7月22日公開映画『台湾萬歳』酒井充子監督が語る「今の台湾があること」の喜び

あなたは、台湾に行ったことがあるだろうか。そして、日本統治下や国民党戒厳令下の歴史や、「原住民」の人々のことを知っているか。

酒井充子監督 1969年、山口県生まれ。大学卒業後、メーカー勤務ののち新聞記者となる。台湾の日本語世代が日本への様々な思いを語る初監督作品『台湾人生』が2009年に公開された。以後、『空を拓く-建築家・郭茂林という男』(2013年)、『台湾アイデンティティー』(2013年)、『ふたつの祖国、ひとつの愛-イ・ジュンソプの妻-』(2014年)を制作。著書に『台湾人生』(2010年、文藝春秋)がある。現在、故郷・周南市と台東縣の懸け橋となるべく奮闘中 (撮影:小林蓮実)

2017年7月22日土曜日より、酒井充子監督ドキュメンタリー台湾3部作最終章『台湾萬歳』が、ポレポレ東中野ほか全国順次公開となる。それにともない、筆者は先日、台湾の台東縣を訪れたが、このことは次週以降に譲る。

本作は、日本統治時代の愛国教育の徹底や戦後の国民党の戒厳令下などを描き出した『台湾人生』、台湾で生まれ育つも時代に翻弄されざるをえなかったそれぞれの生き様をとらえた『台湾アイデンティティー』に続くもの。戦争を体験しながらも漁師として生きてきた張旺仔さん、同様に漁師だが戦後生まれの「原住民」アミ族のオヤウさん夫妻、パイワン族の父とブヌン族の母の間に生まれた中学校の歴史教師でシンガーソングライターのカトゥさんらが登場する。カメラは彼らの語り、衣食住などの生活、「歌い・踊り・祈る」姿を追う。

九州より少々小さい国土の台湾。先日、本作と台湾のことをより深く理解したいと考え、酒井監督へのインタビューをおこなった。

◆「張さんの地球」から描く、困難を経て現在の台湾があることの喜び

—— 酒井監督は、蔡明亮監督『愛情萬歳』をご覧になって台北を訪れ、侯孝賢監督『悲情城市』のロケ地をめぐっていた際に流ちょうな日本語でおじいさんに話しかけられたことを機に台湾への関心を深めたとお聞きしています。映画製作自体は、どのようなタイミングで決心されましたか。

酒井 『愛情萬歳』を1998年の夏に観て、その舞台となっていた台北に立ちたい・そこに行きたいと感じました。軽い気持ちで台湾へ向かったのです。私は現地でよく道を聞かれるほど台湾の人に見えるようなのですが、『悲情城市』の舞台である九份から台北に向かうバスを待っている際、遠くからトコトコと歩いてきたおじいさんに「日本からいらしたんですか」と流ちょうな日本語で話しかけられました。私は当時住んでいた「北海道から来ました」と答え、その後、おじいさんの幼少期に日本人教師にかわいがられたという思い出、再会の希望の話を聞かせてもらったのです。98年で戦後53年が経過しており、私は日本人の先生を思い続ける台湾人が存在することに衝撃を受け、歴史をきちんと知りたいと考えました。このたった1度の訪台で2000年、「台湾の映画を作る」と決意して新聞記者を辞めたのです。

—— 大変な決意と行動力ですね。では、3部作の構想は、いつからでしょうか。

酒井 制作を進めるうち、なし崩し的なものですね。台湾の日本語世代のおじいさんやおばあさんと出会って話を聴き、この声を届けたい、そのためにまずはこの1本(『台湾人生』)を完成させたいと考えました。また、白色テロ(民主化運動などに対する強権的な弾圧のこと。ここでは、中国で共産党との内戦に敗れた国民党が台湾に本拠地を移し、49〜87年の38年間にわたり戒厳令を敷いた時代の暴力的な直接行動を指す)や戒厳令下のことをもっと聴きたいと考えて『台湾アイデンティティー』を制作し、その最中にプロデューサーが「もう1本作って3部でしょう」と口にしたことが現実化しました。ただし、過去2作はインタビュー中心でしたが、今回は極力インタビューを控え、「生活を撮る」ことを意識した点が異なります。それにより、現在の台湾の時間が見えてくるのではないかと考えたのです。

—— 日本統治下や国民党戒厳令下のことは、徐々に知っていったのですか。現在、台湾といえば「親日」というイメージをもつくらいの人がほとんどかもしれませんが。

酒井 台湾の歴史について勉強しながら、映画を作っていきました。一般的には、日本が統治していたことすら知らない人も多いかもしれませんね。「親日」といっても、この2文字では語り尽くせませんし、何文字あっても足りません。表面的なことは身近に感じられますが、それだけではない、複雑なのです。

—— 『台湾人生』のラストに現場の人間同士の交流を見て胸を打たれ、『台湾アイデンティティー』にその発展を見ました。そしてルーツを辿りながら、『台湾萬歳』は「原住民」と地に足のついた生活者へと至ったのだと考えたのですが、個人的には繰り返し観るほど社会派の文脈中心では語りづらく、張さんの魅力あってこそのヒューマンドラマであり、タイトルから監督の台湾に対する愛と祈りとを受け取ったのです。そこで、監督ご自身が本作で伝えたかったことは、どのようなことでしょうか。

酒井 そうですね。いろいろなことがあったけれど、今の台湾があることの喜びでしょうか。そして、作り手が用いれば陳腐な表現になってしまうかもしれませんが、「人間賛歌」ですよね。

©『台湾萬歳』マクザム/太秦

—— では、監督にとって、張さんの魅力のポイントは、どこにあるでしょうか。

酒井 私は現役で働いている日本語世代を台湾の南側に求めていました。彼の第一印象は、あの笑顔と、下着のようなラフなシャツ1枚の姿だったからわかった働いてきた人ならではの胸板の厚さ。初対面から、運動の代わりのように、なんてことのない畑を愛してこまめに世話をしていて、惹かれましたね。私は山口県出身ですが、同郷の香月泰男という画家を愛しています。彼は『シベリヤ・シリーズ』を手がけ、花・野菜・果物・ヨーロッパの風景なども題材にしています。そして、『〈私の〉地球』という作品があり、出身地でありシベリヤから戻った後に過ごした大津郡三隅町(現・長門市)の家と森の半径数百メートルに手を描き、周囲にシベリヤ(日本軍捕虜の強制労働の地)、ホロンバイル(彼の通過した地)、インパール(日本軍の無謀な作戦で敗北を喫した地)、ガダルカナル(日本軍が米軍の物量に圧倒されて敗北した地)、サンフランシスコ(平和条約が締結された地)という地名を書きこんでいます。私は張さんの畑を目にした際、「ここは張さんの地球だ!」と感じました。そして、スタッフに香月泰男のことを話して「張さんの地球を撮りたい」と伝えたら、「わかった」と即答してもらえたのです。そして、5回、計100日の訪台で、最初の2回は1カ月ずつ成功鎮に戸建てを借り、私とスタッフ2人との合宿状態で撮影をおこないました。ただし、毎日カメラをまわすのでなく、張さんの話を聴きながらお茶を飲み、バナナをいただくような日も多くありましたね。

