SOUL IN THE RING──松本哉朗の引退式と伝統を継ぐ目黒ジム勝次の防衛戦

SOUL IN THE RING 13 / 12月13日(日)後楽園ホール17:00~
主催:目黒藤本ジム / 認定:新日本キックボクシング協会

◆日本ヘビー級チャンプ松本哉朗がついに現役引退

松本哉朗テンカウントゴング

日本ヘビー級チャンピオンの松本哉朗が現役引退しました。今年2月11日の「NO KICK NO LIFE」でノブ・ハヤシと対戦、第1ラウンドでヒジ打ち一発でノブの額を切りTKO勝利。重量級での対戦相手の少なさ、“ヒジ打ち有効5回戦”を受けてくれる選手は少なく、40歳を過ぎてモチベーションも低下していきました。

それでも過去、2005年5月にはタイ国ラジャダムナンスタジアムでミドル級王座挑戦経験もありました(ラムソンクラーム・スワンアハーンジャーウィーに判定負け)。日本ミドル級王座は6度防衛。体の成長で減量が苦しく7度目の防衛戦で敗れ転級も、ヘビー級では軽い体で、100kg級の選手との対戦は体格差で劣る場合もありましたが、それを感じさせないパワーでKO勝利を増やしました。

日本ヘビー級王座は1度防衛。純粋なキックボクシングに拘り、他競技枠となるヒジ打ち禁止や3回戦は極力拒みつつ、それでは試合が無い状況になるので、受けざるを得ない試合が多いようでした。

古代ムエタイ演舞

この日行なわれた引退式は中盤第7試合後に行なわれ、伊原信一代表をはじめ、6人の協会役員から記念品と御祝儀が渡され、松本哉朗の御挨拶とスポットライトを浴びてテンカウントゴング。役員と記念撮影をしてリングを下りました。その時間17分。前日の竹村哲引退式の約半分の時間だったのは、後半の試合を控えてのセレモニーで長引かせられない状況だったため。松本哉朗もその実績、その存在感から重みある引退式となりました。振り返れば多くの実績有る選手と対戦し、後悔無くリングを去ることが出来たようです。

またアトラクションとして古代ムエタイ演武が披露されました。「現在のスポーツ競技となる前の、古き時代のムエタイの原点となる技が芸術的に披露されました。

◆高橋勝次 vs 山田春樹 ──チャンピオンは防衛してこそ真のチャンピオン!

日本ライト級タイトルマッチ5回戦
チャンピオン.勝次(=高橋勝次/目黒藤本/61.2kg)vs 挑戦者同級3位.春樹(=山田春樹/横須賀中央/61.2kg)
勝者:勝次 / 3-0 (主審 椎名利一 / 副審 仲 50-48. 桜井 50.48. 宮沢 50-48)

勝次vs春樹、単発ながら緊迫感あり

先月の黒田アキヒロ(フォルティス渋谷)に逆転判定負けしたショックが心配された勝次でしたが、その影響は無く、しかし初防衛戦の追われるプレッシャーはあった様子で、試合は単発の攻防に盛り上がらず、勝ちに徹することを意識するあまり、見た目は不細工な試合になってしまいました。

「“チャンピオンは防衛してこそ真のチャンピオン”と藤本ジムでは言われているので、そのプレッシャーはキツかったです。」と試合後、勝次は語りました。

鴇稔之トレーナーとラウンドガールに囲まれる勝次

目黒藤本ジムで勝次を指導してきたトレーナーの鴇稔之氏も、自身が日本バンタム級チャンピオンになった1987年(昭和62年)7月以降、先代会長の野口里野さんに常に言われていた言葉がそれでした。

里野会長はキックボクシング創設者・野口修氏の実母で目黒ジム会長職を創生期から1988年5月に亡くなられるまで長く務めた人でした。鴇氏はその里野会長が残した、純粋なチャンピオンの義務を引継ぎ、指導してきたジムだけに、チャンピオンになってすぐ王座返上する者はいませんでした。

「次の防衛戦は倒しにいきますよ」と早くもV2宣言。「その上の目標は、チャンスを貰えるならラジャダムナン王座を視野に、与えられるものならWKBA王座も狙えればいいです。まず日本王座を防衛していかないと認めてもらえないので一つ一つ勝ち上がっていきます」とコメント。

対する春樹はランカー対決で星を落とすことも多かったですが、ライト級で地道に成長してきた選手。一発で倒すパワーは無いが若さと前蹴りから繋ぐパンチやミドルキックの突進力でまたタイトルに絡んで欲しい選手です。

◆江幡睦 vs ルークタオ・モー・タマチャート ──2016年に4度目のラジャダムナン王座挑戦を目指す江幡睦

54.0kg契約5回戦
WKBA世界バンタム級チャンピオン 江幡睦(伊原/53.3kg)vs ルークタオ・モー・タマチャート(タイ/54.0kg)
勝者:江幡睦 / TKO 2R 3:02 / ノーカウントのレフェリーストップ / 主審 仲俊光

ローキックでルークタオの動きを弱らせる江幡睦

目黒藤本ジム興行ながら、メインイベントに登場したのは江幡睦(伊原)。9月のWKBA世界王座奪回後、初試合でしたが、毎度攻略は難しい相手が来日する中、ルークタオはミドルキックが速く強く、崩し難い感じながら徐々に弱点を見つけ、ローキックが効いている様子が伺えると上下打ち分け、得意の左フック一発でボディを効かせ、倒して勝利しました。来年は睦にとって4度目のラジャダムナン王座挑戦へ向けて今度こそ失敗は許されないプレッシャーとの戦いになるでしょう。

新日本キックの“殿堂選手”緑川創(目黒藤本/70.0kg)は70.0kg契約3回戦で、スーパーバーン・ホーントーンムエタイジム(タイ/68.9kg)に3ラウンド1分9秒、TKO勝利。同じく“殿堂選手”石井達也(目黒藤本/63.2kg)は63.5kg契約3回戦で、成合SATORU(若松セキュリティ/62.5kg)に大差判定勝利しました。来年は江幡ツインズより先にムエタイ王座を狙うほどの飛躍して欲しい目黒藤本ジムコンビです。

1973年のプロスポーツ大賞は王貞治を抑えて沢村忠が受賞した!

ところで2015年のプロスポーツ大賞表彰式が12月25日に都内ホテルで行なわれました。キックボクシング界では功労賞をWKBA世界スーパーバンタム級チャンピオンの江幡塁(伊原)が受賞(昨年は江幡睦)。新人賞を日本バンタム級チャンピオンの瀧澤博人(ビクトリー)が受賞しました(昨年は翔栄)。

新人賞は各競技加盟団体から15名選ばれ、そこから最高新人賞が一人選ばれますが、キック界からはさすがに難しい壁となっています。キックボクサーがプロスポーツ大賞に輝いたのは1973年の王貞治氏を抑えて沢村忠氏が受賞した年のみです。いつの日かまた、プロスポーツ大賞と最高新人賞が獲れるメジャー人気とスターを生み出して欲しいものです。

松本哉朗が協会役員に囲まれて記念撮影

[撮影・文]堀田春樹

▼堀田春樹(ほった・はるき)
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない。」

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「憎らしいほど強かった」北の湖前理事長の協会葬に参列してきた!

