《冤死の淵で》阿佐吉廣氏(山梨キャンプ場殺人事件) 母との再会を一途に願って

外部との交流を厳しく制限され、獄中生活の実相が世間にほとんど知られていない死刑囚たち。その中には、実際には無実の者も少なくない。冤罪死刑囚8人が冤死の淵で書き綴った貴重な文書を紹介する。8人目は、山梨キャンプ場殺人事件の阿佐吉廣氏(67)。

阿佐氏が綴った手記の原本計16枚

◆「虚偽証言だけで死刑が確定」

〈今、私は、山梨キャンプ場殺人事件で共犯と呼ばれる、元社員達の、自分の罪を軽くしたい、あるいは逃がれたいと思う虚偽証言だけで死刑が確定いたしました。他に証拠は何ひとつありません。〉

これは、今年2月に発売された私の編著「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(鹿砦社)に、阿佐氏が寄稿した手記の一節だ。

事件が発覚したのは03年の秋だった。山梨県警がタレコミ情報をもとに都留市のキャンプ場で、3人の遺体が埋められているのを発見。3人は阿佐氏が営む会社「朝日建設」の元従業員だった。阿佐氏は、部下らと共に殺人などの罪に問われ、「自分は無関係」と無実を訴えたが、12年に最高裁で死刑が確定。現在は死刑囚として東京拘置所に収容されつつ、甲府地裁に再審請求中である。

阿佐氏が収容されている東京拘置所

◆冤罪を疑う声が多い理由

専門筋の間では、阿佐氏の冤罪を疑う声は非常に多いのだが、その最大の理由は、裁判で共犯者とされる元部下がこんな証言をしたことである。

「取り調べや裁判の最初の頃には、阿佐社長が被害者らを殺し、私たちも手伝ったと証言していましたが、あれは嘘です。本当は、阿佐社長は殺害の現場にいなかったのです」

この元部下によると、殺害行為を実行したのは、事件発覚時にはすでに死去していた「副社長格のY」だった。Yは被害者らとトラブルになり、首を絞めて殺害したが、その時に元部下も被害者の足を押さえるなどして手伝った。しかし警察の取り調べでは、阿佐氏が主犯だというストーリーを押しつけられたという。

「私は朝日建設を辞める際、阿佐社長に見捨てられたように感じて恨んでいたので、阿佐社長が被害者を殺害したとみていた警察に、話を合わせてしまったのです。でも、自分の嘘で阿佐社長が死刑にされたことに耐えられなくなり、本当のことを話したのです」(同)

一方、東京拘置所で収容中の阿佐氏は、前掲の手記で、自分を貶めるウソの供述をした共犯者たちへの思いも次のように綴っている。

〈彼らの虚偽「供述」や虚偽「証言」は決して彼らが意図して言ったものでは無く、取調官に誘導され、強要されて出来上ったものです。その冤罪の被害者は私だけでなく、彼らも被害者なのです。私は、だからこそ一日も早く、真実を明らかにして、楽な気持にさせてやりたいとの思いで一杯なのです。〉

この文章からは、凶悪殺人犯として死刑判決を受けた阿佐氏が本来、暖かい人柄の人物であることが窺える。

阿佐氏の再審請求が審理されている甲府地裁

◆一目でいい、母に会って・・・

徳島県出身の阿佐氏には、裁判中から遠路はるばる面会に来てくれていた母親がいる。80代後半になり、現在は認知症に陥っているというが、前掲の手記には、その母親への思いも綴られている。

〈私の大切な、たった一人の母も、ときどきは正気に戻る時には、私に会いたいと切望していることでしょう。私も一目でいい、母に会ってこの胸、一杯にある感謝の言葉を伝えたいと思っております。〉

人は極限的な状況に置かれた時、何より心の拠り所にするのはやはり肉親ではないか。阿佐氏の手記はそんな感想を抱かせる。前掲書に掲載された手記全文には、母との思い出や阿佐氏の半生、事件の経緯などが克明に綴られている。
 
【冤死】
1 動詞 ぬれぎぬを着せられて死ぬ。不当な仕打ちを受けて死ぬ。
2 動詞+結果補語 ひどいぬれぎぬを着せる、ひどい仕打ちをする。
白水社中国語辞典より)

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

 「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)
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無罪維持の公算高い大阪母子殺害第2次控訴審 被告が訴える「もうひとつの冤罪」

2002年に大阪市平野区で起きた母子殺害事件で、1度は死刑判決を受けながら逆転無罪を勝ち取った大阪刑務所の刑務官、森健充被告(59、現在は休職中)に対する大阪高裁の第2次控訴審が9月13日、結審した。判決は来年3月2日に宣告されるが、無罪判決が維持されるだろうというのが大方の見方だ。もっとも、そうなっても森被告は手放しで喜べないかもしれない。森被告はこの事件のこと以外でもう1つ、冤罪を訴えているからだ。

森被告の第2次控訴審が行われている大阪高裁

◆逆転無罪の経緯

事件の経緯は次のようなものである。

大阪市平野区でマンションの一室が全焼し、焼け跡から住人で主婦の森まゆみさん(当時28)と長男の瞳真(とうま)くん(同1)の遺体が見つかったのは2002年4月のこと。まゆみさんの首には、犬のリードが巻きつけられており、瞳真くんは浴槽の水に服を着たままの姿で浮かんでいたという。そして事件の7カ月後、大阪府警が殺人の容疑で逮捕したのが、まゆみさんの義父である森被告だった

森被告は一貫して無実を主張。裁判は第1審が無期懲役、第2審が死刑という結果になりながら、最高裁が審理を差し戻した大阪地裁の第2次第1審で逆転無罪判決が宣告されるという劇的な展開を辿った。これを検察が不服として控訴し、現在は第2次控訴審が行われているわけである。

もっとも、元々物証が乏しかったうえ、第2次控訴審で検察側が「最後の抵抗」として行ったDNA鑑定では、むしろ森被告の無実を裏づけるような結果が示された。凶器である犬のリードや、2人の被害者の着衣が徹底的に調べられたにも関わらず、森被告のDNA型が一切検出されなかったのである。

