追悼の心よりも「議論の種」集めた東京・お茶の水『塩見孝也お別れ会』

2018年3月4日、お茶の水の連合会館で開かれた『塩見孝也お別れ会』

2018年3月4日、東京・お茶の水の連合会館にて、元赤軍派議長として生涯を駆け抜けたあの人の名の下に、『塩見孝也お別れ会』が開かれた。2月24日に「人民新聞社・オリオンの会への弾圧抗議」集会について書こうかとも考えたが、『紙の爆弾』本誌に報告文が掲載されるとのことで、そちらもぜひ、ご覧いただきたい。

◆「本人は気づいていなかったが、多くの若者が救われた」

塩見さんは、2017年11月14日、心不全のため、満76歳にて亡くなった。それから5カ月近くを経た『お別れ会』の司会は椎野礼仁さんと村田能則さん。椎野さんは、2014年に鹿砦社から出版された塩見さんの著作『革命バカ一代 〜駐車場日記-たかが駐車場、されど駐車場〜』の編集担当者であり、当日同書が無料配布されることを伝達した。

まず、実行委員会を代表し、塩見さんとは京大時代の友人であった新開純也さんは、以下のように振り返る。
「彼は武装闘争の路線化、よど号ハイジャック事件の共謀共同正犯などとして約20年(19年10カ月)間獄中にあり、近年は9条改憲阻止の会、経産省前テントひろばにも参加して活躍。闘い続けた一生だった。赤軍派の頭領にこだわり続けた一生だったとも思う。赤軍派からはよど号・北朝鮮の流れ、連合赤軍にいたる過程、重信さんたちのいわゆる日本赤軍への流れがあった。あとの2つについて彼はタッチしていないために彼は責任を負えない、負うべきでないが、よくも悪くもそれを総括することを一生の課題にしたのではないか。人々を愛するキャラクターだった。生身の言葉で表現しようとし、文字通り我が儘に生きた、幸せな人生を送ったのではないか」

その後、塩見さんのお連れ合いによる手紙が長船青治さんによって読まれ、黙祷の際には『同志は斃れぬ』が流れた。次に、参加者からの挨拶・メッセージが伝えられる。経産省前テントひろばの仲間であった淵上太郎さんは、交わした会話や2010年に同じ場所(当時は「総評会館」)で開かれた「生前葬」などを振り返った。三上治さんも次のように語る。
「塩見さんとは長い付き合いで、赤軍派が登場した時、叛旗派で武装闘争に反対し、激しく対立していた。9条改憲阻止の会で再会し、議論・論争もし、60年代の問題で激烈なけんかに。ただし、互いの意見を聴こうとし、付き合ってきた。2015年の塩見の東京都清瀬市議会議員選挙に立候補、落選の後、励ましに会いに行った。僕が手がける雑誌『流砂』への投稿も提案。彼が言葉にできなかったことは、僕の問題でもある。60〜70年代をともに闘った、その時代の問題でもあり、彼の本当の声を理解できるまで、再会するまでお別れの言葉は留保させてもらう」

また、雨宮処凛さんは1998年の出会いから振り返り、以下のように強調した。
「北朝鮮に誘われたのが最初の会話で、私の初の海外旅行に。生きづらさへと追い込まれ、社会から排除された若い人が塩見さんの周囲に集まったのは、彼らが抱える問題に対し、ほかの大人のように自己責任というのでなく、資本主義の問題だといってくれたから。本人は気づいていなかったが、多くの若者が救われた」

さらに、椎野さんが「塩見さんとは左右の交差」と表現するような関係があった鈴木邦男さんも、ユーモアを交えつつ語る。
「『自衛隊を赤軍にしてワルシャワ条約に加盟しろ』という人がいた。塩見さんにも、そんな『憲法はいらない』『天皇制も大統領制に』と主張するような存在になってほしいと話したことがある。ただし、塩見さんは『俺はダメだ』とまじめ。冗談でも大風呂敷を広げない。また、若い人の話もきちんと聴き、『革命的だ』『今の若者はしっかりしている』とほめる。他人に対して甘いかもしれない。連合赤軍についても『成功も失敗もすべて俺の責任だ』といえばよいと思うがいわなかった。彼を大きくできなかったのは我々の失敗(苦笑)。肉体は奪還できなくても、革命の志は奪還したい」

ほかにも、平野悠さん、白川真澄さん、朝日健太郎さん、松平直彦さんなどによる挨拶、メッセージが続く。塩見さんを「日本のレーニン」と名付けたのは藤本敏夫さんではないかという話もあった。

◆「赤軍派の罪は大きいと同時に、第二次ブントと塩見を高く評価せねばならない」

そして、赤軍派最高幹部だった高原浩之さんの言葉も印象的だった。ご本人のことは、よく存じ上げないが……。
「赤軍派の路線はリンチによって維持されたと考えざるをえない。人民に依拠する路線に転換することを我々は問われ、自己批判と総括をおこなって関係者はそのような路線に転換していったと思う。だが、連合赤軍事件はもっと悲惨だと私は考えている。赤軍派の指導路線の責任を曖昧にしたり、美化するのはやめてほしい。そのうえで、連合赤軍事件で殺された同志に謝罪し、不本意な形で生き残り人生を破滅させた人にも謝罪しなければならない。赤軍派に人生を狂わされた関係者全員に謝らねばならないと考えている。これは、そこに向かう会になるべき。連合赤軍関連で殺されたり自殺した人の写真も飾るべきだ。私にとって赤軍派は後悔と贖罪以外の何者でもない。それを生み出した第二次ブントと塩見孝也について、第二次ブント時代の意義は認めねばならず、塩見は当時の有力な指導者であったろう。新左翼の代名詞『実力闘争』の思想は日帝打倒・プロ革・社会主義革命という新左翼路線であり、この直接民主主義は現在には自己決定権といわれるものかもしれない。また、アジアとの連帯も以降、日本に根付いてきた。過渡期世界論は塩見が最初に定義した。帝国主義から社会主義への過渡期であるなどといわれたが、ロシア革命以降、民族解放闘争、社会主義革命はアジアにおいてなされ、アジアの闘争と結合するという時代認識は現代も引き継がれていると思っている。赤軍派の罪は大きいと同時に、第二次ブントと塩見の果たした役割を高く評価せねばならない。我々70年代闘争の世代が最後に何を残さねばならないか、反安保闘争をはじめとする人民闘争、民族・女性・部落差別問題、労働者階級の下層の問題が大きいだろう。新左翼がその運動のなかでよい体質、実力闘争、自己決定権は堅持しながらも悪い体質を払拭して交わっていったこと。その先には、人民民主主義、革命的民主主義の運動が目の前にある。アジアとの連帯、日中の帝国主義・覇権主義に反対するなかで朝鮮・韓国・台湾・香港などの独立・自己決定権を守る闘争と結合していくことで70年闘争も生きていく。ソ連の崩壊は帝国主義の崩壊だが、中国・ベトナムの変質、朝鮮の信じられないような現実。マルクス・レーニン主義の総括も我々の責務。人民闘争の発展のためには、70年闘争の正負の経験、新左翼の内ゲバとリンチの体質。苦い経験を教訓として、今の運動を担っていく新たな世代の人にぜひ、闘争の発展に成功してほしい」。

よど号の現在のリーダー・小西隆裕さんのメッセージは、彼らと会って朝鮮から帰国したばかりの「政治的遭難者」を対象とする救援連絡センター事務局長・山中幸男さんが代読。最後に、懲役20年の判決を受けて現在、東日本成人矯正医療センターにて服役する重信房子さんのメッセージを、頭脳警察で1969年の赤軍派日本委員会が出した『世界革命戦争宣言』を叫ぶような歌にしたり、重信さんとの共作を含むアルバム『オリーブの樹の下で』を発表しているPANTAさんが代読した。重信さんからのメッセージは、『情況』誌編集長だった大下敦史さんの(1月2日・がんによる)死や、チェ・ゲバラの「我々を夢想家だと呼ぶなら、何度でもイエスと答えよう」「2つ、3つ……数多くのベトナムをつくれ、これが合言葉だ」という言葉にも触れるなどし、次のように続いた。
「私たちは十分に社会を知らず、人民に学ばず、知らず、常識すら理解していない若者だったため、敗れるべくして敗れたのだと思います」
「最後に『20年か、きついなぁ、15年なら待てるけど、その5年はきついなぁ』といっていたとおり、先に逝かれました」
「過ちを前向きな力にしたいという点で、ともにありました」

苦々しい思い出を振り返る人、参加を拒否した人もいらっしゃった。小冊子には大下さんから塩見さんへの追悼文(聞き取り中心のまとめ)も掲載されている。

わたしが過去からの学びを現在の運動に生かしたいと考えていることは、いつも述べているとおりだ。だが、さまざまな方のメッセージを聴きながら、結局、現在の運動に対し、特に格差・貧困という大きな問題に対し、理解しているのかどうか、今、何をしているのか、が問われるのではないかとも思った。第二部「時代を語る会」には参加しなかったので、そこでどのような総括や議論の発展があったかは、まだ知人にも聞いていないのでわからない。ただし少なくとも、塩見さんは、私たちの世代ともよく会い、話した。もちろんほかにもそういう方は多くいらっしゃるし、現在さまざまな活動に携わっている人も多い。格差・貧困の背景に国際情勢・関係はもちろんある。わたしたちは説教を聞きたいのでなく、ともに語り合い、ともに活動を進めたいだけだ。そういった意味で、『救援』誌の追悼文やFacebookでも触れたが、塩見さんはわたしにとって特別な人である。そして、お別れ会参加者に知人や仲間が多く参加していることによって、塩見さんを通じて知り合った人がいかに多いかを改めて実感させられた。わたし個人が運動をはじめた原因の3分の1から4分の1くらいは、塩見さんとの出会いと交流が占めているのではないかとすら考える。複雑な思いはわたしにもなくはないけれど、塩見さんにはまだまだ本当に、わたしたちの活動から目を離さないでほしいと、そう思っている。

在りしの日の塩見孝也さん

▼小林蓮実(こばやし・はすみ)[文/写真]
1972年生まれ。フリーライター、エディター。労働・女性運動等アクティビスト。『紙の爆弾』『NO NUKES voice』『現代用語の基礎知識』『週刊金曜日』『neoneo』『情況』『救援』『現代の理論』『教育と文化』ほかに寄稿・執筆。

