大久保・早稲田・高田馬場に囲まれた一帯、戸山。副都心線の東新宿駅が完成したことでそこそこ交通の便が良くなったとはいえ、新宿近郊にして孤島感が漂う地域だ。そんな戸山の住宅団地“戸山ハイツ”を取材し、日本の団地・集合住宅について考えてみた。

◆戸山ハイツ・今のすがた

1949年、第二次世界大戦後の住宅難を打破すべく東京都が建てた戸山ハイツは、日本の団地としては最初期のものだ。1970年に建て替えられたため当時の姿を見ることはできないが、現在の勇姿を眺めてほしい。典型的な団地の姿であり、その状況も団地一般に当てはまるものなのかもしれない。付近を歩く人の多くが齢70歳を超えており、わずかな例外は33号棟1階のタバコ屋や自転車屋を訪れるスーツ姿のサラリーマンや近所の主婦であろう女性だ。居住者のほとんどが高齢者であることがはっきりと把握できる。そもそも人影が少なすぎるし、遠鳴りの自動車の音しか聞こえないほどの静けさに出会うこともある。

◆「分譲」とした時点で「日本の団地」は初めから終わっていた

日本の団地の大部分は日本住宅公団が建設したものだ。日本住宅公団は主として住宅供給を行う特殊法人で、その起源は同潤会アパートの建設で知られる財団法人・同潤会だ。形態は様々だが、変遷として以下を参考にしてほしい。

同潤会(1924~1941年)→住宅営団(1941~1946年)→日本住宅公団(1955~1981年)→住宅・都市整備公団(1981~1999年)→都市再生機構(2004~2017年現在)。

1950年代半ばから1980年頃にかけて日本住宅公団が大量に作った団地は、ベランダ・水洗トイレ・ダイニングキッチンなどといった近代的な要素を取り入れていたため当時のサラリーマンにとって憧れの住宅でもあった。そんな団地生活を購入した働き盛りのサラリーマンが現在の最高齢層なのだ。

分譲であるため居住者の流動性が低く、また家主が亡くなった場合には空室が生じやすい。このような問題に対処するため、たとえば幕張新都心では都市計画の段階で集合住宅の半数を賃貸として展開することを決めたという。常に一定の若年層を受け入れる余地を保つことで街の高齢化を防ごうという試みであり、その成功は、全てを分譲とした団地は初めから終わっていたのだということの証明にもなっている。

◆空き家はあるのに若者が住む場所に困る都市建築

安価な住居を大量に提供するという目的が果たされたいま、今度は空き家の問題が目立っている。そしてまた、空き家があるにもかかわらず都市の若者が住む場所に困っているという現実も見えている。唐突だが、そんな今こそメタボリズム建築の出番ではないだろうか。居住者の流動という意味での幕張新都心的な新陳代謝にあわせ、建築そのものをニーズに応じて有機的に変化させるというメタボリズムのアプローチを発展させてみてはどうだろうか、ということだ。次回は黒川紀章について書いてみようかしらん。

[撮影・文]大宮浩平

▼大宮 浩平(おおみや・こうへい)
写真家 / ライター / 1986年 東京に生まれる。2002年より撮影を開始。 2016年 新宿眼科画廊にて個展を開催。主な使用機材は Canon EOS 5D markⅡ、RICOH GR、Nikon F2。
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『NO NUKES voice』12号【特集】暗い時代の脱原発──知事抹殺、不当逮捕、共謀罪 ファシズムの足音が聞こえる!

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すみだ北斎美術館はその名の通り葛飾北斎を紹介する美術館で、北斎が生涯を過ごした墨田区亀沢、JR両国駅から徒歩約10分のところに立地している。開館当時にはメディアで大きく紹介されていたのでご存知の方も多いだろう。美術館の建設構想は1989年に始まっており、土地を購入するところまではすぐにたどり着いたのだが、やがて資金繰りが難航し計画が中断。2006年、近隣の押上地区に東京スカイツリー建設が決まったことを受け構想が再始動し、2016年11月にようやく開館したという、まあそんな歴史がある。

