ロックと革命 in 京都 1964-1970〈08〉“ウェスカー‘68”「スミレの花咲く頃」→東大安田講堂死守戦「自己犠牲という花は美しい」 若林盛亮

◆ウェスカー‘68

菫(すみれ)ちゃんとの再会は、偶然とはいえ五里霧中にあった「革命家の卵」にはとても幸運な出会いになった。

「Bちゃんはアホやなあ」! と“True Colors” 「あなたの本当の色は美しい」を歌ってくれる「俳優の卵」菫ちゃん。

彼女と過ごす時間、それは互いの志や夢が凍(こご)えないよう「卵」を温め合う孵化促進の時間、「卵同士」のとても大切な恋時間になった。

「アホやなぁ」に背中を押され、また1968年という熱い政治の季節が秋頃にはさらに熱気を加える幸運もあって、「戦後日本の革命」に向かって私は前に進むことができた。

 
“ウェスカー‘68”のポスター

その年の10・21国際反戦デー闘争は、東京では社学同による防衛庁突入闘争や騒乱罪の適用された新宿駅一帯の群衆を巻き込んだ学生、市民一体の大衆的暴動として、関西では大規模な御堂筋デモとしてますます闘いの火に油を注ぐものになっていった。もちろん私は御堂筋デモの中にいた。

この頃になると「しゃんくれ」で知り合った立命社学同系学生ら政治の話ができる仲間ができた。でもいかんせん彼らは他大学の学生、私は組織のない根無し草に変わりはなかった。

東大、日大全共闘の闘いは全学バリケード封鎖に向かい「バリケード封鎖維持か解除か」を巡り日大では刃物や凶器を持った体育会系右翼学生との暴力的衝突、東大では組織をあげての共産党系民青解除派との闘いを同伴しながら闘争は激烈化していた。学生たち自身の創造物である東大、日大闘争の行方は他人事とは思えなかった。私は居ても起ってもおれない気持ちで推移を見守っていた。でも当事者でもない私は傍観するしかなく、ましてやまだ「革命家の卵」の私にはどうしようもなかった。

「卵からの孵化」は菫ちゃんのほうが早かった。

「スミレの花咲く頃」は多くの少女達がスターを夢見る宝塚歌劇団の歌だが、「菫ちゃんの花」は晩秋の演劇イヴェント“ウェスカー‘68”で大きく花咲いた。この舞台で「いい役に抜擢されるのが目標」と言っていた菫ちゃん、彼女は見事に目標達成、大役を射止めた。

それは東大、日大闘争も天王山を迎えた時期、彼女にとっては演劇人生の天王山、10月下旬から11月中旬にかけての頃のお話し。

“ウェスカー‘68”-それは労働者階級出身という英国劇作家、アーノルド・ウェスカーを招いて日本の主要都市で行われたウェスカー作品の演劇と作家を交えたシンポジウムが同時に行われる演劇イヴェント、東京では新宿紀伊国屋ホールでやるというビッグイヴェントだった。そんな晴れ舞台に菫ちゃんは立つことになった。

菫ちゃんからチケットをもらった、「観に来てね、きっとだよ」!-「ゼッタイ行くよ」! 

まるで自分が出演するみたいにはやる胸を押さえながら私は彼女の舞台を観にいった。四条通りをちょっと入った所、たしか大丸百貨店関連のけっこう大きな劇場だった。演劇もウェスカーという劇作家もよくわからない私は、へえ~、こんな大舞台に菫ちゃんが出るんやと正直、驚いた。

 
スミレの花咲く頃

演目はA.ウェスカーの左翼色の強い代表作「大麦入りのチキンスープ」、そして題名は忘れたが併演のもう一本。彼女は「大麦入りの……」では端役、でも併演の舞台で主人公の恋人役に抜擢された。

併演のその作品は、ドイツの若い兵士が軍を脱走し恋人と森に逃げ込むという反戦劇だった。

脱走兵士と森の逃避行を共にする恋人役を演じる菫ちゃん、舞台の彼女はまるで別人だった。

軍規を破って脱走という国家反逆行為に及んだ恋人とあえて行動を共にする、そんな恋する強いドイツ娘になりきる菫ちゃん、私は劇の進行よりもそのドイツ娘だけを見ていた。

兵営脱走に伴う苛酷な運命を恋人と共にするドイツ娘、苦境の恋人を愛おしむ切ない感情や恋人の決断を支える強い意志、また葛藤、それらをセリフの言いまわしとちょっとした身の仕草など自然体で表現する、その菫ちゃんの演技はまるで波乱の純愛渦中のドイツ娘が目の前にいるよう、舞台のドイツ娘に愛おしささえ覚えた。

