福島「中通りに生きる会」52人の原告たちは本当に東京電力に「勝った」のか? 原発事故損害賠償訴訟・6年間の闘いで得たもの、得られなかったもの〈後編〉 民の声新聞 鈴木博喜

植木律子さんや大貫友夫さん(ともに福島市)が「私たちと簡単には和解できないだろうと思っていました。準備書面を読んでいて、私たちの気持ちを理解していないと毎回毎回思っていましたから」、「本人尋問の時の代理人弁護士の質問内容が、いかにも『あなたたちが恐れる事がおかしいんじゃないか』という内容の繰り返しでしたので、和解拒否は予想していました」と口を揃えたように予想された事とはいえ、東電の強気の姿勢は原告たちを大きく落胆させた。

「12月20日に和解案を手にし、私の闘いが少しでも認められたんだと内心ホッとしました。ところが日も経たないうちに東電が拒否した。なんて酷い事だと思いました。不誠実な東電が嫌になりました」(平井さん)

そうして迎えた判決。

裁判所が認容した精神的損害は、原発事故の発生からわずか9カ月間。2011年12月31日までだった。記者会見では、原告たちは複雑な想いを異口同音に口にした。

「2011年12月31日で自分の精神的被害がまるで終わったという事にはなりませんが、それでも裁判所には私の心の損害を少しは認めてもらえたのかなという意味ではホッとしています。原発事故が起きたのは間違いなく事実ですし、福島市は『自主的避難等対象区域』という線引きをされましたが、放射性物質を含んだ雨や風が福島市を避けてくれるわけでも無く、わが家にも放射能の雨が降りました。空間線量は高くなりました。東電は、その事実にきちんと向き合って謝罪をして欲しい。そして控訴をしないよう望んでおります」

「名も無い庶民が声をあげたという意味では、私自身も原告に加わった事を誇りに思っています。目に見えない『精神的損害』をどう表現して主張するかにすごく苦労しました。2011年12月31日までしか認められなかった事には疑問が残ります。東電の小早川智明社長が『公訴時効後も最後の1人まで賠償します』という趣旨の事を言っていたのに、表向きの顔と本音とのずれがあるように感じます。ここまでエネルギーを注がないと、目に見えない損害は賠償されないのだなあと、ハードルは高いなあと感じました。孫の健康不安など、心の損害はまだ続きます」

平井さんもこう語っている。

「原発事故が無かったとは1日も思えずに9年間を過ごして来ました。それでも前向きに普通に生活をして、でも心配はあるので線量計を市役所から借りて測ったりしています。モニタリングポストの撤去計画が浮上した時には反対意見も述べました。2011年12月末で損害が終わったわけではありません。ずっと続いています」

東電は原発事故後に「3つの誓い」をたて、「最後の1人まで賠償貫徹」、「和解仲介案の尊重」などと掲げている。しかし、裁判闘争で疲弊しきった被害者が頭を下げて和解を求めても蹴飛ばす。もう闘えないとつぶやく原告の想いをあざ笑うように控訴するのだろうか。

植木さんは「東電の小早川智明社長には、52人一人一人が書いた陳述書や法廷での本人尋問を読んで頂きたいと願うばかりです」と会見で話したが、至極当然の願いだ。だが自らたてた誓いを平気で破るような企業のトップが、被害者たちが涙を流しながら書いた陳述書を読むはずが無い。それもまた現実だ。

東電の小早川智明社長。判決後の会見では「東電は控訴しないで判決を受け入れて」「陳述書や本人尋問の調書を小早川社長に読んでもらいたい」との声が原告からあがった

野村弁護士は「東電が控訴すればいたずらに被害者を引きずり回し、紛争解決を長引かせる事になる。原発事故を引き起こした社会的責任と、当事者による主張・立証が尽くされた上での判決の重みを真摯に受け止め、今回の判決に従うべきだ」と会見で強調したが、残念ながら争いの舞台は仙台高裁に移される公算が高い。

「それでも原告の皆さんは心配ありません。主張は尽くしていて後は認容額の問題でしょうから仙台高裁での弁論は1回で終わるでしょう。スムーズにいけば夏頃に弁論期日があって、10月頃には判決が言い渡されるかもしれません」(野村弁護士)。

満足出来る判決内容では無いが、受け入れると決めた原告たち。会見で〝前向き〟な言葉が並んだのは、そう自分に言い聞かせなければ崩れ落ちてしまうからだった。

大貫友夫さんは「今日の判決では、放射能を測定する事自体が『原発事故との相当因果関係は認められない』という事で請求が認められませんでした。それは非常に残念です」と悔しさをにじませたが、一方で「十分とは言えませんが精神的損害が認められて良かったと思います。6万8000字の陳述書を書いた2年間が思い浮かびます。娘たちや未来の子どもたちに恥じる事の無いようにとの想いで、この訴訟に加わりました。この6年間、頑張って参りました。この判決を受けた事は誇りに思います。これからも胸を張って生きて行きたいと思います。東電は判決に従って私たちに謝罪してもらいたい。そう強く思っております」とも話した。

夫と二人三脚で闘ってきた大貫節子さんは「判決内容には不服だけれど、もうそろそろ日常生活に戻りたい」と筆者につぶやいた。「あの時のつらさを思い出すのは本当に苦しいので、陳述書を書くのをやめようと何度も思いました。でも、周りに助けてもらいながら書き上げる事が出来て良かったと思います。放射能への不安やつらさを口にしていると日々の生活が暗くなって心が折れてしまう。裁判所で訴えを聴いてもらえた事は私にとっては良かったです」とも。原告たちの複雑な心情が凝縮されているかのような言葉だった。

除染で生じた汚染廃棄物が自宅の敷地内に保管された事も、原告たちが訴えた「精神的苦痛」の1つ

繰り返すが、東電が支払いを命じられた賠償額は個々の原告に対してでは無く、50人分を合算して約1200万円だ。つまり、平均24万円。これが、今村雅弘復興大臣(当時)が2017年4月4日の記者会見で「裁判だ何だでも、そこのところはやれば良いじゃない」と言い放った「裁判」の現実だった。

しかも、「目安」とされた30万円が支払われる原告はいない。最も少ない人でわずか2万2000円だ。最高で28万6000円。最も多いのが24万2000円(37人)だった。しかも、2人の原告に関しては、和解案では賠償額が示されていたにもかかわらず判決では請求棄却。つまり「ゼロ円」だった。他の原告たちが会見で前向きな言葉を口にしている最中、ずっとうつむいたまま涙を流していた原告もいる事を、私たちは忘れてはならない。庶民の気持ちなど知らない〝永田町の住人〟が軽々しく口にするほど、裁判闘争は甘くない。それを見せつけられたようでもあった。

民事訴訟に「100%の勝利」など無いのだろう。どこかで折り合いをつけなければならない。それはそっくりそのまま、原発事故後も「ここで暮らすしか無い」、「子どもとともに避難したいが難しい」と中通りで暮らし続けた人々の「折り合い」と重なる。

勝訴と敗訴が複雑に絡み合った判決を手に、原告はそれぞれの住まいへ戻って行った。〝復興五輪〟の聖火リレーが3月26日に福島で始まるが、原発事故の被害を訴え続けている人たちが今もいる。原発事故の被害は避難指示区域にとどまらない。浜通りだけが「被災地」では無い。それを教えてくれたのもまた、「中通りに生きる会」の52人だった。

◎「中通りに生きる会」52人の原告たちは本当に東京電力に「勝った」のか? 原発事故損害賠償訴訟・6年間の闘いで得たもの、得られなかったもの
〈前編〉 http://www.rokusaisha.com/wp/?p=34316
〈後編〉 http://www.rokusaisha.com/wp/?p=34323

▼鈴木博喜(すずき ひろき)

神奈川県横須賀市生まれ、48歳。地方紙記者を経て、2011年より「民の声新聞」発行人。高速バスで福島県中通りに通いながら、原発事故に伴う被曝問題を中心に避難者訴訟や避難者支援問題、〝復興五輪〟、台風19号水害などの取材を続けている。記事は http://taminokoeshimbun.blog.fc2.com/ で無料で読めます。氏名などの登録は不要。取材費の応援(カンパ)は大歓迎です。

月刊『紙の爆弾』2020年3月号 不祥事連発の安倍政権を倒す野党再建への道筋
『NO NUKES voice』22号 2020年〈原発なき社会〉を求めて

福島「中通りに生きる会」52人の原告たちは本当に東京電力に「勝った」のか? 原発事故損害賠償訴訟・6年間の闘いで得たもの、得られなかったもの〈前編〉 民の声新聞 鈴木博喜

2020年2月19日。福島地裁で1つの判決が言い渡された。原発事故による精神的損害が十分に賠償されていないとして東電を相手取って起こされた裁判。福島県で「中通り」と呼ばれる、東北新幹線沿いの市町村に暮らす52人による「中通りに生きる会」が原告だ。