塩見孝也『革命バカ一代 駐車場日記──たかが駐車場、されど駐車場』
『紙の爆弾』4月号《対談》天木直人(元駐レバノン日本国特命全権大使)×田中宏和(「世に倦む日日」ブロガー)「『日米同盟』の真実」(構成・まとめ=小林蓮実)他

開港阻止闘争から40年目の成田(三里塚)空港〈2〉真冬の横堀要塞建設

ブログ『野次馬雑記』より
 
ブログ『野次馬雑記』より

横堀要塞建設は1977年の12月にはじまった。ちょうど三ノ宮さんの畑は野球のグラウンドのような広さの正方形で、その北端の杉林に面した場所に要塞は造られた。地下一階、地上三階の鉄筋コンクリート造りである。だが、明けて78年1月段階では、まだ2階と3階は骨組みのままだった。要塞を建てている「グラウンド」の反対側、要塞をバックスクリーンのあるスコアボード棟に見たてるなら、ベンチの位置にある作業小屋で暖をとりながら、中島みゆきの曲を聴いた記憶がある。荒井由実(ユーミン)の曲も新鮮な時代だった。2月6日、未完成の要塞の最上階部分に20メートルの鉄塔が建てられたのだ。滑走路(未完の横風用)の延長に建てられる鉄塔の高さが航空法49条に違反するとの警告は何度も受けていた。未完成にもかかわらず、大量の火炎瓶が運び込まれたのだ。その意図は何だったのか?

わたしの大学の先輩でもあるYさんのブログ『野次馬雑記』に転載されている、管制塔占拠闘争にかかわったH氏の手記(https://blogs.yahoo.co.jp/meidai1970/)を読んでも、2月要塞戦の明確な意図は書かれていない。鉄塔が滑走路の延長上の妨害物とはいえ、まだ完成はおろか用地の買収すら目途が立っていないのである。航空法49条に本当に抵触するのか否か、あるいは当該である千葉県警と警視庁(警察庁)の判断がどうなるのか、それはおそらく本番の開港阻止決戦の計画にかかわる前哨戦だったはずだ。同時にそれは、戦術の検証にもなるはずだった。

ブログ『野次馬雑記』より
 
「三里塚管制塔占拠闘争40年 今こそ新たな世直しを!3.25集会」は3月25日午前11時より連合会館にて
 
3.25集会で上映される映画『三里塚のイカロス』

事実、東京と千葉をむすぶ京葉道路に配置されたレポ(偵察役)は、警視庁から重機と機動隊のカマボコ(輸送車)が派遣されるのを現認している。ぎゃくにいえば、千葉県警はこの段階での取り締まりをためらったのであろう。いずれにしても、サイは投げられた。

要塞にたてこもった40人ほどの支援は、現闘の責任者クラスが多かった。反対同盟からは内田寛一行動隊長、婦人行動隊長の長谷川タケさん、小川むつさん(副行動隊長)、辺田の石井英祐さん、横堀の熱田一さん(のちに熱田派代表)、木の根の小川源さんの6名の幹部である。緒戦から火炎瓶が降りそそぎ、ガソリンの炎に包まれた毛布が落ちてくる。そんな光景がテレビ画面に報じられて興奮したものだ。わたしは党派の事務所に呼び出されて、そのまま労働者が運転するクルマで現地に運ばれた。空港付近に着いたときには、ヘリコプターのサーチライトに照射された要塞の鉄塔が夜空に、鮮明に浮き上がっていた。黒い針葉樹林のむこう。真冬の暗い夜空に、そこだけが切り取られたような、明るいステージに見えたものだ。

闘争現場はしかし、悲惨をきわめるものだった。凍てつくような極寒の夜空に、放水と催涙弾が飛びかう。鉄塔上では4人の支援活動家が抵抗をつづけていた。要塞を遠くのぞむ「グラウンド」に機動隊と対峙しながら、われわれはジュラルミンの盾と揉み合ういがいに何もできないのだ。まる24時間以上も激闘に耐え、飲まず食わず不眠不休で闘っている要塞戦士たち……。

ビニール袋に入れていたと思われるライターで、火炎瓶に着火して鉄塔下に炎が炸裂したときは驚いたものだ。そのかん、ゲートに火焔瓶が投げられた報が届いて、支援のデモ隊から喝采が上がるなど。夜を徹して対峙戦がつづいた。やがて夜が明けて、反対同盟の要請で鉄塔に登っていた戦士たちは投降した。不眠だったわたしたちも団結小屋からのクルマに収容されて、その行程で幻を見た記憶がある。夜明けの風景にあらわれた立木が、怪獣のように見えたのだった。あの怪獣は、何だったのだろうか。

3月1日の現地集会は、北総台地特有の赤風が吹きすさぶ中で開かれた。そしてこの時に、わたしは要塞戦への参加を示唆されたのだった。学内での運動に行き詰まりを感じていた矢先のことで、しばらく拘置所にでも行って資本論を本気で読んでみるか、などと軽く考えるいっぽう、のっぴきならないことになったなとも思ったものだ。そして反対同盟農民の闘いに呼応する決意を固めては、憶しがちな心を鼓舞するのだった。のちに暴力団取材でヒットマンたちの憶する心境を知って、似たようなものだなと思ったことがある。(つづく)


◎[参考動画]映画『三里塚のイカロス』予告編

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
著述業、雑誌編集者。3月横堀要塞戦元被告。

『紙の爆弾』4月号!自民党総裁選に“波乱”の兆し/前川喜平前文科次官が今治市で発した「警告」/創価学会・本部人事に表れた内部対立他
〈3・11〉から7年 私たちはどう生きるか 『NO NUKES voice』15号

歴史的誤判=3・19カウンター大学院生リンチ事件一審判決を強く弾劾します! 私たちはあくまでも社会運動における査問、暴力、リンチを批判し、M君リンチ事件の真相究明とM君支援を続けます! 鹿砦社代表 松岡利康

すでに報じられていますように、私たちがこの2年間、真相究明と被害者支援を続けて来たカウンター大学院生リンチ事件の加害者5人に対する民事訴訟の一審判決が3月19日大阪地裁で下されました。

ハッキリ申し上げれば、これだけ事実関係が明確で、音声データなど証拠資料もあるにもかかわらず、裁判所は何を考えているのか、いや、人間の心があるのか、全く遺憾な判決でした。
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[※上記◇箇所の文字は、裁判所の命で削除しました。(鹿砦社)]

そして総額約80万円の賠償金(請求額は約1千万円)、常識外に過少です。この金額では、法的な歯止めにさえなりません。たとえば300万円だったら歯止めになり、もう再度リンチはしないとなるでしょう。80万円だったら、これぐらいなら憎い奴はリンチするかとなりかねません。この判決を見て知人は、「自分がM君だったら、この判決を下した裁判長に『80万円払いますから被告5人をぼこぼこに殴らせてください』と言うかもしれません」と怒りに満ちたメールをくれました。

リンチの場にいた全員に連帯責任を負わせ、歯止めとなる賠償金を課す――そうでなかったら、これからも社会運動において、同種同類の事件や不祥事は起きるでしょう。

裁判所(官)には世間の常識が通じないとよく言われますが、今回の判決を見て、あらためてそう感じました。結論から言えば、〈歴史的誤判〉です。この判決をそのままに放置しておけば、M君の救済にならないのは勿論、この国の社会運動にとっても禍根を残し悪影響を与えると考え、M君の控訴の意志に同意し、今後もM君や弁護団と共に頑張っていく決意です。

判決の際の法廷。桜真澄さん画(本人の承諾を得て掲載しています)

◆被害者M君との出会いと、この2年間の伴走

判決内容の詳細な分析はまた日を改め行いたいと思いますが、リンチ被害者の大学院生M君は、2014年12月17日深夜に、李信恵らカウンター – しばき隊の主要メンバー5人がいる大阪・北新地のワインバーに呼び出され、◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
[※上記◇箇所の文字は、裁判所の命で削除しました。(鹿砦社)]

リンチは1時間ほども続き、この間、李信恵らは悠然とワインを飲んでいたということです。そして瀕死の重傷を負ったM君を師走の寒空に放置し去って行きました。人間として考えられないことです。普通なら、大の大人が5人もいれば、誰かが止めるでしょう。今回で言えば、年長者の伊藤大介、格闘技経験者の松本英一が止め役にならないといけないでしょう。果たして止めたのでしょうか。リンチを黙過し殴らせるままにしていたのではないですか。

その後、いったんは李信恵、エル金、凡は「謝罪文」を出しましたが、それも対「在特会」らとの訴訟があるからという理由で反故、また同時にリンチをなかったことにする隠蔽工作がなされます。メディアも報じません。M君は、一部の人たちを除いて、みなから村八分にされます。村八分行為は現代社会では差別として禁じられています。「反差別」を語る人たちが村八分を行っていいのか!? さらには、ネットリンチも様々なされM君は精神的に追い詰められていきます。

そうして、2016年2月28日、「相談があります」とM君の知人「ヲ茶会」(ハンドルネーム)さんが、主だった資料を持って鹿砦社を訪れます。リンチ直後の1枚の写真に驚きました。その数日後にM君と会いました。リンチが起きたのは2014年12月ですから1年余りが経っていました。その1年余りの間、M君の孤独と精神状態は想像に絶するところです。M君の話を聞き主だった資料を目にしリンチの最中の音声データを聴いたりして、私たちは、この青年を支援することにしました。瀕死の重傷を負い、リンチ後もさんざんネットリンチをなされ、藁をもすがる想いで助けを求めてきた青年を人間として放っておけますか? 私はできませんでした。この時点で、「カウンター」-「しばき隊」に対決するなどという気など毛頭もありませんでした。素朴にM君への同情でした(この直前に、「カウンター」-「しばき隊」と連携する反原連〔首都圏反原発連合。鹿砦社は、脱原発雑誌を発行することに関連し経済的にかなりの額を支援していました〕に絶縁宣言を出され訣別しましたが、この頃は、彼ら相互の密接な繋がりはさほど知りませんでした)。

同時に、リンチ事件の真相究明のために客観的分析や取材を開始しました。加害者らが関わり被害者M君も事件前まで関わっていた「カウンター」-「しばき隊」、そしてこれと関係がありリンチ事件を知っていると推察される人たちへの直接取材も可能な限り行いました。ほとんどの人が誠実に答えてくれませんでした。むしろ逃げました。

この2年間の取材の成果は『ヘイトと暴力の連鎖』『反差別と暴力の正体』『人権と暴力の深層』『カウンターと暴力の病理』の4冊の本にまとめられ世に送り出されました。「デマ本」などという非難が「カウンター」-「しばき隊」とこの界隈の人たちから向けられましたが、概ねは好意的に迎えられました。「カウンター」-「しばき隊」内外の方々、その元活動家らからほぼ正確だとの評価を受けました。M君や私たちに反対する人たちに「デマだ」「ウソだ」以外に具体的かつ真摯な批判はありません。ほとんどが本も読まないで「デマだ」「ウソだ」と批判しているようだったので、第4弾の『カウンターと暴力の病理』をカウンター活動家ら数十人に献本送付し意見を求めましたが、ほとんど回答らしい回答はありません。ちゃんと回答せよ!

