75年目の夏 読み直す終戦詔書(大東亜戦争終結ニ関スル詔勅)

終戦から75年目の夏がめぐってきた。

とはいっても、本欄の読者のほとんどが、75年前を直接には知らないであろう。わたしも直接は知らない。いまや日本の国民の大半が、敗戦(終戦)の日を、直接には知らない時代なのである。

しかしながら、祖母や両親から聞かされた戦時の苦労、当時の現実を伝聞されるかぎりにおいて、次世代につなぐ責任を負っているのではないだろうか。

わたしたちは75年前のこの日、国民が頭をたれて聴いた「終戦の詔勅」を、おそらくその一節においてしか知らない。

とりわけ、以下のフレーズ

「然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所 堪ヘ難キヲ堪ヘ 忍ヒ難キヲ忍ヒ 以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス」の中から、「万世のために太平をひらかんと欲す」という結論部を「子孫のために、終戦(平和)にします」と読み取ってきたのではないだろうか。

だが、詔勅はこの部分だけではないのだ。

詔勅は広く天皇の意志を国民(臣民)に知らしめ、天皇の命令(勅)として、国民に命じるものである。そのなかに、当時の天皇と国民の関係が明瞭に見てとれるので、ここに全文を掲載してみたい。

真夏の一日、わが祖母や祖父、父母の時代に思いをはせながら、われわれの来しかたと将来を見つめなすことができれば。

と言っても、原文は以下のごとく読みにくい。書き下しのひらがな文になれたわれわれには、少々息苦しい漢文体である。原文は冒頭部だけにして、訳文を下に掲げてみました。

 * * * * * * * * * *

官報号外(1945年8月14日)

 朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ 非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ 茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク
朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ 其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ
 抑々帝国臣民ノ康寧ヲ図リ万邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ 皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々措カサル所 曩ニ米英二国ニ宣戦セル所以モ亦 実ニ帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ 他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス

【現代語訳】

わたし深く世界の大勢と帝国の現状とにかんがみ、非常の措置を以て時局を収拾しようと思い、ここに忠良なる汝ら帝国国民に告げる。

わたしは帝国政府をして米英支ソ四国に対し、その共同宣言(ポツダム宣言)を受諾することを通告させたのである。

そもそも帝国国民の健全を図り、万邦共栄の楽しみを共にするのは、天照大神、神武天皇はじめ歴代天皇が遺された範であり、わたしの常々心掛けているところだ。先に米英二国に宣戦した理由もまた、実に帝国の自存と東亜の安定とを切に願うことから出たもので、他国の主権を否定して領土を侵すようなことは、もとよりわたしの志ではなかった。しかるに交戦すでに四年を経ており、わたしの陸海将兵の勇戦、官僚官吏の精勤、一億国民の奉公、それぞれ最善を尽くすにかかわらず、戦局は必ずしも好転せず世界の大勢もまた我に有利ではない。こればかりか、敵は新たに残虐な爆弾を使用して、多くの罪なき民を殺傷しており、惨害どこまで及ぶかは実に測り知れない事態となった。しかもなお交戦を続けるというのか。それは我が民族の滅亡をきたすのみならず、ひいては人類の文明をも破滅させるはずである。そうなってしまえば、わたしはどのようにして一億国民の子孫を保ち、皇祖・皇宗の神霊に詫びるのか。これが帝国政府をして共同宣言に応じさせるに至ったゆえんである。

わたしは帝国と共に終始東亜の解放に協力した同盟諸国に対し、遺憾の意を表せざるを得ない。帝国国民には戦陣に散り、職場に殉じ、戦災に斃れた者及びその遺族に想いを致せば、それだけで五臓を引き裂かれる。かつまた戦傷を負い、戦災を被り、家も仕事も失ってしまった者へどう手を差し伸べるかに至っては、わたしの深く心痛むところである。思慮するに、帝国が今後受けなくてならない苦難は当然のこと尋常ではない。汝ら国民の衷心も、わたしはよく理解している。しかしながら時運がこうなったからには堪えがたきを堪え忍びがたきを忍び、子々孫々のために太平をひらくことを願う。

わたしは今、国としての日本を護持することができ、忠良な汝ら国民のひたすらなる誠意に信拠し、常に汝ら国民と共にいる。もし感情の激するままみだりに事を起こし、あるいは同胞を陥れて互いに時局を乱し、ために大道を踏み誤り、世界に対し信義を失うことは、わたしが最も戒めるところである。よろしく国を挙げて一家となり皆で子孫をつなぎ、固く神州日本の不滅を信じ、担う使命は重く進む道程の遠いことを覚悟し、総力を将来の建設に傾け、道義を大切に志操堅固にして、日本の光栄なる真髄を発揚し、世界の進歩発展に後れぬよう心に期すべし。汝ら国民よ、わたしの真意をよく汲み全身全霊で受け止めよ。

裕仁 天皇御璽
昭和二十年八月十四日
   各国務大臣副署

 * * * * * * * * * *

詔勅における昭和天皇の国民に対するまなざしは、政治機関としての主権代行者(昭和天皇自身は、天皇機関説の支持者であった)として、忠良なる臣民に告げるもの(命令)である。その内容の評価は、それぞれの視点・立場でやればいいことかもしれないので、ここでの論評はひかえよう。

そしてそれを受け止めた国民が、どのように行動したのか。ここがわれわれの考えるべき点であろう。

その大半は「やっぱり負けたんだ」「軍部のウソがわかった」「明日から電気を点けて眠れる」であったり、「われわれは陛下のために、死んで詫びるべきだ」「鬼畜米英の辱めを受けるものか」との決意であったりした。

これらは父母から聴かされた話である。しかしその「感想」や「決意」も、すぐに生死にかかわることではない。しょせんは銃後のことである。

しかし最前線で終戦を迎え、どのように身を処するべきかという立場に立たされた者も少なくなかった。いや、前線の将兵の大半がそうだったのだ。

そこで二つだけ、わたしが知っている事実をここに挙げておこう。

そのひとつは、宇垣纒(うがきまとめ)海軍中将の終戦の日の特攻である。宇垣は海軍兵学校で大西瀧治郎(特攻攻撃の立案者とされる=8月16日に官舎で割腹自決)、山口多聞(ミッドウェイ海戦で空母飛龍と運命を共にする)と同期で、連合艦隊(日本海軍)の参謀長だった人である。

終戦時には第三航空艦隊司令長官の地位にあり、大分航空隊(麾下に七〇一海軍航空隊など)にいた。広島と長崎に原爆を受けたのちの8月12日に、みずから特攻作戦に参加する計画だった宇垣は、15日の朝に彗星(雷撃機)を5機準備するよう、部下の中津留達雄大尉らに命じた。

そして終戦の詔勅を聴いたあと、予定どおり出撃命令をくだす。滑走路には命令した5機を上まわる11機(全可動機)と22人の部下が待っていた。宇垣がそれを問うと、中津留大尉は「出動可能機全機で同行する。命令が変更されないなら命令違反を承知で同行する」と答えたという。結果、宇垣をふくむ18人が帰らぬ人となった。

もうひとつは、年上の友人の父親の談(志那派遣軍)で、部隊名もつまびらかではない。南京の要塞に立てこもっていたところ、終戦の詔勅を聴くことになる。玉砕を主張する古参兵がいる中、部隊長の将校は兵たちにこう言ったという。

「お前たちは生きろ。生きて家族のもとに帰れ」「わが部隊は、ここで解散する」と。

その瞬間、それまで思考停止に陥っていた兵たちは、われ先に要塞から飛び降りた。三階建てほどの建物を要塞にしていたが、そこから無事に飛び降りていたという。どこをどう逃げ、引き揚げ船に乗ったのか、あまり記憶にないと語っていたものだ。

住民が巻き込まれる、悲惨な事件も起きている。

沖縄の久米島では、有名な住民スパイ虐殺(米軍の投稿勧告状を持ってきた住民を、海軍の守備兵がスパイ容疑で、軍事裁判抜きで処刑した事件=事件は6月以降、守備隊が米軍に投降したのは9月4日)も起きた。全島が戦場となった沖縄のみならず、満蒙開拓団のソ連軍からの逃避行も惨憺たるものだった。戦争はあらゆるものを巻き込んだのである。

あるいは生死が紙一重で死んだり、あるいは生き延びたりしたのであろう。悲劇なのかどうかも、すべては今にして言えることだ。合掌。

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)

編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。医科学系の著書・共著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)『ホントに効くのかアガリスク』(鹿砦社)『走って直すガン』(徳間書店)『新ガン治療のウソと10年寿命を長くする本当の癌治療』(双葉社)『ガンになりにくい食生活』(鹿砦社ライブラリー)など。

月刊『紙の爆弾』2020年9月号【特集】 新型コロナ 安倍「無策」の理由
『NO NUKES voice』Vol.24 総力特集 原発・コロナ禍 日本の転機

韓国・平昌市の安倍晋三土下座像から見えてくる〈閉ざされる世界〉

◆従軍慰安婦像と土下座彫像

コロナ禍のなかで、世界が閉ざされようとしている。

水際防疫である検疫・入国禁止措置だけではない、政治的な相互鎖国が始まっているのだ。米中は「スパイの拠点」として、相互に領事館(テキサス州ヒューストン・四川省成都)の閉鎖を命じ、事実上の準交戦体制に入った。

韓国・平昌(ピョンチャン)市につくられた「永遠の贖罪」像

いっぽう、米朝対話・朝鮮南北対話は遠のき、日韓関係もまた「決定的な影響を受ける」(菅義偉官房長官)事態となっている。この「決定的な」事態を生起させようとしているのは、平昌(ピョンチャン)市の韓国自生植物園につくられた「永遠の贖罪」像である。従軍慰安婦を象徴する少女像に、ひざまずいているのが安倍晋三総理であるという。

