重信房子釈放の3日後、都内某所で行われた「リッダ闘争50周年記念集会」に寄せられた重信房子の「音声」からも、反省の気持ちは全く聞き取れなかっただけでなく、この時期既にウクライナからの避難民を積極的に受け入れている日本政府のダブルスタンダードぶりを告発する意見が述べられていた。

奇しくも同集会に寄せられたリッダ闘争の戦士岡本公三のアピールの中にも、全く同じ文章があった。

「日本では、ウクライナ戦争の避難民を歓迎しているようですが、他の難民はどうなっているのでしょうか。さらに言えばパレスチナの人々は、50年経った今もイスラエルに占領され抑圧されて、苦しい生活を送っています。この問題の解決には、まだまだ私たちみんなの努力がいるでしょう」

両者の主張は多くの日本人の胸を射る。ウクライナから来た人たちは、皆日本人の優しさに救われたと語ったそうだが、その優しさをこれまでパレスチナ人に対して示した日本人が、日本赤軍の戦士たち以外にどれだけいただろうか……と言い切ってしまうと左側の正論として処理されてしまうのが日本の現実である。


◎[参考動画]テルアビブ空港乱射事件から50年 岡本公三容疑者が記念集会参加(2022年5月撮影)


◎[参考動画]リッダ闘争50周年 5.30集会

リッダ闘争に関する日本に定着した「一般論」にも疑問が残る。常に「メディアは真実を伝えていない」と声高に叫び続ける左右の論客も、リッダ闘争の真相に関してはイスラエル側の発表を鵜呑みにしている感がある。

日本赤軍の三戦士が「死んだらオリオンの星になる」との誓いを交わし、決死の覚悟でリッダ空港の管制塔を占拠すべく、空港に到着したところ、情報を入手して待ち受けていたイスラエル軍の兵士たちが一般の乗客もろとも無差別に銃を乱射して多くの死傷者を出してしまったというのが真相だという。

アラブの民衆にとっては、結果的に一般の乗客を巻き添えにしたことよりも、わざわざアジアの東の果てからイスラエルという戦後世界体制の矛盾の集約点に乗り込んで行った日本赤軍の行動に「目醒めさせられた」との感慨を抱いたことの方が重かったようだ。


◎[参考動画]1972 Lod Airport Massacre Revisited

「リッダ空港闘争50年記念日本集会」にPFLPより寄せられたメッセージには、次のように記されていた。

「リッダ闘争の英雄たちは、彼らの血でこの真実に光を灯し、決して素直に聞こうとしない世界に、パレスチナの地で独自の方法で実行することで世界に事実を示し、解放戦士の戦いに否応なく耳を傾けさせた。
 不正義に対する抵抗闘争の象徴を打ち立て、わが民衆を恥じ入らせた(※「恥じ入らせた」に太字)。英雄・岡本公三に敬意を表する」(太字=筆者)。

冒険の人を「恥じ入らせた」ほど画期的な闘争だったのだ。リッダ闘争以後、中東を訪れた日本人は皆アラブの人々から「日本赤軍にはいったい何万人の兵士がいるんだ」と訊かれ、「50人ぐらいかな」と答えると「そんなわけないだろう」と詰問されたという。

とんでもない過大評価だが、そこまで強烈なインパクトを残した闘争を偉業という以外に適切な表現はないだろう。重信房子もリッダ闘争に関しては謝罪していない。天才は常に「善悪の彼岸」にいるのだから。

 

岡本公三(左)とファイティング原田(右)

天才は論じるものではなく
感じるものである。

……そんな結論に私は達してしまった。単なる偶然と言えばそれまでだが、私は初めて岡本公三の顔写真を見た時、ファイティング原田に似ているなと思った。

もう60年前のことだが、若干19歳の身でタイのポーン・キングピッチを破って世界フライ級チャンピオンになった彼こそはまぎれもなく「革命児」だった。打たれても打たれても前へ前へと突き進む笹崎ジムの闘争スタイル自体が、当時としては革命的だったが、未成年にしてその斬新な戦法を完璧に修得したこの男も天才だったと言えるだろう。

ただ容姿が似ているというだけではない。岡本公三にファイティング原田と同じ心意気を感じたと言ったら、ジャンルが違うと笑われるだろうか。岡本公三と共にリッダ闘争に身を投じた奥平剛士(重信房子の夫)が書き残した手記に、彼らの心情が代弁されている。

 奥平剛士
 これが俺の名だ
 まだ何もしていない。
 何もせずに 生きるために
 多くの対価を支払った
 思想的な健全さのために
 別な健全さを浪費しつつあるのだ
 時間との競争にきわどい差をつけつつ
 生にしがみついている
 天よ 我に仕事を与えよ

世の中には極少数の天才と大多数の凡人が存在するのだが「まだ何もしていない」自分を責めるのが天才の特性である。「何かをしなければならない」という使命感によって、彼は凡人であることを拒否し、天に向かって「我に仕事を与えよ」と願う……崇高な理念に殉ずる快感が天才には必要なのである。

それを「傲慢」「特権意識」と批判するのは凡人の自由だし、批判されても仕方がない天才もいることはいる。

20世紀最高の天才は誰かと言えば、私はためらうことなくアドルフ・ヒトラーの名前をあげるのだが、この人を善人だったと思う人は世界中に一人もいない。いたら相当な変質者だろうが、しかしヒトラーやナチスに関する研究書や評伝は戦後70年を過ぎて尚、現在に至るまで夥しい数量出版され続けている。ソックリな俳優を起用した映画も作られていて、これがまたなかなかの優れモノだ。

でもネ。ヒトラーを打ち負かした側の指導者、チャーチルやルーズベルト、スターリンの評伝を、あなたは書店で見かけたことがありますか? そんなもの出したって売れるわけがないことを出版社が承知しているからですよ。

真の勝者は誰だったのか? 歴史って案外粋な判定を下すものだと今は思える。

そして今また山上徹也とかいう人物が元首相の安倍晋三を狙撃死亡させる事件が発生したおかげで、テロリズムが脚光を浴びているようだ。

犯行が選挙期間であったために、野党政治家までが「民主主義の否定だ」「テロはいけない」「暴力はいけない」と心にもないコメントを口にしていた。「安倍一強の長期政権を倒せなかった自分たちにも責任がある」ぐらい言えないのかと思った。

私自身、汚染水の海洋放出がいよいよさし迫っているにもかかわらず、いっこうに原発の問題を争点にしない野党には愛想が尽きて、選挙という国家事業に関心がなくなっていただけに、山上徹也の行為には内心忸怩たる思いを禁じ得なかったのは事実である。

日本赤軍がアラブの民衆を「恥じ入らせた」(「恥じ入らせた」に傍点)と同じ感性的反応の兆しがそこにはある。しかし、私はやはり山上徹也という人物に共感を抱くことは出来なかった。もし、彼が統一協会に家庭を破壊された恨みから凶行に及んだのではなく、福島の原発事故で避難を強いられ、避難先でイジメられた少年時代を過ごしたというトラウマをかかえ、社会からの疎外感に苦しんでいたというなら、民主党が廃炉にすると決めていた原発を「安全基準が満たされれば」という条件つきで再稼働に舵を切った首相を抹殺しようとする気持ちにも、同情の余地はあっただろう。

また、私とて勝共連合には不快な思いをさせられたことが何度もあるし、2・26事件の青年将校が1500名の兵を率いて行った義挙を、たった一人でやり遂げた行動力には脱帽すべきところがあり、長年心の友であったデューク東郷の面影も見えはする。

はっきり言って、これまで私の前で「安倍晋三を殺したい」と言った若者は一人や二人ではない。どこまで本気なのか疑わしい限りだったが、彼等の誰よりも山上徹也にはリアルな存在感があった。動機が忌わしい家庭の事情であったせいだろうか。

逆に三島由紀夫や重信房子から痛烈に感じられた「荒唐無稽」なまでの天才のロマンが全く感じられない。それにしても、やはり、今さら(未だに)重信房子に感じている私って、少しおかしいのかなあ、と正解のない問いを自分に向かって発し続けるしかない真夏の夜の私なのである。


◎[参考動画]安倍元首相銃撃事件 SPに取り押さえられた山上徹也容疑者 2022.7 大和西大寺駅前

◎板坂 剛「何故、今さら重信房子なのか?」〈前編〉
     「何故、今さら重信房子なのか?」〈後編〉
※本稿は季節33号(2022年9月11日発売号)掲載の「何故、今さら重信房子なのか?」を再編集した全2回の後編です。

▼板坂 剛(いたさか ごう)

作家。舞踊家。1948年福岡県生まれ、山口県育ち。日本大学芸術学部在学中に全共闘運動に参画。現在はフラメンコ舞踊家、作家、三島由紀夫研究家。鹿砦社より『三島由紀夫と1970年』(2010年、鈴木邦男との共著)、『三島由紀夫と全共闘の時代』(2013年)、『三島由紀夫は、なぜ昭和天皇を殺さなかったのか』(2017年)、『思い出そう! 1968年を!! 山本義隆と秋田明大の今と昔……』(紙の爆弾2018年12月号増刊)等多数。

〈原発なき社会〉を求めて集う 不屈の〈脱原発〉季刊誌 『季節』2022年冬号(NO NUKES voice改題 通巻34号)

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2023年2月号

◆出所前夜の恐れ

20年という不当に長い刑期を終えて、重信房子が出所する日が近づくにつれ、私の精神状態は少しばかり不安定になっていた。

出所後は「謝罪と療養に専念する」なんて弱気なコメントを本人が口にしているという情報を耳にしてしまったからだ。マスコミを通じて大衆向けに流布された公式見解とは思えば、これは警察にフェイントをかけるニセ情報、と解釈すればすんだ類の話だが、どうもそうではなかったようで、支援者たちから伝わって来るのは重信房子が本音で「謝罪と療養」の余生を過そうとしているという……当惑せざるを得ない「噂の真相」だった。