福島地裁の遠藤東路裁判長は東電に対し、計1200万円余の支払いを命じた。避難者訴訟ではなく、居住者訴訟で精神的損害を認めた「画期的な判決」として全国ニュースにもなった。地元メディアは概ね好意的に報じた。原告たちも、閉廷後の記者会見では〝前向き〟な発言が目立った。だが、原告たちは本当に「勝った」のだろうか? 提訴前の準備から数えると6年にも及んだ裁判闘争で52人は何を得て何を得られなかったのか。きちんと確認しておきたい。

「陳述書を28ページも書きました。これを基に闘ってきたんです。すごく長い闘いでした。皆まとまって一生懸命にやってきたつもりです。(判決で示された賠償額は)私たちが請求した金額とはずいぶん違いますが、これまでの闘いが一応、認められたと思ってホッとしています。東電がこの判決を受け入れてくれる事を心より願っております」

会の代表として奔走してきた平井ふみ子さん(71歳、福島市在住)は、記者会見でそう語った。

2014年10月に福島市内で開かれた陳述書作成の勉強会であいさつする平井ふみ子さん。原告たちの闘いは6年に及んだ。もう余力は残っていない

379ページに及ぶ判決文で遠藤裁判長は、「自主的避難等対象区域に居住していた者の慰謝料の目安は、避難の相当性が認められる平成23年12月31日までの期間に対応する慰謝料額として、30万円と認めるのが相当である」と定義。30万円から東電からの既払い金(8万円)を引き、個々の損害に応じた賠償額を算出した。その結果、50人が既払い金を上回る賠償を認められ、東電が控訴しなければ、2万2000円から28万6000円までの賠償金に遅延損害金を加えた金額が原告たちに支払われる事になる。なお、2人の原告は請求を棄却された。

原告の代理人を務めた野村吉太郎弁護士は陳述書作成では何度も何度も書き直させ、時には原告から恨まれもした。厳しかったが、最後は大きな拍手で原告たちから感謝を伝えられた

原告の代理人を務める野村吉太郎弁護士は、判決内容について「いわゆる〝自主的避難等対象区域居住者〟に対する慰謝料としては過去最高額であるという点は高く評価したい」と一定の評価をしつつ、「原告らが訴訟準備期間を含めると約6年の歳月を費やし、原則として原告全員の本人尋問を経て個別の損害を訴えた末の結果としては不十分。闘いに報いる金額では無い。苦労に苦労を重ねた挙げ句の判決にしては、物足りないものがある」とも語った。

また、「精神的損害に対する評価は非常に厳しいというか、原告の皆さんの精神的損害を汲み取る感性が裁判官には欠けているのではないかと思う。そこは残念だが、他の訴訟と比較すれば、ある意味では画期的な判決なのではないか。もろ手を挙げて喜ぶ事は出来ないが、それなりに受け止めなければ仕方が無いのかなという想いです」とも話した。会見場には複雑な心情が漂っているようだった。

原告たちはそもそも、和解による決着を望んでいた。年齢層が高く、陳述書を書き上げるだけで疲労困憊になり、いざ提訴したらしたで、今度は本人尋問が待っていた。野村弁護士とリハーサルを重ねたが、慣れない法廷での尋問に戸惑い、満足に答えられない原告も少なくなかった。

それでも主尋問はまだ良い。反対尋問では、被告東電の代理人弁護士が牙を剥いた。

原告が被曝リスクへの不安を口にすれば、原発事故直後に行われた山下俊一氏の講演を掲載した福島市の広報紙を提示し、「専門家は問題無いと言っている」と全否定した。原告が家庭菜園を断念したと言えば、「誰も家庭菜園を禁じていない」と一蹴した。避難指示が出されない中で〝自主避難〟するべきか逡巡した苦悩を原告が口にしても、「原告は自己の判断によって避難するかどうかを決めたものであって、中通りにとどまり生活せざるを得なかったという事実は認められない」と反論した。まさに、〝ああ言えばこう言う〟のやり取りが法廷で繰り返された。
当時の想いを、原告の1人はこう振り返る。

「二度と想い出したくない震災と原発事故。いざ原発事故が起きたらどれだけ大変な災害になるかという事を子や孫に残したいと考えて原告に加わりました。人前で話すのも苦手なのにあの場で尋問されるというのは、被害者ではなく何か犯罪者のような気持ちでした。東電が和解勧告を拒否したと聞き、長い間闘ってきた事が認められなかったような気がして東電の非情さと理不尽さに憤りました」

原告一人一人の陳述書に対する膨大な反論の準備書面も提出された。そのたびに法廷には原告の怒りと徒労感に包まれた。46人の原告に対する本人尋問が終了した2019年3月の時点で、原告たちに余力は残っていなかった。

野村弁護士は法廷で裁判所に和解勧告を求めた。原告の1人は当時、筆者に「陳述書を書き上げるのに要した2年間が、もう涙と汗の結晶というか、これ以上は書けないというところまで野村先生に見ていただいて提訴したんです。もう、これ以上は出来ません」と語っていた。

当初は和解勧告に消極的だった裁判所も、原告たちが福島県庁で記者会見を開くなどして世論に訴えた事もあり、昨年12月に和解案を提示した。和解内容は公開されていないが、判決と大きくは変わらないとみられる。原告たちは当初からの方針通りに受諾したが、東電は年明け早々の1月7日に拒否を伝えた。(後編につづく)

▼鈴木博喜(すずき ひろき)

神奈川県横須賀市生まれ、48歳。地方紙記者を経て、2011年より「民の声新聞」発行人。高速バスで福島県中通りに通いながら、原発事故に伴う被曝問題を中心に避難者訴訟や避難者支援問題、〝復興五輪〟、台風19号水害などの取材を続けている。記事は http://taminokoeshimbun.blog.fc2.com/ で無料で読めます。氏名などの登録は不要。取材費の応援(カンパ)は大歓迎です。

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出荷制限解除へ道険しい信夫山のユズ  民の声新聞 鈴木博喜

2月になっても黄色い実をつけている信夫山のユズ。福島市のユズは出荷制限が継続している

毎年恒例の「信夫三山暁まいり」を翌日に控えた今月9日、福島市北部の信夫山(しのぶやま)中腹にはユズ(柚子)の黄色い実が冬枯れの木々の中で一層、鮮やかな色を見せていた。かつて「ユズ栽培の北限」と言われた信夫山。しかし本来であれば、この時期にユズの黄色い色が映える事は無いはずだ。熟しすぎて落下したユズの実には、鳥がついばんだ跡があった。季節外れの景色は一見、美しい。しかしこれもまた、2011年3月の原発事故がもたらした影響だった。信夫山ガイドセンターのガイドスタッフが残念そうに語った。

「原発事故が起きる前は、だいたい12月中にはある程度収穫されていました。でも、原発事故で国の出荷制限がかかっているから収穫出来ない。だから、2月になっても実がついてる。きれいかもしれないけど、これは本来の景色では無いんです」

今さら言うまでも無く、福島第一原発の爆発事故に伴う放射性物質の飛散は60km離れた福島市にも及んだ。2011年6月20日の福島市の測定では、信夫山ふもとの「所窪団地公園」で空間線量は2.61μSv/hに達した。福島県のホームページでさかのぼれる最も古いデータでも、2012年9月6日正午時点で「信夫山公園」の空間線量は1.46μSv/hだった。同日同時刻の「信夫山子供の森公園」では1.27μSv/h。事故が起きる前は0.04μSv/h前後だったから、原発事故から1年半が経過しても実に31倍から36倍もの汚染状況だったのだ。

信夫山のユズ畑の中には、いまだに空間線量が0・3μSv/hを上回る場所もある

「福島県福島市及び南相馬市において産出されたゆずについて、当分の間、 出荷を差し控えるよう、関係自治体の長及び関係事業者等に要請すること」

2011年8月29日、当時の菅直人首相(原子力災害対策本部長)が佐藤雄平知事(当時)に対し、出荷制限を指示した。その5日前に行われたサンプリング検査で680Bq/kg、760Bq/kgという高い数値が検出されていた。国の指示は「当分の間」だったが、出荷制限は今も解除されていない。

福島県農林水産部園芸課の担当者は「出荷制限解除の考え方は、1本でも基準値を超えるユズの木が出てしまったとかそういう事では無くて、危険な物が含まれていないという事を示せなければいけません。そのためには、栽培の状況を確認した上でモニタリング検査をして、基準値を超過していない事を確認する必要があります。それがある程度確認出来た段階で県から国に解除を申請します」と説明する。

「でも、まだモニタリング検査をするまでに至っていないんです」と担当者は話す。

出荷制限を受け、福島県が作成した注意喚起のチラシ。出荷制限解除の見通しは全く立っていない

「そもそも、基準値を超えるようなユズの木がどのくらいあるのか分かっていないんです。しっかり管理されて栽培されているものばかりであれば把握しやすいのですが、庭先で小規模に育てているものもあります。ユズ栽培の実態がどうなっているのか、今は福島市やJAと調べている段階です。なので、今の段階で公表出来る数値はありません。まずは実態把握をしているという事です」

9年という歳月を経ても、出荷停止解除の見通しさえ立っていない。いや、見通し以前の段階だと言わざるを得ない。これが信夫山のユズを取り巻く現状だった。これが原発事故が奪ったものの大きさだった。

