
新年のご挨拶


去る12月17日、標記事件から10年が経った。この日、私はリンチ被害者М君に仕事が終わった頃を見計らって電話した。М君は、やむなく研究者生活を離れ今は給与生活者を送っている。電話越しの声は元気そうだったが、彼の10年を想起すると胸が詰まる。
李信恵ら加害者、仲間、つながる者、蠢いた「知識人」と呼ばれる者(特に岸政彦〔当時李信恵さんの裁判を支援する会事務局長にして龍谷大学教授、現在京都大学教授〕、中沢けい〔作家〕、安田浩一〔ジャーナリスト〕、有田芳生〔国会議員〕、師岡康子〔弁護士〕、香山リカ〔医師〕)らは一体このリンチ事件を血の通った人間としてどう思っているのだろうか──あらためて問い質したい。
◆この国の社会運動から暴力はなくなっていなかった!
この事件を初めて知った時の第一印象は、時代が逆戻りしているかの錯覚に陥ったことだ。かつて戦後民主主義の揺籃期には連合赤軍事件を筆頭として社会運動内部における暴力事件は数知れずあった。当時の人気作家・高橋和巳は『内ゲバの論理はこえられるか』に代表されるように、その運動内部の暴力に対して積極的にコミットし、実際に解決に向けて動いた(が、彼の志に反し内ゲバは激化し100人を優に越す死者を出した)。
しかし、1972年初頭の連合赤軍リンチ殺人事件を頂点として、内ゲバ(内部暴力)に対する嫌悪が、この社会に浸透し、内ゲバもいつしかなくなっていったように思える。
そこには運動内部とこの担い手、また社会全体がそうした暴力を忌避する良識的な動きがあったことは私の体験としても理解してきたつもりである。
だから、このリンチ事件を知った時、その凶暴性、これから来る悲惨さ、残酷さを思い知り、絶望感に苛まれた。
この民主主義社会にいまだにこんな事件があったのか、そしてこの中心的人物=李信恵は、この国の「反差別」運動の象徴として、つとに知られる人物だ。現今のこの国の社会運動、長い歴史を持つ「反差別」運動は一体どうなっているのか、疑問に感じられた。連合赤軍事件、内ゲバ、部落解放運動などにおける暴力的展開、この帰結と反省によって、社会運動から暴力を排除してきたはずではなかったのか?
個人的ながら、私は大学に入ってからそうした事件を直接的、間接的に見聞きしてきた。特に部落解放運動にあって、私と一緒に自治会運動に関わり、いろいろ指導してくれた先輩が、卒業後教師になり、赴任した高校(兵庫県八鹿高校)で社会的に大きな話題となった事件に巻き込まれ激しいリンチを受けたことを知った時には大きなショックを受けた。いつかネットで凄絶な暴行を受けている場面(裁判資料)を見た時のショックは言葉にならない。こういうことも、かつては表立っては言えなかった。
民主主義社会を自認する、この国の社会運動から暴力はなくなっていなかったのか──。
◆人はかくも凶暴になれるのか ── 加害者らの暴力的体質
本件大学院生リンチ事件の加害者側5人、特に金良平(通称エル金)、李信恵、伊藤大介らの凶暴性には驚く以外になかった。李信恵など、前記したように、この国の「反差別」運動の象徴的人物としてつとに知られ、その人物が関わり、リンチの最中にも平然とワインを飲み、これをツイッターで発信するという神経が私には理解できない。危うく、この国の「反差別」運動が崩壊しかねない事態だったことの自覚はあったのか、あるいは加害者側の周辺の者らもそうだ。

