2022年回顧【経済・社会編】戦後77年と資本主義の限界 横山茂彦

◆戦後77年 ── 過剰な変革と拡散(多様化)の時代を経て

今年は戦後77年でした。編集部の求めもあり、戦後史をふり返る記事を書いていました。やはり「激流の時代」と呼ばれた「昭和」の社会の激変がすさまじく、文化の変容も激しいものだったと、あらためて回想されます。

このあたりを強調しすぎると、戦後世代特有の大げさな言説。あるいは老人の回顧と批判されそうですが、現在の停滞を生み出した過剰な変革と拡散(多様化)は、40年代後半から80年代にかたちづくられたことを再確認しておく必要があると思うのです。

そしてそれは、歴史考察がつねに底辺に哲学として持っているべき、今現在が最高の状態ではなく、過去により良いものを発見するものとして考えられるべきでしょう。

そのキーワードは戦後革命であり、世界的な68年革命、80年代のポストモダニズムです。このうちポストモダニズムは建築と現代思想の中で行なわれた、いわばコップの中の嵐のように思われがちですが、89年からの東欧・ソ連社会主義の崩壊、および80年からの中国の資本主義経済導入という歴史的な流れを、生産力批判として具現化するのです。

「《戦後77年》日本が歩んだ政治経済と社会〈1〉1945~50年代 戦後革命の時代」(2022年8月16日)

「《戦後77年》日本が歩んだ政治経済と社会〈2〉1960~1970年代 価値観の転換」(2022年8月23日)

「《戦後77年》日本が歩んだ政治経済と社会〈3〉1980年代 ポストモダンと新自由主義」(2022年8月30日)

◆資本主義の限界と再分配構造の転換

その後、バブル経済の崩壊が資本主義の限界を露呈させました。とくに日本においては労働編成の再編、すなわち終身雇用制の崩壊によって、非正規という労働市場の自由化が行なわれます。つまり労働者のパート・アルバイト化によって、低賃金労働が常態化するのです。

資本と労働組合に表象されてきた階級社会が消滅し、高所得者層と非正規の低所得層への階層分岐が顕在化していきます。この構造はデフレスパイラルの中で、資本蓄積の内部留保によって固定化され、勤労者の可処分所得の減少によって、ますます経済を失速させるという事態を生みました。時の総理大臣が、資本家階級に対して「賃上げをお願いする」という、伝統的な階級社会では考えられない事態をも生み出したのです。

この階層分化の社会構造は、現代的な構造改革である経済民主主義、政府の側も再分配構造への転換を期待せざるを得ない「新しい資本主義」つまり、社会主義的な分配へと踏み出さざるを得ないところまで来ていると言えます。

「《戦後77年》日本が歩んだ政治経済と社会〈4〉 ── 1990年代 失われた世代」(2022年9月17日)

◆自公政権そのものが、政教一致の政体である

安倍晋三元総理銃撃事件は、日本社会に二つの命題を突き付けたと言えましょう。その一つは、政治と宗教の問題である。自民党の選挙における強さ、とりわけ選挙に強いがゆえに独裁的に党内を支配してきた安倍政権が、じつは統一教会信者の力に支えられていたこと。そして自公政権そのものが、政教一致の政体であることを、あらためて認識させたことです。

国民の15%弱とされる自民党の政治基盤は、国民の10%とされる公明党(創価学会)の得票力に支えられ、なおかつ数万人とはいえ抜群の献身力で選挙を戦う、統一教会に支えられていた。すなわち、憲法に明記された信仰の自由・政教分離の原則を、そもそも逸脱していることを意味するのです。

政治の場においても、論壇においてもタブー視されてきた政治と宗教の闇に、厳しいメスが入れられる時代が来たのだといえましょう。

それは同時に、人間にとって宗教とは何なのか、政治とは何なのかを問い直すことになるでしょう。デジタル鹿砦社通信はこれからも、タブーなき論壇ステージの一端を担うことをお約束したいと思います。

「政教分離とはどのような意味なのか? ── 安倍晋三襲撃事件にみる国家と宗教」(2022年8月5日)

「《書評》『紙の爆弾』11月号 圧巻の中村敦夫インタビューと特集記事 「原罪」をデッチ上げ、「先祖解怨」という脅迫的物語を使う統一教会の実態」(2022年10月8日)

「《書評》『紙の爆弾』2023年1月号 旧統一教会特集および危険特集」(2022年12月14日)

国防費がGDPの2%越え、金利政策の変更と物価高で国民生活はいっそう厳しい時代を迎えそうです。またいっぽうで原発の稼働延長が画策されています。来る2023年の厳しい世相を睨みつつ、闊達な批判と批評で読者の期待に応える所存です。よいお年を。

横山茂彦「2022年回顧」
【政治編】戦争と暗殺の時代
【経済・社会編】戦後77年と資本主義の限界

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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とある団地で実際に起きた隣人同士の裁判の背景を、詩的で絵画的に描き切った映画『[窓] MADO』 林 克明

詩的で絵画的な映画だ。12月16日から「池袋HUMAXシネマズ・シアター2」で上映が始まった映画『窓』のことである。とある団地で起きた隣人同士の裁判を背景に、夫婦と娘の三人暮らしの家族が、外部から閉ざされた空間で過ごす日常が描かれている。

映画『[窓]MADO』は12月29日(木)まで池袋HUMAXシネマズ・シアター2で公開中

三人が住む自宅が、まるで閉ざされた牢獄のように感じるのだ。それも、彼ら自ら作った牢獄の中に彼ら自身を押し込めるように。その牢獄内で寄り添って暮らす摩訶不思議な家族の姿が映し出される。

ある団地に住むA家は、年金暮らしのA夫、その妻A子、一人娘のA美の三人暮らである。A夫は、娘が階下から流れてくるタバコの煙害で体調を崩していると思い、第三者を介して団地の集会室で、斜め下に住むB家のB夫とB子夫妻に対し改善を求める。

その後もA美の症状は悪化の一途をたどったため、父親のA夫は、娘の体調やB家とのトラブルを日記につづり始めた。

〇月×日、B夫の車が見えない……、〇月×日△時、B家方面から甘い外国タバコの香り……というように。B家の三人だけに見えている風景や心情が、日記につづられていく。映画はB夫の日記と同時並行で進む。

A夫演じる西村まさ彦の独白音声が流れるのだが、日記の朗読というより詩のように聞こえてくる。それにしても、西村まさ彦は味がある。

その中で、A夫は娘に化学物質過敏症の疑いがあると知り、その原因がB夫のタバコの副流煙だとして、B家に対し4500万円の損害賠償を求める訴訟を起こしたのだ。

この事件は、横浜・副流煙訴訟という実際に行われた裁判をもとにしており、事件そのものは『禁煙ファシズムー横浜副流煙事件の記録』(黒薮哲哉著・鹿砦社刊)に詳しい。

この裁判では、副流煙被害を訴えるA家の夫が実は最近まで四半世紀にわたり喫煙していたことがわかったり、娘の診断書を書いた医師が実は直接診察していなかったことが発覚するなどの問題が明らかになった。

あるいはA夫が書く日記の内容と、実際のB家がからむ事実とは大きく矛盾していることが多々明らかになっている。
 
禁煙イコール善、喫煙イコール悪という風潮は確かにある。もちろん受動喫煙の問題はあるし、化学物質過敏症の難しさもある。

しかし、実際に起きた訴訟は、目的が正しければ強引なことは許される、すなわち禁煙社会を実現するには理不尽なことも許されるという一部の風潮がなければありえなかった。

実は本作を世に出した監督の麻王MAOは、訴えられたB家の長男(親とは別居)である。自分の家族に起きた実際の事件をフィクション化したわけだ。

公開日舞台挨拶(12月16日 池袋HUMAXシネマズ)

この映画を観る前、同じ集合住宅の隣人であるA家とB家をパラレルに映し出すと筆者は勝手に思い込んでいたが、本作のメインは、煙草の煙で化学物質過敏症をわずらい苦しんでいると主張したA家だ。

映画冒頭から団地の「窓」が多数映される。B夫は窓に向かい延々と日記を書く。その窓の外には、多数の窓が見える。

窓は解放するもので、団地の集合住宅は窓の面積が大きく、構造的には解放感があるはずだ。それなのにスクリーンに映し出される窓には、見えない鉄格子が組み込まれているようなイメージが湧いてくるのである。

鉄格子の内側のA家には、何台もの空気清浄機が設置され、煙草の煙を浄化するための観葉植物の鉢だらけになる。

平凡な団地が異様に美しく撮影されており、しずかな音楽と相まって独特な雰囲気を醸し出す。

ただ、できれば実際の裁判の内容を伝える部分をもう少し入れ、絵画のように異様に美しく幻想的な映画との落差を伝えると、より面白味と怖さがましただろうとは思う。


◎《予告編》映画 [窓]MADO 12/16(金)公開 @池袋HUMAXシネマズ

●12月16日(金)~12月29日(木) ※池袋HUMAXシネマズ8F シアター2
池袋HUMAXシネマズ公式ホームページ 
映画[窓]MADO 公式サイト
映画[窓]MADO 公式ツイッター  