福島市農業振興課の担当者も「まだ出荷制限解除を口に出来る段階ではありません」と話す。だが、福島県の検査でも、2018年11月20日の段階で検出された放射性セシウムは5.70Bq/kgにとどまっている。何がネックとなっているのか。そこにはユズの特性があるという。

「リンゴやモモですと、1本の木になる実に含まれる放射線量はだいたい同じです。逆にユズはバラバラなんです。しかも規則性・法則性がありません。しかも、前年に『不検出』だった木でも、今年測ったら高い数値が出る場合もあるんです。他の果物だと、いったん数値が下がったら上がる事はほとんど無いのですが、ユズは残念ながらそうでは無いのです。仮に費用も人手もかけて全部の実を測ったとしても、もう放射性物質が検出されないと言い切れません。そこがユズの難しいところなのです」

現実的には、福島市内の全てのユズの実を検査する事など不可能だ。しかも、他の果物と違い、農園のようにきちんと管理された状態で栽培されている木ばかりでなく、庭で小規模に育てて直売しているケースもある。「JAを通してある程度、大規模に出荷しているようなものは追跡出来ますが、そうでない物はそもそも把握が難しい」(福島市農業振興課)。現在、栽培農家に調査票を配って把握に努めている段階だという。

信夫山に仮置きされている除染廃棄物。順次、中間貯蔵施設に運ばれる

過去には、当時の佐藤雄平知事が米の〝安全宣言〟を発した直後に基準値を上回る数値が検出されてしまった事もあり、福島市農業振興課の担当者は「全体として数値は下がる傾向にあり、その意味では安全だと言えます。でも、もし出荷制限解除後に100Bq/kgを超えるユズが出てしまったら、風評などより悪い結果を招いてしまいます。今の段階で焦って解除を求めてはいません。福島市にとってユズは大切なものですから、どうしても慎重にならざるを得ない部分はありますね」と話した。

信夫山を散歩する親子。被曝リスクを心配する人は表面的には少なくなった。一方で「心配してもしかたない」との想いもある

前述のガイドは、市街地を見下ろしながらこうも言った。

「原発事故直後は、面白半分と言うのかなあ、興味本位と言うべきか、われわれにとっては不愉快でしたけど『原発の状況どうですか?』なんて尋ねられる事も多かったですよ。そんな事を尋ねるためにわざわざ福島に来たのか、と面白くは無かったですよね。別にそれほどの影響というか、この辺りは浜通りに比べればそれほど放射線量が高かったわけでは無いのにね。食べ物にしたって、全部検査しているのは全国で福島県だけだから。店で販売されているものは全て検査をクリアして安全なもの。むしろ他県より安全なんだよ」

顔は笑っていたが、明らかに不快感がにじんでいた。

原発事故から2年後の2013年からは、「信夫三山暁まいり」の初日に「福男・福女競走」が行われるようになり、初代福女は中学生。今年も福島市内の中学生が福女になった。

地元で暮らす人々にとっては、街のシンボルである信夫山がいまだに汚染されていると思われるような状態は確かに不愉快だろう。だが一方で、信夫山中腹のユズ畑で、筆者が持参した線量計は場所によっては0.3μSv/hを上回った。さらに山を登ると、公園の奥には除染で取り除かれた汚染土壌などが仮置きされて搬出の順番を待っている。残念ながら、原発事故の影響は今も続いている。出荷制限などほど遠いユズの状況がそれを端的に物語っている。

▼鈴木博喜(すずき ひろき)
神奈川県横須賀市生まれ、48歳。地方紙記者を経て、2011年より「民の声新聞」発行人。高速バスで福島県中通りに通いながら、原発事故に伴う被曝問題を中心に避難者訴訟や避難者支援問題、〝復興五輪〟、台風19号水害などの取材を続けている。記事は http://taminokoeshimbun.blog.fc2.com/ で無料で読めます。氏名などの登録は不要。取材費の応援(カンパ)は大歓迎です。

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「東京2020オリンピック聖火リレーふくしま実行委員会」の議事録はほぼ全面黒塗り! 徹底した秘密主義下で進められる福島の聖火リレー 民の声新聞 鈴木博喜

「ご質問頂きました聖火リレーについてですが、ルート選定などの会議は全国統一でメディア非公開で行われております。決定までの経過などに関しましては、秘匿情報もございますし、違う形で情報が公開されてしまいますと、混乱のもととなります為に、決定事項のみメディアの皆さまへは発表させていただいております」

民の声新聞2月10日号(徹底した〝秘密主義〟のベールに包まれる聖火リレー。「ふくしま実行委」の議事録ほぼ全面黒塗り。背景に組織委の意向)の執筆にあたり、公益財団法人東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会の戦略広報課に質問をメールで送っていたが、その回答がようやく届いた。冒頭の文章が組織委からの回答だ。

 

だが、筆者が質問していたのは次の2点だった。

「福島県に聖火リレーのルート選定などに関して取材したところ、『大会が終了するまでは会議の内容や出された意見など一切公表しないよう組織委員会からお願いされている』 との事でした。これは事実でしょうか。また、実際にそのような依頼をされているとしたら、その理由は何でしょうか?」

その意味で、組織委員会は全く質問に答えていない。そもそも「秘匿情報」とは何を指しているのか、「混乱のもととなる」と言うが、どのような「混乱」を想定しているのか。全く分からない。

きっかけは、1月23日付での公文書開示請求だった。

福島県は2018年8月から今年1月までに計8回、「東京2020オリンピック聖火リレーふくしま実行委員会」(以下、実行委)を開いているが、その議事録はホームページなどで広く県民には公開されていない。そもそも議事録が存在するのか否かさえ分からない。そこで情報公開制度を利用して議事録の開示を求めたところ、ほぼ全面的に黒塗りされた状態で開示されたのだった。

別紙で示された「開示しない理由」には、

①「東京2020オリンピック聖火リレーの県内実施詳細等の審議、検討又は協議に関する情報であって、検討段階の情報を開示することにより、率直な意見交換若しくは意思決定の中立性が損なわれるおそれ、又は、不当に県民等に誤解や混乱を与えるおそれがあるため」、

②「県の機関、国及び他の地方公共団体等が行う事務又は事業に関する情報であって、当該事務又は事業の性質上、開示することにより、当該事務又は事業の適正な遂行に支障を及ぼすおそれがあるため」と記されていた。

わずかに開示された部分からは、各委員にはメモや資料持ち帰りまでも禁じている事が分かる。聖火リレーの準備は徹底した〝秘密主義〟で進められていたのだった。

実は開示請求をした直後、福島県オリンピック・パラリンピック推進室(以下、推進室)の担当職員から筆者あてに電話があった。

「組織委員会の意向に従い、委員の発言はほぼ黒塗りで開示する事になりますが、それでも良いですか? 他からの開示請求でも同じ対応をしています。どうしますか? 請求を取り下げますか?」

もちろん、各委員の発言を伏せられるのは承服出来ないが、かといって取り下げる理由にもならないので改めて開示を請求した。県の担当者は、電話越しに「では、開示する事になると思いますが、大部分が黒塗りになりますので、何卒ご理解ください」と念押しした。そして、開示された83枚にわたる議事録は、〝予告〟通りに真っ黒だったというわけだ。

そもそもなぜ、聖火リレーのルートやランナーについて話し合う会議での発言が隠されなければならないのか。取材に応じた推進室の佐藤隆広室長はこう答えた。

「文書は特にいただいておりませんが、組織委が全国の都道府県に対して議論の過程は公表しないよう『お願い』していると聞いています。その『お願い』にどこまでの強制力があるかについては各都道府県の受け止め方にもよると思いますが、全国統一で組織委がそのような『お願い』をしている以上、それに沿った対応をしようという事です」

福島県は、〝復興五輪〟や聖火リレーを起爆剤として、国内外に「原発事故から立ち直った福島の姿」を発信したい考えだ。内堀雅雄知事は、事あるごとに「福島県の『光』と『影』の両方を正確に発信したい」と口にしているが、実際にはスポーツの祭典は「光」ばかりの発信に使われる。

 
福島県の市町村

公表された聖火リレーのルートからは、フレコンバッグの山や家屋解体でさら地が増えている様子などは伝わらない。浪江町に至っては、町民の帰還や生活と何ら結びつかない「水素工場」や「ロボットテストフィールド」がルートに選ばれた。また、著名人を対象とした「PRランナー」にはTOKIOやしずちゃん、大林素子など6人1組が選ばれたが、誰が、どの立場で彼らを提案し、それに対してどのような意見が出されたのか、他に候補者はいたのかなど、全く県民には知らされないまま結果だけが伝えられる。原発事故はもはや過去の話にされるのだ。

推進室の佐藤室長は、議事録は行政文書にあたると認めている。それであれば公開の是非は県の判断で決められるべきだ。だが、実際には公益法人であるところの組織委の意向が大きく影響している。これは、公文書開示の点からも問題があるのではないか。