およそファンの心理として、憧れの対象であるアイドルに「謝罪」なんかされたらイメージダウンどころの騒ぎじゃない。アイドルはファンの絶対的な精神の規範であるべきで、その絶対性をアイドル自らが否定する「謝罪」という行為は、ファンに対する裏切りであるとも言えるのだ。

では、重信房子の「謝罪」が精神的に不安定な状態を作り出すことを恐れた私は、重信房子のファンだったのかと自問すればそうだったとしか言いようがない。ただし隠れファンと言うべきだったかもしれない。

重信房子

「謝罪と療養」発言で逆に自分が彼女のファンであったことに気づかされたような気もしている。ファンの心理はファンでない人たちから見れば子供っぽい過剰な美意識に過ぎないだろうが、実はそこから生じるエネルギーが人間の精神力の中では最も純粋で無限の熱量を秘めていることを、私は既に幾度となく感受している。

思い起こせば1969年2月、東大安田講堂での徹底抗戦に呼応して「神田解放区」の市街戦を貫徹した翌月に、さて母校日大のバリケードは解除され流れ者となったわれら日大全共闘は、お茶の水の明治大学の学生会館の1室に身を寄せていた。その頃の神田駿河台近辺の緊迫した空気が、今懐かしく思い出されるのは、あの当時はまだ無名であった重信房子と、明大周辺の路上や『丘』という学生の溜り場になっていた古風な喫茶店で一度や二度は顔を合わせていたに違いないなんて、後づけの創作的回想に浸ってしまえるからか。


◎[参考動画]神田カルチェ・ラタン闘争 1969年

私が重信房子の存在を知ったのは70年代になって以降ではあったが、当時はもう日本にいなかった重信房子とそれ以前の一時期、同一の地域で別個に活動していたという事実が、記憶に新しい意味を添加さする淡い倒錯に導く。その偏向は、やはりファン心理と呼ぶべき現象ではないだろうか。

そんなわけで重信房子が獄中にいる間、私の心の片隅には、もし無事に満期の務めを終えて出所されるならば、願わくば日本赤軍を再結成してもう一度、「世界同時革命」の旗を掲げてほしいと、無責任に勝手な夢想を抱いてしまう欲求が生じては消えていったのだ。

今でこそ、いやずっと以前から「世界同時革命」等「荒唐無稽」な観念の暴走に過ぎないというメディアの押しつけ総括が、1億総保守リベラル化した現代日本の大衆を洗脳してしまったように思えるが、重信房子のアラブでの大活躍が報じられていた頃、日本の若者たちの熱狂的な支持を集めていたロックバンド頭脳警察は『世界革命戦争宣言』『赤軍兵士の歌』『銃をとれ』等々、日本赤軍への共鳴を露骨に表現していた。

『赤軍兵士の歌』はブレヒトの詩をそのまま歌っただけの言わばカヴァー曲だが、あの時期にこんなタイトルの曲を持ち出されたら、どうしても日本赤軍への讃歌としか聞こえなかった。

今、パンタ(頭脳警察のリーダー)がどういう心境であるのかは知らないが、よもやかっての楽曲にこめられた思いを否定するようなコメントを口にするとは考えられない。もちろん20年の獄中闘争を貫徹し、医療刑務所内で数回も癌の手術を受けたという重信房子への評価が変ったとも思えない。かって日本赤軍=重信房子の信奉者であり、自らもロック・バンドを率いてアイドルの立場にいた彼も出獄後の重信房子の「謝罪」を恐れていたのではないかと思われる。

アイドルが「謝罪」したり「反省」したりすることが、かって自分に追従して来た多くのファンを見棄てる「転向」に繋がるのは、ファンとしても辛いところなのだ。
 
◆しかし、重信房子は天才だった!

 

重信房子

私自身は自分が天才であるという自覚を持ったことは一度もないが、天才もしくは天才的人物を認知し、天才が時代の中で果たした役割とその存在意義を解明する慧眼については人後に落ちぬものがあると自負している。

これまで鹿砦社からだけでも、三島由紀夫、アントニオ猪木、X-JAPANのYOSHIKI、あるいは飯島愛、そしてローリング・ストーンズ、ポール・マッカートニー等の評伝やフォト・エッセイ集を出版しまくった。

皆、時代を画期する天才ばかりだった。(約1名を除いて)職業は作家、プロレスラー、ミュージシャン、AV女優と様々だが、単なるエンターテイナーという以上の影響力を大衆の一部に与えることで一定程度の社会的混乱状態を作り出したと言える。

恐らくそれが天才の定義と合致するのだろう。天才とは第一に発想が新鮮であり、第二に時代に対してアンチであり、第三に他人の批判に耳を貸さない強い確信に支えられているというのが私の自論である。

もちろん重信房子はかつてこの天才の定義にぴったりあてはまっていた。そして今は、出所後の重信房子が不安定になっていた私の精神状態を一応安定させてくれたことを報告しておきたい。

刑務所の門前で、重信房子は確かに「謝罪」という言葉を口にした。しかしそこには「50年も前のことではありますが」という前置きがあった。そこから「もう昔のことだから謝罪の必要なんかないんだけども」というニュアンスが伝わって来た。

そして当日は予想通り右翼団体の街宣車が押しかけて、やかましく奏でられる軍歌をバックに「極左テロリスト」「人殺し」等の罵声を浴びせられ、それが逆に重信健在を印象づけたことも否めない。

仮釈放でもないのに「今後も監視し続ける」という警察官僚のコメントも、重信房子御当人を勇気づけたことだろう。少なくとも「長い、長い獄中闘争、本当にお疲れ様でした。しかもそれが、癌との闘いを伴ったのですから、筆舌に尽くせないものだったと拝察します」「出所したばかりの貴方の前には、解決しなければならない問題が山積していることでしょう。まずは、メイさんをはじめ愛する人々の中でゆっくり体を休め、その問題の解決から始めながら、闘いの鋭気を養ってください」(小西隆裕=在ピョンヤン)というような励ましともいたわりとも区別出来ない種のメッセージよりずっと、闘士をかきたてられたはずである。(つづく)


◎日本赤軍・重信房子元最高幹部が出所会見ノーカット(2022年5月28日)

◎板坂 剛「何故、今さら重信房子なのか?」〈前編〉
     「何故、今さら重信房子なのか?」〈後編〉
※本稿は季節33号(2022年9月11日発売号)掲載の「何故、今さら重信房子なのか?」を再編集した全2回の後編です。

▼板坂 剛(いたさか ごう)

作家。舞踊家。1948年福岡県生まれ、山口県育ち。日本大学芸術学部在学中に全共闘運動に参画。現在はフラメンコ舞踊家、作家、三島由紀夫研究家。鹿砦社より『三島由紀夫と1970年』(2010年、鈴木邦男との共著)、『三島由紀夫と全共闘の時代』(2013年)、『三島由紀夫は、なぜ昭和天皇を殺さなかったのか』(2017年)、『思い出そう! 1968年を!! 山本義隆と秋田明大の今と昔……』(紙の爆弾2018年12月号増刊)等多数。

〈原発なき社会〉を求めて集う 不屈の〈脱原発〉季刊誌 『季節』2022年冬号(NO NUKES voice改題 通巻34号)

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2023年2月号

◆“Smoke Gets In Your Eyes”の夜

ビートルズ脳天直撃に始まった17歳の無謀な決心「ならあっちに行ってやる」も「夢見る時代」は私の十代と共に終わった。でも“しあんくれ~る”で燻ってるだけの二十歳、その私の前にポッと現れた「作家志望の詩人」、フランセで「私も跳んでみたいな」ともらした彼女、「思ったより簡単じゃないよ」と応じた私に「簡単じゃないからいいんじゃないですか?」 さらり反問してきた立命文学部女子。

「思案に暮れる」二十歳の空虚の雲間に射し込む一点の陽(ひ)? 心強い「同伴者」出現? いま思えば、そんな出会いだった。

この「ニーナ・シモンの取り持つ奇妙な縁」の翌日、私はいつもの時間帯に“しあんくれ~る”のドアを開けるとすでに「詩人」が私の定番席にご座席。

「昨日はどうも」と彼女、「大丈夫やった?」と声をかける私に「昨夜はご迷惑かけてごめんなさい」ともうふだんの真面目な女子大生風に戻っていた。昨夜の泥酔気味は二日酔いの痕跡もない、この方はつくづくお酒に強い人だと再認識。

昨日の余韻のままに二人でリクエストのニーナ・シモンに聞き惚れた後、店を出るや「私のアパートに行きません?」と誘われた。昨晩、タクシーで送り届けた時に「遅いから泊まっていってもいいですよ」との好意を断った手前もあって「そやね、じゃあ」と彼女の誘いを受けた。

正直言えば、フランセで「跳んでみたいな」と言った彼女に「じゃあ跳んでみる?」とハイミナールを勧めたのが私だったから「泥酔させる目的でドラッグを飲ませた」などと変に誤解されてはと昨晩は「詩人」のせっかくの好意をあえて断った。でも結果的にはそれがよかったのだろう。

途中、夕食代わりの餃子を買ったりして30分ほど歩いたが、彼女の学生アパートは京大のすぐ近くだった。簡単な自炊のできる流しもある6畳余りの部屋には広げればベッドにもなる折り畳み式ソファーがあり、アンプとスピーカー、ターンテーブル各独立、私なぞ「高嶺の花」のトリオ社製小型オーディオセット、レコード立てにはヴォーカル系LP多数、学生下宿というより富裕家庭子女の小綺麗な「お部屋」。

夕食は餃子&彼女が冷蔵庫から取り出したジンと氷でジン・オンザロック。「ハイミナールにお酒はヤバイ、昨日みたいになるよ」と忠告しても「一杯だけならいいでしょ」、酒豪と付き合うのは大変。恵まれて育ったせいか何事にも屈託がない。