◆屈せず幾度でも立ち上がる台湾の人々の歴史と現在の姿

—— 私は活動家でもあり、ほしいものを獲得できることがある台湾・香港・韓国などの運動や社会をうらやましくも思っていました。先日、別件の取材で、LGBT関連法などの面からも進んでいることも知りました。でも、今回の訪台で、同行の仲間と「どこの社会も変えることの困難は同じだ」「台湾は正式な国として認められていないからこそ国際標準を目指さなければならない」などという会話も交わしたのです。酒井監督は、台湾の現在の社会について、どのようにお考えになりますでしょうか。

酒井 日本統治などは歴史的な事実であり、それを知ることは大切なことです。また、日本が台湾に学ぶべきこともあります。LGBT法や脱原発などの「超最先端」をアピールし、時代を先取りしていく国の立ち位置などですよね。台湾は、世界保健機関(WHO)総会に2009年よりオブザーバー参加してきましたが、17年、中国の圧力で参加が認められませんでした。そのようなことが起こっても台湾はめげることはありませんし、独自のスタンスを示し続けなければなりません。また、末端の声が、国を代表する声になりうる状況ですが、先日、台湾移民を取り上げたドキュメンタリー『海の彼方』の黄胤毓監督は「抵抗すべきことが多くあり、為政者に立ち向かう声が大きくならざるをえない」という旨のことを語っていました。韓国も台湾も80年代に民主化運動が起こり、自らの手で自由を勝ち取ります。日本の戦後、アメリカとの関係などをかんがみれば、大きな違いがあるでしょう。

—— 韓国とアメリカとの関係は、日米関係と似たところはありますが、たしかに大きく異なりますね。とにかく、このような記録には時間的な制限があるとは思いますが、もっと台湾のことも知ることで、日本人が「棄てた」台湾の人々への支援や、原住民の人々・独立についての支援、日本から足を運ぶ人の拡大などにつなげていきたいとも「夢想」しています。

酒井 『台湾人生』に登場してくれた5人のうち4人の方が亡くなり、同様の証言を撮影できるのもあと5〜10年間でしょう。原住民族の村もさまざまです。カトゥさんのブヌン族の村には一体感があり、精神的な豊かさに魅力を感じました。いっぽうで、村全体の佇まいからさびしさや貧しさが伝わる村も多くあります。原住民に対する助成金もありますが、それに頼ってしまうような現状もあって私は、それは大きな課題ではないかと考えています。『台湾人生』のタリグさんによる「名前が日本人や中国人に変わっても、自分が原住民であることを忘れてはならない」「原住民がいなければ今の台湾はない」という言葉が無意識に私の中に残り、それが『台湾萬歳』に結びついたのでしょう。実は、台湾でまだ行ったことのない場所を対象とする次回作の構想もあります。

—— それでは最後に、読者に伝えたいメッセージはありますか。

酒井 とにかく「台湾に行ってください」と伝えたいですね。特に、台湾の人口に比し、原住民の割合は2.3%ですが、台東縣ではそれが3割強にのぼります。『台湾人生』にご登場いただいた唯一の生存者であり、二二八紀念館(1947年に国民党の専売局闇タバコ摘発隊が台湾人女性に暴行を加え、これに抗議した群衆に摘発隊が発砲して1人を殺害。これに対し、2月28日に抗議デモがおこなわれたが憲兵隊による一斉掃射で多数の市民が死傷し、政府関連施設や中国人に対する抗議行動や襲撃事件が全島に拡大した「二二八事件」を伝える場所)でボランティア解説員を務めていた蕭錦文さんは現在引退していますが、会えることもあるかもしれません。そして、『台湾萬歳』はぜひ、笑いながら観てください。

◎台湾3部作最終章『台湾萬歳』http://taiwan-banzai.com/
 7月22日(土)よりポレポレ東中野にて公開ほか全国順次

[参考動画]映画『台湾萬歳』予告編(CINRA NET 2017年6月2日公開)

▼小林蓮実(こばやし・はすみ)
1972年、千葉県生まれ。大学卒業後、広告代理店・制作会社、サポート校、編集プロダクションを経てフリーライター、エディターとなる。『紙の爆弾』『現代用語の基礎知識』『週刊金曜日』『現代の理論』『neoneo』『救援』『労働情報』などに寄稿。映画評・監督インタビュー執筆、映画パンフレット制作・寄稿、イベント司会なども手がける。ドキュメンタリーや60〜70年代の邦画を好む。また、労働や女性などに関する社会運動に携わる。小林蓮実Facebook 

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7月18日早稲田大で無料再演!社会派ブラックコメディ『キョーボーですよ!』

◆すでに治安維持法より広範囲な共謀罪の犯罪対象

6月15日に成立し7月11日施行された共謀罪だが、北から南まで日本全国で同法廃止へ向けての取り組みがなされている。

犯罪を実行していなくても計画段階で逮捕したり家宅捜査できるのが共謀罪だ。犯罪を「計画した」「合意した」と判定する権限を100パーセント持つのは、警察などの捜査機関だから、警察全権委任法といっていい。

反対者を弾圧した戦前戦中の治安維持法ですら、当初は共産主義者取締などに対象が限定されており、しだいに拡大されて、絵を描く人や俳句の会まで弾圧された。それに対して共謀罪は、277(数え方によっては316)の犯罪に共謀罪がつくので、最初から広範囲の市民に網をかけるものだ。

◆とんでもない危機に、とんでもなくフザけた演劇

すでに法律は施行され、監視が始まっている。戦後日本の最大の危機と言っても過言ではない状況なのだが、このとんでもない危機に、とんでもなくフザけた演劇が上映される。

社会派ブラックコメディを世に放ち続けてきた劇団チャリT企画の『キョーボーですよ!』(作・演出、楢原拓)がそれだ。実は、強行採決直前の6月9日~6月13日に、東京都新宿区の「新宿眼下画廊 スペース地下」で上演されたので筆者は初日に観に行った。

共謀罪をめぐる国会内での与野党の攻防や反対運動がピークに達する時期と上演期間がぴったりと一致してしまったので、リアルな感覚が迫ってきた。この作品が、入場料無料で7月18日に再上演される。

7月18日早稲田大で無料再演決定!『キョーボーですよ!』 
『キョーボーですよ!』上映会のチラシ

今回は、劇団「チャリT企画]と[早大有志の会]のコラボ企画だ。

7月18日(火)18:30開演(18:00開場)
18:30~早大・梅森直之教授 講演「キョーボーですか?」
19:10~劇団チャリT企画 公演「キョーボーですよ!」
早稲田大学小野記念講堂
入場無料(全席自由200席)
詳細は http://www.chari-t.com/pc/information.html
劇団ホームページ http://chari-t.com/kyobodesuyo/

◆「びっくりするほど簡単にあなたも今日から犯罪者」

いったいどのような内容なのか。

《平凡な市民サークルが突然わけもわからずテロ集団と認定され、テロの実行を共謀したとしてメンバーが逮捕されてしまう。そして、ものすごく不当な扱いを受けたあげく、しまいにはメンバー全員に「処分」が下される。

知らなかったでは逃げられない異常な事態。
果たして彼らの運命や如何に?
“今日もあなたを誰かが見ている”》
(以上、同劇団のチラシより)

“今日もあなたを誰かが見ている”

このあらすじは、共謀罪法案の核心を突いている。本人には、犯罪を計画した覚えもなければ、合意・賛同した覚えがまったくなくても、あるいはそう主張しても通用しない。

仮に犯罪計画に一度でも合意(暗黙の合意、目配せでも合意したとされる可能性あり)してしまったら、あとになって「そんなの危ないから止めた」と思って実際に何もしなくても、罪は成立してしまう、ということになっている。

