堀田春樹
「アジアの中の日本のキックボクシング」。これがアジアモエジップン連盟名称の意味である。
テレビによって起こったブームが去った後の昭和50年代のキックボクシング、分裂の始まりはすでに公開済ですが、枝分かれから更に細く枝分かれしたのが1983年(昭和58年)で、以前に述べました日本プロキックボクシング連盟から脱退し設立したのが日本ナックモエ連盟。このナックモエ連盟から枝分かれしたのが、みなみジム南俊男会長が興したアジアモエジップン連盟(AMF)でした。

タイ語で“モエ”は表記上“ムエ”とも呼ばれますが、ボクシング中心とする競技を意味し、“ジップン”は“ジープン” とも呼ばれ、即ち日本のことである。
同年9月初旬に設立が発表されると、因みに新日本キックボクシング協会発足が同時期に発表されています。アジアモエジップン連盟記念興行は同年10月21日、後楽園ホールでした(翌22日が新日本初興行)。

分裂及び興行の激減、業界を去る関係者、新人が育たない、そもそも誰も入門して来ない氷河期に団体立ち上げて、興行が成り立つのかという懸念も、ただやることはデカい南俊男会長。各団体へ出場交渉と、打倒ムエタイを掲げる設立興行で、タイのナンバー1を呼ぼうと、ルンピニースタジアムで4階級制覇し、国際式ボクシングに転向したサーマート・パヤックアルンを招聘に臨みました。迎え撃つは日本プロキック連盟フェザー級チャンピオン、葛城昇(習志野)でしたが、招聘ビザ申請の面でも、ムエタイの英雄を招くというハードルの高さでも来日が難しい時代で残念ながら実現には至りませんでした。

実際のメインイベントとなったのは日本プロキック連盟の長浜勇(市原)が、在日の日本人キラー、バンモット・ルークバンコー(タイ)をパンチで倒し、トリをノックアウトで締め括り、セミファイナルは、みなみジムのエース、前・団体でのバンタム級チャンピオン、高樫辰征が韓国のアグレッシブな全再鐸を第5ラウンドに圧倒しTKO勝利して存在感を示しています。設立記念興行としては他団体頼りではあったが結構盛り上げた興行でした。


◆アジア太平洋キック連盟とは?
設立から一年後、名称が改名。世間に浸透し難いタイ語よりも馴染み易い呼称となった模様。
“キック” とは簡略化した言い方だが、この業界ではキックボクシングを意味することは当然でしょう。“アジア太平洋”という広域なエリアを指していますが、実質は日本国内の団体ではありました。
アジア太平洋キック連盟の当時の略号はAPF(後にAPKFと表記)。所属ジムも増えた1984年12月1日には設立一周年興行が行われました。メインイベントはシーザー武志が韓国の李興大を大差判定で下しています。APFフライ級王座決定戦では中川二郎(北心)がポパイ卓男(みなみ)をKOで下し、APFバンタム級王座決定戦では黒沢久男が前田市三(みなみ)を判定で下し王座獲得している模様(スポーツライフ社、マーシャルアーツ誌参照)。
◆マーシャルアーツ日本キックボクシング連盟に加盟!
当時の業界は更なる分裂もありましたが、一時的には業界トップとなったマーシャルアーツ日本キックボクシング連盟と新生全日本キックボクシング連盟発足(1987年7月/旧・協会復興)の二大巨塔が暫く続いた為、その他の団体は興行少なく、陰に隠れる存在でしたが、アジア太平洋キック連盟南俊男会長は埋もれた存在では終わらぬ底力を秘めていました。
1992年10月には役員も代わったマーシャルアーツ日本キックボクシング連盟に加盟し、みなみジムの腕の見せどころ発揮、翌年には一層名声増したサーマート・パヤックアルンをついに来日させ、日本vsタイの対抗戦マッチメイクの中、初の日本人との対戦となった新妻聡(目黒)戦を実現させています(サーマートが判定勝利)。MA日本連盟の主要プロモーターとして、他にも定期的に興行を開催。

1996年にはマーシャルアーツ日本キックボクシング連盟からあっさり脱退しましたが、1999年には4団体集結として発足したNKBグループに参加。現在のNKBは日本キックボクシング連盟とK-Uのみ。しかし発足当時はアジア太平洋キック連盟とニュージャパンキックボクシング連盟(NJKF)も加わって活気が増した活動でした。
結局は2005年頃にはNJKFもアジア太平洋キック連盟も離脱となり、やがて世代交代へ移っていくのは仕方ない時代となっていました。
◆令和時代は二代目、南孝侍が担う!
暫くはディファ有明などで細々とアジア太平洋キック連盟としての興行は行われていましたが、みなみジムの名称はNKB時代にMTOONG(エムトーン)ジムへ名称変更され、2010年頃、アジア太平洋キック連盟は先代会長(南樹三生=南俊男)が活動休止となり、MTOONGジムは御子息の南孝侍氏が引き継ぐことになりました。
2022年にはジャパンキックボクシングイノベーションに加盟したMTOONGジム。南孝侍会長は3歳からキックボクシングを習い幼稚園の頃から少年部の試合に出場、後にプロとしても活躍しましたが、18歳で引退という早過ぎる転機でした。
アジアモエジップン連盟の発足については当時の記録を掘り起こすだけでしたが、この先代のみなみジムから50年継続した南俊男(樹三生)会長と、二代目の南孝侍会長の物語は、時期未定ながら改めて公開予定です。
▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
昭和のキックボクシングから業界に潜入。フリーランス・カメラマンとして『スポーツライフ』、『ナイタイ』、『実話ナックルズ』などにキックレポートを寄稿展開。タイではムエタイジム生活も経験し、その縁からタイ仏門にも一時出家。最近のモットーは「悔いの無い完全燃焼の終活」