簡単な夕食を終えて「詩人」が「ちょっとこれ見ていただけません?」とノート2冊を持ってきた。どうやらこれがアパートに誘った目的らしい。文学門外漢の私はちょっとびびったが、ボブ・ディランの歌詞がいいというくらいはわかる。

ノートに雑然と、しかしきれいな字体で書かれた詩、門外漢が見ても引き込まれる彼女の詩の世界がそこにはあった。「イメージの言語化」、そう彼女の言うノートの詩は難しく考えなくても感覚が自然に反応するような感じ、自分の想いを伝える無駄のない選ばれた日本語が独特のリズムを持って躍っている。

なかでも「ほおっ」と思ったのが“3センチ-あなたとわたしの距離感覚”と題した詩。

彼女の言うには、女性が口吻を受け入れるかどうかの目安、それは「3センチ」という距離、3センチまでの接近を許すということは口吻を受け入れる意思表示。セックスは肉体的欲望のみでも可能だが口吻は違う、それは互いの魂の接近、触れあい、とても素敵な人間的行為なのだというのが彼女の持論、単なる恋情を謳ったものじゃない。「3センチ」という長さの尺度を魂の触れあう人と人との距離感のイメージに換える、そんな「詩人」の言葉の魔力に惚れた。

「なんで口吻は魂なんやろ?」の私の問いに「まあ脳に近いからじゃないんですか」という彼女の即答もカッコイイ、この方はやっぱり「詩人」! そう思った。

「これ詩集にしたらエエんとちがう? ゼッタイいいよ」と迷わず私が言った。当時、新宿などの街頭で手作り自作詩集の立ち売りをやっているのを知っていたから「貴女の詩にはやってみるだけの価値がある」と私は断言した。

「ええっ、ホントですか」……「よお~し跳んでみるかぁ」! 「詩人」の心に火がつき始めた。 

「詩集にイラストを入れよう」と言うと、「えっ、絵が描けるの? そりゃ面白そう」とますます前のめり。

こうして自作詩集の共同制作即決! 

それはなにか行動を渇望していた私には願ってもないことだった。やりたいのは私の方だったのかもしれない。

あの夜、部屋に流れていたプラッターズの歌う「煙が目にしみる」、“Smoke Gets In Your Eyes”という英語歌詞が妙に胸にしっとり沁み入ったことを覚えている。この歌詞の意味するところとは違う意味で「涙がにじみそう」、ちょっと大げさだけれどようやく「長いトンネルを抜け出せる」予感のようなもの、きっとそうだったと思う。

昨日、出会ったばかりなのにトントン拍子に進む思いがけない展開、決してドラッグやお酒の勢いばかりではなかった。「ならあっちに行ってやる」と「跳んでみたいな」の二つの想い、魂の接近!?


◎[参考動画]Platters – Smoke Gets In Your Eyes

◆その名は「仁奈(にな)詩手帖」

ほんの思いつきだったのにもう二人の既成事実になってしまった詩集制作。自主企画、自主制作、自主販売、すべてを自分たちで! 素敵なプロジェクト始動。

「企画立ち上げ」の夜以降は、彼女のアパートが編集会議室兼印刷所になった。

詩集はガリ版印刷とする、ワープロもプリンターもない当時は文字通りの手作り。イラストを入れる以上、青、黒、赤の3色インクのカラフル印刷に。学生運動のアジビラみたいなザラ紙じゃなくアート紙にすべき、A4用紙を半分に折ってきちんと製本する。「貴女の詩は高品質」、だからやるからには最高のものを!

謄写版印刷に必要な機資材は可能な限り立命友人のサークルから借り、不足分は自費購入。「お嬢さん詩人」にお金の心配はない。 

まずはどの詩を採用するか? これは作者自身の選択任せ、私は読者の立場で「いいんじゃない」「う~ん」の反応で選別。表紙のデザインと詩を飾るイラストは私に一任。

肝心要の詩集のタイトルをどうするか? これには二人とも頭をしぼった。

私は「貴女のデビュー作だから貴女の名前を冠するべき、バンドのデビュー・アルバムみたいに」と提案。ところで貴女の名前は何だっけ? その時、互いに名前を知らなかったことに気が付いた。「そういやあそうでしたよねえ」と彼女も笑った。いままで互いに名前も知らずに会話していたことがとても可笑しかった。

 

私の憧れの画家モジリアニの純愛妻、同志であるジャンヌ・エビュテルヌの肖像画

当時“しゃんくれ(しあんくれ~る)”仲間の間では実名、出身、経歴など昼間の世界を無視するポリシーから互いに「呼び名」を通称とした。私は、真ん中分け長髪、ワシ鼻という風貌からアパッチ族の酋長“ジェロニモ”になぞらえて“ジェロさん”が通称だった。貴女もなにか呼び名を考えようとなって思案のあげく「二人を取り持つ縁」のニーナ・シモンにちなんで“ニナさん”に決めた。「カタカナじゃなにか着心地が悪いですね」という「詩人」が考えたのが漢字表記“仁奈さん”。

表紙タイトルは当時、「現代詩手帖」という詩の雑誌名がカッコよかったのでこれを借用して「仁奈詩手帖」はどう? 作者も「うん、いい感じ」でタイトル決定。

表紙を飾る絵は私の憧れの画家モジリアニの純愛妻、同志であるジャンヌ・エビュテルヌさんの肖像画、裏表紙には二人の恩人ニーナ・シモンのアルバム“Nina At The Village Gate”にあるご本人のイラスト画をワンポイントで小さく入れる。

表紙に作者「仁奈」と共にイラスト担当「Jero」の名前併記は彼女の心優しい配慮。

こうして「仁奈詩手帖」編集会議は結束、新しい船出は準備完了。ああでもない、こうでもないと何日も議論に熱中したのは私には久しぶりの快感だった。

◆「新宿が京大にやってきた」作戦

印刷、製本作業をやるのに私はイラストのモデル用にモジリアニ画集とトリオの高音質オーディオセットで聴くためのロック系レコードを部屋に持ち込んだ。「詩人」は「ボブ・ディランがいいですね」と“朝日のあたる家”や“Like A Rolling Stone”、“Just Like A Woman”を好んで聴いた。モジリアニ画集から選んだジャンヌさん肖像画も「強くてきれいな人、とても素敵な女性」と気に入ってくれた。


◎[参考動画]「朝日のあたる家 The House of the Rising Sun」アニマルズ、The Animals


◎[参考動画]Bob Dylan – Like A Rolling Stone

実際の作業に入るとけっこう難しいことがわかった、でも「簡単じゃないからいいんじゃないですか」。

A4用紙一枚の裏表に4つの頁を印刷するから原紙のカッティングも印刷もとても複雑。そのうえイラストを2、3色にすると同じ絵を色分けした部分別に絵を描き、別々に印刷してもピタリ一枚の絵に合うように違う原紙にカッティング、まるで浮世絵版画制作のような作業。これには私も苦労した。文字は彼女がカッティングした。

カッティングと謄写印刷に手間取り、かれこれ1ヶ月弱ほどかけて詩集は完成した。製本の出来栄えは上々、「やったね」と二人はにっこり。

さてお値段はどうしよう? 「高品質詩集」にふさわしい価格としてEP盤レコード(4曲入り)のお値段、たしか¥450に。学生街のコーヒー6、7杯分だからけっこう高価、「高くても買いたい」という人に読んでもらう。あえてハードルを高くした。

そいで販売拠点をどこにする?

京都には新宿のような「若者の街」はないよなあ。でも学生は多い、ならどこの大学にする? あれこれ考えてここからも近い京大キャンパスにした。立命や同志社は知り合いも多いからコネでも売れる、でもそれじゃ面白くない。あくまで「詩の価値」で売るのが「仁奈詩手帖」の販売ポリシー。京大なら「知的レベル」も高い、勉強ができる=文化力が高いとは限らないけれど、「京大学生の文化レベル」に期待しようということで意見一致をみた。

販売担当は仁奈さん、自作詩集の立ち売りだから本人がやるべき。横に男がいると販売実績が落ちるというせこい打算もあったのは事実。仁奈さんの立ち売りで「新宿が京大にやって来た」というイメージにする。(実際はベンチに腰かけ、折り畳み机持ち込み)

実は最初の企画会議の夜に「詩人」のヒッピー風改造も議題になった。

私は「“跳んでみたいな”をやるんやから貴女自身も変えよう」と真面目な女子大生風改造を提案。彼女のヘアスタイルはひっつめ髪を拘束から解き放ち真ん中分けのロングヘアーに、地味ファッションも「跳んでる」風にカッコよく決めるべしと提案。躊躇するかと思った「お嬢さん詩人」、意外にも「そりゃそうですよねえ」と同意。ドラッグとお酒の勢いはあったと思うが決断が早い、それは「詩人」の決意表明でもあったと思う。

こうして「新宿が京大にやって来た」作戦に挑戦。

時期は夏休み前の頃だったと思う。彼女が主役、タバコもぱかぱかふかして「ヒッピーぽい女」を演じる。こうしたことは初めての「詩人」にはちょっと勇気が必要。私は側面サポートに徹する。

どれだけ売れるか心配だったけれど蓋を開けてみれば結果は大成功! 50冊ほどの詩集は2、3週間で完売。

ナンパ目当ての男もいたらしいけれど女子学生もけっこう買ったという。例の“3センチ…距離感覚”の詩なんかがいいと言ってきた京大文学部女子と話が弾んだというからこれはホンモノ。収入は2万円超、当時の大卒初任給が3万円ほどだからかなりの額、仁奈さんの詩の価値が世に認められた最高の証。

作戦終了後、歓喜の祝杯をあげたのは言うまでもない。「カンパ~イ」の達成感は「詩人」だけでなく私のものでもあった。共同作業が運命共同体みたいな絆になったのは確か。

ニーナ・シモンの取り持つ奇妙な縁は、私の「ならあっちに行ってやる」、彼女式には「跳んでみたいな」実践へとこんな形で大きな一歩を踏み出させてくれた。ささいな一歩だけれど、あの時は「一歩」が重要だった。

二人でやれば怖いものはない、それは大きな自信になった。(つづく)


◎[参考動画]Nina Simone – Antibes – Juan-Les-Pins – 1969

《若林盛亮》ロックと革命 in 京都 1964-1970
〈01〉ビートルズ「抱きしめたい」17歳の革命
〈02〉「しあんくれ~る」-ニーナ・シモンの取り持つ奇妙な出会い
〈03〉仁奈(にな)詩手帖 ─「跳んでみたいな」共同行動

若林盛亮さん

▼若林盛亮(わかばやし・もりあき)さん
1947年2月滋賀県生れ、長髪問題契機に進学校ドロップアウト、同志社大入学後「裸のラリーズ」結成を経て東大安田講堂で逮捕、1970年によど号赤軍として渡朝、現在「かりの会」「アジアの内の日本の会」会員。HP「ようこそ、よど号日本人村」で情報発信中。

『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』(紙の爆弾 2021年12月号増刊)

『一九七〇年 端境期の時代』

『紙の爆弾』と『季節』──今こそタブーなき鹿砦社の雑誌を定期購読で!