だれかが警察に通報して「こんなことが話されていました」と言えば、犯罪の計画や合意があったとされかねない。そして通報した密告者は、罪を免じられる。したがって、疑いを掛けられた者が助かる方法は密告しかないのである。

本作は、以上のような共謀罪の本質がしっかりと盛り込まれている。人の弱みに付け込んで供述させる警察のやり方、取調べ方法など、おそらくこんなことになるだろうな、と思わせる内容がちりばめられているのだ。
 
もちろんコメディだから笑いっぱなしなのだけれど、笑いながら胃の辺りに不快感を覚えた。夜遅めの食事を採り、朝起きたときに胃がもたれる、あの感覚である。

へたをすると、この演劇はブラックコメディとは言えなくなってしまうのではないか。あたかも近未来の現実をそのまま演じているように思えてしまうからだ。

◆安倍政権こそがブラックコメディ

チラシには小さな文字で「※料理番組ではありません」と笑いを誘うような文言が書いてある。「キョーボーですよ!」のタイトルは、料理番組の「チューボーですよ!」をもじってあるからだ。

だが、公式WEBサイトに掲載された出演者の内山奈々さんのインタビューがアップされている(インタビュアーは小劇場舞台制作団体BMGの長谷川雅也氏)のを見ると、やっぱり料理番組的ともいえる。

「チラシには『料理番組ではありません』と書かれてますが、料理番組と思っていただいてかまいません。どこにでもいる普通のおばちゃんが、『お前、包丁研いだだろ』と言われて捕まるような話です」

その言葉どおりの内容だと言っておこう。

今回の作品を制作した劇団チャリT企画は1998年に結成され、時事ネタや社会問題などの思いテーマをコメディとして世に送り出してきた。「ふざけた社会派」「バンカラ・ポップ」と彼ら自ら称する異色の劇団だ。

過去には、特定秘密保護法をテーマにした『それは秘密です』などを手掛けて注目された。特定秘密の内容はもちろん公開されず、「秘密は秘密」という法律そのものが「秘密は秘密」で一般人にはまったくわからないというマンガ的状況がよくわかる作品だった。

共謀罪でも、森友・加計学園疑獄でも、政府や自民党の対応を見ていると、国会内でブラックコメディを演じているかのようだ。それも、へたなシナリオ、ひどい演技である。

ろくでもない“永田町芝居”を見せられた後に、プロが演じる面白い芝居を観て、共謀罪廃止へ向けてのエネルギーとしていただきたい。


◎[参考動画]チャリT企画『キョーボーですよ!』ゲネプロダイジェスト(2017年6月9日公開)

▼林 克明(はやし・まさあき)
ジャーナリスト。チェチェン戦争のルポ『カフカスの小さな国』で第3回小学館ノンフィクション賞優秀賞、『ジャーナリストの誕生』で第9回週刊金曜日ルポルタージュ大賞受賞。最近は労働問題、国賠訴訟、新党結成の動きなどを取材している。『秘密保護法 社会はどう変わるのか』(共著、集英社新書)、『ブラック大学早稲田』(同時代社)、『トヨタの闇』(共著、ちくま文庫)、写真集『チェチェン 屈せざる人々』(岩波書店)ほか。林克明twitter 

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神山典士氏が語る「浅草ロック座の女傑」斎藤智恵子さんの横顔

4月28日に逝去した「浅草ロック座」のオーナーだった斎藤智恵子さん。その斎藤さんはいくつもの「伝説」を残している。通称「斎藤ママ」のレジェンドを知る、数少ない人のうちのひとり、神山典士氏にインタビューを敢行。天才、勝新太郎に20億円をポンと貸し、その勝プロの権利を活かして世界の北野武に映画『座頭市』を作らせた大立者は、一方でドラッグで逮捕された小向美奈子を救済する一面もあった。知られざる「浅草ロック座の女傑」斎藤ママの横顔が、神山氏の言葉からかいま見える。(聞き手・構成=ハイセーヤスダ)

 
浅草ロック座HPより

── 斎藤智恵子さんとは、どこで出会いました?
神山 俳優の勝新太郎さんが生きてる頃、浅草に“ママ”がいるって聞きました。よくわからずに「ママって何ですか?」って言ったら浅草にものすごい“大立者”のばあちゃんがいて(笑)。「実はさ、オレそのばあちゃんに世話になってるんだ」って勝さんが言ってたんですよ。それで会いに行ったのが1996年ですかね。そうしたら勝さんは、おそらくは、すでに入院してたのかなぁ……。ガンにかかっていました。最後に勝さんが言うには、「ママには次は300万円ぐらいの三味線を今までのお返しであげるんだ」って言っていまして、実際、プレゼントをしていたのですね。その三味線の写真もいただきました。そのあとでママに会いに行ったら「まぁ先生に三味線をいただいたの」と。勝さんのことを先生って言っていました。
── そんなことがあったのですか。それは借金を返せないかわりに、ということですよね。
神山 三味線ひとふりぐらいじゃね、全然、それまでお借りしていたお金のお返しにはほど遠いでしょう。(編集部注:勝新太郎氏は、テレビ『座頭市』の制作費を斎藤さんに約20億円ほど借金していたと報道されている)
── 一般には報道によると勝さんが斎藤さんに借りたお金は約20億と言われてますよね。
神山 正確には知りませんが、渋谷に持っていたホテルを売るくらいだから、大変な額ですよね。
── 神山さんは斎藤さんとの交流を雑誌『AERA』や『中央公論』で書いてらっしゃいますよね。
神山 そうです。書きました。それで勝さんが死んだ後、勝さんのことを拙書『アウトロー』に書く時にも斎藤さんに出てもらったし、それから斎藤ママのことも書きたいと思って中央公論が最初だったか、『AERA』が最初だったか何回も何回も書いていたんですよ。それで98年か99年ぐらいにアマゾンに行ったんですよ。

 
神山典士『不敗の格闘王 前田光世伝 グレイシー一族に柔術を教えた男』(祥伝社黄金文庫2014年)

