」というメッセージが添えられていました。建築を安価に量産することができるようになった今、機械的・工業的な建築に変わる新しいムーブメントが必要なのであり、それをあなたたちに託します、といった意味なんじゃないでしょうか。

「普遍的価値で世界が均一化されてしまって良いのだろうか」という疑問がいたるところで噴出しはじめた時代。丹下健三門下として活動していた黒川紀章は、この時期から〈共生〉思想を発展させていき、また1960年の世界デザイン会議[※2]を目前にして黒川紀章らは壮大な建築運動〈メタボリズム〉を提案します。

◆〈共生〉思想とは

〈共生〉というのは黒川紀章によって1960年に提唱された概念で「対立・競争・矛盾を抱えつつ互いを必要とする関係」と定義されています。世界には多様な価値が存在し、それらは互いに対立・矛盾する。そうした要素の間に中間領域を置くことによって共に生きることができるのではないか、という考えです。

ここからは筆者の勝手な解釈ですが、国立新美術館に入ると、最初に歩くことになるのがその中間領域にあたります。展示室やレストランといった異なる部分が直接繋がっているのではなく、一度中間領域としてのフロアを歩いてから別の世界へ足を踏み入れることになります。共有空間としての中間領域ですね。また、円錐型のコンクリート塊を地面にブチ込んでつくられた要素の天辺がレストランになっているのですが、そこへと繋がる橋のような部分も同様の、しかし微妙に異なる役割を果たしています。これは、種の多様性を維持するためには孤立した生態系間を結ぶ道が必要だとする考えに基づいて作られたもので、生態回廊としての中間領域と捉えるべきです。

国立新美術館周辺の緑は近隣の青山公園や青山霊園といった森との境界を、透明な外壁は内部と外部の境界を弱めており、これは曖昧領域としての中間領域だと考えることができます。このように、矛盾・対立するもののあいだに置くべき中間領域にも様々な種類や機能があり、それらを適切に配置することが重要なんじゃないでしょうか。

◆〈メタボリズム〉について

〈メタボリズム〉というのは1959年に黒川紀章や菊竹清訓といった建築家や都市計画家が始めた運動で、社会の変化に対応することができる柔軟な建築・都市を目指そうというものです。筆者は2011年に森美術館で開催された「メタボリズムの未来都市」展をきっかけに強く興味を持つようになり、映画「風立ちぬ」に登場する黒川が黒川紀章に似ていて(しかしなぜか誰もそのことに触れていない)大笑いするくらいにはハマった運動です。

代表作としてあげられるのは1972年の黒川紀章作品「中銀カプセルタワービル」でしょう。この建築は各個室の独立性が非常に高く“部屋ごと取り換える”ことが可能な構造になっています。実際に取り替えは行われていないものの、時間的な変化に応じて部分を“新陳代謝”させることができるというわけです。ちなみに、この中銀カプセルタワービルを原型として1979年に登場する世界初のカプセルホテル「カプセルイン大阪(2017年現在営業中)」は黒川紀章の設計です。

◆共時的多様性と通時的多様性

先ほど〈共生〉のところで多様性について書きましたが、多様性というもののなかには共時的多様性(現在、東京とキエフでは食生活が異なる)とは別に通時的多様性(10年後、東京にはますます多くの外国人が溢れているだろう)というものが考えられます。社会の通時的な変化つまりは多様性に対応することがメタボリズムの目的なのであれば、多様なものの共存を目指す〈共生〉思想と〈メタボリズム〉は不可分であるはずなんですね。というよりも、〈共生〉思想のなかに〈メタボリズム〉は包括されていると言った方が正確です。黒川は国立新美術館を「〈共生〉と〈メタボリズム〉の集大成である」と言いましたが、「〈共生〉の集大成である」と表現すべきだったのではないでしょうか。