だから、真摯に反省することなく、逆に開き直り隠蔽に走ることになったのだろう。事件の隠蔽は1年余り成功したが、こういうことはいつかは明るみに出るものである。
われわれはこの事件に一人の人間として関わることを決意し、できうる限りの調査と取材に動いた。前回私を「デマゴギスト」呼ばわりする者のことを書いたが、そう呼ばれないようにわれわれは動いたのだ。そこで多くのことがわかり、6冊の出版物にまとめ世に問うた。この際、表に出さなかったディープな情報も少なからずある。「反差別」「人権」を謳う運動にしては、到底目を向けられないことも多かった。いわゆる「プライバシー」とやらに配慮し、あえて表にしなかったことも少なからずあった。
今、思うと、無慈悲に長時間も大学院生(当時)М君に対し凄惨なリンチを加え、挙句救急車もタクシーも呼ばず放置して去った者らに配慮する必要があったのか? М君は本件で人生を狂わされ、いまだにリンチのPTSDに苦しんでいることを想起すれば、そうした徒輩に対して配慮する必要などなかったと、一種反省さえしている。変に配慮したことで、非人間的な徒輩を生き長らえさせてしまったのではないか──。とはいえ、それらをここで暴露するかどうかは今は保留する。
昨年(2024年)はじめ、くだんのリンチ事件の主たる暴行実行犯の金良平が、みずからの犯歴を暴露されたとして鹿砦社と作家・森奈津子を提訴した。「М君にあれほどの激しい暴行を加え人生を狂わせた男が何を言ってんだ?」──このことで私は、М君リンチ事件の悪夢を思い出し、ちょうど10年になることもあり、いろいろ思慮せざるをえなかった。
一昨年来、金良平と森はX上で応酬し、金良平の瞬間湯沸かし器的な性格から、М君へのリンチのようなことをやりかねないことを強く懸念し刑事事件の略式命令書のコピーを森に送った。すでに公知の事実であり、森はこれをXにアップし金良平の脅しも止んだ。
この提訴に触発されて、最近の金良平の言動をつぶさに見聞きし、また提出された金良平の準備書面を見るに、あれだけの残忍な集団リンチ事件(金良平らは「リンチ」という言葉が嫌いなようなので、暴行傷害事件でも表現はなんでもいいが)を起こし、その中心になって被害者の大学院生(当時)М君に激しい暴力を行使しながらなんら反省せず開き直っているのを見て怒りを禁じえなかった。本件リンチに関わった他4人よりも遙かに凶暴な金良平の暴力性の源はどこにあるのか? 幼少期から差別され虐げられてきたことにあるのか? しかし、差別され虐げられた人たちは多くいて、ほとんどはまともな生活者として、この社会で生きている。
金良平が、みずからが中心的な暴行実行犯として関わった集団リンチ事件に対する刑事、民事訴訟の判決共に被害者にとっては、受けた肉体的、精神的被害に比して賠償額も低く、裁判所は被害者М君の言い分の肝要な部分は認めず、決して満足のいく内容ではなかった。だからといって、「リンチはなかった」のではなく現実にあったのだ。このことは、偏頗な判決を下した裁判所さえも認定しており、だから金額や内容に不満はあってリンチがあったことは厳とした事実なのだ。いい加減なことを言わないでいただきたい。
なかでも金良平については、リンチ被害者М君が金良平らを訴えた民事訴訟では、一審大阪地方裁判所は金良平に、リンチに連座した伊藤大介と共に79万9749円の賠償を命じたが、これが控訴審大阪高騰裁判所では金良平単独で113万7640円に跳ね上がった。これこそ金良平の暴力性、凶暴性を裁判所が認定した一端といえるだろう。
もっとも、普通の一般人の感覚から、リンチ直後の被害者の顔写真を見、リンチの最中の音声データを聴いて、どう感じるのだろうか。実際に私は100人以上に直接、その写真を見せ音声を聴いてもらい感想を聞いたが全員がリンチがあったと考えざるを得ないと述べた。今、この記事を読んでいる読者一人ひとりも、普通の一般人の感覚から見て、酷いと思わないだろうか? 思わないのであれば、あなたは人間ではない。
「リンチはなかった」というのは歴史を偽造するもので、「街角の小さな喧嘩」(金良平訴状)などというのは被害者の人格を矮小化するものと言わざるを得ない。いやしくも「人権」や「反差別」を標榜する加害者らが使う言葉ではない。特に金良平よ、あなたは、まずみずからの拳を眺めよ! これで数十発М君を殴り、金利含め130万円ほどの賠償金を支払ったのだが、おそらくお金を集めるのにかなり苦労したのではないだろうか? 支払いは遅れた。この時、もう暴力は振るわないことをみずからの良心に誓わなかったのか? 誓わなかったのなら、あなたには人間としての良心はない。はっきり答えよ。
◆主たるリンチ実行犯=金良平はなぜ転落したのか?
同じく準備書面によれば、金良平は関東に居を移し「新たな生活を形成している」そうだ。それがどうしたというのか!? 金良平に半殺しの目に遭わされた被害者М君は人生を狂わせられ、М君が思い描いた人生とは違った「新たな生活を形成している」のだ。判っているのか?
金良平が、過去の犯歴を明らかにされたのが違法だとかどうかを言う前に、今からでも被害者М君に土下座し謝るべきだ。いったんは「謝罪文」を渡しながら、これを反故にし、さらに仲間らに村八分運動(「エル金は友達」運動)をさせたりして、被害者を精神的に苦しめたことを今どう思っているのか?
私がこのことにこだわるのには理由がある。
私(たち)はリンチ被害者М君に対する集団リンチの事実を知り、とりわけリンチ直後の顔写真を見、リンチの最中の音声データを聴き、近年にない強い衝撃を受け、他の資料も一読し、М君本人からも直接話を聞き、これらには信憑性があり、直ちに被害者支援、真相究明の行動に移った。それまで好調だった会社の業績をも後回しして、この件に費用をかけ、集中して動いた。何としても孤立し苦悩している青年、研究者の卵に、できる限りの支援をし救済しないといけないと咄嗟に思った。
当初、金良平や李信恵らが真摯に反省し、いったんは反故にした「謝罪文」を元に戻し再び謝罪し賠償金も支払い公的な和解へ至るのであれば、「反差別」「人権」を標榜する社会運動にとっても有益だと考え、われわれも前向きな解決に汗を流し、さほど時間もかからず解決するものとばかり予想していた。甘かった。金良平ら加害者らは開き直り、約束した活動自粛も反故にし、逆に他の仲間と共に被害者М君を村八分にし、執拗にネット・リンチを続けた。
金良平ら加害者、そして彼らに連携する者たちにとっての「人権」「反差別」とは一体何なのか? 疑問が湧いてきた。
私は五十年余り前、当時の多くの若者がそうであったようにノンセクトの学生運動に関わったので、そうした運動に関わる者なら、過ちは過ちとして素直に認め、昔の言葉でいえば「自己批判」するだろうと思っていた。過去の反省から、当時よりも運動のやり方は改善されてきたはずだから。
それまで被害者М君とは一面識もなく、ましてや利害関係もなかった。社会正義上、これはきちんとしないといけないと思った。私(たち)の世代は、連合赤軍事件を知っているし、いわゆる「内ゲバ」の陰惨さも知っている。どれもМ君に対するリンチ(私刑)と、程度の差はあれ本質的に同じだ。社会運動内部では、それなりに反省したはずだった。しかし、いまだにかつての轍を踏んでいる。縁あって持ち込まれた相談事、困っている若者を見て放ってはおけない損な性分、後先考えず被害者支援に動くことにした。
われわれは「特別取材班」を作り、大手マスコミには到底及ばないが、一定のヒトとカネを使い、被害者支援、その裁判での主張を裏付けるための調査・取材を始めた。
M君の研究者らしい几帳面な性格で資料は数多く整理されていた。加害者の中で、夜な夜な飲み歩き(事件当日も「5件のお店まで日本酒に換算して1升近く飲んでいた」との本人の弁)、異性関係も放縦、一方で在日差別と闘っているヒーローとしてマスメディアに持て囃され、多くの行政、教育関係、果ては弁護士会など各方面に赴いて講演で稼いでいる。準公人ともいえる人物の言動は多くの人々の注目を浴び、リンチもそうだが、そうした問題行動は社会的にも明らかにし叱責されるべきだとわれわれは考えた。しかし、М君の裁判支援に注力することを優先しその他の問題行動の追及は断念した次第だ。
同様にリンチの主要実行犯・金良平についての情報もかなり集まったが、やはり最低限以上のこと以外は、衝撃的な事実も多くあったにもかかわらず、あえて秘匿してきた。
しかし、今それが正しかったのかどうか疑問に思うようになった。ダイナマイト級の情報もあるが、この記事でも、あえて保留しておき、時機を見て放出することも念頭に置いておく。М君が人生を狂わせられた一方で、李信恵は講演三昧。世の中にこんな不条理があってもいいのだろうか、と考えるからである。
金良平は、М君に対し暴虐の限りを尽くしておいて、いまだに反省もせず開き直っていることに怒りを感じる。金良平の激しい暴力で、何度も言うが、М君は人生を狂わされ、いまだにリンチに対するPTSDに苦しめられているというのに──。
今回、提訴しながら現住所も仕事や具体的生活内容も明らかにせず(メディアでよく使われる「住所不定無職」か?)、みずからが中心になって行ったリンチなどなかったかのような言説を目にし、さすがの私も堪忍袋の緒が切れた。
さて、われわれがМ君を支援することになり、М君は李信恵、金良平、伊藤大介ら5人に対して損害賠償を求め大阪地方裁判所に民事訴訟を起こした。
まずは他の4人同様金良平にも謝罪文に記された住所に訴状が送達されたのだが戻ってきた。驚いた取材班は、その住所に行ったが、すでに引っ越した後だった。そこで金良平の代理人(その後代理人に就く神原元弁護士とは別の弁護士)も困り、修正して最終的には届いたようだが、姑息なことをするものだ。
ところが、その後、訴訟の本人調書に記載した住所に行ってみると、そこは、なんと駐車場だった。法廷で宣誓したにもかかわらず虚偽の住所を記載したことになる。あらためて当時が想起され怒りが戻ってきた。М君は尚更だろう。
さらにそれ以前の金良平の生活実態も調査した。М君への謝罪文に記された住所の前は「О寮」という大阪市の外郭団体による救護・厚生施設に住んでいた。ここは謝罪文に記載された住所の近くに在ったが、今はない。
さらにそれ以前に諸事情があったのか、もっと深刻なことも判ったが、これもここでは記述しない。その団体の更生プログラムに従って金良平なりに頑張っていたようで、「勉強したいので、いろいろ教えてください」と相談を受けたと証言する人もいた。
そこで取材班は、この謝罪文に記載されたHマンションを直接訪問し、そこにいた管理人に話を聞くことができた。
ここに住みはじめてしばらくした2013年頃から(リンチ事件の前年頃。反差別運動に関わり出した時期と一致する)深夜の帰宅が多くなり、他の住民から苦情が出ていたそうだ。そこからしばらくして「新しく仕事が見つかった」などと言って更生プログラムの職業訓練にも行かなくなっていたという話も聞けた(おそらく可愛がってもらい、リンチ事件に連座した伊藤大介から経済的援助を受けるようになったのがこの頃だろう)。
ちなみに伊藤は、M君が提訴した民事訴訟の控訴審で逆転勝訴し免責されたが、その後、深夜に、あるネトウヨ活動家を呼び出し暴行傷害事件を起こし有罪判決を受けている。集団リンチ事件についての反省がないことの証左だろう。奇しくも鹿砦社と李信恵の訴訟の尋問後のことである。