◆戦後77年 ── 過剰な変革と拡散(多様化)の時代を経て

今年は戦後77年でした。編集部の求めもあり、戦後史をふり返る記事を書いていました。やはり「激流の時代」と呼ばれた「昭和」の社会の激変がすさまじく、文化の変容も激しいものだったと、あらためて回想されます。

このあたりを強調しすぎると、戦後世代特有の大げさな言説。あるいは老人の回顧と批判されそうですが、現在の停滞を生み出した過剰な変革と拡散(多様化)は、40年代後半から80年代にかたちづくられたことを再確認しておく必要があると思うのです。

そしてそれは、歴史考察がつねに底辺に哲学として持っているべき、今現在が最高の状態ではなく、過去により良いものを発見するものとして考えられるべきでしょう。

そのキーワードは戦後革命であり、世界的な68年革命、80年代のポストモダニズムです。このうちポストモダニズムは建築と現代思想の中で行なわれた、いわばコップの中の嵐のように思われがちですが、89年からの東欧・ソ連社会主義の崩壊、および80年からの中国の資本主義経済導入という歴史的な流れを、生産力批判として具現化するのです。

「《戦後77年》日本が歩んだ政治経済と社会〈1〉1945~50年代 戦後革命の時代」(2022年8月16日)

「《戦後77年》日本が歩んだ政治経済と社会〈2〉1960~1970年代 価値観の転換」(2022年8月23日)

「《戦後77年》日本が歩んだ政治経済と社会〈3〉1980年代 ポストモダンと新自由主義」(2022年8月30日)

◆資本主義の限界と再分配構造の転換

その後、バブル経済の崩壊が資本主義の限界を露呈させました。とくに日本においては労働編成の再編、すなわち終身雇用制の崩壊によって、非正規という労働市場の自由化が行なわれます。つまり労働者のパート・アルバイト化によって、低賃金労働が常態化するのです。

資本と労働組合に表象されてきた階級社会が消滅し、高所得者層と非正規の低所得層への階層分岐が顕在化していきます。この構造はデフレスパイラルの中で、資本蓄積の内部留保によって固定化され、勤労者の可処分所得の減少によって、ますます経済を失速させるという事態を生みました。時の総理大臣が、資本家階級に対して「賃上げをお願いする」という、伝統的な階級社会では考えられない事態をも生み出したのです。

この階層分化の社会構造は、現代的な構造改革である経済民主主義、政府の側も再分配構造への転換を期待せざるを得ない「新しい資本主義」つまり、社会主義的な分配へと踏み出さざるを得ないところまで来ていると言えます。

「《戦後77年》日本が歩んだ政治経済と社会〈4〉 ── 1990年代 失われた世代」(2022年9月17日)

◆自公政権そのものが、政教一致の政体である

安倍晋三元総理銃撃事件は、日本社会に二つの命題を突き付けたと言えましょう。その一つは、政治と宗教の問題である。自民党の選挙における強さ、とりわけ選挙に強いがゆえに独裁的に党内を支配してきた安倍政権が、じつは統一教会信者の力に支えられていたこと。そして自公政権そのものが、政教一致の政体であることを、あらためて認識させたことです。

国民の15%弱とされる自民党の政治基盤は、国民の10%とされる公明党(創価学会)の得票力に支えられ、なおかつ数万人とはいえ抜群の献身力で選挙を戦う、統一教会に支えられていた。すなわち、憲法に明記された信仰の自由・政教分離の原則を、そもそも逸脱していることを意味するのです。

政治の場においても、論壇においてもタブー視されてきた政治と宗教の闇に、厳しいメスが入れられる時代が来たのだといえましょう。

それは同時に、人間にとって宗教とは何なのか、政治とは何なのかを問い直すことになるでしょう。デジタル鹿砦社通信はこれからも、タブーなき論壇ステージの一端を担うことをお約束したいと思います。

「政教分離とはどのような意味なのか? ── 安倍晋三襲撃事件にみる国家と宗教」(2022年8月5日)

「《書評》『紙の爆弾』11月号 圧巻の中村敦夫インタビューと特集記事 「原罪」をデッチ上げ、「先祖解怨」という脅迫的物語を使う統一教会の実態」(2022年10月8日)

「《書評》『紙の爆弾』2023年1月号 旧統一教会特集および危険特集」(2022年12月14日)

国防費がGDPの2%越え、金利政策の変更と物価高で国民生活はいっそう厳しい時代を迎えそうです。またいっぽうで原発の稼働延長が画策されています。来る2023年の厳しい世相を睨みつつ、闊達な批判と批評で読者の期待に応える所存です。よいお年を。

横山茂彦「2022年回顧」
【政治編】戦争と暗殺の時代
【経済・社会編】戦後77年と資本主義の限界

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2023年1月号

〈原発なき社会〉を求めて集う 不屈の〈脱原発〉季刊誌 『季節』2022年冬号(NO NUKES voice改題 通巻34号)

詩的で絵画的な映画だ。12月16日から「池袋HUMAXシネマズ・シアター2」で上映が始まった映画『窓』のことである。とある団地で起きた隣人同士の裁判を背景に、夫婦と娘の三人暮らしの家族が、外部から閉ざされた空間で過ごす日常が描かれている。

映画『[窓]MADO』は12月29日(木)まで池袋HUMAXシネマズ・シアター2で公開中

三人が住む自宅が、まるで閉ざされた牢獄のように感じるのだ。それも、彼ら自ら作った牢獄の中に彼ら自身を押し込めるように。その牢獄内で寄り添って暮らす摩訶不思議な家族の姿が映し出される。

ある団地に住むA家は、年金暮らしのA夫、その妻A子、一人娘のA美の三人暮らである。A夫は、娘が階下から流れてくるタバコの煙害で体調を崩していると思い、第三者を介して団地の集会室で、斜め下に住むB家のB夫とB子夫妻に対し改善を求める。

その後もA美の症状は悪化の一途をたどったため、父親のA夫は、娘の体調やB家とのトラブルを日記につづり始めた。

〇月×日、B夫の車が見えない……、〇月×日△時、B家方面から甘い外国タバコの香り……というように。B家の三人だけに見えている風景や心情が、日記につづられていく。映画はB夫の日記と同時並行で進む。

A夫演じる西村まさ彦の独白音声が流れるのだが、日記の朗読というより詩のように聞こえてくる。それにしても、西村まさ彦は味がある。

その中で、A夫は娘に化学物質過敏症の疑いがあると知り、その原因がB夫のタバコの副流煙だとして、B家に対し4500万円の損害賠償を求める訴訟を起こしたのだ。

この事件は、横浜・副流煙訴訟という実際に行われた裁判をもとにしており、事件そのものは『禁煙ファシズムー横浜副流煙事件の記録』(黒薮哲哉著・鹿砦社刊)に詳しい。

この裁判では、副流煙被害を訴えるA家の夫が実は最近まで四半世紀にわたり喫煙していたことがわかったり、娘の診断書を書いた医師が実は直接診察していなかったことが発覚するなどの問題が明らかになった。

あるいはA夫が書く日記の内容と、実際のB家がからむ事実とは大きく矛盾していることが多々明らかになっている。
 
禁煙イコール善、喫煙イコール悪という風潮は確かにある。もちろん受動喫煙の問題はあるし、化学物質過敏症の難しさもある。

しかし、実際に起きた訴訟は、目的が正しければ強引なことは許される、すなわち禁煙社会を実現するには理不尽なことも許されるという一部の風潮がなければありえなかった。

実は本作を世に出した監督の麻王MAOは、訴えられたB家の長男(親とは別居)である。自分の家族に起きた実際の事件をフィクション化したわけだ。

公開日舞台挨拶(12月16日 池袋HUMAXシネマズ)

この映画を観る前、同じ集合住宅の隣人であるA家とB家をパラレルに映し出すと筆者は勝手に思い込んでいたが、本作のメインは、煙草の煙で化学物質過敏症をわずらい苦しんでいると主張したA家だ。

映画冒頭から団地の「窓」が多数映される。B夫は窓に向かい延々と日記を書く。その窓の外には、多数の窓が見える。

窓は解放するもので、団地の集合住宅は窓の面積が大きく、構造的には解放感があるはずだ。それなのにスクリーンに映し出される窓には、見えない鉄格子が組み込まれているようなイメージが湧いてくるのである。

鉄格子の内側のA家には、何台もの空気清浄機が設置され、煙草の煙を浄化するための観葉植物の鉢だらけになる。

平凡な団地が異様に美しく撮影されており、しずかな音楽と相まって独特な雰囲気を醸し出す。

ただ、できれば実際の裁判の内容を伝える部分をもう少し入れ、絵画のように異様に美しく幻想的な映画との落差を伝えると、より面白味と怖さがましただろうとは思う。


◎《予告編》映画 [窓]MADO 12/16(金)公開 @池袋HUMAXシネマズ

●12月16日(金)~12月29日(木) ※池袋HUMAXシネマズ8F シアター2
池袋HUMAXシネマズ公式ホームページ 
映画[窓]MADO 公式サイト
映画[窓]MADO 公式ツイッター  

▼林 克明(はやし まさあき)
ジャーナリスト。チェチェン戦争のルポ『カフカスの小さな国』で第3回小学館ノンフィクション賞優秀賞、『ジャーナリストの誕生』で第9回週刊金曜日ルポルタージュ大賞受賞。最近は労働問題、国賠訴訟、新党結成の動きなどを取材している。『秘密保護法 社会はどう変わるのか』(共著、集英社新書)、『ブラック大学早稲田』(同時代社)、『トヨタの闇』(共著、ちくま文庫)、写真集『チェチェン 屈せざる人々』(岩波書店)、『不当逮捕─築地警察交通取締りの罠」(同時代社)ほか。林克明twitter

黒薮哲哉『禁煙ファシズム-横浜副流煙事件の記録』

『紙の爆弾』と『季節』──今こそ鹿砦社の雑誌を定期購読で!

