◆重信房子さんの「遠山美枝子さんへの手紙」

『抵抗と絶望の狭間』には、重信房子さんの「遠山美枝子さんへの手紙」が収録されている。書下ろしの力作である。

手紙のあてさきの遠山美枝子さんは、連合赤軍事件で亡くなられた女性活動家で、重信さんの明治大学での親友でもあった。いい文章だと思う。わたしは明るく華やかな、そして内省のある重信さんの文体が好きだ。今回の文章にもその一端はあるものの、やはり哀しみをもって読むしかない。

 

日活花の十代3人娘(別冊『近代映画』1964年6月上旬号)

あまり知られていないことだが、当時の明大の二部文学部には女優の松原智恵子さんが在籍していて、やはり学生運動に参加していた。

その松原智恵子は、吉永小百合、和泉雅子と合わせて「日活三人娘」と呼ばれ、中でもブロマイドの売り上げは1位だったという。明治大学では重信房子、遠山美枝子とあわせて「明大ブント三人娘」ということになるが、ビラの受け取りも断トツだったという(重信さんの友人談)。学生運動に参加していたのは、おそらく西郷輝彦と交際していた時期とかさなる。

亡くなった人はどこか美化されるもので、遠山美枝子も美人活動家だったと言われている。一般に流布しているのは、バセドー氏病が持病の永田洋子に責め殺されたというイメージがつよい。それも山に指輪(夫のT氏からではなく、母親から渡されたもので、困ったときはそれをおカネに替えて帰宅できるように着けていた)をしてきたことを批判されたことで、美人だから殺されたという印象になっているのではないか。

じっさいには「素敵な女性だったけど、重信房子の引き立て役みたいなものだった」というのが、加藤登紀子事務所の女性秘書の個人的な感想だ。今回、彼女の学生時代の写真(一般にネットで拾えるものは、警察の逮捕写真)を見て、素敵な女性という印象がえられた。

◆共産同赤軍派と日本共産党革命左派

さて、その連合赤軍である。今年で結成から50年となる。結論的な部分から、簡単に解説しておこう。まずは赤軍派である。本書の副読本として予習的に読んでいただければ幸いである。

69年7月6日の明大和泉校舎で起きたブント(共産主義者同盟)の党内クーデターによって、赤軍フラクは中央委員会で除名処分を受けた。※この7.6事件については、書評(その4)で詳しく触れることにしたい。

除名されて共産同の分派となった赤軍派は、秋の大阪戦争・東京戦争の不発後、公安当局の猛烈な弾圧をうける。そこで、国際根拠地論(政治亡命)が検討されるいっぽう、本格的な武装闘争(爆弾闘争)に着手する。幹部の一部が70年3月に日航機(よど号)をハイジャックして北朝鮮に、その他の幹部もあいついで逮捕される。そして71年2月に、重信房子がアラブへ飛ぶ。

じつはこれも、あまり知られていないことだが、赤軍派の国際根拠地はキューバへの渡航、およびアメリカでブラックパンサーなどの左翼と合流して、世界革命戦争を「攻撃的につくり出す」ことだった。じっさいキューバには、ボランティアをふくむ多くの学生が渡っている(のちに強制送還)。元赤軍フラクの藤本敏夫が関与していたキューバ協会がその窓口だった。

主要な活動家が海外に出て、獄中に捕らわれるか指名手配となった赤軍派は、日共革命左派(京浜安保共闘)と接触するようになる。そのとき、赤軍派の指導者は森恒夫、革命左派の指導者は永田洋子となっていた。二人とも、組織の指導経験はきわめて浅い。

革命左派は、ブントML派とマル戦派の元幹部がつくった「警鐘」グループが、日本共産党左派神奈川県委員会(毛沢東派)と合同し、その後分裂した組織である。革命左派は70年12月に交番を襲撃し、一名が射殺されている。その後、銃砲店に押し入って猟銃を強奪する(71年2月)。

いっぽう、赤軍派は複数の銀行強盗によって、多額の資金を獲得していた。銃を手に入れた革命左派、資金を手にした赤軍派は、相互の利害から武装闘争という一点で、結びつきを強めることになるのだ。

そして革命左派が、山岳ベースからの脱落者2名を処刑する。これもあまり知られていないことだが、それ以前に革命左派は内部の論争からスパイではないかとされる女性労働者(実際にはスパイではなかった)の処刑を検討していた。脱落者2名の処刑は、ある意味で必然的な成りゆきだったのだ。