▼林 克明(はやし まさあき)
ジャーナリスト。チェチェン戦争のルポ『カフカスの小さな国』で第3回小学館ノンフィクション賞優秀賞、『ジャーナリストの誕生』で第9回週刊金曜日ルポルタージュ大賞受賞。最近は労働問題、国賠訴訟、新党結成の動きなどを取材している。『秘密保護法 社会はどう変わるのか』(共著、集英社新書)、『ブラック大学早稲田』(同時代社)、『トヨタの闇』(共著、ちくま文庫)、写真集『チェチェン 屈せざる人々』(岩波書店)、『不当逮捕─築地警察交通取締りの罠」(同時代社)ほか。林克明twitter

黒薮哲哉『禁煙ファシズム-横浜副流煙事件の記録』
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何故、今さら昭和のプロレスなのか?〈3/3 最終回〉プロレスはカウンターカルチャー(対抗文化)だったのだろうか 板坂 剛

※本稿は『季節』2022年夏号(2022年6月11日発売号)掲載の「何故、今さら昭和のプロレスなのか?」を再編集した全3回連載の最終回です。

昭和という特殊な時代に、大衆的な人気を獲得したスポーツ(と敢えて言っておく)の代表がプロ野球とプロレスであることに異論の余地はないと思われる。

しかし両者には大きな違いがあった。プロ野球には外人選手はチラホラといたが、日本人のチームに助っ人として参加していただけしていただけで、外人選手ばかりのチームがあったわけではない。

プロレスはそこが違った。昭和のプロレスは最初から日本人対外人の構図が売りだった。そこで大衆(観戦者)心理は当然民族主義的になる。

「無敵黄金コンビ敗る 日大講堂の8500人、暴徒と化す」

 
「無敵黄金コンビ敗る 日大講堂の8500人、暴徒と化す」(1962年2月3日付け東スポ)

こんな見出しの記事が出ているスポーツ紙をトークショーの当日に私はターザン山本と観客の前に提示した。昭和37年2月3日に日大講堂で行われたアジアタッグ選手権試合で力道山・豊登組がリッキーワルドー・ルターレンジの黒人2人組に敗れ、タイトルを失った「事件」の記録だった。

「決勝ラウンドは『リキドーなにしてる、やっちまえ』という叫び声の中で豊登がレンジの後ろ脳天逆落としで叩きつけられフォール負け。無敵の力道山・豊登組が敗れた。一瞬……茫然となった8500人の大観衆は、意気ようようと引き揚げるワルドー、レンジに”暴徒”となって襲いかかった。『リキとトヨの仇討ちだ』『やっちまえ』『黒を生かしてかえすな』とミカン、紙コップを投げつけ、イスをぶつける。怒り狂ったレンジとワルドーが観客席へなだれこみ、あとは阿鼻叫喚……イスがメチャメチャに飛び交い、新聞紙に火がつけられてあっちこっちで燃え上がる。『お客さんっ、お願いしますっ、必ずベルトはとりかえします。お静まりくださいっ』力道山がリング上からマイクで絶叫する」

記事の文面から察するとかなりの反米感情が当時の大衆にはあったように思われるが、そう簡単に割り切れる状況ではなかった。

昭和37年と言えば、マリリンモンローが死んだ年であり、後に『マリリンモンロー、ノーリターン』と歌った作家がいたように、大半の大人たち(男性)はアメリカの美のシンボルの死に打ちのめされていた。われわれ当時の男子中学生がその死を超えることが出来たのは、既に吉永小百合が存在していたからである。

一方、女子中学生たちはやはり同年公開された『ブルーハワイ』のテーマ曲を歌うエルヴィスの甘い美声に酔いしれていた。アイゼンハワー米大統領(当時)の来日を阻止した全学連の闘いが、全人民の共感を呼んだのは2年前のことだったが、所謂60年安保闘争の標的は岸信介であってアメリカ政府ではなかった。二律背反という言葉が脳裏をよぎる。

当時の日本の大衆心理を簡単に定義すれば、政治的には反米、文化的には親米ということになるだろうか。もちろん双方にマイナーな反対派はいた。

昭和のプロレスは力道山時代に限って言えば、アメリカの下層大衆の娯楽であるプロレスを日本に持ち込んだので、文化の領域に属するわけだが、第2次世界大戦の軍事的敗北を根に持っている大衆が昭和30年代まではまだまだ多かったのだろう。軍事は政治の延長という説に基けば、その種の怨恨も政治意識とは言えないこともない。故に文化的であって政治的な変態性ジャンルとしてのプロレスが成立し成功したのだろう。

プロレスとは正反対の健全な娯楽性を維持していたプロ野球の世界でも、シーズンオフに米大リーグからチームを招いて日本選手の代表チームとの「日米親善」と銘打った試合が行われたことはある。プロレスの場合、日米対決は定番だったが、しかし「日米親善」という雰囲気が会場を包んだことはなかった。

前述した暴動が起こったアジア・タッグ選手権試合の現場写真を見ると、まるで数年後にブレイクした学生運動の乱闘場面かと思わせる迫力が感じられる。(場所が日大講堂だっただけに……)

その写真はプロレスが秩序を否定する文化、即ちカウンターカルチャー(反抗的文化)であることをはっきり示していると思われる。

それにしても、力道山・豊登組を破ったリッキーワルドー・ルターレンジの2人が黒人だったからと言って……「黒を生かして生かしてかえすな」はないだろう。

カウンターカルチャーにだって品格というものがあるんじゃないかね。刺される直前に「ニグロ、ゴーホーム」と叫んだ力道山と同様に、こういう発言を口にする者には相応の裁判が待っていると考えるべきなのかもしれない。

◆ミスター・アトミック(原子力)はプロレス界の悪役だった!
 

 
ミスター・アトミック(原子力)

プロ野球とプロレスの大きな違いに悪役の存在がある。と言うか悪役が存在するプロスポーツなんてプロレス以外にはないことは明らかなのだが、実は『昭和のプロレス大放談』の最中に、私はある1人の悪役レスラーのことを思い出していた。

その名をミスター”アトミック”という。私の知る限り、来日した最古の覆面レスラーである。まだ原発など大衆の視野にはなかった時代だから、最初から力道山の好敵手として悪役を演じた彼が日本では”アトミック”と名乗ったのは、やはり日本人にとって忌まわしい思い出となっている原爆をイメージさせようとしたからだろう。

昭和のプロレスは他のプロスポーツよりはるかに多量のエネルギーを、同時代人に与えてくれた。そのエネルギーは悪役の存在があったからこそ放出された。

今思えば悪役の1人だったミスター”アトミック”は、原子力が悪のエネルギーであることを正直に表明していたとも言える。今さら「原子力はクリーンなエネルギーである」と開き直る奴らに、彼の試合のビデオがあったら見せてやりたいものである。

ミスター”アトミック(原子力)”は決して、一度たりともクリーンなファイトをしなかった。(完)

◎今年10月1日に亡くなったアントニオ猪木氏を偲び、本日12月23日(金)午後5時30分(午後5時開場)より新宿伊勢丹会館6F(地中海料理&ワインShowレストラン「ガルロチ」)にて「昭和のプロレス大放談 PART2 アントニオ猪木がいた時代」が緊急開催されます。板坂剛さんと『週刊プロレス』元編集長のターザン山本さん、そして『ガキ帝国』『パッチギ!』などで有名な井筒和幸監督による鼎談です。詳細お問い合わせは、電話03-6274-8750(ガルロチ)まで

会場に展示された資料の前に立つ筆者

▼板坂 剛(いたさか・ごう)
作家/舞踊家。1948年、福岡県生まれ、山口県育ち。日本大学芸術学部在学中に全共闘運動に参画。現在はフラメンコ舞踊家、作家、三島由紀夫研究家。鹿砦社より『三島由紀夫と一九七〇年』(2010年、鈴木邦男との共著)、『三島由紀夫と全共闘の時代』(2013年)、『三島由紀夫は、なぜ昭和天皇を殺さなかったのか』(2017年)、『思い出そう! 一九六八年を!! 山本義隆と秋田明大の今と昔……』(紙の爆弾2018年12月号増刊)等多数

〈原発なき社会〉を求めて集う 不屈の〈脱原発〉季刊誌 『季節』2022年冬号(NO NUKES voice改題 通巻34号)
タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2023年1月号

何故、今さら昭和のプロレスなのか?〈2/3〉力道山は何を言いたかったのか  板坂 剛

※本稿は『季節』2022年夏号(2022年6月11日発売号)掲載の「何故、今さら昭和のプロレスなのか?」を再編集した全3回連載の第2回です。

昭和のプロレスについて語る時、どうしても創始者である力道山の存在について解明しなければならないと思う。多くのカリスマ的ヒーローがそうであったように、この人にもまた出生から死に至るまで「謎」という字がつきまとっていた。

関脇になった時点で将来は横綱にまでなれる実力があると評価されながら、突然自宅の台所で包丁を手にして髷を切り、相撲界と決別した。たった独りの断髪式に込められた彼の思いとはどのようなものであったのか?

