天皇制はどこからやって来たのか〈26〉 昭和天皇──その戦争責任(1)

すでに歴史上の人物だから、その人となりから紹介すべきところだが、やはりこの人については、戦争責任というテーマは避けがたい。

とりたてて国家主義的であったり、議会や国民をないがしろにした人ではない。むしろ天皇機関説を是認していた(美濃部達吉への軍部の干渉のときに)ように、立憲君主制をよく理解していたと評価すべきであろう。

だがしかし、昭和天皇の「戦争指導」は、かれが尊敬する明治大帝と同様に、みずから大本営を仕切るものだった。いやそれ以上に謁見と上奏、そして下問のみならず意見、そして提案をするものだった。その意味では、道義的責任をこえて戦争指導責任が問われてしかるべきである。

◆最高責任者という意味では、超A級戦犯である

 

1975年10月31日に行なわれた日本記者クラブ主催の「昭和天皇公式記者会見」において、太平洋戦争の戦争責任について問われたとき、昭和天皇は次のように答えている。

「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしてないので、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えができかねます」

ここでいう文学方面は、生物学や食品学を専門とする学者天皇としての、研究ジャンルに関する摂理ともいえる。あるいは戦後の文学的・歴史学的なテーマとしての「文学者の戦争責任」を意識してのものとも考えられるが、少なくとも「法律論的」なものではなく、道義的なものも明言しなかった。

だが、昭和天皇は陸海軍の大元帥、つまり最高責任者として将官を任命し、正規軍艦には菊の御紋を冠する立場にあった。

いや、立憲君主制のもとでは「お飾りにすぎなかった」と擁護する法律家や歴史家も少なくない。一時期の古代王朝を除いて、天皇は形式的に律令制を統治したに過ぎず、時々の政権に利用されてきたのだと、歴史を知る人は言うかもしれない。

だがそれも、本連載で明らかにしてきたとおり、時の為政者と対立・協商・抵抗をくり返しながら、天皇制(禁裏と政治の結びつき)を維持してきたのである。そして昭和天皇は、ほぼ完全に天皇親政となった明治の法体系のもとで、主権者として君臨した人物なのである。

◆昭和天皇の戦争指導

昭和天皇は『独白録』や『昭和天皇実録』、あるいはマスコミインタビューなどで、自分が判断をしたのは2.26事件の反乱軍鎮圧(勅命)と終戦の御前会議(いわゆる聖断)の二度であると言明している。

なるほど、御前会議においては政府側から、あるいは枢密院から「発言をしないように」、政策決定の責任を天皇に負わせない「配慮」があり、黙って臨席するだけだった。

しかし大本営会議においては、皇居(御学問所・御書斎)における上奏と下問と同じように、天皇の質問は歓迎されている。上奏も大本営会議(天皇臨席時)も、いわば作戦計画を天皇に説明する場なのだから、天皇からの質問があって当然である。

この「質問」がしばしば「疑問」となり、さらには質問が「なぜ陸軍は南方に飛行機を出せないのか」などという作戦上の要求に変わったとき、大本営は作戦計画の再検討を余儀なくされた。

ここにわれわれは、昭和天皇の戦争指導を見ないわけにはいかない。これは後述して、詳しく解説したい。天皇の名によって戦争が行なわれ、国民が大君の召集令状によって徴兵され、そして現人神への忠勤で戦死した「道義的責任」だけではない。軍人としての戦争指導責任が、問われなければならないのだ。

◆天皇の叱責と人事権

 

天皇は政策決定・変更権はもとより、実質的に人事権をもにぎっていた。

日中戦争勃発時の関東軍の専横を、昭和天皇は「下剋上だ」と批判していたという。初代宮内庁長官の田島道治が、昭和天皇との対話を詳細に書き残した『拝謁記』には、その息づかいにいたるまで、天皇の軍部と政府への不信が明らかにされている。

以下の例は、張作霖事件の処置(犯人不明のまま、責任者を行政処分)への疑問である。張作霖爆殺事件が関東軍の謀略(下剋上)であることは、東京でもわかっていた。問題はその処分をできない、東京政府のだらしなさである。

公文書たる『実録』においてすら、田中義一総理に「齟齬を詰問され、さらに辞表提出の意を以って責任を明らかにすることを求められる」とある。

ようするに、お前が責任者なのだから、犯人を究明できないようなら総理大臣を辞めろ、と言っているのだ。このあと、田中義一内閣は弁明に務めようとするが、天皇に「その必要なし」と返され、そのまま総辞職する。天皇は最高権力者として、人事権を握っていたばかりか、冷厳に執行していたのだ。

帝国議会においては、総理大臣(首班指名)は枢密院(西園寺公望が取り仕切る)が推薦し、天皇が「大命」をくだす。つまり任免権そのものを体現していたのである。

太平洋戦争前、軍部のとりわけ陸軍にたいする不信感は大きかった。

昭和天皇による、張鼓峰事件(ソ連兵に対する威力偵察)の際の言葉が残されている。

「元来陸軍のやり方はけしからん。満州事変の柳条湖事件の場合といい、今回の事件の最初の盧溝橋のやり方といい、中央の命令には全く服しないで、ただ出先の独断で、朕の軍隊としてあるまじきような卑劣な方法を用いるようなこともしばしばある。まことにけしからん話であると思う」(『西園寺公と政局』)。

昭和14年(1939)の陸軍大臣板垣征四郎の上奏に対する下問を覗いてみよう。

「山下奉文、石原莞爾の親補職への転任につき、御不満の意を示される。またドイツ国のナチス党大会に招聘された寺内寿太郎の出張につき……不本意である旨を伝えられる」

昭和天皇がナチス嫌いだったことが、この寺内寿太郎の一件でわかる。皇太子時代(18歳)で初めて外遊(訪欧)したとき、日英同盟下にあったイギリス(およびイギリス領・香港やシンガポール、エジプトなど)が歓待してくれたこと、ドイツは第一次大戦の敵対国であることから、好感を持っていなかったと思われる。

山下奉文には天津租界封鎖問題という別件があり、石原莞爾には東条英機との対立により、勝手に任地をはなれた件が問題にされたのだ。ちなみに、東条英機は天皇のお気に入りだった。

昭和15年の上奏・下問においては、中国戦線での作戦計画に積極的な発言をしている。奏上した杉山元参謀総長への下問である。

汪兆銘政権(親日派)承認後の対中国(蒋介石政権)戦争に関して「重慶まで進行できないか否か、進行できない場合の兵力整理の限度と方法、占領地域の変更の有無、南方作戦の計画等につき御下問になり、また南方問題を慎重に考慮すべき旨を仰せになる」(実録)。

重慶まで行けないか、重慶を陥落させよというのは、蒋介石政権を打倒するという意味である。かなり無理な要求だ。

そして「南方作戦」「南方問題」とは、アメリカが中国を支援する援蒋ルート(インドシナ)を断つために、南部仏印(ベトナム)に進駐した件である。けっきょく、これがアメリカを硬化させ、日本の中国権益からの撤退を要求されることになる。

◆対英米戦争は、7月には天皇に説明されていた

 

昭和天皇に対英米戦争が避けがたいと説明(永野修身海軍軍令部総長)されたのは、少なくとも昭和16年の7月末だとされている(『木戸幸一日記』)。

政府および陸海軍においては、その8月に、若手将校や若手の官僚を100名以上あつめて(総力戦研究所)の講評を行なっている。そこでは、日米総力戦の軍事・外交・経済にわたる分析研究(机上演習)の結論が出ている(『昭和16年夏の敗戦』=猪瀬直樹の名著である)。

その結果、日本の戦争経済の破綻とアメリカの増産体制の確立。すなわち、日本の完全な敗戦が明確となるのだ。この研究では、戦争末期のソ連参戦まで割り出されている。講評を聴いた東条英機は「やはり負け戦か」と呟いた。

その前年5月には、軍部独自の対米図上演習研究会において、アメリカによる石油禁輸から4~5か月以内に会戦するべし、という結論が先にあった。

日米開戦は不可避という軍部の説明に、昭和天皇はその場合の見通しを要求している。

有名な「支那事変は一カ月で片付くと言ったが、4か年の長きにわたり、いまだ片付かんではないか」「支那の奥地が広いというなら、太平洋はなお広いではないか。いかなる確信があって5カ月と申すか?」(杉山参謀総長への下問『平和への努力』)という言葉である。

すくなくとも、この時点で昭和天皇は日米開戦、対英米戦争に懐疑的だった。
しかるに、じょじょに覚悟を決めたものか。あるいは覚悟を要する戦争に、あたかも呑み込まれたかのごとく豹変するのだ。(つづく)

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▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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天皇制はどこからやって来たのか〈25〉近代の天皇たち ── 大正天皇という謎

生誕時から病弱だったのは記録にある事実だが、5人の皇子のうち唯一成人したのだから、むしろ逞しかったというべきではないか。大正天皇のことである。皇女も10人中4人しか成人できなかった。感染症が蔓延し、医療は西洋医学がようやく本格的に採り入れられた時期のことだ。

 
大正天皇

幼年期の個人授業の後、学習院初等科に途中入学するが、発達の遅れから中等科1年で中途退学となった。このあたりから、皇嗣としてはダメなのではないかという風評が世間に漏れはじめた。

それでも11歳で皇太子となる。皇太子妃選定における混乱、すなわち大正天皇婚約解消事件を経て、九条節子と結婚した。

この大正天皇婚約解消事件とは、大正天皇と皇族である伏見宮禎子(さちこ)女王との婚約がいったんは成立したものの、のちに華族の九条節子(さだこ)が結婚相手となった事件である。この婚約者の変更は、禎子女王の健康不安によるものだったが、明治天皇が皇族からの入籍を希望していたことが元の原因でもある。明治大帝は臣下からの縁嫁を望んでいなかったのだ。

いっぽう、伊藤博文らの政権中枢は、皇族間の婚姻とそれによる宮家の増加(宮廷費の増加)に反対意見だった。皇族の軍務を奨励する小松宮彰仁親王など、皇族の独断専横もあり、近代天皇制は親政論と立憲君主制、あるいは天皇機関説のあいだをゆれ動いていたのである。

◆政治向きではなかったのか?

