ラウンドガール物語《前編》──80年代に始まった華やかさの進化

「神聖なリングに、男の命懸けた戦場に、女が上がるんじゃねえ!」
「おっ、可愛いねえ、○○ちゃ~ん、こっち向いて!」
なんと勝手な男どもの非難や声援。

爽やかお姉さん。REBELS興行にて(2014.1.26)

いつからラウンドガールという華やかな存在が始まったのでしょう。TBSでやっていたキックボクシングでは観た覚えがありませんが、その後の日米大決戦と言われた全米プロ空手との絡みでは、アメリカ人ラウンドガールがラウンドボードを持ってリングを歩いていました。

◆地味で素っ気ない1981年から転機となった1987年

1981年(昭和56年)頃のラウンドガールは、柄のついたボードを持ってリングのロープの縁(へり)に沿って真っすぐ前を向いて歩いていました。赤・青コーナーは避けつつ、ニュートラルコーナーは直角に曲がり、笑顔も無くさっさと早歩きで一周し、20秒ほどでリングを降りてしまう素っ気ないウォーキングが多い感じでした。

3人登場でグローブ着用のパフォーマンス(2014.3.9)

1987年(昭和62年)7月15日の新生・全日本キックボクシング連盟初回興行に向けて前月、ミススコアガールコンテストが行われ、50名ほどの20歳前後の女性が連盟役員に水着審査されるイベントが開催されてました。名称は翌年「ミスラウンドガールコンテスト」に変えられましたが、4年ほど続いたと思われます。

毎年このコンテストから選ばれたミス、準ミス計3名のラウンドガールから、単に歩くだけのラウンドボード披露から、笑顔振りまいたり、観客に手を振ったり、ラウンドボードをしっかり観衆に見えるようにロープとほぼ平行気味に持ったり、リング中央に出て、その場でクルッともう一回転して下がるという工夫を凝らすようになっていきました。

ゲスト来場の仁科仁美さんも特別ラウンドガールとして登場(2014.11.16)

1分間のインターバルでリング上に立っていられる40秒ほどの時間を上手く使い、セコンドアウトのホイッスル(またはブザー)が鳴ったらラウンドガールも直ちにリングを降りなければいけません。別団体で、セコンドアウトの意味がわからないラウンドガールが、ゴング鳴るまでリング上に居たケースがありましたが、わずか2~3秒ながら、観衆からドッと驚きの笑いが起きていました。

その後は各団体でもウォーキングに工夫が増していきました。いっしょに2名のラウンドガール同時登場や、水着も派手になったり季節に合わせた特徴あるコスチュームになったり、観衆の眼を楽しませる方向に進化してきました。選手のトランクスやガウンのように、スポンサー名の入ったコスチュームやラウンドボードも登場。

◆1999年の衝撃──ラウンドボーイ、江頭2:50も登場!

ラウンドボードは放り出し、座禅は組んで飛び跳ね、ホイッスルが鳴って大慌て(1999.1.24)
主役を奪ってしまう人気の江頭2:50(1999.1.24 )

中でも予想外のインパクトを与えたのが、ラウンドボーイ江頭2:50の登場。その前のインターバルまで通常のラウンドガール登場の後、次のインターバルで江頭2:50が、例の黒タイツで登場。媚びるような笑顔を振りまき、単なるウォーキングから次第に調子に乗り出し、何度かの登場で飛び跳ねて転がったり、座禅組んで飛び上がったりのいつものネタを40秒で披露、観衆が大爆笑。

しかも、それが次のラウンドが始まってもその余韻が残る状態。真剣勝負のキックボクシングの公式試合中に、許された空間とはいえ、意外性を突いたことは見事な演出でしたが、江頭氏が有名過ぎと暴れ過ぎが試合よりインパクトを与えてしまったことに想定外の結果だったかもしれません。もうかなり古い話になりますが。

また10年ぐらい前のある時のプロボクシングでのラウンドガールで、Tシャツ短パン姿のとってもおデブさんが登場したことがありました。それはダイエットに関するエクササイズなどの、宣伝効果を狙ってのスタッフだったと思います。その内容のリングアナウンスはされていましたので、もちろん“誰でもいい”という選出ではありません。明るく笑顔で軽やかにウォーキングされた、とても爽やかなラウンド“おデブさん”ガールでした。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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