日本は多言語社会になりうるか?──言語とメディアリテラシー(前編)

最近は外国からの移住者が増え、教育の現場でも外国にルーツを持つ児童が増えてきたし、地域によっては横浜のいちょう団地のように住民の4分の1が外国籍というところも出てきた。ここまで来ると、日本語だけわかればよいという状況ではもはや対応できない。

日本では言語教育については、ほとんど英語と日本語の2つだけについてしか論じられない。「グローバル化の急速な進展に伴い英語は必須」「国語力がしっかりしないとどっちもつかずになる」といった賛否両論がある。私にはこれらの類の議論には、メディアリテラシーを高めるためだという観点が決定的に欠けているように思えてならない。


◎[参考動画]10ヵ国の児童が学ぶ 驚きの多国籍小学校(SUMIYA Spa & Hotel 2019/1/13公開)

日本語で「韓国人 ムスリム」と検索した様子

◆言語とメディアリテラシー

そもそもなぜ外国語を学ぶのかというと、海外との接点を持ちそこから情報を集め、視野を広めるためである。英語はあくまでそのためのツールにすぎず、より本質を突き詰めると「他の言語を使いこなしそれによって多角的に物事を俯瞰できる」能力が重要になる。

言語が異なると同じテーマであっても、発信情報はかなり異なってくる。韓国について日本語で検索するとネガティブな内容が多い。例えば、Googleで「韓国人 ムスリム」と検索すると韓国人によるムスリムへの差別的な行為などがヒットする。韓国は悪い国だと言いたい内容が多い。

しかし、英語で「korean muslim」と検索すると韓国人の改宗者の話などがヒットする。中立的な立場から韓国におけるムスリムの状況が書かれている。同じことでも言葉が異なると、検索結果も異なるのである。これが日本語や英語だけではなく、中国語やフランス語などの検索結果なども含めると様々な視点を得ることができよう。

英語で「korean muslim」と検索した様子

(余談だが、日本人が想像している以上に韓国の国際的な評価は高いと思われる。あるチュニジア人女性と話した時に韓国について聞くと、アラブ世界では韓国は「礼儀正しい国」「イノベーションの国」と認知されているという。また韓国ドラマも多数アラビア語に翻訳され、チュニジアでも放送されているとのことであった。私たちはアラブ世界やヨーロッパといった第三者の観点から韓国を見ることが重要なのかもしれない)

日本語は日常生活から高度な学問用語まで網羅しており、日本で暮らすにあたっては日本語しか理解できなくてもビルの清掃員やバーテンダー、プログラマーや大学教授、ペットショップの従業員に至るまで様々な職に就くことが可能である。しかしメディアリテラシーの観点から考えると、日本語しかわからないということは極めて致命的なことである。

そもそも日本語を公用語している国は日本だけである。そのため、日本語で発信された情報の圧倒的多数は日本発になる。それは日本一国からの視点に偏りがちになる。英語ならば公用語とする国は米英の他にシンガポール、ケニア、フィジーと数多く、よって英語で発信された情報は様々な国からの視点を持つ。スペイン語にしても公用語とする国は、メキシコ、アルゼンチン、赤道ギニアなど数多く、やはりスペイン語で発信された情報も多くの視点を備えている。多くの日本人は日本語しか理解できないため、ネットで情報収集する時も日本語で検索しがちである。その結果、日本的視点でフィルタリングされた情報ばかりを取得することになる。

過去に話したことのあるシンガポールからの帰国学生の意見によると、日本政府は「日本人が海外の情報を閲覧しないように英語能力をあえて低くしているのではないか」とのことであった。真偽はともかく、これは政府にとっては極めて都合がよいことである。日本語しか理解できないゆえに国民が「自発的」に日本から発信された情報しか見ないとすれば、中国のようなファシズム大国のようにわざわざ高度な検閲システムを構築しなくてもすむからである。(つづく)

▼Java-1QQ2
京都府出身。食品工場勤務の後、関西のIT企業に勤務。IoTやAI、ビッグデータなどのICT技術、カリフ制をめぐるイスラーム諸国の動向、大量絶滅や気候変動などの環境問題、在日外国人をめぐる情勢などに関心あり。※私にご意見やご感想がありましたら、rasta928@yahoo.ne.jpまでメールをお送りください。

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自国民を幸せにできない政権が、外国人労働者を手厚くもてなすはずなどない

◆20年超に及ぶ就労目的留学大国・日本

東京福祉大学の留学生約700人が「失踪」して行方不明になったことが問題化している。700人はあまりにも多すぎるけれども、この手の話は大学にとって珍しいものではない。「失踪」は大学にとって由々しき問題であるが、4月から改正入管法で、単純労働者の受け入れが既に始まっている。

厳格にビザで外国人による労働を規制していた時代とは違うのであるから、この問題も入管法が根本的に変わったことを加味して論じられるのが妥当である。日本にお金を出して留学してくるひとの多くが実は「就労(金儲け)目的」であることは、どうやら20年前と変わってはいないようである。

20年前わたしは大学職員として、留学生とかかわる職務に従事していた。2000年を目標に「留学生10万人計画」という愚策が、中曽根総理によってぶち上げられたのは、日本がバブルの真っただ中で、対米輸出黒字がさんざん叩かれていた時代だった。「貿易収支のアンバランスを人の輸入で埋め合わせろ」というわけで、理屈よりも建前が先行して進められた乱暴かつ愚かな政策であったが、文部省(のちに文科省)は、大学の足元をみて留学生の受け入れを半ば強制した。


◎[参考動画]大勢の留学生“所在不明”受け大学に立ち入り調査(ANNnewsCH 2019/03/26公開)

◆「臨時定員(臨定)」という名の落とし穴

仕組みはこうだ。「臨時定員(臨定)」と呼ばれる、入学定員の割り増しが第二次ベビーブームを見越して、各大学に振り分け充てられていた。大学にとっては同じ施設、同じスタッフで割り増しの学生を受け入れることが許されるので「おいしい話」であった。だがその名の通り「臨時の定員」なので、18歳人口が増加から減少に転じるタイミングで各大学は「臨時定員」を文科省に返上しなければならなかった。ここに落とし穴があったのだ。大学はスケベ心を出さずに、さっさと「臨時定員」を返上して、元通りの定員に戻せばよかったものを、多くの大学は「臨定」のうまみが忘れられず、それを恒常的な定員化したいと考えた。

