60年代同志社ラジカリズムとは何だったのか? ──市民運動の狭間から

高橋幸子(市民運動家)

堀さん、吉田さんたちが尽力されてきた同志社大学学友倶楽部がこのたび松岡さんの裁量で再び起き上がる日にカンパイを重ねます。参加がかなわず残念ですが、自分にとっても力強い支えをいただく思いでいます。在宅参加の気分で松岡さんにお便りしますが、雑な走り書きです。お時間がなければ読み飛ばしてください。

私は1963年度生。60年安保と70年安保のハザマにあたる「谷間の世代」です。入学当初は、自主管理を勝ち取る「学館闘争」の最中、大詰めでした。新館に入って学友会は向かいのボックス、私はDSB(同志社学生放送局)の報道課に属していました。

今、目に焼き付くのはなんたってデモだ!! 昨今、観光ブームで祇園祭の四条河原町とか八坂さんの石段下がテレビに映るとチラチラあの風景、ジグザグデモの元気が蘇ります。ついでながら若い頃、何かで読んだ「古代都市は観光ブームと健康ブームで崩壊した」という幻の一文が思い浮かびます。最近アメリカ大統領が来日会談。カメラを向ける野次馬?の報道で、まず耳に聞こえたのは「日韓会談反対」の声。反対といえば、「産学共同」「エンタープライズ原潜寄港」「家族帝国主義」「市電・市営バスの値上げ」などに反対が続きました。ジグザグデモは(とうに承知の松岡さんに言うのもなんですが、(笑))、路上蛇行するヘビのうねりからスネーク・ダンスとも呼ばれたようで、歩く、走る、広がる、集結してつながるなど、いわば自由の象徴の一つ。問題意識はそれぞれに多種多様、同時に問題の根は一つ、という連帯を感じます。そしてあの四条河原町の交差点で、がっちりとスクラムを組んで前に突入する、激しいジグザグがありました。

学友会OBの集まりで挨拶する高橋幸子さん

卒業したあと、学生運動にはいろいろな方向があったことを知り、さまざまな活動をした人と追々知り合いました。ハンセン病回復者とともに「交流(むすび)の家」建設から始まった運動は、同じゼミの人も多く参加して、60年近く今も続いています。公教育の「君が代」強制に反対する裁判では、学生のころ釜ヶ崎に通って闘争した人、労働組合の活動家たちとも組みました。公害の浮上で「水俣」へ向かう友、「三里塚」の闘い(強制撤去の問題は今も続きます)、「狭山裁判」や「べ平連」に参加する人、暮らしを問う「婦人民主クラブ」や「ウーマン・リブ」の闘い、21世紀に入って特に潮目が変わった其地問題で沖縄に行って移住した友もいます。が、いずれも若い頃、根拠の一つは学生運動が確かな火種となり、燃えていると感じます(もちろん壮年期に突然迫った問題がふりかかり、当事者になった人が起ち上がる力強さは凄いと思いますが)。学生時代から、みかんの農薬問題に取り組んだ人がのちに起ち上げた「市民環境研究所」活動に私は今、属しています(ただいま参加がほぼできず心苦しいのですが)。思えば古代より!?日本神話やギリシャ神話にも出てくる人間の問題として、その根は一つ。とどのつまり私、自分への問いかけを思います。

1992年、自衛隊がカンボジアへ初の海外派遣に行くという大きな曲がり角を迎え、「自衛官人権ホットライン」という電話相談運動の呼びかけ人の一人になりました。自衛官を自衛隊というかたまりで見るのではなく、釣りが好きな人とか二人の子どもがいる、とか暮らしから同じ市民として見る、それが土壌の基本です。「企業戦士の方がもっときついのに、なぜ自衛官なんだ」と当時、からかうような抗議の電話も入りました。旧日本軍隊と今の自衛隊はどこが違って、どこが同じなのか、及ばぬながら考え合いました。

同時期もう一つ、情報公開運動を発足して、先細りながら35年近く、今も続いています。発足当時は「官官接待」など見た目も派手な不法公金。全国集会も盛り上がりましたが、いま問題は絶妙に隠れて、ますます埋もれたりして、「メディアを通じて成り立つ社会」の急速な発展、その誘導、向かう先を案じます。