◆司法に救済を求めるも……

さて、事件後1年余り村八分にされ隠蔽工作が進行する中で、M君は司法に救済を求めます。当然です。事件から1年以上も経っていたので遅かったかもしれません。それまでM君本人は、わずかの支援者と共に弁護士探しにも奔走したりしましたが、ことごとく断られ、遂には本人訴訟も考えたといいいます。私たちと知り合った後は、私も、鹿砦社顧問の大川伸郎弁護士を紹介し、大川弁護士を中心に訴訟の準備を進め、ようやく16年7月に李信恵ら5人を大阪地裁に提訴、前後してM君へのネットリンチを繰り返す野間易通を名誉毀損等で提訴、司法に救済を求めようとしました。事件から1年半余りが経っていました。このかんのM君の心中を察すれば、筆舌に尽くし難い想いです。私だったら耐えられないでしょう。

しかし、司法は被害者の味方ではありませんでした。本件に限らず多くの人たちは司法への期待と幻想から司法に救済を求めますが、司法が必ずしもこれに応えるかといえば、そうではありません。私も多くの訴訟を経験し、それは判っていたつもりでしたが、今回は加害 – 被害の事実関係がはっきりしているので、裁判所の判断は間違いないと確信していました。本人尋問も、原告M君優勢裡に行えました。

昨年12月の本人尋問、そして3・19の判決を傍聴された、『マンガでわかる女が得する相続術』などの著書がある法律漫画家の桜真澄さんは、「今回の裁判を客観的に見た。大学院生が複数名に暴行され、その後民事で長い間戦っていた。彼は寒空の中で暴行され、その後もネットで中傷され、この判決だ。一体なんなんだろう。私だったら正気を保てないよ。よく頑張ったねM君!」とツイートされています。これが一般人の感覚でしょう。

今回の判決で、エル金 – 伊藤大介には、少額と雖も賠償金が課されました。◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
[※上記◇箇所の文字は、裁判所の命で削除しました。(鹿砦社)]

一人の人間としての人権を毀損された被害者を法的に救済するのが司法の本来の姿ではないでしょうか? 裁判所が「人権の砦」というのなら、そうすべきです。裁判所は「人権の砦」ではありませんでした。

本件を担当した、長谷部幸弥(裁判長)、玉野勝則、牧野賢の3人の裁判官に人間の心はあるのか!? 法律を司る前に一人の人間であれ!

◆リンチ事件と本件訴訟に凝集された問題から何を学ぶべきか? 加害者らは、反省すべきは反省せよ!

確かに李信恵らの共謀、共同不法行為が司法上認められなかったからといって、これはあくまでも司法上でのことであり、現実にはリンチ(私刑)があったことは否定しようのない事実であることは、私たちが上梓した4冊の本で証明されています。そうでないと言う人は、これら4冊の本を越える反論を行なっていただきたいと思います。具体的に詳細に――。裁判所には、そのうち3冊を証拠資料として提出していますが、これをどう斟酌したのでしょうか。

残念ながら、M君は一審では、不本意な判決内容を受けましたが、リンチ事件から1年余り後に私たちに出会った頃、そわそわ落ち着かない精神状態だったことに比べると、明るくなり精神的にも落ち着いてきました。なによりもこれが最も嬉しいことです。

本件リンチ事件は「反差別」運動、カウンター運動内部で起きた不祥事であり、かつての共産党の査問、新左翼の内ゲバ同様、主体的な反省がなければ、この国の社会運動に禍根を残し悪影響を及ぼすと考えています。

私がまだ十代の終わり頃(1969年~70年)、勢いのあった新左翼内部で内ゲバが起き3人の活動家が亡くなりました。すると作家で京大助教授の高橋和巳先生は雑誌『エコノミスト』に「内ゲバの論理はこえられるか」を連載し、即刻やめるよう警鐘を鳴らしました。『エコノミスト』のような経済誌でもこうした問題を採り上げた時代です。しかし、高橋先生の声は蔑ろにされ、結果、100人以上の活動家が亡くなり、新左翼運動は衰退していきました。

共産党も同様です。70年代はじめ「新日和見主義」といわれる、主に学生・青年組織の幹部が多数査問され除名されるという事件が起きました(有名な方ではジャーナリストの高野孟)。この頃共産党は、当時の社会党と共に社共統一戦線で東京、京都、大阪で革新系知事を出し、今では想像できないほどの勢いがありました。現在共産党が唱える「野党共闘」など比ではありませんでしたが、以後衰退していきます。

誤解を恐れず申し述べれば、たかが裁判に勝った負けたは、本質的な問題ではありません。仮に裁判の判決が不本意だったからといって悔やむ必要もありません。要は、この裁判に凝集された問題から、何が良くて何が悪いのかを剔出し反省、止揚することではないでしょうか。それを、運動に関わる人は運動に活かし、また運動をやっていない人は、日々の暮らしの中で社会を見る目に活かすなり……。

特に今回は、加害者らが「反差別」や「人権」という言葉を錦の御旗にしているから、多くの人がその美名に幻惑され騙されたりしています。「反差別」を語る人らが被害者を村八分にし、また「人権」を語る人らが人ひとりの人権を暴力で毀損するという異常事態です。私は今でも人間を信じたい。「カウンター」‐「しばき隊」の中にも心ある方はおられるはずです。心ある方々が、この事件に真正面から向き合い、「リンチはなかった」などと隠蔽せず、反省すべきは反省してほしいと願っています。

いまだに「リンチはなかった」などと平然と語る連中がいる(『カウンターと暴力の病理』グラビア)

◆勝訴に浮かれ「祝勝会」! この人らの人権感覚を疑います

ところで、判決の夜、李信恵、伊藤大介、エル金、そして代理人・神原元弁護士らは「祝勝会」と称し酒盛りを行い、これみよがしに、これをネットに上げています。これはM君を精神的に追い詰めるものです。

「祝勝会」と称し浮かれる加害者と神原弁護士(神原弁護士のツイッターより)

先の桜真澄さんも、「法廷で一度、原告に頭を下げ謝罪した後で、被告がわざわざ判決日に笑顔で焼き肉を食べる写真をSNSで公開するなんて…… 私だったら心が潰れる」とツイートされています。また、医師の金剛(キム・ガン)さんは、「DMでインスタグラムにアップされた被告らの浮かれた写真が伝えられてきた。 ずいぶん気持ちよさそうだが、あの陰惨な事件に関与した者たちが真摯な態度をまったく示そうともしないというのは、実に奇怪な光景である。あれが『奴らの反差別、奴らの正義の正体』であることを忘れないようにしよう」とツイートされています。李信恵、伊藤大介、エル金、神原弁護士よ、あなた方は、いやしくも「人権」を語ってきたわけでしょう? このようにあからさまにみずからの「人権感覚」の程度を晒すようなことはやめられたほうがいいのではないでしょうか。

さらに、神原弁護士は調子に乗って、「正義は勝つし、レイシストは常に破れる」などと言っています。ここに言う「レイシスト」とは誰のことでしょうか? M君を差していると推認されますが、これはさらにM君を精神的に追い詰めるものです。M君は「レイシスト」なのか? リンチされ、村八分にされ、セカンドリンチをされ、リンチはなかったように隠蔽工作をされ、司法に救済を求めても真意を理解されず不本意な判決を下され、さらに「反差別」や「人権」を語る人から「レイシスト」呼ばわり……いい加減にしていただきたいものです。私はM君が「レイシスト」だったら支援しません。最低これぐらいの矜持はあります。

ちなみに神原弁護士には、私や鹿砦社は「極左」呼ばわりされていますが、さすがに「レイシスト」呼ばわりはされないようです。

◆今後の決意 本当の勝負(裁判だけではなく)はこれから!