それゆえに、第2次控訴審では無罪判決が維持される公算が高いとみられているのだが、では、森被告が訴えている「もう1つの冤罪」とは何なのか。それは、事件前に被害者のまゆみさんに行っていたとされる「求愛」や「性的な接触」に関することである。

現場のマンションはこの通り沿いにある。今は地元でも事件を知らない人が多い

◆「求愛」や「性的な接触」は本当にあったのか

そもそも、この事件で森被告が警察に疑われた理由は、事件前にまゆみさん夫婦との間で人間関係の問題が生じていたことだった。

まず、森被告は事件当時、妻の連れ子である「まゆみさんの夫」と非常に仲が悪かった。森被告がまゆみさんの夫の金銭問題の尻拭いで大変な目に遭っていたにも関わらず、まゆみさんの夫が不義理な態度をとり続けていたことなどが原因だ。それに加え、まゆみさんは事件前、義理の母である森被告の妻に対し、次のようなことを訴えていたのである。

「一緒に古新聞を運んでいる際に、エレベーターの中でお義父さんに抱きつかれた」

「キッチンでいきなり、お義父さんに首にキスされた」

「お義父さんに『まゆみのことが好きや』と言われたり、無理やり手を引っ張られて、勃起した部分を触らせられたりした。また、自分はセックスが上手であるという話をされ、『一回試してみよう』と手を引っ張られたので、流し台のワゴンをつかんで抵抗した」

「お義父さんから、愛を告白する『あいこくめーる』が送られてきた」

まゆみさんのこうした訴えは第1審判決、控訴審判決共に事実と認めているのだが、審理を差し戻した最高裁判決や差し戻し審の無罪判決でも、これらの事実関係はとくに否定されていない。しかし、実を言うと森被告は、まゆみさんに対するこれらの行為についても事実関係を否定しているのである。

実際問題、森被告がこれらの行為をまゆみさんに行っていたと示す証拠は、亡くなったまゆみさんの証言以外には存在しない。そういう意味では、「もう1つの冤罪」である可能性も否定し難いところなのである。来年3月2日に宣告される第2次控訴審の判決では、この部分についても何らかの判断が示されて欲しいものである。

なお、私は現在発売中の「冤罪File」第26号で、検察側の「真犯人放置疑惑」についてもレポートしている。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

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大阪・都島区現金輸送車襲撃事件──獄中から主張する「知られざる冤罪」

ひと昔前に比べると、テレビや新聞で冤罪の話題が取り上げられる機会が増えているが、それでもまだ「知られざる冤罪」は数多い。私がその1つかもしれないと思っているのが、10月5日で発生から15年を迎えた大阪市都島区の現金輸送車襲撃事件だ。この事件の犯人とされる男は、「ある事情」からマスコミで頻繁に取り上げられた有名人だが、現在も獄中で冤罪を訴え続けている。

中村に無期懲役判決を宣告した大阪地裁

◆冤罪を訴えているのは「警察庁長官狙撃犯」

大阪市都島区の三井住友銀行都島支店(現在は都島出張所)の駐車場で、男性警備員(当時53)が左下腿部(ヒザから足首までの部分)を銃撃される事件が起きたのは2001年10月5日の午前10時半頃だった。犯人は、男性警備員が現金輸送車から下ろし、行内に運び込もうとしていた現金500万円入りのジュラルミンケースを奪って逃走。撃たれた男性警備員は生命に別条はなかったものの、全治まで1年5カ月も要した重傷だった。

そんな大事件の捜査は思いのほか難航したが、容疑者は意外なところから浮上した。2002年11月、名古屋市のUFJ銀行押切支店の駐車場で、現金輸送車から現金を行内に運んでいた2人の警備員が銃撃されるという類似事件が発生。1人は両足に銃弾を受けて重傷を負ったが、無傷で済んだもう1人の警備員が勇敢にも犯人の男をその場で取り押さえ、現行犯逮捕した。そして警察がこの男を調べたところ、実は大阪市都島区の事件にも関与している疑いが浮上したのである。

男の名は、中村泰(ひろし)という。逮捕当時72歳。事件モノのノンフィクションに関心を持つ人ならすぐにピンときただろうが、歴史的未解決事件の1つである警察庁長官狙撃事件の「真犯人」とめされる男だ。

◆現在は岐阜刑務所に服役中

中村は名古屋市の現金輸送車襲撃事件の容疑で逮捕されて以降、獄中にいながら様々な報道関係者と接触し、自分が警察庁長官狙撃事件の犯人だと訴えてきた。その訴えは非常に詳細かつ具体的で、事件に関する様々な事実関係とも整合するため、中村のことを「警察庁長官狙撃犯」だと信じている取材者は少なくない。かくいう私もその1人である。

しかし、大阪市の現金輸送車襲撃事件については、中村は2004年6月にこの事件の容疑で再逮捕されて以降、一貫して無実を訴えてきた。裁判では、2007年3月に大阪地裁で無期懲役判決を受け、控訴、上告も棄却されて2008年6月に有罪が確定したのだが、今も岐阜刑務所で服役生活を送りながら、冤罪を訴え続けているのである。

私は中村と手紙のやりとりをするようになって、かれこれ4年ほどになるが、ある時、大阪の現金輸送車襲撃事件が冤罪だと裏づける有力な根拠は何かあるのかと手紙で尋ねたところ、中村からこんな答えが返ってきた(以下、引用は原文ママ)。

「警察庁長官を撃った男」(鹿島圭介著・新潮文庫)。長官狙撃事件の真相に肉迫した一冊

◆冤罪の根拠は「銃弾の腔旋痕」

〈詳細に述べると一冊の本を書くほどにもなるかと思われるくらい錯綜した複雑な経緯がありますので、とうていこの書状だけで意を尽くせるものではありません。しかし、あえて結論を申せば、検察官の提示した証拠と論旨にはすべて反論できますし(現に公判でもそうしてきましたが)、疑わしきは被告人の利益にという道理が通るならば当然無罪になるべきものなのです。

最も決定的なものは銃弾の腔旋痕(旋条痕ともいわれます)ですが、これについては日本で最も権威があると認められる鑑定者が最新の機器を用いて得た鑑定結果と大阪府警の科捜研から出された通常のそれとのいずれかを採択するかの問題に集約されるといえましょう。