── アマゾンに?
神山 僕が『ライオンの夢』(現在は祥伝社黄金文庫『不敗の格闘王 前田光世伝 グレイシー一族に柔術を教えた男』)という作品を書くときにアマゾンの取材をやってて、ものすごい居心地がよくて、向こうには100万人以上の日系人の世界がありました。現地では、移民の人たちがロック座の踊り子の本場の踊りとを見て喜ぶから「ママ一緒に行かない?」って言ったら「よし行こう」と言い出しまして。踊り子6人ぐらい連れて。あと着付けの人と髪結いとそれから照明とマネージャーと僕ら取材人が3人ついて映像もとったりなんかしながら行ったんですよ。
── 豪華な旅ですね。
神山 10日間ぐらいの旅で、ママだけファーストクラスで、自分たちはエコノミーなのでしたけど(笑)。サンパウロから始まって、前田さんのお墓があるアマゾンのベレン、南のポルトアレグロをまわりました。各地どこでも大盛況で、踊り子たちはホームステイもして、最後はみんな大泣きでしたね。
── 儲かってた時代ですよね。
神山 当時は儲かってたよね。
── まだ景気が上昇していた時代ですね。
神山 かつてのようにロック座が全国チェーンでもなく、全盛の頃ではないですけれども、ただまぁ斎藤さんの会社は不動産もありましたし、パチンコの換金所みたいなのもやっていましたし、芸者置屋もありましたし、ロック座もあの頃は仙台にもありましたからね。仙台、上山田、横浜などなどです。
── 斎藤さんとは死ぬまでお付き合いされてたんですか?
神山 そうです。晩年はもうお仕事から身を引いていました。でも半年に1回か2回は行くようにしてて、「お食事処」っていう彼女がやってる食堂がありまして、そこに行けば斎藤ママや関係者に会えましたから。
── 斎藤さんとの思い出で印象に残ることは?
神山 色々もちろんあるんですけど、踊り子達のことですね。踊り子のOG達と会うと、こう中に何人か幸せな結婚をした子もいるし、それからどこに行ったか分かんなくなっちゃった子も多いのですが、最後には寂しさを引きずって辞めていくでしょう。
── 踊り子がですか?
神山 そうです。
── 年齢もあって。
神山 年齢というかですね、やっぱ男関係とかね。そういう意味ではこう、斎藤ママは浅草ロック座でけっこう強固な“女軍団”を作ったのですが、最後まで残ったのは“古い踊り子”だけだったのです。
── 最後に斎藤さんに会われたのは?
神山 最後に会ったのは今年の1月でしたでしょうか。
── 何の用事でしたか?
神山 実は浅草あたり行くたびに顔出すんですよ。その日も夜9時くらいに行ったと思います。
── 小屋にですか?
神山 小屋というか「お食事処」ですよね。で、斎藤ママは麻雀やっててちょっと会っただけです。ママが経営していました『お食事処』はママの入院中に締めてしまい、働いていた人にとっては青天の霹靂で「何であそこは閉めたのっ?」て聞きました。
── 悲しいですね。私も行ったことあります。もう入れないんですか?
神山 もう入れませんね。お葬式の前から片付けやっていました。
── 斎藤さんのお葬式には行かれたんですか?
神山 行ってないんです。その2日前に自宅にご挨拶に 行きましたが、もう家に安置されてて、お焼香させていただきました。
── 斎藤さんが亡くなってから浅草自体行ってないですか?
神山 葬式終わった後は行っていません。
── 勝新太郎さんの死に目は遭ったんですか?
神山 遭っていません。
── 勝さんと斎藤さんとは最後まで仲良かったんですか?
神山 ええ、ママは(勝さんを)尊敬していましたから。勝さんの妻、玉緒さんも毎年正月3日に姿をみせていましたね。
── 斎藤さんのところに?
神山 新年会をやって、7階がものすごいどんちゃん騒ぎで、若山富三郎、玉緒、北野武……大御所たちがまぁやっぱりママの前では頭あがらなかったですね。
── 面白いですね。
神山 俳優の山城新伍も物まねのコロッケも来ていました。たけし軍団ももちろんです。
── 本日はありがとうございました。

※斎藤智恵子さんのご冥福を祈ります。(ハイセーヤスダ)

▼神山典士(こうやま・のりお)
1960年埼玉県生まれ。川越高校を経て84年信州大学人文学部心理学科卒業。同年4月ISプレス入社、86年12月同社退社。87年1月上海倶楽部設立。90年5月株式会社ザ・バザール設立。96年『ライオンの夢 コンデコマ=前田光世伝』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞、2014年に起きた「平成のべートゥベン」の佐村河内守のゴーストを新垣隆がしていたことを『週刊文春』で暴き、大宅壮一ノンフィクション賞受賞、注目を浴びる。最新刊は7月10日発売の『成功する里山ビジネス ダウンシフトという選択』(角川新書)。公式ホームページ http://the-bazaar.net/

▼ハイセーヤスダ(編集者&ライター/NEWSIDER Tokyo)
テレビ製作会社、編集プロダクション、出版社勤務を経て、現在に至る。週刊誌のデータマン、コンテンツ制作、書籍企画立案&編集&執筆、著述業、漫画原作、官能小説、AV寸評、広告製作(コピーライティング含む)とマルチに活躍。座右の銘は「思いたったが吉日」。格闘技通信ブログ「拳論! 蹴論!」の管理人。

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一水会代表 木村三浩=編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

24年ぶりに訪れた伊豆「熱川バナナワニ園」で物書きの初心に返る

 

このブログは、マスコミ志望者が多く見ているようだ。その前提で、旅行記を少し展開しよう。少しでも参考になれば幸いだ。伊豆の熱川にある「熱川バナナワニ園」に行ってきた。おもえばこのテーマパークは、ワニと熱帯林を売り物にしていたが、小学館「マミィ」という母親向け月刊誌を作っていたときに、このテーマパークの売りが、「小学生でも乗れるオオオニバス、つまりでかい蓮だと書いた。このときに、自分は、蓮に乗る少年の写真をここから借りたはずだ。あれから24年がたち、伊豆の現地にて蓮やワニや、熱帯林を見てみると、「時間がたったのだなあ」と感慨にひたることができる。

まったく脈略がないが、いまは東南アジアへの移住がブームだという。年金が月に10万円しかもらえない。ならば、物価が3分の1か4分の1の台湾やタイ、もしくはベトナムやカンボジアなどで老後を暮らそう。そう考える人たちがもはや年間20万人を突破する時代となった。

 
 

ゴールデンウィークに入る直前、4月29日の「熱川バナナワニ園」は、家族連れが多く、ワニや熱帯のバナナを見にくる家族でごった返していた。

伊豆といえば、「伊豆の踊子」という川端康成の小説が有名だが、これは川端が本当に旅一座の女と出会った体験がもとになっている。最近はファンタジーノベルだの、ライトノベルだの頭の中で作ったような小説ばかりが書店にならんでいるが「実体験」に勝るものはない。

つまり、旅は「出かけた者勝ち」であり、伊豆であろうとタイだろうと、イギリスであろうとバングラディシュだろうと「見てきた人」が書いたものに勝るものはないのだ。

『原稿執筆入門』(竹俣一雄著)にはこう書いてある。1976年の本なので、表現がやや古い。

「ルポルタージュとは、報告文のことである。英語でいえば『レポート』または『リポート』、最近では『ルポ』と略されている。おまけに仏英チャンポンの「ルポライター」などという職業名が市民権を得ているようだ。この新しい職業名をもつ人たちの仕事の内容を考えてみると、べつに新しいものは何もない。「記者(新聞や放送などの)が書くものは、すべてルポルタージュである」といってもさしつかえはない。要するに、読者の代表として、かわりに見て(聞いて)くる報告である。ただ、新聞記者の場合、記者は読者の目となり、耳となるのだが、新聞社という機構の一部で、その代理者でもある。それに、新聞という媒体の特性が、制約を加える。ルポライターは、原則としてフリーランスである。新聞に原稿を載せるような場合、規制も若干ゆるい。最近の流行語?個性的?を売りものにすることができる。実際は、媒体側はその体質に合うライターを選択して書かせるので、それほどかけ離れた?個性的?なものを採用するわけでないが…。それでも、個性的であることは、やはり必要とされている。』(11章 ルポルタージュの心得)

話を「マミィ」の時代に戻す。その場合は、どうしても小学生の子供を持つ視座が必要だったので、「オオオニバスに子供がのれる」という事実を全面に出した。だが、実際に目にした『熱川バナナワニ園』の迫力は、寝ているのか死んでいるのかわからないまま集団で固まるワニたちと、生命力に満ち満ちている青いバナナの一連だ。