「相撲協会の幹部が『朝鮮人を横綱にはしない』と発言したことに怒った力道山が、発作的に髷を切った」

……と、そんな噂話を複数の人たちから聞いたのは力道山の死の直後、私はまだ中学生だったが、二重のショックを受けたのははっきり記憶している。

 
日本選手権、対木村戦勝利後の力道山(1954年12月1日付け『週刊20世紀』より)

その頃まで多くの日本人は力道山が在日朝鮮人であることを知らなかった。もっとも力道山の出生当時は朝鮮半島は日本の領土だったから、彼の出身地が北朝鮮であったとしても日本を代表して先勝国アメリカの選手を叩きのめし、敗戦国民の屈辱を解消するパフォーマンスを演じる必然性がなかったわけではないが、当時の南北朝鮮と日本の国民感情は、そんなに甘いものではなかった。とりわけ在日朝鮮人に対する日本人の差別意識は酷いもので、またその反作用としての差別された側の憎悪に近い感情にも凄まじいものがあった。

しかしもし力道山が相撲協会幹部の差別発言を気にもとめずに力士生活を続けていたら、私は彼が必ず栃若時代の前に一世を風靡する名横綱になり、引退後も親方として相当な地位におさまっていたと思う。つまりプロレスをアメリカから持ち込むような難事業に手を出すようなことにはならなかったはずである。

またもしプロレスに転向後、力士時代の四股(しこ)名に過ぎない力道山という呼称を棄て、敢えてカムアウトして本名でリングに立ったとしたら、当時の日本の大衆は彼を救国のヒーローの如くもてはやしはしなかっただろう。

言い換えれば日本に於けるプロレスは差別から始まったということであり、差別がなければ力道山という稀代の英雄は存在しなかったと断言できるのである。だからと言って、差別が必要だったとは言えないが、自分をあからさまに差別した相撲協会の幹部や、力道山という虚名を用いなければ時代を象徴する逸材として自分を認知することはなかったと思われる偏った日本の社会に対して、言いたかったことがあったに違いない。

晩年(と言っても30代だが)の力道山は酒に溺れアル中状態でしかも酒乱であった。アル中になった人間を何人か知っているが、皆本音を口にすることが出来ず、過剰なストレスをアルコールで紛らわせているように見えた。酒乱の人間は特に粗暴な感情をむき出しにして周囲に迷惑をかけることがあったのだが、多くの場合過去に自分が受けたダメージを他人に転嫁するようだった。

酒は被害者意識を加害者意識に変えられるものなのか。暴漢に腹部を刺された赤坂のニューラテンクォーターでも、ステージ上の黒人のジャズメンに対して、「ニグロ、ゴーホーム」と叫んでいたという。力道山ほどの人物になれば、不品行をたしなめるのもナイフで刺すしかなかったのかもしれない。

それにしても刺された原因が「ニグロ、ゴーホーム」という差別発言だったとすれば、逆に力道山の心に差別に対する憤懣がくすぶり続けていた結果が証明されていたという言い方も出来る。若い頃に差別に苦しんだ人間が成功者になった時、人を差別することで自分の優位性を確かめ、プラスマイナス=ゼロにして精神の均衡を保った例は幾らでもある。

ついでだから書いておくが、「在日朝鮮人」という言い方に、私はかねてから疑問を持っている。「在日」という言葉には今たまたま一時的に滞在しているだけで、本来在住すべきでない人々という嫌らしいニュアンスが感じられる。

日本には現在世界各国の人々が混在してはいるが「在日アメリカ人」「在日イギリス人」「在日フランス人」「在日ドイツ人」等とは言わない。欧米に限らずアジア人に対しても「在日ベトナム人」「在日マレーシア人」「在日ミャンマー人」「在日ネパール人」とは言わない。中国人に対してさえ「在日中国人」とは言わないのに、隣国であるにもかかわらず、「在日韓国人」とも言わずに「在日朝鮮人」……しかもただ「在日」と言っただけで特定の国の人々を揶揄する響きを持つ表現が残っている限り、日本は「かの国」から謝罪を要求され続けることになるのだろう。(つづく)

『昭和のプロレス大放談』で激論するターザン山本さん(左)と筆者(2022年4月4日 於新宿ガルロチ)主催:ファミリーアーツ 製作協力:小西昌幸

◎今年10月1日に亡くなったアントニオ猪木氏を偲び、12月23日(金)午後5時30分(午後5時開場)より新宿伊勢丹会館6F(地中海料理&ワインShowレストラン「ガルロチ」)にて「昭和のプロレス大放談 PART2 アントニオ猪木がいた時代」が緊急開催されます。板坂剛さんと『週刊プロレス』元編集長のターザン山本さん、そして『ガキ帝国』『パッチギ!』などで有名な井筒和幸監督による鼎談です。詳細お問い合わせは、電話03-6274-8750(ガルロチ)まで

会場に展示された資料の前に立つ筆者

▼板坂 剛(いたさか・ごう)
作家/舞踊家。1948年、福岡県生まれ、山口県育ち。日本大学芸術学部在学中に全共闘運動に参画。現在はフラメンコ舞踊家、作家、三島由紀夫研究家。鹿砦社より『三島由紀夫と一九七〇年』(2010年、鈴木邦男との共著)、『三島由紀夫と全共闘の時代』(2013年)、『三島由紀夫は、なぜ昭和天皇を殺さなかったのか』(2017年)、『思い出そう! 一九六八年を!! 山本義隆と秋田明大の今と昔……』(紙の爆弾2018年12月号増刊)等多数

〈原発なき社会〉を求めて集う 不屈の〈脱原発〉季刊誌 『季節』2022年冬号(NO NUKES voice改題 通巻34号)
タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2023年1月号

何故、今さら昭和のプロレスなのか?〈1/3〉プロレスに象徴される昭和の意味 板坂 剛

※本稿は『季節』2022年夏号(2022年6月11日発売号)掲載の「何故、今さら昭和のプロレスなのか?」を再編集した全3回連載の第1回です。

4月4日という少々不吉な感じのする日の夜に、新宿の『ガルロチ』というライブハウス風のレストランで『昭和のプロレス大放談』というマニアックなイベントが行われた。

アントニオ猪木の死期が近いという噂が広まった頃から、猪木に関する評伝を中心にした昭和のプロレスを検証する出版物が数多く出回った現象をふまえて企画されたイベントだった。

『昭和のプロレス大放談』で激論するターザン山本さん(左)と筆者(2022年4月4日 於新宿ガルロチ)主催:ファミリーアーツ 製作協力:小西昌幸

ここで元『週刊プロレス』編集長のターザン山本と私の対談トークショーが行われてしまったのである。両者とも昭和のプロレスにはまって人生を狂わせたはぐれ者で、最初は熱烈な猪木信者であったがある時点で猪木から離反することになったところに共通点がある。私については鹿砦社刊『アントニオ猪木 最後の真実』を参照していただくとして、ターザン山本の蹉跌に関しては、今も当時もあまり語られることがなかったのでひと言書き添えておきたい。

この人は週刊誌の編集長という立場を逸脱して当時幾つもあった団体の選手たちを無差別に寄せ集め『4.2ドーム夢の懸け橋』なんていうとんでもない企画を実現。それが元で、週刊誌の編集長の分際でプロモーターぶりやがってとバッシングを受け、新日本プロレスからも取材拒否されたあげくに編集長を解任されてしまった。

1999年8月に鹿砦社から発行された『たかがプロレス的人間、されどプロレス的人生』という奇書の中で、当時の様相についてターザン山本は次のように述懐している。

「あの取材拒否は、わかりやすい例えをすると、アメリカという世界の大国がNATO軍を使って『週刊プロレス』に空爆したようなものですよ。空爆を仕掛けて、自分のところだけやると説得力がないので、UインターとWARと、さらに夢ファクトリーの3つを抱えて、新日本プロレス連合軍……NATOみたいなものが『週刊プロレス』をつぶしにかかってきたわけです。要するに大国のエゴイズミというか」

今のウクライナの状況等に重ね合わせてみると、ギョッとするような発言ではある。

ターザン山本さん

また、鹿砦者の松岡社長とのやり取りの中で興味深い(私好みの)発言もしている。

山本 だから、ジャーナリズムの理念と精神というものを抹殺しようとしているんだよね。プロレス界はずっと。

松岡 プロレス界だけじゃないんでしょうけれどもね。

山本 一言で言うと、日本にジャーナリズムってないから。あるわけないですよ。だれも真実を教えていないんだから、政治、経済、文化……。日本にジャーナリズムがあるって考えてるやつは本当に……

松岡 能天気

昭和のプロレスの現場で苦渋を味わった人間の言葉が、今ひしひしとわれわれの胸に響いてくるのは、あの時代にプロレスのリングの内外で展開されていた「揉め事」が戦後日本の偽善的な市民秩序に対する不協和音を奏でていたからだろう。