裁判所は遺棄薬莢については科警研の鑑定結果を、使用銃弾には(大阪府警)科捜研のものを採用するというきわめてご都合主義的な措置をとりました。このような対応は目撃者についても同様で、肯定的な証言は受け入れ、否定的なそれは排除したのです。こういうやり方をすれば冤罪を作り上げるのは容易になりましょう〉(2014年1月14日付けの手紙)

私は手紙で、「日本で最も権威があると認められる鑑定者が最新の機器を用いて得た鑑定結果」とはどういうものなのかと再質問した。すると、中村は次のように回答してきた。

〈鑑定者は(全国警察の鑑定業務の総元締ともいえる)科警研の内山常雄技官(現在は退官)で、この人は確か日本人では唯一USAで最も権威がある銃器鑑定員の資格を取得しています。私は法廷で直接対決しましたが、その見識は(名古屋の事件で登場した)愛知県警科捜研の鑑定員などとは雲泥の差でした〉(2014年3月2日付けの手紙)

〈「最新の機器」の詳しい内容までは承知していませんが、全国でも科警研にしかないものだとは聞いています。だからこそ府警の鑑定結果がかなり大ざっぱなのに対して、科警研のそれは小数点下一位までの精細な数字が明示されているのだと思います〉(前同)

この中村の話だけで安易に冤罪だと決めつけるわけにもいかない。しかし私は、理路整然とした中村の主張には安易に否定したがい説得力があるように思えた。現在86歳になった中村は昨年、ガンの手術をするなど健康状態が良くないが、元気になってくれたら、この大阪の現金輸送車襲撃事件の真相も改めて詳細に語ってもらいたいと私は考えている。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

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発生17年 警視庁が未解決のまま放置する目黒区「バラバラ殺人」事件

重大な未解決事件でありながら、警察が継続的に捜査している様子が見受けられない事件は案外少なくない。10月1日で発生から17年を迎えた東京都目黒区の「バラバラ殺人」事件もその1つだ。事件は今、一体どうなっているのか。

猟奇的バラバラ事件の舞台となった目黒不動尊瀧泉寺

◆見つかった遺体の断片は計30以上

サツマイモを日本全国に広めた江戸時代の蘭学者・青木昆陽の墓があることで有名な目黒区の目黒不動尊(瀧泉寺)の駐車場で、男性の「下腹部」が見つかったのは1999年10月1日のことだった。見つかった下腹部は鋭利な刃物で切り取られていたが、周辺に血痕は確認されず、何者かが別の場所から持ち込んだものと推定された。

警視庁が殺人・死体遺棄事件とみて、捜査に乗り出したところ、翌日までに目黒不動尊の境内の植え込みの土中から手首や内臓など、新たに10以上の遺体の断片が見つかった。さらに目黒不動尊の約200メートル西方にある「都立林試の森公園」の雑木林からも、同じ男性のものとみられる足の骨や背中が見つかった。発見された遺体の断片は計30を超えたといい、あまりに異常な猟奇的事件だった。

頭部は結局見つからずじまいだったが、ほどなく指紋などから遺体の身元は判明する。被害者は生衛群さん、当時37歳。豊島区南大塚で電気部品の販売業を営んでいた中国人の男性だった。遺体が見つかる数日前から行方がわからなくなっていたという。

「林試の森公園」でも足の骨や背中が見つかった

◆事件直後に「重要参考人」が浮上していたが・・・

この猟奇的事件は結局、現在に至るまで未解決なのだが、実は事件発覚直後、1人の男性が「重要参考人」として、捜査線上に浮上していた。その男性は現場の近くに住む40代の中国人A氏で、被害者の生衛群さんに借金の返済を求めていたという。

当時から地元で暮らす男性はこの中国人男性A氏について、次のように話した。

「警察は私のところに色々話を聞きに来ましたけど、その中国人の男が犯人ということで間違いないと言っていましたよ。ただ、自白がとれなかったんで、逮捕できなかったみたいです。その人はもうこのへんには住んでいません。中国に帰ったんだろうと思います」

この地元男性の話は憶測交じりの内容で、鵜呑みにするのは危険だと思えた。そもそも、本当にA氏が犯人なら、自宅周辺に被害者のバラバラ死体をばらまいて回るように遺棄するだろうかという疑問もある。むしろ、この地元男性が言うように本当に警察が早い段階から中国人男性A氏を犯人と決めつけていたのなら、真犯人を取り逃していても不思議ではないように思われた。

目黒不動尊の境内の階段には、人の毛髪が大量に落ちていたという情報もある

◆情報提供を呼びかけない警視庁

警視庁はホームページで、様々な未解決事件に関する情報提供を呼び掛けている。だが、この目黒の「バラバラ殺人」事件に関する情報提供は一切呼びかけていない。この事実からは、警視庁がこの事件について、もはや捜査する意欲を有していないことが読み取れる。それはやはり、警視庁としては「重要参考人」とみていた中国人A氏のことを犯人だと結論づけているからだろうか。

いずれにせよ、異国の地で生命を落とし、遺体をバラバラにされて遺棄された中国人男性の無念は計り知れない。その魂は今も成仏できず、目黒不動尊の境内やその周辺で彷徨っているのではないか。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

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神戸・長田小1女児殺害事件 発生から2年が過ぎても生々しい現場の傷跡

2014年に神戸市長田区で小1の女児が失踪し、バラバラの遺体となって見つかった猟奇的殺人事件が起きてから9月23日(=遺体が見つかった日)で2年が過ぎた。殺人や死体遺棄などの罪に問われた君野康弘被告(49)は今年3月18日、神戸地裁の裁判員裁判で死刑判決を受けたが、年月が過ぎても事件の現場に刻まれた傷跡は生々しいままだ。

金網で囲まれた遺体遺棄現場の雑木林。花が供えられていた

◆金網が醸し出すワケアリ感

私が事件の現場を歩いたのは、君野被告に死刑判決が宣告されてからちょうど一週間後の今年3月25日のことだった。判決によると、君野被告は2014年9月11日、自宅アパート近くの路上で被害女児に対し、わいせつ行為をするために「絵のモデルになって」と声をかけて自室に誘い込んだ。そして女児の首をビニールロープで絞めたうえ、首を包丁で少なくとも4回刺して殺害。遺体を切断し、複数のビニール袋に入れて、近くの雑木林などに遺棄した――とされている。