植物園は「安倍首相が植民地支配と慰安婦問題について謝罪を避けていることを刻印し、反省を求める作品」としている。

そのいっぽうで、個人的にこれを作った園長のキム氏は、一部メディアの取材に「安倍首相を特定してつくったものではなく、謝罪する立場にある全ての男性を象徴したものだ。少女の父親である可能性もある」と話しているという。このコメントはおそらく、内外からの議論噴出・賛否の声が大きくなったことへの対応であろう。土下座像の近影をみると、どう見ても安倍総理の面影・姿勢であることは印象は否定できない。デフォルメされたものではない、きわめて写実的につくられた彫刻なのである。

◆日本政府の無策が泥沼化をまねいた

いずれにしても、冷え込んだ日韓関係がさらに深刻な状態になるのは必至だ。

というのも、この8月4日には徴用工裁判で凍結された日本企業資産が公示を終えて「現金化」されるからだ。これが実施されれば、韓国における日本企業のまともな企業活動は不可能となる。さらには軍事情報包括保護協定(GSOMIA)の契約更新も控えている。

ところが、もはや泥沼と化した日韓関係にもかかわらず、日本政府は「(土下座像は)国際儀礼上、許されるものではない」(菅官房長官)とコメントするだけで、何ら手を打とうとしない。

そもそも慰安婦少女像は民間で作られたものであり、韓国政府に「国際儀礼」をもとめても始まらない。民間人の政治表現であるがゆえにこそ、特使を派遣して韓国社会に直接うったえ、日本の立場を理解させる外交上の努力が必要なのだ。外交当局・韓国政府のみならず、韓国市民との対話を通じて「日本の謝罪の真意」あるいは「日本の誠意」を表明することこそ、日本政府が責任をもって行なうのでなければならない。

にもかかわらず、安倍政権は「不快感」を表明するだけで、何ら行動を起こそうとしないのだ。元来、きわめて政治的な韓国の司法において、世論に働きかけるより他に方法はない。司法判断を文政権にせまることで、三権分立を掘り崩そうとする安倍政権の対応が滑稽に見えてしまう。

文政権になって、初めて首脳会談が行なわれたのは一昨年の5月、日中韓サミットの付随的な会談だった。50分の首脳会談ののち、ワーキングランチが約1時間、形式的な「日韓関係を未来志向で発展させていくことを確認し」たにすぎなかった。

昨年12月の会談も安倍総理の訪中のさいに行なわれた付随的なもので、わずか45分という短さだった。通訳を通しての会談であれば、実質的な会話は半分以下、それぞれが10分程度の発言となる。事前の事務方協議がある会談とはいえ、じつに無内容な会談となったのである。

しかも「日韓両国はお互いに重要な隣国同士であり、北朝鮮問題をはじめとする安全保障にかかわる問題について、日韓、日米韓の連携は極めて重要だ」「この重要な日韓関係を改善したい」(安倍総理)。これにたいして「直接会い、正直な対話を交わすことが重要だ。両国がひざを交えて知恵を出し、解決方法を早く導き出すことを望む」(文大統領)という聞こえの良い共同記者会見の中身が、継続されることはなかった。

◆不可逆的なモニュメント

2015年8月、韓国・西大門刑務所の跡地で頭を垂れる鳩山友紀夫元総理

それにしても、従軍慰安婦問題は「不可逆的に解決」したはずである。その結果、新たに完成したのは、安倍総理をかたどった「非可逆的なモニュメント」だった。

前政権を訴追ないしは殺す韓国を相手にした交渉において、そもそも「解決」など望むべくもなかったのだ。

それがたとい国際条約法上あるいは国際慣習上、不思議な事態であっても、韓国の世論が日本の謝罪をみとめないかぎり、けっして歴史観の一致はありえないのだ。

したがって、今後は金色の安倍晋三像にひたすら謝罪してもらい、足りない分は安倍総理自身が韓国の国民との対話をつうじて、その真意を理解してもらうほかない。安倍総理に「謝罪の真意」があれば、という仮定になるとしても、元総理・鳩山友紀夫氏がかつて中国、韓国において、頭を垂れたように。

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)

編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。医科学系の著書・共著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)『ホントに効くのかアガリスク』(鹿砦社)『走って直すガン』(徳間書店)『新ガン治療のウソと10年寿命を長くする本当の癌治療』(双葉社)『ガンになりにくい食生活』(鹿砦社ライブラリー)など。

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故郷・熊本の豪雨被害に涙する ── 新型コロナ感染と共に、この国難を乗り越えよう! 鹿砦社代表 松岡利康

熊本県民に愛されている歌に『火の国旅情』があります。1年に1度行われる関西の熊本県人会総会では最後にこの歌をうたうことが定番になっているほどです。県内の地域に因んで30数番までありますが、この中で、今回豪雨被害を受けた球磨地方と熊本市の部分を引用しておきましょう。──

「球磨のしぶきに泣きながら
古城に独り君憶う
落ち行く先は 九州の
相良さびしや霧が湧く
霧が湧くふるさとよ」
*ここの「古城」は人吉城、「相良(さがら)」は球磨郡相良村で平家の落人が住み着いたといわれる。

「風よ吹け吹け雲よ飛べ
越すに越されぬ田原坂
仰げば光る 天守閣
涙をためて ふりかえる
ふりかえる ふるさとよ」
*ここの「天守閣」は熊本城のそれ。


◎[参考動画]ばってん荒川 火の国旅情

わが故郷・熊本が未曾有の豪雨被害に遭いました。4年前の熊本地震は、熊本市を中心とする県内北部での被災でした。今回は人吉市を中心とする球磨川沿いの県内南部の被災でした。亡くなられた皆様に心より追悼申し上げ、被災された皆様方に心よりお見舞い申し上げます。

震災直後の熊本城

4年前の地震で、私の青春の象徴だった熊本城の天守閣や「武者返し」といわれる石垣が損壊いたしました。爾来こつこつと修復中ですが、4年経った今でも完遂していません。自慢するわけではありませんが、例の特別給付金10万円が振り込まれましたので、即全額熊本城修復のために寄付いたしました。もたもたしていると、こういうお金は、何に使ったかわからないうちになくなるものですから、あまり深く考えずに送金しました。

良いことを行えば、なぜか良いことがあるもので、GW前に目の疾患で手術入院した際の保険金35万円が出ました。さらに最近は、このかんの売上減少を見かねてか、在庫の書籍・雑誌を各1冊づつ(1600冊余り)を購入したいという申し出があり、失礼ながらウソかと思っていたところ、ぽんとに140万円が振り込まれ驚きました。こういうこともあるものですね。

在庫リストにない本もありましたので、実際に出版した本は、もっとあり多分2000点近くになると思いますが、今回、あらためてチェックすると、よくもこれだけ硬軟織り交ぜて出版したものだとわれながら感心した次第です。

一方、故郷・熊本では、新型コロナの影響で知人や同級生が経営していた飲食店も2つ閉店しました。残念ですが、これからも、帰郷した折には旧交を温めたいと思います。年初からのコロナ蔓延と併せ故郷・熊本の頑張りを見守りたいと思います。「がまだしなっせ」(がんばりなさいという意味の熊本弁)

同上

手前味噌で恐縮ですが、年初からのコロナ蔓延で、当社も例外ではなく売上減少に見舞われています。近くのショッピングモールの2つの書店は4月、5月とまるまる休業し売上ゼロに近いので、出版社に響かないわけはありません。書店さんや飲食業などのように直接販売ではないので90パーセント減というようなことはありませんが、書店さんの売上減少が反映し、当社もかなり売上減少していることは否定いたしません。どこの出版社もそうでしょう。さらには、本年前半期で出版社・書店で20社余りが倒産したと報告されています。『商業界』とか「おうふう」といった老舗出版社もあります。

「事業継続給付金」は月に50%以上の売上減が対象ですが、さすがに月に50%減といえば1千万円以上の減となりますので、ここまでは落ちていません。ここまで落ちて200万円もらっても夜逃げ資金ぐらいにしかなりません(苦笑)。これに対し、安易に借入するのではなく、まずは「身を切る改革」、私の役員報酬を半額にしたり、広告出広を削減したり、さらに生命保険を解約し、この返戻金を得たりし、月々の保険負担を圧縮したり……このようにして月に150万円ほど圧縮できました。まだまだ圧縮できる余地はあると思います。考えられるどのような手を使ってでも何としてもこの国難ともいうべき災厄を乗り越えようと努めています。諦めずに生き延びてさえいれば、きっと良いこともあります。

基本は、あくまでも社員ファースト、第一は社員の雇用を守ることです。それも金額を減らさず遅れずに。今のところは、それはクリアし、また印刷所、ライターさんら取引先への支払いも遅れることなく迷惑を懸けないでいけています。本年後半は不透明ですが、社員と一致団結して、この困難を乗り越えていきたく考えております。売上が減少したとはいっても、豪雨被害やコロナ感染で亡くなられたり甚大な被害を蒙られた方々に比べれば圧倒的にましです。

私や鹿砦社はこれまで、壊滅的打撃を受けた15年前の出版弾圧(2005年)、その前の阪神大震災(1995年)など、幾度となく困難に見舞われてきましたが、その都度、皆様方のご支援を賜り運良く乗り越えてまいりました。会社を再興したここ10年は、ヒットが続いた際には、高校の同級生がライフワークとして始めた島唄野外ライブ「琉球の風」はじめ志あるイベントや運動に利益を還元してきました。寺脇研さんの映画や3・11東北大震災(日本赤十字社)などにも100万円単位で寄付しました。中には還元する相手を見誤ったこともありましたが(苦笑)。今はそうもいかなくなりましたが、何卒ご容赦ください。