『原稿執筆入門』の竹俣氏は続ける。以下のポイントがルポをする上で重要だというのだ。

 

〈1〉 まず、虚心に見る。意識しないで見ているつもりでも、先入観が働いていることが多い。つとめて自分を出さないようにする。

〈2〉 自分の行動のすべてが、読者の興味になっていることを忘れてはならない。現場に臨んでからが勝負ではない。書こうと決心したときから勝負は始まっている。

〈3〉 読者の代理人であることを忘れはならない。専門的なことは専門家に聞きだすこと。(取材、文献、史料、資料を調べるなど怠ってはならない)

〈4〉 対象を反対側からも見てみる。一方から見たら、右や左、反対側に回ってみる。そして、書く立場を選択、決定する。通りいっぺんの観察だと見逃す点が多い。

〈5〉 周辺の状況を軽視してはならない。状況を描くことで対象が浮かびあがる。服装だけでも、どんな人間なのかその性格まで描くことができる。

〈6〉 想像力を働かせる。現場にいない(反対の立場)人の心理を推理すること。温かい思いやりを忘れては、けして完全なものはできない。

〈7〉 自分の意見、解釈は、前面に出さない。

僕としては、過去に表現と解説を逃げた「熱川バナナワニ園」の解説がまた巡ってきた。かつてと同じように、僕は熱帯性植物を語るすべをもたないが、ルポルタージュの基本に立ち返り、ふたたび表現をみつけたときにまたおもしろい植物を紹介しよう。

▼ハイセーヤスダ(編集者&ライター/NEWSIDER Tokyo)
テレビ製作会社、編集プロダクション、出版社勤務を経て、現在に至る。週刊誌のデータマン、コンテンツ制作、書籍企画立案&編集&執筆、著述業、漫画原作、官能小説、AV寸評、広告製作(コピーライティング含む)とマルチに活躍。座右の銘は「思いたったが吉日」。

一水会代表 木村三浩=編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

ラオスからタイへの旅[2]プーミポン国王逝去直後バンコクの昼と夜

 

昨年の秋、タイに行って来た。タイミングとしては、プーミポン国王(ラーマ9世)が10月13日に逝去して、まだ日が浅かったので、かなりの人の服装は黒かった。4割くらいは喪服だったのではないか。

タイで有名な観光スポットの「ワット・ポー」にも行ったし、かの有名なメコン川の水上バスにも揺られてみたが、一番の見所は、やはり早朝の朝6時からオープンしている「問屋街」だろうと思う。頭が切れる連中は、ここに来てTシャツやトレーナーを200円くらいで大量に買い付け、日本のオークションサイトで2000円くらいで売っている。まさに1800円の利ざやだ。これを練金術と呼ばずして、なんと呼ぶ?!

ぼく自身は、タイへの憧れは強い。自身、近年は海外取材を増やして英語やタイ語もテキストを購入し、鋭意、習得に取り組んでいるが、さすがに50歳をすぎると頭に入ってこないのが悲しい。

ところで、日本からタイへの直接投資額は世界でも群を抜いており、タイ投資委員会(BOI)によれば2016年1月から9月期は317.4億バーツ(185件)で2位のシンガポール(266.5億バーツ)以下を大きく引き離している。この状況下、日本人ビジネスマンは多数、タイにやってくると確信し、彼等の役にたつ情報をより多く配信したいが、いかんせん媒体は少ない。

さて、タイの人たちはおしなべて「親日的」だが、最近じゃあこの親日的なムードに水を差す詐欺が増えているという。それが「タイ風俗不動産詐欺」だ。

「リッチそうな旅行客を見つけては『ゴーゴーバーの物件が近く空きますよ。倒産した会社の物件なので、200万円という破格の値段で買い取れます』と甘い言葉で囁く。そして、契約してしまい、いざ営業しようという段になって、本物のゴーゴーバーのオーナーが登場し、『お前、俺の店で何をしてくれるんだ』と問い詰める。本物のオーナーが絡んでいるのがポイントです」(タイにいる日本人ジャーナリスト)

それでも、タイは観光で食っている国だから、ツーリストポリスに駆け込んで「タイの詐欺師に○○かもられた」と申告すれば、何割かは戻ってくる可能性が高い。観光立国とはそういうことだ。

夜になるとまたタイは別な顔を見せる。夜は金もちが遊びに顔をだす。まるで夜行性の昆虫のごとくだ。

 
 

バンコク市内では、さまざまなセレブが遊んでいるといわれており、ナイトマーケットでは雑貨からつまみ、伝統工芸品などさまざまなものがところ狭しと並んでいるが、スリにも気をつけたほうがいいだろう。観光客は、タイでは「カモ」なのだ。

だがそのことをさしひいても、タイは美しい街だし、物価は日本の3分の1だ。リタイヤして住みたい国の上位に常に食い込むというこの国に、いまいちど行ってみたいと思う。

政治的には、プーミポン国王が亡くなり、安定しないのではないか、と囁かれているようだ。この国はいつの時代も軍隊の政治と民衆の政治がぶつかり合い、前国王が調停に入っておさめてきた。

タイの人たちにとって「戦争で一度も侵略されていない」のは誇りであり、国力が伸びてきた原因のひとつ。周辺のベトナムやミャンマーは、常に戦争で疲弊してきたから。いずれにしても、タイの魅力はまだつきない、紹介しきれないところは、また別の機会に語る。

◎ラオスからタイへの旅[1]「ラオスに何があるのですか?」

▼小林俊之(こばやし・としゆき)
裏社会、事件、政治に精通。自称「ペンのテロリスト」の末筆にして中道主義者。師匠は「自分以外すべて」で座右の銘は「肉を斬らせて骨を断つ」。

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《建築漂流02》 黒の威容・霊友会釈迦殿

 

東京タワーを右手に桜田通りを北上し、飯倉交差点、つまりは右折すれば東京タワーにたどり着くその交差点を過ぎるとき、左手奥に見える異様な建造物。都心のタクシードライバーは、これに関する知識をきっと用意している。好奇心旺盛な乗客がそれを目にすれば「あれはなんだ!」と質問するに違いないからだ。

霊友会釈迦殿(れいゆうかいしゃかでん)は、その名の通り宗教法人霊友会の本部施設であり、同会ホームページによれば「釈尊との心の会話を交わす場として建立」され、そこでは「在家のつどい、妙一会お花まつり、節分会など、さまざまな行事が行われている」とのことだ。「特徴ある釈迦殿の外観は“合掌”をイメージしています」とも記されている。

竣工は1975年(昭和50年)。延床面積は25,720㎡。地下6階、地上3階の鉄筋コンクリート造。設計施工は竹中工務店。同社設計部の岩崎堅一と絹川正が設計を担当した。岩崎堅一は、有楽町センタービルディング(通称“有楽町マリオン”)や横浜市大倉山記念館といった大規模な設計に携わる建築家であり、受賞歴も多い。また、武蔵工業大学(現東京都市大学)工学部建築学科教授を経て現在は名誉教授を務めるなど、若手育成にも関係する人物だ。

この建造物の特徴として、まずはその“巨大”さを挙げるべきだろう。「ピラミッドの巨大さは、ただ体積が大きいのみならず、それがほとんど実用性を感じ得ない“モニュメント”であることによってより強く感じられるのだ」という話を聞いたことがあるが、釈迦殿についても同じことが言えるのではないか。私がこれを指して“建造物”と呼ばざるを得ないあたりからもその巨大さを感じ取ってもらうこともできるかもしれない。