現地を訪ね、まず何より痛ましく感じたのは、女児の遺体が遺棄された雑木林が金網のフェンスで囲まれていたことだった。この近くに住んでいる男性によると、「事件後に神戸市が土地を買い取って、誰も中に入れない状態にしたんです」とのことだが、金網のフェンスで囲まれた雑木林には、なんともいえないワケアリ感が漂っていた。このまま雑木林が放置されたら、周辺の住民はいつまでも事件の痛ましい記憶を消し去ることができないだろう。

金網で囲まれた遺体遺棄現場はワケアリ感が漂っている

◆被告の自宅アパートには大量のツタが……

しかし現地には、それ以上に生々しく事件を思い出させる場所があった。それは、君野被告が暮らしていた殺害現場のアパートである。ゆうに築30年は経っていそうな古びた建物の外壁には、生い茂ったツタが張りついていて、なんとも不気味な様相を呈していた。とりわけ君野被告が住んでいた部屋やその広々としたベランダには、大量のツタがまるで意思を持っているかのようにまとわりついていた。大家が手入れをせず、放置しているのだと思われるが、これでは次の借り手は到底見つからないだろう。

外から様子を窺ったところ、アパートにはまだ一室、住人がいる気配のある部屋もあったが、それ以外は空き部屋のようだった。私には、このアパートの大家も事件の被害者であるように思えた。

君野被告の住んでいた部屋とベランダは大量のツタがまとわりついていた…

◆事件に残された疑問

一方、君野被告は裁判員裁判の死刑判決を不服とし、現在は大阪高裁に上告中である。君野被告は公判で自分が犯人であることを認めつつ、誘拐の動機については、わいせつ目的だったことを否定し、「女児と話をしたかっただけ」と主張しており、控訴審でもこの主張を維持するとみられる。実際問題、君野被告は犯行前にアダルトサイトをかなり熱心に観ていたとされ、性的に興奮していたと考えられる一方、女児にわいせつ行為をしたという事実はないようなので、事件の真相がすべて解明されたかというと疑問も残る。この事件については、今後も折をみて、取材結果を報告したい。

▼片岡健(かたおか けん)
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《冤死の淵で》高橋和利氏(鶴見事件) 手記に綴った司法権力への満腔の怒り

外部との交流を厳しく制限され、獄中生活の実相が世間にほとんど知られていない死刑囚たち。その中には、実際には無実の者も少なくない。冤罪死刑囚8人が冤死の淵で書き綴った貴重な文書を紹介する。7人目は、鶴見事件の高橋和利氏(82)。

◆80代まで生き永らえた原動力

今年2月に発売された私の編著「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(鹿砦社)には、高橋氏も手記を寄稿してくれている。その手記は次のような冒頭の一文が非常に印象的である。

〈八十一歳。私をこの歳まで生き永らえさせているものは、足の先から頭の天辺にまで詰まり凝り固まっている司法権力への失望と満腔の怒りだ〉

横浜市鶴見区の小さな金融会社で、経営者の夫婦が殺害される事件が起きたのは1988年6月20日のこと。ほどなく殺人の容疑で検挙されたのが、現場の金融会社に出入りしていた電気工事会社の経営者で、当時54歳の高橋氏だった。それから28年。この間に高橋氏は無実を訴えながら死刑判決が確定し、再審請求も退けられているが、裁判の過程では、冤罪であることを示す数々の事実が浮き彫りになっていた。それゆえに高橋氏は、司法権力に対し、〈満腔の怒り〉を抱くに至ったのである。

髙橋氏が綴った手記の原本計20枚

◆捜査や裁判を舌鋒鋭く批判

そもそも、高橋氏がこの事件の犯人ではないかと疑われた原因は、事件の日に現場の金融会社を訪ね、被害者夫婦が殺害されているのを目撃しながら、警察に通報せず、その場にあった現金を持ち逃げしたことによる。つまり、第一発見者が犯人にすり替わってしまったのだが、この経緯を見る限り、高橋さんにも落ち度はある。

しかし裁判では、事実上唯一の有罪証拠である自白には、様々な不自然な点が見つかった。しかも、高橋さんは取り調べに対し「凶器のバールやプラスドライバーはゴミ集積場に捨てた」と自白しているにも関わらず、なぜか凶器は見つかっていない。しかも、現場の金融会社は事件の4カ月前にも窃盗に入られ、融資の借用証や不動産の権利証などの重要書類を盗まれているなど、「別の真犯人」が存在することを窺わせる事情も色々存在したのである。

高橋氏が収容されている東京拘置所

それゆえに高橋氏の捜査批判、裁判批判の舌鋒は鋭い。

〈取り調べの凄まじさは話の外で、思うだけで抑え難い怒りでむかついてくる。(略)大声で罵倒、椅子、机を蹴り、足や脇腹を蹴り、髪を掴んで振り回し、体重をかけて覆いかぶさり机に押さえ付ける。そうしたことをいくら裁判官に訴えても、証人として出廷した警察官が捜査段階での暴力や脅しはなかったと証言しているのだから、そういう事実はなかったのだ。(略)裁判官には洞察眼の欠けらもない。被告に向けるのと同じ疑いの眼を、なぜ証人の警察官にも向けて見ようとはしないのか。〉

◆妻が語る冤罪死刑囚の実像

手記だけを読むと、雪冤に執念を燃やす高橋氏について、読者は気難しい人物なのではないかという印象を持ちそうだ。しかし、妻の京子氏によると、実際の高橋氏は会社に入ってきたカマキリを追い払うことすらできない優しい性格の人だったという。前掲書では、事件の詳細のほか、京子氏へのインタビューにより高橋氏の誠実な人柄も浮かび上がっている。
 
【冤死】
1 動詞 ぬれぎぬを着せられて死ぬ。不当な仕打ちを受けて死ぬ。
2 動詞+結果補語 ひどいぬれぎぬを着せる、ひどい仕打ちをする。
白水社中国語辞典より)

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

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控訴審も死刑の山口5人殺害事件 報じられない被告人の深刻な「病状」