※本稿は『季節』2022年夏号(2022年6月11日発売号)掲載の「何故、今さら昭和のプロレスなのか?」を再編集した全3回連載の最終回です。

昭和という特殊な時代に、大衆的な人気を獲得したスポーツ(と敢えて言っておく)の代表がプロ野球とプロレスであることに異論の余地はないと思われる。

しかし両者には大きな違いがあった。プロ野球には外人選手はチラホラといたが、日本人のチームに助っ人として参加していただけしていただけで、外人選手ばかりのチームがあったわけではない。

プロレスはそこが違った。昭和のプロレスは最初から日本人対外人の構図が売りだった。そこで大衆(観戦者)心理は当然民族主義的になる。

「無敵黄金コンビ敗る 日大講堂の8500人、暴徒と化す」

 

「無敵黄金コンビ敗る 日大講堂の8500人、暴徒と化す」(1962年2月3日付け東スポ)

こんな見出しの記事が出ているスポーツ紙をトークショーの当日に私はターザン山本と観客の前に提示した。昭和37年2月3日に日大講堂で行われたアジアタッグ選手権試合で力道山・豊登組がリッキーワルドー・ルターレンジの黒人2人組に敗れ、タイトルを失った「事件」の記録だった。

「決勝ラウンドは『リキドーなにしてる、やっちまえ』という叫び声の中で豊登がレンジの後ろ脳天逆落としで叩きつけられフォール負け。無敵の力道山・豊登組が敗れた。一瞬……茫然となった8500人の大観衆は、意気ようようと引き揚げるワルドー、レンジに”暴徒”となって襲いかかった。『リキとトヨの仇討ちだ』『やっちまえ』『黒を生かしてかえすな』とミカン、紙コップを投げつけ、イスをぶつける。怒り狂ったレンジとワルドーが観客席へなだれこみ、あとは阿鼻叫喚……イスがメチャメチャに飛び交い、新聞紙に火がつけられてあっちこっちで燃え上がる。『お客さんっ、お願いしますっ、必ずベルトはとりかえします。お静まりくださいっ』力道山がリング上からマイクで絶叫する」

記事の文面から察するとかなりの反米感情が当時の大衆にはあったように思われるが、そう簡単に割り切れる状況ではなかった。

昭和37年と言えば、マリリンモンローが死んだ年であり、後に『マリリンモンロー、ノーリターン』と歌った作家がいたように、大半の大人たち(男性)はアメリカの美のシンボルの死に打ちのめされていた。われわれ当時の男子中学生がその死を超えることが出来たのは、既に吉永小百合が存在していたからである。

一方、女子中学生たちはやはり同年公開された『ブルーハワイ』のテーマ曲を歌うエルヴィスの甘い美声に酔いしれていた。アイゼンハワー米大統領(当時)の来日を阻止した全学連の闘いが、全人民の共感を呼んだのは2年前のことだったが、所謂60年安保闘争の標的は岸信介であってアメリカ政府ではなかった。二律背反という言葉が脳裏をよぎる。

当時の日本の大衆心理を簡単に定義すれば、政治的には反米、文化的には親米ということになるだろうか。もちろん双方にマイナーな反対派はいた。

昭和のプロレスは力道山時代に限って言えば、アメリカの下層大衆の娯楽であるプロレスを日本に持ち込んだので、文化の領域に属するわけだが、第2次世界大戦の軍事的敗北を根に持っている大衆が昭和30年代まではまだまだ多かったのだろう。軍事は政治の延長という説に基けば、その種の怨恨も政治意識とは言えないこともない。故に文化的であって政治的な変態性ジャンルとしてのプロレスが成立し成功したのだろう。

プロレスとは正反対の健全な娯楽性を維持していたプロ野球の世界でも、シーズンオフに米大リーグからチームを招いて日本選手の代表チームとの「日米親善」と銘打った試合が行われたことはある。プロレスの場合、日米対決は定番だったが、しかし「日米親善」という雰囲気が会場を包んだことはなかった。

前述した暴動が起こったアジア・タッグ選手権試合の現場写真を見ると、まるで数年後にブレイクした学生運動の乱闘場面かと思わせる迫力が感じられる。(場所が日大講堂だっただけに……)

その写真はプロレスが秩序を否定する文化、即ちカウンターカルチャー(反抗的文化)であることをはっきり示していると思われる。

それにしても、力道山・豊登組を破ったリッキーワルドー・ルターレンジの2人が黒人だったからと言って……「黒を生かして生かしてかえすな」はないだろう。

カウンターカルチャーにだって品格というものがあるんじゃないかね。刺される直前に「ニグロ、ゴーホーム」と叫んだ力道山と同様に、こういう発言を口にする者には相応の裁判が待っていると考えるべきなのかもしれない。

◆ミスター・アトミック(原子力)はプロレス界の悪役だった!
 

 

ミスター・アトミック(原子力)

プロ野球とプロレスの大きな違いに悪役の存在がある。と言うか悪役が存在するプロスポーツなんてプロレス以外にはないことは明らかなのだが、実は『昭和のプロレス大放談』の最中に、私はある1人の悪役レスラーのことを思い出していた。

その名をミスター”アトミック”という。私の知る限り、来日した最古の覆面レスラーである。まだ原発など大衆の視野にはなかった時代だから、最初から力道山の好敵手として悪役を演じた彼が日本では”アトミック”と名乗ったのは、やはり日本人にとって忌まわしい思い出となっている原爆をイメージさせようとしたからだろう。

昭和のプロレスは他のプロスポーツよりはるかに多量のエネルギーを、同時代人に与えてくれた。そのエネルギーは悪役の存在があったからこそ放出された。

今思えば悪役の1人だったミスター”アトミック”は、原子力が悪のエネルギーであることを正直に表明していたとも言える。今さら「原子力はクリーンなエネルギーである」と開き直る奴らに、彼の試合のビデオがあったら見せてやりたいものである。

ミスター”アトミック(原子力)”は決して、一度たりともクリーンなファイトをしなかった。(完)

◎今年10月1日に亡くなったアントニオ猪木氏を偲び、本日12月23日(金)午後5時30分(午後5時開場)より新宿伊勢丹会館6F(地中海料理&ワインShowレストラン「ガルロチ」)にて「昭和のプロレス大放談 PART2 アントニオ猪木がいた時代」が緊急開催されます。板坂剛さんと『週刊プロレス』元編集長のターザン山本さん、そして『ガキ帝国』『パッチギ!』などで有名な井筒和幸監督による鼎談です。詳細お問い合わせは、電話03-6274-8750(ガルロチ)まで

会場に展示された資料の前に立つ筆者

▼板坂 剛(いたさか・ごう)
作家/舞踊家。1948年、福岡県生まれ、山口県育ち。日本大学芸術学部在学中に全共闘運動に参画。現在はフラメンコ舞踊家、作家、三島由紀夫研究家。鹿砦社より『三島由紀夫と一九七〇年』(2010年、鈴木邦男との共著)、『三島由紀夫と全共闘の時代』(2013年)、『三島由紀夫は、なぜ昭和天皇を殺さなかったのか』(2017年)、『思い出そう! 一九六八年を!! 山本義隆と秋田明大の今と昔……』(紙の爆弾2018年12月号増刊)等多数

〈原発なき社会〉を求めて集う 不屈の〈脱原発〉季刊誌 『季節』2022年冬号(NO NUKES voice改題 通巻34号)

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※本稿は『季節』2022年夏号(2022年6月11日発売号)掲載の「何故、今さら昭和のプロレスなのか?」を再編集した全3回連載の第2回です。

昭和のプロレスについて語る時、どうしても創始者である力道山の存在について解明しなければならないと思う。多くのカリスマ的ヒーローがそうであったように、この人にもまた出生から死に至るまで「謎」という字がつきまとっていた。

関脇になった時点で将来は横綱にまでなれる実力があると評価されながら、突然自宅の台所で包丁を手にして髷を切り、相撲界と決別した。たった独りの断髪式に込められた彼の思いとはどのようなものであったのか?