文科省は「臨定をそのまま維持したいのであれば定員の3割を留学生・帰国学生・社会人のいずれかで埋めなさい」と条件をだした。帰国学生(帰国子女)の数などごくわずかであるし、社会人が学生として大学で学ぶには、学費・入学時期・講義の開講時間など様々な障壁があり大量獲得は現実的ではない。そこで各大学がターゲットを絞ったのが留学生の獲得だった。

わたしの勤務していた大学もその波にのまれた。留学生の獲得のために日本国内の日本語学校や、アジア諸国を中心に学生募集に走り回った。そして今から考えれば身の丈にあわないほど多くの留学生を受け入れた。ただ、その大学は建学の理念に「国際主義」を掲げていたので、行政の強制による「留学生受け入れ」が強行される前から、地道に留学生を受け入れ、きめ細やかなケアーをしてきた蓄積があった。

先輩方からマニュアルとしてではなく実践でその実務を学びながら、わたしも留学生担当職員として数百人の留学生と接した。言い忘れたが、わたしが初めて留学生担当業務にかかわったのは、大量の留学生を受け入れる前のことだ。その頃は在籍する留学生全員の名前、年齢はもちろん、下宿やアルバイト先まで把握し、何か問題があれば徹底的に付き合っていた。警察や裁判所に出かけ社会勉強させてもらったのも、留学生のおかげである

◆一貫して、一貫していない入管行政に翻弄される

留学生に限らず、他国で暮らすのは刺激もあろうが、不便や不都合がついて回る。大学に入学できる日本語力を備えているので、日常生活に不自由することはないが、病気にかかったとき、交通事故にあったとき(これが非常に多かった)の対応などは、留学生本人だけで解決は難しく、われわれが手伝うことになる。そして留学生には「資格外活動」という呼称で上限を定めアルバイトが認められたが、風俗業(パチンコ、スナックなど)で働くことは許されていなかった。けれども数多くない留学生の中にも「夜の仕事」に従事し、割のいい収入を得ようとする者もいた。

当時、入国管理局(入管)に風俗営業で留学生が「資格外活動」をしている現場を押さえられたら、即強制送還だった。だから留学生が「夜の仕事」に就いていることがわかると、呼び出して「止めるように」説諭した。それでもとぼけて「そんなことやっていません」としらを切る留学生もいたが、わたしは、そのような場合留学生が働いている店に乗り込んで、現場を抑え就労を断念させた(そのために30分で4万円を自腹で支払ったこともあった)。

短期的には効率よく稼げるようでも、「夜の街」の仕事にはまると金銭感覚がマヒし、学業よりもアルバイトがメインになり大学へ姿を現さなくなる。最悪のケースは入管に踏み込まれ身柄を拘束され、強制送還だ。わたしの在職中にも数人強制送還された留学生がいた。そういった失点がつくと、他の留学生が入管でビザの延長をする際にも悪影響が出る。

入管のビザ申請手続きは、猫の目のようにころころ変わる。留学生への嫌がらせとしか思えないほど、煩雑で数多くの書類提出を求めていた時期があったかと思えば、突如「入学許可書と顔写真だけで」留学ビザが下りるように変更される。きのうまでのあの苦労はなんだったのかと思えるほど審査手順が頻繁に変更されるのが入管業務である(その延長線上に今回の単純労働者受け入れの「入管法改正」を考えれば、一貫して「一貫していない」入管行政の正体が理解されよう)。


◎[参考動画]東京福祉大学紹介(東京福祉大学入学課 2017/08/04公開)

◆中国人から見てもリーズナブルな旅行先となったインバウンド日本

中国だけでなくアジア各国、世界中からの旅行者が増加している。このことを冷静に考えよう。日本に来る旅行者の多くは「短期滞在」ビザを取得する。出発前に本国で取得しなても、日本空港に着いたらそこでビザが発給される国も増えてきた。そして20年まえにはまず認められることのなかった、中国からの個人旅行者へ簡単にビザが下りるようになった。日本訪問のビザ取得が簡易化されたことは、旅行者増加の一因ではある。加えて海外からの旅行者にとって、日本は比較的リーズナブルな旅行先となったことも重要な要因だ。バックパッカーが安宿に泊まって、ファーストフードで食事すれば1月滞在しても10数万円あれば充分生活可能だ。

つまり日本のデフレが観光客呼び込みの主要因であると、わたしは考えている。外国の貧乏学生でも日本を旅することは可能な時代になった。他方、それでもアジアを中心に、いまだに日本とは貨幣・経済格差の大きい国からは「金儲け」の場所として日本が見られていることも事実である。

すっかり聞かなくなったけど「おもてなし」は短期旅行者だけではなく、長期滞在者にこそ必要な配慮であり、冒頭上げた東京福祉大学の例をあげるまでもなく、日本全体の長期滞在外国人への接遇感覚は、単純労働者を受け入れられるとは到底いいがたいレベルに留まっており、この先「軽率な判断をした」と悔やみ、反省を迫られる日が必ずやってくる、とわたしは確信する。自国民もろくろく幸せにできない政権が、外国人労働者を手厚くもてなすはずなどない。これがわたしの推測の根拠である。


◎[参考動画]遠藤誉 東京福祉大学国際交流センター長(jnpc 2012/06/12公開)

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

田所敏夫『大暗黒時代の大学──消える大学自治と学問の自由』(鹿砦社LIBRARY 007)
タブーなきスキャンダリズム・マガジン『紙の爆弾』5・6月合併号【特集】現代日本の10大事態
〈原発なき社会〉を目指す雑誌『NO NUKES voice』19号 特集〈3・11〉から八年 福島・いのちと放射能の未来

社畜絶望社会・令和 ── この国を疲弊させた元凶としての「就活」〈後編〉

◆会社のサイトやパンフレットは「嘘のオンパレード」

さて「就活」にあたっては、会社のサイトを閲覧したり会社説明会に参加するというのが通例だが、そこで得られる情報など嘘ばかりである。サイトの会社紹介は嘘のオンパレードであり、いかに良く見せようとばかり考えている。会社説明会でも悪いところ(会社の真の姿)はまず言わない。実際入社してみると、給与や勤務時間などで言われていたのとは違ったという話は多い。