2013年に山口県周南市の山あいの集落で住民5人が木の棒で撲殺された事件で、殺人罪などに問われた保見光成被告(66)の控訴審の判決公判が13日、広島高裁であり、多和田隆史裁判長は保見被告の控訴を棄却した。保見被告は1審・山口地裁で無実を主張しながら死刑判決を受けていたが、この死刑判決が控訴審で追認されたのだ。しかしこの裁判では、テレビ、新聞が深く踏み込まない重大な問題が浮上している――。

◆死刑事件の控訴審が証拠調べ無しで即日結審

保見被告の控訴を棄却した広島高裁

「人一人の生命を奪うのに、証拠も見ずに判決文を書いてしまう感覚が理解できません」

7月25日にあった初公判の終了後、保見被告の弁護団の一人は報道陣に対し、そんな裁判所批判を口にしていた。弁護団によると、この日までに弁護側は控訴趣意書と2通の控訴趣意書補充書を提出し、さらに52点の証拠調べを請求していた。だが同日の審理で、広島高裁は弁護側の証拠調べ請求をすべて退け、即日結審したのである。

無実を主張する保見被告の死刑判決を維持した控訴審の審理はかくもおざなりだったわけだが、この事件に冤罪の心配はないと言っていい。保見被告は裁判で、「被害者たちの脚を叩いただけ」と主張しているが、現場である被害者宅から保見被告のDNA型が見つかっているほか、凶器の木の棒に巻かれたビニールテープから保見被告の指紋も検出されているなど、保見被告が犯人だと裏づける証拠は揃っているからだ。

この裁判の問題は実質的にはただ1つ、保見被告の刑事責任能力である。

◆妄想性障害が認められても死刑

私は、裁判員裁判だった1審・山口地裁で保見被告の被告人質問があった公判を傍聴したが、保見被告は「被害者たちの脚を叩いた」動機について、様々な「嫌がらせ」を受けていたからだと訴えていた。しかし、その話の内容は荒唐無稽で、妄想としか思えないものだった。

「寝たきりの母がいる部屋に、隣のYさんが勝手に入ってきて、『ウンコくさい』と言われました」
「犬の飲み水に農薬を入れられ、自分が家でつくっていたカレーにも農薬を入れられました」
「Kさんは車をちょっと前進させたり、ちょっと後退したりということを繰り返し、自分を挑発してきました」

保見被告はこんな「嫌がらせ被害」を訴えながらハンドタオルで目頭を押さえており、本人は真実を話しているつもりのようだった。しかし結果、山口地裁は精神鑑定の結果に基づき、保見被告が「妄想性障害」に陥っていると認定。そのうえで「被告人の妄想は犯行動機を形成する過程に影響した」と認めつつ、「被害者らに報復するか否かは、被告人の元来の性格に基づいて選択された」と保見被告に完全責任能力があったと認定し、死刑を宣告したのである。

だが、控訴審の初公判終了後、弁護人の1人は報道陣に対し、次のように述べていた。

「1審の判決は、被告人の元来の性格によって報復が選択されたと言うが、その性格がどういうものかということは述べていません。保見さんは、それまでの人生で暴力的傾向は見受けられない人でした。それゆえに、犯行に及んだのは妄想性障害の影響が強いと我々は考えているんです」

そこで控訴審の弁護団は初公判で、「弁護側の証拠調べ請求をすべて退けるなら、裁判所が独自に精神鑑定をすべきだ」と求めた。しかし、広島高裁はその請求もあっさりと退けてしまったのだ。

保見被告が収容されている広島拘置所

◆被告人の深刻な状態

実際問題、第1審から取材してきた私には、保見被告の妄想性障害は「深刻な状態」であるように思えてならない。訴える「嫌がらせ被害」が荒唐無稽なのもさることながら、保見被告の公判中の態度からは裁判のことを何も理解できていない様子が見受けられるからだ。たとえば、無罪を主張する自分を弁護人たちが犯人と決めつけ、責任能力に関する主張をしているにも関わらず、顔色一つ変えずに話を聞いているところなどは最たるものである。

以下、初公判の終了後に控訴審の弁護団と報道陣の間で交わされていた一問一答である。

――保見被告は控訴審が即日結審し、自分の口で無実を訴える機会もなかったことをどう捉えているのか。
「本人としては裁判で言いたいことは色々あったと思います。ただ、そういう機会が認められなかったことについて、どう思っているのかはわかりません。接見で聞きます」

――保見被告は、冤罪で生命を奪われることへの恐怖心は抱いているのか。
「そういう様子は感じないですね。内心はわかりませんが、あまり現実感を持って死刑判決を受け止めていないように思えます」
「(裁判所に)説明すれば、わかってもらえるという考えのようです」

――そもそも、保見被告は弁護人や拘置所の職員、裁判官がそれぞれどういう人だか理解できているのか。
「わからないです。そういう話はしていません」

控訴審の弁護人たちの話を聞く限り、私は保見被告について、死刑判決を受けたらどうなるかということすら、わかっていないのではないかという印象を受けた。これで本当に完全責任能力があったと認められるのだろうか。

しかし、13日の判決公判で保見被告の控訴は棄却され、死刑判決が維持された。これはつまり、日本の刑事裁判でまた1つ、臭い物に蓋をするような判決が新たに出たということである。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

 「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)
 タブーなきスキャンダル・マガジン『紙の爆弾』!
 衝撃出版!在庫僅少!『ヘイトと暴力の連鎖』!