◆裂け目の内側に入る

まずはサラっと外観を眺めてもらいたい。風景の写り込みを想定したという鏡面アルミパネル仕上げの外壁が輝いている。そしてスリット(裂け目)がある。きっとスリットのどこかが入り口なのだろう。しかし遠目にはいまいち判然としない。

ぐるっと周りを一周してみて、あれ、と思った。どこが正面(ファサード)なのかが分からないのだ。いや、ファサードはおそらく公園側なのだろうが、“裏”らしいところが見当たらないのだ。これはなかなか面白い。いいね。

そしてやはり入口はスリット内にあった。このスリットは内側で全て繋がっており、どちらが裏だか分からないその裏側や、同様の側面へ通り抜けることができる。建築面積約700平米・高さ22メートルというそこそこ大きな鉄筋コンクリート造りであるにもかかわらず軽快な感じがするのもスリットの機能ではないだろうか。

“大きなひとつ”を“中くらいのいくつか”に分けることで内向きの力を発散させ、またわずかではあるが向こう側を見通せることにより風景と同化し、つまり異物としての排他的な重厚感を打ち消している。

東京タワーに比べてスカイツリーが景色に馴染まないのも同じ理由ではないだろうか。スカイツリーは大きさの割にボテっとし過ぎており、景色を分断してしまっているのだ。もう少し隙間を作ってやればいずれ東京タワーのように愛されたかもしれないが、もはや諦めるしかない。あれは失敗作だろう。

◆女性建築家・妹島和世のラディカリズム

すみだ北斎美術館の設計を担当した妹島和世(せじまかずよ)についてもいくつか。1988年の鹿島賞受賞を皮切りに数多くの建築賞を受賞しており、2010年には女性としては2人目、日本人女性としては唯一(2017年現在)のプリツカー賞(「建築界のノーベル賞」と呼ばれている)受賞を果たした。

西沢立衛と共に立ち上げた建築家ユニット「SANAA(サナー)」での活動は世界に知られており、身近なところでは「金沢21世紀美術館」や「ディオール表参道」がその作品だ。妹島和世の作品は外観が非常に現代的であり、その印象は素材に金属板やアクリルを用いていることとも関係している。

また部屋や通路の配置が大胆であることなどとあわせてラディカルな作家として認知されているが、本人としては奇抜なことをやろうというつもりはなく、あくまでも自分なりの合理性を貫き通した結果だという。一見変わった造りのすみだ北斎美術館も先のとおり合理的な一面を持っており、実際に館内を歩いてみてもその感は薄れない。良い建築だと感じると共に、これを設計した妹島和世という建築家に対する興味が一気に噴出してきた。他の作品も見学してこようと思う。

◆北斎という衝撃

西の世界へジャポニスムという大衝撃を与えた葛飾北斎。西洋の人々の葛飾北斎に対する評価は、日本に暮らす私たちが想像するよりも遥かに高いのだという話は、直接あるいは読書を通じて間接的に何度も耳にしている。そんな葛飾北斎について知りたければ、すみだ北斎美術館へ行ってみるといいだろう。そして2017年10月末には国立西洋美術館にて『北斎とジャポニスム』展が開催されるというからこちらも要チェックだ。

[撮影・文]大宮浩平

▼大宮 浩平(おおみや・こうへい)
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東京都新宿区百人町1丁目。山手線の新大久保駅を中心としたこの地域は歌舞伎町の裏手にあたり、水商売の匂いが消えない。韓国やトルコの人々が住み働く外国人街であり、また古くからの住宅街でもある。

雑然と散らかったこの街の空気はどこか澱んでおり、決して清潔な印象を持つことができないが、そういった諸々を人間臭さとして認めることで僕はこの街が好きになった。そんな百人町1丁目で発見した建築、新宿ホワイトハウスを紹介しよう。

◆磯崎新の処女作 ネオ・ダダ吉村益信の自宅 

新宿ホワイトハウスは、建築家・磯崎新の処女作であり、美術家・吉村益信の住居として設計された。代表作としてロサンゼルス現代美術館や水戸芸術館、東京造形大学八王子キャンパス等を挙げることのできる磯崎は、やはり建築界の大御所だ。