その死後には、明治大帝との比較で政治的評価を貶めるものが少なくなかった。典型的なものでは、国会遠眼鏡事件であろう。帝国議会の開院式で勅書をくるくると丸め、遠眼鏡にして議員席を見渡したとされるものだ。

しかしこれは、丸めた状態で勅書の上下を確かめたものであって、天皇が突如として奇行に走ったというのは大げさであろう。不用意な発言を山縣有朋に窘められることはあっても、在位前半の大正天皇はきわめて健康かつ正常に役目をこなしている。その山縣を、天皇はすこぶる嫌っていた。そのいっぽうで、おもしろい話をしてくれる大隈重信を気に入っていた。

そして在世中は、大正デモクラシーと呼ばれるリベラルな時代で、とくに文芸やライフスタイルが刷新され、自由の気風に満ちていた。モダンガール、モダンボーイが闊歩し、女学校ではハイカラさんとよばれる女子たちが自転車に乗って学園生活をエンジョイしていた。

天皇はフランス語を学び、日本酒よりもワインを愛した。運動のために自転車に乗り、三菱財閥から贈られたヨットでクルージングを楽しんだ。

そして、女官制度への疑問を側室を否定することで実践した。すなわち、自身の実母が昭憲皇太后ではなく、柳原愛子だったことに衝撃を受け、女官(側室)を近づけなかったというのだ。この女官否定は、昭和天皇において制度そのものの空洞化にいたる。国家主義的な近代天皇制は大正天皇において、すでに民主化の第一歩を歩み始めていたのである。

◆詩人として

大正10年前後から、体調や言動に異変をともなうようになり、事実上公務ができない状態になった。大正15年にはいよいよ貧血状態を起こし、葉山御用邸に向う原宿駅では「イヤだイヤだ」と駄々をこね、目撃した人々は「狂人になった天皇が葉山に監禁されたと思った」といわれる。

ヘンなところがあると評されただけに、異才の持ち主でもあったようだ。古来、狂気は天賦の才につうじるという。漢詩は三島中洲の指導を受け、和歌より漢詩を好んだ。雅号は昭陽である。生涯に1367首の漢詩を創作し、その数は歴代天皇の中で突出している(宮内庁書陵部所蔵の『大正天皇御集』に収録)。

和歌は生涯で465首を詠んだとされるが、明治大帝の約9万首、昭和天皇の約1万首に比べると極めて少ない。しかし歴史学者の古川隆久は「心の鋭敏さの点では明治・大正・昭和三代の中で一番鋭い感じがする」と評価している

1926年(大正15年=昭和元年)暮れの12月25日、肺炎に伴う心臓麻痺のため、47歳で崩御。

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天皇制はどこからやって来たのか〈24〉近代の天皇たち ── 明治天皇の実像

明治元年(1968)10月12日に即位したとき、天皇は14歳であった。孝明天皇の第二皇子、母親は権大納言中山忠能の娘中山慶子とされている。中山慶子は典侍(ないしのすけ=側室)であるから、女御(正室)の九条夙子(英照皇太后)を実母と公称した。

女児のごとき祐宮睦仁(さちのみやむつひと)親王から、後年の男性的な明治天皇となった落差。この落差ゆえに「明治天皇はすり替えられた?」(前回掲載記事)とする説が生まれたのである。それほど落差が感じられるのを、ゆえなしとはしない明治天皇の「雄々しさ」とは、どのようなものなのだろうか。

 
明治天皇

◆調停機関から大元帥へ

20歳になった天皇の事績はすぐれて明快である。

征韓論をめぐって起きた明治6年政変では、勅旨を発して西郷隆盛の朝鮮派遣を中止させ、政権内部の対立を調停している。

同時期に全国で起きた自由民権運動に対しては、漸次立憲政体樹立の詔を出してこれを慰撫。これらの背景に三条実美、大久保利通、岩倉具視、木戸孝允ら政権主流派の動きがあったのは明白だが、政権調停機関としての役割をそこに見出すことができる。

明治15年には軍人勅諭を発し、大元帥としての性格を明確にしていく。さらに明治22年2月11日、大日本帝国憲法を公布。この憲法は日本史上初めて天皇大権を明記し、立憲君主制国家確立の基礎となった。

翌明治23年10月30日には教育ニ関スル勅語を発し、近代天皇制国家を支える国民道徳を明記する。殖産興業・富国強兵政策の先頭に立つ、近代天皇の姿を明確にしたのである。

そして、いよいよ明治27年(1894)、日本は大元帥のもと日清戦争に踏み切る。このとき天皇は大本営において、直接戦争指導に当たっている。

明治37年(1904)の日露戦争も同様に、大本営にあって戦争を指揮している。

日露戦争後は韓国併合と満州経営をすすめ、日本を植民地支配する帝国主義に押し上げた。ぎゃくにいえば、侵略と併呑、寄生性と腐朽化への道(レーニン)である。これらの「偉業」をもって、天皇は後年「明治大帝」「明治聖帝」と呼ばれる。

だが、その覇業は古代いらいの帝としての皇統継承事業、すなわち子づくりにおいても発揮された。いや、近代天皇制を古代的な親政において実現する志向は、子づくりや華族の縁戚化、そしてのちには皇族の拡大という宮中第一政策において実行されてゆくのだ。

 
一条美子

◆片っ端から女官に手をつける

とにかく、女には手が早かった。皇后は一条美子という、のちに昭憲皇太后と称せられる女性だが、この人との子はなかった。

以下、側室となった女性たちである。

葉室光子は19歳のときに宮中に入り、翌年には天皇の第一子を出産するも死産。光子も産後に亡くなった。

橋本夏子も17歳のときに女子を身ごもったが死産、自身も産後の経過不良のため死去。

千種任子も二人の女子をもうけるが、夭折する。

のちに大正天皇を生む柳原愛子も二人の男子と一人の女子を幼くして失っている。こうなると、側室とその子供たちの地獄というべきか。

じつはこの事態には、日本社会を覆った感染症の影響があったと考えられる。天然痘とコレラである。

孝明天皇は1866年12月11日に発熱し、17日に疱瘡と確認されると、天皇は感染を心配し、親王(明治天皇)に完治の日まで来てはいけないと命じる。そこで、親王の生母の父、中山忠能は、蘭方医に密か命じて親王に種痘をほどこしたという。

 
柳原愛子

「最後に二十三日から膿の吹き出しがおさまってかさぶたを結んで乾燥し、次第に熱が下がり、大体において全快に向かった。ところが病状は二十五日に至って急変し、激しい下痢と嘔吐の挙げ句、夜半に至り『御九穴より御脱血』」(中山忠能日記)という最期であった。いったん快方に向かい、そこから再度悪化したことで、宮中勤仕の老女の「悪瘡発生の毒を献じ候」という手紙を、中山忠能は日記に紹介しているのだ。

これが前回紹介した毒殺説であるが、ともあれ天然痘による疱瘡が確認できることから、これ以降も種痘を受けなかった幼子、女官たちが相次いで感染し、命を落としたことは容易に想像される。

多産だったのは、園祥子という女官である。彼女はわずか13歳で女官となっている。明治18年、19歳の時に初産に失敗(女子死亡)し、翌年も女子を失っているが、21歳の時に天皇の11子を生むと、6人の子をつくり(うち2名死亡)、合計8人もの皇子を身ごもったことになる。

明治天皇最後の女は、小倉文子(伯爵家)という女性だったが、子をなさなかったことから公式の記録には残っていない。

けっきょく、明治天皇は5の皇子と10人の皇女をなしたのである(成人したのは5人、男子は大正天皇のみ)。慧眼なる読者諸賢は、男子5人、女子10人という比率の中に、近代天皇家における男子出生率の低さを読み取るであろう。しかし大正天皇には4人の皇子はあっても、女子はいなかった。昭和天皇においては、男子2人、女子5人である。平成天皇は男子2名、女子1名、令和天皇は女子1人である。

もっとも、伊藤博文や松方正義など、明治の元勲とよばれる人たちの女好きは有名で、明治天皇がとりたてて女癖が悪かったというものでもない。

◆60歳の若さで崩御

当時はじゅうぶんに生きた年齢だったのかもしれないが、享年60であった。

晩年は歩行も困難なほど体調を崩し、「朕が死んだら世の中はどうなるのか。もう死にたい」「朕が死んだら御内儀(昭憲皇太后)がめちゃめちゃになる」と弱音を吐いていたという。じっさいに糖尿病だったようだ。枢密院の会議中に、寝てしまうことも多かったという。

写真撮影を極度に嫌ったので肖像画でしか往時を偲べないが、べつに西洋文明を否定したり「写真は魂を抜き取る」などの明治人に特有の迷信ではない。食事は西欧風の肉食や牛乳を奨励し、明治6年にはみずから断髪して、国民に西欧風の生活習慣を率先垂範している。

天皇は酒をたしなみ、乗馬や和歌、刀剣蒐集、レコード鑑賞を好んだという。それにしても、60歳は若すぎる。相当なストレスに見舞われる日々があったのだろう。

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天皇制はどこからやって来たのか〈23〉近世・近代の天皇たち ── 明治天皇はすり替えられた?