「われわれ『昭和のプロレス』にかぶれた人間は、今、世界で起っている様々な紛争もプロレスをやってるようにしか見えないんだよね」

トークショーでつい口を滑らせて不謹慎とも思えるそんな発言をしてしまった私に対して、ターザン山本が同調してくれたのも、異端者同士に通い合う血の感触が認識されたからだろう。

彼は言った。

「プロレスを見ていると、世の中の争いごとの裏まで見えるようになるんですよ」

そうなのだ。われわれが昭和のプロレスに学んだのは、人間(特に男性)は「揉め事・争い事」つまり諍いが好きな動物であるという真理である。だからアメリカの大統領選挙を見ても、ウクライナの紛争を見ても「プロレスやってるだけじゃん」と感じてしまう。

彼等は平和が嫌いなのである。わざわざ揉める理由を探し出し(あるいは創り出し)、争いに没頭することで興奮状態になり、緊張感に酔っているようにしか見えない。社会の平和と安定のために設定された様々なルール(法律・倫理・道徳その他)を無視する快感、人を殺す自由、略奪する自由、破壊する自由。

ターザン山本はいみじくも言い切った。

「プロレスの常識=世界の非常識」

昭和40年代にはトレンディーだった言い回わしである。そして今、世界は非常識に充ちている。つまり昭和のプロレスは、政治家がプロレスをやっているようにしか見えない今世紀を先通りしていたとも言えるのだ。(つづく)

◎今年10月1日に亡くなったアントニオ猪木氏を偲び、12月23日(金)午後5時30分(午後5時開場)より新宿伊勢丹会館6F(地中海料理&ワインShowレストラン「ガルロチ」)にて「昭和のプロレス大放談 PART2 アントニオ猪木がいた時代」が緊急開催されます。板坂剛さんと『週刊プロレス』元編集長のターザン山本さん、そして『ガキ帝国』『パッチギ!』などで有名な井筒和幸監督による鼎談です。詳細お問い合わせは、電話03-6274-8750(ガルロチ)まで

会場に展示された資料の前に立つ筆者

▼板坂 剛(いたさか・ごう)
作家/舞踊家。1948年、福岡県生まれ、山口県育ち。日本大学芸術学部在学中に全共闘運動に参画。現在はフラメンコ舞踊家、作家、三島由紀夫研究家。鹿砦社より『三島由紀夫と一九七〇年』(2010年、鈴木邦男との共著)、『三島由紀夫と全共闘の時代』(2013年)、『三島由紀夫は、なぜ昭和天皇を殺さなかったのか』(2017年)、『思い出そう! 一九六八年を!! 山本義隆と秋田明大の今と昔……』(紙の爆弾2018年12月号増刊)等多数

〈原発なき社会〉を求めて集う 不屈の〈脱原発〉季刊誌 『季節』2022年冬号(NO NUKES voice改題 通巻34号)
タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2023年1月号

知覚できない新世代公害の顔、『[窓]MADO』が16日から池袋HUMAXシネマズで上映 黒薮哲哉

たとえば隣席の同僚が使っている香水が神経に障って、使用を控えるように要望する。同僚は、取り合ってくれない。けんもほろろに撥ねつけた。総務部へも相談したが、「あの程度の臭いであれば許容範囲」と冷笑する。

次に化学物質過敏症の外来のあるクリニックを訪れ、すがるような気持ちで診断書を交付してもらい、それを持って再び総務部へ足を運ぶ。やはり拒絶される。そこでやむなく隣席の同僚に対して高額な損害賠償裁判を起こす。

化学物質過敏症を訴える家族が団らんする場面

夜が深まると壁を隔てた向こう側から、リズムに乗った地響きのような音が響いてくるので、隣人に苦情を言うと「わが家ではない」と言われた。そこでマンションの管理組合に相談すると、マンションに隣接する駐車場の車が音の発生源であることが分かった。「犯人」の特定を間違ったことを隣人に詫びる。

新世代公害の正体は見えにくい。それが人間関係に亀裂を生じさせることもある。コミュニティーが冷戦状態のようになり、住民相互に不和を生じさせるリスクが生じる。

◆実在の事件をドラマに、ロケは事件現場

 
左から主題歌「窓」の作曲者:Ma*To、主題歌を歌う小川美潮、音楽を担当した板倉文の各氏。Ma*To氏は横浜副流煙裁判の被告として法廷に立たされた。

デジタル鹿砦社通信でも取り上げてきた横浜副流煙裁判をドラマ化した『[窓]MADO』(監督・麻王)の上映が、池袋HUMAXシネマズ(東京・池袋)で12月16日から29日の予定で始まる。

煙草による被害を執拗に訴える老人を西村まさ彦が演じる。また、煙草の煙で化学物質過敏症になったとして隣人から訴えられ、4500万円を請求されるミュージシャンを慈五郎さんが演じる。慈五郎さんは、上映に際して次のようなメッセージを寄せている。

「煙草がメインテーマになってくる話なのですが、今、煙草自体を吸うシーンが、あまり見られなくなっています。コンプライアンスの問題だと思いますが。その意味で、こんなに真っ向から煙草をテーマにした映画っていうのは、勇気もいるだろうし、共感できる部分も色々あります」

この映画は実際に起きた事件をベースにしたドラマである。ロケも事件現場となった横浜市青葉区のすすき野団地で行われた。その意味では、事件をドラマで再現したと言っても過言ではない。

しかし、法廷に立たされた被害者であるミュージシャンを擁護した映画ではない。ミュージシャンを訴えた家族の立場からも事件を考察して、新世代公害の複雑な側面を描いている。その意味では客観性が強い作品である。

◆新世代公害という未知の領域

かつて公害といえば、赤茶けた工場排水が海へ放出されている光景とか、工場の煙突から黒々としたスモッグが立ち昇る場面など、具体的なイメージがあった。従ってカメラは問題の所在を特定することができた。それゆえに映像化も容易だった。

ところが新世代公害は正体が見えにくい。それゆえにマスコミの視点もなかなかそこへは向かない。が、水面下では公害の世代交代が急速に進んでいて、新しい形の被害を広げている。コミュニティーの破壊をも起こしている。

米国のCAS(ケミカル・アブストラクト・サービス)が登録する新生の化学物質の件数は、1日で1万件を超えると言われている。複合汚染を引き起こす。

新世代公害の実態は大学の研究室の中ではある程度まで解明されていても、どのように人間関係やコミュニティーを分断していくのかという点に関しては考察されてこなかった。映像ジャーナリズムも、この点を凝視することを怠ってきたのである。背景に利権があるからだ。

『[窓]MADO』は、この未知の領域に正面から挑戦した作品である。


◎《予告編》映画 [窓]MADO 12/16(金)公開 @池袋HUMAXシネマズ

■『[窓]MADO』の公式サイト https://mado-movie.jp/

▼黒薮哲哉(くろやぶ・てつや)
ジャーナリスト。著書に、『「押し紙」という新聞のタブー』(宝島新書)、『ルポ 最後の公害、電磁波に苦しむ人々 携帯基地局の放射線』(花伝社)、『名医の追放-滋賀医科大病院事件の記録』(緑風出版)、『禁煙ファシズム』(鹿砦社)他。
◎メディア黒書:http://www.kokusyo.jp/
◎twitter https://twitter.com/kuroyabu

黒薮哲哉『禁煙ファシズム-横浜副流煙事件の記録』
タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2023年1月号

ロックと革命 in 京都 1964-1970〈02〉「しあんくれ~る」 ── ニーナ・シモンの取り持つ奇妙な出会い 若林盛亮

◆「ロックと革命」舞台はin京都に

ビートルズ「抱きしめたい」脳天直撃から「ならあっちに行ってやる」! そして「特別な同志」OKとの出会いによって、17歳の革命は音楽&恋からその一歩を踏み出した。

「いいんじゃない、若林君はぜんぜん悪くないよ」とOKは言ってくれたけれど、それが17歳の「無謀な決心」であるという事実にはまったく変わりなく、Bob Dylanの“Like A-Rolling Stone”、転がる石ころのごとく、どこに転がっていくのか当てのない船出だった。でも「転石、苔を蒸さず」、転がることによって私の革命は苔蒸さず(錆び付かず)、A-Rolling Stone 途上の逸脱、曲折はあったけれど幸運な出会いが私を前へ前へと進めてくれた。

1965年の春、18歳になったばかりの私は進学校、受験勉強からドロップアウトの「成果」として大阪市大は不合格、同志社の「大学生」となった。結果的には「京都という文化」の地で音楽や人、学生運動と多くの幸運な出会いを経験できた。


◎[参考動画]Bob Dylan – Like a Rolling Stone (Live in Newcastle; May 21, 1966)

◆京都御所の啓示「二十歳 ── それが人生で最も美しい季節だとは誰にも言わせまい」

若林君は大学生になったけれどOKはまだ高校生、だから故郷、草津での個室&路上トークと私書箱文通、ときには長電話の十代トークはそのまま続いた。

この頃だと思うが、OKと神戸国際会館に「愛なき世界」ヒットのPeter & Gordon ライブ公演を観に行った。閉幕後、本場のLiverpoolサウンド二人組を見たくて楽屋付近をうろついていたら同じような女の子達に「あんたのヴォーカルもよかったよ」と言われた。

