青色LEDの開発でノーベル物理学賞の受賞が決まった米カリフォルニア大サンタバーバラ校教授の中村修二氏が文化勲章を受章した会見で次のように発言し、元勤務先の日亜化学工業と仲直りしたい意向を表明したそうだ。

「受章を機に、(社員だった)日亜化学工業と関係の改善を図りたい」(時事通信)
「日亜がLEDで世界をリードしたからこそ、私のノーベル賞につながった。小川英治社長、青色LEDの開発をともにした6人の部下、全社員に感謝したい」(スポーツ報知)

中村氏といえば、2004年、日亜社に発明の対価を求めた特許訴訟の第一審で約200億円の支払い命令を勝ち取って話題になった。これに日亜社側が控訴、翌年、最終的に日亜社が約8億4000円を支払うことで和解が成立した際には、失望感をにじませて不満のコメントを言い連ねたものだった。しかし10年近い年月を経て、かつて身を置いた会社から受けた恩義の大きさに改めて気づいたようだ。

残念ながら日亜社側は中村氏と仲直りする気がまったくないようだが、筆者はこのニュースを聞き、9年近く前に会った、ある人のことを思い出していた。その人の名は中松義郎(86)。「ドクター・中松」の異名でお馴染みの発明家だ。

取材の際にもらった中松氏の2003年9月発行の著書「ドクター・中松の発明伝説」(本体3000+税)

◆商社マンだったドクター・中松氏

中松氏と会ったのは2006年の2月初めのことだった。筆者は当時、ある夕刊紙で著名人に無名時代を振り返ってもらうインタビュー記事を毎週一本書かせてもらっており、その企画の一環として中松氏にも少年時代やサラリーマン時代の話を聞かせてもらったのだ。

国内では中村氏と同等以上に有名な発明家である中松氏だが、東京都知事選に何度も立候補するなど言動が破天荒なため、世間では奇人変人のたぐいと見る向きもある。だが、その経歴は華麗である。

東大の工学部を卒業後、最初に選んだ進路は大手総合商社の三井物産。学生時代から種々の発明に取り組んでおり、卒業後はメーカーで技術者になることも考えたが、「エンジニアではなく、ブン(文)ジニアになるべき」という考えからの選択だったという。

三井物産入社後はヘリコプターを売る部署に。当時は軍用でしかなかったヘリコプターに自ら発明した農薬散布装置や空から安全に電線を張る装置をつけ、農業関連の会社や電力会社に売りまくり、ベストセールスマンになったという。

「東大時代に開発したフロッピーディスクが話題になり、会社の株が1日に14円上がったこともありました。幹部に『中松室』をつくるから発明に専念してくれと言われ、女子社員にもモテモテでした」

そう語る中松氏は当時すでに70代後半だったが、気さくで、暖かみのある人だった。話の受け答えなどから常人離れした頭の良さを感じさせる人でもあった。29歳で三井物産から独立し、実業家兼発明家としての人生を歩んだが、取材の際に訪ねた経営する会社「ドクター中松創研」の建物は大変立派で、思ったより多くの従業員が働いていた。経済的成功を収めていることは間違いなかった。

◆「発明の基本は愛」

では、冒頭の中村氏のニュースに触れ、筆者が中松氏のことを思い出したのはなぜか。それは取材の際、辞めてから半世紀近くも経つ三井物産に対し、「ビジネスの基本を教わった」「自分の重要なヒストリーの一部」と強い愛着を語っていたからだ。中松氏はちょうどこの頃、中村氏ら研究者や技術者が勤務先の会社に対し、発明の対価を求める例が増えていた風潮について、こんな違和感も口にしていた。

「発明は儲けるための道具ではない。発明の基本は愛なんです」

実際、中松氏が麻生中学2年生の時、自ら手続きをして最初に特許をとった「無燃料暖房装置」は、冬の時期に寒い台所で働く母親を楽にさせたいという思いで発明したものだったという。

ノーベル賞を受賞した中村氏と、イグ・ノーベル賞を受賞した中松氏。どちらが発明家として優れているのかは、筆者にはわからない。しかし、今回の中村氏に関するニュースを見る限り、中松氏が子供の頃から自然に「発明の基本は愛」という考え方を身につけていたのに対し、中村氏は人生の終盤になり、ようやく同じ境地にたどり着けたようにも見える。

中松氏は今年6月、前立腺ガンに冒されて2015年末までの命と宣告されたことを告白。現在はガンを直すための発明に励んでいるそうだが、良い結果が出て欲しい。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年、広島市生まれ。早稲田大学商学部卒業後、フリーのライターに。新旧様々な事件の知られざる事実や冤罪、捜査機関の不正を独自取材で発掘している。広島市在住。

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