「ゼッタイ舞台女優になる」! と言っていた菫ちゃん、なるほどこういうことだったのかと少しわかった気がした。

演劇後のシンポジウムでは菫ちゃんはマイクを持って会場の声を拾う大任もこなした。これにも私は驚かされた。劇団は彼女にシンポジウムでも重要な役割を与えたのだ。晴れの舞台を終え、生き生きと会場からの様々な意見を拾っていくスーツ姿の菫ちゃんはほんとうに輝いていた。演劇論のよくわからない私だったけれど、それがとてもカッコよくて我が事のように晴れがましかった……スゴイよ、菫ちゃん!

「卵からの孵化」では私より一歩前に出た菫ちゃん。「あなたの色はきっと輝く」、それを実際の形で私に見せてくれたのだ。そんな彼女に私はちょっと嫉妬した。

この日から彼女は私の「よきライバル」になった。菫ちゃんには負けられない! そう思った。

◆東大安田講堂籠城を求められて

「よきライバル」に刺激をもらった“ウェスカー‘68”からほどなくして私は、11月22-23日にかけて東大安田講堂前での日大、東大闘争勝利全国学生総決起集会に誘われたわけでもないのに同志社赤ヘル学生らと共に上京、参加した。どうしても自分の身を東大、日大の闘いの現場に置きたかった、身体がうずいて仕方なかった。それまでのデモ参加とは違う、自分でも抑えられない衝動に突き動かされた。

名目は集会だったが実質的にはバリ解除派の民青系学生らとの対決示威だった。私もそれを意識した。対する相手も黄色のヘルメットにゲバ棒で武装した実力部隊が結集、でも小競り合いはあったけれど全面的衝突には至らなかった。

しかしながら安田講堂前で開かれた総決起集会、日本全国から結集した赤、白、青、緑のヘルメット学生が党派を超えて一堂に会し講堂前広場を埋め尽くすその光景は壮観だった。これだけの学生が全国で闘っているのだ、自分たちがこの日本を変える! そんな熱い志の大きな塊みたいなものを実感した。その中に自分がいることが誇らしかった。

私はといえばいまだに誰からも誘われない一志願兵だったが、そんなことは問題じゃない。京都から常に行動を共にした同志社の赤ヘル学生たち、特に文連サークル系の学生の中には顔馴染みもできた。彼らは観光研、広告研といった文化サークルの学生、プロ活動家ではないが一応は学友会傘下組織の一員だ。個人で来ている私を向こうは変な長髪4回生だなと思ったかもしれない。でもそんなことはかまわない。みんなで闘うこと、勝利することが重要、その中に自分がいればそれでいい。

東大闘争は年末から年始にかけ「入試実施か中止か」を巡って大紛糾の末、明けて‘69年1月14日「入試実施のため機動隊導入も辞さず」と加藤総長代行が言明、これに対抗し1月15日には“全国労農学総決起集会”が安田講堂前で持たれ、17日に加藤代行はついに「機動隊出動を要請」、18-19日にかけての安田講堂バリケード死守戦へと事態は進む。

私は前年11月の時のように当然のごとく“全国労農学総決起集会”参加のため同志社赤ヘル部隊と一緒に上京した。

総決起集会後の事態の展開は、バリ封鎖解除に導入される機動隊との激突、攻防戦になることはわかっていたが、地方からの支援学生は集会参加だけでまさか安田講堂に立てこもることになるとは考えもしなかった。しかし17日夜になって地方からの支援学生にも安田講堂死守戦参加を求められた。それは逮捕が前提の籠城戦、しかも騒乱罪適用の10・21闘争の弾圧ぶりから起訴、長期拘留が予想されると説明を受けた。

各自の決心が問われた。政治に転進して以来、私の志が最も試された時だった。

誰からも指図を受ける立場にない私だったが、私には籠城戦参加以外の選択肢はなかった。もちろん躊躇がなかったといえば嘘になる、でも逮捕、投獄の不安よりも東大のバリケード死守の闘いに身を置くことの方が私にはもっと大切なことだった。

そしてたぶん、「菫ちゃんに負けてたまるか」魂も作用したと思う。“True Colors”を歌ってくれる恩人を裏切るような真似はしたくない! そんな気持ちもあったのは確かだ。

一夜明けるとやはり人数は減っていた。でも同志社からの学生は10人ほどが残った。それも観光研、広告研など政治と無縁の文化サークル所属の学生が多かった。「上等じゃないか」! と思った。

