天皇制はどこからやって来たのか〈39〉香淳皇后の美智子妃イジメ 横山茂彦

◆暴露小説の衝撃

1963年(昭和38年)のことである。雑誌『平凡』に掲載された小山いと子のノンフィクション小説「美智子さま」に対して、宮内庁が「事実に反する」として猛抗議する事件があった。けっきょく、この小説は掲載差し止めとなった。

この「猛抗議」は、初夜のことを暴露された美智子妃の「怒り」によるものと解釈されているが、そうではないだろう。

問題となったのは、秩父宮妃(勢津子)、高松宮妃(喜久子)が、美智子妃に好意を持っていない、というくだりだった。また、美智子妃が結婚報告で伊勢神宮に行かれた時、祭主の北白川房子さんが美智子さまに「敵意と侮蔑を含んだ絶望的な冷たい顔をした」という箇所である。

これらは周知のものであって、事実であったからこそ宮内庁官僚の怒りに触れたのである。そしてそのソースの出所が、口の軽い東宮侍従だったことから、内部粛清の意味合いもあった。

入江相政日記から引いておこう。婚約段階のことで、すでにこの連載でも触れてきた。

「東宮様のご縁談について平民からとは怪しからんというようなことで皇后さまが勢津君様(秩父宮妃勢津子)と喜久君様(高松宮妃喜久子)を招んでお訴えになった由。この夏御殿場でも勢津、喜久に松平信子(勢津子の母)という顔ぶれで田島さん(道治・前宮内庁長官)に同じ趣旨のことをいわれた由。」

「御婚儀の馬車について良子皇后のときは馬4頭だったのに、美智子さまのときには馬6頭にすることに、良子皇后は不満を表明された」と記録されている(1959年3月12日)。

昭和天皇の意向もあって、美智子妃の入内は滞りなく行なわれたものの、実家の正田家へのバッシング、一連の儀式での謀略(前回掲載)は目を覆うものがあった。その発信源は皇后良子および、それに追随する宮中女官、昭和天皇の侍従たちであった。

とりわけ皇后良子においては、気に入らない嫁であれば、おのずと態度にも顕われようというものだ。ふたたび入江日記から引用しよう。

「美智子妃殿下に拝謁。終りに皇后さまは一体どうお考えか、平民出身として以外に自分に何かお気に入らないことがあるのか等、おたずね。」(『入江相政日記』1967年11月13日)

これは侍従長をつうじて、天皇皇后に美智子妃が態度を表明したものにほかならない。昭和天皇への直訴にも近いものだ。平民だからというだけではない。

婚約時から成婚後も終わらない。美智子妃の国民的な人気こそが、皇后良子には気に入らない最大のものだったのである。

常磐会(女子学習院OG会)の関係者によると、写真集を出すなど。皇室にはふさわしからぬ振る舞いが皇后の怒りを招いていたという。

その証言によると、皇后が美智子妃にむかって「皇族は芸能人ではありません!」と、直接叱りつけたこともあったという。

そのとき、美智子妃はムッとした表情のまま、しかし聞く耳をもたなかったとされている。そして美智子妃は返すように、良子皇后の還暦の祝いを欠席したというのだ。かなりの嫁姑バトルだ。

『写真集 美智子さま 和の着こなし』(2016年週刊朝日編集部)

◆ミッチーブーム

そもそも皇族のアイドル化路線は、昭和天皇が敷いたものだった。男子を手元で育てる、ネオファミリーの先取りともいうべき核家族路線は、明仁皇太子が昭和天皇から示唆されたものと言われている。

だが、それもこれも平民出身皇太子妃美智子がいなけれな、始まらないものだったのである。一般国民にとって、旧皇族出身や旧華族出身の妃殿下では距離が大きすぎる。

選りすぐれば、ある意味でどこにでもいる才媛で、誰もがみとめる美女。そして旧皇族や旧華族いじょうの気品と気配り、やさしさを感じさせる女性。そんな女性皇族を国民に親しませてアイドル化する。それが美智子妃だったのだ。思いがけなくも、美智子妃は国民的な「ミッチーブーム」を引き起こす。