《冤死の淵で》風間博子氏(埼玉愛犬家連続殺人事件)手記に溢れた我が子への思い

外部との交流を厳しく制限され、獄中生活の実相が世間にほとんど知られていない死刑囚たち。その中には、実際には無実の者も少なくない。冤罪死刑囚8人が冤死の淵で書き綴った貴重な文書を紹介する。6人目は、埼玉愛犬家連続殺人事件の風間博子氏(59)。

◆検察側証人が証言した「博子さんは無罪」

埼玉県熊谷市で犬猫の繁殖販売業を営んでいた元夫婦の男女が1993年頃、犬の売買をめぐりトラブルになった客など4人を相次いで殺害したとされる埼玉愛犬家連続殺人事件。主犯格の関根元死刑囚(74)が被害者たちの遺体を細かく解体して燃やし、残骸を山や川に遺棄していた猟奇性が社会を震撼させた。だが、関根死刑囚と共に死刑判決を受けた風間博子氏に冤罪の疑いが指摘されていることは案外知られていない。

風間氏は裁判で、「DV癖のある関根死刑囚に逆らえず、死体の処分には一部関与したが、殺人については一切関与していない」と主張していた。結果、この主張が信用されずに死刑判決が確定したのだが、実は裁判では、風間氏が無実であることを示す有力な証言も飛び出していた。それは、死体の処分などを手伝ったとされる共犯者の男Yの以下のような証言だ。

「私は、博子さんは無罪だと思います。言いたいことは、それだけです」
「人も殺してないのに、なぜ死刑判決が出るの」
「何で博子がここにいんのかですよ、問題は。殺人事件も何もやってないのに何でこの場にいるかですよ」

Yは捜査段階に一連の事件は関根死刑囚と風間氏が共謀して行ったように証言しており、裁判でも検察側の最重要証人とめされる存在だったのだが、逆に風間氏が無実だと証言したのである。この裁判では元々、風間氏を殺害行為と結びつける目ぼしい証拠はYの証言しかなく、本来、風間氏は無罪とされるべきだった。しかし、こうした状況でも当たり前のように死刑判決が出てしまうのが日本の刑事裁判なのである。

風間氏は現在、東京拘置所に死刑囚として収容中だが、今年2月に発売された私の編著「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(鹿砦社)では、我が子への愛情に満ちた手記を寄稿してくれている。

風間氏が綴った手記の原本26枚

◆愛娘との再会で・・・

風間氏は事件当時、前夫との間にもうけた息子Fさん、関根死刑囚との間にもうけた娘Nさんと一緒に暮らしていた。裁判の1審が行われていた頃、娘のNさんが拘置施設まで面会に来てくれた時のことを手記でこう振り返っている(以下、〈〉内は引用)。

〈面会室のアクリル板のむこうには、逮捕された日には私の膝の上にちょこんと座っていた、あのちっちゃかった幼子が、少女となって座っていました。その時の感動は、とても言葉では表せないほどのものでした。童女から乙女へと成長した娘への愛おしさに鼻の奥はツンと痺れ、私の胸は感激で一杯になりました〉

逮捕から5年余り、1度も会えなかった娘との再会だった。風間氏がまさに万感の思いだったことが伝わってくる。そんな風間氏に対し、Nさんが投げかけた言葉が涙を誘う。

〈訴えかけたくても言葉が出て来なそうな娘に、私は問いかけました。
「Nちゃん。なぁに? どうしたの? なにかあったの?」
必死に泣くまいと我慢していた娘は、涙がポロリとこぼれ落ちたのが合図だったかのごとく、堰を切って話しはじめました。
「ねぇ、お母さん。お母さんは、Nと一緒じゃいやなの? Nはね、お母さんと一緒がいいの。でもね、おばあちゃん達は、お母さんから許可もらったからって、お母さんがいいって言ったからって・・・。Nが『イヤッ!』って何度も何度も、何度も言っても、お母さんの籍からNを抜くって話を、何度も何度も、何度もするの(略)」〉

Nさんの〈おばあちゃん達〉、つまり風間氏の母たちはNさんの将来を思い、風間氏の籍から抜いたほうがいいと考えていたのだが、真意がわからない子供のNさんは風間氏に「お母さんと一緒がいい」と訴えたのだ。

風間氏が収容されている東京拘置所

◆涙の誓い

そんなNさんに対し、風間氏は次のように言って聞かせたという。

〈あのね、Nちゃん。これからお母さんが話すこと、よく聞いて頂戴ね。おばあちゃんやおばさん達は、Nちゃんのこと、きらってなんかいませんよ。今迄も、そして今もズットズット、Nちゃんのこと、とっても大好きでいてくれるわよ(略)おばあちゃん達は、Nちゃんのことが憎くて籍のこととかあれこれ言ってるのではないの。とっても大切で、とっても大事な存在だからこそ、どうすることがNちゃんにとって一番の幸せにつながるのかを、おばあちゃん達なりに一所懸命に考えて言ってくれてたの〉

そして短い面会時間は終わり、〈じゃあ、Nはお母さんと一緒のままでいいのだね!?〉と涙を手で拭き払って言うNさんに対し、風間氏も〈涙でくしゃくしゃの顔のまま、「うん、もちろんよ!!」と答え〉て、2人は別れたという。こうして風間氏は、〈何としても頑張りぬき、娘達の所へ私は還らねばならない!〉と決意を新たにしたのである。

この日から16年、いまだ雪冤を果たせない風間氏だが、現在も子供たちは母の無実を信じ、サポートを続けている。前掲の書「絶望の牢獄から無実を叫ぶ」に収録された風間氏の手記全文には、他にも息子のFさんが判決公判に駆けつけてくれた話など、様々な涙を誘われるエピソードが綴られている。

【冤死】
1 動詞 ぬれぎぬを着せられて死ぬ。不当な仕打ちを受けて死ぬ。
2 動詞+結果補語 ひどいぬれぎぬを着せる、ひどい仕打ちをする。
白水社中国語辞典より)

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

 「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)
 タブーなきスキャンダル・マガジン『紙の爆弾』!
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《冤死の淵で》富山常喜氏(波崎事件) 自ら書いた控訴趣意書で裁判官を批判

外部との交流を厳しく制限され、獄中生活の実相が世間にほとんど知られていない死刑囚たち。その中には、実際には無実の者も少なくない。冤罪死刑囚8人が冤死の淵で書き綴った貴重な文書を紹介する。5人目は、波崎事件の富山常喜氏(享年86)。

◆自ら裁判官を直接批判

1963年8月に茨城県波崎町で農業を営んでいた36歳の男性が自宅で急死した。この一件をめぐり、男性の知人だった当時46歳の富山常喜氏は死亡保険金目当てに男性を青酸化合物で毒殺したとの容疑で検挙され、一貫して無実を訴えながら1976年に最高裁で死刑判決が確定した。しかし、犯行を直接裏づける証拠が何もないばかりか、富山氏が青酸化合物を所持したと示す証拠すら何もなく、長年冤罪の疑いが指摘されてきた。