自殺した男性の遺族の記者会見

例えばニュースになったが、JAXAの人工衛星「いぶき」の管制業務を請け負っていた男性(当時31歳)が2016年10月に自宅で自殺したという事件があった。

※参照『JAXA管制業務の31歳男性が過労自殺 労災を認定』

男性は管制業務に就いてから、16時間半に及ぶ夜間勤務を月に約7回こなし、月の残業が70時間を超えることもあった。さらに管制業務に加えてソフトウェア開発まで命じられていた。仕事のことで、同僚の前で上司に厳しく叱責されることもあったという。土浦労基署は長時間労働やパワハラが自殺の原因だと判断し、労災と認めた。

男性が勤めていたソフトウェア開発の「株式エスシーシー(SCC)」(東京都 中野区)のサイト(https://www.scc-kk.co.jp/edcgroup/index.html)によると「従業員満足の実現」とは

・明るく健全な職場環境を維持し、働きやすい環境を維持しています。
・会社を支える社員を人財として大切にします。
・社員は常に誠実、真摯に業務に取り組み、自己向上に努め、会社に誇りと自信を持って行動しています。

だという。まったく皮肉である。実態は過剰労働やろくでなしの上司のパワハラで徹底的に搾取されていたのである。

もう一つの事例をあげよう。

私の友人の話によると、品川の西五反田にある会社で「ダイバーシティ(多様性)を重んじる」という会社・C社を受けた。C社は主に証券や金融システムを作っていて、AIやブロックチェーン(仮想通貨などに使われる最新技術)の研究にも取り組み、「働き方改革」に熱心であるとサイトでPRするなど一見「進歩的な」IT会社であった。友人はいざ受けたが、あっさり落とされたという。

私は友人が落とされた理由で思い当たる節があった。友人は吃音であった。その会社はプログラミング未経験の文系出身の学生も採用しているので、情報系の学科にいる友人は能力的に問題ない。また彼は自身のブログで制作した作品を公開しており、プログラミング能力や文章力も十分あることを第三者から判断できるようにしている。また友人は小さなIT企業でアルバイトをしていることも会社に伝えていた。となると、やはり吃音が影響したと考えざるを得ないのである。

「多様性を重んじる」というなら吃音者も受け入れることもダイバーシティだと思うが、結局C社はハンディキャップのある人間を排除した(つまり差別した)のである。

以上のように会社のサイトに書いてあることがいかに偽善や嘘で塗り固められたものであるかがよくわかる事例である。

「就活で多くの会社を見れていい」という意見もあるが、「就活」で会社が本当の姿を見せることはまずない。会社説明会や選考に参加した程度で、得られる情報量など知れている。また、何社受けようと入社するのは1社である。こんなばかばかしい活動に時間やカネをかけている暇はない。どうせ本当のことがわからないのなら、会社のパンフレットやサイトを見れば十分であろう。

◆「就活」現象の活性化によって得をした就活情報会社の犯罪

就活情報会社といえば、マイナビやリクルートが有名である。今の「就活」で得をするのはこれらの就活情報会社であろう。新卒ですぐに会社を辞めた者はまた、「マイナビ」や「リクナビ」などのサイトで「就活」を始めなければならない。会社としても人材を探すために再度、これらのサイトに登録料を支払う必要がある。

多くの会社と学生が「出会える」機会を提供しているのかもしれないが、その結果1つの会社に多くの学生が殺到し面接は「いかに落とすか」になっていく。その結果、2、3時間程度の面接で「判断」しなければならなくなる。学生としてはいい加減な「判断」で自分を「評価」され、そして否定される。これが内定をもらえない限り延々と続くのである。最悪の場合は自殺するケースもある。

就活情報会社はこれらの現実をどう考えているのだろうか?

◆様々な働き方

日本では就職=就社となっている。大学などの学生に対して、会社勤めを前提に就職活動をするように迫る。簡単ではないが、フリーランスや起業も考えてもいいのではないか?「働き方改革」と謳うが、会社勤めが前提なのは変わっていない。

また、会社勤めは安定しているようにみえるが実は不安定要素が多い。リーマンショックのような不況が起これば、普段まじめに勤務していても容赦なく解雇される。せっかく入社できても職場にあわなければやめ、別の会社を探す必要がある。また、会社がブラック企業なら徹底的にこき使われ人生の貴重な時間をうばわれる。最悪の場合はうつ病になるか過労死である。

どれだけ自分の仕事に愛着があっても、このような状況では集中して取り組むのは難しい。社会全体で、会社勤め以外の多様な働き方を考える必要がある。

日本はもはや社畜絶望社会である

◆お先真っ暗の「令和」

最後になるが、「令和」という時代は「平成」以上に悪い時代になると思う。「令和」という時代はより一層「平成」の時代に形成された矛盾(貧困・ひきもり人口の増加や原発事件、外国人労働者の搾取などの問題)が大きくなっていくことだろう。

会社などに振り回される人生ではあってほしくない。私もアフィリエイトやクラウドソーシングでのWebアプリ開発、発明などで会社に振り回されない、自立した生活を送りたいとつくづく思う。(完)

▼Java-1QQ2
京都府出身。食品工場勤務の後、関西のIT企業に勤務。IoTやAI、ビッグデータなどのICT技術、カリフ制をめぐるイスラーム諸国の動向、大量絶滅や気候変動などの環境問題、在日外国人をめぐる情勢などに関心あり。※私にご意見やご感想がありましたら、rasta928@yahoo.ne.jpまでメールをお送りください。

タブーなきスキャンダリズム・マガジン『紙の爆弾』5・6月合併号【特集】現代日本の10大事態

憲法記念日には『あたらしい憲法のはなし』を読んで、日本国憲法を考える

『あたらしい憲法のはなし』は日本国憲法の成立を受けて、文部省が1947年に作成し、一時は教科書として、のちに副教材として義務教育でつかわれていたものである。この教科書(副読本)は改憲策動が勢いを増しだした2000年以降、多くの作家やジャーナリストに引用されている。

引用が最も多いのが、「六 戰爭の放棄」の項で下記の文章である。

 
『あたらしい憲法のはなし』(1947年文部省)より

《みなさんの中には、こんどの戰爭に、おとうさんやにいさんを送りだされた人も多いでしょう。ごぶじにおかえりになったでしょうか。それともとう/\おかえりにならなかったでしょうか。また、くうしゅうで、家やうちの人を、なくされた人も多いでしょう。いまやっと戰爭はおわりました。二度とこんなおそろしい、かなしい思いをしたくないと思いませんか。こんな戰爭をして、日本の國はどんな利益があったでしょうか。何もありません。たゞ、おそろしい、かなしいことが、たくさんおこっただけではありませんか。戰爭は人間をほろぼすことです。世の中のよいものをこわすことです。だから、こんどの戰爭をしかけた國には、大きな責任があるといわなければなりません。このまえの世界戰爭のあとでも、もう戰爭は二度とやるまいと、多くの國々ではいろ/\考えましたが、またこんな大戰爭をおこしてしまったのは、まことに残念なことではありませんか。