M君はここまで叩きのめされても、多くの皆様方の激励により元気を取り戻しつつあります。やはり司法に期待や幻想を持ったらいけないようです。司法の結果がどうあれ〈真実〉は満天下に明らかになっています。私たちはM君が頑張る意志を持ち続ける限りサポートを続けていきます。ここでも桜真澄さんは、「判決に耳を疑った。 人が殺されかけたのに…… 法律とはグレーであり奥が深く理不尽である。それは私が法律を学ぶ上で沢山の弁護士達から教えられてきた。今回の裁判で、法とはやはりグレーで理不尽だと実感する。そして一人の青年にこんなにも沢山の応援団がいることは素晴らしいと思った」とツイート。桜真澄さんのお気持ちに涙が出そうです。

「棺桶に片足突っ込んだ爺さん」(鹿砦社元社員でカウンターメンバーだった藤井正美評)とか「好々爺」(合田夏樹さん評)と揶揄された私は、この問題と出会う頃に現役を退くつもりで、内外にそう公言していましたが、この問題と出会ったのもなにかの運命、最後まで見届ける決意です。心ある人たちの〈良心〉を信じて――。

闘いはまだ一里塚、本当の勝負(裁判だけでなく)はこれからです。このままでは終われません。まずは控訴審に向けて、心ある皆様方の圧倒的なご支援をお願い申し上げます。(本文中、一部を除いて敬称略)


◎[参考音声]M君リンチ事件の音声記録(『カウンターと暴力の病理』特別付録リンチ音声CDより)

『カウンターと暴力の病理 反差別、人権、そして大学院生リンチ事件』[特別付録]リンチ音声記録CD

開港阻止闘争から40年目の成田(三里塚)空港〈1〉闘争は継続している

本来ならば開港から40年目とするべきところですが、三里塚闘争の歴史に思いをはせながら、表題を「開港阻止闘争から40年目」にしてみました。というのも、当時わたし自身が開港阻止闘争をたたかい、逮捕されて拘留一年を体験した現役学生だったからです。いまだに鮮明な記憶をまじえながら、成田空港・三里塚・芝山の地の過去と現在を、連載でお伝えしよう。多くの犠牲のうえに造られた空港であれば、犠牲者への鎮魂の記となる。

 
成田空港第三滑走路=C滑走路(3500メートル)の建設計画レイアウト(※2010年時計画図ではC滑走路は3200メートルと記されている)

◆40年ぶりに新たな空港拡張計画

つい先日のことである。開港から40年目の3月13日に、成田空港は第三滑走路(C滑走路・3500メートル)の建設が「空港機能強化策」として決定された。国土交通省(国)・千葉県・NAA(成田国際空港会社)・地元九市町村の4者の合意によるものだ。わたしと同じ世代なら、運輸省や空港公団と言い換えたほうがピンとくるのではないだろうか。計画は何度も見直されてきたが、今後10年をかけて年間発着回数が30万回から50万回に増加する計画だという。空港の拡張によって移転を余儀なくされるのは、150戸におよぶとされている。往時のような激しい反対運動はないものの、完成までは困難な道が予想される。そして農民・住民の苦悩はつづいている。

 
3.25集会ネット応援団が主催する「三里塚管制塔占拠闘争40年 今こそ新たな世直しを!3.25集会」は3月25日午前11時より連合会館にて開催

三里塚芝山連合空港反対同盟(旧北原派)、三里塚芝山連合空港反対同盟・大地共有化委員会Ⅱ(柳川秀夫代表)も空港反対の旗を降ろしたわけではない。三里塚闘争は伝説ではなく、いまも継続しているのだ。反対同盟員の土地収用(借地の耕作権)をめぐる訴訟を中心に、法廷闘争が繰り広げられている。きたる3月25日には東京の連合会館で開港阻止闘争40周年のイベント(柳川派)も企画されているが、ここでは三里塚を知らない若い人たちのために、あるいは往時を知っている人たちの懐旧を満たすように、闘争の歴史を振り返ってゆこう。

 
1966年6月23日付毎日新聞(wikipedia「三里塚闘争」項より)
 
成田国際空港周辺の地区(wikipedia「三里塚闘争」項より)

◆闘争の黎明期

三里塚(成田)に空港建設が決まったのは、1966年のことである。国際化時代に相応して、羽田にかわる国際空港を検討していた政府運輸省は、いくつかの案(浦安・霞ヶ浦・木更津沖など)が立ち消えたあとに、冨里・八街(成田よりも千葉市・東京近い)にターゲットをしぼったが、地元農民の圧倒的な反対に遭う。そこで運輸省は皇室の御料牧場があり、大半が戦後の開拓農である三里塚・芝山を空港建設地に選んだのである。

だが、ここ三里塚・芝山でも農民の反対運動が沸騰し、66年8月には三里塚芝山連合空港反対同盟(1200戸・1500人)が結成された。なおかつ67年には共産党に代わって三派全学連が支援に参加することで、空港反対運動は先鋭化した。翌年にはベトナム反戦、全共闘運動がピークを迎え、青年学生層は三里塚闘争に参加することにより、学園や街頭での戦術を過激化させていった。いわば学生運動・反戦運動の過激化は、三里塚での戦術の高度化がもたらしたものだと、取り締まり当局を悩ませたものだった。のちに赤軍派や爆弾闘争に参加する学生の多くが、三里塚闘争で戦争なみの「野戦」を体験している。ちなみに、いまは穏健な物腰の某出版社の社長も、同志社に入って間もなく三里塚に足を運んでいる(『遥かなる一九七〇年代京都』鹿砦社刊)。かつて三里塚こそ「過激派」学生の源泉であり、反体制運動の聖地だったのだ。

 
当初の新東京国際空港計画案(運輸省『昭和39年度運輸白書』より)

◆ひそかに手に入れていた設計図

ところで当時の学生たちが三里塚で学んだ最大のものは、単なる過激化ではなく緻密な戦術ではなかっただろうか。反対同盟の農民たちは大雑把なようで、じつに緻密で巧みだった。戦術の工夫は先で触れるが、理念が先行する学生にはない現実性、具体性があった。負けても何かしら思想的な成果が残せればいいなどという、革命的敗北主義ではないのだ。たとえば68年に空港公団に押しかけたさいに、公団の分室事務所に忍び込んで空港の設計図を手に入れている。この設計図がのちに、管制塔占拠につながるのだから、偶然とはいえ結果からみると、農民たちの戦術は周到というほかない。

機動隊を前面に立てた外郭測量からはじまり、二度の土地収用阻止闘争(71年)は苛烈なものになった。農民たちが耕している土地はおろか、住居まで取り壊す土地収用である。もっとも、土地の接収は大金をチラつかせての切り崩しであり、買収である。土地の買収に応じた農民は、大黒柱を切り倒して家屋を倒壊させるのが習わしだった。条件派に転じた農家、ある日突然いなくなる農民たち。三里塚闘争の諸相は、そのほとんどが買収との闘いだったといえよう。それら農民の生活設計について、支援の学生・労働者ができるのも援農という物質的なものだった。思想や理念だけで運動ができる、学園や街頭での闘いは、そこでは何の保証も展望なかった。いっぽうで、反対同盟の農民を援農漬けにすることで、支援党派は三里塚闘争のイニシアティブを握ろうとする側面があったのも事実だ。それはそれで、のちに禍根を残すことになる。

◆熾烈な闘争で犠牲者も

第二次代執行(土地収用)が行なわれた71年9月16日、東峰十字路で警備の機動隊(神奈川県警)が襲撃され、警官3名が死亡、80名以上が重軽傷を負った。孤立した大隊編成(270名ほど)の機動隊に対して、700人ほどの反対派・支援学生が襲い掛かったものだ。襲撃したのは反対同盟の青年行動隊を中心に、社青同解放派、日中友好協会(正統)、共産同叛旗派、情況派、黒ヘルノンセクトなど、反中核派の支援党派、あるいは反荒(戦旗派)派のブント系だった。すでに三派全学連は分裂し、ブント(共産主義者同盟)も四分五裂の状態で、現地での行動もおのずとそれに規定されたものだった。

1972年になると、反対同盟はA滑走路の南端に岩山大鉄塔(60.6メートル)を建設し、空港公団の飛行検査を中止に追いやった。以降、鉄塔の共有化や戸村一作委員長の参院選挙出馬で運動の全国化をはかる。この時期、学園では内ゲバが死者を出す惨事をくり返していたが、三里塚闘争は全国住民運動の総本山という権威をもって、数多くの支援党派を統制していた(反対同盟を批判して、共闘関係を断たれた革マル派は除く)。こうして、70年代中盤までは膠着状態のまま推移していった。

成田空港「空と大地の歴史館」に展示されているヘルメット(wikipedia「三里塚闘争」項より)

◆岩山大鉄塔の撤去と火炎瓶

事態が動いたのは、福田内閣が「年内開港」を宣言してからだった。反対同盟は4月17日に大集会を準備し、2月、3月と段階的に決戦の準備を盛り上げていった。はたして、4月17日には1万7000人(警察発表9000人)を動員した。その矢先だった。5月の連休を前に、空港公団は航空法49条違反として、岩山大鉄塔を大型クレーンで撤去したのである。この年のゴールデンウィークの三里塚は戦場と化した。千代田農協周辺で機動隊と支援学生・労働者が激突し、火炎瓶取締罰則が施行(72年)されてから初めて公然集会で投げられた(ゲリラ的には何度も投げられているが、ソ連大使館に投げたマル青同が懲役3年の実刑を受けた)。

そしてこの過程で、臨時野戦病院を警備していた東山薫がガス弾の直撃を受けて死亡した。翌日、芝山町町長宅を警備していた機動隊が襲撃され、警官1名が死亡している。火炎瓶による襲撃だった。空港による犠牲者は、東峰十字路の警察官3名、その翌月に「この地に空港を持ってきた者を憎む」という遺言を残して自殺した三ノ宮文男(青年行動隊)をふくめて、6人目となった。合掌……。大鉄塔がなくなったことで、航空各社の完熟飛行が行なわれるようになる。開港阻止にむけた反対同盟は闘争の拠点として、横堀地区に鉄筋コンクリート造りの要塞を建設する。場所は自殺した三ノ宮文男の畑であった。(つづく)


◎[参考動画]三里塚 成田闘争 岩山大鉄塔強制撤去 – 1977

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
著述業、雑誌編集者。3月横堀要塞戦元被告。

『紙の爆弾』4月号!自民党総裁選に“波乱”の兆し/前川喜平前文科次官が今治市で発した「警告」/創価学会・本部人事に表れた内部対立他
〈3・11〉から7年 私たちはどう生きるか 『NO NUKES voice』15号

〈速報〉3・19M君裁判一審判決──「不当判決」だが、闘いはこれからだ

3月19日大阪地裁810号法廷で、M君が李信恵はじめ5名を訴えた、損害賠償訴訟(平成28年第6545号、第11322号、第11469号 長谷部幸弥裁判長)の判決が言い渡された。傍聴券交付となった同判決には、傍聴を希望する30余名の人びとが抽選に集まったが、定員に達しなかったため全員が傍聴席可能となった。

13時45分に傍聴席は開錠されたが、その直前に被告側代理人の神原元弁護士が入廷した。傍聴席がほぼ埋まった13時55分、M君が法廷入り口に現れ、深々と一礼して原告席に着席した。弁護団の大川伸郎弁護士、瀬川武生弁護士も原告席に控える。

◆判決主文9項目

14時ちょうどに裁判官が入廷し、廷吏によって事件名が読み上げられる。長谷部裁判長はまず原告被告双方の呼び方を確認したうえで、以下のとおり判決主文を読み上げた。(ここでの呼称は裁判所で長谷部裁判官が用いたものではないが、読者諸氏に理解しやすいようにこれまでどおりの表記でご紹介する)