富山氏は逮捕から40年、死刑確定から数えると27年に及ぶ獄中生活を強いられ、2度の再審請求も実らず、2003年に86歳で無念の獄死を遂げた。そんな富山氏が生前、いかに激しく裁判所と戦っていたのかがわかる文書がある。一審で死刑判決をうけたのち、自ら獄中で書き綴った8万字に及ぶ控訴趣意書である。

富山氏が自ら書いた8万字に及ぶ控訴趣意書。支援者が活字化した

たとえば、富山氏はこの控訴趣意書の中で、第一審・水戸地裁土浦支部の田上輝彦裁判長の事実認定をこう批判している。

〈“被告人は、人間が悪賢く“(中略)“気性も凶暴であると悪く評価されるようになり云々”と極め付けているが、田上裁判長は右に極め付けているような事実を、果たして、誰の口から伝聞し得たと言うのであろうか〉

水戸地裁土浦支部の判決は、証拠は何もないのに、単なる思い込みで富山氏を悪人物だと決めつけたような記述が散見された。それを富山氏は見逃さず、このように指摘したのだ。

そして、富山氏が田上裁判長ら水戸地裁土浦支部の裁判官たちに対し、何より強く訴えたかったのがおそらく次の部分だ。

〈最後にもう一言、田上裁判長はなおもここにおいて、「しかして被告人は、現在においても尚、寸点も改悛の情を現わして居らず」としているものであるが、被告人としては、現在まで指摘してきた数々の卑劣な虚構に満ちた判決文の内容もさることながら、その中においても、特にこの部分における非難の言葉ほど被告人のプライドを傷つけられたものはありません。
田上裁判長は、冤の人間に対して、一体、何を、どのように改悛せよというのであろうか。改悛とは何か、それは冤である被告人にとっては全くの無縁のものであり、それの必要なのはむしろ、ここに至ってまで愧知らずな無稽の諸非難を羅列している田上裁判長の方こそ、真摯に、裁判官としての自己の良心に目覚めて悔い改めるべきではあるまいかと思料するものである〉

判決で「反省していない」などと批判され、激怒するというのは冤罪被害者の多くに共通することだ。その思いを自ら文章にまとめ、裁判所に直接訴えたのが富山常喜という人だったのだ。

◆死刑執行への恐怖

裁判所に対し、かくも攻撃的な態度を示していた富山氏だが、親しい人に対しては、別の顔を見せていた。以下は、長年に渡って富山氏を支援していた「波崎事件対策連絡会議」の代表・篠原道夫氏に対し、富山氏が出した手紙の一節だ。

富山氏が生前、篠原氏に出した手紙

〈土、日曜、祝祭日の外は来る日来る日の毎日が、ガチャガチャと扉を開けられる度びに、心臓が破裂するのではないかと思へるほどの恐怖心を味わわされる地獄の連続であり、若しも寿命を計る機械がありましたなら、恐らくは確実に毎日毎日相当の寿命を擦り減らされているのではないかと思います。
建て前ではいくら悟り切ったように取り繕ろおうとも、所詮は弱い人間である以上、今申上げたようなところが嘘偽りのない本音の本音と云えそうです〉(1987年12月29日消印)

日本では、死刑は死刑囚本人に予告することなく執行される。富山氏は気持ちの強い人だったが、死刑と背中合わせで過ごした日々の恐怖感はやはり尋常ではなかったようだ。

富山氏が満足な医療も受けられずに獄死した東京拘置所

◆晩年は病気に苦しでいた

晩年の富山氏は常に病気に苦しんでいた。篠原氏に届けた手紙でも、体調の悪さを訴えることが次第に増えていく。

〈二月は上旬から風邪を引き込んでしまい、とうとう最後まで殆んど寝たきりの状態で終わってしまいました。今年はタチが悪かったのか、私の体調がそれ程衰えてしまっているのか分りませんが、最初のうちは下痢が続き、その次は今まで出たことのない鼻汁が出たり、その間、咳は止まらないわけで、すっかり悩まされてしまいました〉(2001年3月5日消印)

〈毎日のように襲って来る吐き気に鬱陶しい思いをしております。出来るだけ長生きすることが皆様の御尽力に対する私の至上命題ですので、この度びお差入れの中から取り敢えず八月と九月分の牛乳を購入させて頂きました〉(2001年9月1日消印)

〈毎日の呼吸不全状態、胃部の異状な膨満感など尋常ではありませんので、何かもっと精密な器械での検査が欲しいところです〉(2002年7月8日消印)

この頃になると、富山氏は人工透析治療を受けるようになっており、手紙を拘置所職員に代筆してもらうこともあった。そして次の235通目のはがきは、富山氏が生前、篠原氏に送った最後の書簡となった。

〈いつも心づかいありがとうございます。面会、差入と感謝しております。弁護士さんについては、後日元に戻ったときに連絡等する予定です。〉(2002年8月27日消印)

この文章は拘置所職員に代筆してもらったようだが、はがきの表面を見ると、文字が激しく波打っている。富山氏が震える手で、まさに命を削りながら書いたものであることが察せられる。

これ以来、富山氏の体調は急速に悪化した。そして、医療体制が不十分な拘置所内で苦しみ続け、2003年9月3日午前1時48分、86歳で永眠したのである。

◆支援者らは今も雪冤のために活動

病気に苦しみながら、雪冤を目指して戦い抜いた富山氏だが、ついに存命中に雪冤は実現できなかった。しかし、富山氏本人が亡くなって10余年になる今も篠原氏ら支援者たちは再審無罪を目指し、活動を続けている。富山氏の最期は悲劇的だったが、心ある人が望みをつないでいる。

※書籍「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)では、ここで紹介し切れなかった富山氏の様々な遺筆を紹介している。

【冤死】
1 動詞 ぬれぎぬを着せられて死ぬ。不当な仕打ちを受けて死ぬ。
2 動詞+結果補語 ひどいぬれぎぬを着せる、ひどい仕打ちをする。
(白水社中国語辞典より)

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

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《冤死の淵で》荒井政男氏(三崎事件) 病魔に苦しめられながら訴え続えた無実

外部との交流を厳しく制限され、獄中生活の実相が世間にほとんど知られていない死刑囚たち。その中には、実際には無実の者も少なくない。冤罪死刑囚8人が冤死の淵で書き綴った貴重な文書を紹介する。4人目は、三崎事件の荒井政男氏(享年82)。