そこでこんどの憲法では、日本の國が、けっして二度と戰爭をしないように、二つのことをきめました。その一つは、兵隊も軍艦も飛行機も、およそ戰爭をするためのものは、いっさいもたないということです。これからさき日本には、陸軍も海軍も空軍もないのです。これを戰力の放棄といいます。「放棄」とは「すててしまう」ということです。しかしみなさんは、けっして心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの國よりさきに行ったのです。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません。

もう一つは、よその國と爭いごとがおこったとき、けっして戰爭によって、相手をまかして、じぶんのいいぶんをとおそうとしないということをきめたのです。おだやかにそうだんをして、きまりをつけようというのです。なぜならば、いくさをしかけることは、けっきょく、じぶんの國をほろぼすようなはめになるからです。また、戰爭とまでゆかずとも、國の力で、相手をおどすようなことは、いっさいしないことにきめたのです。これを戰爭の放棄というのです。そうしてよその國となかよくして、世界中の國が、よい友だちになってくれるようにすれば、日本の國は、さかえてゆけるのです。

みなさん、あのおそろしい戰爭が、二度とおこらないように、また戰爭を二度とおこさないようにいたしましょう。》

いわずと知れた憲法9条についての解説である。辺見庸もこの部分を引いているし、護憲集会などではこの部分を読み上げるシーンを目にしたこともある。ある風見鶏女優が悦に入って朗読している姿を動画で目にして、「こいつが言うか」と苦々しい思いをしたこともあった。

ここで解説されている内容は、まことに明快で格調高く、到達目的の崇高さは、世界にも誇ることができよう。わたしも初めてこの文章を目にしたとき「日本にもこんな良識があったんだ」と多少感傷的にもなった。優れた文章だし、感動的ですらある(それは2019年の「現実」との絶望的乖離を物語る証左でもある)。

だが、文章というものは、一部だけを読んで皆がわかったつもりになってはならない。『あたらしい憲法のはなし』には「五 天皇陛下」の項に以下の記載もある

 
『あたらしい憲法のはなし』(1947年文部省)より

こんどの戰爭で、天皇陛下は、たいへんごくろうをなさいました。なぜならば、古い憲法では、天皇をお助けして國の仕事をした人々は、國民ぜんたいがえらんだものでなかったので、國民の考えとはなれて、とう/\戰爭になったからです。そこで、これからさき國を治めてゆくについて、二度とこのようなことのないように、あたらしい憲法をこしらえるとき、たいへん苦心をいたしました。ですから、天皇は、憲法で定めたお仕事だけをされ、政治には関係されないことになりました。

憲法は、天皇陛下を「象徴」としてゆくことにきめました。みなさんは、この象徴ということを、はっきり知らなければなりません。日の丸の國旗を見れば、日本の國をおもいだすでしょう。國旗が國の代わりになって、國をあらわすからです。みなさんの学校の記章を見れば、どこの学校の生徒かがわかるでしょう。記章が学校の代わりになって、学校をあらわすからです。いまこゝに何か眼に見えるものがあって、ほかの眼に見えないものの代わりになって、それをあらわすときに、これを「象徴」ということばでいいあらわすのです。こんどの憲法の第一條は、天皇陛下を「日本國の象徴」としているのです。つまり天皇陛下は、日本の國をあらわされるお方ということであります。

また憲法第一條は、天皇陛下を「日本國民統合の象徴」であるとも書いてあるのです。「統合」というのは「一つにまとまっている」ということです。つまり天皇陛下は、一つにまとまった日本國民の象徴でいらっしゃいます。これは、私たち日本國民ぜんたいの中心としておいでになるお方ということなのです。それで天皇陛下は、日本國民ぜんたいをあらわされるのです。

このような地位に天皇陛下をお置き申したのは、日本國民ぜんたいの考えにあるのです。これからさき、國を治めてゆく仕事は、みな國民がじぶんでやってゆかなければなりません。天皇陛下は、けっして神様ではありません。國民と同じような人間でいらっしゃいます。ラジオのほうそうもなさいました。小さな町のすみにもおいでになりました。ですから私たちは、天皇陛下を私たちのまん中にしっかりとお置きして、國を治めてゆくについてごくろうのないようにしなければなりません。これで憲法が天皇陛下を象徴とした意味がおわかりでしょう。》(注:太字著者)

 
『あたらしい憲法のはなし』(1947年文部省)より

「これで憲法が天皇陛下を象徴とした意味がおわかりでしょう」と悦に入っているけれども、わたしにはまったく意味がわからない。冒頭「こんどの戰爭で、天皇陛下は、たいへんごくろうをなさいました」とさっきまで読んでいた憲法解説と同じ文章か、と勘違いするほどトーンが違う。天皇陛下は、たいへんごくろうをなさいました」だって?なにいってるんだ!「ごくろう」したのは大日本帝国の侵略を受けたアジア諸国の被害者や、戦争に駆り出された国民だろうが!そして「みなさんは、この象徴ということを、はっきり知らなければなりません」といきなり押し付けるような語調でに変わって以降の文章は、「無茶苦茶」である。「日の丸の國旗を見れば、日本の國をおもいだすでしょう」と書いているが「日の丸」は日本国憲法公布後、法的には国旗ではなかった。まず「日の丸の國旗」という言葉の使い方そのものが大いなる誤りである。そのあとに記章が学校ををあらわす例などを挙げて、必死で「象徴」の本質的な意味の歪曲化がなされている。「つまり天皇陛下は、一つにまとまった日本國民の象徴でいらっしゃいます」、「私たち日本國民ぜんたいの中心としておいでになるお方ということなのです」、「天皇陛下は、日本國民ぜんたいをあらわされるのです」、「このような地位に天皇陛下をお置き申したのは、日本國民ぜんたいの考えにあるのです」と続く解説には、《六 戰爭の放棄に見られたような哲学性も論理もまったく見当たらない。

