格闘群雄伝〈36〉ブルース京田 ── ノックアウト必至の目立ち屋さん、キックボクサーとの縁深い異色のプロボクサー! 堀田春樹

◆導かれた野口ジム

ブルース京田(本名=京田裕之/1960年6月30日、富山県富山市出身)は、プロボクシング日本スーパーフェザー級4位まで上昇。チャンピオンには届かなかったが、勝った試合はすべてノックアウトで、逆転も多いアグレッシブな展開で人気を得た。

 
現役時代のプログラムに載ったブルース京田のクローズアップ

リングネームはブルース・リーが好きだったことの影響が大きいが、観客から「お前、アレクシス・アルゲリョに似てるな!」と言われたことから「アレクシス京田」も考えたという。

「とにかく目立つ名前にしたかった。ブルースでいいかな!」と思い付いたネーミングだった(4回戦時代は本名)。

昭和の殺伐とした時代で口数少ない選手が多い中、ユニークな感性を持っていたブルース京田。小学校3年生の頃からプロレスを観てアントニオ猪木のファンになり、その頃のプロボクシングでは西城正三、大場政夫、ガッツ石松、輪島功一らの世界戦に感動したことや、キックボクシングでは富山県で沢村忠の試合も観戦し、控室まで忍び込んでも、快くサインをしてくれた感動から、将来はいずれかの競技を目指していた。

しかし、「プロレスはヘビー級中心だし、目指すなら小さい身体でも出来る階級制があって世界的に競技人口多いプロボクシングの世界チャンピオン」と決めた。

高校時代、富山ではボクシングジムは存在したが、野口ジムの元・プロボクサーだった地元の先輩に野口ジムを勧められていた為、高校卒業後、上京してジム入門する計画だった。その為、一年生から続けていた陸上競技で基礎体力を付け、1979年(昭和54年)3月、卒業するとすぐに上京、野口ジムに入門。

高校時代は具志堅用高が一世を風靡していた時代。その協栄ジムに行きたかったが、先輩に対し、そんな我儘は言えなかった。入門後、練習中の肩の大怪我で長期療養し、プロテストは少々遅れることとなったが、1982年(昭和57年)春、C級を難なく取得。スパーリング審査では右クロスカウンター一発、相手を1分ほどで倒してしまった。観ていた輪島功一氏には「お前凄いなあ!」と褒められたことが嬉しく、強烈に記憶に残っているという。

◆勝利への魔力

デビュー戦は同年7月6日、平野直昭(本多)に第1ラウンドにフラッシュ気味ながらノックダウン喫し、第3ラウンドで逆転ノックアウト勝利。スリルある展開はデビュー戦から見せていた。

東日本新人王スーパーバンタム級予選トーナメントは1983年9月2日、島袋朝実(帝拳)に3ラウンドノックアウトで敗れ予選落ち。当時、野口ジムでは萩野谷さんというトレーナーが居たが、重病を患い入院してしまい、萩野谷氏が不在となると練習生は誰も来なくなってしまった。

その後、退院した萩野谷氏が三鷹市にある楠ジムを任される立場になって移籍した為、ブルース京田も楠ジムに移籍することになった(後の楠三好ジム)。

新人王スーパーバンタム級トーナメント予選は島袋朝実に敗退(1983.9.2)
島袋朝実にKO負けの直後(1983.9.2)

移籍第1戦目は1984年8月2日、2度目の挑戦となった東日本新人王スーパーバンタム級トーナメント予選は、ランボー平良(京浜川崎)に第2ラウンドと第3ラウンドにノックダウン奪われた絶体絶命のピンチのインターバル中に野口ジム時代の先輩、龍反町さんがやって来て、「京田~!お前ふざけんじゃねえぞ、コラー!」とドスの利いたでっかい声で恫喝されたのが効いたか、第4ラウンドに逆転ノックアウト勝利。

楠ジムへ移籍第一戦目はランボー平良にKO勝ち(1984.8.2)

これで準決勝に進んで黒沢道生(鹿島灘)に敗れたが、ここまで7戦5勝(5KO)2敗。次戦は初6回戦だったが、スーパーバンタム級では減量がキツく、二階級上げてスーパーフェザー級でのB級6回戦スタートとなった。二階級上げるのはなかなか居ないが、フェザー級でもフラフラで、それだけキツかったという。

同年9月24日、初の8回戦でウルフ佐藤(日立/後のチャンピオン)と引分け。それまで4ラウンドを越えたことは無かったが、全然噛み合わない凡戦ながら初めて8ラウンド終了まで戦う貴重な経験をした。