これらの話を総合すれば、質が良くない「反差別」運動(誤解ないように申し述べておくと、反差別運動自体を否定しているのではなく、友人、知人らもこれに関わっている者が多数いる。要は、悪質な反差別運動を指弾しているのだ)に関わって、立ち直る努力を放棄した過去があること、これらの悪質な「反差別」運動に今も関与し現場でニラミを利かしていること、昼夜を問わず頻繁にSNSに時間を費やしていることなどから生活再建の努力などしていようはずもない、ということは言えるだろう。だから、われわれは、みずからの「新たな生活」の実態を具体的に明らかにせよと求めるものである。抽象的に言っていても始まらない。でないなら、「住所不定無職」の者がいくらみずからの「被害」を叫んでも身勝手というものだ。
われわれは、いたずらに金良平の前科を晒したのではなく、これはすでに〈公知の事実〉として流布しており、金良平の凶暴性と関東地方に移住しているが故に、24時間看護の障碍者の夫を持つ森奈津子の身の安全を危惧し、やむなく金良平の略式命令書を森に送り、森はこれを公開し、これ以上の森への攻撃を阻止したのだ。法律のあれこれよりも、生身の人間の身の安全が優先されることは言うまでもない。「事件」が起きてからでは遅いのだ。判例を教条主義的に突つくのではなく、人間の安全第一で思料されるべきである。(本文中、一部を除き敬称略)
※本稿は、2回で終わる予定でしたが、書くことが多く、もう1回続きます。次回は、一部を除きトンデモ判決を相次いで出した裁判所、被害者の苦しみを蔑ろにし偏頗に加害者らに加担したメディア、逃げたり加害者側を擁護したり開き直ったりした「知識人」らの責任を問う予定です。本稿についてのご意見、ご批判などをお寄せください。
(松岡利康)
◎「カウンター大学院生リンチ事件」(別称「しばき隊リンチ事件」)から10年 ── あらためてその〈意味〉と〈責任〉を問う
(上) http://www.rokusaisha.com/wp/?p=51771
(中)https://www.rokusaisha.com/wp/?p=52111
《関連過去記事カテゴリー》 M君リンチ事件 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=62
中学校の同級生、有田正博君が11月いっぱいで店を閉め引退するという地元紙・熊本日日新聞の記事を、同紙の元記者のH君が送ってくれた。実際には諸事情で延期、12月15日に閉店した。
店を閉めることは、今年初め同窓会で帰郷した際に本人から聞いていた。その時は10月いっぱいで、ということだった。前出熊本日日新聞で1カ月インタビュー記事を連載するなど地元熊本ではちょっとした有名人だ。

有田君とは、中学3年の時に転校してきて一緒だった。卒業してからずっと別の人生を送り音信が途絶えていたが、偶然に、こちらは高校の同級生で、ライフワークとして島唄野外ライブ「琉球の風」を始めた東濱弘憲君(故人)の追悼本『島唄よ、風になれ! ── 東濱弘憲と「琉球の風」』(鹿砦社刊)の校正の過程で「有田正博」という名が出て来てピンときて前出H君(当時熊本日日新聞記者)に調べてもらったところ中学の同級生の有田君その人だった。
有田君は一時東濱君のブティックで働いていて、これが閉店するや、その後独立し海外に行ったりしてファッションの勉強をして名を挙げた。一番有名なのは、まだ無名だったPaul Smith(ポール・スミス)と出会い、日本に持ってきたことだろう。Paul Smithは今や世界的ブランドとなった。

H君の取り計らいで、実に40数年ぶりに再会した。……
その後、有田君の店が私の一族の墓が近くに在るということもあり帰郷するごとに立ち寄って歓談したり食事と共にしてきた。