◆思想との同調

1960年頃というのは、思想的にも大きな転換期でした。カント、デカルト、ヘーゲルといった西欧の二元論に代わり、サルトルの実存主義やメルロポンティの両義性といった新しい哲学体系の流れが始まり、そして多様性を構造的に捉えたレヴィストロースやデリダ、バルトへ、フーコーへと紡がれていきます。〈共生〉思想や〈メタボリズム〉運動はこのような哲学的潮流と同調していました。というか、絵画も音楽も経済も文学も全てが同調しているのであり、これは当然のことです。こうした全てに先んじて一歩を踏み出すのがアーティストの仕事なのであり、今の時代に対する筆者の不満はこのような……とこれはまた別の機会に。

国立新美術館で9月4日まで開催されている「ジャコメッティ展」は強力にオススメです。ダイレクトに実存に働きかけてくるので、他者の少ない平日午前に観覧すべし!

[※1]モダニズム建築=機能的、合理的な造形理念に基づく建築。産業革命以降の工業化社会を背景として19世紀末から新しい建築を求めるさまざまな試行錯誤が各国で行われ、1920年代に機能主義、合理主義の建築として成立した。

[※2]世界デザイン会議=1960年5月7日から16日まで、27カ国、二百数十名のデザイナー、建築家を集めて東京・産経ホールなどで開催された。勝見勝、坂倉準三、柳宗理、亀倉雄策、丹下健三らが中心となり、デザインの分野の違いを超えて討論を行ない、世界のデザイン界との国際交流の場を生み出そうという意図から開催された大規模な会議

▼大宮 浩平(おおみや・こうへい) [撮影・文]
写真家 / ライター / 1986年 東京に生まれる。2002年より撮影を開始。 2016年 新宿眼科画廊にて個展を開催。主な使用機材は Canon EOS 5D markⅡ、RICOH GR、Nikon F2。
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大久保・早稲田・高田馬場に囲まれた一帯、戸山。副都心線の東新宿駅が完成したことでそこそこ交通の便が良くなったとはいえ、新宿近郊にして孤島感が漂う地域だ。そんな戸山の住宅団地“戸山ハイツ”を取材し、日本の団地・集合住宅について考えてみた。

◆戸山ハイツ・今のすがた

1949年、第二次世界大戦後の住宅難を打破すべく東京都が建てた戸山ハイツは、日本の団地としては最初期のものだ。1970年に建て替えられたため当時の姿を見ることはできないが、現在の勇姿を眺めてほしい。典型的な団地の姿であり、その状況も団地一般に当てはまるものなのかもしれない。付近を歩く人の多くが齢70歳を超えており、わずかな例外は33号棟1階のタバコ屋や自転車屋を訪れるスーツ姿のサラリーマンや近所の主婦であろう女性だ。居住者のほとんどが高齢者であることがはっきりと把握できる。そもそも人影が少なすぎるし、遠鳴りの自動車の音しか聞こえないほどの静けさに出会うこともある。

◆「分譲」とした時点で「日本の団地」は初めから終わっていた

日本の団地の大部分は日本住宅公団が建設したものだ。日本住宅公団は主として住宅供給を行う特殊法人で、その起源は同潤会アパートの建設で知られる財団法人・同潤会だ。形態は様々だが、変遷として以下を参考にしてほしい。

同潤会(1924~1941年)→住宅営団(1941~1946年)→日本住宅公団(1955~1981年)→住宅・都市整備公団(1981~1999年)→都市再生機構(2004~2017年現在)。

1950年代半ばから1980年頃にかけて日本住宅公団が大量に作った団地は、ベランダ・水洗トイレ・ダイニングキッチンなどといった近代的な要素を取り入れていたため当時のサラリーマンにとって憧れの住宅でもあった。そんな団地生活を購入した働き盛りのサラリーマンが現在の最高齢層なのだ。

分譲であるため居住者の流動性が低く、また家主が亡くなった場合には空室が生じやすい。このような問題に対処するため、たとえば幕張新都心では都市計画の段階で集合住宅の半数を賃貸として展開することを決めたという。常に一定の若年層を受け入れる余地を保つことで街の高齢化を防ごうという試みであり、その成功は、全てを分譲とした団地は初めから終わっていたのだということの証明にもなっている。

