◆タイから日本へ

ペッブリー県のワット・タムケーウから、1997年春、サムットソンクラーム県のワット・ポムケーウに移った藤川さんはその後、旅がし易くなっただろう。活動が幅広くなり、多くの出会いを重ねることが出来た。

藤川さんの活動を知らぬ者からは、単に人の金で遊び回っているように捉えられがちだが、タイ国内はもとより四国八十八箇所お遍路の旅や、ミャンマーに出向いてメッティーラに行き着いたこと。北朝鮮に渡るまで成し得た活動は多かった。

これまで私とネイトさんを出家に導き(実質、他2名)、数々の人を説法してきた藤川さん。やがてアジアの旅も一段落ついたところで、「人間には帰巣本能がある!」と言ったことも当てはまるのか、やがて、出家する為に京都に捨てて(残して)きた日本の娘一家のことがことが気になりだしたようだ。まだお釈迦様が歩いたシルクロードの旅を残しながらも、「いつでも何があっても飛んで行けるところに居た方がいい!」という結論に達し、比丘のまま帰国を決意。

在籍するワット・ポムケーウの和尚さんから「出家者と在家者の関係が成り立たない日本で生きていけるのか!」と心配されながらも、「やれるだけやって見させてください!」と願い出て、2006年10月26日、正式帰国。住居は新大久保駅から歩いて5分程の、支援者が用意してくれたアパートへ入居。藤川清弘庵となった。

新大久保駅近くを歩く藤川さん(2007年5月24日)

◆新大久保から活動開始

ここでは前々から計画していた「悩める日本人を救いたい!」という想いがあったことから“悩み相談室”なるものを開き、破天荒な人生を送った藤川さんの生き様をテレビやインターネットで知った相談者が藤川庵に訪れること多くなった。またオモロイ坊主を囲む会などから発信されるパソコンでの人生相談も、タイに居た時からメールが入るようになっていた。すでにフジテレビのスーパーニュースの取材も舞い込んでおり、夜の新宿と渋谷の街へ向かった。

新宿歌舞伎町にタムロする若者。そこへ黄衣を纏ったオッサンが現れれば、いつも以上に違和感ある存在となった。道を歩いて若者に声を掛けようと近づけば皆に避けられ、「みんな逃げよるやないかい!」と言葉を漏らす。道路脇でダンボール敷いて寝ようとしているホームレスのオッサンには「ここで寝るんか? 風邪引くなよ!」と声掛けるが、まともな返事は無い。渋谷センター街の地べたに座り込んでいるカラフルなメイクの女子高生に「素顔が見えへんやんけ!」と声掛ければ「ブッ殺すぞテメー!」と野次られた。日本に着いて、新宿を眺め歓楽街を歩いて、「何に飢えとるか言うたら、心に飢えとるな、今の日本は。悩むというより、何をしたらいいんか(どう生きたらいいのか)分からんのちゃうか?」という感想。

京都に住む娘さんとお孫さんにも再会。幼かった4歳の男の子は高校生になっていた。娘さんは父親らしい生き方には納得していて、藤川さんの「出家の為に京都に捨ててきた」というわだかまりも解けたような親子だった。元々仲が悪い訳ではなく、私が出家する前も藤川さんの托鉢姿を撮った写真を「娘に送るからパネルにしてくれ!」と頼まれたこともあった。タイからも日々こんな黄衣姿で頑張っている証を見せたかったのだろう(タイの寺から帰国まで、夜の歓楽街、娘さんとの再会までが放送の内容)。

支援者に支えられ、新大久保生活が続いた藤川さん。ある日、新大久保駅に向かう途中の路上でツッパリ兄ちゃんと肩がぶつかって因縁つけられたという。脅されてもビクともしない藤川さんだが、少々の説教を言ったところでボディブローを一発喰らい、“ウッ”と一瞬後退り。若者は走って逃げて行ったが、下手な素人パンチ、効いたパンチではなかった。藤川さんも「ワシの若い頃と同じやな!」という。あの若者もこの先行きが何も分からない、ツッパルだけしかない幼稚な存在だろうと。