東大安田講堂死守戦(1969年1月24日付け『戦旗』より)

◆自己犠牲という花は美しい

安田講堂籠城戦のことを書くと単なる武勇伝になりかねないのでそれは控える。ただ私の心に響いた一場面だけには触れたいと思う。

我々の世代の歴史を語ること、正しく伝える必要があると思うからだ。

我々は全共闘世代と一括りに言われるが、多くは過激派、極左、暴力分子など否定的な評価、それには「連合赤軍事件」や「内ゲバ殺人」による印象の悪さもあるが、私たちの闘いの未熟さ不十分さにも要因があるのは事実だ。「愛することと信じることはちがう」と水谷が歌ったのもその辺のことを言ったのだろう。だから当事者の多くは語れない、語ろうとしない。

でも全国であれだけの学生、無名の若者が立ち上がったこと、青春の熱気、正義感に満ちていたこと、それも事実なのだ。逮捕起訴、長期拘留覚悟の安田講堂籠城戦にあれだけ多くの若者が残ったのも「大義に殉じる志」があったからだ。そんな同世代の良心を私は信じたい。だから、その一端だけでも当事者として語っておきたいと思う。

 
東大安田講堂死守戦

当時の安田講堂籠城戦で胸を熱くした体験が一つある。

私たち同志社の学生は講堂ホールに昇る階段を受け持った。機動隊が階段を上ってきたら劇薬を投げ、鉄球状の小さな球ころを階段に撒く役目だったが一日目は何もすることがなかった。そこで二日目、私は勝手に持ち場を離れ、バルコニーに出て闘う東京の赤ヘル学生達の持ち場に行ってみた。そこは「激しい戦場」だった。

地上からの高圧放水をベニヤ板で防ぎながらレンガ、コンクリート片や火炎瓶を投げる、頭上のヘリコプターからは催涙液がバルコニーに向かって散布される。みんなはずぶ濡れだ。そんな中でまだ高校生のような童顔の学生が機動隊に向かって叫んでいた。

「お前らは金のためにやってるんだろ! 俺たちは違うぞっ」

私はエライ単純な論理やな~と思ったが、なぜか心に響いた。それがあの時の私たちの心情を単純明快に表現してくれてる言葉だったからだ。

あのバルコニーでの闘いは、まさにそれだった。

1月の冬の身を切るような寒風にさらされながら放水を浴びれば全身ずぶぬれ、ふだんなら誰もそんな目には遭いたくはない。交代時には部屋に小さな石油ストーブがあって束の間の暖をとれた。みんなぶるぶる震えている。口がガチガチ震えて声も出せない。でも服が乾く間もなくリーダーの「次ぎっ」という指示でバルコニーに飛び出る。私も経験したが、いったん暖をとったらお終いだ。また水を浴びに寒風の外に出るというのはかなりの決心がいる。登山で疲れて重たいリュックを降ろし座り込めば、もう立ち上がれなくなる、あれと同じだ。ジャンパーからまだ湯気が立っている状態で放水の待つ外に出ていくのは簡単じゃない。あの時、誰かがリーダーに「もうイヤだ、アンタが行けばいいだろ!」と言ったら誰も立ち上がれなかったかもしれない。

でも誰もそんなことは言わなかった。「次ぎっ」の指示に黙々と従って、躊躇なくバルコニーに出ていった。些細なことかもしれないが、あれは間違いもなく「大義に殉じる自己犠牲」だった。それが誰の心にもあったのだと思う。

大義に殉じる自己犠牲、「自己犠牲という花は美しい」! 私はそのことをあの現場で体験し、実感できた。個々人は豪傑でも英雄でもないひ弱な人間かもしれない、でも個々の志が一つの塊になったとき、皆が英雄になる、美しい花になる!

私が今日までこの道を続けて来られたのもこの時の体験は決して小さくない、そう思っている。同世代のために、このことだけは語っておきたい。(つづく)

東大安田講堂死守戦(1969年1月24日付け『戦旗』より)


〈08〉“ウェスカー‘68”「スミレの花咲く頃」→東大安田講堂死守戦「自己犠牲という花は美しい」

若林盛亮さん

▼若林盛亮(わかばやし・もりあき)さん
1947年2月滋賀県生れ、長髪問題契機に進学校ドロップアウト、同志社大入学後「裸のラリーズ」結成を経て東大安田講堂で逮捕、1970年によど号赤軍として渡朝、現在「かりの会」「アジアの内の日本の会」会員。HP「ようこそ、よど号日本人村」で情報発信中。

『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』(紙の爆弾 2021年12月号増刊)
『一九七〇年 端境期の時代』