「相撲協会の幹部が『朝鮮人を横綱にはしない』と発言したことに怒った力道山が、発作的に髷を切った」

……と、そんな噂話を複数の人たちから聞いたのは力道山の死の直後、私はまだ中学生だったが、二重のショックを受けたのははっきり記憶している。

 

日本選手権、対木村戦勝利後の力道山(1954年12月1日付け『週刊20世紀』より)

その頃まで多くの日本人は力道山が在日朝鮮人であることを知らなかった。もっとも力道山の出生当時は朝鮮半島は日本の領土だったから、彼の出身地が北朝鮮であったとしても日本を代表して先勝国アメリカの選手を叩きのめし、敗戦国民の屈辱を解消するパフォーマンスを演じる必然性がなかったわけではないが、当時の南北朝鮮と日本の国民感情は、そんなに甘いものではなかった。とりわけ在日朝鮮人に対する日本人の差別意識は酷いもので、またその反作用としての差別された側の憎悪に近い感情にも凄まじいものがあった。

しかしもし力道山が相撲協会幹部の差別発言を気にもとめずに力士生活を続けていたら、私は彼が必ず栃若時代の前に一世を風靡する名横綱になり、引退後も親方として相当な地位におさまっていたと思う。つまりプロレスをアメリカから持ち込むような難事業に手を出すようなことにはならなかったはずである。

またもしプロレスに転向後、力士時代の四股(しこ)名に過ぎない力道山という呼称を棄て、敢えてカムアウトして本名でリングに立ったとしたら、当時の日本の大衆は彼を救国のヒーローの如くもてはやしはしなかっただろう。

言い換えれば日本に於けるプロレスは差別から始まったということであり、差別がなければ力道山という稀代の英雄は存在しなかったと断言できるのである。だからと言って、差別が必要だったとは言えないが、自分をあからさまに差別した相撲協会の幹部や、力道山という虚名を用いなければ時代を象徴する逸材として自分を認知することはなかったと思われる偏った日本の社会に対して、言いたかったことがあったに違いない。

晩年(と言っても30代だが)の力道山は酒に溺れアル中状態でしかも酒乱であった。アル中になった人間を何人か知っているが、皆本音を口にすることが出来ず、過剰なストレスをアルコールで紛らわせているように見えた。酒乱の人間は特に粗暴な感情をむき出しにして周囲に迷惑をかけることがあったのだが、多くの場合過去に自分が受けたダメージを他人に転嫁するようだった。

酒は被害者意識を加害者意識に変えられるものなのか。暴漢に腹部を刺された赤坂のニューラテンクォーターでも、ステージ上の黒人のジャズメンに対して、「ニグロ、ゴーホーム」と叫んでいたという。力道山ほどの人物になれば、不品行をたしなめるのもナイフで刺すしかなかったのかもしれない。

それにしても刺された原因が「ニグロ、ゴーホーム」という差別発言だったとすれば、逆に力道山の心に差別に対する憤懣がくすぶり続けていた結果が証明されていたという言い方も出来る。若い頃に差別に苦しんだ人間が成功者になった時、人を差別することで自分の優位性を確かめ、プラスマイナス=ゼロにして精神の均衡を保った例は幾らでもある。

ついでだから書いておくが、「在日朝鮮人」という言い方に、私はかねてから疑問を持っている。「在日」という言葉には今たまたま一時的に滞在しているだけで、本来在住すべきでない人々という嫌らしいニュアンスが感じられる。

日本には現在世界各国の人々が混在してはいるが「在日アメリカ人」「在日イギリス人」「在日フランス人」「在日ドイツ人」等とは言わない。欧米に限らずアジア人に対しても「在日ベトナム人」「在日マレーシア人」「在日ミャンマー人」「在日ネパール人」とは言わない。中国人に対してさえ「在日中国人」とは言わないのに、隣国であるにもかかわらず、「在日韓国人」とも言わずに「在日朝鮮人」……しかもただ「在日」と言っただけで特定の国の人々を揶揄する響きを持つ表現が残っている限り、日本は「かの国」から謝罪を要求され続けることになるのだろう。(つづく)

『昭和のプロレス大放談』で激論するターザン山本さん(左)と筆者(2022年4月4日 於新宿ガルロチ)主催:ファミリーアーツ 製作協力:小西昌幸

◎今年10月1日に亡くなったアントニオ猪木氏を偲び、12月23日(金)午後5時30分(午後5時開場)より新宿伊勢丹会館6F(地中海料理&ワインShowレストラン「ガルロチ」)にて「昭和のプロレス大放談 PART2 アントニオ猪木がいた時代」が緊急開催されます。板坂剛さんと『週刊プロレス』元編集長のターザン山本さん、そして『ガキ帝国』『パッチギ!』などで有名な井筒和幸監督による鼎談です。詳細お問い合わせは、電話03-6274-8750(ガルロチ)まで

会場に展示された資料の前に立つ筆者

▼板坂 剛(いたさか・ごう)
作家/舞踊家。1948年、福岡県生まれ、山口県育ち。日本大学芸術学部在学中に全共闘運動に参画。現在はフラメンコ舞踊家、作家、三島由紀夫研究家。鹿砦社より『三島由紀夫と一九七〇年』(2010年、鈴木邦男との共著)、『三島由紀夫と全共闘の時代』(2013年)、『三島由紀夫は、なぜ昭和天皇を殺さなかったのか』(2017年)、『思い出そう! 一九六八年を!! 山本義隆と秋田明大の今と昔……』(紙の爆弾2018年12月号増刊)等多数

〈原発なき社会〉を求めて集う 不屈の〈脱原発〉季刊誌 『季節』2022年冬号(NO NUKES voice改題 通巻34号)

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2023年1月号

※本稿は『季節』2022年夏号(2022年6月11日発売号)掲載の「何故、今さら昭和のプロレスなのか?」を再編集した全3回連載の第1回です。

4月4日という少々不吉な感じのする日の夜に、新宿の『ガルロチ』というライブハウス風のレストランで『昭和のプロレス大放談』というマニアックなイベントが行われた。

アントニオ猪木の死期が近いという噂が広まった頃から、猪木に関する評伝を中心にした昭和のプロレスを検証する出版物が数多く出回った現象をふまえて企画されたイベントだった。

『昭和のプロレス大放談』で激論するターザン山本さん(左)と筆者(2022年4月4日 於新宿ガルロチ)主催:ファミリーアーツ 製作協力:小西昌幸

ここで元『週刊プロレス』編集長のターザン山本と私の対談トークショーが行われてしまったのである。両者とも昭和のプロレスにはまって人生を狂わせたはぐれ者で、最初は熱烈な猪木信者であったがある時点で猪木から離反することになったところに共通点がある。私については鹿砦社刊『アントニオ猪木 最後の真実』を参照していただくとして、ターザン山本の蹉跌に関しては、今も当時もあまり語られることがなかったのでひと言書き添えておきたい。

この人は週刊誌の編集長という立場を逸脱して当時幾つもあった団体の選手たちを無差別に寄せ集め『4.2ドーム夢の懸け橋』なんていうとんでもない企画を実現。それが元で、週刊誌の編集長の分際でプロモーターぶりやがってとバッシングを受け、新日本プロレスからも取材拒否されたあげくに編集長を解任されてしまった。

1999年8月に鹿砦社から発行された『たかがプロレス的人間、されどプロレス的人生』という奇書の中で、当時の様相についてターザン山本は次のように述懐している。

「あの取材拒否は、わかりやすい例えをすると、アメリカという世界の大国がNATO軍を使って『週刊プロレス』に空爆したようなものですよ。空爆を仕掛けて、自分のところだけやると説得力がないので、UインターとWARと、さらに夢ファクトリーの3つを抱えて、新日本プロレス連合軍……NATOみたいなものが『週刊プロレス』をつぶしにかかってきたわけです。要するに大国のエゴイズミというか」

今のウクライナの状況等に重ね合わせてみると、ギョッとするような発言ではある。

ターザン山本さん

また、鹿砦者の松岡社長とのやり取りの中で興味深い(私好みの)発言もしている。

山本 だから、ジャーナリズムの理念と精神というものを抹殺しようとしているんだよね。プロレス界はずっと。

松岡 プロレス界だけじゃないんでしょうけれどもね。

山本 一言で言うと、日本にジャーナリズムってないから。あるわけないですよ。だれも真実を教えていないんだから、政治、経済、文化……。日本にジャーナリズムがあるって考えてるやつは本当に……

松岡 能天気

昭和のプロレスの現場で苦渋を味わった人間の言葉が、今ひしひしとわれわれの胸に響いてくるのは、あの時代にプロレスのリングの内外で展開されていた「揉め事」が戦後日本の偽善的な市民秩序に対する不協和音を奏でていたからだろう。

「われわれ『昭和のプロレス』にかぶれた人間は、今、世界で起っている様々な紛争もプロレスをやってるようにしか見えないんだよね」

トークショーでつい口を滑らせて不謹慎とも思えるそんな発言をしてしまった私に対して、ターザン山本が同調してくれたのも、異端者同士に通い合う血の感触が認識されたからだろう。

彼は言った。

「プロレスを見ていると、世の中の争いごとの裏まで見えるようになるんですよ」

そうなのだ。われわれが昭和のプロレスに学んだのは、人間(特に男性)は「揉め事・争い事」つまり諍いが好きな動物であるという真理である。だからアメリカの大統領選挙を見ても、ウクライナの紛争を見ても「プロレスやってるだけじゃん」と感じてしまう。

彼等は平和が嫌いなのである。わざわざ揉める理由を探し出し(あるいは創り出し)、争いに没頭することで興奮状態になり、緊張感に酔っているようにしか見えない。社会の平和と安定のために設定された様々なルール(法律・倫理・道徳その他)を無視する快感、人を殺す自由、略奪する自由、破壊する自由。

ターザン山本はいみじくも言い切った。

「プロレスの常識=世界の非常識」

昭和40年代にはトレンディーだった言い回わしである。そして今、世界は非常識に充ちている。つまり昭和のプロレスは、政治家がプロレスをやっているようにしか見えない今世紀を先通りしていたとも言えるのだ。(つづく)

◎今年10月1日に亡くなったアントニオ猪木氏を偲び、12月23日(金)午後5時30分(午後5時開場)より新宿伊勢丹会館6F(地中海料理&ワインShowレストラン「ガルロチ」)にて「昭和のプロレス大放談 PART2 アントニオ猪木がいた時代」が緊急開催されます。板坂剛さんと『週刊プロレス』元編集長のターザン山本さん、そして『ガキ帝国』『パッチギ!』などで有名な井筒和幸監督による鼎談です。詳細お問い合わせは、電話03-6274-8750(ガルロチ)まで

