2017年3月5日掲載の、「埋もれた勇者 ── 足立秀夫という男」というタイトルで掲載していますが、格闘群雄伝版でもう少し踏み込んだ展開にしてみました。

短い期間だった渡邉ジムでの練習風景、上り調子の頃(1981.12.21)

◆自衛隊から突如転身

足立秀夫(あだちひでお/1957年5月21日、静岡県袋井市出身)は1979年(昭和54年)4月、名門・目黒ジムからライト級でデビューし6連勝。後に移籍後もチャンピオンには届かなかったが、強い蹴りと強面の荒々しい試合で存在感が増して行ったキックボクサーだった。

子供の頃から走ることが得意だった足立秀夫はマラソンでは常に一番になり、高校卒業後は船に興味があったことや基礎体力に自信があったことで海上自衛隊に入隊。そこでたまたまキックボクシングをやっていた隊員に誘われ目黒ジムを見学すると、キックボクシングの凄さを実感。本能的にいきなり自衛隊を辞め、その目黒ジムに入門した。

子供の頃からの走り込みや自衛隊で鍛え上げられたパワーとスタミナで勝ち進んだデビュー1年後に、小泉猛(現・ジャパンキックボクシング協会代表/市原)と引分ける試合があった。

「このままではこの先勝てなくなる。技術を磨かねば」と一層そんな欲求に苛まれ、1981年春に単身、タイ修行に臨んだ。

それまでの目黒ジムでは、野口ボクシングジムとの交流も多かった縁でパンチの戦法が活かされたが、このタイ遠征した際に出会った元・東洋フェザー級チャンピオン、西川純氏の存在が大きく運命を変えた。

「タイ選手もビビるほどの強い蹴りを持てばタイのトップクラスでも通用する!」と言われた蹴り主体の戦法に変わり、帰国後は西川ジムに移籍し、磨きをかけた左ミドルキックは驚異的となった。

バンモット戦の試合直前、西川会長と出番を待つ(1982.1.4)

◆不憫な環境でも充実練習

足立秀夫が練習の場としていたのは西川ジムが間借りしていた、新小岩にあった渡邊ジムだった。この渡邊ジムとの縁は4ヶ月程だった様子。この年10月に発足した日本プロキックボクシング連盟が半年足らずで分裂が起きていることから大凡の事情は把握出来たものだった。

暫くは京成小岩駅近くにあった西川純会長宅前の路地を使って練習を続けていた。敷地内の二階建て木造アパートが合宿所となって、足立秀夫の他、数名の選手はこのアパートに住んでいた。流し台のある六畳一間でトイレ・洗濯場共同の風呂無しアパート。家賃五千円らしい。このアパートでは廊下でも会話が多い和気藹々とした雰囲気。当時の学生身分から見れば、充分住み易いアパートだった。

路地での練習は夕方の限られた時間しか集まれない為、選手が増え、賑やかになり過ぎた頃、近隣からの苦情で撤退を余儀なくされてしまった。すると夜の市場を借りたり、アパートの部屋の壁を撤去して二部屋分をジムにしてしまう工夫も見られたが、1982年12月半ばには国鉄小岩駅から200メートル程歩いたところの雑居ビルでジム開設に至った。港建設に支援され、暫く「港西川ジム」と改名されたのもこの縁である。開設披露日に業界関係者が祝福に訪れ、足立秀夫が藤原敏男氏とスパーリングを行なえたのも貴重な体験だったという。

バンモット戦の朝、計量前にフラッと散歩(1982.1.4 朝7時頃)

◆全盛期

足立秀夫は西川ジムに移籍後の1981年9月末、山梨県甲府市で日本ライト級チャンピオン、須田康徳(市原)に挑戦したが判定負け。この時すでに日本キックボクシング協会(旧・TBS系)は内部分裂していた様子が窺え、クーデターと言われた革命の日本プロキックボクシング連盟発足に繋がっていった。

同年10月25日、その設立興行で足立秀夫は過去一度勝っている長浜勇(市原)に判定勝利。

長浜勇戦第2戦はパンチには苦戦も主導権奪って判定勝利(1981.10.25)

翌1982年1月4日にはタイの元ランカーで来日4戦4勝の、バンモット・ルークバンコー(タイ)にKO負けしたが、序盤はアグレッシブに攻め、日本人が対戦した中で最もいい試合したと評価を得た試合でもあった。

この年11月には画期的な1000万円争奪オープントーナメントが始まり、翌1983年2月5日には藤原敏男(黒崎)と62kg級準決勝戦を行ない、第3ラウンド、右ストレートで倒されたが、ジム開設パーティーで藤原敏男とのスパーリングで得た手応えから気力充実で全力で挑んだ試合だった。これが藤原敏男氏の現役最後の試合となったことも後々映像で振り返る機会多い試合となった。

藤原敏男戦は最も緊張し、気力も充実した試合だった(1983.2.5)

気合いが入るというのは強さ倍増する自信となった足立秀夫。藤原敏男と戦った乗りに乗ったモチベーションは10日後の香港遠征で、タイから選抜されて来た選手に蹴りでKO勝ちしたという結果はより一層自信に繋がったという。