この表題はまことに荒唐無稽ながらも、明治政府の歴史観を左右する幕末ミステリーである。もしもそれが史実ならば、驚愕するような事実よりもさきに、われわれは明治維新という「革命」の内実を知ることになる。その内実が謀略であると。そして、南朝史観とよばれる維新政府の歴史観に、こんどは生々しく触れることになる。

仮説はこうである。幼い明治天皇(祐宮睦仁親王)が何者かに殺害され、その代わりに別の人物が皇位に就いたというのだ。その名は長州田布施出身の大室寅之祐、長州藩が秘匿していた南朝の末裔であるという。

最初にこの説をとなえたのは、鹿島昇(弁護士・歴史研究家)だった。その云うところをトレースしてみよう。

南朝・後醍醐天皇の皇統は、後村上天皇──長慶天皇──後亀山天皇の正系のほかに、尊良親王(東山天皇)から正良親王(松良天皇)にいたる傍系がある。正良親王の皇子のひとり、光良(みつなが)親王が南朝崩壊後に長州の麻郷に落ちのびたのが、大室天皇家であるという。室町時代の長州は守護大名の大内氏が支配するところで、南朝勢力が西日本に落ちのびるのは、懐良親王が九州を拠点とした例から考えて不思議ではない。

わたしは薩長両藩の主家が関ヶ原で没落した島津と毛利であり、明治維新は一面において268年の歳月をへて徳川打倒に燃える両家の意趣がえしであると考える。長州藩において、大室天皇家はその切り札だったのだろうか。

鹿島昇(弁護士・歴史研究家)によれば、幼い明治天皇(祐宮睦仁親王)が何者かに殺害され、その代わりに別の人物が皇位に就いたという。それが長州田布施出身の大室寅之祐(写真左)。長州藩が秘匿していた南朝の末裔であるという

◆将軍家茂・孝明天皇暗殺

鹿島昇は幕末の政治情勢から、暗殺者たちの動機を精緻に解読する。将軍徳川家茂と孝明天皇の死(1866年)がそのキーワードである。すなわち、皇女和宮の降嫁によって従兄弟となったふたりは、公武合体の体現者であった。ふたりは長州征伐の実行者であり、天皇のもとに徳川家を中心にした連合政権を構想していた。

この政権構想はしかし、尊皇攘夷と倒幕をねらう薩長連合にとって容れられるものではなかった。とくに京都から排除され、その勅命によって征討までされた長州藩にとって、ふたりは目の上のたんこぶだったのである。

たとえば「(和宮降嫁によって)尊攘派は肝心の天皇を幕府に奪われてしまった。すなわち、幕府が『玉をとった』のである」「薩長密約の際に家茂と孝明天皇の暗殺はすでに謀議されており、これに公武合体派から尊攘派に鞍替えした岩倉具視が荷担したのであろう」と、鹿島昇は解読する(「明治天皇は二人いた!!」『天皇の伝説』メディアワークス)。

それもまったくの推論というわけでもない。鹿島が謀殺の論拠とするのは、作家の山岡荘八が独自にしらべた事実である。すなわち、宮中からさし回された正体不明の医師が、風邪で伏せっていた徳川家茂に薬を処方したところ、それから三、四日目に亡くなったとする。

「将軍の胸のあたりに紫の斑点が出て、大変苦しがって、その蜷川という御小姓組番頭に、骨が折れるほどしがみついたまま息を引きとった」(山岡荘八「明治百年と日本人」『月刊ひろば』昭和43年11月号)というのだ。蜷川という御小姓頭は蜷川京都府知事の祖父にあたり、おそらく将軍家茂の死にぎわは事実なのであろう。
孝明天皇の最期もまた、謀殺めいたシーンに彩られている。

明治天皇の外祖父(生母の父親)中山忠能の『中山忠能日記』によると、やはり天皇は天然痘の潜伏期で、12月11日には「不眠・発熱・食欲不振・ウワ言の病状を経て」「十六日朝には顔に吹き出物が出始めた。だが、十七日から便通があり、食欲も起こり熱も下がり、典医も『まづ順当』と診断している」

快方に向かったというのだ。

「最後に二十三日から膿の吹き出しがおさまってかさぶたを結んで乾燥し、次第に熱が下がり、大体において全快に向かった。ところが病状は二十五日に至って急変し、激しい下痢と嘔吐の挙げ句、夜半に至り『御九穴より御脱血』」という最期であったという。

当時、宮中においても毒殺説が飛びかい、宮中勤仕の老女の「悪瘡発生の毒を献じ候」という手紙を、中山忠能は日記に紹介している。

これを裏づける説をとなえたのは、瀧川政次郎である。中国人医師の菅修次郎が夜半に呼び出され、目かくしをしたまま連れて行かれたという。そこで診療させられたのは、わき腹を刺された、ひん死の人物だった。じつは菅医師が連れて行かれたのは御所ではなく、堀河紀子(孝明天皇の愛妾)の広大な屋敷だったというものだ(「皇室の悲劇」)。

中山忠能が日記に書いた「御九穴より御脱血」というのは、刺し傷だったのだろうか。

この説を、作家の南条範夫は「孝明天皇暗殺の傍証」『人物往来』昭和33年7月号)において、母方の祖父・土肥一十郎の日記を読んだ記憶として書いている。

「白羽二重の寝衣や敷布団はもちろんのこと、半ばはねのけられ掛布団に至る迄、赤黒い血汐にべっとりと染まっている人は脇腹を鋭い刃物で深く刺され、もはや手の下しようもない程甚だしい出血に衰弱し切って、ただ最期の呻きを力弱くつづけているに過ぎない」

何ともなまなましい、暗殺現場に立ちあったかのような描写であることか。こうして、尊皇攘夷派・倒幕派にとって邪魔な存在だった将軍と天皇が暗殺されたのだ。その暗殺者たちは、みずからの政権を盤石なものにするために、つぎなる暗殺に手を染める。16歳の陸仁親王(明治天皇)暗殺である。

◆なぜ吉野朝時代なのか

陸仁親王(明治大帝)暗殺について、孝明天皇暗殺ほどの生々しい証言や伝聞があるわけではない。鹿島昇が「証言」と称するものは、ことごとく伝聞であり、亡くなられた人々が反論できない、したがって根拠のわからない「証言」なのである。誰がいつどこで、どうすり替えたのか、詳細がよくわからない。

いわく、昭和4年に三浦天皇(三浦芳堅=南朝傍系)が、元宮内大臣・田中光顕に獄秘伝の『三浦皇統系譜』を持参したとき、田中は「じつは明治天皇は孝明天皇の息子ではない」「明治天皇は、後醍醐天皇第十一番目の息子満良親王の御子孫」だと証言したという。

いわく、元宮中顧問官で学習院院長も務めた山口鋭之助が、大正9年に「明治天皇は北朝の孝明天皇の子ではない。山口県で生まれて維新のときに京都御所に入った」と言ったという。

いわく、岸信介元総理は元中政連幹事長だった鎌田正見に、いまの天皇家は明治天皇のときに新しくなった、と語ったという。

いわく、陸仁親王と明治天皇が別人であることは、鹿島昇自身が清華家の当主である廣橋興光から聞いたことがあるという。

いわく、中川宮(前出の東武皇帝・日光宮能久親王の兄)の孫娘である梨本宮家の李方子も、明治天皇は南朝の人だと証言したという。

いわく、鹿島昇の旧友・松重光雄は、中学生のときに担任の萩出身の教師から、明治天皇はすり替えられたと教えられたという。

ほかにも証言らしいものはあるが、もうここまでにしよう。鹿島昇の脳裡に根を張った推測・推論なのだ。もの言わぬ死者の証言よりも、われわれには問題にしなければならないことがある。なにゆえ明治政府が北朝の天皇をいただきながら、「吉野朝時代」などという歴史観で南朝を正統としたのか、である。そこにこそ、明治天皇がすり替えられたかどうかの「真相」が浮かび上がるはずだ。

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▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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天皇制はどこからやってきたのか〈番外編〉(下)昭和天皇の妹といわれた尼僧と三島由紀夫『豊饒の海』をめぐって

三島由紀夫の最後の長編『豊饒の海』第一部『春の雪』のモチーフのひとつには、正田美智子(上皇太后)との縁談があった。

聖心女子大からの推薦で、歌舞伎座で隣り合わせに座るかっこうで面会し、その後、料亭で歓談したという。そして三島は母倭重江とともに、正田美智子の卒業式を見学に行っている。

当時も今も、聖心女子大はハイソサエティー女子のメッカである。三島の作品では『お嬢さん』のヒロインが聖心の在学生という設定だ。

そして、明仁皇太子(平成上皇)と正田美智子の自由恋愛を装った縁組が、これを前後して行なわれている。旧華族の北白川肇子に決まりかけていたところ、小泉東宮参与、黒木東宮侍従らが水面下で正田美智子嬢を皇太子妃にしようと画策し、偶然をよそおった軽井沢テニスコートでの出会いが準備されたのだ。昭和天皇の「東宮の嫁は、民間から」という意向がはたらいたという説もある。

三島家はどうだったのだろうか。三島の祖母のなつが「商家の娘は(ダメ)」という反対派で、三島家から断ったとされているが、真相はよくわからない。いずれにしても、三島が「『春の雪』はフィクションというわけじゃないんだよ」と語ったのは、このことである。

◆三島の円照寺取材

『豊饒の海』の作品全体をつらぬくモチーフとして、阿頼耶識(大乗仏教)と唯識論、いいかえれば唯心論の中心には、綾倉聡子が出家する月修寺(円照寺)があった。

円照寺は臨済宗妙心寺派だが、作品中の月修寺は法相宗という設定である。法相宗の根本教義である唯識説の世界観を描こうとしたので、法相宗でなければならなかったのだ。

円照寺の縁起からも解説しておこう。円照寺は後水尾天皇の第一皇女・文智女王が開いた寺院(当時は草庵)である。

後水尾天皇による山荘(修学院離宮)の造営にともなって、圓照寺は移転を迫られた。明暦2年(1656年)、継母である中宮東福門院(徳川秀忠の娘)の助力により、大和国添上郡八嶋の地(奈良市八島町)に移り、八嶋御所と称す。さらに東福門院の申請により、幕府から200石の寄進を得て、寛文9年(1669)に八嶋の近くの山村(奈良市山町)の現在地に再度移転した。爾後、門跡寺院として皇女が入寺し、山村御所と呼ばれた。

その円照寺門跡、山本静山尼が提唱天皇のご落胤、もしくは三笠宮親王との双子で、したがって昭和天皇の妹であるという説については、前回解説したとおりだ。
三島由紀夫が河原敏明説(1979年発表)を知らないのは言うまでもないが、取材を思い立ったのは、いったい何の機縁であろうか。何かが導いたとしか思えない偶然である。三島由紀夫と正田美智子、そして山本静山尼。