「はあ~っ??」の私に「堺正章に間違われたんだよ」とOKがにんまり笑った。「なんで僕がマチャアキなんや!?」と憮然の私、でも彼女は女の子達の「評価」にまんざらでもなさそう。それはスパイダースが前座を務めていた時代のお話。


◎[参考動画]Peter and Gordon – A World Without Love (HD) 1964

秋頃には私の髪は女の子のおかっぱ頭越えでさらに成長、“You Really Got Me”大ヒットKinksのリードギターがカッコよくて彼の長髪を真似て真ん中分けにしてみた。

ある日、OKが知り合いのいる美容室に私を連れて行った。当時は男子禁制の場、営業時間終了の店で美容師とOKはああでもないこうでもないと私の頭をいじくり私の真ん中分けはきれいに整髪された。

この美容室にはその後も連れて行かれたと記憶する。OKにとっては私の長髪の成長が「若林君の成長」になっていたのだろう。私とOKは「長髪運命共同体」、どうってないことかもしれないが「長い髪の二人組」にはとても大事なこと、「女の子の授業はあっちだ-ならあっちに行ってやる」は後戻り不可能の地点に。男子の長髪が希少品種であった時代のエピソード。

一年後の1966年、OKも晴れて大学生、同志社近くの私大に入学、二人は「いつも一緒」の時間を持つようになった。

講義の時間帯が合えば通学路も一緒、「若林君います~」とOKが私を誘いに来て「M子ちゃん来はったでえ」と母が私を呼んだ。高校生の頃は「受験勉強中なのに……」と渋顔だった母もこの頃になるとOKの聡明さを認め協力的になっていた。後日談になるが、私がよど号ハイジャック渡朝後、OKが数年に渡って私の母を慰めに訪ねてくれた、そう母は手紙に書いてきた。OKは永遠の恩人、感謝している。


◎[参考動画]The Kinks – You Really Got Me 1964

二人のトークの場は京都に移った。そこは「町の大人の視線」もない自由天地。

烏丸通りに面した同志社通用門がOKとの待ち合わせ場所、今出川通り角の学生相手の広い喫茶店のコーヒー一杯で長時間粘ったあと京都御所の緑陰で憩いのひととき、時折り馴染みのレコード店をのぞいたり夕闇迫る町屋の並ぶ古都の裏通りを散策したり……。しゃれたい気分のときは、『二十歳の原点』の高野悦子さんも通った四条河原町角の小粋な喫茶店フランセにもよく行った。OKは紅茶とホットケーキ、ケーキを半分に切って分けてくれた微笑ましい思い出のお店だ。

京都で実現した「いつも一緒」の時間はとてもすてきで「恋する二人」には申し分のない穏やかな時間が流れていったと言えるだろう。ビートルズはティーンズの英雄から「アーティスト」になっていた。

しかしながら京都でのOKとの「いつも一緒」の日々、それは主観はともかく客観的には単なる「男女交際」、私はただの親のスネかじり、適当に授業に出るずぼら大学生、女の子とデートにうつつを抜かす遊び人、そう言われても反論のしようのない生活でもあった。余談だが、20年ほど前に毎日新聞が私の同窓らを取材、記事には「若ちゃんはぼんぼん」「遊びの話ばっかりしてた」「美容院に行ってたくらいの軟派中の軟派」の記述、それが当時のまわりの正しい評価。

「ならあっちに行ってやる」! 私の革命は当てもなく漂流中、ドロップアウト! 新しい世界に跳む! それはまだ17歳の革命、観念の世界に留まったまま。

そしてまた一年が過ぎ私が二十歳になった1967年の春、いつものようにOKと御所の桜を私はぼんやり見上げていた。そのとき突然、私を襲ったどうしようもない無力感── 華やかこの上ない春爛漫、咲き誇る満開の桜、それに比べて自分はなんてみすぼらしく卑小なことか…… 何やってるんや、僕は! このときの表現しようのない自己嫌悪感はいまも身体に刻まれている。

“そのとき僕は二十歳だった。それが人生でいちばん美しい季節だとは誰にも言わせまい”-まさに「アデン・アラビア」ポール・ニザンの言葉そのままの二十歳の春だった。

OKとの「いつも一緒」に安住したままどこにも動けずにいる私、「ならあっちに行ってやる」の若林君はいったいどこに行ったのだ!

◆しあんくれ~る/Champ Claire ── 心に響いたニーナ・シモン

「いつも一緒」のままでは私もOKも次の一歩が踏み出せないだろう、少なくとも私にはそんな力はない、それぞれが次の一歩を見つけるべきときが来たのだ。当時、そう明確に意識したわけではないが「無力感」「自己嫌悪感」という形で意識されたのはそんなことだと思う。

こうして京都でのOKと「いつも一緒」の時間は後味の悪さを残しながらなんとはなしに終わった。断ち切りがたい想いはありながらも消化不良を起こした青春の未熟、それ以外に言いようがないけれど彼女もそれは感じていたことだと思う。互いに成長のための革命、別行動が必要だったのだ。

 
しあんくれ~るのマッチ

以降の私は空虚な心と孤独を抱えたまま、とにかく次に踏み出す新しい一歩を求めた。

そんなある日、立命大広小路校舎近くの河原町通りを歩いていた私の目に止まった小粋な立て看板、そこには「しあんくれ~る/Champ Clair ジャズ喫茶」とあった。

なんとなく心惹かれて狭い階段を上がった。ドアを開けた中はまさにジャズの洪水、昼間の世界と隔絶した空間だった。明るいお天道様の下を歩くのが億劫になっていた私には絶好の「思案(しあん)に暮れる(くれ~る)」場、以来、私の空虚を埋める居場所になった。後にあの高野悦子さんも通ったとして有名になったあの店だ。

当時はサックスのジョン・コルトレーンが人気で、またA.アイラーなどの前衛ジャズ台頭の時期、「ジャズの洪水」は心地よかったが、ロックに親しむ私には音楽的にはしっくりこなかった。そんななかで「おやっ」と思う歌声が私の心に響いてきた。

 
Nina Simone at the Village Gate(1962)

歌っているのはニーナ・シモンという黒人女性ヴォーカリスト、中でも心に響いたのは“Zungo”、まるでアフリカ大陸から響き渡る祈りのような歌! “Zungo”という単調な歌詞がただ繰り返される短い歌、けれどなぜかじ~んと胸に響いた。以来、私はニーナ・シモンのこのアルバム“Nina at the Village Gate”をリクエスト、「しあんくれ~る」ではいつも彼女の歌を聴いた。

最近になってニーナ・シモンのことを知った。

幼い頃からピアノの才能を認められていたニーナ・シモンはクラシック音楽のトレーニングで有名なジュリアード音楽院に通いカーティス音大への進学を夢見た。しかしそれは叶わなかった、理由は「黒人だから」! 彼女はジャズの道を歩みキング牧師の黒人公民権運動にも参加、でもその非暴力主義運動に飽きたらず過激な主張もするようになった、そして初めての黒人政権ができた中米のバルバドスに移住、ベトナム戦争に反対して税の不払い運動をやって米政府から逮捕状まで出されたという。

そんな不屈の意志の人だったから私の心を鷲掴みにしたあの力強い祈りの歌を歌えたのだろう。


◎[参考動画]Nina Simone – Zungo

◆ニーナ・シモンの取り持つ奇妙な縁 ── 作家志望の詩人

そんなニーナ・シモンの歌声に聞き惚れていたある日、私に話しかけてきた人があった、「いつもこの曲、リクエストされてますよね」と。「これ、あなたも好き?」と聞くと「ジャズはよくわからないけどいまかかってるこの曲はとてもいい」との答えが返ってきた。

その曲はなんと“Zungo”! 意気に感じた私はこの人と「ニーナ・シモンっていいよねえ」談義を交わした。いつしかニーナ・シモンのリクエスト盤が終わって次のジャズ曲に移った。なんとなく話がとぎれてしまいそうで私は「出ましょか?」と彼女を誘った、久々に心を割って音楽談義のできた私は話を続けたかったのだと思う。

白状すればその時の私は新宿から来たヒッピーに以前、教わったドラッグ、睡眠薬のハイミナールをやっていて精神ハイ状態、だから初対面の女性を誘うような挙に出たのかも知れない。

外に出て見るとその人はいかにも真面目な女子大生風、リボンでくくったひっつめ髪に白ブラウス、紺系のタイトスカートに低いヒールのパンプス姿、ヒッピー風の私とはまるで異質のタイプだった。

私たちは荒神口から四条河原町まで歩き、私の馴染みの喫茶店フランセで話を続けた。

彼女は立命文学部の学生、自称「作家志望の詩人」だった。

人生経験未熟のいまは小説はまだ書けない、現在は言葉を磨くために詩作を続けているのだと彼女は言った。作家をめざしてこの大学に来たけれど文学のクラスは大手出版社やマスコミ就職希望の学生ばっか、文学への野心のかけらもない、そんな大学の雰囲気に不満で「しあんくれ~る」で時間を過ごすようになったのだそうだ。空虚を抱えているのは私と同じだった。