北の湖前理事長の協会葬(大相撲協会が主催)が12月22日13時からおごそかに行われた。一般参加は14時からだが、すでに13時30分から長蛇の列。3人ずつ、順番に入るように係員に誘導される。

「憎らしいほど強い」と言われた北の湖がこれほど愛されていたのか、と思うほどの長蛇の列が駅のホームからでもわかるほどの混み具合だ。 葬儀に先立ち、関取衆や親方らが同国技館の正面入り口に整列して遺骨を出迎えた。祭壇には、りりしい表情をした遺影が飾られた。

「こんなに整理しにくいほど人が来るとは想像もしていなかったです。警備員を増やしておいてよかったです(警備員)」というていたらくだ。およそ2500人を超える一般葬列者は、年齢層では、50歳以上の老年がほとんどだ。

ややうららかな日ざしの中、50分ほど待つと、焼香の列がようやく動き始めた。午後2時すぎ、ようやく少しずつ葬儀会場に人を入れ始めると、中国人らしき観光客が騒ぎ始めた。大声でゲラゲラ笑い、冗談を連発しているようにも見え、すでに酔っている。

遠目で見ると、警備員が「静かにしろ」と声を張り上げている。よく見れば、男女全部で8人ほどの集団が、騒いでいるようだ。そのうち、数人の男女が奥のほうに連れて行かれた。

「大量に電気製品を買いに来たインバウンドですよ。ツアーの最後の日程で『人気力士、北の湖の葬儀』というイベントに物見遊山で来たのでしょう」と葬儀役員。
「こんなおごそかな雰囲気で、日本の国技なのに、どういう了見で葬儀にやってきたのだろう。ぶちこわしだ。早く追い出してほしかった」(参列者)

森喜朗元首相、亀井静香氏らの政治家、プロ野球では巨人の原辰徳前監督、ヤクルトの若松勉元監督、元中日の山崎武司氏らが参列。女優の中村玉緒、タレントの林家ぺー、元力士では北の富士、朝青龍、3代目若乃花の元横綱らも焼香し、お別れを偲んだ。

結局、集団でつまみ出された中国客インバウンドたちは、姿を消したが、「できれば来てほしくなった」(ファン)という声も。どこぞの中国旅行社がこのイベントを案内したのかは定かではないが、ああいう客を呼び込んでしまったのは『勇み足』というところだろう。そして、最近は大相撲に、中国人の客がやたらと多いが少なくとも、今年はルールを守っていただきたいものだ。

▼ハイセーヤスダ(編集者&ライター)
テレビ製作会社、編集プロダクション、出版社勤務を経て、現在に至る。週刊誌のデータマン、コンテンツ制作、著述業、落語の原作、官能小説、AV寸評、広告製作とマルチに活躍。座右の銘は「思いたったが吉日」。格闘技通信ブログ「拳論!」の管理人。

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スカパンク竹村哲チャンプのラストファイト!渋さ日本一のキック団体NKB大和魂

大和魂シリーズvol.5 / 2015年12月12日 / 後楽園ホール17:30~21:30
主催:日本キックボクシング連盟 / 認定:NKB実行委員会

◆竹村哲 vs マサ・オオヤ──ラストファイトを勝利で飾ったSNAIL RAMP竹村哲!

メインイベント67.0kg契約5回戦
NKBウェルター級チャンピオン.竹村哲(ケーアクティブ/44歳/67.0kg) vs? 同級8位.マサ・オオヤ(八王子FSG/41歳/67.0kg)
勝者:竹村哲 / TKO 4R 2:18 / カウント中のレフェリーストップ / 主審 前田仁

竹村は2002年に31歳でキックデビュー。同時に1995年結成のSNAIL RAMP(スネイルランプ)というスカパンク、メロディック・ハードコアのバンドでも活動中です。今年4月に元・全日本ライト級チャンピオン.爆椀・大月晴明に1ラウンドに左フックでブッ倒されるも、過去の対戦相手の中でも最強との試合はファンの記憶に残る好ファイトで価値を残しました。今回のラストファイトの相手は、過去に引分けていて自ら指名したマサ・オオヤ。対戦相手でありながら、40歳を超えた彼にも王座挑戦へ奮起して欲しい願いがありました。

スカパンク竹村哲チャンプのラストファイト!マサ・オオヤ戦

試合はスロースターター気味に徐々に詰める竹村ペース。第4ラウンドに入ってラッシュし、パンチ連打からヒザ蹴りで倒しました。

渡辺代表より労いの言葉で感涙!

「大怪我から手術とリハビリと3回も繰り返し、身体機能の低下から練習レベルが落ち、こんな姿をジムの後輩に見せて勘違いさせてはいけないと、現役引退を決意しました。自分のファイトスタイルは批判されることあるんですけど、渡辺代表からは、『それでいいんだ、それを貫けばいいんだ』といつも言ってくれました。」と試合後の引退式でコメント。

メインイベント最終試合後の長いセレモニーとなった引退式。かなり多くのファンが残って最後まで見守っていました。引退する選手を送るセレモニーとして、過去の対戦者、ジムメイト、連盟役員一人一人から御祝儀とメッセージが贈られた最後、渡辺代表の興行だけではない渋い声の御挨拶。昭和の旧・全日本キック世代(昭和44年~56年)を彷彿する存在だけあって“親父の威厳感”がありました。

ベイビーレイズJAPANが応援に駆けつけた!

しかし覚えてきたセリフを珍しく途中忘れた感じで「とりあえずお前はよく頑張ったな…。長い間御苦労さん」と苦笑いでいきなり自然な会話ぽく語りだし、前もって考えたセリフより温かみがありました。

竹村の挨拶中、運営係員のトランシーバーの通信音声が丸聞こえ、「引退式もいろいろあるなあ」と言ったり、「渡辺会長から貰った記念品の楯(写真入)、結構重いんすよ、けど遺影みたいで…」と笑わせた後、竹村はテンカウントゴングに送られました。

最後に記念撮影、音楽関係で友好関係あるベイビーレイズJAPANも応援に駆けつけていました。35分あまりのかなり長くなった引退式で、後楽園ホールから撤収作業を促されている状況の、31年に渡る渋い団体が竹村哲のキャラクターで皆がリズムを崩し、いちばん笑える引退式だったかもしれない、緊張感解れる締め括りとなりました。

連盟役員、各ジムオーナーと引退記念写真

◆高橋亮 vs 松永亮──高橋三兄弟で一番先にチャンピオンとなった次男・亮!

セミファイナル NKBバンタム級王座決定戦5回戦
1位.高橋亮(真門/53.5kg)vs 3位.松永亮(拳心館/53.0kg)
勝者:高橋亮 / TKO 4R 1:54 / 2度目のダウンでレフェリーストップ / 主審 川上伸

過去2勝している相手ではあったが、一発逆転の突進力を持つ松永だけに油断はならなかった。しかし、当て勘の良さと手足の長さを利しての伸びるパンチと蹴りは終始優位に進め、第1ラウンドに1度、第2ラウンドに2度ダウンを奪い、次第に松永から闘争心を削っていき、4ラウンドにも蹴りの連打で2度ダウン奪って圧倒して仕留めた。

三兄弟の中で一番先にチャンピオンとなった次男・亮。本人が語るように「これからがスタート、ここからが勝負」というようにチャンピオンとなってからは他団体チャンピオンと比較され、未知の強豪との対戦も回ってくる。まさにここからが亮にとっても、話題の三兄弟にとっても勝負の年でしょう。

高橋亮vs松永亮

◆2016年新春興行は2月7日後楽園ホールで開幕!