(1)被告エル金および被告伊藤大介は原告に対し、79万9,740円及びこれに対する平成26年12月17日から支払い済みまで年5分の割合による金員を払え。

(2)被告凡は、原告に対し、1万円及びこれに対する平成26年12月17日から支払い済みまで年5分の割合による金員を払え。

(3)原告の被告エル金に対するその余の主位的請求及びその余の予備的請求をいずれも棄却する。

(4)原告の被告凡に対するその余の主位的請求及びその余の予備的請求をいずれも棄却する。

(5)原告の被告伊藤に対するその余の請求をいずれも棄却する。

(6)原告の李信恵及び松本英一に対する請求をいずれも棄却する。

(7)被告伊藤及び松本の反訴をいずれも棄却する。

(8)訴訟費用は、被告エル金に生じた費用の11分の4及び原告に生じた費用47分の1を被告エル金の負担とし、被告凡に生じた費用の220分の1と原告に生じた費用の188分の1を被告凡の負担とし、被告松本に生じた費用の5分の3と原告に生じた費用の188分の33を被告松本の負担とし、被告伊藤に生じた費用の188分の53を被告伊藤の負担とし、その余を原告の負担とする。

(9)この判決は第1項及び第2項に限り、仮に執行することができる。

◆判決文を一読し、M君と弁護団は「控訴」の意思を固めた

長谷部裁判長が、早口に上記を読み上げ、判決言い渡しは終了した。傍聴席で判決を聞いていた多くの人は耳を疑った。この判決によるとM君が受け取ることのできる「賠償金」は80万9,740円及び、年5分の利息のようなものだけだ。

長時間の暴力を受け重症を負った被害者が事件を隠蔽され、裁判に2年かけ得られるのが僅かに80万円なのだ。

しかも判決ではエル金と凡、伊藤大介に賠償を命じているが、凡に対する賠償金額は僅か1万円。さらに李信恵が「M君に掴みかかった」事実を認定しながら、M君が「平手で殴られたのかげんこつで殴られたのかはっきりしない」ことを理由にM君の証言が「信用できない」とまで決め付けている。

その他、判決文には原告側としては、到底納得できない箇所が多く、判決文を一読し、M君と弁護団は「控訴」の意思を固めた。

左から瀬川武生弁護士、大川伸郎弁護士、M君、松岡利康鹿砦社代表

◆M君が語った現時点での総括

判決後、大阪弁護士会館に場所を移し「報告集会」が行われた。冒頭M君は「このように皆様にお集まりいただき、判決は納得できるものではありませんが、200名を超える方々に裁判費用のご支援を頂き、きょうの日を迎えることができたことをまず感謝申し上げます。ありがとうございます」と切り出した後、以下のように話した。

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私なりにきょう時点での総括をしておきたいと思います。総括とはスポーツなどでもそうですが『何ができて、何ができなかったか』を検証することです。

まず、出来たことは、多数の著名人や社会的有力者が二重三重に隠蔽に関わってきました。それを打破できたのは私一人では到底無理でした。ここにいらっしゃる松岡社長及び弁護団の先生方、何よりも支援いただいた方々のご高配の賜物です。ありがとうございます。

2つ目は、上瀧浩子弁護士、コリアNGOセンター、これらの人々は『事件を知りません』では済まされない人びとです。この人たちが裁判の中で旗色をはっきりさせた。このことは意味があったと思います。

3点目は個人的ではありますが、いわゆる「しばき隊」、「カウンター」と呼ばれる行動に対して自分で反省することができたことだと思います。色々なことがいわれますが、暴力的手段をとったのは全面的に間違っていた。「しばき隊」は最初から間違いであったと反省の機会を得たことであります。これについてはこの場で反省の弁を述べさせて頂きます。判決は厳しいものになりましたが今後もよろしくお願いいたします。

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◆「李信恵の責任が認められず、伊藤大介の責任は認められる」論理構成の不可解

左から瀬川武生弁護士、大川伸郎弁護士
松岡利康=鹿砦社代表

次いで大川弁護士から、判決について解説があった。「予想外の結果に驚いている」と大川弁護士は正直な感想を語った。「最初に掴みかかった李信恵さんの責任が認められずに、伊藤大介さんの責任は認められている。わけのわからない論理構成です」と例を挙げ判決全体に対する疑問が呈され「控訴するしかないでしょう」と弁護団の決意を語った。

その後参加者と弁護団、M君による質疑応答に入り、さまざまな意見が交わされた。

質疑の後鹿砦社代表松岡が「きょうの結果は残念でしたが、それでも判決を迎えられたのはひとつの成果です。裁判は水物で予想しない判決が出ることは私も経験的にわかっているつもりです。今日の判決を一里塚として控訴審を戦っていきたいと思います。この2年で4冊の本を出しました。勝利したとはいえないけれど、心ある人にはそれなりに伝わり、なぜマスコミは報じないのか? と思われたでしょう。きょうの結果も今後出版し戦っていく。私の良く使う言葉ですが〈敗北における勝利〉」ととらえ、これからも皆さんのご支援よろしくお願いいたします」と挨拶をした。

その後参加された皆さんへの支援(カンパ)の要請があり、3万1,500円の「支援」が集まった。

最後に特別取材班の一人が激烈なアピールを行った。

M君裁判一審判決は「不当判決」だった。だが、闘いはこれからだ。心ある皆さんのご支援を引き続き呼びかける!

(鹿砦社特別取材班)

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明日19日ついに判決の日 李信恵ら5名を訴えたM君の損害賠償請求訴訟

いよいよ明日19日、M君が李信恵など5名を訴えた損害賠償請求訴訟の判決が、14時から大阪地裁810号法廷で言い渡される。鹿砦社に“事件”が持ち込まれて約2年で、ようやくこの日を迎えることができる。特別取材班は結成直後から精力的に情報収集・取材に動いた。その成果の一端は『ヘイトと暴力の連鎖』(2016年7月14日発行)、『反差別と暴力の正体』(2016年11月17日発行)、『人権と暴力の深層』(2017年5月26日発行)、『カウンターと暴力の病理』(2017年12月11日発行)で順次報告してきた通りだ。

いまだに「リンチはなかった」などと平然と語る連中がいる(『カウンターと暴力の病理』グラビア)

◆昨年12月11日、被告代理人・姜永守弁護士が行ったM君への呆れた質問

この裁判のハイライトは、なんといっても2017年12月11日に行われた、原告被告の本人尋問だった。そのあらましは本通信12月14日に報告した(M君リンチ加害者李信恵ら5人への12・11 本人尋問傍聴記 被告側に4つの大失点)が、中でも際立って記憶に残っているのが、被告代理人姜永守弁護士のM君への質問だ。

既定の時間を超えて、裁判から制止されるも行った姜弁護士のM君に対しての最後の質問、「あなたはこの裁判のなかで被告たちがリンチをしたとか、隠蔽をしたとかさんざん主張して、各被告の責任を訴えていますよね。あなたにとってはこの裁判はなんなんですか?」ざわつく法廷内を気にもせず姜永守弁護士は「何のためにこの裁判をしているのですか?」と弁護士としては絶対にしてはならない(まったく被告の利益にならない)質問を2度も繰り返してしまったのだ。M君も驚いただろうが「訴状に書いてある通りです」と明確に答えた。

◆それでも「M君に非あり」であるかのようなしばき隊や香山リカらの言説・態度

この質問には原告代理人も呆れたが、理解を示す一群の人びとが法廷内にはいた。それはしばき隊の連中だ。全国動員で駆け付けたしばき隊にとっては姜弁護士の質問が、裁判を闘う上で圧倒的に不利な質問であっても、感情面で自分たちを代弁してくれる「スカッとする」質問だったのだろう。

だから、困るのだ。感情だけに左右され、理性や人権原則が引っ込んでしまった人びと。香山リカはこの訴訟で被告側の「全面勝利を祈ります」などと書いているが、そもそも暴行傷害が刑事で確定している事件の民事訴訟で、被告側の「全面勝利」とはいったい何を意味するのか? 暴行の事実自体は争いがないのに香山はそれでも「M君に非あり」と言外に表明している。こういう一見穏やかな表現に見えて、加害者に加担する行為は極めて悪質だ。

『カウンターと暴力の病理』を手にして、あたかもこの本の出版自体が問題である、かのような質問まで行った姜弁護士とエル金。彼らには反省の色はないと傍聴席にいれば受けとめざるを得ない。

大学院生リンチ加害者と隠蔽に加担する懲りない面々(『カウンターと暴力の病理』グラビアより)
鹿砦社への暴言の一部(『カウンターと暴力の病理』グラビアより)

ともあれ、明日裁判所による判断が示される。「3・19 M君対5人裁判判決闘争」は14時から810号法廷だ。支援頂ける方の結集を呼び掛ける!