◆空き家はあるのに若者が住む場所に困る都市建築

安価な住居を大量に提供するという目的が果たされたいま、今度は空き家の問題が目立っている。そしてまた、空き家があるにもかかわらず都市の若者が住む場所に困っているという現実も見えている。唐突だが、そんな今こそメタボリズム建築の出番ではないだろうか。居住者の流動という意味での幕張新都心的な新陳代謝にあわせ、建築そのものをニーズに応じて有機的に変化させるというメタボリズムのアプローチを発展させてみてはどうだろうか、ということだ。次回は黒川紀章について書いてみようかしらん。

[撮影・文]大宮浩平

▼大宮 浩平(おおみや・こうへい)
写真家 / ライター / 1986年 東京に生まれる。2002年より撮影を開始。 2016年 新宿眼科画廊にて個展を開催。主な使用機材は Canon EOS 5D markⅡ、RICOH GR、Nikon F2。
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すみだ北斎美術館はその名の通り葛飾北斎を紹介する美術館で、北斎が生涯を過ごした墨田区亀沢、JR両国駅から徒歩約10分のところに立地している。開館当時にはメディアで大きく紹介されていたのでご存知の方も多いだろう。美術館の建設構想は1989年に始まっており、土地を購入するところまではすぐにたどり着いたのだが、やがて資金繰りが難航し計画が中断。2006年、近隣の押上地区に東京スカイツリー建設が決まったことを受け構想が再始動し、2016年11月にようやく開館したという、まあそんな歴史がある。

◆裂け目の内側に入る

まずはサラっと外観を眺めてもらいたい。風景の写り込みを想定したという鏡面アルミパネル仕上げの外壁が輝いている。そしてスリット(裂け目)がある。きっとスリットのどこかが入り口なのだろう。しかし遠目にはいまいち判然としない。

ぐるっと周りを一周してみて、あれ、と思った。どこが正面(ファサード)なのかが分からないのだ。いや、ファサードはおそらく公園側なのだろうが、“裏”らしいところが見当たらないのだ。これはなかなか面白い。いいね。

そしてやはり入口はスリット内にあった。このスリットは内側で全て繋がっており、どちらが裏だか分からないその裏側や、同様の側面へ通り抜けることができる。建築面積約700平米・高さ22メートルというそこそこ大きな鉄筋コンクリート造りであるにもかかわらず軽快な感じがするのもスリットの機能ではないだろうか。

“大きなひとつ”を“中くらいのいくつか”に分けることで内向きの力を発散させ、またわずかではあるが向こう側を見通せることにより風景と同化し、つまり異物としての排他的な重厚感を打ち消している。

東京タワーに比べてスカイツリーが景色に馴染まないのも同じ理由ではないだろうか。スカイツリーは大きさの割にボテっとし過ぎており、景色を分断してしまっているのだ。もう少し隙間を作ってやればいずれ東京タワーのように愛されたかもしれないが、もはや諦めるしかない。あれは失敗作だろう。

◆女性建築家・妹島和世のラディカリズム

すみだ北斎美術館の設計を担当した妹島和世(せじまかずよ)についてもいくつか。1988年の鹿島賞受賞を皮切りに数多くの建築賞を受賞しており、2010年には女性としては2人目、日本人女性としては唯一(2017年現在)のプリツカー賞(「建築界のノーベル賞」と呼ばれている)受賞を果たした。

西沢立衛と共に立ち上げた建築家ユニット「SANAA(サナー)」での活動は世界に知られており、身近なところでは「金沢21世紀美術館」や「ディオール表参道」がその作品だ。妹島和世の作品は外観が非常に現代的であり、その印象は素材に金属板やアクリルを用いていることとも関係している。