そのようにお金に執着しない生き方をしてきた私もそろそろリタイアーを考えないといけない歳になりましたが、こんなことをやってきましたから、建売の23坪の自宅1軒が残ったぐらいで資産も預金も残せませんでした。無計画な中小企業経営者には退職金もありません。3千万円も4千万円も退職金をもらえる公務員が羨ましくないわけではありませんが、小役人的生き方を拒否してこの仕事に入ったわけなので、まあ仕方ありませんね。今のところはまだましなほうでしょう。なにしろ15年前は地獄に落とされ、「もう終わったな」と思ったぐらいですから──。

とりとめのない話になりましたが、自分を鼓舞するために書いています。たまにはご容赦ください。ともかく今が踏ん張りどころ、「がまだす」しかありません。

訪れた、ある避難所に貼られた寄せ書き
月刊『紙の爆弾』2020年8月号【特集第4弾】「新型コロナ危機」と安倍失政 河合夫妻逮捕も“他人のせい”安倍晋三が退陣する日
〈原発なき社会〉をもとめて『NO NUKES voice』Vol.24 総力特集 原発・コロナ禍 日本の転機

侵略を脱し、自分たちの夢を追うということ ── 劇映画『世宗大王 星を追う者たち』を観て 小林蓮実

2020年6月30日、中国の全国人民代表大会(全人代)常務委員会は「香港国家安全維持法(国家安全法:国安法)」を全会一致で可決・成立。香港政府はこれを即時施行し、それと同時にようやく条文が明らかになった。中国当局による香港での統制強化が可能となり、「一国二制度」は葬られた。最高刑は終身刑だ。翌7月1日の抗議行動では370人が逮捕され、3日に1名が起訴された。亡命の動きもある。

韓国の劇映画『世宗大王 星を追う者たち』を観て、まず、これらの報道を想起した。世宗(セジョン)大王とは、「聖君」として知られる李氏朝鮮の第4代国王だ。ハングルの生みの親であったことは映画やドラマをきっかけに知っていたが、鑑賞後に調べると、本作の主人公ともいえる科学者チャン・ヨンシルとともに実際、天文台・簡儀台の設置、日時計と水時計の製作などを手がけている。

(C)2020 LOTTE ENTERTAINMENT All Rights Reserved.

◆李氏朝鮮と現在の香港との共通性

なぜ香港の報道を想起したかといえば、やはり当時の宗主国である明の支配、そして長いもの=権力をもつ明にまかれようとする中央官職に就く人々が、世宗やヨンシルの敵として描かれているからだ。

もちろん実際、強大な国である中国は過去から現在にいたるまで拡大志向であり、いっぽうの朝鮮半島はアジア大陸の東端にあって侵略され続けた歴史のなか、幾度も立ち上がってきた。個人的には、現在の共和国の姿勢も、そのような歴史を抱えながら他の社会主義国が追いこまれていく様子を目の当たりにしてきたことが背景にあると考えている。結果、主体(チュチェ)思想が生まれたのではないだろうか。

話を戻せば、時代は変われど、また作品としてタイミングを意識したわけではないにせよ、この中国の属国として葛藤しながら耐え続けた朝鮮と、現在の香港の状況とが重なるように感じたというわけだ。

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◆「星を追う」名シーン

ちなみにお気づきの方もいらっしゃるかもしれないが、わたしは韓流ファンでもある。ドラマに始まり、映画、K-POP、バラエティーにもはまっているのだ。特に、最初に心を奪われた韓流ドラマの時代物では、下層から人柄やセンス、能力や努力によって這い上がっていくストーリーが多く、そこにはまった。

本作でも、奴婢(賤民)だったヨンシルが能力や努力を買われ、世宗と交流していくさまは、BL(ボーイズラブ)否、男2人の深い友情物語として満喫できる。ヨンシルは北極星は世宗だと言い、世宗はその脇の明るい星(四輔星:サボソンだったか)をヨンシルだと言う。星の見えない夜にも、ヨンシルは世宗に「星空」を見せる。これらのシーンはとても美しく、本作のみどころの1つといえるだろう。ただし、ラストシーンは、思い入れをもって観るほどに、複雑な心境となるかもしれない。だが実は、ここにもまた史実の一片が含まれていることを、鑑賞後に調べて知った。

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韓流映画やドラマのファンとしては、やはりスタッフや俳優陣のチェックも楽しみとなる。『世宗大王 星を追う者たち』の監督であるホ・ジノは『八月のクリスマス』『四月の雪』や最近Abema TV でも時々放送されている『オガムド 五感度』などを手がけている。世宗役のハン・ソッキュは、映画なら同じく『八月のクリスマス』やあの『シュリ』など、ドラマでは実は『根の深い木 世宗大王の誓い』でも世宗を演じていたのだが、『根の深い木』も大変興味深い作品なので、ぜひご覧いただきたい。ヨンシル役のチェ・ミンシクも映画では『シュリ』『オールドボーイ』『バトル・オーシャン 海上決戦』などの出演するほか、ドラマでも活躍している。もちろん脇役にも、見た顔がちらほら。そんなチェックも楽しみたい。

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◆ともに夢を見る者の間に育まれた友情

さて、侵略に話を戻す。日常でも人は、他人を味方につけ、敵でないと安心したいものかもしれない。しかし、侵略には限りがなく、現代においては多くの国家においては基本的に否定されている。ところが、武力・財力など、さまざまな武器を用い、いろいろな侵略をおこなっているのだろう。それに対抗するにはどうすればよいかという話の先に9条の議論もあるのかもしれない。

しかし少なくとも、壁と卵なら壁の側が武力を行使してはならず、また卵であるところの現場に生きる1人ひとりの市民・民衆の声に耳を傾けねばならないだろう。その点で、世宗は民が学べるようにと独自の文字を編み出したように、香港の民主化・独立を求める大きなうねりをつぶしてはならず、中国は香港の市民の声を聞かねばならない。香港には知人の活動家もいて心配であり、これは国内での思想の左右を問わない問題であるように思われる。

『世宗大王 星を追う者たち』を観て改めて、夢をともに追い求める人間の姿やその間にある愛情をぜひ感じてほしい。そして、あなたにも「星」を追い続けてほしいと思う。


◎[参考動画]映画『世宗大王 星を追う者たち』日本版予告(株式会社ハーク)

2020年9月4日シネマート新宿ほか全国順次ロードショー
監督:ホ・ジノ 出演:ハン・ソッキュ、チェ・ミンシク、シン・グ、キム・ホンパ、ホ・ジュノ、キム・テウ
【2019年/韓国/韓国語/133分/スコープサイズ】 英題:Forbidden Dream 配給:ハーク
公式HP: http://hark3.com/sejong/

▼小林 蓮実(こばやし はすみ)
フリーライター、アクティビスト。映画ファン、韓流ファンでもあり、ソウル訪問のほか訪朝も3回。『現代用語の基礎知識 増刊NEWS版』に「従軍慰安婦問題」「嫌韓と親韓」、雑誌『neoneo」No.08に「朝鮮を外から描くドキュメンタリーが抱える妄念」、ここ『デジタル鹿砦社通信』に「闘う姿に胸を打たれ、自らの闘いを問われる2作品 ── チェ・スンホ監督『共犯者たち』『スパイネーション/自白』」などを寄稿。

月刊『紙の爆弾』2020年8月号【特集第4弾】「新型コロナ危機」と安倍失政 河合夫妻逮捕も“他人のせい”安倍晋三が退陣する日
〈原発なき社会〉をもとめて 『NO NUKES voice』Vol.24 総力特集 原発・コロナ禍 日本の転機

感染病と天災は帝の責任だった 天皇制はどこからやって来たのか〈番外編〉

「感染症と人類の歴史」の日本編を書こうとしていたところ、やはり王権史と不可分になる。よって、本稿は「天皇制はどこからやって来たのか」の続編となった。ということで、中身は古代王権および近世の絶対王政における西欧との比較史にならざるをえない。天皇史については、女性天皇および女性宮家の議論に引きつけて、古代女帝論を連載していますのでご一読ください。

◆安倍総理は大丈夫か?

国家の危機管理が政治の責任である以上、感染病をふくめた災害がすべて「人災」と評価されるのはやむを得ないところだ。わが安倍総理においては、もはや意識も朦朧とした状態で、記者会見では官僚が書いた文書を読むことしかできない。わずかに激情的なところは健在で、アベノマスクをあげつらわれると、答弁が激昂する。などと、世間の酷評もある。危機管理のきわめて苦手なこの宰相が、第一次政権のときのように体調を崩さなければよいのだが……。

『金枝篇』の著者ジェームズ・フレイザー(1854年1月1日-1941年5月7日)

◆自然との調和をもとめられる王権

さて、古代王権である。

古代のヨーロッパには、宗教的権威を持つ王が弱体化すると、新たな王を戴く「王殺し」の風習があった(ジェームズ・フレイザー『金枝篇』)。

そのいわれは、イタリアのネミ村の故事である。断崖の真下にある金の枝を手にすることで、逃亡奴隷は森の王となれる。ただし、新たに森の王となるには、金枝だけでなく現在の森の王を殺さなければならないのだ。王を殺す風習はしたがって、古い王が自然との調和を欠いた時、新たな王が取って代わることによる。この寓話は古代において、王朝交代の大義名分となった。

すなわち、自然災害や疫病はこれすべて王の不行状によるものだとして、新たな王は古い王の罪状をあげるのだ。とくに暴君が廃されたところに、われわれは古代ギリシャ・ローマの民主主義のつよさを感じる。