1960年、モダニズム建築を推し進めた丹下健三の運動に参加するも、モダニズムでは無視された装飾性や過剰性といった要素を取り戻すべきだという考えを抱くに至る。こうした思想の下、1980年代以降はポストモダニズム運動を牽引していくこととなり、その業績から建築のみならず美術の文脈を知る上でも重要な建築家として認知されている。

新宿ホワイトハウスに暮らした吉村益信は、1960年に登場した前衛芸術集団「ネオ・ダダ(ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ)」の主宰であり、ホワイトハウスはネオ・ダダの活動拠点であった。ネオ・ダダのメンバーとして有名な篠原有司男(通称:ギューチャン)、赤瀬川原平、荒川修作らに加え、メンバーではないが磯崎新もここホワイトハウスを度々訪れていたという。

 

◆「カフェアリエ」の“トマソン”

現在は、建物の一部を改装し喫茶店「カフェアリエ」として営業を行っている。ツタ植物に覆われた特徴ある外観だが、横道のさらに裏手に建っているため目立たない。

許可を得て外観を撮影していると、早速“トマソン”(ネオ・ダダのメンバーである赤瀬川原平が提唱した芸術概念。不動産に付着する無用の長物を指す。ここでは用途不明の2階の戸)を見つけた。

 

 

◆吹き抜け天井、白い壁、床に残った絵の具の跡

中に入ると、思わず深く息を吸いたくなるような吹き抜けの天井、白い壁。床には絵の具の跡が残っている。

バー・カウンターはカフェ開業に伴って据え付けたもので、ネオ・ダダ時代の押入れを改装して現在の厨房に仕上げたという。当時の台所もそのまま残っており、写真の通りだ。いかにもアトリエといった空気が心地よく、感傷的になってしまった。

本棚にはもちろんネオ・ダダ関連の書籍が並んでいる。ダダイスト諸兄には是非足を運んでもらいたい。

 

[撮影・文]大宮浩平

▼大宮 浩平(おおみや・こうへい)
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愚直に直球 タブーなし!『紙の爆弾』7月号【特集】アベ改憲策動の全貌

多くの人たちと共に〈原発なき社会〉を求めて『NO NUKES voice』

最新刊『NO NUKES voice』12号【特集】暗い時代の脱原発──知事抹殺、不当逮捕、共謀罪 ファシズムの足音が聞こえる!

夜行バスではあまり眠れなかった。隣がいたら休めないことは分かっていたから、割高(それでも片道4,000円)の独立3列シートを購入したのにもかかわらず、だ。

川崎を出発するまでシートを倒すな、消灯したらスマホを見るな、カーテンを開けるな、渋滞中です。繰り返されるアナウンスに嫌気がさしたまま京都に到着した。

マイクロバスに乗り換え、しばらく北上。6月6日(火)、高浜原発3号機の再稼働を阻止すべく集まった人々と共に現地へ向かった。

◆5月17日の4号機再稼働に続き、6月6日に3号機が再稼働

高浜原発3号機、4号機は、2016年3月に大津地方裁判所が下した決定により運転を停止。裁判所が稼働中の原発の運転停止を命じた初の事例として注目されていた。

しかし、今年の3月に大阪高等裁判所が大津地裁の判断を覆す決定を下したことで、5月17日に4号機が再稼働。3号機についてはこの日、6月6日の14時に再稼働が予定されていた。

◆たじろぐ警察官、近づく海上保安庁ボート

高浜原発付近では複数回の検問に足止めされた。強気の運転手にたじろぐ警察官。なんのための検問かと尋ねると、ペットボトルロケットが打ち込まれたことなどを受け原発を警備しています、と答える。ワードのコントラストがなかなか面白い。

“音海地区”から原発を眺めていると、海上保安庁のボートが近づいてきた。それにしても海は透明で、風も心地よい。原発さえ見えなければとても穏やかな環境だと言える。

◆警察らと対峙する人たち、涙ぐむ黒田節子さん

現地には、報道陣や警察官を除き、約120名が集まっていた。数こそ少なく感じるかもしれないが、あのような僻地の限られたスペースだ。警察らと対峙する人数としては迫力がある。

