天皇の存在は、わたしたち日本人にとって「喉に刺さった骨」、あるいはその反証として「ホッとさせられる文化の根源」なのかもしれない。「刺さった骨」というときには、政治権力と結びついた支配の要であり、「文化の根源」と考えた際には、御所や神社仏閣といった歴史的建造物、そこにある皇室御物、および叙位叙勲などの伝統的権威によるものであろう。

日本の近代化にとって、国民統合の思想的な要として作用してきた天皇制イデオロギーは、戦争の根拠となったとして批判される。身分制の差別の根源として、廃止せよという意見も少なくない。

いっぽうで、皇室そのものも変化にさらされてきた。天子(神)から人間へ、皇室離脱の自由をもとめる皇族、制度や慣習にとらわれない自由恋愛の希求、そして政治的な発言。皇室のありようはそのまま、天皇制(政治権力との結びつき)を左右すると同時に、われわれ国民にも議論を求めている。そこで、天皇および天皇制とは何なのか、歴史的な視座からわたしなりに解説してみた。横山茂彦(歴史関連の著書・共著に『闇の後醍醐銭』『日本史の新常識』『天皇125代全史』『世にも奇妙な日本史伝説』など)

狩猟採集社会

◆狩猟から農耕へ

大王(おおきみ=天皇)という存在は、なぜ生まれたのだろうか。はるかなる古代に成立した王権、それは偶然ではないはずだ。

狩猟によって日々の糧を得ていたころ、人類は集団で流浪する弱い存在だった。猛獣から身をまもるために石の武器をつくり、獲物を得るために獣の骨で弓や釣り針をつくっていた。おそらく集団のリーダーは、体力と判断力のある人物だったはずだが、まだ彼は王とは呼ばれていなかった。集団には分業がなく、必死に助けあう絆が唯一のものだった。

やがて気候の温暖化により、食糧である鹿や牛が北に移動した。多くの人々は獲物を追ったが、狩猟のために移動するよりも、定住して食糧を得ようとする集団がいた。かれらは野に実っていた麦を畑で栽培し、貝や木の実を採取して村落をつくった。村の誕生である。

稲作農耕社会

栽培で食糧を得た人々は、安定した生活をいとなめるようになった。まもなく食糧の備蓄ができるようになり、人々のあいだに役割の分担が生まれてくる。農耕経験の豊かな村長(むらおさ)が指示を出し、人々はそれに従う。牛などを家畜として飼う役割、農耕具をつくる役割などの分業がはじまった。狩猟のための武器は、もう必要なくなったのだろうか?

かつて狩猟をするために発揮されていた戦闘力はしかし、封印されることはなかった。肥沃な土地や水の利用をめぐって、村と村の争いが起きてしまったのだ。戦争のはじまりである。小さな村が争いと征服によって大きくなり、村々にまたがる権力は、国という単位になった。その国を統率する者こそ、古代の王である。知力と腕力に秀(ひい)で、すぐれた統率力を兼ねそなえた、彼こそ王と呼ぶにふさわしい。やがて国は相争ううちに平和共存の道をえらぶ。やはり自然の猛威から自分たちを守るためには、争うよりも平和共存が必要だった。そから連合国家が模索される。

◆王と天子はどう違うのか?

ここまでわれわれは、国と王の誕生をみてきた。国は集団をひきいる装置に違いないが、王は国という装置にとって入れ替えが可能なものではないだろうか。そう、力があれば取って代わられるのが、王という存在だったのである。それゆえに騒乱はくり返され、魏志に云う「倭国争乱」が起きたのだ。そこで、一計を案じた倭の諸王たちは、連合国家である邪馬台国に卑弥呼という女王を立てた。その結果、女王をいただく連合国家は軌道に乗った。

しかし、この段階では王権の継承は、まだ血統によるものではなかった。卑弥呼の没後に男性の王を立てたところ、ふたたび倭国は争乱に陥ったのである。倭の諸王たちは台与を女王に立てて、内乱の危機を乗りきった。この台与は卑弥呼の宗女である。

卑弥呼には子はなかったから、台与は一族の娘ということになる。倭国の初めての統一政権である邪馬台国において、血族から王が選ばれたのだ。実力よりも血筋が正統とされるには、天の命令が不可欠である。王権を実力支配する王ではなく、天命によって天下を治める天子の原型が出現したのである。天子と天皇は同義である。

じっさいの皇統は、皇太子制度が始まってからだとされている。つまり帝位の継承者が天皇の嫡子や皇族の中から選ばれることで、王権は不可侵のものとなったのだ。その王権を正統化する神話がつくられ、血統による秩序が顕(あら)われる。こうして天皇は、律令制という法制度の頂点に君臨したのだ。天皇の本質は、血統の唯一性である。それは帝位の争奪を防止する叡智であっただろうか、それとも王権を維持する秘密を発見した誰かが、ひそかに考案したものか――。

とはいえ、頂点に君臨する天皇も批判にさらされる。天子の所業は自然現象によって裁断されるのだ。悪政がつづけば、天変地異によって裁かれた。これを天子相関説という。したがって悪政を行なう天子は退けられ、あるいは政争で弑逆されることもある(第三十二代・崇峻天皇)。

wikipedia「崇峻(すしゅん)天皇」項より

とくに古代においては、皇族が臣下にくだらなかったことから、帝位継承はかならずしも嫡系ではないことが多い。前の天皇から、はるかにかけ離れた血筋が皇統に就く場合、これを王朝交代という。第十代・崇神天皇、第十六代・仁徳天皇、第二十六代・継体天皇において、王朝交代があったとされている。文献のうえで皇太子と確認されているのは、第四十五代・聖武天皇である。厳密な意味での皇統の確立はしたがって、奈良王朝で確立されたといえよう。聖武帝即位は724年のことである。

◆朝廷が衰退しても、なくならなかった理由

平安王朝になると、天皇は摂関政治に翻弄される。娘を入内させた藤原氏が外戚となり、幼い天皇をさしおいて権勢をふるう。これに対して天皇は退位後に院政を布いて対抗するようになるが、ときはすでに武家の世になっていた。栄光の古代王朝はすでにはるか彼方のこと、やがて天皇は経済的にもひっ迫してゆく。

にもかかわらず、天皇の権威は地に堕ちることはなかった。位階と職制、そして氏姓制度において、天皇の権威が必要とされたのだ。たとえば戦国時代には、武将たちの受領名(国司・守護職)の裏付けとして、位階・職が朝廷から下賜された。血筋と身分が重んじられた江戸時代には、ますます位階と職は大名の権威を裏付けるものとなった。そして幕末において、天皇の権威は尊王攘夷思想として爆発的に作用し、その勢いが討幕を果たさせる。爾来、天皇の権威は近代国家の軸心となるのだ。象徴天皇制となったいまも、その権威は叙位叙勲としてわれわれの生活に生きている。権威は必要とする者によって、しかるべく存続するのだ。

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業。「アウトロージャパン」(太田出版)「情況」(情況出版)編集長、最近の編集の仕事に『政治の現象学 あるいはアジテーターの遍歴史』(長崎浩著、世界書院)など。近著に『山口組と戦国大名』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『男組の時代』(明月堂書店)など。

最新刊!月刊『紙の爆弾』2020年3月号 不祥事連発の安倍政権を倒す野党再建への道筋