作品(春の雪)から解説しよう。物語の結末を暗喩する、唯心論のくだりである。
松枝家の築山の滝に、死んだ犬が落ちていた。来訪していた月修寺の門跡がこれを供養する。

そのとき月修寺門跡(先代)がした講話は「元暁の髑髏水」であった。「心を生ずれば則ち種々の法を生じ、心を滅すれば則ち髑髏不二なり」。

ようするに、元暁という僧侶が暗闇のなかで見つけて、ありがたく飲んだ水が、髑髏の中に入っていた(思わず吐き出してしまう)という顛末である。心しだいで水は美味であり、吐き出したくもなるという寓話だ。

そのとき、作品中の狂言回しである本多繁邦は、主人公の松枝清顕にこう語りかける。

「純潔な青年は純潔な恋を味わう」しかし「相手がとんだあばずれだと知ったのちに、もう一度同じ女に、清らかな恋を味わうことができるだろうか?」「できたら素晴らしい」と。要するに、唯心論なのである。

三島は円照寺を二度おとずれ、二度目の訪問で門跡山本静山に会っている。三島はその印象を、「この世のものとも思えないほどの気品で、ただ絶世の一語につきる」と語っている。自身の創作物である綾倉聡子が、そこに現出したのであろうか。そして月修寺(円照寺)は、物語を反転させる場になる。

◆『豊饒の海』謎の結末の解釈

従来『豊饒の海』の結末の謎は、さまざまに解釈されてきた。悟りの末の「空(何もないところ)」に色即是空を当てはめてみたり、禅宗的に「無」の風景をそこに想定する。哲学的なイデアで解釈する。世界の崩壊をそこにアナロジーするなど、恣意的な解釈であることに変わりはない。文学論とはそもそも、評者の勝手な読み込みにモチーフがあるのだから。

しかし、三島作品をそれほど読んでいない批評家の作品論には、わたしのように全作品、全評論を通読してきた者には違和感がある。夭折にあこがれ、英雄的な死にふさわしい肉体を耕し(『太陽と鉄』)、憂国という舞台建てのなかで切腹死したことと、この作品の結末は無縁ではない。

作品の文章から引用しよう。長く美しい文体がわざわいして、この作品は読者に通読を許さない難解さがある。その例証として、わたしが久住純の筆名で書いた『情況』(2020年秋号「芸術としての政治の完成」)からである。

道のべの羊歯(しだ)、藪柑子(やぶこうじ)の赤い実、風にさやぐ松の葉末、幹は青く照りながら葉は黄ばんだ竹林、夥(おびただ)しい芒、そのあいだを氷った轍(わだち)のある白い道が、ゆくての杉木立の闇へ紛れ入っていた。この、全くの静けさの裡(うら)の、隅々まで明瞭な、そして云わん方ない悲愁を帯びた純潔な世界の中心に、その奥の奥の奥に、まぎれもなく聡子の存在が、小さな金無垢の像のように息をひそめていた。しかし、これほど澄み渡った、馴染(なじみ)のない世界は、果たしてこれが住み慣れた「この世」であろうか。

どうです? 禅宗寺院の門前の風景、一気に読みくだせましたか? 松枝清顕が出家した綾倉聡子との叶わぬ逢瀬のために通う、六回目の月修寺訪問のシーンである。そこが何もない場所である物語の結末への暗喩が、長文の末尾にほのみえている。

『豊饒の海』の結末とは、月修寺の門跡となった綾倉聡子が、松枝清顕の存在を否定することで、物語全体を否定することになる。いわば夢オチである。

推理小説において、主人公(探偵や刑事)が真犯人であるのは規則違反とされる。夢オチも禁じ手とされている。いずれも魅力的な手法だが、それをやってしまうとストーリーが破綻するからである。

『豊饒の海』の結末は、じつにこれなのだ。三島は月修寺の門跡(綾倉聡子)に、禁断の恋の相手である松枝清顕の存在を否定させることで、この禁じ手をみごとにやってのける。飯沼勲の転生であるタイの王女ジン・ジャンが、子供のころの記憶(前世が勲であった証言)を「何もおぼえていません」と言うのとはわけがちがう。

門跡(聡子)の言葉が真実であれば、主人公の本多すらも存在しなかったことになるのだ。門跡が言う「それも心々」とは、唯心論の真骨頂である。市ヶ谷蹶起の秘密は、じつはここに隠されている。

市ヶ谷蹶起の日に、担当編集者に最終原稿を渡した意味もここにある。それは、すべてを「なかったこと」にする企みだったのである。原稿2000枚、創作ノート23冊におよぶ大作を、夢オチで何もなかったことにする。すべては作りごとにすぎないというものだ。

どうだ、すべてお釈迦にしてやった、お前らに出来るものならやってみろ、である。この地点からは、到彼岸で高笑いしている作家の相貌が浮かぶ。三島の創作活動のすべては虚構に過ぎず、現実にあるものは割腹死だというものだ。それも、三島由紀夫であった亡骸(生首)にすぎない。作品の完結とともに、作家も居なくなってしまったのだ。われわれを置き去りにしたまま、世紀の天才はレジェンドになった。

※三島の市ヶ谷蹶起の真相については、『紙の爆弾』(2020年12月号)の「三島の標的は昭和天皇だった」を参照されたい。

※円照寺は観覧不可だが、奈良交通が年に3回、日帰りのツアーを実施しているという。↓
https://www.tripadvisor.jp/ShowUserReviews-g298198-d8149900-r352575521-Enshoji_Temple-Nara_Nara_Prefecture_Kinki.html

「じゃらん」の案内 https://www.jalan.net/kankou/spt_29201ag2130015879/

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▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

月刊『紙の爆弾』2021年2月号 日本のための7つの「正論」他
渾身の一冊!『一九七〇年 端境期の時代』(紙の爆弾12月号増刊)

天皇制はどこからやってきたのか〈番外編〉(上)「昭和天皇の妹」といわれた尼僧 ── 山本静山尼

正月のこととて、あまり生々しい政治論や天皇制論などは避けて、しっとりとしたテーマを選びましょう。文化論として読めば、天皇史は神仏崇拝・神社仏閣の歴史であり、和歌や宮中儀典など古今伝授をめぐる文化史でもある。

とはいえ、史実の裏側を読み解くのがこの連載の持ち味である以上、やはりスキャンダラスなものにならざるをえない。今回は「昭和天皇の妹」のことである。

すでにご存じの方も、かのお方が三島文学の最期のエッセンスのヒントになったことをめぐりながら、文学散歩としてお読みいただければ幸甚です。

◆男女の双子だった?

大正天皇は貞明皇后(九條節子)とのあいだに、4人の皇子をなした。近代天皇の中では、男ばかりつくったのは稀である。明治天皇が15人中5人の男子、昭和天皇は7人中男子は2人である。

だが、その大正天皇にも娘がいた、という説があるのだ。しかもそれは、男女の双子であったことから、畜生腹を嫌う皇室および宮内省において、他家(山本實庸子爵)へ養女に出されたというものだ。

したがって、その説は「悲劇の皇女」ということになる。その内親王になるはずだった娘の名は、山本静山尼(じょうざんに)という。

 
河原敏明『昭和天皇の妹君』(2002年文春文庫)

唱えたのは、皇室ジャーナリストの河原敏明である。

河原敏明は1952年(昭和27)に皇室ジャーナリストになり、『天皇家の50年 激動の昭和皇族史』(講談社・1975年)、『天皇裕仁の昭和史』(文藝春秋・1983年2月。文庫版は「昭和天皇とその時代にと改題)など、多数の皇室関連の著書がある。そのうちの一冊が、『悲劇の皇女 三笠宮双子説の真相』(ダイナミックセラーズ・1984年7月)なのである。

大正天皇の4人の息子たちを確認しておこう。

昭和天皇(迪宮裕仁親王)、秩父宮雍仁親王(淳宮)、高松宮宣仁親王(光宮)、三笠宮崇仁親王(澄宮)の4人である。

河原によれば、このうち三笠宮と双子だったのが奈良円照寺の門跡、山本静山尼(絲子)だというのだ。したがって、前述のとおり昭和天皇の妹ということになる。
河原説には、証言もあるという。ひとりは末永雅雄という考古学者(関西大学名誉教授)で、橿原考古学研究所初代所長を務めた人物である。もともと、この人の証言から出発した河原説である。

もうひとりは、静山尼の兄君とされる高松宮である。

『高松宮日記』昭和15年(1940年)1月18日条には「15時30分 円照寺着。お墓に参って、お寺でやすこ、山本静山と名をかへてゐた。二十五になって大人になった」とある。

円照寺は有栖川宮(江戸初期からの宮家で、大正2年に威仁親王が薨去して廃絶)ゆかりの寺院である。その有栖川宮の祭祀を継承したのが、高松宮なのである。したがって山本静山が、高松宮から「やすこ」と呼ばれる特別な人物であったことが分かる。

静山がしばしば上京したときに皇居をおとずれ、天皇をはじめとする皇族たちと歓談していたこと、それはとりわけ若いころの慣習だったなどとしている。そして静山尼が昭和天皇によく似ている、と河原はいう。

◆本人も宮内庁も否定する

河原がこの説を『週刊大衆』に掲載した当初、宮内庁側は黙殺していた。昭和の時代は、南朝熊沢天皇やご落胤説などが流行った時代でもあった。

ところが、1984年(昭和59年)1月になって再度取り上げられ、今度は大きな話題となった。同年1月20日、宮内庁はこの説を全面的に否定する声明を発表した。

さらに河原の「皇室が双子を忌み嫌う」という主張に関して、宮内庁は近代以降も伏見宮家の敦子女王と知子女王の姉妹(1907年生)が双子として誕生し、いっしょに成長した事例を反証として挙げた。

ついで、山本静山尼みずから、河原説を否定する。そして末永雅雄教授も、河原への証言そのものを否定した。

こうして、河原敏明の「昭和天皇の妹説」は、はなはだ論拠を欠くものとなってしまったのだ。

三笠宮夫妻も後年になって『母宮貞明皇后とその時代 三笠宮両殿下が語る思い出』(工藤美代子著、中央公論新社、2007年)中のインタビューで、河原の双子説を否定する。

静山尼本人は、いたって鷹揚とした女性だった。「河原さんは、もうそればっかりで」などと、笑いながらあきれたように会話し、河原の双子説を楽しんでいるかのようだ。

◆大正天皇のご落胤か?