組織委は全国統一での「非公開」だけは認めた。しかし、なぜ議論の過程を明らかにしないのかについては曖昧なままだ。五輪に乗じた〝復興推進〟の陰で、救済されずに泣いている人が存在する事など隠され、消されていく。原発事故の被害者たちは「オリンピックで何もかも終わった事にされてしまう」と言い続けて来たが、まさにそれを象徴するような議事録の黒塗り。徹底した〝秘密主義〟の下で都合の悪い事は黒く塗られていく。原発事故被害者の存在も。

▼鈴木博喜(すずき ひろき)
神奈川県横須賀市生まれ、48歳。地方紙記者を経て、2011年より「民の声新聞」発行人。高速バスで福島県中通りに通いながら、原発事故に伴う被曝問題を中心に避難者訴訟や避難者支援問題、〝復興五輪〟、台風19号水害などの取材を続けている。記事は http://taminokoeshimbun.blog.fc2.com/ で無料で読めます。氏名などの登録は不要。取材費の応援(カンパ)は大歓迎です。

月刊『紙の爆弾』2020年3月号 不祥事連発の安倍政権を倒す野党再建への道筋
『NO NUKES voice』22号 2020年〈原発なき社会〉を求めて

東京五輪で福島は復興するのか? 2月9日(日)、大阪浪速区「ピースクラブ」で福島三春町在住カメラマン飛田晋秀さんが語る嘘とまやかしの「復興五輪」の実態

3月26日、福島県楢葉町のJヴィレッジからスタートする東京オリンピック・パラリンピックの聖火リレールートに、福島県浜通りで唯一決まっていなかった双葉町が、追加される見通しとなった。これにより3月26日から始まる東京オリンピック・パラリンピックの聖火リレーが、甚大な被害をうけた福島県浜通りのすべての町村を通過することになる。

一方、政府は、1月21日、3月11日に政府が主催する東日本大震災の追悼式を、発生から10年となる来年の式典を最後に終了することを発表した。聖火リレーで、福島をくまなく回り、福島は震災と原発事故から不死鳥のように蘇ったとアピールし、原発事故の被害をなかったこと、あるいは終わったことにするためだ。それは同時に、「原発は事故を起こしても、10年経てば『復興』できる」という、新たな「安全神話」を完成させることだ。嘘とまやかしの「復興五輪」の実態を暴いていこう。
 

◆徹底除染したのは「聖火リレー」のルートだけ?

3月21日、福島県は、福島県内の聖火リレールートの空間放射線量の測定結果を発表した。それによれば、空間放射線量の最高値は、沿道が飯舘村の毎時0.77マイクロシーベルト、車道が郡山市の毎時0.46マイクロシーベルトであり、国の被ばく許容限度の毎時0.23マイクロシーベルトを超える地点が、13ルートもあることがわかった。しかし県は、走者や応援者の滞在する時間を約4時間と考え、「開催に問題ない」としている。果してそうだろうか?

昨年12月、スタート地点の楢葉町のJヴィレッジ付近の駐車場で、地表で毎時70.2マイクロシーベルト、地上1メートルで毎時1.79マイクロシーベルトの場所が見つかり、環境省が東電に再除染を要請し、実施されたことが明らかになった。高い放射線量が残る地域、あるいは除染後に再び上がった地域は、ここだけではないはずだ。福島県三春町在住のカメラマン飛田晋秀さんは「除染はリレーが通過する道だけを対象にしているんです。その周辺には、まだまだ高線量の場所が存在すると思いますよ」と説明する。

広くて豪華な東電の社員食堂「大熊食堂」

実際、飛田さんが、昨年暮れにアメリカのマスコミを大熊町に案内した際、ゴーストタウンとなった大野病院近くの商店街周辺で、毎時44.5マイクロシーベルトを計測したという。周辺もだいたい毎時30マイクロシーベルト。

聖火リレーは、当然ここは通らない。大熊町のルートは、常磐道の高架下付近からスタートし、東電の社員寮、社員食堂などが立ち並ぶ大川原地区を走りぬけ、昨年新社屋に変わった大熊町役場をゴール地点とする約1.0キロのコースである。

昨年3月、私もここを訪れたが、瀟洒な東電の社宅が立ち並ぶその一帯は、「ビバリーヒルズ」をもじって「東電ヒルズ」と呼ばれている。広くて豪華な東電の社員食堂「大熊食堂」は、昼食時、一般客にも開放されているが、利用するのは、作業服姿の工事関係者や作業員、制服姿の役場職員がほとんどで、家の片づけ作業などで町に戻ってきたであろう人は、ごくわずかだった。

役場の近くに復興住宅が出来たが、「帰還しろ!帰還しろ!」という役場職員自身が、じつは福島市や郡山市、さらに遠い会津若松市から通っているという。戻る人は、どこの町村も同じで、65歳以上の高齢者であるという。

広くて豪華な東電の社員食堂「大熊食堂」

◆ハコモノからハコモノへ走る飯舘村の聖火リレールート

飯舘村の伊藤延由さんが飯舘村村内の聖火リレーコースのほぼ中間点で採取したデータ。道路脇から約2mの農地。ここに立って聖火リレーを応援?

私たち「西成青い空カンパ」が支援する飯舘村の聖火リレーのルートには、さらに驚かされる。飯舘村は、大阪市とほぼ同面積をもち、そこに20の行政区がある。原発事故後の復興計画では、当初、帰還困難区域の長泥地区を除く19の行政区で復興を進めると計画されていたが、その後、まずは「復興拠点」をきめて、そこを先行的.集中的に復興させように変わっていった。

安倍首相が、2013年9月、IOC総会で「汚染水はアンダーコントロール(制御)されている」とプレゼンテーションを行い、五輪招致を勝ち取って以降である。福島第1原発の汚染水がアンダーコントルール(制御)されていないことは、この間汚染水の処理問題を巡り、混乱を極めていることからも明らかだ。いわば安倍首相の嘘のプレゼンで、だまし取った東京五輪のために、飯舘村の復興計画が当初案から大幅に変えられてしまったのだ。

復興拠点に決まった深谷地区の幹線道路沿いには、飯舘村の道の駅「までい館」、「花き栽培施設」(ガラスハウス)、大規模太陽光発電所、村民交流センター「ふれ愛館」などが次々と建設されてきた。昨年3月、訪れた際には、までい館の裏手に村営住宅が建設され、までい館北側の敷地1万2,790平方メートルには、多目的ひろばの建設.整備が進められていた。聖火リレーは、まさにこの「ハコモノ」(ふれ愛館)から「ハコモノ」(までい館)の約1.2キロを走る。大阪市内ならば、心斎橋駅から難波駅ほどの距離だ。この短い区間を走って、飯舘村の良さが伝わるのだろうか?

◆東京五輪で福島は本当に「復興」するのか?

2月9日(日)14時より、私たちは、大阪市大国町にある社会福祉法人「ピースクラブ」にて、福島県三春町から飛田晋秀さんをお招きして講演会を行う。

もともと全国を回って職人さんを撮っていた飛田さんだが、2011年の大震災と原発事故後、事故の被害、被災者の苦しみを風化させてはならないと、被災地の惨状を撮り続けている。そうした貴重な写真の紹介しながら、福島の現状を語る講演会の回数は、国内外で300回にも及ぶという。

福島県内の聖火リレーのコースが決まった際、福島県の内堀知事は、原発事故から復興した「光と影」の両方を伝えていきたいと話した。しかし、決まったルートはすべて「光」の部分だ。そこだけ切り取ったようなルートもある。たとえば浪江町のルートは、国主導の「福島イノベーション・コースト」構想が進められている「福島ロボットテストフィールド」をスタートし、「福島水素エネルギー研究フィールド」をゴールとする、わずか0.6キロの距離だ。東京五輪開催にむけて、無理矢理「光」の部分をつくってみた、と穿った見方をするのは、私だけだろうか?

例えば、帰還困難区域の屋根が抜け落ちた建物、イノシシなど動物に荒らされてしまった室内、中身の味噌まで食べられてしまった味噌樽、ゴーストタウンになってしまった商店街、飛田さんの知り合いが、富岡駅から大熊町役場に歩いた際、誰とも会わなかったという、人の戻らない町なみ。マスクもしないパトロール中の若い警察官、ガードマン……。

2月9日、飛田さんには、こうした、大きなメディアが語らない、語れない、福島の復興の「影」の部分を大いに語っていただく予定です。

なお、当日は、飛田さんの写真集『福島の記憶 3・11で止まった町』の販売と、福島出身のあかりさんと戸張岳陽さんで結成する「アカリトバリ」の演奏もあります。多くの皆様のご参集を願っております。

2月9日(日)14時、大阪「ピースクラブ」で福島県三春町在住カメラマンの飛田晋秀さんが語る嘘とまやかしの「復興五輪」の実態
2月9日(日)14時、大阪「ピースクラブ」で福島県三春町在住カメラマンの飛田晋秀さんが語る嘘とまやかしの「復興五輪」の実態

◎[関連情報]飯舘村で聖火リレーコース(1.2km)の道路脇農地等の土壌測定を行っている伊藤延由さんのツイッター https://twitter.com/nobuitou8869

▼尾崎美代子(おざき みよこ)