店でよく見かける私に対してヒッピーでもなさそうな学生風がなぜ長髪人間なのか? 日頃から気になっていたとか、それは一種の文学的興味なのかもとも。隣り合わせになった機会に思い切って話しかけてみた、ヴォーカル好きの自分とも音楽的にも話ができそうと思ったから等々をうち明けた。

私は明確な志を持つこの人物に強い関心を持った。だから彼女の「文学的興味」に応えて「長髪ひとつで世界は変わる」、「ならあっちに行ってやる」以来の長髪人間の遍歴を語り「特別な同志」OKとのことも包み隠さず話した。この話は彼女の興味を惹いたようで「“あっちに行ってやる”かあ、私も跳んでみたいな」とぽつりもらした。「エエと思うけど思ったより簡単じゃないよ」とまだ次の行動に出れない自分に腐っていることも率直に私は告白した。

すると「簡単じゃないからいいんじゃないですか?」、さらりと返してきた彼女! 「ほお~っ」! 私は正直、唸らされた、この一言に惚れた。

大いに乗り気になった彼女は「お酒でも飲みながら続けません?」と出てきた。ハイミナールで精神ハイな私はこのうえお酒はヤバイと思ったけれど乗り気は私も同じで「ええでしょう」と受けた。サンドイッチ一人分を夕食代わりにして二人はフランセを出た。

木屋町のスナック風バーでは彼女はめっぽうお酒に強くタバコもふかして外見ではわからない一面を見せた。私はウィスキーコーク一杯をちびりちびりなめるだけ。

酒が入ると饒舌になった彼女は文学論を展開。明治の近代黎明期に彗星のごとく現れた「元始、女は太陽であった」の平塚らいてうや樋口一葉が憧れの作家、与謝野晶子はあまり好きじゃない、いま倉橋由美子だとかがいるけど自分は現代の新しい女性や若者を描く新しい作家になる、だから貴男にも興味があるの……等々、野心満々の話は尽きることがなかった。「僕は文学は門外漢、でも貴女の話はとても面白い」、私は話に引き込まれた。大人しい女子大生風の見かけによらず意志の強い女性だった。

一方的な文学論を夜遅くまで続けるうちに深酒してろれつも怪しく足取りも覚束なくなった彼女、それもまた「詩人」の微笑ましい一面。結局、私がタクシーで送り届ける羽目に。民家の下宿生だと思いきや着いたところは当時まだ珍しい広い6畳間ほどの学生アパート、富裕家庭の子女なんだと了解した。

その日は彼女になんか勇気をもらったようで久しぶりに心は晴々、終電車もなくなり泊めてもらう友人の下宿へと長い夜道を快い余韻に酔いながら歩いた。

これがニーナ・シモンの取り持つ奇妙な縁、新たな出会いの始まり。たった一日で多くのことを語り合った不思議なこの日のことはいまも記憶に鮮やか。

「作家志望の詩人」と私の次の一歩、「跳んでみたいな」行動を共にするようになるのは後日のこと。(つづく)

若林盛亮さん

▼若林盛亮(わかばやし・もりあき)さん
1947年2月滋賀県生れ、長髪問題契機に進学校ドロップアウト、同志社大入学後「裸のラリーズ」結成を経て東大安田講堂で逮捕、1970年によど号赤軍として渡朝、現在「かりの会」「アジアの内の日本の会」成員

『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』(紙の爆弾 2021年12月号増刊)
『一九七〇年 端境期の時代』
『紙の爆弾』と『季節』──今こそタブーなき鹿砦社の雑誌を定期購読で!

《書評》『戦争は女の顔をしていない』から考える〈1〉 村上春樹のエルサレム賞受賞スピーチと戦場に向かう女性たちの心境から 小林蓮実

ロシアのウクライナ侵攻が続いており、これまでにさまざまな意見がみられた。わたしは確実に明言できる答えにたどり着けないまま、こんにちにいたっている。ただし、1冊の聞き書きには、戦場の真実が赤裸々に記されていた。

今回も前回に引き続き、書物や言葉から現在を考えるということを試みたい。取り上げるのは、話題にもなったスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの『戦争は女の顔をしていない』(三浦みどり訳/岩波現代文庫2016年)だ。

◆システムが我々を殺し、我々に人を殺させる

 
スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』(三浦みどり訳/岩波現代文庫2016年)

「『小さき人々』の声が伝える『英雄なき』戦争の悲惨な実態」。そう帯に書かれている。第二次世界大戦時、ソビエト連邦で従軍した女性は100万人超。本書はそのうち、ウクライナ生まれのスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチが500人以上の女性に聞き取りをおこなったうえで、その声をまとめたものだ。

彼女は、「戦争のでも国のでも、英雄たちのものでもない『物語』、ありふれた生活から巨大な出来事、大きな物語に投げ込まれてしまった、小さき人々の物語だ」と記す。前回、わたしは「権力や変えられぬ問題に対し、ある種の暴力が有効であることは、この間も証明されている」と書いた。

ここでまず近年、新作を追って読むことは個人的にはないが、村上春樹のエルサレム賞受賞時のスピーチで発せられたメッセージに触れておきたい。

「もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます。そう、どれほど壁が正しく、卵が間違っていたとしても、それでもなお私は卵の側に立ちます。正しい正しくないは、ほかの誰かが決定することです。あるいは時間や歴史が決定することです」

「そして我々はみんな多かれ少なかれ、それぞれにとっての硬い大きな壁に直面しているのです。その壁は名前を持っています。それは『システム』と呼ばれています。そのシステムは、本来は我々を護るべきはずのものです。しかしあるときにはそれが独り立ちして我々を殺し、我々に人を殺させるのです」

「私が小説を書く理由は、煎じ詰めればただひとつです。個人の魂の尊厳を浮かび上がらせ、そこに光を当てるためです」

「一度父に訊いたことがあります。何のために祈っているのかと。『戦地で死んでいった人々のためだ』と彼は答えました。味方と敵の区別なく、そこで命を落とした人々のために祈っているのだと」

「システムが我々を作ったのではありません。我々がシステムを作ったのです」ともいう。

個人的には、ここに権力や暴力、戦争のすべてが語られているようにすら感じる。しかし、現実を眺めれば、壁と卵をどのような場にあっても常に見極め続けることができている人がどれだけいるだろうか。システムを作った自覚をどれだけの人が持ち続けられているのか。それは、もちろんわたしを含めてのことだ。


◎[参考動画]Japanese author Haruki Murakami receives book award(15 Feb 2009)

◆戦争や政治の犠牲となり、戦地の現実にさらされていく女性たち

前置きが長くなったが、今回の本題である『戦争は女の顔をしていない』に戻ろう。たとえば軍曹で狙撃兵だったヴェーラ・ダニーロフツェワは従軍のきっかけを、「『ヴェーラ、戦争だ! ぼくらは学校から直接戦地に送られるんだ』彼は士官学校の生徒だったんです。私は自分がジャンヌ・ダルクに思えました」と振り返る。彼女だけでなく多くの女性が、情熱や志をもって戦地へ赴くのだ。

ところが戦地の現実のなかでは、「下着は汚くてシラミだらけ、血みどろでした」と、野戦衛生部隊に参加していたスベトラーナ・ワシーリエヴナ・カテイヒナは口にする。二等兵で歩兵だったヴェーラ・サフロノヴナ・ダヴィドワは、夜中に墓地で1人、見張りに立つことに。「二時間で白髪になってしまったわ」「ドイツ軍が出てくるような気がしました……それでなければ何か恐ろしい化け物たちが」という。死と隣り合わせの状況で、それでも日々を生き延びねばならない。でも、率直に不快感を語ることができるのは、その時代では特に女性ならではといえることかもしれない。

女性たちの話が、さまざまに広がることもある。アレクシエーヴィチは、「戦争が始まる前にもっとも優秀な司令官たち、軍のエリートを殺してしまった、スターリンの話に。過酷な農業集団化や一九三七年のことに。収容所や流刑のことに。一九三七年の大粛清がなければ、一九四一年も始まらなかっただろうと。それがあったからモスクワまで後退せざるを得ず、勝利のための犠牲が大きかったのだ」と、記す。

大粛清とは、ヨシフ・スターリンがおこなった政治弾圧や裁判と、その結果、「反スターリン派処分事件」を指す。1930年代、司令官や軍のエリートだけでなく、さまざまな政治家、党員、知識人、民衆の約135~250万人が政府転覆を目論んだとして「人民の敵」「反革命罪」などとされ、約68万人が死刑判決を下され、約16万人が獄死し、全体としては800~1000万人が犠牲となったともいわれる。

ちなみにこの大粛清の要因としては、かつてはスターリンの権力掌握や国民の団結を狙う意図や猜疑心があったためといわれてきた。ここから前回の連赤にもつながってくるように思われるが、最近の研究では戦争準備としての国内体制整備などをあげるものが出てきており、関心ある人は調べてみてほしい。(つづく)


◎[参考動画][東京外国語大学]アレクシエーヴィチ氏記念スピーチ(2016年11月28日)