 

造りとしては、大屋根を支持する28本の柱が目を引く。それらは道を形づくっており、したがって参道の役割を果たしている。柱や床材には御影石(花崗岩)が用いられており、ピカピカに磨かれた石の重みがダイナミックで荘厳な空間を支えている。御影石もその種類によってずいぶん趣が違うものだが、ここに用いられているのは中国の山東省を産地とする“中国マホガニー”もしくは米国サウスダコタ州の“ダコタマホガニー”ではないだろうか。いずれも安価なものではない。参道空間の天井は低く、また装飾はシンプルに統一されており、どこかミニマルな思想を感じさせる。これは、重い扉を押し開けた先にあるメインホールとのコントラストを生むための構造であり、法悦への導入だろう。

実は10年ほど前にもここを訪れたことがあるのだが、そのときの道連れ、自称“B級映画ハンター”によれば「宗教団体はとにかく信者を集めなきゃいけないから、まずはヴィジュアルで攻めてくる」のだという。なるほどそんなものなのか知らん。

 

▼[撮影・文]大宮 浩平(おおみや・こうへい)
写真家 / ライター / 1986年 東京に生まれる。2002年より撮影を開始。 2016年 新宿眼科画廊にて個展を開催。主な使用機材は Canon EOS 5D markⅡ、RICOH GR、Nikon F2。
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世界の盆栽フリークは埼玉をめざす──第8回世界盆栽大会inさいたまの盛況

 

『第8回世界盆栽大会 in さいたま』に行ってきた。開催していたのが4月28日から30日までと限定されていたにも関わらず、世界中から「盆栽フリーク」が大挙してやってきて、歩くのも混乱が生じるほどの好評だった。

盆栽は、中国で生まれ、日本へは遣隋使・遣唐使に始まる中国の先進文化導入のプロセスでもたらされたと考えられている。

中唐の詩人、白楽天は、洛陽に構えた住宅につき、その住宅のなかに盆花を暖室に入れるという詩句を挟んで、当時の呼称と冬の激寒からの保護法を観察したとされる。また、鎌倉時代には、『西行物語絵巻』の中で、方丈(僧侶の居住棟)の縁先を飾る盆山(石付き盆栽の呼称)をうつしとどめたことは場所としての寺院、様式としての石付きの二面で、盆栽が登場した由来を雄弁に語っている。

さいたまには「盆栽村」がある。これは、東京から被災して逃れてきた盆栽職人たちが作った村だ。かつて東京の団子坂(文京区千駄木)周辺には、江戸の大名屋敷などの庭造りをしていた植木職人が多く住んでいたとされる。

明治になってから盆栽専門の職人も登場。関東大震災(1923年)で大きな被害を受けた盆栽業者が、壊滅した東京から離れ、盆栽育成に適した土壌を求めてこの地へ移ることになる。1925年には彼らの自治共同体として大宮盆栽村が生まれ、最盛期の1935年頃には約30の盆栽園が存在した。

 
 
 
 

大宮盆栽村は、いまも名品盆栽の聖地として知られ、日本だけでなく世界から多くの愛好家が訪れている。そうした縁から国際的な大会がさいたまで行われているのだが、今は「BONSAI」は、中国やタイ、ミャンマーやメキシコあたりで爆発的な人気を誇っている。

「盆栽を教えてくれる職人を講師として送って欲しい」という要請が、世界の各国から殺到しているのだ。だから実は「盆栽職人」になりたがる人たちは日本人よりも外国人のほうが多い。

盆栽村にちらばる園に行ってみるといい。外国人たちがさまざまな言語を駆使して、盆栽の手入れをしている。彼らは仕事で生計をたてるのだから必死だ。物見遊山で盆栽を見にきた私たちとはまったく真剣さがちがう。

 

さて、日本の盆栽は、幕末の開港をきっかけとして、世界規模で展開されていた植物探査(プラントハンティング)の波にのり、西欧に運ばれた。しかし、それらの奇異を誇示する姿は、盆栽になじみがなかったことを背景に「自然に反する奇異なもの」という印象をばらまいたようだ。しかし、それから日本では、美術盆栽、自然美盆栽へと向上し、西欧人も関心をしだいにもってきたので、ひとつの文化を形成した。

1964年、東京五輪と1970年の日本万国博覧会に際して来日した世界の人たちは、特設された盆栽水石の名品展を訪れて、帰国した将兵へのみやげ話として盆栽へのあこがれを語った。なお、その自慢げな話しの裏には、自分の国には存在していない日本的な芸術観への開眼が感動とともにこめられていただろうと推測できる。

会場では、盆栽が売られていたが、数十万円もする盆栽がつぎからつぎへと売られていた。

どうも「BONSAI」を世界遺産として登録する動きがあるらしいが、ぜひ実現してほしいし、日本文化が広がるきっかけになれば幸いである。

 

▼小林俊之(こばやし・としゆき)
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島唄よ、風に乗り──辺野古の海・破壊行動に抗す歌

宮沢和史さん(2016年10月2日熊本「琉球の風~島から島へ~2016」にて)

気取らない、威張らない、爽やか。元THE BOOMの宮沢和史さんだ。彼は昨年1年間体調不良で、ステージで歌う活動を「休養」していた。それでも震災後の昨年10月2日熊本で行われた「琉球の風」に駆けつけて「今日だけはどんなことがあっても歌わせてくださいと僕のほうからお願いしました!」と全国のファンには極秘(?)で「島唄」を熱唱してくれた。

一昨年は顔色がさえず、体が辛そうだった。本人曰く「ヘルニアで動くのも苦しい」状態だったそうだ。昨年はずいぶん元気になっていて、ご本人も「だいぶ元気になりましたよ。ステージで歌わないのが休養になったみたいですね」と明るく話してくれた。それでもまだ指のしびれがとれることはないとのことだった。

◆宮沢和史さんが「島唄」に込めた想い

4月1日付朝日新聞デジタルより

4月25日から防衛局による「辺野古の海破壊行動」が激化しているが、それに対するささやかな抗議として、宮沢さんの「島唄」にまつわる逸話をご紹介する。

以下は4月1日付の朝日新聞デジタルに掲載された記事からの抜粋だ。

沖縄の音階と三線(さんしん)を全国に広めた「島唄」。ラブソングのように聞こえる歌に込められた本当の意味は?