同年12月5日、強打者・飯泉健二(草加有沢)に打ち合いで敗れた後、1986年7月14日は、これも強打者で、勝つも負けるもノックアウト決着の砲丸野口(川田)だった。この試合が決まる前、高校時代の友人だったテレビディレクターが企画した「今風ボクサーは目立ち屋さん」というテーマで、TBSのテレポート6での特集が組まれたが、いざ試合となった第1ラウンドに、二度ノックダウン奪われ、「テレビ企画どうなるんだろう?」とそちらに不安が向いてしまう試合だったという。

やがて砲丸野口が失速、第5ラウンドに逆転ノックダウン奪い、第6ラウンドに連打でノックアウト勝利して後日、友人プロデューサーから「番組の評判良くて電話が何本も入ってたよ!」と喜ばれたというこの勝利でランキング入りとなった。

更に1986年12月9日、前年度西日本ライト級新人王の久保田陽介(尼崎)も第6ラウンドで倒したが、1987年3月23日、元・日本スーパーフェザー級チャンピオンの安里佳満(ジャパンスポーツ)に第3ラウンド、ノーカウントのレフェリーストップ負け。安里は元・協栄ジムで名が売れた選手。メッチャ強く上手かったという。

安里佳満にノーカウントのレフェリーストップ負け(1987.3.23)
 
最後の勝利となった佐久間孝夫戦(1987.8.25)

◆ノックアウト必至の陰り

1987年、ランキング4位まで上がるも、同年10月22日、後に日本スーパーフェザー級チャンピオンとなる赤城武幸(新日本木村)に第5ラウンドのノックアウト負け。

ここから引退まで6連敗を喫してしまう。強打者とのハードな試合が続いたのは、マッチメイカーが持って来る依頼を断ったりすると試合が組まれなくなるから、三好渥好会長が全て受けてしまっていたようだ。

もう自分が描く動きが出来なくなっていた中のラストファイトは、1989年(平成元年)10月16日、高橋剛(協栄)に第1ラウンドのノックアウト負け。これで正式に引退を決意した。生涯戦績:20戦9勝(9KO)10敗1分。

「チャンピオンに届かなかったら1位も10位も全部負け組!」と語っていたブルース京田。引退後も汗を流すことが信条で、そんな青春の忘れ物を取り戻すかのように練習を続け、楠三好ジムと古巣の野口ジムには頻繁に足を運んでいた。

◆トレーナーとして開花

ブルース京田はデビュー前からキックボクサーと交流は深かった。その縁は、まだデビュー前の1981年7月当時、権之助坂にあったキックボクシングの目黒ジムが立ち退きになる危機があった。そこから路地を下った目黒雅叙園側にある野口ジムと合併になり、キックボクサーとの合同練習の毎日となった。当時は現役バリバリの伊原信一氏にはアドバイスを受けたり、食事に連れて行って貰ったりとお世話になったという。キックボクシングを勧められたのも言うまでもない。

引退間近、我孫子稔戦(1989.5.8)

野口ジムの他の練習生らはキックボクシングに興味は無かった様子だが、ブルース京田は元からプロレスファンだったり、小学生の頃、沢村忠さんに優しく接して貰った感動からキックボクシングに理解も深かった。後にはチャンピオンと成る鴇稔之や飛鳥信也らとは頻繁に食事に行ったり、キックボクシングの技を教わって練習したりと、彼らとの交流は長く続いていた。

そんな引退後の日々、目黒ジム野口和子代表から「力ちゃん(小野寺)を視てやって!」と指示を受け、パンチの指導が始まったことは新たな展開となった。他の選手も視ているうちトレーナーとして存在感が強まると、自分の練習時間は無くなり、指導一本の時間が増えていった。

選手らは皆礼儀正しく練習熱心だが、当時の新人の北沢勝は自ら「御指導お願いします!」と名乗り出て来て、教えたことをしっかり復唱して繰り返し、また疑問を問いかけて来る。この熱心さには、チャンピオンを獲らせてやりたくなる存在だったというブルース京田。実際に北沢勝が2002年1月に日本ウェルター級チャンピオンと成った時は自分のことのように嬉しかったという。

そうして選手を育てる達成感も積み重なってくると、声が掛かるのは目黒ジムだけではない、他のジムからも引っ張りダコ。トレーナーとして忙しくなる日々へ、ブルース京田の第二の人生は大きく移り変わっていくのであった。

トレーナーとして小野寺力を指導、目黒ジムで多くのキックボクサーを指導した(1995.12.2)

※写真はブルース京田氏提供

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
昭和のキックボクシングから業界に潜入。フリーランス・カメラマンとして『スポーツライフ』、『ナイタイ』、『実話ナックルズ』などにキックレポートを寄稿展開。タイではムエタイジム生活も経験し、その縁からタイ仏門にも一時出家。最近のモットーは「悔いの無い完全燃焼の終活」

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