▼小林 蓮実(こばやし・はすみ)
1972年生まれ。フリーライター。労働・女性運動を経て現在、農的暮らしを実現すべく、田畑の作業、森林の再生・保全活動なども手がける。月刊『紙の爆弾』12月号に「ひろゆき氏とファン層の正体によらず 沖縄『捨て石』問題を訴え続けよう」寄稿。
Facebook https://www.facebook.com/hasumi.koba

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2022年12月号

ロックと革命 in 京都 1964-1970〈01〉ビートルズ「抱きしめたい」17歳の革命 若林盛亮

◆はじめに

デジタル鹿砦社通信編集担当のKさんは1980年代京都の学生時代、ロックバンドをやっていたという。私も同志社時代の一時期、水谷孝ら「裸のラリーズ」と行動を共にした人間、そんな共通体験から音楽を中心に「OffTime 談義」をするようになった。そんな談義の中で「あの時代の京都と音楽」的なものを「デジ鹿」に書いてみませんかとの提案があって、「そうやねえ」ということで「ロックと革命 in 京都 1964-1970」といった手記風のものを月1本程度、書かせて頂くことになった。今回はその第1弾。

◆長髪、それは青春期の私そのものだった

私は今年75歳、ボブ・ディラン初恋の人スーズの言葉を借りれば、「長い歳月を経て若き日々の感情やその意味、内容を穏やかに振り返ることのできる」年齢になった。

半世紀前、よど号ハイジャック闘争決行を目前にして私は高三以来の数年間、私のアイデンティティそのものだった長髪をばっさり切った。「目立ってはならない」という「よど号赤軍」活動上の理由からだったが、私にはちょっとした決心だった。いま思えば、それは当時の私にとっては新しい領域、新しい次元に一歩踏み入る覚悟、「革命家になる」! その決意表明、と言えばカッコよすぎるがまあそんななものだった。

長髪、それは青春期の私そのもの、「ロックと革命は一体」、そんな感じだった。

ロックと長髪は自我の確立、あるいは自分を知るための自分自身の革命、さらにそこから一歩踏み出して社会革命へ、それが高三以来の私の青春の下した結論であり、1964~70年という「あの時代」の音楽体験、革命体験だったと古希を過ぎたいま思える。

ウクライナ事態を経ていま時代は激動期に入っている。戦後日本の「常識」、「米国についていけばなんとかなる」、その基にある米国中心の覇権国際秩序は音を立てて崩れだしている。この現実を前にして否応なしに日本はどの道を進むのか? その選択、決心が問われている。それは思うに私たちの世代が敗北と未遂に終わった「戦後日本の革命」の継続、完成が問われているということだ。

かつて闘いを共にした同世代にはいまいちど奮起を願い、若い人には新しい日本の未来を託したいと強く思う。そういう意味で私の「ロックと革命 in 京都」、「あの時代」を語ることを単なる追想、青春の思い出懐古にはしたくない。自分自身の革命と社会革命-戦後世代の青春体験が「戦後日本の革命」に役に立つならばというささやかな願いを込めてこのエッセーを書こうと思っている。

私自身について言うならば、自分の原点に立ち返っていまを振り返る、瀬戸内寂聴さん風に言えば、いまいちど恩人達に思いを馳せ「だから私はこの道を歩み続ける責任がある」ことを胸に刻む機会にしたい。

◆「抱きしめたい」から「ならあっちに行ってやる」へ

1947年2月生れの団塊世代第一号の私は、滋賀県下の進学校、膳所高校に通うごく平凡な高校生、いわゆる「受験戦争」が始まった最初の世代だ。高三を間近にして否応なしに進路選択が問われた私は、自分はどの大学、学部を選ぶべきか? 果たして自分は何をやりたいのか、やるべきか? これまでまともに向き合ったことのない人生選択の岐路に立たされて私は少し当惑していた。親や教師の言うままに「優等生」をめざした自分だったけれど、それが実は惰性で自分の頭で何も考えてこなかったことにとても不安を感じていた。

そんな私の高二も16歳も終わる1964年初冬1月頃のこと、受験勉強中の私の耳に突然飛び込んできたラジオからの異様な音楽「ダダダーン……」! が私の脳天を直撃した。 

その曲は「抱きしめたい」、歌っているのはビートルズ、イギリスの港町リヴァプール出身のグループだった。

すぐにそのシングル盤を買った。レコードジャケットにも度肝を抜かれた。丸首襟の揃いのビートルズ・スーツ、ボサボサ髪のマッシュルーム・カット、やけに挑戦的な目、ゾクッときた。自分で作詞作曲した歌を歌う、ロックが自己表現の手段であることも知った。理屈抜きにそれらはひたすらカッコイイ! に尽きた。


◎[参考動画]The Beatles – I Want To Hold Your Hand(英1963年11月、日本1964年2月発売)

 
マッシュルーム・カット高校生

私は散髪屋に行くのをやめた。別に何かに反抗してやろうという意識はなかった。ただ明日も今日と変わりがない「日常の連続」という現実を少し変えてみたかっただけ。夏近くになると前髪が目元に垂れ耳が髪で隠れて女の子のショートカット風のビートルズヘアになった。いまではどうってことのないものだが、当時は女性にのみ許されるヘアスタイルだった。制帽が頭に収まらないので校門前の検査時にちょこんと頭の上に載せたりしていた。

そんな時に事件は起こった。

体育授業で運動場に出た私に向かって体育教師は言った-「女の子の授業はあっちだ」! この言葉になぜか私の反抗心がむらむらとせり上がってきた。「ようし、ならあっちに行ってやる」! 私の何かがはじけた。 

私は体育授業をボイコットしたばかりか必要ないと思った授業は早退するようになった。

 
進学校デビューのビートルズ

余談だが運動会でクラス毎に応援席のバックに大きな背景画を設営することになった。私はダメ元で「ビートルズでいこう」と提案した、ところがなんとみんなも面白いと賛成してくれ私が絵を描くことになった。私が小バカにしていた受験勉強一筋のクラスの面々、彼らにも意外な一面があることを知った。

こうして進学校、受験勉強からのドロップアウト、17歳の革命が始まった。

単に「勉強嫌い」になっただけじゃないかとちょっと不安はあったけれど、なぜか躊躇はなかった。なぜこうなるのか理由は自分でもよくわからない、でもおかしいと思うことにずるずると流されていくことの方がよっぽど怖かった。私の中で微妙な変化が起こり始めていた。

長髪ひとつで世界は変わる! それが私の17歳の革命、その第一歩だった。

「ならあっちに行ってやる」! そんな無謀な決心を「いいんじゃない、若林君はぜんぜん悪くないよ」と言ってくれる女子高生が現れた。

 
高三の終わり頃

◆女子高生OKとの出会い

ある日、友人から彼のガールフレンドが託されたというノートの切れ端に書かれた手紙を受け取った。ビートルズ風の長髪高校生の噂を聞きつけてよこした「文通申し込み」だった。どこにでもある高校生の文通、それがOK(彼女のニックネームの略称)との運命的な出会いのきっかけだった。

OKは1学年下の16歳、県下の別の高校に通う名古屋からの転校生、母親を早くに結核で亡くし、その母親の結核サナトリウムのあった母の出身地でもある私の故郷、草津市に移ってきた女子高生だった。

友人を介しての数回の文通の後、「一度会ってみない?」との仰せがあって彼女の母親の実家が経営する喫茶店で会うことになった。その日の記憶はいまも鮮明だ。

私はOKに会う前に本屋に立ち寄った。公開間近のビートルズ映画“A Hard Day’s Night ”掲載の映画雑誌を買っていこうと思ったからだ。広い店内だったが映画雑誌を探す私はふと視線を感じて顔を上げた。するとレコード売り場にいた女子高生風と目が合った、瞬間バチバチッと視線のショート! でもそれはほんの一瞬、私は映画雑誌を持ってレジへ、彼女は店員との話に戻った。一瞬の視線ショートだったが、長髪男子高校生の出現に「これだ!」と彼女は思っただろうし、私はこの子だとほぼ直感した。

案の定、喫茶店にいたのはその子だった。時は初夏、背中にかかる長い髪、白い夏のワンピース姿はまさに都会育ちの女の子、デートなど初体験、以前の田舎の「真面目な優等生」の私だったらどぎまぎしたことだろう。でも「長髪ひとつで世界は変わる」、異端視の視線に鍛えられていた若林君はうろたえることなく「やあ」と声をかけた。すでに文通で気心は知れてるので映画雑誌のビートルズの話題で盛り上がり、意気投合は一瞬だった。

夏休みには二人でビートルズ映画を京都会館で心ゆくまで観戦、嬌声の絶えない映画館で「ちょっとあの女の子達うるさいよね」と言いながらも「リンゴ、かわいい!」と思わず口にする彼女、理知的なOKの意外なアナザーサイドも新しい発見だった。


◎[参考動画]映画 “A Hard Day’s Night”(1964年)