来年2月興行の主役たち、左から安田一平、折原陽子(11代目連盟マスコットガール)、石井修平、大和知也

新春興行は2月7日(日)後楽園ホール17:30開始で、竹村哲が返上した王座の、第13代NKBウエルター級王座決定戦、1位.石井修平(ケーアクティブ) vs 2位.安田一(SQUARE-UP)が行なわれます。ライト級で夜魔神(SQUARE-UP)に挑戦に敗れたあと、ウェルター級で竹村の後に続きたい石井修平と、夜魔神に続くSQUARE-UPジムからのチャンピオンを獲りたい安田一平の対戦です。

もうひとつの主要イベントはNKBライト級チャンピオン.大和知也(SQUARE-UP)が日本人相手8戦8勝(6KO)のWPMF世界スーパーライト級チャンピオン.ゴンナパー・ウィラサクレック(タイ)と対戦。今年の大和魂シリーズの主役でありながら苦戦が続いた大和知也の引き続く主役級大冒険となるカードです。この団体での久々の第一線級ムエタイボクサー登場に、それだけで驚きの感がありますが、興行運営3年目の小野瀬邦英体制の成果が年々上がってきている状況です。

[撮影・文]堀田春樹

▼堀田春樹(ほった・はるき)
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない。」

◎ボクサー転向物語(1)ボクシングからキックボクシングに転向した名選手たち
◎ボクサー転向物語(2)キックボクシングからボクシングに転向した名選手たち
◎強くなるためにタイへ行く!日本キックボクサー「ムエタイ修行」今昔物語

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NEW JAPAN WARSⅡ──キック界随一のモテ男 、関根“gaia”朝之VS阿羅斗

キックボクシング界業界随一のモテ男が登場したのが、11月15日に後楽園ホールで行われた「NEW JAPAN WARSⅡ」(ニュージャパンキックボクシング連盟主催)だ。この日、登場するやいなや、女性ファンからの山のような紙テープが飛んできたのは、関根“gaia”朝之(OGUNI JIM)。4回戦に登場したNJKFフェザー級4位の関根は、同級1位の阿羅斗(E.S.G)を迎え撃つ。

「関根は、若いころに絶大な人気を集めた俳優、柴田恭兵似。甘くて渋いマスク で、急激に女性ファンを集めている。キック力も魅力だが、礼儀ただしいのも好感がもてますね」(格闘技ライター)

関根“gaia”朝之

両者の戦いは、お互いにパンチは出し合うものの、なかなかキックが出ない。
じ れったい展開に両陣営から「キック出せ、キックを」とリングサイドから激が飛ぶ。
「怖くない怖くない、蹴れ」
関根サイドからも声が飛ぶ。

2ラウンドに、関根は阿羅斗の右フックをよけきれず、鼻から血を流す苦戦だ。
女性 ファンから悲鳴と歓声が入り混じる。

「朝之さぁーん」「関根さん、ファイト」とラウンドが進むごとに、後楽園ホール に黄色い声援が満ちてくる。

試合巧者の阿羅斗は、長い脚を伸ばして的確にミドルを関根のボディにぶちこむ。関根が距離を詰めようとす ると、首相撲に持ち込むかクリンチで逃げられてしまう。阿羅斗はコツン、コツンとストレートを伸ばして関根の横頬を叩きつつも距離をとり、ローキックも確実に当ててポイントを稼いでいく。4ラウンドにてやや焦ったか、関根が大振りのフックをしたとき、カウンター気味に関根に入り、関根がぐらつくのが見えた。

関根VS阿羅斗(右)

「かなり接戦だが、距離がものをいった戦いだったね」(同)
惜しくも関根が判定負け。あらゆる観客の視線とマスコミの視線が喜ぶ阿羅斗を見つめた。

関根はリング上で観客に土下座したあと、観客席まで下りてきて丁寧に頭を下げてゆっくりと言った。
「応援してくださってありがとうございました。つぎも全力でがんばりますので、 応援のほうをよろしくお願いします」

この光景をファンのみならず、キックボクシングに興味がなくとも、たまたま誘 われてきていた客も多くの人が見ていた。
「好感がもてました。一気にファンになりましたよ」(OL)
「こんなに丁寧に選手が御礼を客席まで言いに来るなんて、感動した」(家事手伝い)

かくして、ぶっきらぼうでファンにあいさつすらもしない選手が増えてきた中で、 関根の礼儀正しさと、甘いマスクは多くの女性ファンをとりこむだろう。
まだウェルター級の王座決定戦も、WBCムエタイのインターナショナル王座決定戦もダブルで控えているのに、女性観客たちはとっとと関根の試合が終わると帰って行った。

「負けたとはいえ、関根のファンに対する姿勢は、学ぶものがある。彼を見習って キックの選手たちは謙虚になるべき。それが人気復興のカギとなるでしょう」(同)

果たして、関根はキックボクシングの救世主となるだろうか。その戦績とともに注目したい。

◎関根“gaia”朝之公式ブログ http://ameblo.jp/tomoyukisekine/

▼ハイセーヤスダ(編集者&ライター)
テレビ製作会社、編集プロダクション、出版社勤務を経て、現在に至る。週刊誌のデータマン、コンテンツ制作、著述業、落語の原作、官能小説、AV寸評、広告製作とマルチに活躍。座右の銘は「思いたったが吉日」。格闘技通信ブログ「拳論!」の管理人。

◎禁煙ファシズムに抗う劇場版「MOZU」の喫煙シーン
◎愛国的な韓国人や日本のネトウヨが卒倒しそうな韓国艦「テ・ジョヨン」の姿
◎川崎中1殺害事件の基層──関東連合を彷彿させる首都圏郊外「半グレ」文化
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ボクサー転向物語(2)キックボクシングからボクシングに転向した名選手たち

島三雄(目白=キック)は藤原敏男と並ぶ目白ジムの看板でしたが、長江国政(東洋パブリック→協同)とライバル的に全日本フェザー級王座を獲ったり獲られたりの後、1978年(昭和53年)にボクシングに転向しました。キックで100戦あまりの戦績でセンスあったものの、元々視力が弱く、長くは続けられませんでした。

1983.3.19 1.タイガー大久保vs丹代進

1983年(昭和58年)のキックが最も低迷した時期に活躍の場を求めてボクシング転向したのが、タイガー大久保(大久保貴史/目黒→北東京キング)。世間には情報が届きにくい時期のキックボクシングの画期的イベントの、前年に行われた1000万円争奪オープントーナメント52kg級に出場。勝者扱いを含む5戦を勝ち抜き優勝。その後、別ブロックの準決勝で去った松田利彦(士道館)にKOで敗れる波乱を起こすも、翌年、21歳でプロボクシング転向。ロイヤル川上ジムからデビューしましたが、キックで身についたアップライトスタイルからチェンジ出来ず大成はせず、単身アメリカへも渡りましたが、不利な条件が多く夢破れました。

2000.3.22.土屋ジョー

土屋ジョー(谷山→大橋)は1994年(平成6年)11月、21歳でデビューし、早くも1996年に全日本バンタム級王座奪取。数々のタイトルを獲得しつつ、2000年8月に大橋ジムからプロテストを受け、群を抜く経験値でプロテストは合格。伸び悩んだキックでの環境を変える転向でした。ボクシングでは4戦して2勝2敗。格闘技経験者の観戦によると、4戦目の敗戦は「アップライトスタイルで待ち構えているところにフットワークの速い相手にいきなり入られてストレートを打たれた感じで仰向けに倒れた」というキックスタイルでの癖は取れない感じのようでした。わずか1年あまりでボクシングを止め、キック復帰を果たし、2003年4月に再起戦を飾りました。