新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。月刊『紙の爆弾』2020年1月号には「日本の冤罪 和歌山カレー事件 林眞須美を死刑囚に仕立てたのは誰か?」を、『NO NUKES voice』22号には高浜原発現地レポート「関西電力高浜原発マネー還流事件の本質」を寄稿
◎著者ツイッター(はなままさん)https://twitter.com/hanamama58
◎[参考動画]飯舘村深谷地区の道の駅裏に建設・整備された村営住宅(著者ツイッター)

『NO NUKES voice』22号 尾崎美代子の高浜原発現地レポート「関西電力高浜原発マネー還流事件の本質」他
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「被ばくしたくない」と避難した事実そのもの、そのしんどさをわかってほしい ── 福島原発事故避難者に聞く〈4〉槇奈緒美さん

槇奈緒美さんは、福島県富岡町で被災した。避難所を転々とする日々が続くなか、「1号機爆発」も「被ばく」も気にはなったが、難病を抱える身でもあり、毎日生きていくことに精一杯だった。「避難した事実そのもの、そのしんどさを分かち合えればと考えている」。以下に記した話の何倍もの話を、奈緒美さんに聞いた。原発事故からまもなく9年経つというのに、その重みは変わらない。

2019年3月尾崎撮影

◆不安を抱えながら引っ越した富岡町で被災した

中学にはいってまもなく母親を失った奈緒美さんは、妹と父親の3人で、父親の実家のある福島県富岡町に引っ越した。1986年、チェルノブイリの原発事故が起きた年だ。幼いころ読んだ「はだしのゲン」も思い出され、なんとなく「原発の町に住むのは嫌だな」と思ったという。友達のお母さんが、大熊町にある研究所に勤めていたが、原発作業員らの染色体を調べたら異常があるとか、作業服を洗濯する人も被ばくしているなどの話を聞いた。一方で、卒業後、東電に就職する同級生も多いうえ、親戚の飲食店も東電の社員が客なので、「原発怖い」と素直に言えない雰囲気があった。

京都の大学に入学した奈緒美さんは、卒業後も京都に住み続け、発掘の手伝いなどをしていたが、ストレスが重なり、32歳の時、全身に痛みやこわばりがでる「線維筋痛症」にかかった。妹のいる東京に移り住んだが、1年後の33歳の時には精神の病にかかり、東京の精神病院に8ケ月入院、その後は精神科医の勧めもあり、福島県いわき市の病院へ転院した。

2008年、夏頃退院し実家で療養生活を始める。父との二人暮らしだが、体の痛みで動けない時期が続いた。思春期におきた突然の母親の死が受け止めきれず、33年~35年分の疲れがどっとでた感じだった。そんななか、2010年秋からハローワークに通い出し、2011年事故の1週間前には障害者の就職相談会に参加するなど前向きな気持ちになっていた。

◆「被ばく」も怖かったが、毎日生きるのに精いっぱいだった

そんな矢先に事故が起きた。奈緒美さんは父と二人で富岡町の多目的ホールに避難した。持ち出せたのは毛布2、3枚と通帳、下着程度。配給はペットボトルl本とパン1個。寝られずに迎えた翌朝、避難範囲が3キロから10キロに広がり、移動することになった。7時半車で出発、24キロ先の川内村に移動したが、満杯で入れず、渋滞の中のろのろ運転で田村郡の船引の廃校の小学校に到着したのが15時半頃。その直後、1号機が爆発したと友達からメールで知らされた。支援物資は少なく、食事は1リットルの水と塩気のない小さなおにぎり。昼間、渋滞の道の反対車線から茨城交通のバスがいっぱい走っていたことを思い出す。あとで知ったが、それは大熊町が避難のために手配したバスだった。車のラジオで、しきりに「水位が下がった」などと言っていたことも思いされた。怖かったものの、現実はそれどころではなかった。毛布も不足しているし、食事も毎日甘い菓子パンが続く。味噌汁も小さなプリンのカップのような容器に二口だけ……。

配給の少ない避難所からは、被災者はどんどん別の避難所に移動していく。事故のことも気になるが、避難所暮らしのことで頭はいっぱいだった。

その後、父の親せきが避難する会津若松の高校に移動。そこは比較的支援物資は多いものの、寒い上に持病のある奈緒美さんは、目を開けているのも辛かったという。原発も気になるが、当時は1日1日を生きることに必死だった。あるとき薬局で、特殊な奈緒美さんの薬が、入手できなくなるかもといわれたこともあり、ひとりで避難することを、父や親せきに訴え、説得させた。将来子どもを産むかもしれないから、被ばくしたくないとの思いだった。

特定復興再生拠点の先行解除について(広報とみおかより)

3月23日、友達のいる東京にバスで逃げ、その後は千葉の友達の家、親戚の家などを転々とした。

「福島にいていたらなかなか情報がわからないが、福島を出ると、本質的に何か大変と共有できる人が大勢いるから、それは良かったと思う」と当時を振り返る。

◆家族と別れ、たった一人で関西へ避難

その後、父から「家族単位で避難しなくてはならないから」と連絡があり、仕方なく栃木県日光市に移動。富岡町と災害協定を結んでいた品川区の保養所が、駅から車で10数分の山の中にあった。精神科医のボランテイアに相談し、個室を与えられた奈緒美さんは、観光シーズンの始まる8月末までそこに居た。その精神科医が、父親を説得してくれ、奈緒美さんは再び一人で関西へ避難することとなった。単身で住める宝塚の借り上げ住宅に入り、家電6点セットや掃除機、こたつなどを支援者に用意してもらった。とても助かると思った。初めての町で、近所に避難者もいなかった。その後、宝塚の「避難者のカフェ」などに行ったが、立場が様々なので、人とつながるのに時間がかかったという。

2012年、関西で瓦礫焼却の問題が起きた際には、勉強会で知り合った方と一緒に署名活動などをした。リハビリにも通い、のろのろ運転で試行錯誤しながら、日常生活を取り戻してきた。2013年から吹田にある「モモの家」で避難者カフェのスタッフに加わり、今も継続中。

自家消費野菜等放射能測定結果(測定月=H30年8月~11月)

◆「ひょうご原発訴訟」の原告となる

事故当時、就労活動の準備中だった奈緒美さんの賠償金は少なかった。東電は、フォーマットにあてはまる問題から少しでも外れていたらはじいてくる。「ハローワークに何回いった」「面接に何回いった」。「99・9%の確実で就職する予定だった」と確認されないと、就労保障は無理とわかった。そのADRの担当だった弁護士に勧められ、奈緒美さんは、2014年3月「ひょうご原発訴訟」の原告となった。

「いろんな避難者に接していると、自分の内面を癒したい気持ちと、裁判などで社会問題として解決したと思う人たちと、うまく交わってという部分もあるが、両極に分かれることもあると感じている。私はそれよりも避難した事実そのもの、そのしんどさを分かちあえればと考えています。表現スタイルは人それぞれだが、ちょっと大局的にものごとを見ていきたいとは思います」と奈緒美さんは語る。

「ひょうご訴訟」の原告は、現在97人。これから本人尋問が始まる。一昨年、裁判長が変わった際、奈緒美さんが行った意見陳述の一部を紹介する。

「事故前は病気に理解ある叔母や叔父に助けられていた。また私の複雑な生い立ちを理解してくれる友人、もしくは東京などに住む同郷の友人が帰省したら会うことができた。周囲の人々に有形無形で助けられていた。自分自身が不安定でも、自然に恵まれた、安定した環境でゆっくり自分の病気に向き合うことができた。庭では亡き祖父が大切にしていた梅の木に癒され、父は山でワラビやゼンマイを取り、叔母は川沿いで拾ったクルミを使った料理でもてなしてくれた。避難後はヘルパーさんや訪問介護を利用して、なんとか日常生活を送っている。就労はしているものの、事故前より、不安を感じやすくなっている」。

奈緒美さんは、以前読んだ詩集で、広島の「原爆自閉症」という言葉を知ったという。被爆の苦しみを言えずに自閉症みたいになり、いっそのこと、ほかの土地にもピカが落ちればと思ってしまうという症状だ。そして「そうやって、問題が内に籠り、はけ口が見いだせなくなることが怖いと思ってしまいました」と話す。意見陳述の最後を奈緒美さんはこう締めくくった。

「私はただ原発事故によって、放射能が拡散された事実を、ありのままに受け止めて、避難の選択をし、それが続けられる権利を求めたい」。

工事中の駅(2019年3月尾崎撮影)

▼尾崎美代子(おざき みよこ)
新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。最新刊の『NO NUKES voice』22号では高浜原発現地レポート「関西電力高浜原発マネー還流事件の本質」を寄稿

『NO NUKES voice』Vol.22 新年総力特集 2020年〈原発なき社会〉を求めて
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1・17阪神大震災から25年に思う ──  鹿砦社代表 松岡利康

本日、かの阪神・淡路大震災(以下、阪神大震災と記す)から25年を迎えました。「もう四半世紀か」──当地に居て震災を経験し、また以後の復旧・復興を当地に住みながら見てきた者として感慨深いものがあります。阪神大震災後、東日本大震災、熊本地震などを経験し、東日本大震災では原発事故を惹き起こし、私の故郷・熊本自身では100人以上の死者を出し少年時代から馴染んできた熊本城が壊れました。相次ぐ大地震発生を想起すると、地震はこの国の宿命であり、日頃から対策を怠っては成らないと思います。