 
アメデオ・モディリアーニ「子供とジプシー女」。教科書にも掲載されるような画だが、これはOKとの私書箱に貼り付けた記念品

初面談以降、文通は直通便になった。互いの家の玄関にボール紙手製の「私書箱」を設定、私はモディリアーニの絵を貼り付けた。互いの「私書箱」に細い鎖を取り付けてそれが垂れてたら「手紙在中」の印、学校帰りに鎖が垂れてるか確認するのが楽しみになった。

ビートルズのヒット曲“From Me to You”にならって手紙の末尾には「From M.Lenon to George OK」と署名、彼女の署名はその逆。私はジョン・レノン、彼女はジョージ・ハリソンのファンだった。私のには必ずジョン・レノンの横顔イラストを入れた。たわいのないお遊びだが、それは「二人だけの小さな世界」、私とOKのとても大事な儀式だった。

互いの家でレコードを聴いたりしたけれど、いつしか昼夜別なく町を徘徊しながらの路上トークが二人の習慣になった。古い世界を飛び出そうとする二人には家の狭い空間は窮屈だったのかも知れない。

ビートルズの話題が中心だったと思うが、私の大好きな画家、モディリアーニの話にも彼女は乗ってきた。「奥さんのジャンヌさんって素敵だよね」とOK。モディリアーニは貧苦の中でも「自分の絵」を追求、それを描き続け、持病の結核、アルコールとドラッグ漬けの果てに失意のまま早世した画家、画家でもあり妻だったジャンヌ・エビュテルヌさんは最愛の人を亡くした直後、後を追ってアパルトマンの窓から投身自殺を遂げた。ジャンヌさんの父親は敬虔なカトリック教徒、ユダヤ人の男との結婚を認めず墓は別々にされた、そして十数年の歳月を経てペール・ラシェーズ墓地に合葬され、二人はやっと結ばれた。そんな不遇の画家とその波乱に満ちた純愛ドラマの生涯は私たち二人を興奮させた。

ある時、OKが「睡眠薬自殺はやらないほうがいいよ」と私に言った、名古屋の中学時代に自殺未遂を見つかって胃の洗浄をやられたのが死ぬほど苦しかったそうだ。自殺など私には別世界の話、この子は私の知らない世界を知っている人だ、そう思った。
 
そんな感じで路上トークは延々と草津の狭い町を大通りから路地、天井川の堤防へと続き、家の前まで来ても「じゃあまたね」を二人とも言いそびれて、またもと来た道に戻ったりを繰り返した。別に腕を組んだり恋を囁きあっていたわけじゃない、堰を切ってあふれる目覚めた自我がその発散場所を求めていたのだと思う。

そんな二人を「高校生の異性交際?」と怪しむ町の大人たちの視線もあったけれど「僕らの大まじめがわかってたまるか」と上目線で無視した。こんな「抵抗運動」も二人の絆を強めたのかも知れない。


◎[参考動画]The Beatles – From Me To You(1964年)

 
ボーヴォワール『他人の血』(新潮文庫1956年)

◆「特別な同志」になった理由

ある日、「これ読んでみない?」とOKは1冊の文庫本を貸してくれた。

その本は『他人の血』。フランスの実存主義女流作家、シモーヌ・ド・ボーヴォワールの小説だった。平凡な駄菓子屋の娘が大ブルジョアの息子という出自に悩む労働運動指導者と恋に落ち紆余曲折の末に恋人の指揮する反ナチ・レジスタンス運動に参加、彼女は短い生涯を閉じるという物語だが、私は最後まで読めず途中で放棄した。自分の運命の決定権は自分自身にあるという自己決定権賛美の書だが、フランスの知識人の描く複雑な社会相、人間世界は当時の私にはまったく理解不能の世界だった。

私はただ「ありがとう」とだけ言って本をOKに返した。
 
これは少なからずショッキングな体験だった。進学校でもない高校に通う年下の女子高生の読む本を読めない自分は何なんだ!? 自意識過剰といえばそれまでだが「進学校の優等生」というものを考えさせられた事件だった。

後で実存主義に関する解説書を読んだりしたが私にはさっぱりわからなかった。主体的な社会参画? 自己決定権? 教科書や受験参考書ではわからない世界があることを思い知らされた。もっと新しい世界を知りたいと切実に思った。それはあくまでいま考えればということで、当時そんなことは恥ずかしくて彼女には話せなかった。

自分の無知、アホウぶりを知らしめてくれたのがOKだった。それこそが彼女が私の「特別な同志」たる最大の所以(ゆえん)だったといまは言える。

こうしてOKは私にとって「特別な同志」になった。そんな彼女に私は恋をした。

ビートルズ「抱きしめたい」に始まる「ならあっちに行ってやる」の17歳の革命は、自分を知るための革命になり、その「同志」を得て革命はさらに一歩前に進んだ。

これが今日に至る私の革命の原点、いまそう思う。(つづく)

若林盛亮さん

▼若林盛亮(わかばやし・もりあき)さん
1947年2月滋賀県生れ、長髪問題契機に進学校ドロップアウト、同志社大入学後「裸のラリーズ」結成を経て東大安田講堂で逮捕、1970年によど号赤軍として渡朝、現在「かりの会」「アジアの内の日本の会」成員

『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』(紙の爆弾 2021年12月号増刊)
『一九七〇年 端境期の時代』
『紙の爆弾』と『季節』──今こそタブーなき鹿砦社の雑誌を定期購読で!

内藤秀之さん一家を追った映画『日本原 牛と人の大地』 鹿砦社代表 松岡利康

 
映画『日本原(にほんばら)牛と人の大地』

右に掲載しているように、『日本原 牛と人の大地』という映画が全国のミニシアターで上映中です。朝日新聞10月7日夕刊に映画と、主人公の内藤秀之さんのことが掲載されていました。

この映画は、半世紀余り前に学生運動で頑張った方が、それまでとは違うやり方で基地反対運動に半世紀も頑張られたヒューマン・ドキュメントです。

内藤さんは、私も2、3度お会いしたことがありますが、朴訥としたお爺さんで、この人が、若い頃は学生運動の闘士、それも党派(プロ学同。プロレタリア学生同盟)の活動家だったとは思えません。若い頃にはブイブイいわせていたのでしょうか。

プロ学同は構造改革派の流れを汲む少数党派で、指導者は笠井潔さん(当時のコードネームは黒木龍思)や戸田徹さんら、かの岡留安則さん(故人。元『噂の眞相』編集長)もこの党派に所属していました。生前直接聞いています(氏との対談集『闘論 スキャンダリズムの眞相』参照)。

構造改革派は、過激な闘いではなく、ゆるやかな改革を目指す勢力でしたが、学園闘争や70年安保─沖縄闘争の盛り上がりと時期を同じくして分裂し、その左派のプロ学同やフロントは新左翼に合流しラジカルになっていきました。右派は「民学同」=「日本の声」派で、その後部落解放同盟内で勢力を伸ばしていきます。

さて、69年秋は70年安保闘争の頂点で、内藤さんの後輩の糟谷孝幸さんは11月13日、大阪・扇町公園で機動隊の暴虐によって虐殺されます。

1969年11月13日、大阪・扇町公園で機動隊の暴虐によって内藤さんの後輩の糟谷孝幸さんは虐殺された

下記新聞記事では、牛飼いになったのは「友人の死だった」とし(「友人」というより”後輩”でしょう)、「デモ隊と機動隊が衝突し、糟谷さんは大けがを負って亡くなった」と客観的に他人事のように記述されていますが、この頃の闘いは、まさに生きるか死ぬかの闘いで、熾烈を極めました。学生にも機動隊にも死者が出ています。それをマスコミは「暴力学生」のせいと詰(なじ)ったことを、くだんの記事を書いた朝日の記者は知っているのでしょうか!?

2022年10月7日付朝日新聞夕刊
 
『語り継ぐ1969 ― 糟谷孝幸追悼50年 その生と死』(社会評論社)

 

その後内藤さんは、ここが私たちのような凡人と違うのは、医学生への途をきっぱり拒絶し、糟谷さんの遺志を胸に人生を懸けて基地反対闘争を貫徹するために牧場家に婿入りしたというのです。

爾来半世紀近く黙々とこれを持続してこられました。当時流行った言葉でいえば「持続する志」です。

内藤さんの営為は、日本の反戦運動や社会運動の歴史、個人の抵抗史としても特筆すべきもので記録に残すべきです。

……と思っていたところの、この映画です。

また、これに先立ち内藤さんは、後輩活動家の糟谷さんの闘いの記録を残すために奔走されました。

一緒に決戦の場に向かった後輩が志半ばにして虐殺されたことが半世紀も心の中に澱のように残っていたのでしょう。

多くの方々のご支援で、これは立派な本として完成いたしました。そうして、今回の映画となりました──。

多くのみなさんが、内藤さんが中心になって出版した糟谷さんを偲ぶ書籍と、内藤さんと一家を追った映画をお薦めします。闘争勝利!

(松岡利康)


◎[参考動画]映画『日本原 牛と人の大地』予告篇

『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』(紙の爆弾 2021年12月号増刊)
『一九七〇年 端境期の時代』
タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2022年11月号