 
『あたらしい憲法のはなし』(1947年文部省)より

『あたらしい憲法のはなし』は「一 憲法」から「十五 最高法規」までで構成されている。数十分もあれば全文が読めるであろうから、読者諸氏にもご一読をお勧めする。なかなか味わい深くもあり、半ば口語調なので時代の違いは感じるものの、読み物としても一興だ。

『あたらしい憲法のはなし』はやはり、「五 天皇陛下」と「六 戰爭の放棄」がエッセンスであろう。憲法の条文に照らせば1条から8条までが天皇にかんする言及であり、9条が戦争放棄にあたる。すでに指摘した通り、天皇についての解説は支離滅裂の極みである。論理的整合性は完全に破綻している。感情論と抽象論が繰り返し展開されるばかりだ。

でも考えてみると、日本国憲法は前文と1条から8条のあいだに決定的な齟齬がある。そしてそれに次ぐのが9条だ。前文で民主主義の理念を述べたたのであれば、1条では国民の権利義務に言及せねば繋がらないものを、どういうわけかいきなり天皇を持ってきてしまっている。この記述は実に巧みに日本の統治思想「国家無答責」を示すものだと、知人の法哲学研究家は指摘する。なるほど、噛み砕いて解説してくれている『あたらしい憲法のはなし』ではその矛盾があらわに顕在化せざるを得ない。

天皇の規定の次に「戦争放棄」を持ってきたのは「国体を守るためだった」との説がある。なるほど非武装・戦争放棄と、一見革命的に先進的な平和主義に目が行きがちだけれども、日本国憲法の要諦は「国体の護持」であったとの考え方は、皮肉なことに『あたらしい憲法のはなし』を読むと現実感をもって理解できる(それでも自民党などが画策する改憲案よりは現日本国憲法のほうがマシである)。

10連休という「有事」ではなく「慶事」の最中に、この国の成り立ちや憲法に思いをいたす方は少なかろう。けれども、わたしたちの暮らす国の憲法の精神分析をしてみるのに『あたらしい憲法のはなし』は絶好のテキストだろう。

※『あたらしい憲法のはなし』は昨年鹿砦社が発行した山田悦子ほか編著『唯言(ゆいごん)戦後七十年を越えて』に日本国憲法、大日本帝国憲法、軍人勅諭などと共に再録されています。

山田悦子、弓削達ほか編著『唯言(ゆいごん)戦後七十年を越えて』

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

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社畜絶望社会・令和 ── この国を疲弊させた元凶としての「就活」〈前編〉

「令和」になり、新天皇が即位した。マスコミも世間も「お祝い」モード一色である。しかし、現実は極めて厳しく「お祝い」とは全く無縁である。この島国はもはや「格差社会」から「階級社会」へと移行しつつある。その証左の一つとしてひきこもり人口の100万越えという現象がある。

※参照『「就職氷河期世代」の集中支援 高齢期の生活保護入りを阻止する考え』

※参照『40歳代が最多、中高年「引きこもり」層が53%に 島根県調査が浮き彫りにした日本の向かう未来』

◆人々を「ひきこもり」へ追い込んだ「就活」の犯罪

ひきこもり多い氷河期世代…「生活保護入り」阻止へ早期対応(2019年4月11日付産経新聞)

現在、「ひきこもり」と定義される人たちは約110万人いるという。100万都市である仙台市の人口よりも多い数がひきこもっているのは非常に衝撃的であった。仕事で失敗して嫌になりひきこもったなどがあるが、いわゆる「就活」での失敗でひきこもったという事実も決して軽視できない。ひきこもりは40~64歳の人が全国で61万3千人もいて、10代・20代のひきこもり人口もよりも多い。彼らは1993~2004年の就職氷河期の新卒時に「就活」に失敗し、その後ひきこもったという。

一度「就活」を経験した者ならわかるが、たかだか2、3時間の面接やペーパーテストで自分を「判断」されご丁寧な「お祈りメール」で「お前なんてうちはいらない」と決めつけられることはたとえ1回でも精神的にきつい。これが何十回も続くうちに、自分自身が嫌になり、やがてひきこもりたくなるのは当然だ。今でも「就活自殺」というものがあるくらい、「就活」による害悪は大きい。「就活くたばれ」デモなるものが行われるのも当然である。

※参照 https://www.j-cast.com/2010/01/24058578.html?p=all

「就活くたばれデモ」東京でも開催(2010年1月24日付J-castニュース)

今の採用制度は、たいてい面接官のフィーリングによったものであり最近は性格テストなどが導入されたとはいえ、極めて非科学的である。そもそも根本的に2、3時間の面接で人間の能力や将来性を「評価」すること自体がおかしいのではないだろうか? 付き合いが何年もある知り合いさえ、知らないことはたくさんある。自分の両親であっても知らないことはあるのだ。20数年にわたる人生の長さに比べれば、面接時間の2、3時間などあまりにも短すぎる。

口下手な者は専門技術などがあっても、面接が下手ならそこで「お前はダメ人間だ」と決めつけられて終わりである。一方、口達者な者は面接の時だけ「優秀な人間」を演じればそれでOKである。ましてや今やネットや本で面接のヒントは数多くあり、マニュアル化している。今の採用システムでは人材を正しく評価できない。芸能人のマツコデラックスも今の採用制度に疑問を投げかけている。

※参照『マツコ、候補者の長所を聞く採用面接に不信感「世の面接をしている人たちは本質を見抜けない」』

このようないい加減な採用の結果、ミスマッチによって入社3年以内でやめる者が多いも当然だ。企業にとっては選考に費やした費用・時間が無駄になるし、学生にとっても再び「就活」をはじめなければならない。まったくばかばかしい限りである

一層のこと、関係者からの推薦や縁故採用、アルバイトで判断してからの採用にした方がよいのではないだろうかと思う。こちらの方がミスマッチはかなり減らせるし、会社からしてみれば無駄に多くの人間を面接して「落とすため」の選考をする必要性は減る。学生としても、受ける会社は少なくなるが正しく評価されやすくすることで、何十回も「お前はいらない」と人間否定されることはなくなる(つづく)。

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京都府出身。食品工場勤務の後、関西のIT企業に勤務。IoTやAI、ビッグデータなどのICT技術、カリフ制をめぐるイスラーム諸国の動向、大量絶滅や気候変動などの環境問題、在日外国人をめぐる情勢などに関心あり。※私にご意見やご感想がありましたら、rasta928@yahoo.ne.jpまでメールをお送りください。