同年5月28日には日本プロキック・ライト級王座決定戦を須田康徳と争い、右アッパー喰らって3ラウンド終了時TKO負けで雪辱成らずとなったが、翌6月17日、内藤武(士道館)に逆転の判定勝利。連戦の大物との激闘に疲れが見えていたのも事実だったが、この頃までが一番輝いていた時期だった。

ヘビー級の斎藤三郎とエキシビジョンマッチ、意外と人気で盛り上げた(1983.9.18)

◆下降の原因

翌1984年1月5日、過去2勝している長浜勇に2ラウンドKO負け。同年5月26日にはサバイバルマッチと言われた内藤武戦で借りを返される判定負け。同年10月13日にはバンモット・ルークバンコーとの二度目の対戦もアゴにハイキック喰らってKO負け。

上り調子だった長浜勇に倒された第三戦(1984.1.5)

11月30日には統合団体、日本キックボクシング連盟設立興行で新鋭・飛鳥信也(目黒)に序盤先手を打つペースを握りながら巻き返され逆転KO負け。減量失敗でフラフラの状態で現れた朝の計量時、「駄目だ、落ちなかった。グローブハンデでも何を課されても仕方無い!」こんな弱気な、か細い声の足立秀夫は初めてだった。

サバイバルマッチと言われた内藤武戦。返り討ち成らず(1984.5.26)

それまでライバルを突き放し、上位へ挑戦し続けた現役生活。しかし次第に巻き返された昭和59年という現役6年目、この先のメジャーに向かう華々しい新・連盟イベントを最後に引退を決意。太く短く戦った現役生活だった。

引退前だが、気合い充分、雪辱に燃えたバンモット戦(1984.10.13)

ラストファイトとなった飛鳥信也戦、力尽きた戦い(1984.11.30)

「強い奴とやり過ぎたんだ!」とは一緒に練習していたジム仲間の言葉。タイの強豪と戦い、敵わなかったことが「本人も周りも気付かないうちに自信を無くしていったんだろう。」という周囲の声だった。選手を育てるには「勝ち癖を着けることが大事」と言われる。下位には勝てるが上位には勝てないその壁を上手く乗り越えていくことが大事で、強い相手ばかりを続けて当てると敵わないことで伸び悩んでしまうと言われる。しかし、閑散とした日本のリングとキックブームの香港、戦う場が限られていては止むを得なかったかもしれない。

引退後は故郷、静岡の同級生と結婚し、後に地元に帰って焼肉店「東大門」を開店した足立秀夫氏。焼肉店の隣に東大門ジムを開設し、2000年代に入った頃のニュージャパンキックボクシング連盟興行で出場選手を連れて現れた。現役時代に無かった笑顔を振り撒き穏やかな表情で「商売人は笑顔で居なくちゃ駄目だよ!」と焼肉専門店の先輩から教えられたことから「笑顔で居るのが癖になっちゃったよ!」と笑う足立秀夫氏。三人のお子さん(男の子)はいずれも立派に成人。

地方では練習生が少ないが、現在は焼き肉屋を若い者に譲渡し、ジムに顔を出す時間を増やし、そして現役時代のように自らも走り込む時間を送って鍛えることを楽しんでいるという。

現役時代、チャンピオンには届かなかったが、現在のような多乱立王座だったら、何らかのチャンピオンには成っていただろう。しかし、「須田康徳を倒してこそ真のチャンピオン」と信じた現役生活に悔いは無く、「須田康徳さんとも藤原敏男さんとも戦えたのは幸せな現役生活だったよ!」と語っていた。

足立秀夫の現役時、1983年6月に西川ジムに入門した赤土公彦氏は「ジム見学に行った時に前髪が長い独特なスポーツ刈りをしていた足立さんが居て、試合前で気合いが入っていて、体型、風貌も含めてミットやサンドバッグを蹴っている姿がカッコイイと一目惚れで入会したのを覚えています。現在のようなYouTubeや過去の試合映像も無かった時代で、身近に良い見本になる先輩が居たのは自分にとって今も受け継いでいる財産です!」という一発入門を決めたのが足立秀夫の強い蹴りだった様子だった。

私(堀田)が出会ったばかりの頃、試合1週間前に「俺、減量したら凄く顔変わるからビックリしないで!」と言っていた足立秀夫氏。実際の試合当日の朝、他の選手より眼がくぼんで頬がこけた足立秀夫氏の顔があった。毎度の試合の度にこんな苦労しているのかと目の当たりにした減量の厳しさを感じたものだった。

現役の頃に私がお渡しした試合写真は今も大切に持っているという足立秀夫氏。あんなボケボケブレブレの撮影で申し訳なかったが、「それでも俺らにとっては貴重な写真だよ!」と言ってくれたことが嬉しいものである。

「西川純会長は自分を育ててくれた恩人で、また東京へ会いに行くんだ!」という足立秀夫氏。また東京で私とも会えたら、今度はデジタルカメラで高画質の撮影をしてあげたいものである。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
昭和のキックボクシングから業界に潜入。フリーランス・カメラマンとして『スポーツライフ』、『ナイタイ』、『実話ナックルズ』などにキックレポートを寄稿展開。タイではムエタイジム生活も経験し、その縁からタイ仏門にも一時出家。最近のモットーは「悔いの無い完全燃焼の終活」