会場に展示された資料の前に立つ筆者

▼板坂 剛(いたさか・ごう)
作家/舞踊家。1948年、福岡県生まれ、山口県育ち。日本大学芸術学部在学中に全共闘運動に参画。現在はフラメンコ舞踊家、作家、三島由紀夫研究家。鹿砦社より『三島由紀夫と一九七〇年』(2010年、鈴木邦男との共著)、『三島由紀夫と全共闘の時代』(2013年)、『三島由紀夫は、なぜ昭和天皇を殺さなかったのか』(2017年)、『思い出そう! 一九六八年を!! 山本義隆と秋田明大の今と昔……』(紙の爆弾2018年12月号増刊)等多数

〈原発なき社会〉を求めて集う 不屈の〈脱原発〉季刊誌 『季節』2022年冬号(NO NUKES voice改題 通巻34号)

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2023年1月号

たとえば隣席の同僚が使っている香水が神経に障って、使用を控えるように要望する。同僚は、取り合ってくれない。けんもほろろに撥ねつけた。総務部へも相談したが、「あの程度の臭いであれば許容範囲」と冷笑する。

次に化学物質過敏症の外来のあるクリニックを訪れ、すがるような気持ちで診断書を交付してもらい、それを持って再び総務部へ足を運ぶ。やはり拒絶される。そこでやむなく隣席の同僚に対して高額な損害賠償裁判を起こす。

化学物質過敏症を訴える家族が団らんする場面

夜が深まると壁を隔てた向こう側から、リズムに乗った地響きのような音が響いてくるので、隣人に苦情を言うと「わが家ではない」と言われた。そこでマンションの管理組合に相談すると、マンションに隣接する駐車場の車が音の発生源であることが分かった。「犯人」の特定を間違ったことを隣人に詫びる。

新世代公害の正体は見えにくい。それが人間関係に亀裂を生じさせることもある。コミュニティーが冷戦状態のようになり、住民相互に不和を生じさせるリスクが生じる。

◆実在の事件をドラマに、ロケは事件現場

 

左から主題歌「窓」の作曲者:Ma*To、主題歌を歌う小川美潮、音楽を担当した板倉文の各氏。Ma*To氏は横浜副流煙裁判の被告として法廷に立たされた。

デジタル鹿砦社通信でも取り上げてきた横浜副流煙裁判をドラマ化した『[窓]MADO』(監督・麻王)の上映が、池袋HUMAXシネマズ(東京・池袋)で12月16日から29日の予定で始まる。

煙草による被害を執拗に訴える老人を西村まさ彦が演じる。また、煙草の煙で化学物質過敏症になったとして隣人から訴えられ、4500万円を請求されるミュージシャンを慈五郎さんが演じる。慈五郎さんは、上映に際して次のようなメッセージを寄せている。

「煙草がメインテーマになってくる話なのですが、今、煙草自体を吸うシーンが、あまり見られなくなっています。コンプライアンスの問題だと思いますが。その意味で、こんなに真っ向から煙草をテーマにした映画っていうのは、勇気もいるだろうし、共感できる部分も色々あります」

この映画は実際に起きた事件をベースにしたドラマである。ロケも事件現場となった横浜市青葉区のすすき野団地で行われた。その意味では、事件をドラマで再現したと言っても過言ではない。

しかし、法廷に立たされた被害者であるミュージシャンを擁護した映画ではない。ミュージシャンを訴えた家族の立場からも事件を考察して、新世代公害の複雑な側面を描いている。その意味では客観性が強い作品である。

◆新世代公害という未知の領域

かつて公害といえば、赤茶けた工場排水が海へ放出されている光景とか、工場の煙突から黒々としたスモッグが立ち昇る場面など、具体的なイメージがあった。従ってカメラは問題の所在を特定することができた。それゆえに映像化も容易だった。

ところが新世代公害は正体が見えにくい。それゆえにマスコミの視点もなかなかそこへは向かない。が、水面下では公害の世代交代が急速に進んでいて、新しい形の被害を広げている。コミュニティーの破壊をも起こしている。

米国のCAS(ケミカル・アブストラクト・サービス)が登録する新生の化学物質の件数は、1日で1万件を超えると言われている。複合汚染を引き起こす。

新世代公害の実態は大学の研究室の中ではある程度まで解明されていても、どのように人間関係やコミュニティーを分断していくのかという点に関しては考察されてこなかった。映像ジャーナリズムも、この点を凝視することを怠ってきたのである。背景に利権があるからだ。

『[窓]MADO』は、この未知の領域に正面から挑戦した作品である。


◎《予告編》映画 [窓]MADO 12/16(金)公開 @池袋HUMAXシネマズ

■『[窓]MADO』の公式サイト https://mado-movie.jp/

▼黒薮哲哉(くろやぶ・てつや)
ジャーナリスト。著書に、『「押し紙」という新聞のタブー』(宝島新書)、『ルポ 最後の公害、電磁波に苦しむ人々 携帯基地局の放射線』(花伝社)、『名医の追放-滋賀医科大病院事件の記録』(緑風出版)、『禁煙ファシズム』(鹿砦社)他。
◎メディア黒書:http://www.kokusyo.jp/
◎twitter https://twitter.com/kuroyabu

黒薮哲哉『禁煙ファシズム-横浜副流煙事件の記録』

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2023年1月号

◆「ロックと革命」舞台はin京都に

ビートルズ「抱きしめたい」脳天直撃から「ならあっちに行ってやる」! そして「特別な同志」OKとの出会いによって、17歳の革命は音楽&恋からその一歩を踏み出した。

「いいんじゃない、若林君はぜんぜん悪くないよ」とOKは言ってくれたけれど、それが17歳の「無謀な決心」であるという事実にはまったく変わりなく、Bob Dylanの“Like A-Rolling Stone”、転がる石ころのごとく、どこに転がっていくのか当てのない船出だった。でも「転石、苔を蒸さず」、転がることによって私の革命は苔蒸さず(錆び付かず)、A-Rolling Stone 途上の逸脱、曲折はあったけれど幸運な出会いが私を前へ前へと進めてくれた。

1965年の春、18歳になったばかりの私は進学校、受験勉強からドロップアウトの「成果」として大阪市大は不合格、同志社の「大学生」となった。結果的には「京都という文化」の地で音楽や人、学生運動と多くの幸運な出会いを経験できた。


◎[参考動画]Bob Dylan – Like a Rolling Stone (Live in Newcastle; May 21, 1966)

◆京都御所の啓示「二十歳 ── それが人生で最も美しい季節だとは誰にも言わせまい」

若林君は大学生になったけれどOKはまだ高校生、だから故郷、草津での個室&路上トークと私書箱文通、ときには長電話の十代トークはそのまま続いた。

この頃だと思うが、OKと神戸国際会館に「愛なき世界」ヒットのPeter & Gordon ライブ公演を観に行った。閉幕後、本場のLiverpoolサウンド二人組を見たくて楽屋付近をうろついていたら同じような女の子達に「あんたのヴォーカルもよかったよ」と言われた。

「はあ~っ??」の私に「堺正章に間違われたんだよ」とOKがにんまり笑った。「なんで僕がマチャアキなんや!?」と憮然の私、でも彼女は女の子達の「評価」にまんざらでもなさそう。それはスパイダースが前座を務めていた時代のお話。


◎[参考動画]Peter and Gordon – A World Without Love (HD) 1964

秋頃には私の髪は女の子のおかっぱ頭越えでさらに成長、“You Really Got Me”大ヒットKinksのリードギターがカッコよくて彼の長髪を真似て真ん中分けにしてみた。

ある日、OKが知り合いのいる美容室に私を連れて行った。当時は男子禁制の場、営業時間終了の店で美容師とOKはああでもないこうでもないと私の頭をいじくり私の真ん中分けはきれいに整髪された。

この美容室にはその後も連れて行かれたと記憶する。OKにとっては私の長髪の成長が「若林君の成長」になっていたのだろう。私とOKは「長髪運命共同体」、どうってないことかもしれないが「長い髪の二人組」にはとても大事なこと、「女の子の授業はあっちだ-ならあっちに行ってやる」は後戻り不可能の地点に。男子の長髪が希少品種であった時代のエピソード。

一年後の1966年、OKも晴れて大学生、同志社近くの私大に入学、二人は「いつも一緒」の時間を持つようになった。

講義の時間帯が合えば通学路も一緒、「若林君います~」とOKが私を誘いに来て「M子ちゃん来はったでえ」と母が私を呼んだ。高校生の頃は「受験勉強中なのに……」と渋顔だった母もこの頃になるとOKの聡明さを認め協力的になっていた。後日談になるが、私がよど号ハイジャック渡朝後、OKが数年に渡って私の母を慰めに訪ねてくれた、そう母は手紙に書いてきた。OKは永遠の恩人、感謝している。


◎[参考動画]The Kinks – You Really Got Me 1964

二人のトークの場は京都に移った。そこは「町の大人の視線」もない自由天地。

烏丸通りに面した同志社通用門がOKとの待ち合わせ場所、今出川通り角の学生相手の広い喫茶店のコーヒー一杯で長時間粘ったあと京都御所の緑陰で憩いのひととき、時折り馴染みのレコード店をのぞいたり夕闇迫る町屋の並ぶ古都の裏通りを散策したり……。しゃれたい気分のときは、『二十歳の原点』の高野悦子さんも通った四条河原町角の小粋な喫茶店フランセにもよく行った。OKは紅茶とホットケーキ、ケーキを半分に切って分けてくれた微笑ましい思い出のお店だ。

京都で実現した「いつも一緒」の時間はとてもすてきで「恋する二人」には申し分のない穏やかな時間が流れていったと言えるだろう。ビートルズはティーンズの英雄から「アーティスト」になっていた。

しかしながら京都でのOKとの「いつも一緒」の日々、それは主観はともかく客観的には単なる「男女交際」、私はただの親のスネかじり、適当に授業に出るずぼら大学生、女の子とデートにうつつを抜かす遊び人、そう言われても反論のしようのない生活でもあった。余談だが、20年ほど前に毎日新聞が私の同窓らを取材、記事には「若ちゃんはぼんぼん」「遊びの話ばっかりしてた」「美容院に行ってたくらいの軟派中の軟派」の記述、それが当時のまわりの正しい評価。

「ならあっちに行ってやる」! 私の革命は当てもなく漂流中、ドロップアウト! 新しい世界に跳む! それはまだ17歳の革命、観念の世界に留まったまま。

そしてまた一年が過ぎ私が二十歳になった1967年の春、いつものようにOKと御所の桜を私はぼんやり見上げていた。そのとき突然、私を襲ったどうしようもない無力感── 華やかこの上ない春爛漫、咲き誇る満開の桜、それに比べて自分はなんてみすぼらしく卑小なことか…… 何やってるんや、僕は! このときの表現しようのない自己嫌悪感はいまも身体に刻まれている。

“そのとき僕は二十歳だった。それが人生でいちばん美しい季節だとは誰にも言わせまい”-まさに「アデン・アラビア」ポール・ニザンの言葉そのままの二十歳の春だった。

OKとの「いつも一緒」に安住したままどこにも動けずにいる私、「ならあっちに行ってやる」の若林君はいったいどこに行ったのだ!