松田利彦(士道館)はキックで1978年(昭和53年)に18歳でデビュー。9連勝と活躍し、デビュー前からライバル視していたWKA世界フライ級チャンピオン.高橋宏(東金)に連勝を止められるも通算3戦して2勝1敗と差を離した後、一時的ボクシング転向という形でした。所属する士道館がIBF日本に加盟し、導かれるように1985年にボクシング転向、JBC管轄下ではない組織でしたが、1986年8月のデビュー戦で、IBF日本フライ級王座決定戦に出場、内田幹朗(大阪島田)をKOし王座奪取。1987年7月5日、韓国で崔漱煥の持つIBF世界ジュニアフライ級王座に挑戦するも4ラウンドKO負け。4戦目というキャリアの浅さが露呈されました。その後、キックに復帰し、第4代MA日本フライ級チャンピオンに就いています。キックとボクシング両方で日本チャンピオンになったという点では松田利彦が初、ただしIBF日本王座。JBC管轄下の日本王座とキックの日本チャンピオンになったという点では田中信一が初、ただし1996年以降のキック界はそれまでより一層乱立が進み、国内王座の価値も1995年以前とは違いました。

1983.2.5 松田利彦vs丹代進

最近の新しいところでは、2012年(平成24年)9月に元・NJKFフライ級チャンピオンの久保賢司(立川KBA→角海老宝石)のキックからボクシング転向がありました。23歳でB級プロテストに合格後、同年11月9日のデビュー戦で、同年4月、亀田興毅に挑戦したノルディ・マナカネ(インドネシア)に判定勝ちを収める話題を作りましたが、今年8月に判定負けし、8戦4勝(2KO)3敗1分の戦績を残し、戦前から語っていた引退を表明しています。

2007.5.13 久保賢司 デビュー第5戦目の頃

先週掲載の稲毛忠治選手は笹崎ジムからデビューし、6戦ほどやりましたが、視力が弱くライセンス更新ができなかった模様で、キックボクシング転向、千葉(=センバ)ジムからデビューしました。

ボクシングへの転向はプロライセンスを取得するところから始まり、B級またはC級スタートとなります。キックへの転向はプロモーター主体の団体によっては出世の早い場合もありますが、それぞれが新天地での一から再スタートとなり、限られた選手寿命の中で、大成するとは限らない危険な懸けに出る決心になると思われます。下手すれば回り道になり、再起の道も経たれる場合もあります。新人のうちに転向するケースは稲毛忠治(笹崎→千葉)のように開花する可能性がありますが、円熟期を迎えてからの転向は癖付いたスタイルや、“間合い”といった距離感の違いも修正は難しいのかもしれません。転向してよかったか悪かったかは、ファンや関係者が絶賛批判するより、本人に悔いが残らなければ良い人生経験になったのかもしれません。

[撮影・文]堀田春樹

▼堀田春樹(ほった・はるき)
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない。」

◎ボクサー転向物語(1)ボクシングからキックボクシングに転向した名選手たち
◎強くなるためにタイへ行く!日本キックボクサー「ムエタイ修行」今昔物語
◎大塚隼人が引退し、ムエタイ王者がリングに上がった11.15「Kick Insist 5」
◎キック新時代を牽引するRIKIXジムの「NO KICK NO LIFE」
◎ルール変更の紆余曲折から辿る日本キックボクシング界の栄枯盛衰クロニクル

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ボクサー転向物語(1)ボクシングからキックボクシングに転向した名選手たち

「隣の芝生は青く見える」そんなキャッチフレーズがよく似合うスポーツ界の競技転向はよく聞く話です。ひとつの競技で引退勧告を受けたり、挫折したり、誘いを受けたり、止むを得ず転向を余儀なくされる場合など理由は様々でしょう。

ボクシングからキックボクシングに転向した選手も、またその逆のパターンも、過去多くの転向者がいました。昭和40年代にはキックボクシングのテレビ放映で「国際式ボクシングの経験のある〇〇選手……」という表現も多く使われました。そこで2週に渡り、それらの名選手を振り返り紹介します。今週はボクシングからキックボクシングに転向して活躍した名選手たちです。

2001.11.9 田中信一

高山勝義(木村→目黒)はプロボクシングで1966年(昭和41年)3月1日、22歳で世界フライ級王座決定戦に出場し、接戦の判定負けという経験を持つ実績も豊富な名選手でした。1970年に引退後、1972年9月のキックデビュー戦は引分け、4戦目で後の日本バンタム級チャンピオンとなる樫尾茂(目黒→大拳)には敗れ初黒星が付き、その後もパンチの強さで勝ち抜くも日本王座にはあと一歩届かなかった選手でした。

西城正三(協栄→東洋パブリック)は1968年(昭和43年)21歳でWBA世界フェザー級王座を奪取し、6度目の防衛戦に敗れてまもなく、キック転向は大きな話題と注目を浴びました。デビュー後順調な連勝も、1973年3月、全日本ライト級チャンピオン.藤原敏男(目白)には圧倒される内容で棄権敗北して引退。この一戦は暴動寸前の決着でかなり有名な試合でした。

金沢和良(アベ→東洋パブリック)も1971年(昭和46年)10月に24歳でWBC世界フェザー級王座挑戦し、チャンピオンのルーベン・オリバレス(メキシコ)との壮絶な試合は有名ですが、キックでは大きな実績はなく引退。その後はお寺の住職となって新たな話題となる転向でした。

田中信一(新和川上→山木)は23歳で「田中小兵太」のリングネームで1988年(昭和63年)7月、日本バンタム級タイトル獲得、2度目の防衛戦で敗れこの年の暮れ引退。キック転向後は「山木小兵太」や本名の田中信一で活躍し2001年11月、王座決定戦で吉岡篤史(武勇会)に判定勝利で第10代MA日本バンタム級チャンピオンとなりました。

2014.12.13 渡辺信久(日本キックボクシング連盟代表理事)

タイトル歴はありませんが、現在、日本キックボクシング連盟代表理事の渡辺信久(東邦→協同)氏は1966年(昭和41年)20歳の時、ボクシング試合でのダメージ蓄積から右眼網膜剥離を患って引退勧告を受け、その後、リングへの未練を残してキックボクサーとして転身。1968年12月デビュー後、8戦目でタイ人選手との対戦でまたも右眼を、ヒジ打ちによってダメージを受け右眼失明。今度ばかりは医者も「このままでは両目失明に至る」との宣告を受け、引退を余儀なくされました。1970年2月、若くして引退ながら翌月には24歳で渡辺ジムを設立、自らの夢を託し14人ものチャンピオンを育てました。

1983.9.18 稲毛忠治

ボクシングからキック転向し、開花したのは稲毛忠治(千葉=キック/デビュー当時は全日本系)。1971年(昭和46年)3月、19歳デビューで打たれ強くて倒れないオールラウンドプレーヤーで、売り出し中の富山勝治(目黒)に迫る急成長で、1973年(昭和48年)1月に一度は引き分けるも1975年1月には富山を1ラウンドKOで東洋ウェルター級王座を奪取しました。