河原の説を新しい地平に押し上げたのが、原武史(日本政治思想史・明治学院大学名誉教授)である。

原は『高松宮日記』の記述に加え、『蘆花日記』の大正4年(1915)11月25日および12月3日、『貞明皇后実録』昭和15年(1940年)9月30日、山本静山の誕生日(1月8日)と三笠宮の誕生日に1カ月あまりのズレがあることを根拠に、「崇仁とともに生まれた二卵性双生児の妹ではなく、大正天皇とある女官との間に生まれた庶子ではなかったか」と推測している(『皇后考』講談社・2015年)。

生涯、貞明皇后を唯一の伴侶にしたはずの大正天皇にご落胤があった、というのだ。これなら落ち着きやすい仮説だが、今後の研究が待たれるとしておこう。静山尼は5歳のときに京都大聖寺で落飾し、8歳で円照寺に入山したという。5歳で出家とは、いかにも理由がありそうだ。

◆三島が会った静山尼

三島由紀夫の最後の長編『豊饒の海』は、朝廷をめぐる婚姻の悲恋をひとつのモチーフにしている。第一部『春の雪』における綾倉聡子と松枝清顕の恋、そしてそのもつれから物語が錯綜し、聡子が洞院宮治典王との縁談に勅許が下ることで、禁断の愛へと転化するのだ。ふたりは逢瀬をかさね、堕胎ののちに聡子は出家を決意する。

三島は作品のモチーフを『浜中納言物語』としているが、サブモチーフには加賀前田家における悲恋、島津藩西郷家における悲恋譚を取材している。そして自身のモチーフとして、正田美智子(上皇太后)との縁談があった。

そして作品中の月修寺を取材するために、山本静山尼が門跡をつとめる円照寺を訪れたのだ。(つづく)

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眞子内親王は「国民」ではない! ── 生身の人間を「象徴」にする矛盾こそが、天皇制を崩壊させる 横山茂彦

11月の秋篠宮(皇嗣殿下)が「長女(眞子内親王)の結婚について、それを認めるのは憲法にもあり、親としても認めるべき」という発言によって、眞子内親王と小室圭氏の婚姻は事実上、皇室によって認められた。

と同時に、週刊誌による小室母子バッシングが百家争鳴といったありさまだ。小室家はけしからん、眞子さま(300円カレー、旧型パソコン)にくらべても贅沢(キャビアのパスタ)をしている。ほかにも900万円の借金がある。三菱東京UFJ銀行勤務時代に、書類の紛失を女性行員の責任にした。はては、眞子内親王の「秘密」を知っている(暴露する可能性がある)などと。

ここにこそ、生身の個人を「象徴」にいただく憲法第1条、戦後天皇制の矛盾が露呈し始めたというべきであろう。

かつて、眞子内親王と小室圭氏の婚約話が俎上にのぼったとき、宮内庁は以下の祝辞を、そのホームページに掲載したものだ。

「小室圭氏は、眞子内親王殿下のご結婚の相手にふさわしい誠に立派な方であり、本日お二方のご婚約がご内定になりましたことは、私どもにとりましても喜びに堪えないところでございます。この度のご婚約ご内定に当たり、お二方の末永いお幸せをお祈りいたします」

ところが今、宮内庁は定例記者会見で、小室圭氏に対して異例の「苦言」を呈しているのだ(西村泰彦長官、12月10日)。

「ご結婚に向けて説明をしていくことにより、批判に対して答えていけることになるのではないか」「説明責任を果たすべき方が果たしていくことが極めて重要だ」

この発言自体は、秋篠宮が11月の会見で、「実際に結婚するという段階になったら、もちろん、今までの経緯とかそういうことも含めてきちんと話すということは、私は大事なことだと思っています」と小室氏に説明を求めたことを、補完するものといえよう。

しかし、2017年の婚約内定まで、5年間という長い春をへてきた二人にとって、母親の借金問題(400万円)が、青天の霹靂であったことは自明であろう。本人ではなく母親の過去をほじくり出され、借金を背負った家庭の子は結婚できない、ということにほかならない。

いや、皇族の結婚は「普通の家庭」の問題ではない。と、天皇制を護持する人々は言う。そうであるならば、皇族は国民ではなく、したがって恋愛の自由はないのだと明言すればよいではないか。自民党の天皇制護持派は、実際にそう明言している。


◎[参考動画]宮内庁長官「小室さん側が説明責任果たすべき」(ANN 2020年12月10日)

◆やはり国民ではない皇族

こんどは自民党、伊吹文明元衆議院議長の「苦言」である。

「(秋篠宮の)父親としての娘に対する愛情と、皇嗣という者のお子様である者にかかってくるノブレス・オブリージュ(高貴な者の義務)としての行動と両方の間の、相剋のような、つらい立場に皇嗣殿下(秋篠宮)はあられるんだなと思った」
などと、秋篠宮の「苦渋」をおもんぱかりながら。かえす刀で、小室氏に「苦言」を呈するのだ。

「小室さんは週刊誌にいろいろ書かれる前に、やはり皇嗣殿下がおっしゃってるようなご説明を国民にしっかりとされて、そして国民の祝福の上に、ご結婚にならないといけないんじゃないか」

さらに伊吹文明は、法律論に踏み込んで、二人の結婚そのものに疑義をとなえる。
「国民の要件を定めている法律からすると、皇族方は、人間であられて、そして、大和民族・日本民族の1人であられて、さらに、日本国と日本国民の統合の象徴というお立場であるが、法律的には日本国民ではあられない」

皇族は日本人であるが、国民ではないと明言するのだ。だが、皇族が国民ではないことと、国民としての権利がないことは、果たして同じなのだろうか。

それは投票権や納税の義務などという、付加的な権利義務関係ではない。人間としての生存権にかかる婚姻。すなわち人間の尊厳にかかわることなのである。それをもって、憲法は国民の権利を「基本的人権」として、第一義に謳っているのだ。国民ではない者は、それでは人間ではないのか、と問い返してみることだ。

「眞子さまと小室圭さんの結婚等について、結婚は両性の合意であるとか、幸福の追求は基本的な権利であるとかいうことをマスコミがいろいろ書いているが、法的にはちょっと違う」

よくぞ言った、と評価しておこう。皇族には人間的な尊厳や基本的人権はない、と言っているのにひとしい。伊吹文明において、皇族は人間ではないのだ。


◎[参考動画]伊吹元衆院議長が小室圭さんに異例の苦言(FNN 2020年12月3日)

◆納采の儀と1億4000万円問題

けっきょく、秋篠宮の「婚約と結婚はちがいますから」という暗喩によって、宮内庁および自民党は小室家にたいして、謝金をチャラにしないと1億4000万円の一時金はとんでもない、と世論に訴えているのだ。国民的な合意が得られない、税金を使うのだから。という理屈で、象徴天皇制の矛盾を取り繕う。国民が祝福しない(と思う人によって)、その婚姻は不可能とされる。そんな人道にもとる不合理、人権侵害があるだろうか?

これまでに、皇籍離脱による一時金1億5000万円前後が、支払われなかった前例はない。じつは上記の秋篠宮発言も、単に婚約(納采の儀)と結婚という段階を追ってのものである。そこを見誤ると、とんでもない事態が生起するだろう。

眞子内親王において自主的に皇籍離脱して、恋のためにすべてを捨てる。ふたりが、いわば駆け落ち的な婚姻に至った場合、もはや皇室典範も象徴天皇制もガタガタになってしまう。一時金が宙に浮くはずはないのだから、祝福しない国民は皇室に「No!」を突き付けるのだろうか。今回の婚約問題は、そこまで根底的な内容をはらんでいるのだ。

かつて、大正天皇は女官(実質的な側室)を遠ざけ、昭和天皇は女官制度そのものを廃止した。そして平成天皇は「自由恋愛形式」の婚姻をして、教育も核家族的なもの(宮中にて皇子傅育)を採用した。秋篠宮に至っては、ほぼ出来ちゃった婚で、兄よりも先に結婚という暴挙。令和天皇もまた、自分の意志を貫いてエリート官僚と結婚した。男性皇族においては三笠宮寬仁親王のごとく、皇族としての制約を嫌って皇籍離脱発言した人物もいる。

いまや皇室の民主化・自由化が果てしなく旧来の天皇制を掘り崩し、新たな別物に変貌してゆくことを、国民的な議論をつうじて実現できる可能性が高まってきたと、結論しておこう。


◎[参考動画]「皇女」とは…皇室研究者に聞く(テレビ東京 2020年12月11日)

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

月刊『紙の爆弾』2021年1月号 菅首相を動かす「影の総理大臣」他
渾身の一冊!『一九七〇年 端境期の時代』(紙の爆弾12月号増刊)
鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

《スクープ》宮内庁職員も困惑する皇室結婚騒動の本音!