暑い日差しのなかスピーチとシュプレヒコールを繰り返すも、3号機再稼働の知らせが入る。以降、原発を止めろとの主張に変更し抗う参加者。

「福島はもう取り返しがつかないが、高浜ではまだまだやるべきことがある」と語る、原発いらない福島の女たち・黒田節子さんの目には涙が浮かんでいた。

◆ゲート前の騒然──途絶えた拡声器の音と抗う人たち

代表者がゲート内に入りマイクを握った際、鉄製のゲートを締め切ったことが無線の障害となったのか、拡声器から声が聞こえなくなってしまった。

申し入れ内容を聞かせてくれと頼む声を無視されたことに反発し、数名がゲートに駆け寄り制止されるという、やや騒然とした場面も見られた。

[撮影・文]大宮浩平

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多くの人たちと共に〈原発なき社会〉を求めて『NO NUKES voice』

6月10日(土)、国会議事堂を取り囲むようにして大勢の人々が集まった。これは“共謀罪”の趣旨を盛り込んだ組織犯罪処罰法改正案に反対する集会で、約1万8千人(主催者発表)が参加した。

参加者は老若男女問わず、カラフルな幟の数々を見ていただければ団体の種類も様々であることが分かるだろう。個人の参加者も多く、また反原発の集会に比べると若年層参加者の割合が大きいようだ。若い人たちは、肩を張らない自然な態度でここへ来ているように思われ、シニア層のそれとは断絶があるものの、そこに一種のリアルを感じることができる。

さて、現場の様子はヴィジュアルから感じ取ってもらうこととして、たまには所感を述べてみようと思う。

このような現場に何度も足を運んでいると、反対運動の“コード”のようなものを否が応でも感じることになり、僕はそこに違和感がある。例えば、定められたエリアでのみ活動しているということ。法的根拠すら持たないそのエリアから出ることのできない者が、国家権力に対抗できるのか。

例えば、登壇者のスピーチはここにいる皆の意見を代表しているのだ、ということの了解を求めてくるパノプティコン的空気感。組織犯罪処罰法改正案に反対するという立場が同じであっても、その根拠やニュアンスは様々だ。そうした多様性は小数点以下とみなして留保し、とりあえず整数で共闘しよう!というのはある程度合理的でまた分かりやすい話なのだが、ニュアンスを殺しすぎている。

どうしても納得ができないのであれば、「ふざけんな!」だとか「いい加減にしろ!」と叫んでしまうこともあるだろうし、こらえきれなくなって相手を殴りつけてしまうこともあるだろう。褒められたことではないが、“どうしても納得ができない”のだから仕方がない。そうした噴出が現れず、また現れそうな気配もない。安心安全に設定された反対運動のコードに、皆が礼儀正しく従っているのだから当然だ。

小学校の時に感じた「前ならえ」への違和感は、どこへ消えてしまったのだろうか。

[撮影・文]大宮浩平

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多くの人たちと共に〈原発なき社会〉を求めて『NO NUKES voice』

 

今回紹介するのは、港区飯倉地区のランドマーク的建築である“ノアビル”だ。設計を担当した建築家・白井晟一(しらいせいいち)を通じて、この建築の思想に近づいてみよう。

1905年(明治38年)に銅版職人の長男として京都に生まれた白井晟一は12歳で父と死別。姉の嫁ぎ先である日本画家・近藤浩一路に引き取られて暮らすことになる。姉に勧められて進学した京都高等工芸学校(現京都工芸繊維大学)を卒業後、哲学を学ぶためドイツに留学。帰国後、近藤浩一路の自邸設計を手伝ったことをきっかけとして建築の道へ入り数々の作品を……と、これが氏の略歴だ。

ちなみに白井晟一は建築士免許を取得していない。1950年(昭和25年)に建築士法が施工された当時、すでに建築家として活躍していた者へは無試験で建築士免許が付与された(たとえば丹下健三はこれにより一級建築士免許を有することになった)のだが、白井晟一はこれを辞退した。制度そのものが気に入らなかったと聞くが、確たることは言えない。