本連載の3回目「院政という二重権力、わが国にしかない政体」の第1項、「殺されるヨーロッパの王たち」において、「歴代ローマ皇帝七十人のうち、暗殺された皇帝が二十三人、暗殺された可能性がある皇帝は八人である。ほかに処刑が三人、戦死が九人、自殺五人。自然死と思われるのは二十人にすぎない」と解説してきたとおりだ。

もともと民主制を基礎にしたローマ皇帝の場合は、上級貴族である元老院の承認が必要であって、王朝交代もふくめて世襲は限られている。世襲が独裁をまねき、民主制をくつがえす潜主をまねくと考えられてきたからだ。事実、11代皇帝のドミティアヌス、賢帝マルクス・アウレリウスの息子のコモドゥスなど、世襲の息子には暴君が多く、かれら暴君はことごとく暗殺されている。

イギリスを創ったとされるアーサー王

東西ローマ帝国においては、キリスト教の受容によって教皇庁および教皇という教会権力が、政治システムとして王の上に君臨した。それは現在のローマ教皇庁につながり、汎世界的な宗教センターとなっている。ローマは皇帝から教皇庁の支配するところとなった。中世の終わりまでこれは神聖ローマ帝国としてつづく。

中世的な王権が成立するのは、ローマ教皇が兼務したフランク王国(現在のイタリア・フランス・ドイツ・ベルギー・オーストリアなど)から諸民族の王が分立してからである。それは近世的な民族国家の萌芽でもある。

中世においても、王は人間の身でありながら宇宙の秩序を司る存在であるから、その能力を失った王を殺害して新たな王を擁立して秩序を回復することが、王朝交代の名分となっていた。中世は司祭の職能者としての王が殺され、王朝は取って代わられる時代だったのだ。

不可侵の王権神授説が登場するのは、絶対制権力としての近世王朝を待たなければならない。イギリスを創ったとされるアーサー王は5世紀の人物(伝説)であり、ローマ帝国を破ってブリテンに自由をもたらした。その意味では天地創造などキリスト教の聖書世界に属するものではない。したがって、ヨーロッパの諸王は王権を神から授かったという宗教理論をもって、その正統性を説明することになったのだ。爾後、国王殺しは大罪となったのである。

◆天子相関説

古代の東洋においても、王(皇帝)の責任は天変地異と疫病におよんでいた。天子が行なう政治が天と不可分であるとする「天子相関説」である。天子の為すところは自然現象に反映され、したがって悪政を行なえば大火や天変地異や疫病をもたらす。天子が善政を行えば、瑞獣や瑞雲の出現などさまざまな吉兆として現れるというのだ。こういった主張は、天子(君主)の暴政を抑止するために、一定の効果があったものと考えられる。

じつは「万世一系」とされる本朝の皇統においても、天子(帝)は天変地異や疫病の責任を問われた。奈良朝の聖武帝が天然痘の猛威によって遷都をくり返し、国分寺と国分尼寺を全国に、奈良に盧舎那大仏を建立したのはすでに述べたが、くり返しておこう。

奈良朝の735年から737年にかけて発生した天然痘の流行は、当時の日本の総人口の30%にあたる100万~150万人が感染により死亡したとされている。この天然痘は735年に九州で発生したのち全国に広がり、首都である平城京でも大量の感染者を出した。737年6月には疫病の蔓延によって朝廷の政務が停止される事態となる。藤原不比等の4人の息子が、相次いで病に斃れた。

いっぽうで、古代天皇権力と藤原氏に代表される貴族(荘園領主)との争闘が、仏教事業をめぐってくり返されていた(長屋王の変、藤原広嗣の乱、橘奈良麻呂の乱、恵美押勝の乱)。最終的には藤原氏の陰謀(弓削道鏡の宇佐神宮神託事件)によって、女帝(巫女)の神託政治が廃され、同時に摂関政治への道がひらかれるわけだが、祟りを怖れ吉兆を尊ぶ政治が終わったわけではない。平安の世の貴族政治は、古代王朝以上に神仏を敬い、その怒りを怖れていた。したがって帝たちは、つねに陰陽師の差配をうけ、あるいは天変地異にその政道を左右されたのである。天変地異にその地位を揺さぶられた、平安朝の典型的な天皇を紹介しよう。

◆天変地異に祟られた天皇

清和帝の人生は、幼い頃から波乱含みだった。

即位したのはわずか9歳、日本史上初の幼帝である。政治の実権を握っていたのは母方の祖父藤原良房で、藤原北家全盛の礎を築いた人物である。また、帝の息子である源経基は源氏の初代であり、清和源氏という血脈でもその名を知られる。
その清和帝の「治世」をざっと年表で確認してみよう。

天変地異に祟られた清和帝(850年-881年)

858年 即位(9歳)
864年 富士山が噴火
866年 応天門の変。大干ばつ
867年 別府鶴見岳・阿蘇山が噴火
868年 京都で有感地震(21回)
869年 肥後津波地震、貞観大地震★
871年 出羽鳥海山の噴火
872年 京都で有感地震(15回)
873年 京都で有感地震(12回)
874年 京都で有感地震(13回)。開聞岳噴火
876年 大極殿が火災で焼失。譲位
878年 関東で相模・武蔵地震
879年 出家。京都で有感地震(12回)
880年 京都で地震が多発(31回)。死去(享年31)

ほとんど毎年、天変地異に襲われていたことになる。

869年の貞観大地震と9世紀の大地震分布図

このうち最も有名なのは、869年の貞観大地震である。地震の規模は少なくともマグニチュード8.3以上であったとされる。地震にともなって発生した津波による被害も甚大であった。東日本大震災はこの地震の再来ではないかと言われている。
日本紀略、類聚国史(一七一)から、その態様を伝えておこう。

「5月26日癸未の日、陸奥国で大地震が起きた。空を流れる光が夜を昼のように照らし、人々は叫び声を挙げて身を伏せ、立つことができなかった。ある者は家屋の下敷きとなって圧死し、ある者は地割れに呑まれた。驚いた牛や馬は奔走したり互いに踏みつけ合い、城や倉庫・門櫓・壁などが多数崩れ落ちた。雷鳴のような海鳴りが聞こえて潮が湧き上がり、川が逆流し、波が長く連なって押し寄せ、たちまち城下に達した。内陸部まで果ても知れないほど水浸しとなり、野原も道も大海原となった。船で逃げたり山に避難したりすることができずに千人ほどが溺れ死に、後には田畑も人々の財産も、ほとんど何も残らなかった」

◆不徳の天子

この貞観地震の教訓は「中通り」と呼ばれる内陸地への居住、街道の発達となった。しかしながら現地(東北太平洋側)では伝承がとぼしく、東日本大震災後にあらためて注目されることになったのだ。

清和帝時代は、このほかに京都でも三年間に40回の有感地震が記録され、大極殿が火災で焼失されるにいたり、帝は譲位を余儀なくされる。31歳で病没まで、地震の多発に悩まされた。

貞観大地震が起きた869年(貞観11年)はまた、祇園祭が発祥した年でもある。京都八坂神社の伝承によると『貞観11年に全国で大流行した疫病を抑えるためにはじめた』とされている。大地震と疫病の発生は、偶然であろうか。朝廷内にも、帝の責を問う者は少なくなかったという。ために、清和帝は退位後に得度し、仏教修行にこれ努めている。天災は天子の責任なのである。

神戸大震災と東日本大震災をその在位期に体験した平成上皇は、当時であればさしずめ「不徳の君子」と言わざるを得ないのであろう。そして令和天皇もまた、感染禍の君子であろうか。

◎[カテゴリー・リンク]感染症と人類の歴史
◎[カテゴリー・リンク]天皇制はどこからやって来たのか

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。医科学系の著書・共著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)『ホントに効くのかアガリスク』(鹿砦社)『走って直すガン』(徳間書店)『新ガン治療のウソと10年寿命を長くする本当の癌治療』(双葉社)『ガンになりにくい食生活』(鹿砦社ライブラリー)など。

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衰亡の北九州と繁栄の博多(福岡市) 工業都市の凋落に見る昭和の歩み

衝撃的なニュース。いや、予期されていた大型百貨店の閉店である。

2020年5月20日付西日本新聞

【北九州市八幡西区の百貨店「井筒屋黒崎店」が入居する商業ビルを運営する「メイト黒崎」が、東京地裁から破産手続き開始決定を受けたことが20日、分かった。決定は11日付。破産管財人の弁護士によると、負債総額は約25億2600万円。井筒屋黒崎店は同じビル内の専門店街「クロサキメイト」(約80店)とともに8月に閉店する。】(西日本新聞・5月20日)

「北九州市の衰亡」とでも表現しておこう。2000年の小倉そごう、2001年の門司山城屋、2002年の小倉玉屋の閉店につづき、北九州からまたひとつ、商業・情報発信の拠点がうしなわれたことになる。

いっぽう、福岡市(博多)はこの5月に人口が160万を超えた。政令指定都市の中で160万人をこえるのは、横浜市・大阪市・名古屋市・札幌市についで5番目だという。福岡市の年間移入者数は1万4千人あまりで、じつにその8割が15歳から24歳である。つまり、高校・大学進学と就職の両面で、地方における一極集中が加速しているのだ。

2020年5月20日付西日本新聞

北海道における札幌市、東北における仙台市、中国地方における広島市と、ミニ東京への人口集中が、その他の地方の衰亡を招いている。そんな中でも、北九州市の衰亡は昭和型工業都市の凋落、福岡市は商業都市の隆盛として典型的であろう。

◆重厚長大産業の崩壊

北九州の凋落と福岡市の隆盛は、まさに戦後の日本の歩みを象徴しているといえよう。もともと福岡市(博多)は黒田52万石の城下町で、戦国時代いらいの博多商人の商業地でもあったのは史実である。