「THE BOOM」のボーカリスト、宮沢和史さん(51)は山梨県出身。沖縄音楽の魅力にとりつかれたきっかけは、1989年のデビューから間もない頃、土産にもらった沖縄民謡のカセットテープだった。 「バブルの空気に居心地の悪さを感じて、日本から世界へ発信できる音楽を探していたとき、大地につながりをもつ沖縄民謡に日本の原風景を感じたんです」

90年、アルバムのジャケット撮影のため、初めて沖縄の土を踏む。翌年には沖縄県糸満市のひめゆり平和祈念資料館を訪れ、ひめゆり学徒隊生存者の話を聞いた。住民を集団自決に追いやったものに対してだけでなく、沖縄戦に無知だった自分自身にも腹が立った。人々が息絶えたガマ(洞窟)の中に自分もいるような恐怖を覚え、資料館の外へ出ると、さとうきびが静かに風に揺れていた。

宮沢さんは振り返る。「牧歌的な光景と、その下で行われた殺戮(さつりく)とのギャップが信じられなかった」伝えなければと思った。自分には音楽がある。「体験を話してくれた方に恥ずかしくない曲を作ろう」。そう考えて一気に書き上げたのが「島唄」だ。

「ウージ(さとうきび)の森であなたと出会い ウージの下で千代にさよなら」。単純に恋の始まりと終わりを描いたとも取れる一節は、ガマの中で自決した二人の幼なじみの男女をイメージしているという。「レ」と「ラ」がない琉球音階で作られた曲の中で、このフレーズだけは通常の西洋音階にした。「何が誰がそんな状況に追い込んだのかを思うと、沖縄の音階はつけられなかった。ヤマトの音階にした」

◆今年も9月に熊本「琉球の風」で「島唄」を

私は沖縄の知人から聞いて、「島唄」に込められた意味を知ってはいたけれども、上の記事にある通り、宮沢さんご自身がそのことを語るようになったのは21世紀に入って以降で、それまではメロディー、歌詞ともに卓抜した名曲として世界にも広がっていた。

さて、肝心の「島唄」であるが下記が、ほぼ宮沢さんの意図に近いだろうと思う。巧みの技である。パッパラパーのバブル時代でもこの歌詞には抵抗を感じる人が多くはなかっただろう。しかし表の歌詞を翻せば、これはまがうことなき「反戦歌」だ。しかも琉球(沖縄戦)から、大日本帝国の暴虐を撃つ視点には勇気も要ったに違いない。だから宮沢さんは今も大枠で「島唄」の歌詞を語ることはあるけれども、この時代状況に対する発言は極めて慎重だ。それでいい。彼はこれだけ大きな仕事をやってのけたのだから、「島唄」をクースー(泡盛の古酒の意)のごとく、磨き上げていってほしい。今年も9月には熊本の「琉球の風」で「島唄」を聴くのが楽しみだ。

「島唄」を歌う宮沢さん(2016年10月2日熊本「琉球の風~島から島へ~2016」にて)

沖縄で続く中央政府の暴虐に対して「島唄」の歌詞を送る。

でいごの花が咲き 風を呼び 嵐が来た
(1945年春、でいごの花が咲く頃、米軍の沖縄攻撃が開始された。)

でいごが咲き乱れ 風を呼び 嵐が来た
(でいごの花が咲き誇る初夏になっても、米軍の沖縄攻撃は続いている。)

繰り返す 哀しみは 島わたる 波のよう
(多数の民間人が繰り返し犠牲となり、人々の哀しみは、島中に波のように広がった。)

ウージの森で あなたと出会い
(サトウキビ畑で、愛するあなたと出会った。)

ウージの下で 千代にさよなら
(サトウキビ畑の下の洞窟で、愛するあなたと永遠の別れとなった。)

島唄よ 風にのり 鳥と共に 海を渡れ
(島唄よ、風に乗せて、死者の魂と共に海を渡り、
遥か遠い東の海の彼方にある神界“ニライカナイ” に戻って行きなさい。)

島唄よ 風にのり 届けておくれ わたしの涙
(島唄よ、風に乗せて、沖縄の悲しみを本土に届けてほしい。)

でいごの花も散り さざ波がゆれるだけ
(でいごの花が散る頃、沖縄戦での大規模な戦闘は終わり、平穏が訪れた。)

ささやかな幸せは うたかたぬ波の花
(平和な時代のささやかな幸せは、波間の泡の様に、はかなく消えてしまった。)

ウージの森で 歌った友よ
(サトウキビ畑で、一緒に歌を歌った友よ。)

ウージの下で 八千代に別れ
(サトウキビ畑の下の洞窟で、永遠の別れとなった。)

島唄よ 風に乗り 鳥とともに 海を渡れ
(島唄よ、風に乗せて、死者の魂と共に海を渡り、
遥か遠い東の海の彼方にある神界“ニライカナイ” に戻って行きなさい。)

島唄よ 風に乗り 届けておくれ 私の愛を
(島唄よ、風に乗せて、彼方の神界にいる友と愛する人に私の愛を届けてほしい。)

海よ 宇宙よ 神よ 命よ
(海よ 宇宙よ 神よ 命よ 万物に乞い願う。)

このまま永遠に夕凪を
(このまま永遠に穏やかな平和が続いてほしい。)

島唄よ 風に乗り 鳥とともに 海を渡れ
(島唄よ、風に乗せて、死者の魂と共に海を渡り、
遥か遠い東の海の彼方にある神界“ニライカナイ” に戻って行きなさい。)

島唄よ 風に乗り 届けてたもれ 私(わくぬ)の涙(なだば)
(島唄よ、風に乗せて、沖縄の悲しみを本土に届けてほしい。)

島唄よ 風に乗り 鳥とともに 海を渡れ
(島唄よ、風に乗せて、死者の魂と共に海を渡り、
遥か遠い東の海の彼方にある神界“ニライカナイ” に戻って行きなさい。)

島唄よ 風に乗り 届けてたもれ 私(わくぬ)の愛を
(島唄よ、風に乗せて、彼方の神界にいる友と愛する人に私の愛を届けてほしい。)

◎[参考動画]島唄 本当の意味(kesigomuify2010年5月22日公開)

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

『島唄よ、風になれ! 「琉球の風」と東濱弘憲』(「琉球の風」実行委員会=編)

《建築漂流01》都内最古の木造駅舎「JR原宿駅」は残すべきだ

 

東京大学のすぐ近くに本郷館という建物があった。日本最古の木造三階建てとして知られたその建物は、かつて下宿として活躍し、その最後まで学者や物書きに愛され続けた名建築だ。風呂なしキッチンなしトイレ共同。わずか3畳のスペースに、オットマン付きのイームズ・ラウンジチェアとB&Oの大型スピーカーを置いて生活していた摩訶不思議な友人を訪ねたことを思い出す。2011年に本郷館が取り壊された時、非常な喪失感とともに私は涙を流した。

二度とこの気持ちを味わうことはしたくない。いつか取り壊されてしまうその前に写真に収めれば、己の精神衛生管理に役立つはずだ。そんな思いでちまちまと古建築を撮影しているのだが、ここではその“古建築アーカイブ”活動の一部を紹介する。第1回は『JR原宿駅木造駅舎』としよう。

◆関東大震災の翌年1924年に竣工

原宿駅が日本鉄道の駅として開業したのは1906年(明治39年)。当時の駅舎は現在のものよりも代々木駅寄りに建てられており、貨物列車の営業も行っていたという。1920年(大正9年)の明治神宮完成、1923年(大正12年)の関東大震災を経て、1924年(大正13年)に改めて建設されたのが現在の駅舎だ。東京都内に現存する木造駅舎としては最も古いものであり、その特徴的な外観は初めて訪れた者の注目を集めること必至である。

ファサード(建物の正面)を含む外壁に用いられているのは、“ハーフティンバー様式”という建築技法で、壁(白色であることが多い)から覗く材木のラインが特徴的だ。イギリスやドイツ、フランスの木造建築に見られる様式だが、特に15世紀から17世紀に建てられたイギリスの住宅に用いられていることが多い。このハーフティンバー様式と、屋根に載った尖塔や時計の装飾とが相まって、原宿駅木造駅舎は“ヨーロッパの田舎町”風の趣を醸している。小ぶりで可愛らしいデザインの建物がものすごい数の乗降者を迎え送り出しているその姿を眺めていると、健気で微笑ましい感じがして面白い。設計したのは鉄道省公務局建築課の長谷川馨。同氏の作品である2代目横浜駅舎にも原宿駅同様の尖塔が付いていたというが、残念ながら取り壊されている(現在の横浜駅は3代目)。