皇室の某女性が民間人の男性と結婚したいと、意向を明らかにしている。それに関しては一部報道で皇室から離脱するにあたり「持参金1億5,000万円」との報道もなされている。

そこで、一番身近にいる公務員である宮内庁へその内情を電話で取材した。

◆正直に回答してくれる宮内庁職員

宮内庁 はい、こちら宮内庁でございます。
佐野  恐れ入ります。今、ご結婚を予定されていらっしゃいます何とか様の一時金についてお尋ねをしたいのですが。
宮内庁 ちょっとお待ちくださいませ。
宮内庁 宮内庁でございます。
佐野  宮内庁のどちらの部署の方になりますでしょうか?
宮内庁 宮内庁の秘書課になりますが。
佐野  お名前をお尋ねしてもよろしゅうございますでしょうか。
宮内庁 ○○○○と言います。
佐野  恐れ入ります。教えていただきたいのですが、これは報道で見たのですけれども、今結婚を予定されている……
宮内庁 眞子内親王殿下と小室圭さんですね。
佐野  持参金というか……
宮内庁 皇室を離れるにあたっての一時金でしょうかね。
佐野  はい。それが一億いくら……
宮内庁 これは実際には皇室を離れることが決まった段階で、皇室経済会議というものが開かれましてそれで額も確定されるというような状況です。
佐野  前にですね……
宮内庁 黒田清子様ですね。
佐野  その時はおいくら…
宮内庁 1億5,000万円です。要は、皇族費という定額が3,050万円というものがあって、あとは皇族の身分を離れる方がどういうお立場かによって額が前後する。例えば、内親王なのか簡単に言えば女王なのか、天皇への近さによって違うわけです。
佐野  遠ければ、皇族でももっと額の安い方もいらっしゃる。
宮内庁 一番近い所では高円宮内庁様の三女絢子女王という方が守谷慧という方とご結婚されましたけれど、その方の時にはもっと少ない。あの方は女王というお立場なんですね。内親王ではなくて女王。これは天皇からの近さですね、何親等という、天皇から四親等以下(三親等以下の言い間違い?:取材者)は王、女王とするということがあるものですから。
佐野  それが適応されるのは何親等までなんですか。
宮内庁 皇族はみんな適応されます。そもそも皇族であれば皇族を離れる時には。皇族を離れるというのは基本女性皇族ですよね。


◎[参考動画]眞子さま「結婚」再延期を発表 小室圭さんと意思は変わらず(FNN 2020/11/13)

◆皇室でLGBTが発生したら!? 快活に笑って答えてもらった

佐野  仮に皇族で同性愛の方がいたら、皇族を離れるとなったら今の時代、ややこしね。
宮内庁 ああ、今は想定されてないんで。そういうことが実際にあれば考えなきゃいけないんでしょうけれど。
佐野  皇族で同性愛になったらちょっと困るね、宮内庁さんもね。
宮内庁 ハハハ、宮内庁なのか政府なのか。
佐野  ヨーロッパとかではあるじゃないですか、結構。
宮内庁 そうですね。普通にあるって言ったらおかしいですけれどね。
佐野  普通にあるって言ったらおかしいけれど、ないわけじゃないから。その時になって、この人と結婚認めるか認めないかといったら、またややこしい話になりますね。
宮内庁 そうですね。

◆祝福されない結婚と認識している宮内庁職員

佐野  ごめんなさい。お尋ねしたかったのはですね、額は結婚が決まった後に皇室経済会議で決まる。いずれにしてもそれは歳費から出されるわけですね。
宮内庁 国家予算ですね。
佐野  その国家予算から支出される根拠というのは皇室典範なんですか?
宮内庁 皇室経済法です。皇室経済法があって経済法施行法というのがあります。
佐野  週刊誌程度の知識しかないんですけれど、こういう人にお金を持っていってもいいのかしら。
宮内庁 こういう前例というのも変ですけれど、普通は皆さん祝福されてですね……
佐野  だいたい言っては何ですけれど、家柄もいい方が、宮内庁さんとも齟齬なくですね。
宮内庁 良好な関係とでも言いますかね。
佐野  皆さんが「よかったですね」というようなことが。
宮内庁 はい。
佐野  しかも一時金の中には「品位を保つために」という文言がありますね。
宮内庁 皇族であった者が皇族を離れたあとに品位保持のためにとなっています。
佐野  法律の文言なんですね。これは普通の人間にはちょっと理解しにくい概念ですね。
宮内庁 それはあるかもしれませんね。
佐野  貧乏人でも頑張ってる人もいっぱいいるわけですよね。その人たちに品位があるかないかということはわからないですけれども、品位を付けようと思ったらお金が必要だということが根拠になってお金が出るわけでしょ。ということは、お金がない人間は品位が保てないということの逆説的な意味も包含しますよね。
宮内庁 うーん。
佐野  品位があろうがなかろうが、もう別にいいんじゃないですか?結婚されたあと。
宮内庁 ふふふ、まぁそうですけれど。私がどうのこうのと言うことじゃないですけれど。
佐野  私は一納税者として申し上げているんですけれども、彼ら彼女らの品位のために私の税金が使われるということにはちょっとこれ違和感を感じざるを得ないですよね。
宮内庁 なるほど。はい。


◎[参考動画]秋篠宮さま 眞子さまの結婚「認める」(ANN 2020/11/30)

◆1億5,000万円出費への疑問に、同意する!宮内庁職員

佐野  だって結婚後の品位を保つために税金で保証してもらえる人なんてどこにもいないでしょ、皇族以外は。
宮内庁 そうですね。
佐野  私は品位のない人間だと自分で思ってますから、もうちょっと品位のある人間になりたいなと日々努力しています。こういうケースで、額がどうかはわからないけれど、1億5,000万って庶民にとっては小さな額ではない。今、電話でご担当いただいている方にしたってね。
宮内庁 当然当然そうです、はい。
佐野  で相手はあれでしょ、お母ちゃんが訳わからない、髪の毛を茶色く染めて、金を詐取してるかどうかわからないような、そういう相手の所に税金持ってくかもわからないという話でしょ、簡単に言ったら。
宮内庁 はい。
佐野  これ、宮内庁さんも困ってるんじゃないの?
宮内庁 私なんかはこうやって皆さんからの意見を伺って、上にあげている立場なんですが、実際に今回のことについての宮内庁の公式な見解は何なんですかと言われても、あんまりはっきり出てこないというか、われわれも聞かされていない。
佐野  出せないからでしょう。
宮内庁 まぁそういうことなんでしょうかね。
佐野  そんなに簡単に認められると逆に肩透かしなんですけれど(笑)。

◆「正直言ってうちの役所ってわかりにくいんです」

宮内庁 正直言ってうちの役所ってそういうところがあってなかなかわかりにくいんですね、こういうことが起きても。われわれこうやって電話を受けていますけれども、なかなか質問に答えられる材料がないんですよね、正直に言いましてね。
佐野  ちなみに宮内庁の職員の方というのは、公務員試験を受けて?
宮内庁 はい、公務員試験を受けてです。
佐野  一般の省庁ですと自分が志望したり、省庁の方から引っ張られたりということがあると思うんですけれど。
宮内庁 合格者名簿に名前が載って、自分が志望したり役所から声が掛かったりということです。
佐野  やはり他の省庁と同じなんですね。
宮内庁 私なんかは昔でいう初級試験、今だったら三種ですかね。だいたいうちの役所は変わっているところは、課長とか部長とか上の人たちは各省庁からの出向の方が多くて、プロパーの人は少ないんです。ちょっと特異な所ですよね。天皇陛下とかのお側付きの侍従とかっていうのも各省庁からの出向となっています。
佐野  侍従という方とか宮内庁内にいらっしゃる方は公務員の方もいらっしゃるけど、そうじゃなくてずっと家柄で継いでらっしゃる方もいらっしゃるでしょ。
宮内庁 そういう人は今はもうあまりいないですね。侍従っていうのは特別職で。
佐野  侍従はそうだけれども、侍従ではなくてお側でお世話なさる方、特に女性でお世話なさる方というのは?

◆縁故採用はいまでもある!

宮内庁 例えば侍従に対応する女性の女官というのがおりまして、この辺は縁故採用みたいな、女官は侍従と同じで特別職なんですね。あと、奥の女性職員、こういう職名は今はあまり外に対しては使わないんですが、女嬬とか雑仕とかこういう職員が身の回りのお部屋のお掃除をしたり洗濯をしたりという人はいますね。
佐野  そういう方は一般の試験で入ってくるわけではなく、ずっとお家柄で繋がっていたりとか。
宮内庁 いや、今はそうでもないですよね。あとは宮内庁中三殿という皇室の宮内庁中祭祀を司っている場所があるんです。これは皇室の私的な行為として今はなさっているのですが、そこに勤めている、例えば掌典であるとか女性の内掌典という、こういう人は公務員ではなくて、例えば天皇家のポケットマネーというんでしょうか、内廷費というのが年額で支給されているのですが、そういうところからその人たちの給与は支払われている。
佐野  そうですね。それは言ってみたら、向こう側の世界みたいなところがあるわけですよね。
宮内庁 そうですね。ちょっとわれわれとは全く違う世界です。
佐野  知りえないと言うことはないけれど、ちょっと違うルールで動いているところがあるわけですよね。
宮内庁 はい、そうです。
佐野  ありがとうございます。1億5,000万円というのはまだ決まってはいないけれども……。
宮内庁 これまでの慣例でだいたいこのくらいとか、たしか1億4千万円と書いている紙面もあったと思いますけれども、それは何かというと清子様の1割引きで1億4千万みたいなことを言われている。
佐野  1割引き、魚屋の閉店直前の割引みたいな言い方やね。
宮内庁 へへへへへ、それはですね、清子様は結婚する時に、平成の、ですから今の上皇様のお子様だった。眞子さまは秋篠宮内庁様のお子様であって、今の天皇は伯父様であって、そこらへんの違いで1割引きになるんじゃなかという、そういう判断です。
佐野  私は強い批判をしようと思ってお電話しているわけではなくて、教えていただこうと思ってお電話しているのですが、結構うるさい電話が掛かってくるんじゃないでしょうか。
宮内庁 はい。さっきもお宅様がおっしゃったように、小室さんの側にいろいろクリアにならない部分がありまして、こういう方の所に国民が納得していないのにどうしても結婚したいって言うんだったら「もう一時金は辞退してください」とか、「一切皇室とか関わらないでください」とか、そういう意見多いですよね。
佐野  そちらの方がむしろ多いということですね。
宮内庁 はい。ああいうお宅が皇室と縁続きになるのは許せないです、とか。要するにこれはずうっと親戚関係みたいなものが続くことになるわけですからね。
佐野  皇室を離れても小室さんという方は、言い方が悪いですが、利用できますもんね。
宮内庁 そうなんです、そういうことも言われるんです。眞子さまが何かの広告塔みたいなことにされて利用されて、金儲けの種にされるんじゃないのかとかですね。
佐野  少なくとも血族関係ではそういう関係ができるわけですからね。
宮内庁 これまでいろいろ週刊誌で言われてることを見てるととても許せないという方が多いですね。
佐野  今たくさん広報でお電話とか苦情とかいろいろあると思うんですけれども、受けていらっしゃって、なかなかお尋ねするのは難しいと思いますが、率直なところどうお考えになりますか、この件につきまして。
宮内庁 これはちょっと私の私見を申し上げるのはちょっとなんとも……。
佐野  お話伺っていると、だいぶ「かなわないな」というようなニュアンスが伝わってくるんですけれど。
宮内庁 これは仕事ですから。これも仕方ないとは思いますけれど、電話くださる方の中にも、単純に怒ってこられるというよりは、皇室のことを慮って、例えば眞子さまのことを心配してとか、そういう方もいらっしゃるので、それは真摯にお伺いしなきゃいけないなと思います。そういう感じはします。
佐野  ただその相手の方が週刊誌だけでなくて、実際金銭問題がまだクリアにならないから、それははっきりしてくださいというようなことを誰がおっしゃっていたのかな。
宮内庁 それは宮内庁の長官ですね。
佐野  宮内庁の長官が言うということは、宮内庁も疑念があるということでしょう。ああいうようなことをおっしゃることはないでしょう。
宮内庁 そういうものを少しでもクリアにしなきゃいけなんじゃないかということだったと私は推測するんですが、長官がおっしゃったことなんでね。
佐野  困ってらっしゃるというのは事実でしょう。大昔の明仁さんが美智子さんと結婚した時には、あんまりそういう話はなかったと思うんですね。
宮内庁 「みっちーブーム」とか。
佐野  テレビが売れたり、そういう感覚は今の話にはなさそうな気がするんですけれども。
宮内庁 それはそういう感じではとてもないと思います。われわれは職員で仕事ですから、淡々とご意見はご意見で伺って、というところですね。
佐野  やっぱり否定的な意見を言ってくる人が多いということですね。
宮内庁 はい、その方が多いです。
佐野  ありがとうございます。お忙しい中お邪魔いたしました。失礼いたします。
宮内庁 いえ、失礼いたします。