藤川庵でオモロイ説法する藤川さん(2007年5月24日)

◆やがて体調に異変が

日本に移ってからもミクシィを使って多くの出会いあり、オモロイ坊主の説法へ各地へ向かうこと増え、インドのヨガを源流に持つヴィパッサナー瞑想も実践して勧めるなど、充実した日々を送っていたようだった。もう私は会いに行くことは滅多に無かったが、その翌年(2007年5月)、仏門での私と藤川さんの絡みに興味を持っていた私の友達を連れて、新大久保の藤川庵へ向かった。狭い部屋ながら生活必需品が揃ったタイの寺の部屋のような感じだった。そこでも笑いを誘いながら人の身になった指導をしてくれる藤川さん。言葉に落ち着きが増し、以前の喋りだしたら止まらない鬱陶しさは消えていた。

その後(2009年5月)、新宿での待ち合わせで、一度だけ昼飯に呼び出されたことがあったが、その時は黄衣は纏わず、肌色系の羽織物を着て杖を突いていた。老化で右膝が痛くなってきたのだという。黄衣を纏わないことは戒律違反。寒い日本に来たり、北朝鮮に渡った時は靴下を履いたり、シャツやモモヒキを穿き、毛糸の帽子を被ったりもしていたが、これも戒律違反。寒い時期は仕方ないと思うが、これ以外はしっかり戒律を守ってきた藤川さん。

そんな羽織物姿で「小便横丁行こう!」という。思い出横丁のことを小便横丁と呼ぶ藤川さん。その由縁は想像に難しくない終戦後の飲み屋街の環境だろう。

向かう途中、「ワシの母親は早うに呆けてしもうたからな。ワシも歩けんようになったら終わりやと思うで、呆けんように無理してでも歩くようにしとるんや!」と言い、以前より明らかに歩くスピードは落ちていた。

◆深刻化する病状

私と最後の昼食となった日の藤川さんの姿(2009年5月9日)

前年(2008年7月)には尿路結石破砕手術を受けていた。タイでの寄進から得る食生活は栄養が偏りがちだろうと思う。「タイは生野菜を食べる習慣が無いから果物で補うしかない!」と言っていたこともあった。

小便横丁で昼食を摂る藤川さんの手が、やたらデカく見えた。「手、デカくなっていませんか?」と聞くと、「全身浮腫んどるんや!」と言う。次第に老化からくる免疫力の衰えがあるのだろうか、帯状疱疹も患っていた。腕や背中に発疹ができ始め、それが黄衣が擦れると凄く痛いのだという。だから極力痛みを抑えられる羽織物に替えていたのだ。俗人時代から抱える糖尿病も影響していたかもしれない。

更には胃癌を発病した藤川さん。胃の内側でなく、胃壁の中に出来る腫瘍ですぐには見つかり難くかった進行癌だという(と言う解釈だったと思う)。

もしかしたら、藤川さんは何らかの身体の異変に気付き、医療を受け易い日本に帰ろうと思ったのではないか、そんな想いも過ぎった私であった。タイも医療は発達した国であるが、主要都市の大病院に限るだろう。

そんな状況でも、手術や抗ガン剤などの治療で入院生活に縛られることを拒みながら「あと1~2年の命を貰えんか!」と医者に懇願した藤川さん。まだまだやり残した仕事があるのだろう。

2010年1月末、連絡も少なくなった藤川さんから珍しく私に電話が入った。「また近いうちに会えんけ? もう長うないんや!」という弱々しい発言。

私はすぐに空く日は無く、「また暇になったら行きますよ!」と冷たい言い分を残して電話を切ってしまった。毎度の一方的な要求には何度も応じて来たし、体調は悪くても、そんな切羽詰まった状況とは思わず、もう少し暖かくなったら行って来ようと思っていたところだったが、これが最後の会話となってしまったのだった。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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