格闘群雄伝〈39〉新妻聡 ── 肉体言語を貫いた野武士[前編]

堀田春樹

◆「先生と呼ばれるよりチャンピオンと呼ばれたい!」

元・WKBA世界スーパーライト級チャンピオン、新妻聡は1967年(昭和42年)3月27日、東京都三鷹市出身。沢村忠に似た風貌と言葉少なに肉体言語を貫き、日本ライト級王座に君臨。更に日本人初のWKBA世界王座奪取を達成。ファンの記憶に残る数々の名勝負は、かつての昭和の泥臭さが漂っていた。肉体言語を貫く拘りには、マイクアピール、パフォーマンスは一切やらない、戦いで語る信念があった。だが、言葉少ない中でもプライベートでは明るく、お茶目で人懐っこい人物である。

幼い頃はあまり勉強せず身体動かすのが好きだったという。小学校から中学3年生までは野球。高校から柔道を習い、日本体育大学へ進学。教員になることを勧められていたが、「先生と呼ばれるよりチャンピオンと呼ばれたい!」という希望からプロ格闘技の道を選んだ。

キックボクシングを選んだ理由は「メジャーとかマイナーとか関係無く、キックボクシングが一番強いだろう!」という強さへの憧れだった。

大学の柔道部の合宿所に泊っていた頃、合宿所のすぐ脇の通りを目黒駅行のバスが走っていた。そのバス一本で目黒駅まで行ける路線の、その手前の権之助坂で降りるだけ。目黒ジムを選んだのはそれだけの理由で、大学4年になる前の1988年3月、迷わず入門した。

◆痛いスタート

入門すると、柔道で鍛え上げられた基礎体力もあって半年後、同年9月に早くもプロデビュー戦を迎えた。

「柔道部合宿所で結構ボロクソに痛めつけられているから、どうってこと無いだろうと思っていたらプロの世界は厳しかった。バックドロップを試みたが、背中から落ちるだけでダメージを与えられるものではなく、柔道の内股かけて投げたらレフェリーに厳重注意され、その後ボコボコに殴られてKO負けでした!」という痛いプロデビューだった。

同年11月、第2戦目は当初、新人王トーナメント戦で、相手の欠場で代打出場となったが、デビュー戦で負けてるのに出場はカッコ悪く辞退するつもりが、ジムの先輩、日本バンタム級チャンピオンの鴇稔之さんが自身のV2防衛戦控えているのに、時間掛けていろいろ指導してくれていた中、その熱意に応える為にも出場に踏み切ったという。相手は3戦3勝だった。

「投げは反則だけど、2回投げたら減点取られるから1回だけやれ!」とトレーナーらの暗黙の了解があった。それを鵜?みにして内股掛けて投げたら相手は後頭部打って立てなくなってしまった。勝ったと思って「やった~!」とガッツポーズしたところが反則失格負けを宣せられ、これで2戦2敗である。

1989年に入ると団体側(隆盛を誇った時期もあったMA日本キックボクシング連盟)の運営崩壊で新春から興行が無くなった頃だった。新妻聡は名門目黒ジムが進む先に興行は必ずあると見込み、逆に徹底的に練習量を増やした頃だった。その成果で興行再開後の3戦目はKO勝ち。4戦目は判定勝利。5戦目は粘り強い相手に第3ラウンドに劣勢になって際どくも判定で逃げ切った試合だったが、これで5戦3勝2敗でようやく白星先行となったところでタイ遠征に向かうことになった。

飯塚健(治政館)戦、この試合に勝って1位に上昇した新妻聡(1990.12.15)

◆タイ遠征から躍進

当時の目黒ジムの野口和子代表には「タイでは試合しないように!」と忠告されていたが、向かったチューワタナジムは試合を控える強い選手が多く、皆トレーナーは忙しくて、新妻聡には誰もミットも持ってくれなければ首相撲の相手にもなってくれない。これではタイに来た意味が無いと考えた末に、「試合したいです!」とチューワタナジムのアンモー会長に直訴した。それはすんなり受け入れてくれたが、ここから選手やトレーナーの寄ってたかって思った以上の鬼のようなしごきが始まったという。

やがてアンモー会長から「ラジャダムナンスタジアムで試合が決まったぞ!」と言われた時は緊張が走った。当時はとてつもない強豪が集まる殿堂スタジアムという先入観があり、「日本で5戦3勝2敗の俺がラジャダムナンスタジアム出場なんて、アンモー会長はマイペンライナ(大丈夫、大丈夫!)としか言わないし、本当怖かったですよ!」と当時の心境だった。

でもラジャダムナンスタジアムと言っても日曜日の昼興行は新人戦で、それは後で知ったことだった。

初めてのタイ、初めてのラジャダムナンスタジアムでの試合。新人戦でも選手層の厚さからレベルは高いのは当然だった。けど全力で立ち向かえば為せば成ると、「第1ラウンド、左フック一発でKOしちゃった!」と語る。

帰国第一戦がタイ行く前に対戦した相手だったが、今度は5回戦だった。長丁場になると相手から見ればはスタミナ的に有利だったかもしれない。でもタイで勝って自信付いたのか、しごかれたことで実力アップしたのか、圧倒の第1ラウンドKO勝利。実力急上昇が実証された試合だった。

セコンド後ろ姿はトレーナー時代が長かった藤本勲氏、沢村忠時代から目黒の象徴であった(1991.5.24)
日本ランキング戦は負けることなく長く1位をキープ(1991.5.24)
タイの実力者、日本人キラー、パントーン・ソムチャイにも勝利した新妻聡(1992.5.23)

◆メインイベンターへの道

その後も上位ランカー飯塚健を下し、日本ライト級1位に上昇。当時のチャンピオンは同門の先輩、飛鳥信也で、この1位留まりは3年ほど続いた。同門対決は基本的には行なわれないが、トーナメント戦やタイトルマッチは例外とされる。しかし新妻聡は「尊敬する先輩と戦う気は無い!」という姿勢も見せていた。練習を共にし、多くの指導をしてくれた先輩との対戦を想定することは出来ない様子だった。

1994年7月16日には、世界挑戦に向けた飛鳥信也が返上した日本ライト級王座をハンマー松井(花澤)と争い、判定勝利で初の王座獲得となったが、それまでも日本人ランカー、階級を越えた対決や、伝説のスーパースター、サーマート・パヤックアルンやラジャダムナン系ライト級チャンピオン、ゲントーン・ギャットモンテープ(タイ)、オランダのノエル・バンデン・ファウベルら名声有る強豪と激闘も残すことが出来、マッチメイクに恵まれた時代でもあった。

日本ライト級王座決定戦でハンマー松井と対戦、激闘を制して初の王座獲得(1994.7.16)
目黒ジム色が強いスリーショット、当時のMA日本キック連盟代表の藤本勲、新妻聡、小島弘光レフェリー(1994.7.16)

次回、後編ではその戦いの軌跡を紹介します。(つづく)

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▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
昭和のキックボクシングから業界に潜入。フリーランス・カメラマンとして『スポーツライフ』、『ナイタイ』、『実話ナックルズ』などにキックレポートを寄稿展開。タイではムエタイジム生活も経験し、その縁からタイ仏門にも一時出家。最近のモットーは「悔いの無い完全燃焼の終活」