2016年逝きし世の日本へ──2024年8月15日に記された日系難民家族の回想記

HIROSHIMA1945 - FUKUSHIMA2011

「いいかい遥(はるか)、さっきの質問は二度と人前でしちゃいけないよ。私達は色んな危険に囲まれているんだ。遥ももう少し大きくなれば解るだろう。だから解らないことは誰もいないところで父さんに小声で話しなさい」
私が娘にそう諭すと遥は「うん、わかった」と素直に忠告を受け入れた。

遥の質問はこうだった。
「ねえねえお父さん。なんで私達は日本語を知っているの? 友達と話すときはいつもスペイン語なのに家に帰るとどうして日本語なの? 日本ってもうないんでしょ? だれも住めなくなったって学校で教わったけど……」

遥は買い物客で賑わうエスペラント通りの市場の中で突然私に日本語で問いかけてきた。
「黙りなさい。スペイン語で話すんだ」と私は遥の耳元で呟いた。10歳の娘に私達が住んでいた国の話をする事は親の義務のようにも感じるが、難民として制限の多い生活をしている立場を理解するのに若すぎる。いずれ物事が分かるような年齢に達したら全てを話そうと思う。妻もそれに対して異論はないようだ。

◆2016年「JAPAN CHAOS」──悪夢の連鎖が始まった

KAGOSHIMA2016

2016年、山口県の岩国基地に配備されていたオスプレイが鹿児島の川内原発上空で操縦不能に陥り稼働中の原発へ墜落したのが事の始まりだった。悪夢の連鎖と言えばそうとしか言えないが、今となっては後悔すらが無意味だ。事故の前年に戦争へ向けて法整備を完了していた日本は川内原発へのオスプレイ墜落事故直後に、米国がホルムズ海峡にイランが多量の機雷をばら撒いたことを理由に日本への機雷撤去作戦への協力を要請する。「集団的自衛権」で逃げ場を塞がれていた日本政府は原発事故の対応よりも米国の要請に応じることを優先させた。その結果2011年の福島第一原発で起こった事故と比較が出来ない大惨事が発生し、急性放射線障害により九州では事故から2日以内に3万人が犠牲となった。

その後も暴走する原発事故へ有効な対策は皆無で、被害は四国、山陰、山陽から関西までに広がった。西日本からの国外避難は、一切の航空便が日本への乗り入れを停止したことにより不可能となった。事故後1週間で犠牲者の数は確認できているだけで20万人に上ったと言われている。

その事故の最中、米国からホルムズ海峡での機雷除去作戦の要請に日本政府は諾々と従った。海上自衛隊、航空自衛隊のみならず海上保安庁の巡視艇までがペルシャ湾へ派遣された。

日本国内の行政機関は実質的に破綻を来たしていたと言って過言ではないだろう。マスコミも同様で大手新聞社が朝刊の発行を行えないという第二次大戦中も例のないところまで混乱は極まっていた。私はその時、もうこの国はお終いだから逃げなければと決断していた。

日本政府が実質的に機能停止に陥った、という確定な情報が伝わってきたのは複数の海外メディアがインターネットを通じて発信したニュースによってだった。

私は妻と娘の遥とともに新潟に向かった。停泊していたロシアの貨物船の船長に多額の袖の下を渡し、取り敢えずナホトカへ向かった。貨物船の中には私たちのように日本から避難する人達があふれていて誰もが先を案じていた。

ナホトカに到着するとロシアの入国管理局は私達「避難者」の受け入れをすんなりとは認めなかった。難民申請も持たずにいきなり押しかけて来た避難民を受け入れなければならない国際法上の義務がロシアにあるわけではないから、その態度は仕方ないものであったといえる。結局ここでも入管当局と個別折衝で袖の下を渡す事ができた人達だけが入国を認められた。そうでなかった人たちの安否は判らない。

私はロシアに長期滞在するつもりはなかった。ロシア語は話せないし、この国には不安定要素が多すぎると感じていた。急ぎモスクワ行きの航空機に飛び乗りモスクワから中米の某国に向かった。この国は幸い私達を難民として受け入れてくれた。第二次大戦で日本と戦火を交えていなかったことが幸いしたのかもしれない。

今日、2024年8月15日は日本がまだあった頃、「終戦記念日」と言われた日だった。今私達が暮らすこの国は第二次大戦に参戦していなかったので、取り立てて8月15日が話題になることはない。

2016年、1億2千万近い人間が僅か数週間で放射能と戦争により国家を破滅させた「JAPAN CHAOS」は近代史の中でもまだ評価が定まっていない。私の心の中でも同様だ。遥には物心がついたら説明するとは言ったものの、それが果たせる自信はない。

◆2024年8月15日──自ら国を破滅させた愚かな民として他国で生きる

ここへ難民として住み着いて8年になる。日本を出た2016年、遥は2歳だった。家の中では日本語を使っているが、日常生活ではスペイン語だけで通している。私の家族のようにこの国へ逃れてきた日本からの難民は少なくない。しかし彼らの中には「日本への帰還、日本政府の再建」等と言った政治的行動に走るグループがいて、それはこの国の政府からは「厄介者」と危険視されている。

また、決して豊かとはいえない経済状況が続くこの国の国民は私達難民に政府から与えられる僅かばかりの「生活援助」にも不満を持っている。だから私は妻や娘に「家の外では『日本』のことは決して話題にしないように、政治的な話には関わらないように」事あるごとに言い聞かせている。私達は祖国を失った難民なのだ。しかも侵略や他国の攻撃により祖国を失ったわけではない。政権の愚策により、2度と戻れない猛烈な放射能汚染を広め、無責任な政治意識が何の利益も産まない好戦国=米国の言いなりとなり。こともあろうか原発事故の対策を放棄して米国の作戦に国力を傾注してしまった、救いがたい愚かな民族だ。

世界中のあちこちに散らばる日本系難民の苦悩はこれから果てることがないだろう。だから本音を言えば娘の遥には「日本を忘れなさい」と語ろうかとも思案している。

幸いこの国では肌の色や出身による差別は少ない。でも子供たちの間にも「日本」と言う国がどうして破滅したのかへの純粋な興味はある。遥と同じクラスで成績が優秀なフリオやフェルナンデスは遥には同情してくれているという。でも少し意地悪なメンドーサやイザベラにはからかわれることがあるらしい。

仕方ない。難民はそれらを背負って生きなければならない。クルドやパレスチナと我々は違う。自ら国を破滅させた愚かな難民なのだから。でも遥や子供が責めを負わなければならない道理はない。弁解する資格すらない私たちは贖えない罪を死ぬまで背負わねばならない。

あれだけ明確な予兆が示されていたのに、それを食い止めることができなかった。あの時代の空疎感。生物種としての衰退がこの結果を招いたのか。これから年を重ねるごとに私の心がどう変化するのか、それすら想像がつかない。

日曜日(16日)には教会に礼拝に行かなければならない。この国ではカソリックとして振る舞うことが身の安全にもつながる。私も妻も礼拝は護身術でしかないが、遥には礼拝に通うことが自然な行為になってきたようだ。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

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