格闘群雄伝〈40〉新妻聡 ── 肉体言語を貫いた野武士[後編]堀田春樹

堀田春樹

◆日本ランカー時代

新妻聡は自らパフォーマンスはやらないが、滑稽な言動で周囲を賑わす事態は幾度か起こしていた。

注目されだしたのは、タイへ衛星中継があった1990年(平成2年)12月15日、この日は前座だったが、ビッグイベント興行だけに舞い上がってしまい、入場の際、ロープ飛び越えたら滑って尻餅付いてしまった。それが凄く恥ずかしくて、逃げて帰りたい想いで対戦者の飯塚健を早く倒そうと我武者羅に向かって、第2ラウンドでノックアウト勝利した後、すぐリングを下りて逃げるように帰ったという。なんとナイーブな(良い意味で)。恥ずかしさが新たなエネルギーとなった試合だった。

これで日本ライト級1位に上昇し、後にライト級転級狙っていた日本フェザー級チャンピオンの山崎通明(東金)と対戦したが、山崎のヒジ打ちで鼻曲げられTKO負け。レフェリーに向かって「俺の鼻は元から曲がってんだ!」と叫んだが、続行を訴えた主張は通らなかった。

新妻聡が語る印象深い試合に寺田ヒロミ(太田)との2戦があった。寺田(=格闘群雄伝第18回)が後に末期癌で入院中、新妻聡が見舞いに行った際、寺田ヒロミが「新妻さんと後楽園ホールを盛り上げた2戦は自慢だったんですよ!」と言っていたいう。

それはいずれも目黒ジム主催興行で1991年11月15日、寺田はキャラクター的に派手で腕を振り回したり、アゴを突き出して「打って来いよ!」と挑発して来る始末。しかしそれが新妻聡の闘志に火を点け、最終第5ラウンドにコンビネションブローで寺田をノックアウト。最終ラウンドに倒されたのが悔しかったか、再戦を求めて来た寺田と翌年11月13日、再びグローブを交えた。

新妻聡は「お前の手の内は分かっているぜ!」と挑発に乗らず冷静に戦い、第3ラウンドでまたもノックアウト勝利したが、寺田はウェルター級だけにパワーあってパンチ受けてクラクラしたという中でのジワジワ盛り返す新妻聡の底力が見られた2試合でもあった。

寺田ヒロミと対峙。後楽園ホールを盛り上げた両者(1992.11.13)
寺田との第2戦は冷静に戦いKO勝利した新妻聡(1992.11.13)

◆国際戦で飛躍

日本ライト級1位を長く維持する主力選手として、1993年4月24日、タイの伝説のチャンピオン、サーマート・パヤックアルン(ルンピニー系4階級制覇、国際式元・WBC世界スーパーバンタム級Champ)との対戦が実現。

計量時に「こいつカッコいいな!」と思ったという。「サーマートは脹脛が異様に太かったですね。こいつは強いはずだと思った。練習嫌いとは言われていたけど、若い頃は凄い練習やったんだろうと見える痕跡だった!」という。

試合は第1ラウンドにサーマートのバランスいい蹴りの連係から右ストレートでノックダウン取られて何が起こったか分からなかったという。これでは勝てない、行くしかないと確信。第2ラウンドも右ストレートでノックダウン奪われるも、第3ラウンド目で逆に新妻聡の右ストレートがガツンと当たるとサーマートのマウスピースが吹っ飛んだ。これでサーマートの失速が始まり、逃げられた流れで仕留めるには至らず判定負け。

サーマート戦、番狂わせも在り得た戦いだったが、サーマートは天才だった(1993.4.24)

前編でも述べたました、1994年7月16日、日本ライト級王座をハンマー松井(花澤)と争い、判定勝利で初戴冠となった後、チャンピオンとしての戦いは世界的強豪との戦いに移っていった。

同年11月、タイ国ラジャダムナン系ライト級前チャンピオン、ゲントーン・ギャットモンテープには攻勢的に判定勝ちも圧倒できない苛立ち、ムエタイ式に戦ったゲントーンは負けた気は無いだろうという一般的見方も、ムエタイのトップクラスに通用する実力を着実に身に付けていた。

日本ライト級王座は翌1995年1月にハンマー松井を再度、判定で下し初防衛後、同年10月15日、今井武士(治政館)をノックダウン奪って判定勝利で2度目の防衛。いずれも下位から上がって来たしぶといファイターだったが、経験の大きさで退けた。

国際戦ではこの年の6月2日にはオランダのKO率80%を越えるハードパンチャー、ノエル・バンデン・ファウベルに終始圧倒されながら、ラストラウンド終盤に右ストレートでグラつかせる大健闘。

ノエル・バンデン・ファウベルは強かったが、一発のヒットで逆転も在り得た(1995.6.2)

「ノエルはパンチで来ると思っていたところがローキックばかりだった!」という中の“この野郎”と言わんばかりの強打ヒット。そこで倒し切ればドラマチックだったが判定に逃げられた。しかし敗れてもただでは終らせぬ見せ場をつくる姿は、まさに野武士魂であった。