◆アポロ丹下とデュオニソス白井

白井晟一と同世代の建築家として名が挙がるのは(先にもチラっと登場した)丹下健三だ。広島平和記念資料館、東京都庁舎第一本庁舎、代々木第一体育館といった建築を手がけており、日本人としては最も著名な建築家である。その丹下健三の持論展開をきっかけとして、1955年(昭和30年)に建築家の間で論争が巻き起こった。日本の伝統美をいかにして継承するかという課題をめぐり、丹下は、“みやび”や“わび”といった要素の継承を消極的態度であるとして批判し、〈デュオニソス的=縄文的〉な“暗い”ものから、〈アポロ的=弥生的〉な“明るい”ものへと、その伝統継承のありかたを変革することを主張する。

それに対し白井は〈アポロ的=弥生的〉なものではなく、〈デュオニソス的=縄文的〉なものにこそ日本古来の価値を見出せるのだと主張する。これは、ギリシア神話の酒神デュオニソスのうちに示される陶酔的衝動と、太陽神アポロンのうちに示される秩序的衝動との対立を意味している。世界的に見てモダニズム全盛期であった20世紀半ば、丹下の主張はその流れに素直であり白井の論はモダニズムに逆らったものだと言える。

谷崎潤一郎が『陰翳礼讃』のなかで『西洋の文化では可能な限り部屋の隅々まで明るくし、陰翳を消す事に執着したが、古の日本ではむしろ陰翳を認め、それを利用することで陰翳の中でこそ生える芸術を作り上げたのであり、それこそが日本古来の美意識・美学の特徴だ」と述べたのは1930年代半ば。よりモダニズムが加速した1950年代にこれを主張した白井は、より革命的な態度で建築に挑んでいたと言える。

◆ヤスパースから哲学を学んだ建築の“実存感”

ノアビルを見てもらいたい。ベルリン大学でカール・ヤスパースから哲学を学んだというだけあってか、かなりユニークにその“実存感”をアピールしている。ノアビルは《建築漂流02》で紹介した“霊友会釈迦殿”のすぐ近くに屹立しており、釈迦殿帰りには自然と目にすることになるため「なんかまたヘンなのがいるよ……」と注目必至である。

しかしこれだけ特徴的な建築を完成させるにあたっては、どうしても関係者の協力が必要だ。この点、ノアビルの創業者・長尾剛鶴は建築に造詣が深く、白井晟一氏の設計理念に共鳴して同ビルの設計に際し全てを委ねたというから力強い。1974年(昭和49年)の竣工当時、設計者の夢を叶えたオーナーとして長尾剛鶴は高く評価されたという。余談だが、白井晟一は本の装丁デザインにも関わっており、中央公論社の鳥のイラストは彼の作品だ。これにもちょっと驚いた。

 

[撮影・文]大宮浩平

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愚直に直球、タブーなし!『紙の爆弾』

麻布十番駅と三田駅に挟まれた一角。中之橋の南側。国際福祉大学三田病院、三田国際ビル、イタリア大使館といった重量系の建物が揃うこの地区で、一風変わった風貌の神社を見つけた。今回は、そんな元神明宮天祖神社(もとしんめいぐうてんそじんじゃ)を紹介しよう。

 

◆“都心に鎮座する最も近代的な神社”

打放しコンクリートで仕上げられた近代建築の隅に“元神明宮”という文字を見つけたときは、はてなと思った。時間経過を伝える石垣。残された木々の緑。道の傾斜と方角を無視しない造りは、土地や歴史との調和を図ろうという心遣いの表れだろう。立派な建築ではあるがまさか神社ではあるまいと思いながら南側へ廻ると、確かに鳥居が建てられており、また石碑には“天祖神社”とある。インターネットを使って調べてみると、ここは元神明宮天祖神社という神社であり、寛弘2年(1005年)に一条天皇の勅令によって創建されたということが分かった。この風貌は平成6年に行われた全面改築の結果だという。同社ホームページにも“都心に鎮座する最も近代的な神社”とあり、なるほど自覚的だ。