皇室の私生活をメディアが報じるようになったのは、映像ではTBSの「皇室アルバム」(1959年~)を嚆矢とする。

50年以上の長寿番組であり、フジテレビの「皇室ご一家」(1979年~)、日本テレビの「皇室日記」(1996年~)は、その後追い番組だが、後追い番組が定着したことこそ、このコンテンツが象徴天皇制に見事にフィットするものである証左だ。戦前は、一般国民が「天皇陛下の御姿を拝し奉る」ことすら出来なかったのだから。
この番組が始まる契機は、まさにミッチーブームだった。番組の制作は各局の宮内庁担当だったが、当初は手探りの状態で、皇族が一人も登場しない回もあった。

やがてレギュラー番組化するなかで、宮内庁の職員(侍従職内舎人ら)も関与するところとなり、陛下(昭和天皇)の「御意向」も反映されている。が、その「御意向」は、日ごろ会えない皇族の様子を知りたいというものが多かったという(関係者)。天皇陛下も楽しみにしている番組、ということで人気番組になる。そのメインコンテンツは、言うまでもなく皇太子夫妻とその子供たちであった。

そして、このような皇室アイドル化路線に、隠然と反対していたのが良子皇后なのである。

『美智子さまの60年 皇室スタイル全史 素敵な装い完全版』(2018年別冊宝島編集部)

◆テレビ画像に「無視」が公然と

国民の前に、皇后良子と美智子妃の「バトル」が印象付けられたのは、1975年の天皇訪米のときのことだった。出発の挨拶のときに、皇后が美智子妃を「無視」したのである。

公式の場で挨拶を交わさないばかりか、わざと「無視をする」ということは、そのまま存在を認めないのに等しい。皇族にとって「挨拶」とは、最重要の「仕事」「公務」なのだから。

皇室ジャーナリストの渡邉みどりは、このようにふり返っている。

「羽田空港で待機する特別機のタラップの脇には皇太子ご夫妻(現・天皇、皇后両陛下)、常陸宮ご夫妻、秩父宮妃、高松宮ご夫妻、三笠宮ご夫妻、そして三木首相ご夫妻の順に並んでおられました。昭和天皇、香淳皇后がいよいよ機内にお入りになるとき、おふた方は、宮様方のごあいさつに対し丁寧に返礼をなさいます。」

「特に昭和天皇は美智子さまにお辞儀をされた後、皇太子殿下に『あとをよろしく頼みますよ』というように深く頭を下げられ、皇太子さまも父君に『お元気で』といったご様子で最敬礼なさいました。」

「次の瞬間、モニターを見ていた私は、ぎくりとしました。」

「数歩遅れた香淳皇后は常陸宮さまにゆっくりとお辞儀をなさったあと、美智子さまの前を、すっと通り過ぎて皇太子さまに深くお辞儀をされたのです。モニターの画面に映る映像は、後ろ姿でしたが、素通りされたのははっきりわかりました。香淳皇后は手に、つい先ほど美智子さまから贈られたカトレアの花束をお持ちでした。そのまま、美智子さまにも、深々とお辞儀をなさるとばかり思っていましたのに。」

「この『天皇訪米』の一部始終の映像はテレビで日本中に放送されたのです。私自身その時は、昭和天皇の訪米という歴史的なニュースを無事に中継することで、頭がいっぱいでした。昭和天皇と香淳皇后がご出発したあと、思わずスタッフと顔を見合わせて、『お気の毒に』とつぶやきました。」

浜尾実元東宮侍従も、当時のことをこう語っている。

「私もテレビを見ていて驚きました。東宮侍従をしていたころ、美智子さまのお供で吹上御所に行った時など何か皇后さまの態度がよそよそしいことは感じたことがありました。それは美智子さまの人間性というより、そのご出身(平民)が美智子さまを孤立させることになっていたんだと思います。ただ、あのお見送りの時は人前で、それもテレビカメラの前のことですからね。美智子さまはやはり大変なショックをお受けになったと思いました」

だが、このような「無視」や「直言」をものともせず、美智子妃はある意味で淡々と、皇太子明仁とともに新しい皇室像を作り上げてゆく。

そればかりか、昭和天皇亡き後は、いわゆる「平成流」という流れをつくり出し、宮内庁官僚や女官たちと対立を深めてゆく。ために、週刊誌メディアへの情報のタレコミで、猛烈なバッシングを浴びるようになるのだ。(つづく)

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▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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