松岡利康
私が学生の頃は京都府綴喜郡田辺町と言っていて何もない所でした。一度合宿の帰りにみなと行ったことがありましたが、草ぼうぼうで学生の反対を懸念し工事は中断し、ブルドーザーは放置され、ここに本当に大学を造るのか、と思った次第です。
当時(1971年秋)、学費値上げ問題が起き、われわれは、「学費値上げ実力阻止! 田辺町移転・大同志社5万人構想粉砕!」を叫び約150人の検挙、50名ほどの逮捕者、10名の起訴者(裁判所も意外にもわれわれに同情的で、1名無罪。9名、執行猶予付きの微罪)を出しながら、まさに実力闘争で体を張って必死に抵抗しました。後にも先にも同志社でこれほどの闘争も、これに対する弾圧もありませんでした。69年の封鎖解除では、抵抗はあったものの徹底抗戦せず逮捕者ゼロ。同大今出川キャンパスの中央に明徳館という建物があるのですが、この屋上に風で吹き飛ぶような砦をこしらえ立て籠り逮捕されたものでした(1972年2・1学費決戦)。
この学費値上げには教職員も異議を申し立て、当時の学生課長・河野仁昭さんは部下と共に強く抗議されました。河野さんは詩人でもありましたが、その後、社史編纂資料室に左遷されました。ところが、河野さんはその後『同志社百年史』の編纂にあたられ、その中で紛争時の詳細な記述を掲載され、まさに意趣返しされました。当時は、こういう教職員もおられました。今はどうでしょうか?
その後、学費は、スライド制も採られ、田辺移転の資本蓄積もしないといけないわけですから、どんどん上がり続けました。学生や教職員らはどうしてきたのでしょうか? どれだけ身を挺して抗議したのでしょうか? われわれのような学生、河野さんのような教職員はいなかったのでしょうか?
あれから50年余り経ちました。そうした屍を越えて同大京田辺キャンパスは開設されたのでした。なので、田辺に行くのには、当初抵抗がなかったわけではありませんでしたが、まあ、どんなキャンパスか見てみるのもいいかと割り切って行きました。
5万人構想はどうなったのか? 当時の学生数は約2万弱、現在は3万人弱です。1万人増えているとはいえ、少子化もあってか5万人にはほど遠いですが、学生数が多いからいいというものではないでしょう。当初の計画にあった航空工学部、宇宙工学部はどうなったのか? このかん文系は今出川に回帰しているそうです。じゃあ、なんのための移転だったのか!?
大学の真価とは、キャンパスが広いとか施設が充実しているとか、そんな問題ではないでしょう。今出川の、あの狭いキャンパスに、ランチタイムになれば、どこからか学生が集まりトランス状態になり立看が林立しアジテーションを狭いキャンパスにがなり立てる……懐かしいなあ。
われわれのような尖がった学生がいなくなり、緊張感を失くし、ぬるま湯に漬かって来た大学や法人の首脳、だから国際高校の学生の死、担当教員の自死があっても、血の通った対応ができないのだろう。本当に残念としか言いようがありません。
ちなみに、いささか不謹慎かもしれませんが、先頭で学生デモを弾圧していた機動隊の中隊長は、地位から現場に出なくてもよかったのに集会やデモの日は現場に出ていましたが、田辺に移動になり、学生運動も無くなり牧歌的な情況にポックリ病で亡くなったという、笑うに笑えない噂を耳にしたことがあります。学生街の喫茶店や安酒場もなく、夜遅くまで学生が激論を交わす場もなく、われわれの時代では考えられません。これで本当に良かったのでしょうか?
さて、昨日、オープニングはカオリンズ(内村君は同大出身)のミニライブ、これが終わり西成のライブに発ちました。

講演会、懇親会、さらにはもう1軒、夜遅くまで高橋さん(同大OB)や森松明希子さん(彼女も同大OB)らと語り合いました。
気持ちの良い後輩らと楽しい時間を共有でき幸せでした。またやりたいですね。