この元神明宮を知るため、そこに祀られた神について調べてみた。建築というテーマから外れることになるが、せっかく調べたので書いておこうと思う。名称を多用するため読みづらいかもしれないが、どうかお付き合いいただきたい。

普通、神社では複数の神を祀っており、主として祀られる神を主祭神(しゅさいじん)または主神(しゅしん)、それ以外の神を相殿神(あいどのしん)や配神(はいしん)などと呼ぶ。元神明宮の主祭神は天照大神(あまてらすおおみかみ)、相殿神は水天宮(すいてんぐう)だ。

◆元神明宮──その名に潜む自嘲性

港区の芝に鎮座する芝大神宮をご存知だろうか。主祭神は天照大神と豊受大神(とようけのおおみかみ)の二柱で、これが神社界のトップである伊勢神宮と同じであることから“関東のお伊勢様”として親しまれている神社だ。この芝大神宮は元神明宮と同じ寛弘2年に建てられたもので、また芝大神宮は増上寺の東側、元神明宮は増上寺の西側に位置しており両者はご近所さんでもある。現在はそれぞれ芝大神宮、元神明宮と呼ばれているが、当初はどちらも単に“神明宮”と呼ばれていたという(天照大神を主祭神とする神社は一般に“神明宮”や“天祖神社”などと呼ばれる)。

時が流れて江戸時代。徳川幕府は、増上寺付近に鎮座するこのふたつの神明宮をひとつにまとめようとした。要するに“三田の神明宮”を消して“芝の神明宮”を残そうということになったのだが、それに納得できない三田陣営は御神体を隠してそれを警備し、断固として芝陣営へ渡さなかったという。こうしたドラマを経て“三田の神明宮”はいつしか“元神明宮”を名乗ることになったのだ。歴史を知ってみると、当初違和感のあった“元神明宮”というネーミングに自嘲的な感じが加わって面白い。現在の堅固なコンクリート造りは、あるいはこうした歴史を踏まえたものなのだろうか。

◆水天宮と久留米藩

元神明宮の相殿神である“水天宮”の総本社は現在の福岡県久留米市に鎮座しているのだが、この水天宮を巡ってはこんな話がある。江戸時代初期、元神明宮に隣接して大名屋敷が置かれることになった。それは江戸時代初期から明治維新までの約250年間にわたり久留米藩を治めた有馬家の上屋敷で、敷地面積は25,000坪(東京ドーム2個分)と広大だ。現在、その跡地には国際福祉大学三田病院や三田国際ビルが建っている。明治初年、その有馬家が青山へ移転する際に元神明宮へ祀られたのが水天宮なのだ。その時代、江戸に文化が流入してきたことが分かるハッキリとした表れだ。

◆神に寄り添う社殿直結賃貸ビル

それにしてもこの神社、建物の円柱部分を社殿直結の賃貸ビルとして経営しているというからこれまた面白い。もし家を建てるなら、とイメージを膨らませるとき、インテリア好きの筆者はその内側にばかり集中するのだが、とりあえず外壁は打放しコンクリートであるものとして妄想を深めていくことが多い。そんな好みだから、大成を願いながら神に寄り添ってここに暮らすのも悪くないと思うが、さてどうだろう。

 

[撮影・文]大宮浩平

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愚直に直球、タブーなし!『紙の爆弾』

 

東京タワーを右手に桜田通りを北上し、飯倉交差点、つまりは右折すれば東京タワーにたどり着くその交差点を過ぎるとき、左手奥に見える異様な建造物。都心のタクシードライバーは、これに関する知識をきっと用意している。好奇心旺盛な乗客がそれを目にすれば「あれはなんだ!」と質問するに違いないからだ。

霊友会釈迦殿(れいゆうかいしゃかでん)は、その名の通り宗教法人霊友会の本部施設であり、同会ホームページによれば「釈尊との心の会話を交わす場として建立」され、そこでは「在家のつどい、妙一会お花まつり、節分会など、さまざまな行事が行われている」とのことだ。「特徴ある釈迦殿の外観は“合掌”をイメージしています」とも記されている。