いっぽう、赤軍派はM作戦の部隊に帯同していた女性シンパの処刑を決定したものの、成し遂げないまま組織から追放するにとどまっていた。この時点では指導者の森恒夫は、女性シンパを殺さなかったことにホッとし、革命左派の処刑に憤っていた。だが、それが彼の負い目となるのだ。

◆山岳ベース事件

ほぼ全員が指名手配され、山岳を拠点にするしかなくなった赤軍派と革命左派は、獄中指導部の反対を押し切って組織合同をはかる。ここに赤軍派の爆弾と資金、革命左派の銃が結びついた。連合赤軍の結成である。

山を拠点に武装訓練をかさね、爆弾闘争では果たせない「敵を銃でせん滅する」戦いをめざす。

だが、その訓練の過程で「兵士と銃の高次な結合」すなわち「共産主義化」が課題とされた。その方法は、自分の活動を総括(反省)し、共産主義の兵士へと高めるというものだった。しかし総括は告白(告解)であり、総括が成しとげられる規準は、指導者の森恒夫と永田洋子による恣意的なものにすぎないのだ。

ある者は総括の態度を批判され、ささいな過去の瑕疵を「総括できていない」と批判された。そして「総括を支援」する暴力が行使される。

もちろん疑問を抱く者もいた。
「こんなことをやってもいいのか?」(植垣康博)
「党建設のためだ。しかたがないだろう」(坂東国男)
この党建設、軍建設という呪縛が、連合赤軍を奈落へと導くのだ。

リンチのすえに、酷寒のなかで食事を与えられず、餓死もしくは凍死した者は「敗北死」とされた。殺人ではなく「総括できずに敗北した」と、政治的に評価された。かくして、12名の同志が山中で殺されたのである。その後の銃撃戦(あさま山荘事件)は国民の注目を集め、平均視聴率50%(最大90%)を記録した。銃撃戦によって、警官に2名の殉職者、民間人1名が犠牲となった。

毎日新聞(1972年2月28日夕刊)

 

毎日新聞(1972年3月10日夕刊)

◆長崎浩さんの視点──左翼反対派からの脱却

この連合赤軍問題を、ふたつの論攷から読み解いていこう。

「『何が何だかわからないうちに(小熊英二)』彼ら全員を追い立てていたものがあった。私はここであえて連合赤軍と事件の政治的な過去物語を提示しておきたい。彼らの上に跳梁していたのは党という観念であった」

連合赤軍を呪縛したものが「党」であると、「連合赤軍事件──何が何だか分からないうちに」で長崎浩さんは云う。

まずは、長崎さんの妖艶なともいうべき文体を愉しみながら、政治的論理の山脈に分け入るのがよい。

上記の「過去物語」とは、共産主義者同盟(再建準備委員会=情況派)の自己批判にまつわることである。その自己批判とは「連合赤軍派事件に対する共産主義者同盟の自己批判──暴力・党・粛清について」(ローテ第14号)なのだ。当時、ブント右派とされた情況派が、その機関紙上で連合赤軍事件を「自己批判」したのだ。これが「党の態度」なのであろうか。

その要旨は、大衆の暴力に依拠する事業である革命を、連合赤軍は武器と兵士の問題に矮小化した。党と革命を二重写し(混同)する組織論・革命論の伝統が、リンチ(共産党・革マル派・連合赤軍)をもたらした。というものだ。

唯銃主義・党共同体主義と批判された論調の、きわめてラディカルなものであろう。そして新左翼運動の終焉を告げるものでもあったとする。ほどなく、長崎浩とその同志たちは、ブントを解消して地方党へと越境する(「遠方から」)。

私党論をベースにした長崎さんの党概念は、初めて読む人には難解かもしれないので、簡単に解説しておこう。

新左翼(ブント)は、共産党と社民にたいする左翼反対派であるとともに、大衆運動の担い手であった。この左翼反対派とは、社共に代わる革命党建設である。いっぽう、大衆運動の担い手としてのブントは、組織建設に拘泥しない。いわば大衆運動がすべて、ということになる。このブントの伝統が掘り崩された(大衆を裏切った)以上、新左翼は終焉しなければならないというのである。

いっぽう、社共に対する左翼反対派だった新左翼が、唯一の党として立ち現れてくるのが70・71年だった。内ゲバの時代の始まりである。長崎さん流にいえば、多重の左翼反対派の「革命の独占と孤独」である。いまなお革命(批評)家である長崎さんは、その出口をもしめしている。

「左翼反対派の革命の独占と孤独とを、叛乱の大衆政治同盟の同志たちを媒介にして、叛乱へと解放しなければならない」この「大衆政治同盟」とは、任意の固有の党であり、「同志たち」とは大衆のことである。フロイトの『文化への不満』からの引用(連赤事件への適用)がじつに秀逸なのだが、本書を買ってからのお楽しみにしてください。