また部屋や通路の配置が大胆であることなどとあわせてラディカルな作家として認知されているが、本人としては奇抜なことをやろうというつもりはなく、あくまでも自分なりの合理性を貫き通した結果だという。一見変わった造りのすみだ北斎美術館も先のとおり合理的な一面を持っており、実際に館内を歩いてみてもその感は薄れない。良い建築だと感じると共に、これを設計した妹島和世という建築家に対する興味が一気に噴出してきた。他の作品も見学してこようと思う。

◆北斎という衝撃

西の世界へジャポニスムという大衝撃を与えた葛飾北斎。西洋の人々の葛飾北斎に対する評価は、日本に暮らす私たちが想像するよりも遥かに高いのだという話は、直接あるいは読書を通じて間接的に何度も耳にしている。そんな葛飾北斎について知りたければ、すみだ北斎美術館へ行ってみるといいだろう。そして2017年10月末には国立西洋美術館にて『北斎とジャポニスム』展が開催されるというからこちらも要チェックだ。

[撮影・文]大宮浩平

▼大宮 浩平(おおみや・こうへい)
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東京都新宿区百人町1丁目。山手線の新大久保駅を中心としたこの地域は歌舞伎町の裏手にあたり、水商売の匂いが消えない。韓国やトルコの人々が住み働く外国人街であり、また古くからの住宅街でもある。

雑然と散らかったこの街の空気はどこか澱んでおり、決して清潔な印象を持つことができないが、そういった諸々を人間臭さとして認めることで僕はこの街が好きになった。そんな百人町1丁目で発見した建築、新宿ホワイトハウスを紹介しよう。

◆磯崎新の処女作 ネオ・ダダ吉村益信の自宅 

新宿ホワイトハウスは、建築家・磯崎新の処女作であり、美術家・吉村益信の住居として設計された。代表作としてロサンゼルス現代美術館や水戸芸術館、東京造形大学八王子キャンパス等を挙げることのできる磯崎は、やはり建築界の大御所だ。

1960年、モダニズム建築を推し進めた丹下健三の運動に参加するも、モダニズムでは無視された装飾性や過剰性といった要素を取り戻すべきだという考えを抱くに至る。こうした思想の下、1980年代以降はポストモダニズム運動を牽引していくこととなり、その業績から建築のみならず美術の文脈を知る上でも重要な建築家として認知されている。

新宿ホワイトハウスに暮らした吉村益信は、1960年に登場した前衛芸術集団「ネオ・ダダ(ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ)」の主宰であり、ホワイトハウスはネオ・ダダの活動拠点であった。ネオ・ダダのメンバーとして有名な篠原有司男(通称:ギューチャン)、赤瀬川原平、荒川修作らに加え、メンバーではないが磯崎新もここホワイトハウスを度々訪れていたという。

 

◆「カフェアリエ」の“トマソン”

現在は、建物の一部を改装し喫茶店「カフェアリエ」として営業を行っている。ツタ植物に覆われた特徴ある外観だが、横道のさらに裏手に建っているため目立たない。

許可を得て外観を撮影していると、早速“トマソン”(ネオ・ダダのメンバーである赤瀬川原平が提唱した芸術概念。不動産に付着する無用の長物を指す。ここでは用途不明の2階の戸)を見つけた。

 

 

◆吹き抜け天井、白い壁、床に残った絵の具の跡

中に入ると、思わず深く息を吸いたくなるような吹き抜けの天井、白い壁。床には絵の具の跡が残っている。

バー・カウンターはカフェ開業に伴って据え付けたもので、ネオ・ダダ時代の押入れを改装して現在の厨房に仕上げたという。当時の台所もそのまま残っており、写真の通りだ。いかにもアトリエといった空気が心地よく、感傷的になってしまった。

本棚にはもちろんネオ・ダダ関連の書籍が並んでいる。ダダイスト諸兄には是非足を運んでもらいたい。

 

[撮影・文]大宮浩平

▼大宮 浩平(おおみや・こうへい)
写真家 / ライター / 1986年 東京に生まれる。2002年より撮影を開始。 2016年 新宿眼科画廊にて個展を開催。主な使用機材は Canon EOS 5D markⅡ、RICOH GR、Nikon F2。
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