それにしても、中学の同級生と高校の同級生との関係と私との関係など因縁を感じる。
Paul Smithさんは義理堅い男のようで、このライセンスを日本に上陸するや有田君に渡した。このライセンスもあり有田君は一時ビル3つ所有し釣り三昧の日々を送ったという。そんなこともあり妻子から三行半を突きつけられ離婚、ビル3つとPaul Smithのライセンスを潔く渡し、ゼロから出発したという。一時は東京の青山にも店を出したこともあった。
中学校の時にはそんな大それた男とは思わなかったが、引退かあ、本来なら私もその予定だったが、コロナのお蔭でもうひと踏ん張りしないといけなくなった。
時は過ぎ行く ── 人は老いていく。
閉店後電話した。「お疲れ様! よか人生だったね」と言い、「祝 人生勝利!」の文字の刻印を入れたクリスタル置き時計を贈った。
(松岡利康)
一つの事件が一人の人生を狂わせることがある。この事件もそうだ。被害者M君は関西の某国立大学大学院博士課程に通う若き研究者だった。〝かの事件〟さえなければ、今は、どこかの大学で学生に囲まれ研究者生活を送っているだろうと思うと不憫に感じられて胸が詰まる。さらには今でもリンチのPTSDに苦しんでいる。それを仲間とのラクビーで紛らわせているという(おそらくラクビーで鍛えた体力がなければ、壮絶なリンチで亡くなっていただろう)。一方加害者の李信恵は能天気に講演三昧の生活を送っている。行政機関や弁護士会、市民団体などが、リンチ事件の存在を知ってかどうかわからないが、李信恵のしたり顔に騙され「もっともだ、もっともだ」と聞き惚れている。世の中どこか狂っている。
10年前の2014年師走12月17日未明、大阪一の盛り場・北新地、その一角で、〝かの事件〟は起きた。 ──
〝かの事件〟から10年が経とうとしている。ここでは2回に分けて、この事件を振り返り、現代の社会運動における〈意味〉を考え、加害者、これに連なる者、あるいは被害者M君やわれわれに敵意さえ抱きトンデモ判決を出した裁判所、無視・隠蔽を決め込んだマスメディア、「知識人」らの〈責任〉を問いたい。
さて、〝かの事件〟とは、「反差別」運動の象徴とされる李信恵ら5名が、この中の1人、金(本田)良平がネトウヨ活動家から金銭を授受したとの噂を撒いたとして深夜、仲間だったはずの大学院生M君を呼び出し激しいリンチを加え瀕死の重傷を負わせたという事件である。
事件の詳しい内容は、私の話を聞き驚き途中から真相究明活動に加わったジャーナリストの黒薮哲哉が本誌、みずからのサイトMEDIA KOKUSHO、「デジタル鹿砦社通信」などでレポートし、なによりわれわれは「特別取材班」を作り、精力的に調査・取材を行い、これまで6冊(紙の爆弾増刊)の本にまとめ発行しているので、本誌では紙幅の都合もあり、ここでは省く。それらをぜひご一覧いただきたい。
ただ、私に対し意図的な誹謗中傷を振り撒く人間がいるので、一言だけ述べておく。かつて構造改革系の新左翼系小党派のリーダーだった笠井潔という人が、リンチ加害者側に立って被害者M君を執拗に攻撃し提訴され敗訴した野間易通と昵懇(共著もある)の仲ということからか、私を「デマゴギスト」などと言いふらしているようだが、われわれはそう言われないように、これまでになくヒトとカネを使って最大限の調査・取材を行い、これはそれなりに評価されている。
ちなみに、笠井にはかつて一度だけ会ったことがある(1985年)。原稿執筆の依頼で尼崎で行われた、その党派も含む構造改革系の追悼集会でだったと記憶する。彼の文章は『敗北における勝利』という本に掲載され、彼は田舎に引っ込んだりで、以来会ってはいなかったが、そんな誹謗中傷を行っているということで思い出した次第だ。それなりの知識人だと思っていたが見損なった。彼は私たちが心血を注いで取材した本を読んで私を「デマゴギスト」と言ったのだろうか? おそらく読んでいないだろうと思い、関係者を通じ届けるように送っておいた。読んだのであれば、読後感を聞きたいところだ。それでも「デマゴギスト」と言うのか!?
◆事件は1年以上隠蔽された
くだんのリンチ事件は、加害者側に立つ者らによって必死の隠蔽工作が図られ、なんと1年余りも隠蔽された。さらに驚くのは、やはり加害者側につながる人物が当社内にもいたことが発覚し、3年も勤め、それでも尻尾を出さなかった。
当時われわれは「西宮ゼミ」といわれる市民向けのゼミナールを隔月ペースで開いていたが、たびたびこれに参加していた者が「相談があります」と言って別の日に資料などを持ってやって来て初めて、このリンチ事件の事実を知ったのである。なかでも驚いたのはリンチ直後の被害者の顔写真だった。言葉もなかった。これが2016年の1月のこと、事件から1年以上が経っていた。
この間、被害者M君らが手を拱いていたわけではなかった。メディアの記者に会ったり、弁護士に会ったりしながら、その都度失望の目に遭ってきた。あえて名を出すが阿久沢悦子なる、当時大阪朝日社会部の記者に相談し、関西の社会運動のいろんなところに顔を出している自称「浪速の歌う巨人」歌手・趙博を紹介され、貴重な資料一式を渡し、われわれとも会い加害者糾弾を共に行おうと約束したが、この直後、趙は李信恵に会い謝罪するという掌返しに行っている。その資料がどこに行ったのかわからないが、万が一権力に渡ってでもいたら、度し難いスパイ行為である。この男は、関西の社会運動のいろんなところに顔を出しているが用心したほうがいい。一部の党派では「スパイ」と見なされていると聞く。
この事件が1年以上も隠蔽されていたのにはいくつか理由がある。加害者・李信恵が「反差別」運動のリーダーで当時ネトウヨ活動家を相手取り裁判闘争を行っていたこと、いわゆる「ヘイトスピーチ規制法」国会上程が準備されていたことなどが挙げられる。関係者一同、心の中では「なんということをやってくれたんだ」と思っていたとしても不思議ではない。
◆われわれは即刻行動を起こした!
驚いたわれわれが躊躇することはなかった。われわれの出版活動は弱い者の味方ではなかったのか、という素朴な正義感のようなものが自然と沸き起こった。
また、「反差別」運動の旗手といわれる者が起こした傷害事件なのに、なぜマスメディアは報じないのか、という素朴な疑問も湧いた。阿久沢記者のような、スパイ行為に加担するような行為をする者までいるのには驚いた。その後、阿久沢記者は静岡に異動になったりしたが、その際、私たちが追及したところ、驚き狼狽し逃げ回った。今からでも取材に応じるなら静岡でもどこでも行く用意はある。
一方被害者M君の味方は、いなかったわけではないが、正直言って力が弱い者ばかりだった。メディア関係者はいなかったので情報が外に向かうことはなかった。
◆事件前後
ここで少しリンチ前後の情況を振り返ってみる。李信恵ら加害者は、前日夕刻から飲み始め、事件に至るまでに5軒の飲食店を回り「日本酒に換算して1升近く飲んでいた」(李信恵のツイッター)ことをみずから明らかにしている。「1升」といえば、常識的に見れば泥酔の域にあったといえよう。前日は対ネトウヨ訴訟の期日で、これが終わり報告会、そして十三の仲間のたまり場の店・あらい商店で食事をしながら飲み始め5軒の店を飲み歩いていることが明らかになっている。