タブーなきスキャンダリズム・マガジン『紙の爆弾』5・6月合併号【特集】現代日本の10大事態

学校は絶対行かなければならないのか? 「学校」という名の洗脳機関・国民生産工場〈後編〉

◆前回のあらすじ

今日の学校では、いじめ(と言う名の犯罪)・外国にルーツを持つ児童への差別・教師の過剰労働など問題は多い。それらの問題の根源は近代の教育システムにあるのかもしれない。近代の教育システムは産業化や国民国家形成の中で同質的な「国民」を作るべく、構築された。本質的に国家の利益のために構成されているので、児童一人一人に対する教育という観点が欠如していると言える。

◆前近代の教育システムの再評価

ある意味では、前近代の教育システムの方が評価できるのかもしれない。

寺小屋の様子。少人数で個人指導が基本だった

日本では、寺小屋や鳴滝塾や適塾といった私塾、郷学や藩学という教育機関が各地にあった。それぞれの地域で独自のカリキュラムが組まれていたのであり、中央政府が一元的に教育内容を定めるといったことはなかった。他にもイスラームでは、国家が教育に干渉することを禁じており、教育は社会や地域、家庭に任せられるものであった。カリフやスルタンはマドラサと呼ばれる教育機関を設立することがあったが、それは個人での設立であって、国家による「公的な」設立ではなかった。

このような教育システムにおいては、それぞれがその状況に応じてカリキュラムを変更したり、授業速度を独自に調節できるので生徒一人一人に合わせての教育がしやすかった。実際、寺小屋では個人指導が基本だったという。

◆時代に適応できなくなった近代の教育システム

現代はグローバル化が進み、ハーフやクォーターの人も増え、児童の出自背景が極めて多様化している。このような状況でその出自背景を無視し、国家の定めた画一的なカリキュラムを子供たちに強制し、「日本人はこうだ」「日本の歴史はこうだ」といった考えを押し付けることは、その者たちを悩ますことになるのである。実際にアイデンティティで日本人であるか、外国人であるか揺れ動く者は少なくない。これは何も日本だけに限った話ではない。

大切なことは、一人一人に合った教育を行うことである。それを実践するには、国家の定めたカリキュラムに沿って一人の教師が教室で大勢の子供を相手に一斉に授業をする、といった形式は明らかな不都合である。また、1人で大人数の生徒を相手にしなければならないとなると、一人一人に対して目が行き届かなくなり、いじめの温床にもなる。

近年の日本の教育状況や自分自身の体験から考えると、今の教育制度(特に日本)に対しては、疑問を感じるところが多い。

日本史はたいてい旧石器時代から始まり、近代史に入る頃には受験がせまっているので早く授業を進めざるを得ない。そのため、しっかりと日本の海外侵略の過程を知ることはできない。語学ではほとんどの学校では英語のみで、近隣諸国の中国語や韓国・朝鮮語の授業はない。少数派のアイヌ語や琉球諸語の授業も同様である。唯一といってもよい英語でさえ、まともに話せず中には駅前の英会話教室に通っているような「英語教師」による、「英語の授業」が押し付けられる(外国人と話すにはまったく使い物にならない)。

受験が近づくと、学校によっては進学実績を上げるべく生徒には、「国公立大学に進んで当然」といったプロパガンダを吹き込まれる。学校側にとって、生徒は学校の評判を上げるための単なる「駒」である。生徒の人生設計のためには私立大学や専門学校、就職など多様な選択肢があっていいはずではないのか。近年は道徳の授業が「義務教育」で復活したが、道徳は家庭や地域で教えるものであり、わざわざ国家が教える内容まで決めるなどナンセンスである。ましてや文化の異なる外国人児童にも同じ「道徳」を教えるなど時代の流れに逆行もいいところである。そして、現場の教師はカリキュラムの変化によって中央政府に振り回される。

こんな状況で主体的に動き、批判的に考え、社会を深く理解できるような人間が育つはずがない。若年世代もその多くが安倍政権を支持するのは当然と言えよう。

時代はまさに、社会や地域、家庭が自分たちで教育について考える時なのではないのだろうか。近代以降、教育は国家が管理するものであった。それはまさに「国家の、国家による、国家のための」教育であった。むしろ「洗脳」と言うのが正しいのかもしれない。しかし、急激なグローバル化に伴い人間の移動が流動化、その結果として日本は明らかに「単一民族国家」ではなくなったし、多くの国々もその傾向にある。領域国民国家は国民の単一性を志向するが、社会は多様化・複雑化する傾向にある。

このような社会状況に、官製カリキュラムが対応するのは困難である。独自にカリキュラムを定めて教えるしかないのではないだろうか。地域や社会が自分たちで子供たちに教えるべきことを決めて、自分たちが子弟を教える。昔の寺小屋や私塾、マドラサが再評価されてもいいだろう。

近代教育システムはもはや時代に適応できていない。代替物が考案されてもいいはずである。国家の利益のための「教育」ではなく、一人一人が世界で生きるための本当の教育へ。「学校」などに絶対行かなければならないということの方がおかしいのである(了)。

◎学校は絶対行かなければならないのか? 「学校」という名の洗脳機関・国民生産工場
〈前編〉 http://www.rokusaisha.com/wp/?p=29526
〈後編〉 http://www.rokusaisha.com/wp/?p=29533

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京都府出身。食品工場勤務の後、関西のIT企業に勤務。IoTやAI、ビッグデータなどのICT技術、カリフ制をめぐるイスラーム諸国の動向、大量絶滅や気候変動などの環境問題、在日外国人をめぐる情勢などに関心あり。※私にご意見やご感想がありましたら、rasta928@yahoo.ne.jpまでメールをお送りください。

衝撃『紙の爆弾』4月号!