誰が言ったのか、ここ阪神地方には地震は発生しない、あるいは熊本でも大きな地震はないという“神話”がありました。例えば熊本地震を見ても、近くに阿蘇山があり、雲仙があり、霧島など大きな活火山があるのに地震が発生しないと考えるほうがおかしいでしょう。

阪神大震災は、1995年1月17日早朝に起きました。午後から新刊書籍の東京で記者会見の予定でしたが、当然中止。この頃、いわゆる芸能暴露本がブレイクしようとしていた時期で、誰もが「松岡ももうアカンやろ」と、特に東京方面では囁かれていたとのことでした。「松岡ももうアカンやろ」という台詞は、10年後の2005年にも言われましたが、ははは、自分で言うのも僭越ですが、我ながら悪運が強いと感じます。

「鹿砦社通信」1998年8月10日号。この頃の「鹿砦社通信」は、ほぼ週刊でファックス通信だった
「鹿砦社通信」1998年8月17日号
「鹿砦社通信」1998年8月24日号
 
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ところで、ここ西宮という都市(まち)は地味で、甲子園球場がありながら、それもなかなか知られていません。

同様に、阪神大震災で、西宮で1100人余りの死者が出たことは、これまた全く知られていません。1100人といえば、熊本地震の10倍以上です。阪神大震災は神戸のイメージが強く、西宮や芦屋で多くの死者が出たことは等閑視されているようです。ためしに阪神大震災の死者数を都市別に挙げておくと(兵庫県発表)、

総6,402人
〔内訳〕
神戸市 4,564人
西宮市 1,126人
芦屋市  443人
宝塚市  117人
淡路島   62人
尼崎市   49人
その他  103人

神戸は広いので死者が多いのは当然といえば当然でしょうが、区毎に見ていくと、
東灘区 1,469人
灘区   933人
中央区  243人
兵庫区  554人
長田区  919人
須磨区  399人
垂水区   25人
西区    9人
北区    13人

 
『心の糸』※画像をクリックするとyoutube動画にリンクされます

となっています。

つまり、1つの行政区で比較すると、西宮市は東灘区に次いで2番目となっています。

西宮にしろ芦屋、宝塚にしろ狭い都市(まち)なのに犠牲者が多いことがわかりますが、実際に震災直後、車で見て回ると、芦屋、宝塚の被害の密度が濃いことが感じられました。

いまだに思い出すのは、甲子園球場の周囲の公園には数年間仮設住宅がありましたが、華やかな高校野球が報じられながらも近くの仮設で猛暑のさなか暮らす方々のことは、さほど報じられることはありませんでした。

いや、この年の高校野球の開会式で、犠牲者に黙祷することはありませんでした。私の記憶に間違いがあるのなら指摘していただきたいと思います。

もう一つ忘れられていることがあります。

「阪神・淡路災AID SONG」として、長山洋子、藤あや子、坂本冬美、香西かおり、伍代夏子といった、当代きっての5人の歌手がレコード会社の壁を越えた「共同企画」として歌った曲で、今聴いても名曲です。彼女らがテレビで歌っているのを視たのは、たった2回で、地元で誰に聞いても全く知られていません。これだけ5人の人気女性歌手が歌っていながら、さほど話題にならず、この25年間知られることなく忘れ去られようとしています。

みなさん、今一度この曲をお聴きください。そうして、25年前の震災直後の情況を想起しましょう。そしてこの25年の、私たち一人ひとりの歩みを──。


◎[参考動画]心の糸 演歌五人組

現在、当地・阪神地方において、仮設住宅一掃を急くあまり高齢者をコンクリートの塊(いわゆる復興団地)に押し込め孤独死が報じられることはあるものの、全般的には復旧・復興は、かなり進んだと見ていいでしょう。

熊本も復旧は順調に進んでいるようです。

福島はじめ東北はどうでしょうか?──この問いに答えるに私は躊躇せざるをえません。早9年が経とうとしているのに、です。阪神地方や熊本と違うのはなぜでしょうか? ハッキリ申し上げさせていただくと、やはり放射能の影響が大きいと思います。放射能防御服を着て復旧作業に専念できるわけがありません。阪神地方や熊本では、それも必要なく、Tシャツ1枚で復旧作業をやっています。福島ではいつになったらTシャツ1枚で復旧作業ができる日が来るのでしょうか?

震災のみならず、この国は、台風、大雨など自然災害に襲われ、その地では壊滅的打撃を蒙った地域も数多くあります。近年では、本当に自然災害が多い国です。こんな国に原発ははなから設置してはなりません。

私は、へたな右翼・民族派よりも遙かにこの国を愛しています。原発は決して「アンダーコントロール」されていませんし、この国にたびたび訪れる大きな台風や大雨などの自然災害も「アンダーコントロール」できていません。

私はここ甲子園で25年の月日を過ごし震災復興を見てきました。遠くからではありますが、福島の復旧・復興を、少なくとも同じ年月(あと16年)は見ていきたいと思っています。3年前の熊本地震で崩れた、少年時代に何度となく行った故郷・熊本城の再建も──。

「風よ吹け吹け 雲よ飛べ 越すに越されぬ田原坂
 仰げば光る天守閣 涙を拭いて 振り返る振り返る故郷よ」(『火の国旅情』)
 
 

2020年もタブーなき言論を! 月刊『紙の爆弾』2020年2月号
『NO NUKES voice』22号 新年総力特集 2020年〈原発なき社会〉を求めて
鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

ポピュリズムの必要 ── 政治家・山本太郎をめぐって

田所敏夫さんの「私の山本太郎観」(2019年12月17日本欄)を読んで、つまり山本太郎の評価をめぐって、誌上論争ともいうべき議論が必要だと感じました。わたしの名前も出されたことだし。しかるに、これを論争とするには大げさな、基本的な理解の問題ではないかと思う。そこで、拙い論考を記してみます。

◆政治運動は「独裁者」によって成立する

 
『NO NUKES voice』Vol.22 新年総力特集 2020年〈原発なき社会〉を求めて

田所さんは「(山本太郎が)ある種アジテーターとして優れた能力を持っている」「それは下手をすると結果的に『独裁』と紙一重の危険性を孕むことと大きく違いはない」と言う。そのとおりだと思う。

そもそも、政治家が個人の言説を前面に押し立てて、どこか支配的(独裁的)な言説を振りかざすのは、選挙運動においてはふつうのことである。そして政治の本質は「強制力(ゲバルト)」なのだ。演説においては、打倒対象への憤激を組織するのが目標とされる。街頭行動(デモ)や集会においても、スローガンを唱和して大衆的な憤激を一点の主張に絞り込む。これは政治的な大衆運動の基本であって、アジテーター(政治的主催者)が扇動するのを否定してしまえば、もはや運動として成立しないのは自明だ。

したがって、あらゆる政治家は大衆の前において、独裁者のごとく振る舞うのだ。なぜならば、彼の前にしかマイクがないからである。目の前の大衆が拍手喝采しているのに、黙り込んでしまうアジテーターは政治家として、およそ不適格であろう。それは政治の死滅を標榜する革命運動、あるいは反独裁・反ファシズムの大衆運動においても同様である。大衆の熱狂を前にして沈黙するような政治家(扇動者)は、そもそも演壇に登場するべきではないというべきであろう。いや、彼はもはや政治家ではないのだ。

それは経営者が社員たちを前にして、あるいはその対極にいる労働組合の指導者が組合員大衆を前に扇動するのと、ひとつも変わらない風景なのである。もしもこの、基本的なアジテーターと政治的大衆運動の関係いがいに、田所氏が山本太郎に危険なものを感じるとしたら、おそらくアジテーターとして傑出した能力にほかならないと、わたしは直感的に思う。事実、田所氏はそう述べている。いいではないか。日本の左派にもようやく、大衆を扇動できる政治家(ポピュリスト)が登場したと、山本太郎の登場を歓迎することはあっても、危険な爪を隠す必要はないと思う。

演説の天才はフランス革命のダントンやナチスのアドルフ・ヒトラー、ゲッベルスなどを想起するが、わが安倍総理もなかなかのものだ。内容を本人がわかっていなくても、何の迷いもなく扇動するアジテーター(おそらく深層心理はサイコパス)である。政治的な手腕や学際的な中身において、安倍総理を凌駕するはずの、たとえば小沢一郎(政治的工作手腕)や石破茂(法律家的なセンス)がまるでポピュリストとして安倍の敵ではないのは、ひとえに安倍の演説力によるものだ。もうおわかりだろう。安倍総理に対抗できる政治家が山本太郎なのである。

そしてそもそも、独裁一般が悪いわけではない。金融資本のテロリズム独裁(=コミンテルン7大会、デミトロフのファシズム論報告)なのかプロレタリア独裁なのかという、古典的なシェーマを持ち出すまでもない。政治運動とは、一定の「独裁力」を必要とするのだ。※参考図書『左派ポピュリズムのために』(シャンタル・ムフ、明石書店)。