他には、当時、全国的に名前の広まった乗富悦司(ミカド→目黒)をはじめ、無名どころまで、まだまだあると思いますが、一応の区切りとし、次週はキックからボクシングへの転向編です。

[撮影・文]堀田春樹

▼堀田春樹(ほった・はるき)
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない。」

◎強くなるためにタイへ行く!日本キックボクサー「ムエタイ修行」今昔物語
◎大塚隼人が引退し、ムエタイ王者がリングに上がった11.15「Kick Insist 5」
◎ルール変更の紆余曲折から辿る日本キックボクシング界の栄枯盛衰クロニクル

『紙の爆弾』!タブーなきラディカル・スキャンダル・マガジン

強くなるためにタイへ行く!日本キックボクサー「ムエタイ修行」今昔物語

日本のキックボクサーがムエタイ選手の強さを追求し、追いつき追い越そうと、また日本人ライバルにも差を付けようとタイ本場のムエタイジムへ修行に向かい、厳しい環境の中で技術を学ぶ。その歴史はキックボクシング創生期から始まり、現在も続いています。

1980年以前は、海外へ渡航すること自体、困難な時代でした。海外を拠点とするビジネスマンでもなければ日本を離れることは無く、高額所得者でなければ航空券すら買えず、海外旅行は一般庶民には程遠く夢の時代。それでもチャンピオンクラスやその陣営の人たちは度々タイへ渡りました。

1988.9.21 ナ・ラーチャワットジム

◆80年代に始まった「強くなるためのタイ修行」

そんな時代も徐々に変化し、格安航空券なるものが当たり前に蔓延。更に円高が拍車を掛け、1980年代に入ると世間は海外旅行ブームに入っていきました。タイへ渡り試合を観てジムを見学する“ムエタイ観戦ツアー”なるものも増え、「タイへ修行に行こう」という志豊かな若者がドッと増えたのもこの頃でした。

そうなるとムエタイ業界にも影響が現れました。ムエタイ修行に向かう各国の選手。元々“お客様”を受入れる態勢など無かった奴隷のような男だけの汚いジムが、徐々に外国人受入れ態勢が出来ていったジムも相当数になると見られます。試合で稼いでくれるチャンピオンやランカーではない、練習費を払ってくださるお客様だけに、空港までの送迎、エアコンの効いた日本人(外国人)専用部屋、食事は不備の無い調理と冷蔵庫と浄水器のある設備、お湯の出るシャワー、女性練習生受入れ態勢も充実という練習以外の苦痛は無いと思える環境。

1988.9.21 ナ・ラーチャワットジム

◆2000年代からはオシャレでセレブなフィットネス系ムエタイジムが増加

2015.11 フィットネスジム

2000年代から観光化したムエタイジムに変貌していくジムも増えました。体験入門としての緩い練習内容の初心者コースもあり、今はほとんどプロ選手に限らず、一般学生やビジネスマンのタイ人も受入れ対応可能なジムが多くなりました。

タイの現在は、ある意味ムエタイブームで、ガラス張りの綺麗なフィットネスムエタイジムがたくさん出来て、ショッピングモールのテナントにヨガ&フィットネスジムと一緒にサンドバッグやリング設備があり、富裕層の女性が“ダイエットに最適”と通うことが流行っているようです。この辺はビジネス的に商売としてやっている傾向のジムで、選手の育成の概念が無いフィットネスムエタイジムと、稼げるチャンピオンを目指すプロムエタイジムは別物と考えなければいけません。

◆有力キックボクサーたちのムエタイ修行列伝

タイに渡ってキツイことは、ジムワークや南国特有の暑さだけではありません。外国人受入れ態勢の無い、はるか昔の汚いジムに単身乗り込んで行った日本人選手もたくさんいました。

1983年春、青山隆(元・日本フェザー級チャンピオン/小国=当時)氏は、バンコクに着いて、空港のタクシー運転手に、知人に書いてもらった英文字の住所の紙を見せ、英語のわからない者同士で片言の値段交渉。ジムに着いてもそのままタイ人選手の居る雑魚部屋へ通され、言葉が通じないことや、選手と輪を囲み、同じオカズに箸を進める食事も慣れるしかなく、練習も自分から皆の輪に入っていかないとミット蹴りも首相撲の相手もやってくれず、浄水器など無い濁った水道をタイ選手と一緒に生水をガブガブ飲んだり、それでも下痢は一度もしなかったという、普通の人では耐えられない環境。

1987年には、立嶋篤史(元・全日本フェザー級チャンピオン/習志野=当時)氏のデビュー前、彼はまだ中学を出たばかりの15歳の春、「タイは若いうちに行っておいた方がいい」という先輩の助言を信じ、両親にお願いしてタイ修行を決めたが、行くのは自分ひとり。彼にとっての苦難は練習よりも生活環境でした。潔癖症というほどではないが、生理的に受け入れ難い範囲ながら、雑魚部屋でゴキブリが出る、ヤモリが天井に這い、それが寝ていて視界に入る。床はコンクリート、茣蓙を敷いたり、薄いマットレスでは硬くて眠れるものではなかった状況。トイレは汚い便器で、排水の悪い水浴び場所と一緒。暑い部屋で、過去の日本人先輩方が置いて行った扇風機が一台あるのみ。更に悩ませられたのは食事。選手が輪を囲んで、市場で買ってきた何種類かの惣菜をそれぞれ器に入れ御飯を食べるが、みんなが一斉に同じ器にフォークやスプーンを運ぶ。辛かったり臭かったり、人によってはタイ料理やタイ米が美味しく、みんなでワイワイ言いながら食べる食事が楽しく感じるものが、彼には苦痛でした。タイ料理が口に合わず、日本から持っていったフリカケとインスタント味噌汁が毎日のオカズ。練習が休みとなる日曜日にはタクシーに乗ってバンコク中心街のセントラルデパートの日本料理店に駆け込んだという。更なる苦難は一人でマレーシアに行かねばならなかったこと。小学校卒業記念に貰った英和辞典を持って夜行列車に乗って24時間掛けての旅。当時の観光ビザは2週間以内がビザ無しで入国できる範囲。それ以上の滞在は一旦国外に出てビザを取り直す必要がありました。帰りはお金が無くてバンコク・ホアランポーン中央駅から20kmほどあるジムまで線路を歩いたという途方にくれる一人長旅となりました。

また立嶋選手が来る以前のこのジムでも日本人選手は幾人か修行に来ていましたが、手癖の悪いタイ選手が居て、平気で人の歯磨き粉を目の前で勝手に使ったり、身の回りの物は勝手に持ち出される。日本人から見れば相当頭に来る行為であり、喧嘩も絶えなかったと当時の日本人選手が語っていましたが、タイ選手の“盗った意識”の全く無い態度。これは育った環境の違いがあってのことでした。タイの田舎で育った者は、高床式で扉の無い家も多く、隣の家だろうが簡単に行き来し、家族のように互いに必要なものを使い合う、そんな習慣がバンコクのジムに来てもその癖が出る。タイ人同士でも、すべてが許される訳ではありませんが、そんなことも理解し妥協しなければならない面も多かったようでした。