◆党至上主義と批判の自由

「破防法から五十年、いま、思うこと」の松尾眞さんは、わたしが大学に入った当時の中核派の全学連委員長である。

すでに全共闘世代としてベテランの活動家で、71年の沖縄決戦で「機動隊の命はあと三日!」と劇画的なアジテーションをして、破防法で逮捕されたのは有名な話だ。当時の風貌は黒縁メガネに端正な顔で、いまの白井聡さんによく似ていた。白井さんと初めて会ったとき、おっ、松尾眞さん。と思ったものだ。

とにかくアジテーションがうまくて、全学連委員長の座を堀内日出光さんに譲ったあとは、北小路敏さんに代わって、革共同代表として演説をすることが多かった。破防法で下獄の後、学究活動に入られ、大学教員をへて現在は地方議員である。

ちなみに、当時の革マル派全学連委員長は長谷さんという東大の方で、こちらも指導者としては迫力があった。京大同学会の委員長が市田良彦(神戸大教授)、浅田彰(ニューアカの先駆者)と、優秀な人たちが学生運動の指導部にいた時代である。

さてその松尾さんが、自分の経歴と共に「党組織至上性」を、内ゲバが発生する問題点として抽出されている。もともと無党派の活動家で、京大全共闘の指導部になっていたことは、森毅さんの『ボクの京大物語』で知っていたが、中核派にオルグされる経緯は意外だった。一本釣りなのである。

その松尾さんが、獄中で何を考え、どういう契機から学究活動に入られたのかは知らない。京都精華大学の人文修士課程の論文は「非権力志向連帯社会」だったという。

山村暮らしから得られたエコロジーと地域復興へのこころみ。そして議員活動をつうじて痛感した、批判の自由・言論の自由。じつに面白く読んだ。

関西の革共同の分派のひとたちが、レーニン主義(本多延嘉さん=中核派書記長)の路線から決別したという。ブント系では荒岱介さんの系譜の組織が、ネットワークとして存続しつつも、事実上の党派解散をしている。党に代わる何ものかの組織形態を、発見する世紀に入っているのだといえよう。(つづく)

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。3月横堀要塞戦元被告。

いよいよ29日(月曜日)発売!

『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』
紙の爆弾12月号増刊
2021年11月29日発売 鹿砦社編集部=編 
A5判/240ページ/定価990円(税込)

沖縄返還の前年、成田空港がまだ開港していない〈一九七一年〉──
歴史の狭間に埋もれている感があるが、実はいろいろなことが起きた年でもあった。
抵抗はまだ続いていた。

その一九七一年に何が起きたのか、
それから五十年が経ち歴史となった中で、どのような意味を持つのか?
さらに、年が明けるや人々を絶望のどん底に落とした連合赤軍事件……
一九七一年から七二年にかけての時期は抵抗と絶望の狭間だった。
当時、若くして時代の荒波に、もがき闘った者らによる証言をまとめた。

一九七一年全般、そして続く連合赤軍についての詳細な年表を付し、
抵抗と絶望の狭間にあった時代を検証する──。

【内 容】
中村敦夫 ひとりで闘い続けた──俳優座叛乱、『木枯し紋次郎』の頃
眞志喜朝一 本土復帰でも僕たちの加害者性は残ったままだ
──そして、また沖縄が本土とアメリカの犠牲になるのは拒否する
松尾 眞 破防法から五十年、いま、思うこと
椎野礼仁 ある党派活動家の一九七一年
極私的戦旗派の記憶 内内ゲバ勝利と分派への過渡
芝田勝茂 或ル若者ノ一九七一年
小林達志 幻野 一九七一年 三里塚
田所敏夫 ヒロシマと佐藤栄作──一九七一年八月六日の抵抗に想う
山口研一郎 地方大学の一九七一年
──個別・政治闘争の質が問われた長崎大学の闘い
板坂 剛 一九七一年の転換
高部 務 一九七一年 新宿
松岡利康 私にとって〈一九七一年〉という年は、いかなる意味を持つのか?
板坂 剛 民青活動家との五十年目の対話
長崎 浩 連合赤軍事件 何が何だか分からないうちに
重信房子 遠山美枝子さんへの手紙
【年表】一九七一年に何が起きたのか?
【年表】連合赤軍の軌跡

◎amazon https://www.amazon.co.jp/dp/B09LWPCR7Y/
◎鹿砦社 http://www.rokusaisha.com/kikan.php?group=ichi&bookid=000687