なお、傍聴は抽選なのでお越し頂けるかたは、13時30分までに裁判所入口の前へご参集を。

(鹿砦社特別取材班)

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大飯原発再稼働に中嶌哲演さん抗議の断食『NO NUKES VOICE』ルポ〈3〉

中嶌哲演さん
関電本店前にて(2018年3月13日)
子ども脱被ばく裁判の会共同代表の水戸喜世子さんと松岡利康・鹿砦社代表

関西電力は3月14日、大飯原発3号機の運転(再稼働)をはじめた。これに抗議する市民は、大飯原発現地をはじめ、全国各地で抗議行動を行った。なかでも関西電力本店ビル前で3月12日から14日にかけて、若狭地域の脱原発リーダーのひとりである明通寺(福井県小浜市)住職、中嶌哲演さんが「ハンスト(ハンガーストライキ)」に決起したので、激励と取材に13日関電本店を松岡社長とともに訪れた。

関西電力本店前には中嶌さんのハンストを、支援する人びとが30名ほどあつまり、希望する人が順次発言をおこなっていた。水戸喜世子さんの姿もある。ご挨拶をすると「これ読んでください。福島で田中俊一がとんでもないことを言い出しているんです」とご自身が作成されたビラを手渡してくださった。飯館村に移住した元原子力規制委員会委員長田中俊一の「罪」は後日じっくり追及する。

参加による発言に続いて、中嶌さんが次のようにお話された。

中嶌哲演さん

◆若狭をこれ以上いじめないでください

どうも皆さんいろいろな貴重なご意見や励まし、ありがとうございます。
実はきょうお昼の時間、社員が昼食に出掛ける時間帯に、社員の出入りする前のところでお付き合いをしまして、私なりにスローガンというのではないんですけれどもね、こういうことを訴えました。
「若狭をこれ以上もういじめないでください。美しい若狭をもうこれ以上汚さないでください。ぜひ再稼働をやめてください」

それともう一つ、
「もしあなた方が14日に強行突破されれば、そうでなくても関電の顧客が離れていっている中でますます顧客離れが起こりますよ」とこういうことを言ったんです。「もしあなた方がこの再稼働を中止断念し脱原発の方へ方向転換されるならば、多くの市民が共感し、今迷っている人たちが踏みとどまって関西電力をむしろ支持するようになるでしょう」

そういうことをちょっと訴えたんですね。皆さんは「若狭をいじめないでください」というイメージがもう一つピンと来ないかもしれませんが、昨日お配りした断食宣言の添付資料の中にあるんですけれども、若狭には関西電力の原発11基、出力にすると977万キロワット、この若狭の11基は3カ所に集まっています。美浜町、大飯町、高浜町のこの三町ですね。ところが右側を見ていただきますとわかるんですけれども、関西の兵庫、大阪、和歌山県の沿岸部には火力発電所が12カ所37基出力にして1636万キロワット、こういうふうになってるわけです。

現実です。これは何人も否定できない客観的な事実ですね。関西電力は原発は必要で安全だということを言い通してきたわけですけれども、若狭のこの11基の原発は若狭の住民も福井県民も全然使っていません。全部超高圧電線でたくさんの鉄塔を伝わって関西2府4県に送られてるということなんです。これが客観的な事実。とすると、原発が必要で安全ならね、なぜ火力発電所同様関西の沿岸部に造れないんですかというのは、反対してきた若狭の住民や福井県民の本当の気持ちなんですね。だからそのことに照らして私がなぜきょう関電に向かって、「もうこれ以上若狭をいじめないでください、若狭を汚さないでください」と申し上げたかということをご理解いただきたいと思うわけです。申し上げた今回の第一はこのことなんです。

この事態を作り出したのは関西電力だけでしょうか。極悪の関西電力だけでしょうか。こういう事態になるまで若狭の原発の電気を享受してこられた関西の市民の皆さんにも、「いやあれは関電がやったことだから我々には責任なにもないですよ、0%ですよ」と皆さんはみなされるでしょうか。あとで対話をさせていただければと思います。だからこの関電の無謀な暴力的な若狭に対する再稼働を認めない、ストップをかけるためにはですね、若狭の地元の住民は麻薬的なお金をばら撒かれて麻薬患者になってしまっているんです。末期患者になっているんですよ。だからそういう人たちに、止める行動に立ち上がれと言われても、お尻をたたかれても難しいところがあります。それで関西の皆様にこの「断食宣言」で申し上げましたように、三番目をもう一度読ませていただきます。

中嶌哲演さん

◆なぜ私はこの断食に入ってるか?

なぜ私はこの断食に入ってるか、もともと宗教的な断食は第一の欲望の食欲を、自らの心身の浄化を内密に図ることを見せびらかしたり、対外的にそのことを知らせる必要はないんです。宗教的な場合はね。そういうことを顧みます時に、対外的な抗議や要求を掲げて断食することは慙愧の念に堪えません。宗教的に言えばむしろ邪道かもしれない。でも私は現代的な宗教者の断食としていま行ってるわけですが、しかし私個人だけでなく多くの市民の皆さんが、たとえ一食、一日断食でも試み、原発ゼロ社会を目指す運動の共通口座を作り、その食費をそれに振り込むというような、いつでもどこでも誰でもできるアイディアが実現できないものでしょうか、という訴えをしているわけです。

ここにもこれまで私はさんざん訴えてきたんですけれども、なかなか具体化しませんでしたが、さいわい福井から原発を止める裁判の際の皆さんが私のアピール受け止めてくれて、「反原発断食一食分募金」というのを裁判の費用とは別枠で取り扱ってくれるようになりました。断片的に言い出しっぺの福井県からこの運動を広めていこうということなんですが、私はもっと全国版の運動が展開できればいいなと。反対運動のマイナーな勢力だけでやっているのではなしに、広汎多数の市民、なにもここに来てもらう必要はありません。自分の家庭であるいは職場で一食抜いてみようかと、その一食抜いた食費を反原発、脱原発の運動にカンパしようと。これは我々の反対運動体の枠を乗り超えるものすごく大きなの不特定多数の市民に対しての呼びかけになるわけです。

中嶌哲演さん

◆命を革める〈革命〉 これまでの生活や価値観に問い直してもらう

そしてその中で、皆さんが少しでも断食をし、カンパをしてもらえば、そのことをさっき坂本さんは「革命」という言葉を従来のイメージで革命はどうだろうということであったんですけれども、私の考えている革命というのは宗教的な面からいうと「命を革める」という文字なんです。

何もラディカルな軍事的なこと暴力革命を起こすというようなそういうイメージではなくて一人一人のまず命を革めていくという、これまでの生活や価値観に問い直してもらうそういう意味合いの、例えば一例として一食断食、その食費を反原発運動にカンパするというようなこと、これがどんどん集まってくれば不特定多数の皆さんと共に関電にブレーキをかけることができるという、そういう非暴力・不服従の静かな革命を、いつでもどこでも誰でもできることを私は訴えたいと思っています。

宗教者が非暴力ということをいうと、「とにかくおとなしくしていて何もしない、抵抗しない、権力、力のあるものがどんどん事を進めてもそれを傍観してる」というふうに、非暴力という言葉がややもすると受け止められて来たんですが、ところが非暴力、これはガンディーの言葉です。この精神でもって「権力なんかのやることに絶対服従はしないけれどもそれに対して抗議するのは暴力的なことはやらない」、非暴力平和的な手段を講じていく、ガンディーはインドの大英帝国の植民地からの解放を最終的に勝ち取ったわけですね。そういうことを私としては革命の中に意義を含ませたつもり。

今回の再稼働3号に対して、私たちは確かに興趣傍観しています。関電はこういう理不尽な暴力的なことをやってもスイスイ通っていくんだということをやっぱりそれは反省してほしいという願いを込めて私来ています。先程言いましたように、顧客は毎月毎月6万人離れていってるんですけれども、今回この3号の再稼働に抗議の声、力が強まれば強まるほど、この顧客離れが強行突破すれば増えると思ってます。それが4号機を食い止めていく上での、滅多に4号機を安易に動かせないというそういう空気を作っていくことにも繋がっていると思いますので、今日明日最大限なんとかここで皆様と共に声を上げたいと思っております。ありがとうございました。

関電本店前にて(2018年3月13日)

◆非暴力・不服従の静かな革命を

この日は中日新聞が取材に訪れ、中嶌さんに詳しい話を取材していた。翌日には共同通信の取材も予定されているとのことであった。しかしどうして中嶌さんが「ハンスト」に立ち上がられたのか。その詳細までを報じることは出来ないであろう。大飯原発3号機は3月14日に再稼働されてしまったけれども、「大飯原発3・4号機の再稼働中止を求める断食宣言―非暴力・不服従の静かな革命を―」の全文を以下掲載する。

中嶌哲演さんの断食宣言「大飯原発3・4号機の再稼働中止を求める断食宣言―非暴力・不服従の静かな革命を―」(1/2)
中嶌哲演さんの断食宣言「大飯原発3・4号機の再稼働中止を求める断食宣言―非暴力・不服従の静かな革命を―」(1/2)

この日は松岡と私が関電本店前を訪れ、ご挨拶と激励、さらに松岡が脱原発への決意と『NO NUKES voice』のご紹介をした。無料で差し上げようと4冊を持参したが、皆さんから「せっかくですから買わせてください」と貴重なお申し出を頂き、4冊が読者の手元にわたることとなった。

何度でもひるむことなく声をあげ、行動しよう。私たちは決して劣勢ではない。彼らは再稼働するのに全力を傾注するだけで精一杯だ。大飯原発3号機は再稼働されてしまったが、反(脱)原発に向けた市民の意思に揺らぎはない。

中嶌哲演さんと松岡利康・鹿砦社代表

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

『NO NUKES voice』15号 〈3・11〉から7年 私たちはどう生きるか
多くの人たちと共に〈原発なき社会〉を求めて『NO NUKES voice』

カリスマなき時代の任侠界 ―― 分裂山口組のその後を読む

山口組の分裂から2年半が経った。名古屋の弘道会を主流派とする六代目山口組(司忍組長・高山清司若頭)、そこから袂を別った神戸山口組(井上邦雄組長・入江禎副組長)。そして昨年の4月に、神戸山口組から離脱した仁侠山口組(織田絆誠代表)。三つの山口組が鼎立し、相互にしのぎを削っているのが現状だ。

◆分裂以後、死者5人、抗争事件100件超、逮捕者2000人超

六代目山口組の代紋“山菱”

組織犯罪対策法・暴対法・暴力団排除条例のもとで、かつてのような激しい抗争は影をひそめているものの、これまでに5人の死者をともなう100件以上の抗争事件が起きている。とはいえ317件の事件が発生し、双方に29人の死者を出した山一抗争(1984~1989年)に比べれば散発的であり、かつ大掛かりな襲撃計画によるものは少ない。市街地に監視カメラが設置され、24時間監視社会になっているのも、暴力団抗争の発生を抑制しているといえよう。

いっぽうで、山一抗争の逮捕者が560人だったのにたいして、今回の分裂抗争が始まってからの逮捕者は、じつに2000人以上である。ご苦労なことに、一人で何度も逮捕されている組員・親分も少なくない。ヤクザであることを隠してゴルフをした、親族名義でクルマを買ったなどの微罪(詐欺罪)で引っぱる。ほとんどが不起訴である。おそらく予算獲得のために、捜査当局が取り締まりの実績をつくっているのが実態であろう。今回の抗争では発射罪や銃刀法、殺人未遂に問われる拳銃はあまり使われず、クルマをバックで事務所に突入して器物破損事犯にとどめるなど、攻撃方法にも工夫が凝らされている。ヤクザである以上、基本的人権すら認めない改正暴対法と暴力団排除条例のもとで、抗争もままならないというのが現実なのである。