◆練習以前の難題は劣悪な生活環境に打ち勝つこと

1990年に入って徐々にムエタイ修行の環境は変わっていきましたが、まだ古いジムもあり、かつてWBC世界ジュニアウェルター級チャンピオンだったセンサック・ムアンスリンが所属したムアンスリンジムにアポ無し入門したヤンガー秀樹(=当時/仙台青葉)氏は、ジム脇のトイレ横の窓もない倉庫のような部屋にタオルケット一枚で、コンクリート張りにシートを敷いた床に直接寝るので硬くて眠れないし疲れは取れない状況で、コンクリートのざらついた地面のジムでは足の裏の皮が60%も剥けて、寝てると蝿がガンガンタカる始末だったという。

2015.11 現在のプロのジム

このような体験談は、ムエタイの練習だけが修行ではない、あらゆる不便で不愉快な、不安な日々も忍耐力の修行の一部であったことの一例ですが、いずれの選手も図太い神経で乗り切った経験が後の人生でも活かされています。

今や外国人受入れ態勢の無い、昔ながらの環境劣悪なジムは、首都圏ではほとんど無く、あとは観光地とは無縁の田舎のジムに行かねばならないでしょう。強くなる、技術を習得するなら設備整ったムエタイジムでの修行が最適ですが、昔ながらの不便苦痛なムエタイジムの存在が懐かしく思える体験者との昔話です。

2015.11 現在のプロのジム

[撮影・文]堀田春樹

▼堀田春樹(ほった・はるき)
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない。」

◎大塚隼人が引退し、ムエタイ王者がリングに上がった11.15「Kick Insist 5」
◎キック新時代を牽引するRIKIXジムの「NO KICK NO LIFE」
◎ルール変更の紆余曲折から辿る日本キックボクシング界の栄枯盛衰クロニクル
◎新日本キック「MAGNUM39」──トップ選手のビッグマッチと若いチャンピオンたち

 

7日発売『紙の爆弾』!タブーなきラディカル・スキャンダル・マガジン

大塚隼人が引退し、ムエタイ王者がリングに上がった11.15「Kick Insist 5」

今年の新日本キックボクシング協会は、年間11回興行があり、興行はジム持ち回りですが、後楽園ホールだけで8回、定期興行において各チャンピオンが随時出場する安定した団体です。興行のひとつを受け持つビクトリージムは共催ながらリーダーシップを持って年1回のディファ有明で興行を打ち、「Kick Insist」という興行タイトルで東日本大震災復興チャリティーイベントとしての5年目を迎え、そのスケールも年を重ねる毎に大きくなってきました。
Kick Insist 5 / 11月15日(日)16:00~20:25(主催:ビクトリージム、治政館ジム / 認定:新日本キックボクシング協会)

◆元・日本ウェルター級1位の大塚隼人引退式

今回のイベントのひとつは、元・日本ウェルター級1位の大塚隼人(ビクトリー)が引退式を行ないました。2012年10月、当時の日本ウェルター級チャンピオン、緑川創(目黒藤本)に挑戦も3-0の判定負け。その緑川創選手が今回快くエキシビジョンマッチの相手となって対戦に応じてくれました。

大塚は試合から遠ざかり、“太った”という言い方は正しいとは言えませんが、ドッシリとした体格に変貌。悔いなくお互いが激しく打ち合いました。引退式は興行を開催するジム会長との信頼関係が伺える、最後の勇姿を披露させて頂けるリング。大塚は協会役員に囲まれ、伊原信一協会代表から労いの言葉を受けたセレモニーの後、引退テンカウントゴングを聴きました。

大塚隼人テンカウントゴング

大塚隼人もビクトリージム坂戸支部を任される立場となって第2の人生を歩み出しています。王座挑戦は2度。2014年7月には、緑川創が返上して王座決定戦となって、同級2位の渡辺健司(伊原稲城)に2-1接戦の判定負け。恵まれた環境で、入門からタイトル挑戦まで育ててくれた八木沼広政会長への恩返しを果たすため「絶対チャンピオンになります」と言って挑んだいずれの試合も敗れ去ってしまいました。

しかし、2010年6月には日本人キラーだった元ラジャダムナン系スーパーライト級チャンピオンのガンスワン・Bewell(タイ)をパンチでグラつかせると一気にノックアウト勝利し、2012年2月には過去にKO負けを喫した相手、元ラジャダムナン系ライト級チャンピオンのソーンラム・ソー・ウドムソン(タイ)に狙ったカウンターヒジ打ちで切ってリベンジTKO勝利。チャンピオンにはなれませんでしたが、これを超えなければ世界に行けないという“日本人の壁”となって立ちはだかったムエタイボクサー2人に貴重な勝利を挙げている大塚隼人選手でした。

大塚隼人EX緑川創

そんな中、日本人の壁の向こうにある本場の試合を披露しようと、ビクトリージムの八木沼会長が、頻繁にタイ国のムエタイジムを回り、選手を選抜して招聘された今回のビッグカードが実現。

◆メインイベント56.0kg契約5回戦

タイ国ルンピニー系バンタム級チャンピオン=クワンペット・ソー・スワンパッディー(タイ/56.0kg)
VS
タイ国ムエスポーツ(プロムエタイ)協会バンタム級9位=ペップンソーン・ペッチンダー(タイ/55.4kg)

勝者:クワンペット・ソー・スワンパッディー / TKO 5R 1:44 / 主審.ノッパデーソン・チューワタナ(タイ)

現役ルンピニー系バンタム級チャンピオン.クワンペット

一流ムエタイボクサーの簡単には崩れないバランスいい体幹と技。その関節柔らかい蹴りの躍動感が美しく、ムエタイの神秘さが冴え渡ります。序盤は静かな展開から、ややクワンペットが好戦的に、日本人でもわかりやすいパンチと蹴りで次第に優勢に進めている印象。第4ラウンドには攻めの圧力が増していき、その勢い維持したまま第5ラウンド途中、レフェリーが突然試合を止め、クワンペットのTKO勝利を宣言。攻防の差がつき、ペップンソーンの勝ち目は無いと判断されてのストップ。日本では相当の劣勢にならないと止めず、ダメージが深くなければ最後までやらせるのが普通でしょう。タイでは実力均衡する対戦が多く、接戦を展開し、ギャンブラーを唸らせる試合が圧倒的ですが、“接戦”という範疇から外れ、試合を止めてしまう展開も珍しいことではないようです。「何で止めたのだろう」という疑問も残りつつ、タイからのレフェリーに対する抗議も無く、堂々としたレフェリー裁定に貫禄すら感じた観客の様子でした。

◆セミファイナル63.0kg契約3回戦

WKBA世界スーパーフェザー級チャンピオン=蘇我英樹(市原/62.8kg)
VS
元・ラジャダムナン系フェザー級6位=セーンアティット・ワイズデー(タイ/62.4kg)

勝者:セーンアティット・ワイズデー / TKO 3R 2:24 / 主審.桜井一秀

レフェリーが止めた後も諦めない蘇我英樹

5年連続のKick Insistに出場し、激戦を繰り広げる蘇我英樹は、第3ラウンドにヒジで切られてTKO負け。セーンアティットが一枚上手な蹴りと、蘇我の攻めを見透かす中、諦めない捨て身の攻めはいつもの蘇我。5月に爆椀・大月晴明に劣勢に立たされるも、倒すか倒されるかの好ファイトを展開して判定で敗れ、8月には元・ラジャダムナン系スーパーバンタム級チャンピオンのペッシーニ・ソー・シリラットにも激戦の末判定で敗れましたが、ムエタイ第一線級の倒しに来るタイプとの対戦を好む試合ばかり。激戦の末、倒して勝つことも多く人気を誇るが、現在はこれで3連敗と今後の巻き返しロードの展開が注目されます。