竣工は1975年(昭和50年)。延床面積は25,720㎡。地下6階、地上3階の鉄筋コンクリート造。設計施工は竹中工務店。同社設計部の岩崎堅一と絹川正が設計を担当した。岩崎堅一は、有楽町センタービルディング(通称“有楽町マリオン”)や横浜市大倉山記念館といった大規模な設計に携わる建築家であり、受賞歴も多い。また、武蔵工業大学(現東京都市大学)工学部建築学科教授を経て現在は名誉教授を務めるなど、若手育成にも関係する人物だ。

この建造物の特徴として、まずはその“巨大”さを挙げるべきだろう。「ピラミッドの巨大さは、ただ体積が大きいのみならず、それがほとんど実用性を感じ得ない“モニュメント”であることによってより強く感じられるのだ」という話を聞いたことがあるが、釈迦殿についても同じことが言えるのではないか。私がこれを指して“建造物”と呼ばざるを得ないあたりからもその巨大さを感じ取ってもらうこともできるかもしれない。

 

造りとしては、大屋根を支持する28本の柱が目を引く。それらは道を形づくっており、したがって参道の役割を果たしている。柱や床材には御影石(花崗岩)が用いられており、ピカピカに磨かれた石の重みがダイナミックで荘厳な空間を支えている。御影石もその種類によってずいぶん趣が違うものだが、ここに用いられているのは中国の山東省を産地とする“中国マホガニー”もしくは米国サウスダコタ州の“ダコタマホガニー”ではないだろうか。いずれも安価なものではない。参道空間の天井は低く、また装飾はシンプルに統一されており、どこかミニマルな思想を感じさせる。これは、重い扉を押し開けた先にあるメインホールとのコントラストを生むための構造であり、法悦への導入だろう。

実は10年ほど前にもここを訪れたことがあるのだが、そのときの道連れ、自称“B級映画ハンター”によれば「宗教団体はとにかく信者を集めなきゃいけないから、まずはヴィジュアルで攻めてくる」のだという。なるほどそんなものなのか知らん。

 

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多くの人たちと共に〈原発なき社会〉を求めて『NO NUKES voice』

 

東京大学のすぐ近くに本郷館という建物があった。日本最古の木造三階建てとして知られたその建物は、かつて下宿として活躍し、その最後まで学者や物書きに愛され続けた名建築だ。風呂なしキッチンなしトイレ共同。わずか3畳のスペースに、オットマン付きのイームズ・ラウンジチェアとB&Oの大型スピーカーを置いて生活していた摩訶不思議な友人を訪ねたことを思い出す。2011年に本郷館が取り壊された時、非常な喪失感とともに私は涙を流した。

二度とこの気持ちを味わうことはしたくない。いつか取り壊されてしまうその前に写真に収めれば、己の精神衛生管理に役立つはずだ。そんな思いでちまちまと古建築を撮影しているのだが、ここではその“古建築アーカイブ”活動の一部を紹介する。第1回は『JR原宿駅木造駅舎』としよう。

◆関東大震災の翌年1924年に竣工

原宿駅が日本鉄道の駅として開業したのは1906年(明治39年)。当時の駅舎は現在のものよりも代々木駅寄りに建てられており、貨物列車の営業も行っていたという。1920年(大正9年)の明治神宮完成、1923年(大正12年)の関東大震災を経て、1924年(大正13年)に改めて建設されたのが現在の駅舎だ。東京都内に現存する木造駅舎としては最も古いものであり、その特徴的な外観は初めて訪れた者の注目を集めること必至である。

ファサード(建物の正面)を含む外壁に用いられているのは、“ハーフティンバー様式”という建築技法で、壁(白色であることが多い)から覗く材木のラインが特徴的だ。イギリスやドイツ、フランスの木造建築に見られる様式だが、特に15世紀から17世紀に建てられたイギリスの住宅に用いられていることが多い。このハーフティンバー様式と、屋根に載った尖塔や時計の装飾とが相まって、原宿駅木造駅舎は“ヨーロッパの田舎町”風の趣を醸している。小ぶりで可愛らしいデザインの建物がものすごい数の乗降者を迎え送り出しているその姿を眺めていると、健気で微笑ましい感じがして面白い。設計したのは鉄道省公務局建築課の長谷川馨。同氏の作品である2代目横浜駅舎にも原宿駅同様の尖塔が付いていたというが、残念ながら取り壊されている(現在の横浜駅は3代目)。