しかし、わたしが北九州に生まれた昭和30年代には、博多は単なる地方の商業都市にすぎなかった。というのも、北九州が五市合併(小倉・八幡・門司・若松・戸畑)で沸き立ち、県庁所在地(福岡市)を圧倒するいきおいで人口が増えていたからである。東京都の向こうを張って「西京市」という新市名が検討されたほどである。なぜ博多(福岡市)のように地味な町に県庁があるのか、子供ごころに不思議だと思っていたものだ。

合併のなった昭和38年に、三大都市圏(京浜・阪神・中京)以外では、初の政令指定都市となった。世に言う「日本四大工業地帯」のひとつでもある。すごいのは工業だけではなかった。門司鉄道総局とその機関区は九州の国鉄の司令部であり、西鉄の路面電車は80年代に全国最長を誇った。3大新聞の西部本社が存在するという意味でも、北九州市は博多(福岡市)を圧倒していたのだ。※松本清張は朝日新聞社の嘱託だった。

だが、その産業構造は石炭(炭田)と鉄(八幡製鉄)・セメント(石灰石産地)・化学工場(三菱・住友)・窯業(TOTO・黒崎播磨)など、重厚長大そのものであった。※佐木隆三は八幡製鉄、草刈正雄は東洋陶器の社員だった。

♪天に炎をあぐる山 鉄の雄叫び洞海に

わが母校の校歌の一節である。炎をあげている山は筑豊炭鉱(炭田)のぼた山、洞海湾にとどろく鉄の雄たけびは、いうまでもなく八幡製鉄である。なんともワイルドで、高度成長下の昭和を感じさせる歌詞ではないか。じっさいに校舎の近くには石炭列車の引き込み線があり、教室の窓から洞海湾が望めたものだ。

往時の八幡製鉄は2交代制勤務で、八幡の山沿いに住んでいる労働者たちは、リポビタンDを早朝・深夜営業の薬局でもとめ、ゾロゾロと工場の門に吸い込まれていた。また、小倉の繁華街では明け方まで、夜勤の新聞印刷労働者たちが酒を酌み交わしていたという。

若松港や門司港は、火野葦平の父親・玉井金五郎親分の時代から、港湾労働者(沖仲士)のメッカでもあり、喧嘩っぱやい気質は「北九モン」(北九州者)と、他県の人々から怖れられていたものだ。その地に仕事をもとめて、日豊線・筑豊線・日田彦山線・山陽線からの労働力が集中したのである。

だがその重厚長大な産業構造は、高度成長の限界とともに下降線を描くことになる。博多(福岡市)にくらべて、土地の狭隘さも仇となった。北九州市は海に面しているとはいえ、旧五市の中心地が山に遮られた盆地のような形状なのだ。住宅地は山裾に貼りつき、風光明媚な風景の反面で住みにくい町でもあった。

工業地帯としての凋落は、八幡製鉄と富士製鉄の合併(新日本製鐵・昭和45年)から始まった。このとき、多くの鉄鋼労働者家族が千葉県の君津(新日鉄君津工場)に移住し、北九州市の100万都市「崩壊」がはじまった。オイルショックのさなか、八幡製鉄所の溶鉱炉が消える。いよいよジリ貧である。

現在では、ネットのまとめサイト(Wiki)によると、工業地帯(地域)としての産業規模も凋落している。

【京浜工業地帯約55兆円、中京工業地帯約48兆円、阪神工業地帯約30兆円、北関東工業地域約25兆円、瀬戸内工業地域約24兆円、東海工業地域約16兆円、北陸工業地域約13兆円、北九州工業地帯約7兆円となり、工業地帯とは大きな差が開き、5工業地域との比較でも最少の北陸工業地域の半数程度まで低下した。】

ちなみに、現在の北九州市は自動車産業(郊外に工場誘致)が主要な産業だという。都市特有のドーナツ現象で、小倉魚町いがいの商店街はシャッター通りと化している。

北九州市観光情報サイトより

◆天神というブランド

北九州市の凋落のいっぽうで、博多(福岡市)は広大な筑紫平野とアジアへの航路を背景に、商業都市としての発展をとげてきた。天神は東京・横浜発の流行情報を真っ先に取り入れ、中洲は歓楽・観光拠点として全国に知られるようになった。

凋落の始まった北九州が、パンチパーマとノーパン喫茶、競輪発祥の地として、社会の仇花のような名を売っていた時期である。六本木とそん色のない天神の繁華街、プロ野球ダイエーホークスの誘致によって、両者の勝負は決定的なものになった。かたや旧100万工業都市、かたやアジア経済の拠点である。

もともと、黒田52万石時代に旧領の中津などから移住がおこなわれ、とくに美女を集めたといわれている。この事情は、佐竹氏(茨城→秋田)が美女を新領地の秋田に移住させたとする説「秋田美人」と重なる、いわゆる「博多美人」である。北九州の女性の「ケバさ(関西風の厚化粧)」にくらべて、いかにも東京風に洗練されている。このあたりも一因となって、若者の北九州離れ、博多流入が加速されたとみていいだろう。

いまや北九州は全国の政令指定都市のなかで、老齢化率ナンバーワンとなって久しい。じっさいに小倉や黒崎の街を歩くと、お婆さん率の高さに驚かされる。

そんな北九州市が生き残る方法は、もはや観光しかないのだ。門司港(レトロ地区)を中心に、映画のロケ誘致、古い倉庫群の保存などが、ようやく実を結びつつあるものの、広大な市域が不均等な発展、すなわちスラム化をもたらしている。その結果が、今回の黒崎井筒屋の閉店であろう。

あまりにも希望がなさすぎるので、宣伝用に観光広告を貼らせていただく。どうか、衰亡いちじるしい北九州市をよろしく。

◎北九州市観光情報サイト https://www.gururich-kitaq.com/
◎門司港レトロ http://www.mojiko.info/


◎[参考動画]わたしの北九州 ~近代産業発祥の地に刻まれた近現代建築を訪ねて ~(北九州市観光情報ぐるリッチ北九州)

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)

編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。医科学系の著書・共著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)『ホントに効くのかアガリスク』(鹿砦社)『走って直すガン』(徳間書店)『新ガン治療のウソと10年寿命を長くする本当の癌治療』(双葉社)『ガンになりにくい食生活』(鹿砦社ライブラリー)など。

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被ばく問題を知って欲しい ── 被ばくで福島の人を差別するのではなく、福島の人を守っていくために ジャズピアニスト河野康弘さんに聞く 尾崎美代子

ジャズピアニストの河野康弘さん(66歳)と出会ったのは、震災から4年目。2015年10月にTwitterの私のアカウントに「地球ハーモニー」という知らない方からリプが届いた。アカウント「地球ハーモニー」を主宰する河野さんは、矢沢永吉さんのバックバンドや中村雅俊さんの伴奏などを務めたのち、1983年ジャズピアニストとしてアルバムを発表してきた方と知った。また2011年3月11日の震災と原発事故後、東京から京都に移住してきたことも知り、その後、私たちが主催する講演会などで演奏していただいたりしてきた。(聞き手=尾崎美代子)

◆そのとき音楽があったら、共感の輪が広がります

河野康弘さん

── 河野さんは事故当時は東京でしたね?

河野 はい。JR中央線国立駅近くの自宅に家族と一緒にいました。かなり大きく揺れたので首都圏壊滅と思いました。それまで演奏の旅先で芸予地震、薩摩地震、中越地震に会いましたが、それ以上の揺れでした。テレビで震源地が東北、津波の映像を見て驚いたが、まだ原発のことまでは考えていませんでした。

── 河野さんは91年の湾岸戦争をきっかけに平和と環境問題をテーマに活動するようになったそうですが?原発を考えるきっかけもそのころからですか?

河野 湾岸戦争に日本が参加し残念だったので、平和・環境コンサートを始めました。平和・環境運動が「特定な人」だけの活動のように感じたので、音楽で広範な人が考えるきっかけを作っていきたいと思いました。ダム反対でも、「反対! 反対!」だけでは前に進まない。そのとき音楽があったら、共感の輪が広がります。

演奏活動で福井県敦賀市、福島県田村市に演奏に行った時、周辺に白血病などの病気が増えた話を聞きました。また静岡県牧之原市では神奈川県に住んでいた青年が浜岡原発に就職。息子さんが最新のエネルギーシステムでの仕事を誇りにしてたので御両親も浜岡に移住。移住してから息子の体調が悪くなり、とうとう亡くなりました。原因は原発作業での被ばくだったのです。そんな現実を知り原発は無くしたいと思いました。

◆2011年4月、南相馬の避難所では、匂いもしないし、食事も美味しい。放射能の事がピンとこなかった……

── 福島第一原発が気になりだしたのはいつ頃からですか?

河野 津波が福一を襲い全電源停止になった時です。

── 福島の危険性について考えたのはいつからですか?

河野 葛飾区の浄水場や静岡のお茶からセシウムが検出された頃です。チェルノブイリと同じなのか? もっと酷い状況になるのか?

4月下旬に福島の避難所が落ち着いてきたから、心のケアがして欲しいと演奏を頼まれ、事故後初めて福島へ行きました。福島市で友人に会い、市内から車で飯舘村を通って、南相馬の避難所に行きましたが匂いもしないし、食事も美味しい。放射能の事がピンとこなかった。

連れ合いが心配して「福島へは行かないほうがいいんじゃない」と言い始めたのですが、呼ばれたら行かないわけには行かない、と悩み簡易ガイガーカウンターを購入し、福島へ行った時に放射線量を測りました。高いところでは0.7マイクロシーベルトもあり福島での被ばくを実感しました。 

◆2012年2月、37年住んでいた東京を離れ、家族4人で京都へ移住

── 東京の生活はどうでしたか?