◆55.0kg契約3回戦

日本バンタム級チャンピオン=瀧澤博人(ビクトリー/55.0kg) VS チャンプアレック・ゲッソンリット(タイ/55.2kg)

勝者:瀧澤博人 / 3-0 (主審.椎名利一 / 副審.仲 30-27. 桜井 30-26. 和田 30-28)

瀧澤博人は200グラムオーバーで来たチャンプアレックに危なげない圧倒。来年1月には世界へ向けたビッグマッチが予定されます。

◆52.0kg契約3回戦

日本フライ級チャンピオン=麗也(高松麗也/治政館/51.8kg) VS クックリット・ゲッソンリット(タイ/54.0kg)

勝者:麗也 / 3-0 (主審.仲俊光 / 副審.椎名 30-27. 桜井 30-26. 和田 30-27)

麗也は2kgオーバーで来るクックリット・ゲッソンリットにパンチでダウン奪って判定勝利。倒しきれなかったことに不満の表情ではありましたが、2kgオーバー相手に圧勝。

ビクトリージムから出場した選手は6名で2勝3敗1分。ランカー以下は負けが多かったようですが、日本フェザー級3位.石原将伍(ビクトリー)は元・ルンピニー系フェザー級チャンピオンのナコンレック・エスジム(タイ)にKO寸前の計3度ダウン奪うも、ナコンレックも強いパンチで油断ならない捨て身の反撃あって大差判定勝ち。瀧澤博人と共に2人が勝利を挙げました。日本vsタイ国際戦としては3勝1敗でした。

◆『CHACHACHA』『LAMBADA』の石井明美さんがミニコンサート

休憩の合間にもうひとつのイベント、石井明美さんのミニコンサートで過去ヒット曲の『CHACHACHA』と『LAMBADA』を唄いました。テンポのいい曲とまたちょっと懐かしい曲に休憩時間ながら、観衆も聴き入っている人が多く、終わった後も拍手がたくさん鳴り響いていました。

「昔から、お父さんがキックボクシングを見ていて、テレビでは(私も)観ることあったんですが、こうやって実際にまさか自分がリングの中で唄えるとは。どのようなタイムテーブルになるのかなと見てみたら、唄う場所は“リングの中”と聞いてから気分が高まっています。」という石井明美さんでした。現在もテレビには昔ほど頻繁ではないですが、歌番組に出演されているようです。

石井明美さん初のキックのリングでミニコンサート

今年最後の興行は、12月13日(日)に後楽園ホールでの目黒藤本ジム主催興行、日本ライト級チャンピオン.勝次(目黒藤本)の初防衛戦、3位.春樹(横須賀太賀)の挑戦を受けます。先日のNO KICK NO LIFEで黒田アキヒロ(フォルティス渋谷)に逆転負けを喫した勝次のメンタル面と技術の建て直しがどういう展開に持っていくか興味ある一戦となります。

[撮影・文]堀田春樹

▼堀田春樹(ほった・はるき)
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一番人気はチアリーダー? 日本ラグビーはなぜ五郎丸効果を活かせないのか?

鳴り物入りで、英ワールドカップの日本代表の活躍を受けて開幕した感のある今年の「ジャパンラグビートップリーグ」。初日に続いて「集客」が2日目もぱっとしない。試合はつまらなく、天気も駄目ダメだったが、この悪しきムードを一掃したのは、「秩父宮」に登場した意外な「大和撫子」だった。

◆「五郎丸効果」で関係者は盛り上がっているものの……

五郎丸歩(ヤマハ発動機)の「五郎丸ポーズ」が流行語大賞をとり、ラグビー日本代表メンバーはテレビ番組、CMに雑誌にと引っ張りだこ。ラグビーの大ブレイクがやってきたと思いきや、なんと11月13日に行われた開幕戦の「パナソニックーサントリー戦」で前年の8月の開幕戦より370人少ない、1万792人の観客数で責任問題となっているのが「ジャパンラグビートップリーグ2015-2016」 。ここではラグビー関係者が観客をかき集めるのに奔走している。

初日を終えると「ジャパンラグビートップリーグ」の関係者たちは、出場する東芝やリコーの関係者のみならず、マスコミ相手に急遽「来てください」と緊急コール。ホームページには、磯山さやかが初戦を観た「楽しかったです」との感想のツイッターと前出・人気ラガーの五郎丸のつぶやきを並列で掲載するなど痛いほど必死に集客をPRしている。

2日目、秩父宮ラグビー場で行われた「リコーブラックラムズ VS NTTコミュニケーションズシャイニングアークス」(午前11時40分開始)と「東芝ブレイブルーパス VS クボタスピアーズ」(午後2時開始)は、雨がぱらつく中、少しずつ観客が集まってきて、スタンドの半分強をなんとかして埋めた。

「それでも、マスコミは押し寄せました。記者は25人、カメラマンは30人以上。こんなにマスコミが押しかけたのはちょっと記憶がありません。平尾誠二(現神戸製鋼コベルコスティーラーズ総監督兼任ゼネラルマネージャー)が率いた全日本が1991年にワールドカップで初勝利して以来かも」(ラグビー雑誌記者)

◆「記念観戦」の一見客がほとんどだった

しかし試合は「リコー VS NTTコミュ」は、39-12でNTTが勝利し、「東芝-クボタ」のマッチは47-3と一方的で、ダブルヘッダーにもかかわらず後半は2試合とも負けているためかバックスも守備で走らず、やや気が抜けた雰囲気がスタンドを支配。2試合目の「東芝 VS クボタ」戦では日本代表のキャプテンで、東芝でフランカーを務めるリーチ・マイケルが最初のトライを決めた前半が終わると「雨も強いし、もういい」とばかりに多くの人が席をたった。つまり「記念観戦」の一見客がほとんどだったのだ。

「休みなのに観戦しろと言われたので来た」(20代の東芝社員)、「派遣社員ですが、昨夜に上司から頼まれたので応援に来ました」(30代リコー派遣社員)という、「人数合わせ」の観客ばかりの中、西側スタンドで「GO! GO! スピアーズ!」と黄色い声をあげて男性客の視線を集めたのは、「スピアーズ」のチアガールたちだ。

◆クボタ「スピアーズ」のチアリーダーは質が高い……

ちょうど踊りの練習をしていたのだが、これが売店でごった返す空間で行っていたため、いっせいに男性客に取り囲まれる。

「撮影しないでください」とスタッフが注意してまわる。
「じゃあ、こんな目立つところでやらなくても」という声もある中、
「実は『スピアーズ』のチアリーダーは質が高くて、ファンがついているメンバーがいるほどなんですよ。僕も実はチアリーダー目当てに来ました」(男性客)というラグビー関係者が涙ぐみそうな人も。

それでも、初心者でもわかるように、「今のプレイはノックオンです。ボールを○○選手が落としたために反則となります」などプレイのひとつひとつに電光掲示でリプレイが出て、解説のアナウンスがついたり、ファンサービスで試合前にプレゼントを選手が観客席に投げ入れるなどして、集客への工夫が感じられた。

「03年からリーグがあるが、チームで実力差がありすぎる。少なくとも実力を均衡にしないといけない」(前出・ラグビー雑誌記者)との声も。

一番盛り上がるのが「チアリーダー」では情けない。2019年のワールドカップに向けてさらなる充実が求められるラグビー界の現状と課題がかいま見えた秩父宮だった。

(小林俊之)

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独裁者を撃つ反骨の砦『紙の爆弾』!