誠に誠実かつ正直ご回答いただけた、当該職員に頭の下がる思いである。質疑の内容については読者のご判断に委ねたい。


◎[参考動画]眞子さまと小室圭さん お二人のこれまで(ANN 2020/11/30)

▼佐野 宇(さの・さかい) http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=34

月刊『紙の爆弾』2021年1月号 菅首相を動かす「影の総理大臣」他

天皇制はどこからやって来たのか〈22〉近世・近代の天皇たち ── 1868年の天皇と皇帝 家康がしかけた東武皇帝日光宮

明治元年(1868年)のニューヨークタイムスは「北部日本が新しい帝を選んだので、現在の日本には二人の帝がいる」(10月18日)と報じている。根拠のない報道ではない。この「北部日本」とは言うまでもなく、徳川家主戦派を中心とする奥羽列藩同盟である。

1月の徳川慶喜追討令によって、賊軍とされた徳川家が帝としたのは東武皇帝、すなわち日光輪王寺能久親王(日光宮)だった。天下にふたりの天皇が並び立ったのである。国を二分する勢力が両帝をいただくのは、南北朝時代いらいのことである。

この日光宮能久親王は、伏見宮家の邦家親王の第九子である。日光宮とは、家康存命時の幕府黎明期に、後水尾天皇の第三子・守澄法親王が輪王寺の門跡となっていらい、東叡山寛永寺に従待してきた宮家である。徳川家が朝敵にされた場合のことを考えて、家康は皇室の血脈を確保していたのだ、徳川家の行く末をみすえた家康の深謀遠慮が、かたちの上では実ったことになる。もとは天海大僧正の献策であったという。

当初、日光宮能久親王の役割は、寛永寺に謹慎中の徳川慶喜を助命することだった。3月に官軍が駐屯する駿府におもむいて、東征大総督の有栖川熾仁親王・西郷隆盛らと面談したが、慶喜の助命こそ容れられたが、東征の中止は拒否されている。京都にいき参内する希望も拒否された。

もともと、薩長には徳川家を赦免する気などなかった。孝明天皇が徳川中心の攘夷を構想し、越前の山内容堂が道すじをつくった公議政体(天皇を元首に、徳川家を首班とする連合政権)も、薩長の徳川打倒の念願のまえには形をなさなかった。すでに王政復古のクーデター(小御所会議)が決行され、16歳の天皇や公卿の意志とは無関係に、徳川討伐は進行していたのである。

東北方面ではさしあたり、京都所司代を藩主松平容保が務めていた会津藩、および江戸警護役を務めた庄内藩の処分が問題となった。新撰組(会津藩管理下)および新徴組(庄内藩)の京都・江戸市中での乱暴が問題とされたのだ。そして当然のことながら、東北におけるこの問題の政治調停(仙台藩の斡旋)は不調に終わる。薩長軍には最初から和平の発想はなかったのだ。

たとえば長州の奇兵隊出身の参謀・世良修蔵(もとは周防島の農民)などは、仙台藩主伊達慶邦を罵倒して会津攻めを強要し、そこに交渉の余地はなかった。これを奥羽諸藩の藩士たちは「官軍とは名ばかりで、草賊の酋長である」と評したという。その後、東北諸藩は敵であるという密書が見つかったことから、世良は仙台藩士に斬殺されている。それというのも、わが国に共通語のなかった当時のことである。長州人と東北人の交渉ごとでは、ほとんど会話にならなかったのではないかと推察される。

いずれにしても薩長の会津征伐は既定方針であり、調停に行き詰まった奥羽各藩は4月にいたって建白書と盟約書を起草し、5月には31藩からなる奥羽越列藩同盟が成立した。東北地方がまるっと、新政府に叛旗をひるがえしたのである。追い詰められた鼠が、猫に牙を剥いたのである。

そのころ日光宮能久親王は江戸にあって、薩長軍と彰義隊(幕府残党)の上野戦争をまぢかに観戦していた。合戦は十時間ほどで彰義隊の敗北となり、いよいよ寛永寺の黒門が破られる。薩長軍が乱入するその寸前に、日光宮は浅草にのがれていた。その後、幕府軍艦の長鯨丸で仙台にいたり、「御所」のある白石城に入った。
仙台藩士の佐藤信(赤痢菌発見者・志賀潔の実父)が記録した「戊辰紀事」には「錦旗を青天に飄し、仇討ちし恥辱をそそぎすみやかに仏敵、朝敵を退治したいと思う」との、日光宮の書き置きが記されている。

◆なぜ天皇ではなく、皇帝だったのか

日光宮が皇帝として即位したのは、この年の6月15日である。家康の思惑どおり、徳川家を護る帝となったのである。

「東武皇帝閣僚名簿」には「東武皇帝諱睦運(むつとき)」とある。即位とともに、元号は「慶応四年(明治元年)」から「大政元年」に改元された。これらの史実は「蜂須賀家史料」「旧仙台藩士資料」「菊池容斎史料」などに明らかで、法制史家の瀧川政二郎(法博)が最初に発表したものである(昭和25年「日本歴史解禁」)。

日光宮東武皇帝は7月に入ると、「世情静謐天下泰平」の祈祷をおこない、仙台城で令旨を発する。

「賊は久しく兇悪を懐き残暴をほしいままにしている。大義を明らかにして、これを遠近の各方面に説いて回り、あらゆる力を尽くし、速やかに兇逆の主魁を滅ぼし、それをもって上は幼主の憂悩を解放し、下は百姓の塗炭を救うべきである」などと。

しかるに令旨には「幼主」とあり、奥羽越公議府が「日光宮は今上の叔父である」と海外諸国への令旨で公言したとおり、正統の帝を名乗ってはいない。皇帝として皇位を主張するならば、京都の帝(明治天皇)は廃帝とするべきではなかったか。

奥羽越列藩同盟が瓦解への道をあゆむのは、この不徹底によるものだった。令旨が発せられた7月には、はやくも秋田藩が同盟から脱落した。もともと秋田藩は関ヶ原の合戦において、上杉氏に内応していた疑いから、茨城の地から移封された佐竹氏である。薩長両藩とおなじく、徳川打倒の念願がその底流にあった。

秋田藩兵が仙台勢を襲撃した翌日には、弘前藩が同盟から離脱した。8月に入ると、仙台藩の内部も「抗戦派」と「降伏派」に分裂し、九月にはあっけなく降伏した。徹底抗戦した会津若松城も九月には落城。月末までには、優勢だった庄内藩も降伏した。

北白川宮能久親王

さて、東武皇帝はどうなったか。彼は京都伏見宮邸に謹慎させられていた。翌々年、罪をゆるされてドイツに留学。帰朝ののちは、亡き弟が継いでいた北白川宮を相続し、北白川宮能久親王として新政府に迎えられた。宮様将軍である。明治28年には台湾におもむき、台湾征討近衛師団を指揮したが、マラリアを罹患して薨去、享年48であった。贈陸軍大将。

それにしても、いったんは皇帝を名乗り令旨を発した者に、何とも寛大な処置である。同時代の世界では、67年にメキシコ皇帝マキシミリアン一世が、軍の反乱で銃殺されている。68年にはスペイン女王イザベル二世が、やはり軍部の反乱でフランスに亡命。レオポルト・ホーフェンツォレルコのスペイン王位継承をめぐり、プロイセンとナポレオン三世が対立し、70年に普仏戦争に発展している。ために、ルイ・ボナパルト(ナポレオン三世)はプロイセン軍の捕虜になっている。

ヨーロッパ・ハプスブルク家の王権支配をめぐって、あるいはパリコミューンのプロレタリア革命の胎動によって、かの地は激動期を迎えていたのだ。アメリカもまた、血で血を洗う南北戦争のさなかだった。