 
『NO NUKES voice』Vol.22より

◆政策は戦術である

田所さんは「山本氏が100人単位の議員を抱える政党の党首に就任したら」「必ず『現実路線』の名のもとに、原発廃止などの政策は『2030年に廃止を目標とする』などといった後退を強いられるだろう」と言う。けだし当然である。すでに山本太郎は、昨年初めのたんぽぽ舎における講演で、原発廃止を選挙公約の前面に立てないと広言している。当然のことながら、参加者たちの批判を浴びたものだ。

そして票をとりにくい反原発の代わりに、選挙で戦いやすい「消費税廃止」「若年層への教育支援」「時給1500円」をマニフェストにし、その財源は日銀の買いオペによるリフレだと明言した。田所さんはリフレに批判的なので再論しておこう。リフレの主柱である赤字国債は、現実に日本の戦後復興から高度成長までこれでやってきたのだから、現実性はあっても懐疑が生じるほうが不思議というものだ。富の源泉(価値)が原理的には労働であっても、現実の貨幣の実体性は造幣局が握っているのだ。労働ではなく、貨幣をもって価値が交換されるのは言うまでもない。

問題は富の配分なのである。安倍総理は大企業が収益を上げることによって、社員の所得が向上し、傘下の企業も潤うはずだとしてきた。したがって国民全体が豊かになる、としてきた。結果はしかし、そうではなかった。年間40兆円という内部留保に企業は安住し、社員はもとより下請け企業に利潤は還元されなかったのだ。ピケティが云うとおり、富の独占者は富を手放さないのである。じっさいに平均賃金・実質賃金の落ち込みは、日本経済を後進国なみに陥らせたではないか。格差たるや昨年の大企業の一時金が90万円台(経団連集計)で、中小零細をふくめたそれが30万円台という事実に顕われている。

とりわけロストゼネレーション(40~50歳代)において、時給1000円(年収200万円未満)の派遣労働が強いられているのだ。せめて年収300万円(時給1500円)という山本太郎の公約は、それを保障するものが同じくMMTによる経済政策でありながら、それこそ安倍政権とは「180度ちがう」結果をもたらすはずだ。消費税廃止、最低賃金アップ、若年層支援と、いかにも大衆受けする政策こそ、その延長にある多数派形成によって、原発廃止などの政策を可能にすると、山本太郎に代わって断言しておこう。※参考図書『そろそろ左翼は〈経済〉を語ろう』(松尾匡ほか、亜紀書房)。

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業。「アウトロージャパン」(太田出版)「情況」(情況出版)編集長、最近の編集の仕事に『政治の現象学 あるいはアジテーターの遍歴史』(長崎浩著、世界書院)など。近著に『山口組と戦国大名』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『男組の時代』(明月堂書店)など。

2020年もタブーなき言論を! 月刊『紙の爆弾』2020年2月号
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「ホリエモン」堀江貴文氏のネット発言が露呈する90年代以降の「知性」の浅底

◆日本の「人質司法」問題が論じられるきっかけとなったゴーン被告の日本逃亡

堀江貴文(ホリエモン)氏がカルロス・ゴーン被告の日本脱出劇について、元刑事被告人であり、有罪を受け、刑務所にも収監された立場からコメントを連撃している。わたしは、堀江氏には生理的な嫌悪感を覚え、これまで彼の発言や発信を真剣に聞いたことがなかった。「新自由主義」を体現している人間。簡単すぎるが、これがわたしの堀江氏に対する人物評価だった。

Youtubeは視聴者を多数得たYoutuberにとって、よほど収益性が良いようで、お手軽な料理のレシピ紹介から、現役を退いた(とくにプロ野球選手が目立つ)ひとたちの「暴露話」、バックパッカーとして世界を旅しながら自分の旅行を伝える人など、実に幅広い動画がアップロードされている。時間潰しにはありがたいリソースでもある。そこにいまでも商魂逞しい堀江氏も参戦しているのであるから、「宇宙開発」同様に充分に収益性のある「ビジネス」の場所なのでもあろう。

さて、本通信でわたしは私見を述べたが、わたしと同様あるいは反対の見解も含め、カルロス・ゴーン被告の日本からの逃亡劇には各界の専門家も、素早く反応している。その結果、日本の「人質司法」が一般の日本人に突きつけられることになった。カルロス・ゴーン被告の日本からの逃亡が、日本の「人質司法」問題が論じられるきっかけとなったことは、副産物ではあるが望ましい傾向だ。一般人にとって「刑事司法」は、犯罪に手を染めるか、冤罪被害者に仕立て上げるか、裁判員裁判としてお声がかかりでもしない限り、関心の対象としては薄いものであろうから。

◆堀江氏の刑事司法や刑務所体験や知識には説得力のあるものが多いのだが……

その観点から堀江氏が、どのようなことを発信しているのか、初めて彼の発信する動画をいくつか真面目に見た。自身が逮捕・長期勾留・収監の経験があるだけに、堀江氏の刑事司法や、刑務所内における体験や知識には、説得力のあるものが多く、頭が良いだけに「旧監獄法」とそれ以降の変化や、カルロス・ゴーン被告が受けてきた容疑事実についての分析もレベルが高い。


◎[参考動画]カルロス・ゴーンが見た日本の腐った司法システムについてお話します【ゴーン第4弾】

堀江氏が東京大学に入学した1991年わたしは、企業から転職して京都の小さな私立大学に事務職員として着任した。あの年の入学生はわたしにとっては、大学職員として、初めて接する入学生であったから、いわば「同級生」のような感覚がある。彼が動画の中で「1991年に東大に入ったあと」と語ったので、本筋と関係はないが、私的な経験と堀江氏の年齢が交錯した。

◆新自由主義の寵児が露呈する「知性」の浅底

カルロス・ゴーン被告についての堀江氏の発信を一通り確認したあと、その件とは無関係な動画も何件か視聴してみた。その結果判明したことは、やはりわたしの堀江貴文人物評価は、間違っていなかったということである。その証拠示す動画(もしくは音声)にいくつも出くわした。

筆頭は地球温暖化を論じた、以下の動画である。


◎[参考動画]ホリエモン、グレタ氏を批判!日本の温暖化対策はどうすべき?【NewsPicksコラボ】

この動画の中で堀江氏は、同じ番組に出演しているお馬鹿さんと一緒に、地球温暖化への対策が「原発」だと言い切っている。もっともその前段となる、世界的に情報商品として過剰に取り上げられているスウェーデンのグレタ・エルンマン・トゥーンベリさんへの評価には部分的にわたしも同意する部分はある。どうして同様の主張を多くのひとびとが何年も前から、続けているにもかかわらず、突然スウェーデンの高校生(?)がこのように、脚光を浴びるようになったのか。

グレタさんの主張すべてをわたしは否定、しないけれども、どうして「彼女だけが」世界中の同様の意見主張者の中から注視されているのかについては、落ち着いて考える必要があろう。地球温暖化に人類の営為が影響を与えていることは事実だろう。だが、「二酸化炭素が地球温暖化を進めている」とする説に、わたしは全く納得がゆかない。フロンガスをはじめ、名称通り「温室効果」をもたらすガスや人工物はあるあろう。しかし二酸化炭素がなければ、植物はどのようにして光合成をするのだ。植物の光合成なしに、どのように新たな酸素が生まれ出るのか?

地球は温暖化しているだろう。人為的な原因もあろうが、その主たる理由は地球がこれまで繰り返してきた「温暖期」を迎えているからだとの説に、わたしはもっとも合理性を感じる。

地球温暖化はいずれ別の場所で論んじよう。グレタさんを持ち上げる勢力の腹黒さについても。きょうの原稿はホリエモンを斬るのが主眼であった。堀江氏は、紹介した動画の中で「第4世代の原子炉開発も進んでいる」などと述べているが、たぶん彼の頭のなかには基礎的な、放射線防御学の知識もないのだろう。市場分析や、商品開発の将来性について(わたしはまったく興味はないが)堀江氏は自身が発信する動画の中で、実に多角的な分析と見立てを表明している。しかし、堀江氏が断言する将来像や分析は、いずれも経験則や自身が勉強した知識に基づいている。

このことは、堀江氏が「イカサマ師」ではないことを示す証拠にもなろう。彼の見解や、見立てにわたしは相当程度、異議がある。だが自分で商品開発や、商品の将来性を見定めた(その負の結果も負った)堀江氏の発言には、ある種の一貫性がある。

それは、「知っていること(経験したこと)を強く主張するが、知らない世界でドツボにはまる」ということだ。新自由主義の寵児のような堀江氏と東浩紀氏が語り合った音声がある。


◎[参考動画]【天才】東浩紀の頭がよすぎてホリエモンが言い返せない状況に…!

この中で堀江氏は「一生懸命会社で働いているあいだ、忙しくて『ベーシックインカム』なんて知りませんでしたよ。知ったのはこの1年くらいですよ」と述べている。わたしは東浩紀氏の支持者ではない。堀江氏からこの一言(彼の限界)を引き出した人物として紹介するまでである。1年前まで「ベーシックインカム」すら知らなかった人物が論じる世界観など、信用に値するか?