◆しあんくれ~る/Champ Claire ── 心に響いたニーナ・シモン

「いつも一緒」のままでは私もOKも次の一歩が踏み出せないだろう、少なくとも私にはそんな力はない、それぞれが次の一歩を見つけるべきときが来たのだ。当時、そう明確に意識したわけではないが「無力感」「自己嫌悪感」という形で意識されたのはそんなことだと思う。

こうして京都でのOKと「いつも一緒」の時間は後味の悪さを残しながらなんとはなしに終わった。断ち切りがたい想いはありながらも消化不良を起こした青春の未熟、それ以外に言いようがないけれど彼女もそれは感じていたことだと思う。互いに成長のための革命、別行動が必要だったのだ。

 

しあんくれ~るのマッチ

以降の私は空虚な心と孤独を抱えたまま、とにかく次に踏み出す新しい一歩を求めた。

そんなある日、立命大広小路校舎近くの河原町通りを歩いていた私の目に止まった小粋な立て看板、そこには「しあんくれ~る/Champ Clair ジャズ喫茶」とあった。

なんとなく心惹かれて狭い階段を上がった。ドアを開けた中はまさにジャズの洪水、昼間の世界と隔絶した空間だった。明るいお天道様の下を歩くのが億劫になっていた私には絶好の「思案(しあん)に暮れる(くれ~る)」場、以来、私の空虚を埋める居場所になった。後にあの高野悦子さんも通ったとして有名になったあの店だ。

当時はサックスのジョン・コルトレーンが人気で、またA.アイラーなどの前衛ジャズ台頭の時期、「ジャズの洪水」は心地よかったが、ロックに親しむ私には音楽的にはしっくりこなかった。そんななかで「おやっ」と思う歌声が私の心に響いてきた。

 

Nina Simone at the Village Gate(1962)

歌っているのはニーナ・シモンという黒人女性ヴォーカリスト、中でも心に響いたのは“Zungo”、まるでアフリカ大陸から響き渡る祈りのような歌! “Zungo”という単調な歌詞がただ繰り返される短い歌、けれどなぜかじ~んと胸に響いた。以来、私はニーナ・シモンのこのアルバム“Nina at the Village Gate”をリクエスト、「しあんくれ~る」ではいつも彼女の歌を聴いた。

最近になってニーナ・シモンのことを知った。

幼い頃からピアノの才能を認められていたニーナ・シモンはクラシック音楽のトレーニングで有名なジュリアード音楽院に通いカーティス音大への進学を夢見た。しかしそれは叶わなかった、理由は「黒人だから」! 彼女はジャズの道を歩みキング牧師の黒人公民権運動にも参加、でもその非暴力主義運動に飽きたらず過激な主張もするようになった、そして初めての黒人政権ができた中米のバルバドスに移住、ベトナム戦争に反対して税の不払い運動をやって米政府から逮捕状まで出されたという。

そんな不屈の意志の人だったから私の心を鷲掴みにしたあの力強い祈りの歌を歌えたのだろう。


◎[参考動画]Nina Simone – Zungo

◆ニーナ・シモンの取り持つ奇妙な縁 ── 作家志望の詩人

そんなニーナ・シモンの歌声に聞き惚れていたある日、私に話しかけてきた人があった、「いつもこの曲、リクエストされてますよね」と。「これ、あなたも好き?」と聞くと「ジャズはよくわからないけどいまかかってるこの曲はとてもいい」との答えが返ってきた。

その曲はなんと“Zungo”! 意気に感じた私はこの人と「ニーナ・シモンっていいよねえ」談義を交わした。いつしかニーナ・シモンのリクエスト盤が終わって次のジャズ曲に移った。なんとなく話がとぎれてしまいそうで私は「出ましょか?」と彼女を誘った、久々に心を割って音楽談義のできた私は話を続けたかったのだと思う。

白状すればその時の私は新宿から来たヒッピーに以前、教わったドラッグ、睡眠薬のハイミナールをやっていて精神ハイ状態、だから初対面の女性を誘うような挙に出たのかも知れない。

外に出て見るとその人はいかにも真面目な女子大生風、リボンでくくったひっつめ髪に白ブラウス、紺系のタイトスカートに低いヒールのパンプス姿、ヒッピー風の私とはまるで異質のタイプだった。

私たちは荒神口から四条河原町まで歩き、私の馴染みの喫茶店フランセで話を続けた。

彼女は立命文学部の学生、自称「作家志望の詩人」だった。

人生経験未熟のいまは小説はまだ書けない、現在は言葉を磨くために詩作を続けているのだと彼女は言った。作家をめざしてこの大学に来たけれど文学のクラスは大手出版社やマスコミ就職希望の学生ばっか、文学への野心のかけらもない、そんな大学の雰囲気に不満で「しあんくれ~る」で時間を過ごすようになったのだそうだ。空虚を抱えているのは私と同じだった。

店でよく見かける私に対してヒッピーでもなさそうな学生風がなぜ長髪人間なのか? 日頃から気になっていたとか、それは一種の文学的興味なのかもとも。隣り合わせになった機会に思い切って話しかけてみた、ヴォーカル好きの自分とも音楽的にも話ができそうと思ったから等々をうち明けた。

私は明確な志を持つこの人物に強い関心を持った。だから彼女の「文学的興味」に応えて「長髪ひとつで世界は変わる」、「ならあっちに行ってやる」以来の長髪人間の遍歴を語り「特別な同志」OKとのことも包み隠さず話した。この話は彼女の興味を惹いたようで「“あっちに行ってやる”かあ、私も跳んでみたいな」とぽつりもらした。「エエと思うけど思ったより簡単じゃないよ」とまだ次の行動に出れない自分に腐っていることも率直に私は告白した。

すると「簡単じゃないからいいんじゃないですか?」、さらりと返してきた彼女! 「ほお~っ」! 私は正直、唸らされた、この一言に惚れた。

大いに乗り気になった彼女は「お酒でも飲みながら続けません?」と出てきた。ハイミナールで精神ハイな私はこのうえお酒はヤバイと思ったけれど乗り気は私も同じで「ええでしょう」と受けた。サンドイッチ一人分を夕食代わりにして二人はフランセを出た。

木屋町のスナック風バーでは彼女はめっぽうお酒に強くタバコもふかして外見ではわからない一面を見せた。私はウィスキーコーク一杯をちびりちびりなめるだけ。

酒が入ると饒舌になった彼女は文学論を展開。明治の近代黎明期に彗星のごとく現れた「元始、女は太陽であった」の平塚らいてうや樋口一葉が憧れの作家、与謝野晶子はあまり好きじゃない、いま倉橋由美子だとかがいるけど自分は現代の新しい女性や若者を描く新しい作家になる、だから貴男にも興味があるの……等々、野心満々の話は尽きることがなかった。「僕は文学は門外漢、でも貴女の話はとても面白い」、私は話に引き込まれた。大人しい女子大生風の見かけによらず意志の強い女性だった。

一方的な文学論を夜遅くまで続けるうちに深酒してろれつも怪しく足取りも覚束なくなった彼女、それもまた「詩人」の微笑ましい一面。結局、私がタクシーで送り届ける羽目に。民家の下宿生だと思いきや着いたところは当時まだ珍しい広い6畳間ほどの学生アパート、富裕家庭の子女なんだと了解した。

その日は彼女になんか勇気をもらったようで久しぶりに心は晴々、終電車もなくなり泊めてもらう友人の下宿へと長い夜道を快い余韻に酔いながら歩いた。

これがニーナ・シモンの取り持つ奇妙な縁、新たな出会いの始まり。たった一日で多くのことを語り合った不思議なこの日のことはいまも記憶に鮮やか。

「作家志望の詩人」と私の次の一歩、「跳んでみたいな」行動を共にするようになるのは後日のこと。(つづく)

《若林盛亮》ロックと革命 in 京都 1964-1970
〈01〉ビートルズ「抱きしめたい」17歳の革命
〈02〉「しあんくれ~る」-ニーナ・シモンの取り持つ奇妙な出会い

若林盛亮さん

▼若林盛亮(わかばやし・もりあき)さん
1947年2月滋賀県生れ、長髪問題契機に進学校ドロップアウト、同志社大入学後「裸のラリーズ」結成を経て東大安田講堂で逮捕、1970年によど号赤軍として渡朝、現在「かりの会」「アジアの内の日本の会」成員

『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』(紙の爆弾 2021年12月号増刊)

『一九七〇年 端境期の時代』

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