長時間のリンチ後、加害者らは苦しむ被害者を放置して立ち去っている。人間の心があれば、急救車を呼ぶとかタクシーを拾って乗せるとか、それぐらいはするだろう。それさえせずに……。被害者M君は必死でみずからタクシーを拾い自宅まで戻っている。この時のM君の心中は察するに余りある。異変を感じたタクシーの運転手は運賃を受け取らなかったという。
一夜明け、酔いが醒めた加害者らは、おそらく「しまった!」「まずい!」と思ったに違いない。身近な者らも、「なんということをしてくれたんだ」と思っただろう。
その日のうちに、加害者と昵懇の有田芳生(当時参議院議員)が、そして中沢けいらが相次いで来阪している。そこで何が話し合われたかはわからないが、おそらく混乱していたことは容易に想像できる。
そして、年が明け事件から1カ月余りが経った2015年1月27日、李信恵の姉貴分の辛淑玉が悲痛に「Mさんリンチ事件に関わった友人たちへ」と題する文書を配布する。
また、2月3日には李信恵らによる「謝罪文」も送られ、同時に活動自粛も約束される。
辛淑玉文書にしろ李信恵の謝罪文にしろ、また実行犯の金良平、李普鉉の謝罪文にしろ、のちに反故にされるが、少なくともこの時点では、多少なりとも反省の念があったことは認められる。
しかし、被害者が、ほぼ孤立無援状態であることを見透かした加害者らは反省も活動自粛も反故にし、逆にM君に対して村八分にし、あらん限りの罵詈雑言を加え攻撃に転じる。被害者なのになぜ攻撃されなければならないのか? M君のどこに非があったのか? 加害者、陰に陽に彼らをサポートした者らは、われわれの素朴な疑問に答えていただきたい。月日が経っても、われわれは許さない。
◆訴訟の果てに ──
まずM君は、逡巡しながらも、加害者らの不誠実な態度に怒り刑事告訴に踏み切った。しかし、加害者らは逮捕されるまでもなく略式起訴で、最も暴行を働いたエル金こと金良平に罰金40万円、凡こと李普鉉に罰金10万円、あろうことか李信恵は不起訴だった(2016年3月1日)。この刑事処分には大いに疑問が残る。これだけの傷を負い、今に至るもPTSDに苦しみ、人生を狂わせられて、これか。あまりにも理不尽だ。
しかし、M君の苦難は、以後の民事訴訟でも続いた。 ──
民事訴訟は、鹿砦社の顧問弁護士の大川伸郎弁護士を中心として進められた。当初弁護団に名を連ねた弁護士でサボタージュしたり利敵行為を行った者もいて、それなりに加害者(特に李信恵)防衛で一致する加害者側弁護団に比すると脆弱さは否めなかった。
実際に、被害者M君が李信恵ら加害者5人を訴えた訴訟では、勝訴したとはいえ、金額的にも内容的にも被害者、およびM君に寄り添ったわれわれにとっては不満の残るものであった。金良平(控訴審で賠償金113万円+金利確定)、李普鉉(同1万円+金利確定)に賠償金が課されたとはいえ、李信恵ら5人は免責された。特に実質的首謀者と見なしてきた李信恵に何の咎も課されなかったこと、そして共謀を認めなかったことには被害者のM君のみならずわれわれにとっても意外だったし大ショックだった。普通の感覚で常識的に見れば、李信恵の教唆、5人の共謀は当然と言えるが、裁判官という人種の眼は常人とは異なるようだ。
司法はもはや被害者の味方ではない。われわれには計り知れない〝力〟が働いているのかもしれない ── 実際に、М君対加害者5人組との訴訟、鹿砦社対李信恵との訴訟、あるいは鹿砦社対藤井正美(鹿砦社の元社員にしてしばき隊/カウンターのメンバー)との訴訟にしても、裁判官は1件(後述)を除いて、ハッキリ言って公平・公正ではなかった。むしろわれわれに対し敵意さえ窺われた。
こうしたことを認識したわれわれは、訴訟合戦の後半になって、「日本裁判官ネットワーク」の中心メンバーで「市民のための司法」を目指して活動してきた、元裁判官の森野俊彦弁護士に依頼、森野弁護士は受任され、一審で全面敗訴に屈した、李信恵が原告、鹿砦社被告の訴訟の控訴審では、著名な精神科医・野田正彰によるM君の「精神鑑定書」、国際的な心理学者・矢谷暢一郎ニューヨーク州立大学元教授、ジャーナリスト寺澤有の意見書を提出し真っ向から押し戻し、大阪高裁は李信恵の非人間性を認定した。さすがに、瀕死の重傷を負わせておきながら、無垢のままにしておくわけにはいかなかったのだろうか。裁判官としての良識の欠片は残っていたといえよう。一部を挙げ、ひとまず本稿を擱く。
「被控訴人(注:李信恵)は、本件傷害事件の当日、本件店舗において、最初にMに対し胸倉を掴む暴行を加えた上、その後、仲間である金がMに暴行を加えている事実を認識していながら、これを制止することもなく飲酒を続け、最後は、負傷したMの側を通り過ぎながら、その状態を気遣うこともなく放置して立ち去ったことが認められる。」
「本件傷害事件当日における被控訴人の言動自体は、社会通念上、被控訴人が日頃から人権尊重を標榜しておきながら、金によるMに対する暴行については、これを容認していたという道義的批判を免れない性質のものである。」
「被控訴人の本件傷害事件当日における言動は、暴行を受けているMを目の当たりにしながら、これを容認していたと評価されてもやむを得ないものであったから、法的な責任の有無にかかわらず、道義的見地から謝罪と補償を申し出ることがあっても不自然ではない。」(以上、令和3年7月27日、大阪高裁第2民事部判決から)
(松岡利康)

速いもので、今年もあと2ヵ月となりました。
新型コロナ襲来によって、それまで左団扇状態だった雰囲気は暗転しました。
何度も「限界」を感じました。
「あきらめたらそこでおしまい」──
「限界」を「突破」するために皆様のお力を借りて「歯を食いしばって」頑張ってきました。
「限界」に次ぐ「限界」で「あきらめ」かけたりもしました。
コロナで似たような経験をされた方も少なくないでしょう。
しかし、「あきらめ」なければ、浮かぶ瀬は必ずあるものと信じています。
20年近く前の出来事、「名誉毀損」に名を借りた出版弾圧でも打ちのめされ「限界」を感じましたが、運良く「突破」できました。
奇跡としか言いようがありません。出版業界ではそういわれているそうです。
「限界」は「突破」でき、奇跡は起きると信じたい。
(松岡利康)



つい先日までの猛暑が嘘のように、すっかり秋めいてまいりました。平素は鹿砦社の出版活動につきまして多大のご支援を賜り有り難うございます。
◆最新刊書籍は黒岩卓夫著『アルプス少年 医を拓く』
最新刊書籍として黒岩卓夫著『アルプス少年 医を拓く』が出来上がってまいりました。小社としては特に力を入れた本ですのでぜひご購読ください。最も鹿砦社らしい本だと多くの方々から言われますし、私たちもそう自負いたします。
黒岩先生は60年安保闘争を樺美智子さん(60年 6・15国会前で機動隊の暴虐で死亡)らと共に闘い、その後、僻地医療に取り組まれ、障碍者施設、高齢者施設も併設し今に至っています。これは、昨秋刊行した、大学の先輩の矢谷暢一郎さんの『ヤタニ・ケース アメリカに渡ったヴェトナム反戦活動家』もそうですが、卒業後、あるいは運動を離れてからの人生の苦闘をいかに過ごすかということが生き生きと描かれています。
それも含め、昨年の今頃から社会問題についての書籍(紙の爆弾増刊号含む)を精力的に刊行してまいりました。皆様方にはぜひともご購読いただきたいものばかりです。
◆『LGBT問題を考える』と『LGBT異論』
『アルプス少年 医を拓く』の前には、気鋭の女医・斉藤佳苗著『LGBT問題を考える』(8月)、オウム事件で殺されかけながらもカルトと闘った滝本太郎弁護士を中心とした女性スペースを守る諸団体と有志の連絡会=編著『LGBT異論』(9月)を相次いで刊行いたしました。
現在、LGBT問題を語ることには一種のタブーがあり、小社は一部から「ヘイト出版社」のレッテルを貼られているほどです。本来なら「性の多様性」というのであれば自由な議論が必要なのに、逆の情況が続いています。両書は、広義のリベラル(左派、中道)の立場からこの問題に議論の材料を提起するものです。ご一読いただければ解りますが、間違っても「ヘイト本」ではありません。私たちの疑問も多々提起してありますので、LGBT思想、とりわけトランスジェンダリズム(性自認至上主義)の信奉者の方々は、「ノーディベート」(議論しない)として逃げるのではなく、これに丁寧に答えていただきたいと思います。双方の議論、対話があってこそ、LGBT当事者のみなさんとの理解がなされるのではないでしょうか。そうでないと、「性の多様性」が社会的に理解されないまま分断、対立だけが進んでいくのではないでしょうか。
こうした私たちの想いは、偶然ながら新左翼系といわれる雑誌『情況』も同様の位相で取り組み大きな波紋を拡げました。決して私たちだけではなく、考えることはみな同じだと思いました。同誌も今後この問題を継続するということですので、共同歩調を取っていきたいと考えています。
◆『日本の冤罪』と『広島の追憶』
つい最近の大きな出来事として、袴田巖さん冤罪事件無罪確定と「日本被団協」ノーベル賞受賞があります。冤罪については、『紙の爆弾』で長年複数のライターによって連載しております。月刊誌で冤罪問題を連載している雑誌はありません。この中で尾﨑美代子さんが寄稿した分をまとめたものが『日本の冤罪』です。
また、被爆問題については、古くからの知人、梓加依さんが『広島の追憶』を出されました。原爆投下直後の長崎、広島で過ごした体験を元にしたノンフィクション・ノベルといっていいでしょう。
これら二著は、今こそ皆様にぜひご購読いただきたい書籍です。
◆『ジャニーズ帝国 60年の興亡』と『ドキュメント タカラヅカいじめ裁判 乙女の花園の今』
昨年、ジャニー喜多川による未成年性虐待が英BBC放送によってワールドワイドに報道され大きな問題となりました。BBCには事前に水面下で協力しましたが、この問題に実に28年にもわたり取り組んできた私たちの言論活動が陽の目を見た結果です。それを集大成したのが『ジャニーズ帝国 60年の興亡』です。辛辣な批評で有名な斉藤美奈子さんも「労作」と評価してくださいました。
さらに昨年末から本年にかけて鹿砦社本社所在地・西宮の隣の宝塚市にある宝塚歌劇団にて若き劇団員が激しいイジメを苦にして自殺するという痛ましい事件がありました。ジャニーズ同様、宝塚歌劇団の問題に対しても鹿砦社は1995年以来取り組んで来ました。宝塚歌劇団内のイジメ問題について、かつてこの訴訟をリアルタイムに寄り添ってきた記録『ドキュメント タカラヅカいじめ裁判――乙女の花園の今』を復刻出版いたしました。この訴訟時と以後、歌劇団は真摯に反省し根本から自己改革に取り組んでいたなら、今回の劇団員自殺という悲劇は避けられたと思うといたたまれません。歌劇団、そしてそのバックの阪急資本と友好関係にある在阪メディアも、ジャニーズと癒着しジャニー喜多川の犯罪を報じなかった大手メディア同様、断罪されなければなりませんし真摯な自己反省が必要です。