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

2020年もタブーなき言論を! 月刊『紙の爆弾』2020年2月号
『NO NUKES voice』22号 新年総力特集 2020年〈原発なき社会〉を求めて
鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

福島「聖火リレー」予定コースを辿ってわかった2020年「復興五輪」の欺瞞 『NO NUKES voice』ルポ〈10〉尾崎美代子

◆復興の「光」ばかりが強調されたリレーコース

浪江町で進む「イノベーション・コースト構想」の工場

東京オリンピック.パラリンピックまで100日となった12月17日、福島県内の聖火リレーの詳細ルートが発表された。3月26日、福島県楢葉町のJヴレッジをスタートし、28日までの3日間で浜通り、中通り、会津地方を回る。

福島県の内堀知事は、聖火リレーで震災と原発事故からの復興の「光と影、両方を発信する」と話していたが、23日の定例記者会見では、記者らから「影」の部分を発信していないのではと疑問の声があがっていた。

確かに、帰還困難区域の多い浜通りコースでは、国主導の「イノベーション.コースト構想」が進む浪江町の「福島ロボットテストフィールド」や「福島水素エネルギー研究フィールド」、大熊町大川原地区の「東電ヒルズ」と呼ばれる豪華な東電社員寮・食堂、そして今春開庁した役場など、4月に現地を訪れた際、「走るならばここだろう」と直感した場所ばかりだ。

「光」ばかりで、「影」などどこにも見当たらない。しかも0.6キロ~1キロの短いコースが多く、細かくぶつ切りした復興の「光」を無理やりつなげたとの感じが否めない。

浪江町で進む「イノベーション・コースト構想」の工場

◆福島復興のために無理やり解除される双葉町

6月に発表されたルートの概要では、原発事故で避難指示が出た11市町村をすべて走る予定になっていた。ただし、全町避難が続く双葉町については、来春までに一部解除が決まればルートに加えるとの方向で検討が進んでいたが、どうしてもコースに入れたい国は、町の一部を来春までに解除させようと動きだした。双葉町は、町の96%が人の住めない「帰還困難区域」で、「避難指示解除準備区域」は太平洋岸の4%のみだが、ここは国道6号線や常磐線に接してないため、聖火リレーコースにはなり得ない。

そんななか、JR常盤線が来年3月、現在不通となっている富岡、双葉間を開通させ、全線復旧させるとしたため、国は、双葉駅周辺の約555ヘクタールを「特定復興再生拠点区域」とし、来春3月、先行して避難指示解除することを決めた。実際に戻って住むのは2年後の2022年の春からだが、聖火リレーを通過させるため、無理やり解除するようなものだ。

大熊町のリレーコースに入る大川原地区の「東電ヒルズ」。夜は綺麗にライトアップされる

◆「心斎橋駅~難波駅」、地下鉄ひと駅走る飯舘村のリレーコース

飯舘村深谷地区に建設された村営住宅

リレーは2日目、事故後、全村避難となり、2017年3月末、避難指示が解除された飯舘村を通過する。飯舘村は、福島第一原発から40~50キロ離れ、事故までは原発と無縁の村だった。「丁寧に」や「真心こめて」を意味する「までい」の思いで、独自の村作りを続け、「日本で最も美しい村」連合にも加盟された。そんな村にまで大量の放射能をふらせた過酷な事実を、国と県、東電はなんとしても消したい。そのため躍起になって進めてきたのが、飯舘村の「復興計画」だった。

震災の翌年から始まった「いいたて までいな復興計画」は、2013年、安倍首相が「汚染水はアンダーコントロールしている」と嘘のプレゼンテーションで五輪招致を勝ち取って以降、内容がかわってきた。

飯舘村の面積は、2万2,300ヘクタールある大阪市とほぼ同じ2万3,010ヘクタールで、そこに20の行政区が入っている。当初の計画案では「既存の(帰還困難区域の長泥地区を除く19の)行政区と、避難でできた新たなコミュニティーの両方を支援する」ことを重点施策の一つとしてきたが、その後、「行政区」の文字が消え、代わりに新たな「復興拠点」を決め、そこを集中的に復興させるにかわってきた。復興拠点には「深谷地区」が決まったが、その際行われた住民説明会で、「何言っているんだ。深谷(街道)は地吹雪が凄いじゃないか」とあきれ顔で怒鳴った村民もいたという。

そんな深谷地区が、なぜ復興拠点に選定されたのか? 村の中央部に位置する深谷地区には、福島県の浜通りと中通りを結ぶ県道原町川俣線が通っている。村を通る唯一の幹線道路であり、復興のための資材や人材の流通に欠かせないという利点もあるが、聖火リレーが走るには幹線道路が必要という面もあるのではないか? 当時そう考えた私だが、一方で、そんな安易な理由で、6,000人村民の「復興」が大きく変えられることなどあるだろうかと思い直したが……。

しかし、今回決まったコースをみると「やっぱり」としか思えない。スタート地点の交流センター「ふれ愛館」、ゴールの道の駅「までい館」は、いずれも復興の重要拠点として、それぞれ約11億円、約14億円をかけられて建設されてきた。「までい館」周辺には、村特産の「花き栽培工場」やメガソーラー施設などのハコモノが乱立し、今年4月訪れた際には、村営住宅も建設.整備されていた。

飯舘村の復興計画に参入した大手コンサルタント会社「三菱総合研究所」が、東京の事務所で描いたイラストを、切り取って張り付けたような住宅は、「インスタ映え」はするだろうが、果たして住民の意見を聞いて作られたのだろうか、疑問に思えてならない。

飯舘村の道の駅「までい館」。昼間も来店者はまばら。昼食を食べに来る作業員が多かった

◆知事に代わり、復興の「影」を語る伊藤延由さん

飯舘村の聖火リレーのゴール地点道の駅近くの空間線量(撮影=伊藤延由)

この「ふれ愛館」から「までい館」までのわずか1.2キロのコース、大阪市でいえば心斎橋駅から難波駅間に乱立するハコモノを見て、果たして飯舘村の復興の何がわかるのだろうか? 

飯舘村に復興の「影」はないのか?

避難指示解除後、村に住み、飯舘村の様々な情報をSNSで発信している伊藤延由さんが、内堀知事の語らない復興の「影」を語ってくれた。

村に事故当時6100人いた村民は、12月1日現在で1,400人弱(実際は半数?)しか戻っていない。

伊藤さんが聖火リレーコース上の線量を測定した結果、スタート、ゴール地点の空間線量率は0.1~0.12マイクロシーベルト/hだが、道路わき2~3mでは0.6~1.2マイクロシーベルト/hと非常に高い場所があることがわかった。

更に伊藤さんが2018年、2019年、村内でふきのとうを採取し、その地点の空間線量率と土壌のデータを計測したデータからは、多くの地点が未除染か手抜き除染であることがよくわかっている。

全て莫大な税金をつぎ込み除染した場所だ。そして事故前の村に戻るには300年かかるのだと。

◆ゴール地点の「までい館」は開業から赤字続き これで「復興」?

飯舘村の聖火リレーのゴール地点道の駅近くの空間線量(撮影=伊藤延由)

飯舘村聖火リレーのゴールとなる道の駅までい館は、オープンから2年連続赤字だが、「復興のシンボル」を維持するためにと、村は今年1月、運営会社に3,500万円を追加出資することを決めた。

そもそも「道の駅」とは、その地元でしか採れない、味わえない特産品を並べるのが特徴であると思うが、飯舘村の道の駅で販売する農産品、加工品は、品数が少ないうえ、放射線量を厳しく計測し販売しているとはいえ、未だ空間線量も土壌汚染も高いと知ったならば、買うことをためらう人も多いのではないだろうか。

これは決して「風評被害」や「差別」ではない。私たちは、愛してやまない故郷が、放射能に汚された事実と真正面から向き合わなければならないのだから。住民に無用な被ばくを強いる放射能をなくさない限り、真の「復興」など望めないのだから。
 
それにしても、福島の復興の「光」ばかり、それも将来村の財政を圧迫するようなハコモノばかりを見せられ、国内外のメディアは本当に福島が「復興」したと思うだろうか? 黒いフレコンバックが山積みの仮置き場、荒れ果てた田畑、住む人もなく朽ち果てていく家屋など、復興の「影」の部分を隠したままの聖火リレーが、今後、福島の真の復興をいっそう妨げになることを危惧するばかりだ。

▼尾崎美代子(おざき みよこ)

新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。月刊『紙の爆弾』2020年1月号には「日本の冤罪 和歌山カレー事件 林眞須美を死刑囚に仕立てたのは誰か?」を、『NO NUKES voice』22号には高浜原発現地レポート「関西電力高浜原発マネー還流事件の本質」を寄稿
◎著者ツイッター(はなままさん)https://twitter.com/hanamama58
◎[参考動画]飯舘村深谷地区の道の駅裏に建設・整備された村営住宅(著者ツイッター)

月刊『紙の爆弾』2020年1月号 尾崎美代子「日本の冤罪 和歌山カレー事件 林眞須美を死刑囚に仕立てたのは誰か?」他
『NO NUKES voice』22号 尾崎美代子の高浜原発現地レポート「関西電力高浜原発マネー還流事件の本質」他
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