カルテルや暴力、ギャラ、男女関係など、これまで本連載で解説してきたようにタレントの独立や移籍には、いくつかのパターンがあるが、それらが複雑に絡むのが、演歌歌手、八代亜紀のケースだ。

八代亜紀は、中学校を卒業してから、15歳で熊本から上京し、歌手を目指して銀座のクラブで歌っていたが、読売テレビのオーディション番組『全日本歌謡選手権』で10週連続勝ち抜きでグランドチャンピオンに輝き、1971年、テイチクより「愛は死んでも」でデビューした。73年には『なみだ恋』が120万枚を売り上げる大ヒット曲となり、スター歌手の仲間入りをした。

◆1980年の『雨の慕情』──縁起の良い8並びの年にレコード大賞を掴み取る

『Mr.SOMETHING BLUE - Aki's Jazzy Selection』(2013年3月20日日本コロムビア)

1980年には、五木ひろしと一騎打ちでレコード大賞獲得を争ったが、この戦いは「五八戦争」と呼ばれ、事前運動で多額のお金が飛び交ったとされている。それまで八代は、実力派と言われながら、なかなかレコード大賞を獲れなかったが、この年は、デビュー8周年、八代、80年代最初の年と、8並びで縁起がいいことから、八代陣営は大賞獲りに力を入れていた。「八代はレコード大賞を獲れなければ、所属事務所の六本木オフィスから独立する」とも言われていたが、結局、1億円も投じて事前運動を展開したと言われた八代が『雨の慕情』で大賞を獲得した。

ところが、翌81年、八代のレコード売上は激減してしまった。これに不満を持った八代は、事務所からの独立を口にするようになった。頭を抱えた六本木オフィスは、業界の実力者で長良事務所を経営する長良じゅん(神林義忠)に依頼し、長良が八代の独立を阻止したと言われる。

とはいえ、その後もレコードが売れないという状況は続いた。八代の不満は募り、その矛先が所属レコード会社であるテイチクに向けられ、81年12月、八代はテイチクとの契約を解除した。

『夢の夜 ライヴ・イン・ニューヨーク Live』(2013年8月21日ユニバーサルミュージック)

◆八代が出逢った男たち

八代がテイチクとの契約を解除した直接の理由は、テイチクの社員で八代の担当ディレクターだった中島賢二の退社だった。中島は八代が『全日本歌謡選手権』に出場していたころから交際し、二人三脚でスター街道を走り、妻子がある身ながら、八代の愛人と言われ、八代の個人会社の取締役も務めていた。

だが、八代のレコードの売れ行きが落ちてゆくと中島は社内での立場を失っていった。81年暮れに、八代は契約更新の条件として中島の昇進を申し入れたが、テイチクはこれを受け入れず、中島は退社に追い込まれた。八代は「育ての恩人を冷たくしたテイチクにはいられない」と主張し、テイチクとの契約を解除した。

82年1月、中島の友人でハワイで不動産業を営む清原兼定が社長となり、八代のためのレコード会社としてセンチュリーレコードが設立され、83年には中島も取締役として経営に参画した。

センチュリーレコードは、発足1年目は年商4億円とそれなりに稼いだが、八代の不振もあり、次第に業績を悪化させていった。センチュリーとしては八代以外の歌手も売り出したかったが、そうすると八代が機嫌を損ねてしまう。センチュリーレコードは、赤字に転じた。

そして、83年ごろ、八代が新宿コマ劇場で舞台の稽古をしていた時に、腰を痛めるアクシデントが起きた。本来ならば、ゆっくり休養を取るところだが、火の車のセンチュリーは八代に仕事をさせようとした。そして、この頃から、八代と中島は口論するようになり、85年の初夏には完全に破局したという。そして、八代の新しい恋人として浮上したのが、山口組三代目組長、田岡一雄の長男で実業家の満だった。

85年秋、八代は六本木オフィスから独立して、新事務所、AKI音楽事務所を設立した。この動きに六本木オフィスの幹部は激怒し、「八代をこの業界から追放してやる」と息巻いていたというが、さらに八代は86年1月16日、センチュリーレコードからコロムビアレコードへの移籍を発表した。寝耳に水のセンチュリーレコードは、これに慌てた。センチュリーレコードには、八代以外には有力歌手が所属していない。八代の流出は、経営危機に直結する。マスコミは、中島との関係終演が移籍の原因とはやし立てた。

レコード会社の業界団体である日本レコード協会には、レコード会社間での歌手の引き抜きを禁じるカルテルがあると言われる。また、大手芸能事務所が加盟する業界団体、日本音楽事業者協会では、タレントの引き抜き禁止、独立阻止で一致団結している。

筆者が調べた限りでは、レコード業界のカルテルの拘束力はあまり強くない。問題は芸能事務所間の移籍、独立だ。大手芸能事務所から独立して、干されたタレントは数知れない。

◆男を後ろ盾にレコード会社の圧力を乗り越える

八代の一連の独立、移籍劇の背景について、芸能ジャーナリストの本多圭は、こう指摘している。

「いろいろな情報が乱れとんだ。その中で信ぴょう性がある話がひとつだけあった。その内容は、『八代が田岡にレコード会社を移りたいと相談をもちかけたんです。そこに田岡がお嬢(美空ひばり)になんとかしてやってくれと頼み、それをお嬢がコロムビアの正坊地会長にリレーした』というものだった。(中略)寄ってたかって、八代潰しに奔走するはずだ。ところが、そういう声があったものの、動いた様子は見当たらない。八代のバックに田岡の気配を感じたに他ならないからと言えまいか」(『噂の真相』86年10月号)

女性タレントの独立、移籍事件が起きると、しばしば「男が入れ知恵をしている」と報じられる。女性タレントの独立、移籍を阻止するには、バックにいる「男」を潰さなければならない、というのが芸能界の論理であり、メディアもそれに引きずられる傾向がある。

近年のケースで言えば、沢尻エリカの独立や小林幸子の事務所社長解任事件、安室奈美恵の独立なども、その構図の中で起きた。

だが、八代の場合は、バックにいた男というのが暴力を背景に興行界に影響力を持つ大物であり、芸能界としても潰すに潰せない相手だったという点で事情が大きく異なる。

結局、八代に去られたセンチュリーレコードは、有効な対抗策を打ち出せず、86年7月に2度目の不渡り手形を出して事実上の倒産状態となった。一方の八代は翌月8月22日にコロムビア移籍第1弾シングル『港町純情』をリリースし、その後も芸能活動を続けていった。八代は男を乗り換えながら、自分の芸能人生を切り開く、たくましさを持っていたのである。

▼星野陽平(ほしの・ようへい)
フリーライター。1976年生まれ、東京都出身。早稻田大学商学部卒業。著書に『芸能人はなぜ干されるのか?』(鹿砦社)、編著に『実録!株式市場のカラクリ』(イースト・プレス)などがある。

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