こうしたジャニーズ、宝塚問題によって、これまでの鹿砦社の言論・出版活動が、あらためて評価されたのです。これらを単に芸能問題とバカにしてはいけません。私たちは、芸能問題も含め広く社会問題に、「われわれにタブーはない!」と宣揚しつつ大手メディアにない視点と方法で取り組んでまいりました。コロナ以降、苦戦を強いられていますが、初心を忘れず頑張りますので、さらに継続してご支援のほど、よろしくお願い申し上げます。
当面具体的には、次のような形で更なるご支援をお願いいたします。
① 上記に挙げた書籍の直接ご購読をお願いいたします(すべて送料無料サービス)。1冊からでも構いませんが、よければ2冊、3冊とまとめてご購読いただければ助かります。
sales@rokusaisha.com か鹿砦社HP通販サイトからご注文ください。
② ラディカルスキャンダルマガジン『紙の爆弾』、唯一の反原発雑誌『季節』の定期購読をお願いいたします。『紙爆』1年分7700円、『季節』1年分3080円。こちらは前金となっていますので、郵便振替(01100-9-48334 口座名=株式会社鹿砦社)にてお申し込みください。送料はサービスです。すでに低購読の方は(前倒し)継続更新をお願いいたします。
③ その他、もっと支援してもいいという方は会員になってください。詳細は『紙の爆弾』巻末案内をご覧ください。
なお、シルバー会員(3万円。3年間『紙爆』『季節』を送付)には毎年1冊鹿砦社刊行書籍を贈っておりますが、今年は『アルプス少年 医を拓く』を送らせていただいております。それ以上の高額会員も同様です。
物価高騰の折り心苦しい限りですが、よろしくお願い申し上げます。
鹿砦社代表 松岡利康

ようやく暑さも和らいで来ました。
もうすぐ秋風が吹き木枯しの季節となるのでしょうか ──
もうこの仕事に本格的に関わり始めて40年になります。
大学を出て10年、出版とは全く関係のないサラリーマンをやりました。
毎日、大阪御堂筋のビルの7階から四季の移ろいを眺めながら過ごしました。
会社を整理するというので、それまでに同人誌のようなものや資料集を出したりはしていましたが、他に仕事を探すこともなく、わずかな退職金を元手に出版を生業にすることにしました。
若かったな。すでに子どももいたし、今だったら踏み止まっていたでしょうね。
他人より10年遅れて出発しましたが、これまで多くの方々に迷惑をかけたり助けてもらったりして〈絆〉をこしらえてきました。
大学関係の先輩・後輩、多かれ少なかれ学生運動や社会運動に関わった人たちなどが多いです。
決して一人でやって来れたわけではありませんでした。むしろ助けてくれる方がいたからこそ、生来鈍愚な私でもここまでやって来れたと思っています。
自分で望んだわけではありませんでしたが、これまで他人よりは起伏のある人生でした。
特に2005年、『紙の爆弾』創刊直後の「名誉毀損」に名を借りた出版弾圧は「人質司法」による長期勾留を強いられ正直きつかったです。
これまでこの通信でも何度も述べているので繰り返しませんが、これを皆様方との〈絆〉で乗り越えれたことは大きいです。誰もが「松岡も鹿砦社も終わりだろう」とささやいでいたということですが、人の運命というのはわからないものです。その前の阪神大震災でも、「松岡も鹿砦社も終わりだろう」と東京ではささやかれたそうですが、自分で言うのも僭越ですが、我ながらしぶといです。
その後、奇跡ともいうべき復活を遂げることができ、これでこのまま後の世代にバトンタッチをしようと思っていたところ新型コロナ来襲で、またペシャンコにされようとしました。
ところが、ここでも皆様方との〈絆〉で生き残っています。思い返せば、20年、30年、40年と、付き合いの長い方が多いです。これで知らず知らず〈絆〉が出来たのだと思っています。
そう、「あなたとここにいることがすばらしい」ということです。
これからもいつまでも「あなたとここにいること」、そしてもっともっと強い〈絆〉で『紙の爆弾』『季節』を継続させ鹿砦社を継続させていければと願っています。
(松岡利康)