学校は絶対行かなければならないのか? 「学校」という名の洗脳機関・国民生産工場〈前編〉

◆学校で起きる諸問題

今日、学校(この記事では主に小中高を指す)では様々な問題が起きている。いじめ(という名の犯罪行為)とそれによる自殺、外国にルーツを持つ子供たちへの差別、過酷すぎる教員の職場環境……。

『いじめは、なぜ学校で次々に起きるのか』(『月刊Wedge』2012年7月31日=2018/11/16筆者閲覧)

『「日本人」になれない外国ルーツの子供たち』(クーリエ・ジャポン2018年10月14日=2018/11/16筆者閲覧)

『公立小中学校の教員はブラック勤務が前提?!週60時間以上働いても残業代は支払われず』(東洋経済2017年3月3日=2019/3/2筆者閲覧)

去る2月19日に、大津市立中学2年の男子生徒=当時(13)=の自殺をめぐる損害賠償請求訴訟で加害者側に賠償請求が命じられた。この事件では、自己保身集団である教育委員会と学校はまともにいじめについて調査をしないばかりか隠ぺいまで行っていたという。これに限らず、学校でのいじめは後を絶たない。嫌がらせレベルから暴行・脅迫レベルまで範囲は広い。

外国にルーツを持つ児童に関しても問題は多い。昔から在日朝鮮人の子供たちが出自から学校で嫌な思いをするということはあった。これに加え、両親がブラジル人でその児童も日本語がうまく話せず学校に授業についていけなくなる、または両親のどちらかがインドネシア出身で、宗教的な違いから学校になじめず引きこもるか荒れるといった事例を見聞きしたことがある。

教室の様子。現代はこのような教室で国家が決めたカリキュラムに沿って授業が行われる

近年はこのようなことが増えている。そういえば残虐性で恐れられたイスラーム国の兵士には、フランスやイギリスなどヨーロッパ出身者が多くいた。彼らはアラブ諸国から移住したヨーロッパ社会で疎外感を抱き、やがてイスラーム国に加わることによって、その社会に対して牙をむくようになったのである。この事実は今後移民が増える日本社会に大きな示唆を与える。

教える側も大変である。2019年時点で、小中学校とも週当たりの労働時間が60時間以上が70%以上を占める。週60時間労働は、月残業時間が80時間強の状態に相当する。私のいとこは名古屋市内で小学校の教師をやっているが、非常に大変だという。剣道部出身にもかかわらずサッカー部の顧問をやらされ、指導要領の改訂で教える内容が増加したなどでいつも夜遅くまで残業をしていて、まったく生活に余裕がないようである。

◆「国家の、国家による、国家のための」近代教育システム

このような状況が続くと、「先生に問題がある」や「生徒の生育環境に問題がある」といった以上に、根本的に今の教育システム自体に何らかの問題があるのではないかと考えてしまう。

そもそも今の教育システムは近代の西欧で登場し、その後世界に広まったものである。近代の西欧では、国民国家の形成や産業化に伴い同質な文化を持つ「国民」労働者が必要となった。そのために「国歌」「国史」「国語」が形成されることになった。このように近代教育システムというのは、国家が効率的に人間を動員しやすくなるために作られたものであり、「子供のためにどう教育するか」という視点が根本的に欠けている。

それは「義務教育」(高校は義務教育ではないが指導形態は小中と同じである)の名で児童・生徒を強制的に教室に押し込めて、中央政府が定めたカリキュラムに従って、生徒の様々な特性(性格、民族出自、宗教など)を一般的には無視したうえで画一的なコンテンツを頭の中に叩き込む。その目的は同質的な「国民」という、国家にとって使い勝手の良い者を作り出すためである。

近代以降の日本でも「教育勅語」によって国家や天皇に対する忠誠や奉仕が徹底された。現代の世界でも学校などで実践される、掲げられた国旗に対して頭を下げたり国歌を歌うといった行為はまさに国家への忠誠心を示すものである。また、同質的な「国民」を「生産」すべく教育の場では「国語」や「国史」が教え込まれ、その過程でアイヌなど少数先住民の言語や文化が壊滅的なダメージを受けたのは有名である。このように近代の教育システムというのは、本質的に「国家の、国家による、国家のための」教育制度であり、そこでは生徒一人一人に応じた教育は軽視される傾向にある。(後編につづく)

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京都府出身。食品工場勤務の後、関西のIT企業に勤務。IoTやAI、ビッグデータなどのICT技術、カリフ制をめぐるイスラーム諸国の動向、大量絶滅や気候変動などの環境問題、在日外国人をめぐる情勢などに関心あり。※私にご意見やご感想がありましたら、rasta928@yahoo.ne.jpまでメールをお送りください。

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金明秀教授暴行問題について関西学院大学から新世紀ユニオンへ調査委員会設置などの回答 鹿砦社はさらなる激烈な戦術選択を宣言! 鹿砦社特別取材班

8月2日に新世紀ユニオンと関西学院大学側で行われた、団体交渉の合意事項を受けて、関西学院大学から新世紀ユニオンに9月22日付けで回答があった。ユニオン側から提出を要請した就業規則などの6種の規定の文面と、調査委員会には大阪弁護士会所属の弁護士が就任する旨が伝えられた。調査委員の選任はまだ完了していないが、新世紀ユニオンの角野委員長は、団交の際に調査委員会に第三者を入れることを要請したのに対して、第三者のみで構成される調査委員会の発足が回答されたことに対して、前向きに評価している。

関西学院大学が調査委員会に中立であることが期待できる、弁護士を登用し、第三者委員会を立ち上げることは、公平な調査が行われることへの期待抱かせる。大学側も真剣にA先生暴行事件の調査に、遅ればせながら取り組む姿勢を明らかにしたものといえよう。ユニオン側は回答を得て、質問と要望を大学に送付した(その内容は現時点では明らかにできない)。

金明秀(キム・ミョンス)関西学院大学教授が2016年5月19日、ツイッター上でM君に向けて行った書き込み。金教授の問題はA先生への暴行事件だけではない!

ユニオン側並びにA先生は、いたずらに争議を騒ぎ立てるつもりは全くなく、A先生が金明秀教授から受けた被害の回復、と適切な処分を求めているに過ぎない。関西学院大学も団交の中で、その要求の正当性を理解したと思われるので、今後調査員会が誠実な調査を実施し、適切な判断が下されることを取材班は見守りたい。金明秀教授の問題は、A先生への暴行事件だけではないので、関西学院大学が妥当な判断を下すことを期待する。