そうだ、同志社学館ホールにジェーン・フォンダが見えた日、かぶりつきの席で見たというか、目の前で会いました。小柄で華奢な人、でもその迫力・魅力の残像は今も新鮮です。しかし当時、ベトナム戦争の現状はアメリカでも報道されながら、反戦の世論は盛り上がらず、世論とは何か?を考え続けてきました。

私は新聞学専攻です(今はメディア学科?)。「新聞学原稿」や「放送概論」、「社会思想史」や「社会統計(アンケート)論」などの授業があったかと思いますが、強く残るのは「世論・宣伝」です。世論には必ず虚像が入る。私たちは虚像の現実から免れない。国家が「反共」を作って「文明進歩」の旗の下に現実を屈折させ、虚像のモデルを作っていかに市民に押し付けてくるか。屈折を知れば、実態に近寄れるが、それも丸っぽい私たちの考え、一人一人の暮らし、生の声の実態ではない、という問いかけです。

百貨店の労働ストライキが1、2年前ニュースになり、「街の声」として「こんな暴力行為は過激なテロです。すぐ取り締まってほしい」といった(ストライキを知らない?)若い人の声が取り上げられ、驚きました。報道記者一人一人は現場で踏ん張る人もいると思いつつ、選択された「街の声」の奥向こう、その行方を考えます。このたびアメリカNYにマムダム市政が誕生しましたが、今後の世論、その行方も気になります。

「同時代の日本には“ピンとこない一方幕末期には“ピンとくる”ものを感じる」という若い友人から先日、新刊『列島哲学史』(野口良平著)が届きました。中国、インド、ヨーロッパ、米国という強大文明、その辺境にある日本列島で幕末期の世界像はたぶん最大級に揺らいだだろう。幕末の密教(優等生)と顕教(劣等生)が現在は逆転している例題も追跡されて、ただいまノロノロゆっくり読んでいるところですが、日本のメディアでは今、クマ出没の被害が大きなニュースになっています。その折々、同じゼミだった藤本敏夫さんの「自然王国」里山文化の重要性を訴え、壮大にして具体的な「里山運動」の提唱、構想が思い重なりました。

テレビで大谷選手などの米リーグを見れば、ふと、60年安保の首相の姿が思い浮かびます。集結した抗議デモに向かって「野球観戦に大勢が一体して集まっている。あの“声なき声”が安保に賛成している」といったような発言をしました。だから今も野球観戦に惑うのではなく、見るのは私の自由ですが、いま「自由ほど高くつく」時代を思います。旅行も与えられたパックで行くと便利で安い。自由は当時、高値にして買う時代です(家で観るテレビ観戦はひとまずタダ?いや「タダほど高いものはない」とも言いますが)。ともあれ岸首相の「声なき声」にピンと来て、60年安保から生まれたのが「声なき声の会」のデモでした。

65年を経て戦争もさらに文明化、言葉(政治用語)のすり替えも進歩しています。「平和」とは防衛(費)、「抑止力」を宣伝して武器を作る、売る、買う競争。武器を売り歩いた首相が「わが法治国家は~」を連発しました。数々の「戦争法」に取り囲まれる今を思います。(コロナまでですが)あの四条河原町コースをデモると、歩道の観光客(?)からカメラがパチパチ向けられ、デモが風物詩みた~い!! でも自分と同じ市民として誘ってみたら、デモの輪へ面白そうに若い人が二人三人寄って入り、ふと一瞬、現代版「声なき声の会」かと妄想がちらつきました。

先を歩いた人がどこでつまずいたか、どこで弾圧されたか。あるいはどんな虚像を見たか、どう「転向」したか。しないで立ったのか。前の時代は、次の時代がどう闘うか?によって位置づけられ、先人の転んだ地点が次の世代の出発点ともいいます。しかし私は転んだ覚えもないのに「いつのまにか骨折」。老いて圧迫骨折。イテテテ~と背中をさすりながらお便りしました。ご勘弁ください。