昨年LGBT法成立直後に発行された『人権と利権』、本年8月に刊行された、博覧強記、語学堪能、そして医学の知識を駆使し斉藤佳苗医師が一気に書き綴った大部の書『LGBT思想を考える』に続く『LGBT異論』が9月28日発行の運びとなりました。
かつてオウムによって殺されようとしつつもカルトと果敢に闘ってきた滝本太郎弁護士、現代フランス文学のレジェンド堀茂樹慶応大学名誉教授、フェミニズム界で孤立しつつも、その腐敗と復活のために闘う千田有紀武蔵大学教授らを中心として多くの方々に執筆、寄稿をいただきました。
内容は多様でぎっしりながら、定価990円(税込み)とお買い求めやすい価格でもあり、ぜひご購読ください。
以下のように緊急事態発生のため、ここでは、本書『LGBT異論』の詳しい内容は省きますが、寄稿者の一人、森奈津子さんは、昨年『人権と利権』を編纂し当社より発行、大きな話題となりました。またここ数年、いわゆる「しばき隊大学院生リンチ事件」について被害者支援、真相究明、加害者糾弾について「別個に進んで共に撃つ」形で共闘してきました。
そして、このたび、9月20日に本書の内容を情報公開した直後、森奈津子さんに対して理不尽な攻撃が勃発したのです。あろうことか森さんが講師を引き受けた、「千葉県人権啓発指導者養成講座」の「女性に関する人権」のテーマの講座に対し、これに不満を持つ徒輩が、森さんを勝手に「差別者」認定し講師を解任するように千葉県に迫ったのです。
特に、本年3月、共同代表による性加害で逮捕者を出した「TransgenderJapan」など、わざわざ要望書を千葉県に持参し直接申し入れています。そんなに森さんの発言に困ることがあるのでしょうか?
くだんの「TransgenderJapan」はみずからの団体の幹部が逮捕されたことをどう反省したのか? それを対外的に真摯に明らかにするのが先決で、それなくして他人の講座にちょっかいを出す資格などありません。

森さんは昨年、LGBT法案の委員会審議で滝本太郎弁護士と共に参考人として呼ばれ発言するほど、当事者としてLGBT問題、女性の人権について発言する知見と資格があります。
出版社としては著者を防衛することは当然であり、この件に対しては断固連携して闘います。
こういうことで、日頃は綺麗ごとばかりを宣う「LGBT法連合会」や、これを支持する政党、立憲、日共、社民、れいわは、どう動くのか? ことは一人の有能な知識人の「言論の自由」を潰しかねない重大な問題なのだ、わかっているのか!?
◆「しばき隊大学院生リンチ事件」の加害者側人脈の蠢動を許すな!
私たちの物事を見る指標に、くだんの「しばき隊リンチ事件」があります。ここで加害者側に立った徒輩(またこれにつながる者)らが森さん攻撃に与していることは決して偶然ではありません。今回の犬笛を吹いたのも、しばき隊のボス野間易通です。
LGBT問題にしろ、今回の問題にしろ、野間易通はじめ、リンチ事件加害者側につながる、いわゆる「しばき隊」(~系)の人物が蠢いているのは偶然でしょうか?
リンチ事件について私たちは真相究明として6冊もの本を出しました。毎回リンチ直後の凄惨な顔写真を付け、リンチの最中の阿鼻叫喚の音声データを付けたものもあります。このリンチ事件は、将来ある大学院生(当時某国立大学大学院博士課程在学)の人生を狂わせました。被害者はいまだにリンチのPTSDに苦しんでいます。不憫です。
いまだに「リンチはなかった」などと吹聴している者がいますが、まさに「偽造するスターリン学派」(トロツキー)です。
今また、LGBT当事者として長年活動してきた森さんの、ささやかな言論の場さえ奪おうとするLGBT活動家やしばき隊(~系)活動家らによる理不尽な攻撃には、少々の意見や考え方の違いを越え一致して反撃しなくてはなりません。ことは憲法21条「表現の自由」に関わる深刻な問題なのです。
◆しばき隊(~系)活動家やLGBT活動家は「左翼」でも「極左」でもない!

ついでながら、森さんには常々申し上げているのですが、しばき隊(~系)活動家やLGBT活動家は「左翼」でも「極左」でもありません。単なるゴロツキ暴力集団にすぎません。昔風に言えば「反革命」「修正主義」ということでしょうか(古い!笑)。
「左翼」「極左」とはまず権力に対して闘うことが基本ですが、彼らが権力と闘っていることなど見たことが在りません。かつては「警察のみなさん、ありがとう」などと中核派や新左翼系ノンセクトグループを暴力的に弾圧する機動隊に「ありがとう」などとエールを送っているのです。こんな「左翼」「極左」はありえません。
学生時代、少なからず「左翼」「極左」の活動に関わった私や滝本太郎弁護士としては、彼らを「左翼」、さらには「極左」などと呼ぶのはおこがましいです。まだ曲りなりに権力と闘っている中核派を「極左」というならわかりますが(ちなみに中核派の杉並区女性議員は区のLGBT条例に反対しました)。
森さんや読者のみなさん、これからは彼らを「ゴロツキ暴力集団」と呼びましょう! 決して「左翼」とか「極左」と呼ばないように!
森さんの問題、今現在、まだ流動的ですが、注視していきましょう! 講座の予定は来週10月2日、この週末から週明けにかけて大きな動きがあるものと予想されます。もし理不尽な処置がなされたならば断固一致して抗議しましょう!
(松岡利康)
【続報!】先にご報告した、森奈津子さん女性の人権講座解任問題ですが、昨日9月26日夕刻、中止が決定、千葉県のHPで公表されました。
※令和6年10月2日(水曜日)に全日警ホールで開催を予定しておりました千葉県人権啓発指導者養成講座 1「被差別部落出身者に関する人権」「女性に関する人権」については諸般の事情により中止となりました。
とのことですが、詳しい説明はありません。「諸般の事情」って何?
また、昨日、滝本弁護士らが千葉県庁を訪れ上申書を提出したとのことですが、一顧だにされず、あっというまの決定でした。
滝本弁護士の側近の方によれば、
知事には会えず、担当部署の人が対応したそうです。(逃げたか?)
画像を送ります。
いつものことといえばいつものことですが、こんな適当な部屋で。
県の担当者からは、その場で中止が確定していると告げられました。
「今回の中止は知事がxで発信する直前の20日頃から、
担当に苦情がたくさん入ったため、安全に出来ないので中止」と、
「安全面の考慮」という逃げの常套句での説明でした。
憲法問題にも抵触する問題ですから、本件に対しては断固弾劾しなくてはなりません。
さらに展開あれば継続的にご報告いたします。
A5判 164ページ(本文160ページ+カラーグラビア4ページ)
定価990円(税込み)
紙の爆弾10月号増刊 9月28日発売
【内容】
1: [対談] 堀茂樹×滝本太郎 世界を席捲する新たなカルト=「性自認」思想の現在
2: 千田有紀 フェミニズムの再生を求めて
3: 井上恵子 東京大学三浦俊彦教授の記事に対する東京大学関係教員有志声明の批判──その問題点
4: 杉島幸生 『トランスジェンダーになりたい少女たち』から考える
5: キャロライン・ノーマ オーストラリアにおけるジェンダーイデオロギーから子供たちを救おうとする私の妹の闘い
6: 滝本太郎 LGBT理解増進法について
7: 滝本太郎 前提として知っておきたいこと
8: 滝本太郎 2つの考え方の図
9: 三浦俊彦 LGBT支援のための前提条件
10: 森奈津子 男性器つき女性を誕生させたい政治家たち
11: 滝本太郎 性自認主義の進展──特例法について司法の状況
12: 玉置祐道 女性スペースの管理と法律の現状と問題点
13: 益田早苗 LGBTQ当事者の子育て:子どもの安定した生活と最善の利益を守る
14: 郡司真子 学校で危ない性教育?
15: 滝本太郎 性自認至上主義は、カルト的な思想運動である
16: 斉藤佳苗 『LGBT問題を考える』を出版して