◆与党(主流派)が人事を独占し、他派閥は冷や飯に甘んじるしかない組織原理の無理

分裂そのものは、ある意味で当然のこととだった言える。昨日まで対等の兄弟分だった者たちが、明日からは絶対的な権力者である親分と、奴隷のように付き従う子分になるというのだから、組織原理にそもそも無理がある。組長を出した与党(主流派)が人事を独占し、後継候補にも自派の人間を据えると、他派閥は冷や飯に甘んじるしかない。

したがって、主流派になろうとすれば組織を割って出るしかないのだ。九州の道仁会(九州誠道会が分裂)、工藤會(内部粛清)など、武闘派の組織ほど分裂抗争に陥りやすい。組長の継承がすんなりといく関東(稲川会・住吉会・極東会)は、縄張りがしっかりと決められているからだという(『誰も書かなかったヤクザのタブー』タケナカシゲル、鹿砦社ライブラリー)。

もうひとつ、先代のカリスマ性が高いほど、スムースな継承は困難になるのではないか。

山口組の場合は、田岡一雄三代目が二代目山口登の逝去によって組長の座を得て、田岡のカリスマ的な力によって全国組織へと発展してきた。田岡のカリスマ性をかたちづくったものは、彼の親分としての非凡さ以上に、全国制覇という拡大戦略の成功によるものだ。田岡が三代目に就任したとき、組員はわずか33人にすぎなかったのだから、組織の拡大はそのまま田岡の権威につながった。

昭和30年代から全国でくり広げられたヤクザ抗争は、おなじ神戸を拠点とする山口組と本多会による、いわば覇権を競うものだった。本多会(大日本平和会)が消滅したあとはゼロサムゲームで、地方の小組織は吸収されるか連合するかで生き残りをはかり、山口組は巨大組織へとのぼりつめた。そこにはもはや、カリスマ的な権威ではなく執行部が官僚組織として立ち現れていた。五代目渡辺芳則は「わしが黙っていたほうが、うまくいくやろ」と、組織の実務を経済ヤクザの若頭・宅見勝らにまかせていた。その渡辺五代目が引退するとき、生前引退それ自体が山口組では初めてのことだったが、13名の直参組長たちが弘道会主導の六代目体制に叛旗をひるがえした。もっともそれは、反対派あぶり出しの陰謀だったとする説がつよい(『血別』太田守正、サイゾー刊)。

◆抗争がない時代とは、ヤクザが喧嘩で出世できない時代である

六代目山口組から袂を別った神戸山口組の井上邦雄組長

整備された巨大組織と規約(綱領)のもとで、秀でた人材がかならずしも組織の上位ポストに就けるわけではない。かつては武闘派でなければ人心を得るのは難しかった。対立組織の親分のタマを取り(つまり殺害し)、長い懲役を勤めた出獄後に、晴れて一家をかまえるというのがヤクザの出世の階段だった。その意味では、抗争なき時代にこそ分裂が始まったのである。それはヤクザの分散の時代と言い換えるべきかもしれない。

抗争がない時代とはつまり、ヤクザが喧嘩で出世できない時代である。そこで事業力に秀でた親分が幅をきかせ、月会費(上納金)を納められない親分は引退するしかない。まさに六代目山口組の分裂は、毎月85~100万円の会費と物品(ミネラルウォーターやトイレットペーパーなど)の押し売りへの不満からだった。そして月会費を30万円以下と定めた神戸山口組においても、実態は70万~80万であったという。この集金路線ともいうべき運営に叛旗をひるがえした仁侠山口組は、直系組長で10万円だという。ようするに、この分裂抗争は矮小化していえば、上納金をめぐる組織運営のちがいということになる。ということは大義のある仁侠道ではなく、自分が可愛いだけの経済道か金融道による分裂なのである。三代目田岡一雄はかつて、こう語った「わたしはうどん一杯でも、子分にカネを出させたことはありません」と。カリスマ親分はまた、清廉の士でもあったのだ。

◆史上初めて山口組トップに在日韓国人が立った仁侠山口組の組織形態

神戸山口組から離脱した仁侠山口組の織田絆誠代表

それでも、今回の分裂抗争でわずかに積極的なものがあるとすれば、神戸を割って出た仁侠山口組の組織形態であろう。代表の織田絆誠(よしのり)は、金禎紀が本名の在日韓国人である。伝説的な柳川次郎(梁元鍚)柳川組組長をはじめ、現役でも橋本弘文(姜弘文)極心連合会長、正木年男(朴年男)正木組組長など歴代幹部の多くに在日韓国人がいる山口組には、日本人でなければトップになれない不文律があるという。分派とはいえ、山口組のトップに在日韓国人が立ったのは史上初めてである。そして織田は組長ではなく代表としてのトップであり、仁侠玉口組では親分子分の杯を交わしていない。いわば、連合組織の代表なのである。組員の服装や髪の色も自由であるというから、その組織体質は準暴力団指定された関東連合のようなものかもしれない。若手の組員には織田の信奉者が多いという。たとえば仁侠山口組が事務所ビルを定例会に使っている古川組では、古川恵一総裁をのぞく組員全員が、それまでの親分(古川総裁)をみかぎって仁侠山口組に合流している。カリスマ性を際立たせている織田絆誠(50歳)とは、どんな人物なのだろう。

◆組織再編のキーパーソンとしての織田絆誠・仁侠山口組代表

織田絆誠は18歳で老舗博徒の酒梅組系に入門し、19歳のときに政治結社「日韓同志会」を組織している。酒梅を脱退後に一本独鈷の天誠会を結成し、22歳で四代目山口組内倉本組に入った。波谷組との抗争で懲役12年。その後、山口組の主流派である健竜会(渡辺芳則の出身団体)で井上邦雄の盃を受けている。実力・功績・系譜ともに十分の経歴である。

その織田が昨年9月に神戸山口組の菱川龍己組員に襲撃され、ボディガードのひとりが射殺されている。8月に織田が記者会見を開いて神戸山口組を批判していることから、神戸の組織的な犯行であるのは疑いない。あるいは神戸山口組による脅しだったが、偶発的にボディガードが殺されたのではないかと、暴力団ジャーナリストたちの見方が分かれるところだった。しかし、今年3月8日に菱川容疑者の逃走を助けた女性が逮捕されたことで、計画的な襲撃・逃走だったことが明らかになった。襲撃グループが軽機関銃と思われる武器を携行していたことからも、偶発説はありえない。菱川容疑者の足どりが注目されるところだ。

もうひとつ、織田代表に注目が集まるのは、彼が仁侠山口組を過渡的なものと考えているからだ。何のための過渡的な組織かというと、六代目山口組への復帰である。織田代表が語るところでは、六代目山口組は獄中の高山清司弘道会会長の意向で、再統合もありうると言う。もっとも高山は、即座にこの話を拒絶したという(ジャーナリストの言)。分裂による組織の弱体化を期待する捜査当局にとっては迷惑な話かもしれないが、抗争事件による思いがけない事故に巻き込まれるよりは、再統合のほうがマシである。カリスマなき時代に、若きカリスマの資質をもった織田絆誠は、まちがいなく組織再編のキーパーソンといえよう。

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
著述業・雑誌編集者。著書に『山口組と戦国大名』(サイゾー)など。

タケナカシゲル『誰も書かなかったヤクザのタブー』(鹿砦社ライブラリー007)ヤクザ取材歴20年の著者による「とっておき」の話。安倍晋三の腹心は、ヤクザの系列会社に票を束ねてもらっていた/九州に進出しないと確約した山口組の念書が存在する/ヤクザを食いものにする芸能人たち他

3・15鹿砦社VS李信恵名誉毀損訴訟第3回弁論 、3・19カウンター大学院生リンチ事件李信恵ら5人組訴訟判決を迎えるにあたって 鹿砦社代表・松岡利康

◆明日3月15日(木)、鹿砦社が李信恵被告を名誉毀損等で訴えた民事訴訟第3回弁論が開かれます!

明日3月15日(木)午後1時30分から、鹿砦社が李信恵被告を名誉毀損等で訴えた民事訴訟の第3回弁論(大阪地裁第13民事部)が開かれます。これに際して私は鹿砦社を代表して別掲のような「陳述書」を提出いたしました。訴状、およびこの陳述書に私たちの主張の骨格は申し述べたと思いますが、社会的に影響力のある人物、とりわけ崇高な志を持って推し進めるべき「反差別」運動のリーダーたる人物が、「鹿砦社はクソ」といった口汚い言葉を連発することはあってはならないことです。

言葉には、その人の人格や人間性が表われるとするならば、いやしくも「差別」に反対するとか「人権」を守るとか言う者が、こうした言葉を使ってはなりません。「鹿砦社はクソ」という表現がキレイな言葉でないことは言うまでもありませんが、市井の無名人ではなく社会的影響力のある「反差別」運動のリーダーは、こういう汚い言葉を使わないほうがいいとか悪いとかいうレベルの問題ではなく、こういう汚い言葉を使ってはならないのです。差別に反対するという崇高な目的が、こうした汚い言葉によって台無しになりますから――。

李信恵被告は、鹿砦社や、この代表たる私に対し、こういう汚い言葉を連発したことを「意見ないし論評」と反論しています。在特会や極右グループの連中が発する言葉は明らかに「ヘイト・スピーチ」と言ってもいいと思いますが、この伝でいけば李被告が悪意を持って私たちに投げつけた言葉も、同じ位相で「ヘイト・スピーチ」ということになります。なりよりも李被告は私たちに憎しみ(ヘイト)を持って「鹿砦社はクソ」発言を行っているのですから。

また、李被告は、私が40年余りも前に一時関わった、主に学費値上げ反対運動を中心としたノンセクト(無党派)の学生運動に対し、1960年代後半以降血を血で洗う内ゲバを繰り広げ多くの死者を出した中核派や革マル派と同一視し、私があたかもその一味=人殺しのようなマイナスイメージを、社会的に影響力のある自身のツイッターで発信しています。

このような〝思い込み〟を内心抱くことは自由でしょうが、数多くのフォロワーを有するツイッターなどで公にするのは、明らかに名誉毀損であり、時に業務妨害にも当たります。差別の「被害者」だから何を言っても許されるわけではありません。いや、差別に反対する運動のリーダーであるからこそ、自らを厳しく律し、汚い言葉を排し人々に勇気を与えるような清々しい言葉を使うべきではないでしょうか。

松岡利康=鹿砦社代表が大阪地裁に提出した陳述書(1/4)
松岡利康=鹿砦社代表が大阪地裁に提出した陳述書(2/4)
松岡利康=鹿砦社代表が大阪地裁に提出した陳述書(3/4)
松岡利康=鹿砦社代表が大阪地裁に提出した陳述書(4/4)

◆3月19日(月)には李信恵被告ら5人による大学院生M君集団リンチ事件の一審判決が下されます!