河野 連れ合いの体調が悪くなり下痢がずっと続き被ばくが原因では、と思い始めました。本やネットでいろいろ調べ内部被ばくの事を知り、食べ物を西日本、北海道の物に限定。近くのスーパーでは、あまり置いていないので電車に乗って買いに行き、西日本・北海道へ演奏旅行に行った時は現地の食材を家に送りました。

3月21日、金町浄水場からセシウムが検出された時は鹿児島県霧島市にいて水を送ろうと大きなスーパーに行きましたが、まったく無くなかったので山の中の水の販売所に行き買って送りました。

水、食べ物はどうにかなるが、空気だけはどうしようもない。今のコロナと一緒。目に見えない、匂いもしないから。東京には沢山の放射能が降り積もったので無くなる事はありませんのでリスクを減らすには移住をしなければ、と考えました。
 ネットで西日本を沖縄まで探し京都の嵐山に良い部屋が見つかり、2012年2月に家族4人(私、連れ合い、息子、義母)で移住しました。東京に37年住んでいたので移住することを知り合いの皆さんに伝えたら、ビックリされました。

── そうですね。小さい子どももいるわけでもないしね。

河野 被ばくの影響が出るのは子どもだけではないんですよね。チェルノブイリでも、最初に亡くなったのはお年寄り。全員に影響があります。

── 京都に来てから変化はありましたか?

河野 連れ合いは体調が良くなりました。あと実は、セキセイインコも連れてきたのです。2001年に飼ったから10年目でしたが、事故後元気がなくなり、止まり木にも上がらなくなりました。ところが京都に来たら、いきなり元気になって止まり木にも上がるようになり驚きました。小さな動物は影響が大きんですね。

── その後、京都、関西のいろんな活動に関わっていったのですね?

河野 はい、いろんな団体から連絡がきたり呼ばれたり、こっちから「一緒にやりませんか?」と声をかけたり……。

── 私に連絡あったのもその頃ですかね? 

河野 確か、堺市に避難してきた現代美術家と「原発ゼロ」写真展&ライブをやりたいと思ったときかな?

河野康弘さん

◆福島だけでなく、首都圏も同じ

── そうでしたかね? ところで河野さんはその後福島へは?

河野 京都へ来てからも福島に行っていましたが、あることがあって、それから行っていません。

2014年に、福島から京都に避難している知り合いからメールがきました。「福島を忘れないでください。でも福島には来ないでください。福島のものを食べないでください」と書いてありました。福島に行くと福島は安全だから福島の子どもたちは避難できない。福島の食材を食べると福島の子どもたちは福島の物を食べなければいけなくなり内部被ばくする。福島だけでなく首都圏も同じ。なのでそれ以降、福島、首都圏へは行かないことに決めました。私の「意思表示」です。医師の三田茂医師も東京都小平市から岡山市に移住し首都圏の被ばく状況、危険性を訴えてくださっています。

── 一方で日本の反原発運動の中では時間が経つにつれ、被ばくの問題への関心が薄れていってる気がしますが?

河野 それは原爆が落とされた時の爆発の被害だけに目を囚われすぎ、その後に続いた被ばくの被害を問題にしてこなかったからです。ビキニ環礁の核実験の問題でも、第五福竜丸だけが取りざたされましたが、あの周辺には約1000漕の日本の船がいたんです。でも漁師の人たちは知らされなかったり、魚が売れなくなるから「被ばく」した事を言わないようにしていました。そして「核の平和利用」と言って原発を作り毎日、放射能が放出され全国の人が被ばく者になり4人に一人がガンになりました。福一事故後は2人に1人がガン。ガンの原因は被ばくが大きな要因になっています。

私は原爆の事を考えていただきたく’97年から被ばくピアノコンサートを始めました。その時は被ばくの事をあまり知らなかったのですが、福一事故後の情報収集で自分も被ばく者である事に気づきました。そして日本のすべてのピアノは被ばくピアノだったのです。そこで2011年7月に浜岡原発の近く牧之原市で現地のピアノを使った「被ばくピアノコンサート」をしました。京都に来てからは毎月「HIBAKU PIANO LIVE」をしています。被ばく情報資料をカバンに入れてあり興味を持ってくださった方にはお知らせしています。

被ばくの問題を皆さまに知っていただきたい。被ばくで福島の人を差別するのでは無く福島の人たちを守っていく為です。このままでは広島がそうであったように、福島が人体実験の場にされてしまいます。

── 今後も一緒にやっていきましょう。ありがとうございました。


◎[参考動画]河野康弘コンサート05052012 My Favorite Things”

▼尾崎美代子(おざき みよこ)

新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。
◎著者ツイッター(はなままさん)https://twitter.com/hanamama58

最新刊!月刊『紙の爆弾』2020年5月号 【特集】「新型コロナ危機」安倍失政から日本を守る 新型コロナによる経済被害は安倍首相が原因の人災である(藤井聡・京都大学大学院教授)他
『NO NUKES voice』Vol.23 総力特集〈3・11〉から9年 菅直人元首相が語る「東電福島第一原発事故から九年の今、伝えたいこと」他

天皇制はどこからやって来たのか〈08〉朝鮮半島からの血が、皇統をかたちづくっている

保守系の論者や天皇主義者のみなさんは「ひとつの民族、ひとつの王朝」と、ことさらに日本史を「美化」するのが好きだ。なんと狭い島国根性であろうか。日本の歴史はもっと汎アジア的であり、心を躍らせるほどダイナミックなのである。今回は万世一系とされる天皇家に断絶(王朝交代)があり、しかもその断絶が朝鮮半島からの「血」によって行なわれた史実を明らかにしよう。

あまりにも高齢であるがゆえに、神代の天皇たちは神話のフィクションであろうと考えられている。しかし中国の史書や日本の「記」「紀」に事蹟が明確に残されている天皇たちを、居なかったことにするわけにもいかない。そこには天皇家のルーツが秘められているに違いないのだから。

実在したとされる十代崇神天皇をはじめ、応神天皇ら事蹟の明白な天皇たちにおいてもしかし、困ったことに干支と年号(大化以前は、天皇の名前が元号)でしか、編年がたどれないのである。

第十四代仲哀天皇は「古事記」では、52歳で亡くなったとされる。在位は9年間であり、その末年に息子の応神帝が生まれたとされる。ところが、没年の干支(壬戌の年)を西暦に換算してみると、おかしなことになってしまうのだ。仲哀の崩御年を302年とし場合、応神の生誕年は330年ということになる。元号と干支の不便きわまりない点である。そこで、神話物語の脈絡から、ナゾを解いて行こう。

三韓征伐の神話では、西(朝鮮半島)に行けば「金銀をはじめとして、目燃えかがやく珍宝の国あり」という神託があったとされる。神功皇后はそれを信じたが、仲哀帝は「熊襲を討つべし」と主張した。仲哀は神の祟りに遭い、熊襲に討ち取られてしまう。神功皇后は熊襲を討ったのちに、朝鮮半島に三韓征伐をおこなう。半島の陣中で臨月を迎えるものの、そこはグッと我慢して(石を腰に巻いて)九州に帰還してから応神を産んだ。半島で2年ほど過ごしたとすると、神功皇后は半島で身ごもったことになる。そこで「応神の父親は誰だ?」ということになるのだ。

応神が九州で生まれたことから、応神王朝は九州の勢力だとする説が有力である。なぜならば、神功皇后は故仲哀天皇の腹違いの息子たち(香坂王・忍熊王)の二人を、琵琶湖に追い落として殺しているのだ。これは王朝交代劇である。九州の勢力が大和にのぼり、旧王朝を打ち倒す。三韓征伐の神話は、半島出兵と畿内への帰還という二つの物語で構成されているのだ。ここから明らかになるのは、神功皇后が朝鮮半島で妊娠したこと、九州の勢力が「東征」したという暗喩だ。神武東征の再版であろうか?

この神話を、現実の史実(ナゾの四世紀)と照らし合わせてみよう。三世紀の卑弥呼が死んだのは248年とされている(倭人伝)。そして男性王のもとで乱があり、台与が女王として邪馬台国を統(す)べた。ここで倭人伝は「倭国」の様子を伝えるのをやめる。中国も大乱の時代となったからだ。

四世紀の記録としては、366年に倭国が百済に使者をおくり、369年ごろに任那(日本府)が成立したことが明らかになっている。そして381年と404年に倭国が百済と新羅を攻めているのだ(広開土王碑)。これが神功皇后の三韓征伐であろう。そしてこの時期から巨大な前方後円墳が造られ、馬の埴輪が出現する。卑弥呼の時代には「倭には馬がいない」(魏志倭人伝)とされていたのに、日本に馬があらわれたのだ。どこからか? 