9月に入りました ── 今年の夏は例年にない記録的猛暑でした。
まだしばらく残暑が続くようです。
そろそろ疲れが出てくる時期です。
また、世事の悩みもままあります。
そんな時には、くよくよ考えずに思い切って眠りましょう!
なにか妙案が出てくるかもしれません。
Tomorrow is another day.
(明日は明日の風が吹く)
猛暑もあってひいひい言ってる間に今年も3分の2が過ぎてしまいました。
月日の経つのは本当に速いものです。
今年残り3分の1を全力疾走するしかありません!
なかなか厳しい状況が続きますが、なんとしても、幾度目かの“奇跡の復活”を遂げなければなりません。
いつまでも鹿砦社と共に歩んでいただきたく願います。
(松岡利康)

先日、母親から古びた文集のコピーをもらいました。一昨年亡くなった従兄の竹内護(まもる)さんが書いたものでした。護さんは長年宮崎県下で小学校の教師をし、これを全うされました。
護さんが終戦後朝鮮半島から命からがら栄養失調の状態で帰還されたことは生前聞いていました。
「先の大戦では、国民のみんなが何等かの形で戦争の悲惨さを味わったと思います。
わたしの体験も六才で孤児となり祖国日本へ向けて朝鮮半島を縦断するというありふれたものです。しかし、一面では特異なものかも知れません。」
こうしたことが「ありふれたもの」だった時代、護さんも幼くして戦争に巻き込まれます。
1943年(昭和18年)、護さんが4歳の時、一家3人は住み慣れた熊本の地より北朝鮮に渡ったそうです。北朝鮮で父は人造石油会社の社員として比較的裕福で「幸福に暮らしていました」。
「そんなわたしたちの家族に不幸が訪れたのは、昭和二十年の八月でした。」
「そして、八月十四日、会社の方より『明日から一晩泊りで社員ピクニックを催す』との連絡がありました。」
「何も知らないわたしたちは歌など歌いすっかりピクニック気分にひたっていました。
それが、八月十五日のことでした。ところが、社宅より相当離れた所まで来た翌朝、会社の幹部の人より『ピクニックに参加した人たちに話があります。』と告げられ、みんながやがや言いながらも一か所に集まりました。
その時の話は、『実は日本は、昨日戦争に負けました。そこで、これから日本へ向けて避難します。』と言う意味のことでした。
話を聞いたみんなはびっくりしました。楽しいピクニック気分も一度にふっとんでしまいました。」
そうして、日本へ向けて「避難」が開始されます。
長い逃避行の中で、身重だった母と、突然閉鎖された鉄橋で離ればなれになってしまいます。その後、母はなんとか故郷・熊本へ辿り着いたということです。
父と二人で逃避行を続け、興南で引揚船が出るというデマに乗って興南に行くと、そこは収容所でした。
収容所では強制労働の日々で、そのうち父は酷い凍傷にかかり、ますます酷くなり父は自殺を図り亡くなりました。
収容所では、時折軍用トラックがやって来て、
「髪の長い人、つまり女の人を連れ去って行くのでした。女の人の悲鳴がいつも聞こえました。このようにして連れて行かれた女の人たちは、二度と帰って来ませんでした。」「母と離別し、父とは死別して名実ともに孤児になったわたしは、お年寄りのグループに入れてもらい、収容所をぬけ出し再び祖国日本に向けて南下の旅を始めました。」
そうして何度も三十八度線を越えることを試みるも失敗を繰り返しますが、
「おとしよりたちが、色のついた大きな紙のお金を何枚か漁師に渡し」
「ヤミルートを通して、やっとのことで三十八度線を越えることができたわけです。」
一方、離別した母親は、身重だったところ途中で産気づき、双子の女の子(つまり護さんの妹)を山の中で生みましたが、1人はすぐに亡くなり、もう1人は1カ月ほど生きて亡くなったそうです。
「そんな時、母は心の中で、『たとえこの子が死んでも護は必ず生きて帰る』と信じて疑わなかったそうです。母のこの願いで、わたしは生きて帰れたのかもしれません。」
そうして、三十八度線を越えた護さんらはソウルの孤児院に入れられ、院での粗末な食事では耐えられず、時々街に物乞いに出たそうです。
物乞いは「子供心にも、みじめで恥ずかしい気持ちになったものです。」
「そんな中で、時々、夜になると孤児を慰問に来てくれるアメリカ軍の将校さんに会うのが、唯一の楽しみでした。
なぜかと言うと、チューインガムやチョコレートなどの美味しいお菓子やおもちゃを持って来てくれるからです。」
「地獄に仏」ということでしょうか。──
そうして、なんとか引揚船に乗ることができ、「なつかしの祖国日本の山々を見ることができ」たのです。
時に昭和21年6月11日のことでした。すでに終戦から10カ月も経っていました。
引揚船が博多港に着くと、孤児らは本籍地別に分けられ、両親の名前と本籍地を言うと熊本行きとして送られることになり、熊本に着いたらまた孤児院に入れられました。
「熊本市は、両親の出身地だし、母は元気で帰国したことを知っていましたので、母にはすぐ再開できると思っていました。
しかし、敗戦の混乱のせいかなかなか会えませんでした。」
ある子供のいない学校の先生が護さんを養子にもらいたいという申し出があり、この期限の日の昼すぎに母が孤児院にやって来たのです。実に11カ月ぶりの再会でした。
「思えば苦しい旅でしたが、そんな中で、私が無事帰国できたのも、名も知らぬ多くの人々の善意のおかげだと思います。」
そうして、
「敗戦という未曽有の混乱のさなか、人間の醜さを嫌という程に見せつけられた中で、きらりと光った同胞愛と人間性を、これら恩人たちのためにも知ってもらいたく、また、一人の一人の子どもが受けた戦争の悲惨な体験をも知ってもらいたく、そして、二度と再びこのような事が起こらないように念じペンをとった次第です。」
その後、護さんは鹿児島大学に進み、卒業後は宮崎で小学校の教師となります。在学中に60年安保闘争のデモにも参加したと聞いています。それは、
「これから先は戦争そのものは勿論、それにつながることへも常に反対し、教え子たちには、ずっと私の体験を語り継いでいきたいと思います。
それが、残留孤児として親探しもせず、幸せに暮らしているわたしの義務だと思うからです。」
正直、護さんがここまで苦労されたとは知りませんでした。この文集のコピーで初めて知った次第です。貴重な戦争の記録です。生前もっといろいろ聞いておけばよかったと悔いています。
私ごとになりますが、1972年夏、この年の2月に学費値上げ反対闘争で逮捕・起訴され、私なりに将来に向け苦悩していたところ宮崎の護さんを訪ねました。「お母さんも心配しとらしたぞ」と言って、宮崎の観光地をあちこち連れて行ってくれました。護さんなりの激励だったかもしれません。途中サボテン公園に行くと父兄が声を掛けてきました。朝も早くから子供らが家に来て騒いでいました。父兄や子供らに慕われた先生だったようです。
なお、護さんは昭和14年4月生まれ、同18年北朝鮮阿吾地に渡り、同21年帰国。同38年鹿児島大学卒業、以後宮崎県下で小学校教師を務める。この文集は戦後39年の1984年(昭和59年)に作成されました。
(松岡利康)