◆手記に滲み出る人柄

荒井政男氏は、1971年12月に神奈川県三崎市で食料品店の一家3人が刺殺された事件が起きた際、現場近くに居合わせたために疑われ、逮捕された。当時44歳で、横浜市や藤沢市で鮮魚店や寿司屋を営んでいたが、この時を境に運命が暗転したのである。

荒井氏は取調べで一度自白したが、裁判では無実を訴えた。実際、荒井氏の衣服に犯人なら浴びているはずの返り血が付着していないことや、現場に残された犯人の靴跡は荒井が履いている靴のサイズと異なることなど、荒井氏を犯人と認めるには矛盾が多かった。しかし荒井氏は1990年に最高裁で死刑確定し、再審請求中の2009年に82歳で獄死した――。

荒井氏は最高裁に上告していた頃、自ら上告趣意書補充書も執筆した

この間、荒井氏が獄中でどのように生きたかが記録された貴重な資料がある。支援団体「荒井政男さん救援会」が発行していた「潮風」という小冊子だ。これには、荒井氏が近況をしたためた手記が毎号掲載されていた。

荒井氏の手記は、いつも様々な人へのお礼や気遣い、ねぎらいが率直な言葉で綴られていた。

〈いつもパンフレットありがとう。救援、冤罪通信、やってないおれを目撃できるか、死刑と人権、ばじとうふうなどありがとう。甲山通信の山田悦子さんの無実勝利の闘いに獄中から熱い応援を送っていますよ。ごましお通信、利明さんの生きざまがわかります。よろしく伝えてね。フォーラム90のパンフは、死刑執行した後藤田正晴への抗議行動報告がびっしり埋まっていますね。とても力強く思いました。もう一人も殺させないようガンバリましょう〉(1993年5月15日記 潮風第12号より)

◆獄窓の鳥が支えだった

荒井氏の手記はこのようにいつも明るく、前向きな内容だった。とはいえ、死刑囚は外部との交流を遮断され、一日の大半を狭い独房で過ごす。その生活がいつ果てるともなく何十年も続く。そんな日々で荒井氏が心の支えにしていたのが、獄窓から見える鳥たちだった。

〈四月二十日ヒヨドリのピーコが、窓辺のしだれ桜の枝に止まって、四〇分近く唄っているのでいつものさえずりと少しちがうなーと思っていたところ、それがピーコのお別れの唄だと分かりました。翌日からヒヨドリ全員(十二羽位の一族)の姿が見られなくなった。どこかの寒い地方へ移動していったのでしょう〉(1994年4月27日記 潮風第16号より)

〈あのヒヨドリのピーコが今年も来てくれました。獄庭の木にとまってピーピーと高い澄んだ唄声を聴かせてくれます。とても心なぐさめられます〉
(1995年11月14日記 潮風第22号)

〈今日もスズメの親子が父さんの窓下に来て、ピイピイと子スズメを鳴かして父さんにエサのパンをくれというのです。けど、父さんはパンを持っていないのです(笑)〉
(1994年5月23日記 潮風第16号より)

〈父さんの窓庭のビワの木の実が鈴なりで黄色く熟して太陽の光に輝いています。何とムクドリの群れがきて半分ほど食べ散らかしていきました。そのおいしそうなうれしそうな姿にニコニコと見とれてしまいました〉(1995年6月17日記 潮風第20号より)

荒井氏は鳥たちと会話でもしているようなことを明るい筆致で綴っている。一見微笑ましい文章だが、鳥たちを心の支えにして途方もない孤独感と闘っていたことが窺える。

荒井氏が獄窓の鳥を心の支えに拘禁生活を送っていた東京拘置所

◆糖尿病で目も不自由に

獄中生活の後半、荒井氏は糖尿病に苦しめられた。しかし、闘病生活のことすらも明るく綴るのが荒井氏流だった。

〈血糖値が一一七でした。こんな数字になったことは近年にないことですから、父さんもやったーと、うれしく思いました。この告知をしてくれた看守氏もびっくりして共に喜んでくれました〉(1994年11月17日記 潮風第18号より)

しかし、併発した網膜症により視力が次第に衰えていくと、手記では、目の状態を嘆く記述が目立つようになる。

〈文庫本文字がすごく見づらくなりました。右目だけで読むのも疲れて視力が落ちたのではないかと思います。医務に診察を申し込みます〉(1994年12月1日記 潮風第18号より)

このように病魔に苦しむ中、荒井氏は強い憤りをあらわにすることもあった。それは、他の死刑囚が刑を執行された時だ。

〈十二月七日に妻と長男が面会にかけつけてくれた意味が一二月一日に(筆者注:他の死刑囚2人が)虐殺されたことについての緊急面会だったことがわかりました。二人も殺されたことは今日のパンフやビラを見て初めてわかった訳です。だからショックが大きいので、眠れませんのでこれを急いで書いています。もう夜中です。紙数も終りです。なんとしても三崎事件の再審を開始したいものです。無実なのに殺されてたまるか〉(1994年12月15日記 潮風第18号より)

無実なのに殺されてたまるか――。この最後の一文に、何物にも代え難い真実の響きを感じるのは、私だけではないはずだ。

◆遺族が受け継いだ雪冤への思い

荒井氏は結局、生きているうちに再審無罪の願いは叶わなかった。2009年9月3日、病気を悪化させ、東京拘置所で82年の生涯を終えたのだ。

しかし、荒井氏が亡くなってわずか25日後の2009年9月28日、今度は娘さんが請求人となり、第2次再審請求を行った。現在も雪冤を目指す戦いは続いている。(了)

※書籍「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)では、ここでは紹介し切れなかった荒井氏の様々な遺筆が紹介されている。

【冤死】
1 動詞 ぬれぎぬを着せられて死ぬ。不当な仕打ちを受けて死ぬ。
2 動詞+結果補語 ひどいぬれぎぬを着せる、ひどい仕打ちをする。
(白水社中国語辞典より)

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

 「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)
  『NO NUKES voice』9号 8月29日発売開始! 特集〈いのちの闘い〉再稼働・裁判・被曝の最前線
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