◆この駅舎は残してほしい

2017年6月8日、東京オリンピックが開催される2020年までに原宿駅を改良し、新駅舎を建設するという計画が発表された。降者数に比し原宿駅舎は小さすぎるのだろう。他にも事情があるのかもしれない。しかし改良が進められるにしても取り壊しは避け、なんとか現在の駅舎を残してほしいというのが筆者の願いだ。連続したデザインで新駅舎と接続し、駅としての機能を新駅舎に移すということでも構わない。建築を含む都市の景観はそこに暮らす人々の感性に直接影響するものなのだから、都市計画に従事する人間や建築家はそのことをよく理解し、より真剣に扱ってほしいと思う。

 

 

[撮影・文]大宮浩平

▼大宮 浩平(おおみや・こうへい)
写真家 / ライター / 1986年 東京に生まれる。2002年より撮影を開始。 2016年 新宿眼科画廊にて個展を開催。主な使用機材は Canon EOS 5D markⅡ、RICOH GR、Nikon F2。
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「ふるさと納税」制度がスタートしてから9年弱。2017年2月24日に開かれた記者会見で、菅義偉官房長官は「ふるさと納税で多くの地域が活性化した」と述べ、また「2016年度のふるさと納税の寄付額が前年度の2倍になる」との見通しを明らかにした。2015年度の寄付総額は約1653億円であるから、今年度の寄付総額は3000億円を超えるだろうということだ。

2008年4月30日に交付された「地方税法等の一部を改正する法律」により、個人住民税の制度の一つとして同年5月よりスタートした「ふるさと納税」。制度が始まった2008年度の寄付総額は約81億円だったが、各自治体が高級肉や家電などの返礼品を用意したことが話題になり、利用が拡大。2014年度は約389億円。2015年度はその約4倍と寄付額は急増していた。

2016年度上半期の町別寄付額ランキングで1位になった佐賀県上峰町。人気の的となっている「佐賀牛」を中心に、野菜や果物といった自慢の農産物を多くの人に知ってもらおうというイベントが品川の「QUEEN’S ISETAN」にて催されていたので立ち寄ってみた。

しっかりとデザインされたチラシとイベント用に用意したと思われるポップやユニフォーム。会場内に5箇所あるコーナーで試食をすると、チラシにシールを貼ってくれる。シールを3枚集めれば抽選会に参加でき、特産品の「天衝米」などが当たる。こんなスタンプラリーも行われていた。

都道府県別寄付額第1位である北海道をはじめ、多くの自治体でその制度が評価されている「ふるさと納税」だが、自治体間の競争が過熱し、返礼品にかかる費用の負担が重くなるなどの弊害も出ている。自治体の税収に関わることなのだから、こういった議論は絶えないだろう。絶やす必要もない。しかし、寄付額ランキングで上位であることを看板に掲げて「QUEEN’S ISETAN」などというプチブルスーパーマケットでキャンペーンを展開できるのだから、税制としては異例にポップである。その点を僕は面白いと思うし、法や制度というものが極めて身近なものだということを知るきっかけとしても有効なのでは、なんてことも考えてしまう。

余談だが、帰宅して佐賀県上峰町の寄付額を調べてみると2016年度上半期の市町村別ランキングでは7位となっている。あら、と思ったが、よく見ると上峰町が1位と謳っているのは“市町村”別ではなく“町”別ランキングなのであった。市や村は除き、日本の町の中で1番です、と言っているのだ。なるほど、“過去最高”や“歴代新記録”が量産されるように、1位を獲得する方法も様々である。

[撮影・文]大宮浩平

▼大宮 浩平(おおみや・こうへい)
写真家 / ライター / 1986年 東京に生まれる。2002年より撮影を開始。 2016年 新宿眼科画廊にて個展を開催。主な使用機材は Canon EOS 5D markⅡ、RICOH GR、Nikon F2。
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