大陸もしくは半島からであろう。銅鐸が作られなくなり、鉄器が盛んに造られる。つまり応神王朝は馬と鉄器をもった勢力で、大和に攻め上ったのであろう。江上波夫氏の「騎馬民族説」である。おそらく百済および任那にいた、馬と鉄器をあつかう人びとが日本にやって来て、大和王朝を創ったのであろう。応神天皇は朝鮮半島系である、ということになるのだ。天皇家のルーツの少なくとも半分は、朝鮮半島だったことになる。

◆天皇家が認めた朝鮮半島の血

もうひとつは、平安遷都で知られる桓武天皇の母親が、百済人の末裔だった史実である。その史実は、平成上皇の天皇時代に日韓ワールドカップのときの所見(お言葉)としてマスコミに報じられ、保守派のとりわけ嫌韓派に衝撃をあたえたものだ。引用しておこう。

日本と韓国との人々の間には,古くから深い交流があったことは,日本書紀などに詳しく記されています。韓国から移住した人々や,招へいされた人々によって,様々な文化や技術が伝えられました。宮内庁楽部の楽師の中には,当時の移住者の子孫で,代々楽師を務め,今も折々に雅楽を演奏している人があります。こうした文化や技術が,日本の人々の熱意と韓国の人々の友好的態度によって日本にもたらされたことは,幸いなことだったと思います。日本のその後の発展に,大きく寄与したことと思っています。私自身としては,桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると,続日本紀に記されていることに,韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く,この時以来,日本に五経博士が代々招へいされるようになりました。また,武寧王の子,聖明王は,日本に仏教を伝えたことで知られております。(平成天皇談)

桓武天皇の母親は、高野新笠(たかののにいがさ)という女性である。光仁天皇の側室となり、山部王(のちの桓武帝)と早良王(のちに藤原種継事件に巻きこまれ自殺する)を生んでいる。父親は和乙継で、百済系の渡来人である。平成上皇が言うとおり、武寧王の子孫とされる。百済人がふつうに貴族の高官だった時代から、200年ほどを経た時代のことだ。日本の皇室が中国王朝と朝鮮王朝とふたたび交差するのは、清朝および李朝の時代である。

◎[カテゴリーリンク]天皇制はどこからやって来たのか

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)

編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など多数。

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天皇制はどこからやって来たのか〈07〉廃仏毀釈 ── そのとき、日本人の宗教は失われた

かつて日本人は、仏壇と神棚を同じ部屋に飾っていた。生活にもっとも近い場所に仏壇があり、その上に神棚が飾られ、さらに天井近くに御真影。すなわち天皇皇后の写真という祭壇の構成が、明治以降の一般的な家庭の風景であった。それ以前、江戸時代の日本人は神社を訪ねては、そこにある絢爛たる寺院の本堂にある阿弥陀如来像に、あるいは弥勒菩薩像、不動明王像や毘沙門天像に手を合わせていたのだ。その寺院を「神宮寺」という。古代いらい連綿と続いてきた、神仏習合の風景である。

われわれ日本人は、結婚式や七五三を神社および神道形式で祝う。お正月には三社参りをして、一年の平安と健康を祈願する。まるで宗旨は神道のようだ。しかるに、末期のことは菩提寺である寺院にまかせる。死んで仏になる日本人は、まちがいなく仏教徒であろう。仏式で結婚式を挙げる人は、お寺さんはともかく、あまり一般的ではない。ぎゃくにお葬式を神式で行なう家は、代々が神道信仰の家しかないはずだ。これらはすべて、明治以前の生活習慣のなごりなのである。

祭の神輿は、神社ゆかりの氏子会や崇敬会が中核で、町内会(自治会)と重なっている。盆踊りはお寺と町内会のコミュニティをもって成立する。この町内会こそ自民党の支持母体の基礎なのだが、今回はふれない。クリスマスはいかにも盛大に街を飾るが、そもそも信仰の範囲ではないはずだ。にもかかわらず、われわれ現代の日本人は神道と仏教、キリスト教の三つの宗教に等距離をたもち、何ら矛盾を感じていない。これはしかし、あまりにも信仰に深みのない、不信心であるがゆえの宗教生活の空白とは言えまいか。われわれ日本人にはキリスト教における安息日、あるいはイスラム教における日々の礼拝やラマダンなどの習慣がない。じつは明治維新による廃仏毀釈および国家神道化こそ、日本人から宗教心を抜き去ったと言っても過言ではないのだ。

◆そもそも、神仏習合とは何なのだろうか?

六世紀なかばに伝来した仏教は、大陸の先進文化として受け容れられた。単に経典だけではなく、渡来人による建築様式や美術をはじめ、仏教はさまざまな技術とともに受容された。

いっぽう、わが国には自然崇拝としての古神道があり、仏教の受容に反対する勢力も少なくなかった。物部守屋・中臣勝海(かつみ)らがその急先鋒で、仏教を庇護する蘇我馬子と激しく対立した。とくに守屋は、わが国最初の僧侶である善信尼ら三人の尼僧の袈裟を剥ぎとって全裸にし、公衆の面前で鞭打ちの刑に処したという。やがて仏教支持派と廃仏派は朝廷を巻き込んだ政争にいたり、その争いは軍事衝突に発展した。丁未(ていび)の乱である。この戦いで物部氏が滅びると、仏教は蘇我氏と推古天皇および聖徳太子のもとで隆盛をきわめた。

仏教が急速に受け容れられたのは、神道の弱点である死や病気(穢れ)への対処があることだった。古来の神道においては、神といえども死ねば黄泉の国に行かねばならない。現世の穢れをいくら祓い清めても、仏教のように高度な悟りには到達できない。ましてや極楽浄土には行けない。このことに気づいたのかどうか、道に迷った神々が仏教に帰依するようになるのだ。桑名の多度神宮寺には、つぎのような縁起が残されている。奈良朝の天平宝字7年(763年)のことである。

「われは多度の神である。長いあいだに重い罪業をなしてしまい、神道の報いを受けている。願わくば長く神の身を離れんがために、三宝(仏教)に帰依せんと欲す」

聖武天皇による大仏建立が行なわれ、国分寺・国分尼寺が全国に建てられていた時期だから、本朝が仏教国家に生まれ変るのに合わせて、多度の神も仏道に入ったのであろう。

これら神道から仏教への宗旨変えは、つぎのように解釈されている(『神仏習合』美江彰夫)。大規模な土地や荘園を持つことで、神を祀る立場だった「富豪の輩(ともがら)」に罪の意識が芽生えたが、その罪悪感は神道では癒せない。なぜならば、彼らは神を祀ることで私腹を肥やしてきたからだ。そこで彼らは神々を仏門に入れることで、救済をもとめたのである。やがて平安時代になると、仏が仮に神の姿で現れるという、本地垂迹説で神仏習合が理論づけられる。神社のなかに寺が建てられていたのは、およそこのような事情である。

具体例をふたつほど紹介しておこう。大分の宇佐八幡神宮は、渡来系の辛島氏が女性シャーマンを中心に支配してきたが、六世紀の末に大神氏が応神天皇の神霊として「誉田別命(ほんだわけのみこと)」を降臨させる。これが僧形の八幡神(のちに八幡大菩薩)である。

やがて大神氏は宇佐神宮内に弥勒寺を営み、宇佐神職団の筆頭に躍り出る。奈良の大仏建立に協力し、朝廷の庇護を受けたからだ。そして宇佐神宮が豊前一帯を配下に置いたのは、弥勒寺が周囲の寺院を通じて民衆を支配したからにほかならない。しかしながらその弥勒寺の伽藍は、明治維新によって破壊された。破壊された跡地には、料亭や土産物屋が甍を並べたという。宇佐神宮弥勒寺の信徒たちは、寄る辺をうしなったのである。明治四年の太政官布告によって、宇佐神宮は官幣大社となり、内務省の統制下に入る。八幡神社の総本山宇佐神社は、戦時中は神都と呼ばれた。

いっぽう藤原氏の氏寺である興福寺は、伽藍こそ壊されなかったものの、僧侶たちは同じく藤原氏の氏神である春日大社の神職団に編入させられている。しかし宇佐神宮では失われたものが、いまも春日大社と興福寺には残っているのだ。神職と僧侶が相互に祝詞を唱え、読経するシーン。すなわち神仏習合の原風景である。

◆かくして国家神道は、宗教であることを否定した

明治新政府出発のマニフェストは、木戸孝允の主導で定められた「五箇条の御誓文」だといえよう。天皇みずからが公家諸侯の前で「天地神祇」を祀り、公家を代表して三条実美が御誓文を読み上げたのが慶応4年3月15日。その13日後に「神仏判然令」が布告されたのである。のちに大日本帝国憲法に「万世一系ノ天皇ノ統治ス」とされるのものが「御誓文」には「大いに皇基を振起すべし」とある。天皇が治める国の基礎を奮い起こすべきだ、という意味だ。

その「五箇条の御誓文」の発布の翌日、一般庶民にむけて「五傍の高札」が掲げられた。高札の第三札には「切支丹邪宗門の厳禁」とある。じっさい岩倉使節団が訪米する直前(明治四年)に、伊万里(佐賀)県のキリスト教徒67人が捕縛されている。すぐに諸外国の抗議で撤廃されたものの、豊臣秀吉いらいのバテレン追放令をそのまま継承せざるをえなかった、明治政府の異教への恐怖と国際感覚のなさが露呈したかたちだ。これ以前(明治二年)にも、長崎の大浦天主堂に出入りするキリスト教徒3400人が逮捕されている。

かように、明治政府の宗教政策は、太政官府および内務省による強引な統制であった。法的には憲法第二八条の「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」つまり、安寧と秩序を妨げるようであれば、いつでも弾圧される「信教の自由」なのである。その宗教統制のなかで、神道のみが行政化されたのだった。

行政上は、神祇官(のちに神祇省)の復活が行なわれた。この神祇官は職階こそ太政官よりも上位だが、位階は従五位の下と低い。とても天皇を頂点にいただく新政府の中枢として、耐えられるものではなかった。やがて神祇省は廃止されて教部省となり、のちに内務省社寺局に統合される。そして宮中において、天皇をいわば最高神祇官とする体制がつくられたのだ。天皇祭祀の業務はしたがって、宮内省式部寮が執り行なうことになる。祭祀が役所から禁裏に移され、ここに神代天皇制への復帰が行なわれたのである。

明治33年になると、内務省の社寺局が神社局と宗教局とに分離された。これは官幣社および国幣社などの神社が、行政的には宗教ではないという意味である。

いっぽうでは小さな神社や民間信仰の祠などが統廃合され、神道は国家の行政機関に組み込まれたのである。国家の行政組織になることを拒否する民間神道(教派神道)はすくなからず弾圧の憂き目をみている。

祭祀は伝統的な行事であり、神道教育は道徳を教育するものであって、宗教ではないというのが政府の立場である。そして天皇の地位は政治から相対的に分離され、大元帥となり、「政権」からは分離された「統帥権(兵権)」が憲法に明記される。これが軍部ファシズムへの法的な根拠となったのは周知のとおり。その意味では本来、議会政治から分離された「神国」の政体こそ、天皇を中心にした「国体」と呼ぶべきものであろう。

こうした皇室神道(儀式)は戦後も国家(国事行為)と分離されることなく、その一方では政治権力とは分離(政治的権能の排除)されることで、統合の象徴(アイドル化路線)をひた走ることになったのである。だがアイドル(人間)であることと、国体(象徴)という形式のあいだには、かならず亀裂が生じる。この欄でも何度か明らかにしてきたが、皇族の叛乱(三笠宮家・秋篠宮家)は、その崩壊のきざしなのである。

◎《連載特集》横山茂彦-天皇制はどこからやって来たのか
〈01〉天皇の誕生
〈02〉記紀の天皇たちは実在したか
〈03〉院政という二重権力
〈04〉武士と戦った天皇たち
〈05〉公武合体とその悲劇
〈06〉日本人はなぜ武士道が好きなのか?