ところが、日本では旧政権たる徳川慶喜は殺されなかったし、徳川家にくみした東武皇帝も朝廷に迎え入れられたのだ。なんと穏和的で、親和性のある政治風土であろうか。ただし、下々の者たちが悲惨な末期をあゆんだのは史実である。明治維新が「血の革命」であるのは、まごうことなき事実だ。

ところで、孝明天皇に暗殺説があるように、幕末のわが朝の政局も穏やかならぬシーンをくぐっている。明治天皇が殺されたという説があるのをご存知だろうか。歴史マニアでも一笑に付せないのが、この暗殺説の厄介なところだ。

◎[カテゴリー・リンク]天皇制はどこからやって来たのか

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

月刊『紙の爆弾』2021年1月号 菅首相を動かす「影の総理大臣」他
渾身の一冊!『一九七〇年 端境期の時代』(紙の爆弾12月号増刊)
鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

部落差別とは何なのか 部落の起源および近代における差別構造〈後編〉

◆三位一体論と部落解放運動

前回(11月12日)は被差別部落の起源をめぐる、井上清の功績とその後あきらかになった部落前史(古代・中世)を探究してみた。さまざまな職種の流民のほか、朝廷に結び付いていた職人集団の姿も明らかになった。それはしかし、近代の部落差別といかに結びついているのだろうか。

井上清の近代史における功績は、部落差別の根拠を明らかにした「三位一体論」であろう。部落差別は「身分」「職業」「地域」という、三つの要件で構成されているというものだ。

まずは身分である。明治4年(1871)の太政官布告(解放令=「穢多非人ノ称ヲ廃シ身分職業共平民同様トス」)で穢多解放が行なわれた。しかし百姓層の反発が大きく、明治政府は「新市民」という属性を戸籍(明治5年の壬申戸籍=現在は閲覧不可)に記すことで、身分制を温存したのである。

これらの史実から、差別意識は権力の恣意性だけではなく、民衆の意識にこそ根ざすものだといえよう。人間は差別をしたがる動物なのだ。明治中期の戸籍から「新市民」という属性は取り払われたが、在地の固定性において差別はながらく温存される。

つぎに職業である。部落民の職業は屠殺業や精肉販売業、皮革産業などに集中的で、とくに屠殺業が職業差別を受けてきた。屠殺はもともと、自家消費として各家庭でも行なわれていた(公道で死んだ牛馬を解体する権利が、穢多の特権だった)が、近代において産業化されたことで、部落差別とは相対的に独自の職業差別となっていく。すなわち屠場労働者への差別である。しかるに職業差別は清掃労働者に対するものなどもあり、これらと部落差別を同一線上で理解するのは誤りである。あくまでも部落差別は、身分差別であるとここでは指摘しておこう。

最後は地域である。部落民はその血統においてではなく、地域そのものが差別の対象になっている。70年代後半に「特殊部落地名総鑑」という書物が出版され、部落解放同盟はきびしくこれを糾弾した。部落民が自身を被差別部落出身であると宣言する「部落民宣言」は、差別に対する血の叫びとして尊重されなければならない。

そのいっぽうで、部落出身者の出自をあばくことは明確な差別行為である。同和地区が近代化され、公共住宅の家賃が極端に抑えられることなどから混住化が進んでいる。そこから部落の「解消」がもたらされるわけだが、だからこそ出自を掘り繰り返す差別も後を絶たないのである。

いずれにしても、職業や地域差による「貧困」が同和行政で「解消」されても、国民の意識の中に身分差別が温存されているかぎり、部落差別はなくならない。そうであればこそ、あらゆる機会をとらえて差別行為や差別を助長する言辞を告発し、部落差別の本質(人為性)を認識すること。そして糾弾する※ことで、社会に人権意識を広めてゆく。部落解放運動の基本はこれである。まずはここを押さえた上で、部落問題を考えていかなければならない。※糾弾権は部落民に固有の権利である。

◆表現の自由と差別

差別が表象するのは、出版・報道などの言語空間においてである。編集者や著者がナーバスになる分野といえるかもしれない。

必要なのは上述したとおり、部落差別が歴史的に形成された謂れのない差別であり、重大な人権侵害であることの認識である。そしてそれは、けっして隠蔽するようなものではなく、イデオロギー闘争として差別意識を克服する必要があることが強調されなければならない。日本のような差別的な社会の反映として、部落差別・差別意識は再生産されるからだ。

したがって、単に差別語を「使わなければよい」ということでは、けっしてないのだ。むしろ差別を助長させる言葉が文脈に顕われるのを契機に、差別と向かい合うことが肝要なのである。だから記事の文章表現においても、部落差別を想起させる言葉の使用があっても、それが部落解放の視点に立っているかどうか、ということになる。たいせつなのは「視点」であり、被差別大衆に寄り添う態度・思想である。

差別にかかわる文言を「使用禁止用語」などとして、内容を抜きに回避することこそ、差別問題を聖域化することで温存するものと言わねばならない。

◆近代における差別の構造

わたしは「日本のような差別的な社会の反映として、部落差別・差別意識は再生産される」と明確に書いた。現在ではレイシズムとして在日外国人へのヘイトクライムが横行し、コロナ禍においては感染者や医療関係者への差別、不寛容な排除の言説が行なわれている。

一部の保守派は「日本の民度は高い」などと自賛するが、これら差別の蔓延は日本社会があいかわらず、差別社会であることを冷厳に物語っているのだ。近代合理主義の定着が遅れた日本においてこそ、差別の因習は甚だしく残存しているという見方もできる。

たとえば、文化人類学的な視野から日本人は農耕社会であるがゆえに、共同体の横並び意識がある。したがって、異物や異化されたものを賤視する。あるいは劣った者を異化することで、横並びの選別意識を持っているなどと、その差別意識が解説されることがある。かならずしも間違いではないが、近代の資本制は地域共同体をほぼ解体し、その代わりに経済における差別の構造をもたらしたのだ。アトム化された諸個人においてなお、差別意識は払しょくできていない事実があるのだ。

その意味では、部落差別を封建遺制にすぎないとする安直さは批判されてしかるべきである。とりわけ、近代化と経済的な均等化において解消される、とする日本共産党の立場は決定的に誤っているといえよう。

なぜならば、部落差別ほかのあらゆる差別が景気の安全弁として機能するからだ。季節工や派遣労働者の使い捨てが、安倍政権のもとで激的に増した格差の増大を思い起こしてほしい。現代に残された部落差別は結婚差別だとされるが、経済における差別の再生産も甚だしいものがある。

部落差別および部落民の存在を経済学用語では、景気循環における相対的過剰人口の停滞的形態という。以下に、わかりやすく解説しよう。

◆競争と排除が生み出す差別

同和対策審議会答申にもとづく同和対策事業特別措置法、およびそれを継承した地域改善対策特別措置法が2002年に終了し、被差別部落をとりまく経済的環境は改善したとされる。冒頭の節で述べたとおり、同和地区における公共住宅の賃貸料の逓減による混住が進んだ。公共工事における同和対策事業枠によって、部落出身の事業者の優遇や、事業そのものによる地域環境の改善が行なわれてきた。

しかしその一方で、隠然たる差別が土木建設関連業や回収業などで行なわれているのも事実だ。そのひとつが警察による「暴力団排除条例」である。土木建設業界が暴力団組織と密接な関係にあるのは、公共事業における地元対策費(予算外の予算)によるものだが、暴力団のフロント企業と分かちがたい業者の中には部落出身者のものも少なくない。これらを一括りに排除することで、部落民の中小企業が排除される。じつは暴排条例そのものが暴力団の排除を謳いながら、同和対策事業つぶしを狙ったものでもあるのだ。

そして景気の低迷は業者間の競争を生み、競争者たちが「あのオヤジのとこは同和でっせ」と情報を流すことで、部落出身者たちを排除する。これも隠然たる差別であろう。景気循環が排除しやすい人々を競争において差別し、資本の超過利潤を生みだす労働力として、好況期には労働市場に取り込む。資本の運動は差別を必要としているのだ。

◆結婚差別および「部落の解消」

最後は問題提起である。

21世紀まで残された差別の典型として、結婚差別があるとされている。被差別地域を出てもなお、部落出身者であることを暴露される。意識的に差別を助長している人々が存在する※のも事実である。※鳥取ループなど。

それにしても、個人の血統血脈において部落出身者であることは、子々孫々まで束縛されるのだろうか。同和対策特措法が終了し、人権擁護法がそれに代わってからも、部落問題が終了したわけではない。部落出身者は部落を出てからも、出身者として差別されなければならないのだろうか。

そんな疑問を提起したのは、橋下徹元大阪(元市長)府知事の存在である。橋下氏(東京生まれ)の実家は自身が広言しているとおり東大阪八尾市の出身であり、大阪市淀川区に転じてからも同和地区で育った人だ。その橋下氏の職業は弁護士であり、出身地域から転出している。これをもって、彼の中から部落は「解消した」とは言えないだろうか。井上清の三位一体説でいえば、もはや部落差別の根拠は成立しない。

八尾市に近い同和地区で、その部落出身の娘さんが結婚差別によって自殺に追い込まれたという。その部落は同和事業対象地域(諸税の減免・公共施設の優遇・住宅料金の減免など)であることを行政に返上し、それをもって被差別部落であることを「解消」したのである。※これは筆者が現地取材で知ったことだ。

同和事業によって職業差別がなくなり、経済環境がととのった地域からも転出したのであれば、残された差別は「血統」「血脈」ということになる。この血のつながりを差別の根拠にするのは、もはや執拗な差別主義というほかにないだろう。そうであるならば部落の「解消権」というものが、果たして積極的に存在するべきなのだろうか。これが現在の疑問である。(終わり)

◎部落差別とは何なのか 部落の起源および近代における差別構造
〈前編〉  〈後編〉

◎参考URL 部落問題資料室(部落解放同盟中央本部HP)

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)

編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。医科学系の著書・共著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)『ホントに効くのかアガリスク』(鹿砦社)『走って直すガン』(徳間書店)『新ガン治療のウソと10年寿命を長くする本当の癌治療』(双葉社)『ガンになりにくい食生活』(鹿砦社ライブラリー)など。

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