次いで週を跨ぎ3月19日(月)にはいよいよ、この李信恵被告ら5人による大学院生M君に対する集団リンチ事件の一審判決(大阪地裁第3民事部)が下されます。ひとつの大きな山です。

私たち鹿砦社はこの2年間、社を挙げて、リンチ事件被害者のM君支援と事件の真相究明に当たってきました。李信恵被告らによる集団リンチの凄まじさ、リンチ後の、著名な研究者やジャーナリスト、作家、弁護士らによる、あたかも何もなかったかのように糊塗する隠蔽工作、被害者M君を村八分(差別ではすよね!?)にしバッシングを繰り返し精神的に追い詰めようとしていた(る)ことなどを見て、単純に酷いと感じましたし到底許すことができませんでした。私も老境に入り、怒ることも少なくなり、よほどのことでは怒りませんが、もたらされた〈事実〉は許せませんでしたし、ここで黙っていたら、私がこれまでやって来た出版人生の意味がなくなると思いました。

せめて人間の血が通った事後処理をしていたのならば少しは救われたかもしれません。一例を挙げれば、いったん被害者M君に渡した「謝罪文」さえも一方的に反故にしたことには人間としての心が欠けていると言わざるを得ません。

私たちは、この2年間、被害者支援と真相究明の過程で、いろんなことが判ってきました。この非人間的なリンチという場面に際し、〈事実〉を知りながら隠蔽に加担したり、この現実から逃げたりしている「知識人」といわれる人たちは一体何をやってるんだと弾劾せざるをえません。

30数年も付き合い著書も多数出版した鈴木邦男氏は、本来なら、かつて自らの組織で起きたリンチ殺人、死体遺棄の事件をくぐり抜け、その後、穏健な言論活動に転じたはずでした。このような事件にこそ生きた発言をすべきなのに、この期に及んでなんらの発言もせず、口を濁しています。それどころか加害者側の者らと親しく付き合い、一緒に集会に出て発言したりしています。今でも遅くありません、勇気を振るい発言すべきです。鈴木さん、あなたしかできない仕事があるはずです。鈴木氏が、この国を代表する「知識人」の一人であることは言うまでもありませんが、私のような一零細出版社の人間に言われて何とも思わないのですか、恥ずかしくはないのでしょうか!? 

本件訴訟の原告M君と弁護団、私たち支援者は総力を結集し、やれることはやりました。鹿砦社は、側面支援として、全力で取材し裁判闘争を裏付ける関連書籍を4冊出版し世の心ある人たちにリンチ事件を訴えました。ここまで証拠や資料を摘示していながらリンチがなかったなどとは言わせません! リンチ直後の被害者M君の顔写真を見よ! リンチの最中の録音を聴け!

いまだに「リンチはなかった」などと平然と語る連中がいる──。(『カウンターと暴力の病理』グラビアより)

裁判所が「人権の砦」「憲法の番人」であるならば、集団リンチによってM君の〈人権〉を暴力的に毀損し踏みにじった李信恵被告ら加害者に対し厳しい判決が下されると信じています。そうでなければ、この国の司法に未来はないと断じます。よもや裁判所が暴力を是認することはないはずですから――。

心ある多くの皆様が、李信恵被告らに対する2つの訴訟を注目されご支援されますようお願い申し上げます。

最新刊『カウンターと暴力の病理 反差別、人権、そして大学院生リンチ事件』[特別付録]リンチ音声記録CD
『人権と暴力の深層 カウンター内大学院生リンチ事件真相究明、偽善者との闘い』(紙の爆弾2017年6月号増刊)
『反差別と暴力の正体 暴力カルト化したカウンター-しばき隊の実態』(紙の爆弾2016年12月号増刊)
『ヘイトと暴力の連鎖 反原連―SEALDs―しばき隊―カウンター 』(紙の爆弾2016年7月号増刊)

〈森友共謀〉だけでない安倍の嘘 朝米首脳会談で無視された〈日米同盟〉

鹿砦社が発刊している『紙の爆弾』の編集後記では、編集長が「この号が発行されている頃には……」といった、月刊誌の時間的制約によるジレンマを感じさせる表現が散見される。政局など流動的要素をはらんだテーマを扱った記事では、原稿が書かれる1カ月以上先に予期せぬ事態が起こりうることは常態であるが、それでも月刊誌のスパンで新聞や週刊誌にはない、視点からの分析を展開する。

◆表層の出来事が意味する〈ことの本質〉はどのようなことなのか

ひるがえり、発刊のスパンが短い媒体ほど臨機応変な状況対応が可能であるが、得てしてそれは表層的な現象を伝える域をでない傾向がある。「事実」や「出来事」を伝える速度が(月刊誌や週刊誌と比すれば)新聞の優位性だが、その奥(あるいは水面下)に何があるのか。表層の出来事が意味する〈ことの本質〉はどのようなことなのか、は1日の編集作業でまとめ切れるはずもなく、また複雑な現象、背景を論説するにはそれなりの文字数(紙面)が必要となる。新聞社が瞬時に脊髄反射で論説までこなし紙面を構成できるか、といえば、そこにはおのずから限界がある。識者談話など数100文字の論評を掲載するのが精いっぱいであろう。

では、もっと更新速度を上げることが可能なネットはどうだろうか。即時性では朝夕刊2回(号外は別にして)の発行を原則とする新聞に比すれば、ネットに軍配が上がろう。ただし、即時性至上主義では「事実」、「出来事」がどのような「真実」を背おっているのか、いかなる目論見が背景に横たわっているのかといった「解説」、「論説」を展開する余裕を持てない。

この通信だって同様だ。ある日起きた現象を翌日に掲載しようと思えば、まずは事実を紹介(確認)し、筆者がそれについての私見を開陳する。関係者に感想を求めたりすることはあるが、その後の私見は、それまでに筆者が蓄積してきた、当該「事件」、「出来事」への知識や見解がもとに展開される。

◆韓国と朝鮮が“電光石火”合意に至った重大な伏線

前置き非常に長くなった。

わたしが書きたかったのは「朝米首脳会談」が実施されるとの報に接し、これまでこの島国の的外れで、無能極まる外交姿勢を糾弾してきたものにとっては、ひとこと言及する責任を感じたからだ。

わたしは本通信で「朝鮮への圧力」のみをもっぱらにする安倍政権の外交姿勢を「無能」と罵倒してきた。平昌五輪にかんしては「オリンピックは政治そのものだから、どうせ利用されるのであれば平和利用されればよい」とコメントした。そして多くの方々からわたしの論は、見向きもされなかったであろう、「なにいってんだこいつ」と歯牙にもかけられなかったであろうと想像する。

それは仕方のないことで、これだけ政権が熱心に「反北朝鮮」を煽り、連日マスコミの「洗脳」を受けていればわたしのような考えを持つ人が少数になるのも致し方ない。

だが、わたしの「はかない望み」、あるいは「一縷の希望」のようにしかとらえられなかった「和解」・「緊張緩和」に向けた方向性が(まだこの先修正や変更の可能性が大いにあるにしろ)現実に明確に示されたことは冷厳な事実だ。

韓国と朝鮮が“電光石火”のように見せかける合意に至ったのは、文在寅大統領就任(昨年5月10日)の直前に、朝鮮が1998年以来廃止(休止)されていた「外交委員会」を復活させていたことが重大な伏線であった。この島国の政権やマスコミは「ミサイル」「核兵器」「避難訓練」と大騒ぎするばかりで、肝心の朝鮮政権内部で「外交交渉を模索する動きが顕在していた」変化に着目する論評はほとんど皆無に等しかった。朝鮮における「外交委員会」の再開は韓国で朴槿恵政権が打倒され、対話可能な文政権樹立を視野に入れ準備されたものだと推測するのが妥当だろう。

◆韓国も朝鮮も米国も、最初から安倍外交を「全く無視」していた

平昌五輪への朝鮮参加から南北対談、即米国への韓国代表の派遣までのすべてが、シナリオにあったわけだはなかろう。しかし、明確なのは、そのあらゆるプロセスで安倍を頭目とする、この島国は「全く無視」されていた、ということだ。外務省に事前通告はなかったのであろうとわたしは想像する。

「制裁を強めた結果だ」と「朝米首脳対談」の実施について安倍はコメントした。まだ(いや、「もう」)こういうしか言いようがないほど存在を無視され、「日本はずし」で行われる朝鮮半島情勢の行方(安倍の物言い自体が「人道的犯罪」ではないのか)。そりゃ韓国も朝鮮も米国も、本音では最初から安倍の外交力なんかあてにもしていないし、視野にもなかったことだろう。「制裁・制裁」とやかましく繰り返し、無駄な税金を「反北朝鮮感情」を煽るために使い、国際社会から結局「馬鹿にされる」、この島国の外交。

安倍、自民党や右派野党にとって「朝鮮」は、対話不能の「ならずもの」であり続けてもらわねば、都合が悪いのだ(かつてのリビア、イラクのように)。政治だけではない。南北融和を「制裁包囲網ほころびの懸念」とどれほど多くのマスコミが伝えたことだろうか。彼らの頭の中では、なかば朝鮮半島における「限定的紛争」が既定路線となっていて、「朝米首脳対談」の文字を差し出されたら、狼狽することしかできなかったんじゃないのか。

少しはまじめに、自分の問題として「平和」を真正面から考えよう。奴らとは関係なく。

朝鮮半島地図

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

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