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業。「アウトロージャパン」(太田出版)「情況」(情況出版)編集長、最近の編集の仕事に『政治の現象学 あるいはアジテーターの遍歴史』(長崎浩著、世界書院)など。近著に『山口組と戦国大名』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『男組の時代』(明月堂書店)など。

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天皇制はどこからやって来たのか〈06〉日本人はなぜ武士道が好きなのか?

明治いらいの近代天皇制は、神道の復権と武士道と両輪の関係にあったと、わたしは思っている。天皇のために命をささげ、そして天皇の国(皇国)のために死ぬ武士こそ「臣民」なのである。

◆「外から」もたらされた武士道

武士道はもともと、江戸時代においては武士階級(総人口の5%)だけのものだった。明治時代において、はじめて日本人全体の道徳観のなかに根をおろしたのである。いまもスポーツシーンでは「侍ジャパン(野球のナショナルチーム)」や「なでしこジャパン(女子サッカーナショナルチーム)」などと、もとをただせば武士道および男尊女卑の時代錯誤なネーミングに、われわれは違和感なく馴染んでしまっている。

あるいは戦場に乗り込んで、不幸にも拉致されたジャーナリストに「自己責任論」をもって、バッシングがくり返される。国家と社会に「迷惑」をかけたのだから、死んで詫びろとでも言いかねない風潮である。これら偏狭な武士道の倫理観はしかし、われわれ日本人の精神史からいえば明治以降につくられたものにすぎない。
この近代の武士道はある人物によって、じつは「外から」もたらされたものだ。お札の肖像画にもなった新渡戸稲造である。

 
新渡戸稲造=著/山本博文=翻訳『現代語訳 武士道』(2010年/ちくま新書)

キリスト(クエーカー)教徒であった新渡戸稲造が、宗教教育のない日本で道徳教育をするにさいして、思い至ったのが武士道だったという(『武士道』)。その紹介の仕方はしかし、あまりにも錯誤に満ちたものだ。新渡戸はこう書いている。

「仏教が武士道に与え得なかったものは、神道が十分に提供した。他のいかなる信条によっても教わることのなかった主君に対する忠誠、祖先への崇敬、さらには孝心などが神道の教理によって教えられた。そのため、サムライの倣岸な性格に忍耐がつけ加えられたのである」

「仏教は武士道に、運命に対する安らかな信頼の感覚、不可避なものへの静かな服従、危険や災難を目前にしたときの禁欲的な平静さ、生への侮蔑、死への親近感などをもたらした」(いずれも前掲書)。

そうではない。新渡戸が仏教研究について何ら業績がないことから、神道と仏教を心的な効果として対比する論旨の粗雑さは明白である。新渡戸が「神道」と措定している内容も江戸時代に成熟した儒教の解釈であり、そこから生じた近世国学の流れにすぎないのだ。武士道が「外からもたらされた」というのは、新渡戸がアメリカ(カリフォルニア)で静養中であり、なおかつ英文で書かれたものが邦訳されたからだ。少なくとも近代武士道の源流は、アメリカ産(クエーカー教徒によるカリフォルニアでの執筆)だったといえよう。神道もその内部にあった仏教的な要素を排除されることで、本来のものとは似つかわないものになってしまったのだ。

神道はほんらい、神の分身としての人間が清浄に立ち返る儀式であって、古代から江戸時代にいたるまで、その宗教行為の実態は神宮寺(神社内にある寺院)の仏教によって行なわれてきた。古代神道を仏教が包摂したのは、神道の儀式(形式)にたいして仏教が修行(教義の実質)を持っていたからにほかならない。そのような史実を捨象して、新渡戸は切腹の奥儀やサクラの散り際のよさを、武士道に通じるものと讃える。国家に対する忠誠を、切腹と散華にたとえて美化しているにすぎないのだ。

それでも新渡戸の知性は「日本人が深遠な哲学を持ち合せていないこと」「激しやすい性質は私たちの名誉観にその責任がある」として、愛国主義を称揚しながら、その危うさにも触れている。『武士道』は日清戦争で日本人が愛国心を発揮した明治33年に書かれたものだが、大日本帝国が日清戦役の延長にアジアを侵略した歴史、あるいは世界大戦の一角の主役を果たして国を焦土にした風景をみれば、新渡戸は何と言ったであろうか。

そもそも宗教教育のない日本とは、1862年生れの新渡戸にとっては、江戸時代までの神仏習合の知らざる宗教生活であったはずだが、この点については後述する。豊かな日本人の宗教生活は、じつは強引に改変された歴史があるのだ。輪廻からの解脱と浄土への悟り。迷える古代の神をも救済した菩薩(修行)の思想。仏教の精神世界においてこそ「日本人が深遠な哲学を持ち合わせ」ていたことに思いを馳せるべきであった。

前述したとおり、新渡戸稲造がアメリカで『武士道』を著したのは明治33年、邦訳は明治41年のことである。キリスト教のような統一した宗教教育のない日本で道徳教育をするにさいして、思い至ったのが武士道だったのだ。しかるに、わが国民が仏教に精神世界を根づよく持ってきたのも、まぎれもない史実である。新渡戸はなぜ、日本精神を仏教で捉えようとしなかったのだろうか。古代天皇制は仏教国家をその土台としてきた。その歴史を知らない新渡戸ではなかったはずだ。

新渡戸稲造が生きた時代に、すでに日本人の宗教観に大きな変化をもたらしていたものがあるとすれば、それは廃仏毀釈であろう。飛鳥・奈良・平安の古代いらい、われわれ日本人のなかに根づいていた仏教信仰は、ある契機から壊滅的な打撃を受けることになる。近代国家神道の勃興である。

明治国家は天皇を頂点に、神の国をめざした。現人神である天皇が祭祀を行なうことで神道は儀式となり、ふつうの宗教ではなくなったのだ。そのためには、神道と渾然一体となっていた仏教を排除する必要があった。それが廃仏毀釈である。典型的な事件から、その態様をみてゆこう。

 
近江坂本の日吉(ひえ)山王権現社(wikipedia)

◆日吉山王社の仏像破壊事件

前代未聞の事件が起きたのは、ある法令が発布されてから、わずか4日後のことだった。近江坂本の日吉(ひえ)山王権現社に、神威隊と称する100人ほどが武器を持って乱入したのだ。神威隊は日吉社にある仏像や仏具を破壊し、ことごとく焼却した。彼らは罪に問われることはなかった。ちなみに日吉山王権現社は、比叡山延暦寺の守護神社である。

彼らの暴挙を合法化したある法令とは、慶応4年(明治元年)3月28日に発布された「神仏判然令」(神仏分離令)である。そして神威隊なる荒くれ者の正体は、じつは彼らが仏具を破壊した日吉山王権現社の神職たちである。つまり日吉社の神職たちが、自分たちの神社に祀られている仏像や仏具を壊したのだ。明治の新政とともに発動された廃仏毀釈は、このようなかたちで始まった。

この廃仏毀釈を上からの宗教統制とみる考え方もあるが、必ずしもそうではない。明治政府は廃仏運動への反発が政府批判につながるのを、神経質なまでに危惧している。むしろ徳川幕府の仏教優遇政策に反発していた神社、あるいは幕末期の水戸学や平田国学が過剰な尊皇思想をあおり、維新とともに廃仏に走らせたと言うべきであろう。現実に廃仏毀釈は官憲によるものではなく、下からの苛烈な運動だった。それにしても、神職たちがみずからの神社に飾られている仏像と仏具を破壊するという、異常な事態が起きたのである。そもそも神社になぜ仏像や仏具があったのかという、現代を生きるわれわれにはピンと来ない史実から説明をはじめる必要があるかもしれない。

◎《連載特集》横山茂彦-天皇制はどこからやって来たのか
〈01〉天皇の誕生
〈02〉記紀の天皇たちは実在したか
〈03〉院政という二重権力、わが国にしかない政体
〈04〉武士と戦った天皇たち
〈05〉公武合体とその悲劇

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業。「アウトロージャパン」(太田出版)「情況」(情況出版)編集長、最近の編集の仕事に『政治の現象学 あるいはアジテーターの遍歴史』(長崎浩著、世界書院)など。近著に『山口組と戦国大名』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『男組の時代』(明月堂書店)など。

タブーなき言論を! 月刊『紙の爆弾』2020年4月号
『NO NUKES voice』Vol.23 総力特集〈3・11〉から9年 終わらない福島第一原発事故
鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』