 

キック新時代を牽引するRIKIXジムの「NO KICK NO LIFE」

“リキ”と“キック”を掛け合わせジム名にしたRIKIXジムの小野寺力会長が主催する「NO KICK NO LIFE」興行が通算で5回目を迎えました。

RIKIXジム「NO KICK NO LIFE」会場(2015.11.9)

メインイベントは62.0kg契約ノンタイトル5回戦で、日本ライト級チャンピオンの勝次(高橋勝次/目黒藤本/62.0kg)VS WPMF日本ライト級チャンピオンの黒田アキヒロ(フォルティス渋谷/62.0kg)戦。チャンピオンが多いと言われている中での日本の代表的立場同士の戦いはかなりの好カード。全8試合で全28ラウンドと観る側も疲れない、ほどほどの長さの興行で、2回目となる「TSUTAYA O-EAST渋谷」というライブハウスを利用した入場者数は今回平日でも約800人という超満員の来場。

キックボクシングとしては小規模ながら、こういう「客席がリングに近い会場」は今後も人気が上がりそうで、“土日祝日”に興行が重なる日、または平日の狭間を狙った小規模興行は、会社帰りのファンの足運びも考慮した時間帯で、帰り道でも飲食に困らない繁華街と交通の便がいい渋谷など主要駅のライブハウスの利用が予想されます。

◆“キックの赤い薔薇”小野寺力会長が生んだ「NO KICK NO LIFE」の世界

小野寺力会長の現役時代デビュー戦。山田浩に判定勝利(1992.11.13)。今日に繋がる第一歩を踏み出した日ともいえる

小野寺力氏は現役時代、“キックの赤い薔薇”というキャッチフレーズを持ち、キックの老舗の名門・目黒ジムに所属した歴代チャンピオンの中でも一番と言われるテクニックを持った元・日本フェザー級チャンピオン。まだ現役時代の2002年9月にライブハウスのSHIBUYA-AXで興行を打ち、メインイベントを務めるとともに興行運営に関わり、アイディアマンとなって現在に活かされています。

2003年11月にはRIKIXジムを大田区北千束(大岡山)に開設。2005年10月には自身の引退興行として大田区体育館で「NO KICK NO LIFE」を初開催。同年、ラジャダムナン系とルンピニー系のフェザー級王座統一を果たしたアヌワット・ゲオサムリット(タイ)にパンチの強打で2ラウンド3ノックダウンでKO負けを喫するも、最強相手を選んでの完全燃焼に更なる評価を得ました。

プロモーター小野寺力RIKIXジム会長(2014.2.10)

8年4ヶ月ぶり「NO KICK NO LIFE」開催となった2004年2月、大田区総合体育館で今度は後輩の、前・ラジャダムナン・スーパーライト級チャンピオンの石井宏樹(目黒藤本)がムエタイ4階級制覇のゲーオ・フェアテックス(タイ)とWPMF世界スーパーライト級王座決定戦で対戦。ハイキック一発で2ラウンドKO負け、2005年2月の第3回開催では、RIKIXジムから初のチャンピオンとなった愛弟子・田中秀弥が引退試合、シュートボクシングの代表的名チャンピオンのアンディ・サワー(オランダ)にハイキック一発で2ラウンドKO負けを喫しました。この完全燃焼しての引退は選手の理想像となり、今後も選手の感情を受け止め、その舞台に力を注ぐであろう小野寺会長です。

◆日本チャンピオン対決「高橋勝次 VS 黒田アキヒロ」戦は黒田が逆転勝利!

この日、メインイベントの日本チャンピオン対決は、勝次がパンチで先手を打ち主導権を握る。飛び蹴りも多発、勝次の攻勢が続くも第4ラウンドに入ると黒田のローキックが効いたか、勝次も手数が減る。黒田も簡単には崩れない強さがあるのだと感じさせるチャンピオンの意地。第5ラウンド終了が近くなる2分30秒あたりで、黒田の右ストレートが勝次のアゴを捕らえる展開逆転のダウン。残り少ない時間(20秒)では再び逆転も難しく、3-0(49-47、49-48、49-47)の判定で黒田アキヒロが逆転勝利を飾りました。

勝次(右)vs黒田アキヒロ(2015.11.9)
勝次(ダウン)vs黒田アキヒロ(ポーズ)(2015.11.9 )

「勝次は相手を見過ぎるクセがあり、そこを突かれる場合が多い」と言う目黒藤本ジム陣営。「チャンピオンなんだから、今更、事細かな基本を教わる立場ではない。それまでに教わったことを反復練習と、相手の攻撃を避ける練習を繰り返しやらないといけない。」という別の厳しい陣営の意見もありました。

新日本キックボクシング協会代表・伊原信一氏、目黒藤本ジムの藤本勲会長も並んで観戦。ステップアップして上のステージへ進みたい勝次への査定は厳しいものとなるかもしれないが、12月13日の目黒藤本ジム主催興行では、勝次の日本ライト級王座初防衛戦を同級3位の春樹(横須賀太賀)を相手に行なわれます。汚名返上へ、あと1ヶ月で、原点に返って立て直さねばなりません。

◆セミファイナル「前口太尊 VS 中尾満」戦は激闘の末、前口がKO勝利!

セミファイナル出場のJ-NETWORKライト級チャンピオンの前口太尊(PHOENIX)は、梅野源治が所属する強豪揃いのジム。マイク・タイソンから名前を肖り、一発で試合を終わらせるハードパンチを持つ。対する中尾満(元・日本ライト級暫定チャンピオン/エイワスポーツ)は、新日本キックで伊原ジムに所属していた2010年8月、石井達也(目黒藤本)との日本ライト級挑戦者決定戦で勝利し、後に暫定王座に昇格した経緯を持つ。

63.0kg契約5回戦で行なわれたこの試合、前口太尊が第2ラウンドにコーナーに詰めヒザ蹴り連打と更に右フックで2度ダウンを奪った後、中尾満が右フックで逆転のダウンを奪う。こういう展開は勝負がわからなくなる盛り上がりを見せるが、結局、再び前口太尊がロープに詰めヒザ蹴り連打をする中、レフェリーが止め、前口が第2ラウンド2分56秒、3ノックダウンによりKO勝利を収めました。

前口太尊(左)vs中尾満.最初のダウン(2015.11.9 )
前口太尊のマイクアピール(2015.11.9)

セミファイナルとメインイベントでの、逆転の攻防で締め括られ、ファンのボルテージも最高潮。(錯覚とはいえ)渋谷の街全体が盛り上がった印象でした。

全8試合中、RIKIXジムから4人が出場で1勝2敗1分。目黒藤本ジムから2人が出場で1敗1分。他はフリーのジムが中心です。来年はまた大田区総合体育館から始まる予定。どこの団体問わず、今度はどんなメンバーが揃うかも期待されます。興行も継続化され「NO KICK NO LIFE」も軌道に乗ったと言えるでしょう。

「NO KICK NO LIFE」のラウンドガールたち(2015.11.9)

[撮影・文]堀田春樹

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◎新日本キック「MAGNUM39」──トップ選手のビッグマッチと若いチャンピオンたち
◎群雄割拠?大同小異?日本のキックボクシング系競技に「王座」が乱立した理由

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