◆この駅舎は残してほしい

2017年6月8日、東京オリンピックが開催される2020年までに原宿駅を改良し、新駅舎を建設するという計画が発表された。降者数に比し原宿駅舎は小さすぎるのだろう。他にも事情があるのかもしれない。しかし改良が進められるにしても取り壊しは避け、なんとか現在の駅舎を残してほしいというのが筆者の願いだ。連続したデザインで新駅舎と接続し、駅としての機能を新駅舎に移すということでも構わない。建築を含む都市の景観はそこに暮らす人々の感性に直接影響するものなのだから、都市計画に従事する人間や建築家はそのことをよく理解し、より真剣に扱ってほしいと思う。

 
 

[撮影・文]大宮浩平

▼大宮 浩平(おおみや・こうへい)
写真家 / ライター / 1986年 東京に生まれる。2002年より撮影を開始。 2016年 新宿眼科画廊にて個展を開催。主な使用機材は Canon EOS 5D markⅡ、RICOH GR、Nikon F2。
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山口組分裂以後──東映ヤクザ映画の古典『博奕打ち総長賭博』を観て思う

山口組が分裂した2015年8月以降、「任侠」という言葉は暴排の彼方に消えかかっているが、ヤクザ映画の古典を見ると、なるほどヤクザがメンツのために殺しをいとわない生き物だというのがよくわかってくる。

ヤクザ映画の大部分は、組織を逸脱せざるを得ない存在がアウトローとしてどのように現実に立ち向かうか、ということが描写の課題となっている。アウトローとして生きることを志向し続けていくのであれば、組織とのつながりが感じられる。しかし暴力を行使すれば組織という概念が吹き飛んで、残るのは「暴力を行使した一個人」だけとなる。最終的に組織から離れてしまう主人公の姿が描かれるのが『博奕打ち 総長賭博』(1968年東映 山下耕作監督)である。鶴田浩二を主演に据えた『博奕打ち』シリーズの第四作。作家・三島由紀夫も絶賛したという作品だ。

昭和の初めの東京が舞台で、有力ヤクザの一つである天竜一家の総長・荒川が倒れ、後継の総長を決める必要が生じた。主人公・中井信次郎(鶴田浩二)は総長の跡目に推されるも元々は外様という立場ゆえ辞退、兄弟分で服役中の松田鉄男(若山富三郎)を総長に推薦する。しかし荒川の兄弟分である仙波多三郎(金子信雄)は天竜一家に跡目争いを起こして混乱させ組を乗っ取ってしまおうと画策していたので、松田が総長となることを承知せずに、中井や松田より格下の石戸幸平(名和宏)を推挙し総長とした。

松田は、石戸が正式に新総長と決まった後に出所した。松田は自分より格下の石戸が総長となることに不満を爆発させ、松田と石戸には険悪な空気が漂う。中井は、仙波が天竜一家で跡目争いが起きるように仕掛けている張本人であることを察知していたので、争いをやめるよう松田を説得したが、松田は石戸と対立してしまう。対立抗争に巻き込まれて中井の妻・つや子(桜町弘子)は死ぬ。

一方仙波は跡目争いが進行していくのを見てほくそ笑んでいた。仙波は石戸の新総長襲名披露の日、刺客を石戸に放ち暗殺する。次いで中井に「石戸を暗殺したのは松田だから始末しろ」と命じる。中井は兄弟分である松田をかばい切れず殺害した後、一連の事件の黒幕である仙波を斬る。

中井には天竜一家の構成員それぞれの思惑で板挟みにならざるを得ない辛さ、兄弟分である松田を斬らなければならない悲哀、仙波を除こうという確固たる意志、が感じられる。冷静な中井に対して松田は激情家で、格下にも関わらず総長の跡目を継いだ石戸を斬りに行こうとする程である。キャラクターの違う二人に加えて、命を狙われても新総長として現実に立ち向かおうとする石戸、どこまでもあざとい仙波、という四人が描き出す人間模様が物語の核となっている。

ヤクザ映画では「組織」と「暴力」が重要なキーワードとして提示されている。組織の中にいるヤクザが境遇について葛藤し、最後には暴力で敵を倒していくところが観客の胸を打っていた。しかし本作は違う。本作での組織は「天竜一家」であるが、中井が松田や仙波を殺害する背景に天竜一家の影響は見られない。中井個人の勝手な振舞いによって松田や仙波が消されていくのだ。中井自身が組織の一員だから、松田や仙波を殺したのではなく、あくまで中井個人の始末のつけ方として描かれるのである。

もっとも、はじめから中井は自分の意志によって動いているわけではない。跡目が石戸だと知って激高する松田をなだめ、仙波が組を乗っ取る算段を立てていると知っても事を荒立てないよう行動する。組織のためであり組織の一員である自覚が中井にあるからこその行動である。実際に中井は序盤で以下のように言っている。

「一家として決まったことをのむのが渡世人の仁義だ。白いもんでも黒いと言わなくちゃあならねぇ」

これは中井に天竜一家のヤクザとして組織を背景に生きているという自負がある段階での台詞だ。

中井は仙波を殺害するラストシーンで非常に印象深いセリフを吐く。叔父貴分にあたる仙波に「俺を殺すのか、お前の任侠道はそんなものなのか」と毒づかれたとき、「任侠道、そんなもんは俺にはねぇ。俺はただの人殺しだ」と言うのだ。過去に組織を慮って行動していた人間とは思えぬ発言である。中井から組織の影響が見られなくなった転換点は仙波から松田殺しを命じられた時だろう。中井は松田と仙波を殺害することのみ考え始め、組織の中で生きていくという志向は失われてしまっている。任侠道が見えなくなり、中井に残ったのは人殺しというアイデンティティだけである。終幕で中井に見ることができるのは本人の意志で暴力を行使し、組織と完全に解離してしまった一人の男であるということだ。

そして、本作には「切なさ」という要素も絡んでくる。中井は組織の為に奔走した。暴れ馬のような松田と跡目を継いだ石戸をなんとかなだめようとする。松田と石戸への説得はうまくいかず、つや子は総長の跡目争いに巻き込まれて死に、石戸は暗殺される。結果として中井は松田を殺さなくてはならなくなる。最終的に中井が黒幕の仙波を殺すことで溜飲が下がるかといえば全くそんなことは無い。本作の登場人物全員に救いが無い点はなんとも悲劇的である。組織と暴力に翻弄されるヤクザの姿を描いた作品は数多いが、登場人物の心の揺れを描き出したものは少ない。

主人公・中井信次郎の組織から離れていってしまう際の心の揺れ動きは、抑圧された境遇に泣く現代人にも理解できる点があり、1968年の公開から半世紀近くが過ぎた今日でも、共感を得られる作品となっている。

かくして、この時代からヤクザは本質は変わっていない。今年もまた、小さな利権を求めて日本のどこかで音が鳴る(発砲される)のだろう。

(伊東北斗)


◎[参考動画]博奕打ち 総長賭博(予告編)1968年東映 山下耕作監督 笠原和夫脚本 鶴田浩二主演

 
大高宏雄『復刻新版 仁義なき映画列伝』