同年12月9日は飛鳥信也の引退興行でのメインイベント。強打者ダニー・スティール(米国)に手こずり仕留めるに至らぬもパンチと組み合う圧力で優って判定勝利。

◆運命の悪戯

しかし1996年2月、最も充実した頃に思わぬ分裂騒動が起こった。選手側にとっては衝撃的な事態である。当時のマーシャルアーツ日本キックボクシング連盟から幾つかのジムが脱退する知らせが入った。当時も三団体には分かれていたが、現在ほどの多団体乱立、多イベントタイトル増産ではなかった。

新妻聡は新天地、日本キックボクシング協会復興の興行でエース格として、過去に先輩の飛鳥信也を二度退けているヘクター・ペーナ(米国)に挑むWKBA世界スーパーライト級タイトルマッチを迎えた。

復興記念イベント的な盛り上がりの中で、一進一退の攻防の中、ヒザ蹴りがやや低かったがヘクター・ペーナのボディーヒットもヘクター・ペーナの誤魔化し抗議で股間ファウルブロー扱い。ノックダウンだったらテンカウント聞かせていたかもしれないダメージ。

回復に時間を充分取ったペーナは巧妙な戦法で、新妻聡は最後には倒されてしまった。経験浅いレフェリー起用が悪いと主催の野口プロモーションに抗議も、「もう一回やればいいじゃないか!」と再戦を提示されたが、「簡単に言うんじゃねえよ。時間返してくれ!」という想い。パンチは強く、蹴りもよく出るヘクターペーナとは再戦しても簡単に攻略出来る相手ではなかっただろう。

ヘクター・ペーナはパンチが強かったが、新妻聡は勝てた試合を不運にも勝利を逃がした(1996.6.30)

それでも同年12月1日、名古屋で因縁のヘクター・ペーナに再挑戦。今度は誤魔化しも許さぬタイ人レフェリーが務めた。前回もヒザ蹴りが効果的だったが、今度もヒザ蹴りで勝利を導き、ノックアウトでWKBA世界スーパーライト級王座奪取した。

[左]怒涛のヒザ蹴りでヘクター・ペーナをノックアウト、WKBA世界王座奪取(1996.12.1)/[右]WKBA世界スーパーライト級チャンピオンとなった新妻聡、勝負はこれからだったが(1996.12.1)

◆完全燃焼! 貫いた肉体言語

この復興した日本キックボクシング協会に移り、ヘクター・ペーナと決着戦を終えてから、団体エース格として最も注目、活躍すべき時期にWKBA世界王座の防衛戦も組まれず、いつの間にか剥奪。協会側の複雑な事情もあったが、新妻聡の激闘は見られなくなっていった。元々のMA日本キックボクシング連盟で多くのライバルと死闘を繰り返し、世界レベルと戦っていた頃が最も充実していた時期だっただろう。

試合間隔が空き気味になる中、1999年7月24日にはかつて下した今井武士に大差判定負け。次第に気力も衰えていった頃かもしれない。

試合間隔も遠ざかった頃に今井志武士に巻き返されてしまった(1999.7.24)

「強い奴としかやりたくない!」といった意向から、最強の相手とラストファイトを行なうことになった2000年7月29日、現役ラジャダムナン系スーパーライト級チャンピオン、ノッパデーソン・チューワタナとの対戦が組まれ、新妻聡は完全燃焼の試合に向け、半年前から走り込み調整に入っていた。

ノッパデーソンはスピード速く柔軟性ある蹴りを上下自由自在に蹴って来る。襤褸切れのように蹴られ続けた大差判定負けも倒れることなく踏ん張り、なおも向かっていく姿は最後まで肉体言語を貫いた完全燃焼だった。願わくばもっと充実したマッチメイクと名勝負をファンに観て貰いたかった現役晩年だった。

完全燃焼のノッパデーソン戦。ボロボロに蹴られても向かって行ったラストファイト(2000.7.29)

戦績 37戦22勝(11KO)13敗2分

現役引退後は文京区白山で新妻格闘塾開始したが、ビジネスの兼ね合いもあって後に撤退。

2022年には、身体が動く今だからと、キックボクシングの指導やろうとジム形態ではないが、いろいろなスポーツ施設を借りて「新妻聡キックボクシングクラブ」を始めた。

しかし2023年5月に咽頭癌を患って休止。

「指導していて腕は上がらなくなるし、仕事辞めて時間あったから検査に行ったら癌が見つかりました!」という結果、早期発見で6月に摘出し、1年間の通院。その後の経過検査も問題無かったが、病み上がりというところで現在キックボクシング指導は休業中。

今後はその再開と、将来計画される目黒一門会が開催された際には参加が期待されるだろう。

新妻格闘塾時代。撮影の為の指導を少々でしたが熱のこもる指導が伝わって来た(2006.1.12)

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▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
昭和のキックボクシングから業界に潜入。フリーランス・カメラマンとして『スポーツライフ』、『ナイタイ』、『実話ナックルズ』などにキックレポートを寄稿展開。タイではムエタイジム生活も経験し、その縁からタイ仏門にも一時出家。最近のモットーは「悔いの無い完全燃焼の終活」