ところで、A先生の件とは別に、取材班ならびに、鹿砦社は“10・19M君の対5人裁判控訴審判決”を控え、ここに重大な最終的かつ新たな法廷内外での激烈な闘争に決起したことを読者の皆さんにお伝えする。「M君リンチ事件」を端緒に、この3年近く、取材班並びに鹿砦社は「対しばき隊」言論戦に、否が応でも直面せざるを得なかった。いうまでもなくM君の被害回復と加害者(事件への直接の加害者にとどまらず、M君を事件後セカンドレイプ的に攻撃した勢力)への、一定の責任追及を5冊の出版物を編纂する中で、その判断を世に問うてきた。初期にはほとんど著名人からの反応はなかったが、のりこえネット共同代表の前田朗東京造形大学教授が『救援』紙上で、旗幟を鮮明にされて以降、元読売新聞記者の山口正紀さんほか、名前は出せないが(つまり著名で、しばき隊のそばにいる人物たち)知識人・ジャーナリストからの支持が広がっていった。

私たちの戦線は、M君の対5人裁判を軸に、対野間易通裁判、鹿砦社が原告となった対李信恵裁判へと展開し、李信恵も鹿砦社を訴えてきた。ここに至り、取材班ならびに鹿砦社は、読者諸氏の想像が及ばないであろう、戦術を闘争の武器として採用することを決断した。このかん鹿砦社を舐め切った態度で、罵詈雑言を浴びせていた諸君や、鹿砦社に後ろ足で砂をかけた記憶のある諸君は覚悟して、“その時”を待つがよい。これまで取材班は数度にわたり「闘争宣言」を発してきたが、そのたびになんらかの驚愕的事実の暴露や、衝撃を誘う行動に実際に踏み出したことを想起されたい。

われわれは揺るぎない決意で、ルビコン川を超えた!

取材班はいつまでも「しばき隊」のお守りをするつもりはない。彼らの本質が既に相当程度明らかになった(=取材班は成果を確認できた)ので、M君の対5人裁判判決後、今後の方針を検討したのち、しかるべき時期に取材班は、発展的転身を遂げるであろう。しかし、その前に社会的正義に照らして、容認することのできない人物や行為には、きっちりケジメをつけておく。たとえ相手がどのような職業・肩書の人物であろうとも!!

そして再度認確する。取材班と鹿砦社はあらゆる差別に原則的に反対であることを。

(鹿砦社特別取材班)

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M君リンチ事件の真相究明と被害者救済にご支援を!!

日本人のコミュニケーション能力と「パワハラ」「いじめ」

まさに体育会系me tooとでもいうべき、スポーツ界の暴力・パワハラ告発の連鎖が始まっている。女子レスリング、日大アメフト部、女子体操、ウェイトリフティング、日体大駅伝部など、枚挙にいとまがない。コーチ陣みずからの利益を優先した権力構造的なものであったり、現場の暴力であったりするが、根はひとつであろう。すなわちコミュニケーション能力の欠如である。そしてこれは、親和的な社会といわれる日本において、いまだに再生される「いじめ」と同根なのである。

◆パワハラと「いじめ」は負のコミュニケーションである

「いじめ」はその対象への攻撃を共有することで、共同体の成員であることが確認される、排他的な因習である。負のコミュニケーションと言い換えてもいいだろう。そこには、些細な失敗をあげつらうことで、失敗の原因を共同体の成員全体に知らしめる、共同体の指導者の思惑が最初にある。会社組織であろうと地域社会であろうと、共同体が生産力を紐帯にしている以上、「いじめ」という違反者を排撃する「規則」からは逃れがたい。学校における「いじめ」も、一定の協同体規範(水準以下の者・底辺の者を排撃する)を源泉にしているのだ。

たとえば体育祭やスポーツ大会を「正のコミュニケーション」、つまり全体が一丸となる必要にせまられた団結だとしたら、「いじめ」は成員の団結を確認する「負のコミュニぇーション」の契機となるわけだ。反ヘイト運動内部のリンチ事件や内ゲバと呼ばれるものも、大半はこの構造の中にある。そして暴力の問題がそこに陥穽として存在する。「パワハラ」や「いじめ」の暴力と対峙することこそ、克服の第一の関門であろう。

◆暴力の再生産とその克服の道

いっぽう、個人競技でのパワハラと暴力は、個的な関係性の産物でありながら、やはりコミュニケーション能力の問題である。そして指導における暴力は軍隊式の教育方法であり、戦前の軍隊の体罰から来ている。戦争体験世代の父親を持つ男子の多くが、その成長過程において父親からの暴力をトラウマにしているとされる。

 
小倉全由『お前ならできる―甲子園を制した名将による「やる気」を引き出す人間育成術』 (日本文芸社2012年2月)

わたしもその一人である。「言ってわからなければ、身体で言うことをきかせろ」というのが、体罰の発動の契機となる。多くの男子が「父親を殺したいと思ったことがある」という。これは精神的な父親殺し(自立)をうながすという意味で、肯定的に評価されることが多い。さらに軍隊世代の教育(体罰)を受けた世代は、そのままコミュニケーションツールとして、暴力を用いる傾向が強いのだ。世代をこえた、暴力の再生産である。

思い出してみよう。野球部における「ケツバット」ウェイトリフティング部における試合前の「気合い入れ」の「ビンタ」。バレーボール部でもバスケットボール部でも気合入れの「ゲンコツ」はあった。暴力はたしかに「気合い」が入るコミュニケーションツールなのだ。

したがって、暴力を問題視する選手は少ない。そして選手の任免権と指揮権をにぎり、圧倒的な権力を持つ監督やコーチに、現場で反論できる選手はいないだろう。そこで告発という手段が採られるわけだが、その態度はスポーツマンとしては「姑息」に映る。かくして、暴力は再生産され温存される構造があるのだ。

◆理想の指導者像とは

問題なのは、理想的な指導者像の不在ではないだろうか。甲子園大会が100回をむかえた高校野球を例に取ろう。日大三高の小倉全由(まさよし)監督は夏の大会を2度制覇、春の大会2度の準優勝(取手一高時代をふくむ)の実績を持つ。

 
岩出雅之『常勝集団のプリンシプル 自ら学び成長する人材が育つ「岩出式」心のマネジメント』(日経BP社2018年3月)

単身赴任で野球部寮に住み、選手とのコミュニケーションを第一に指導してきた名将である。知り合いのスポーツライターによれば、誰にも温和で取材を歓迎するタイプ、そして褒めて育てる指導方法だという。

それでも、小倉監督は映画「仁義なき戦い」の啖呵が好きで「わりゃ、何しとるんじゃい!」「そんなんじゃ、甲子園は行けんけんのぅ」などという叱咤を好むという。みずから「瞬間湯沸かし器」であるともいう。戦績ばかりで評価される高校野球の監督だが、やたらと選手を壊さない、上で活躍するためには高校時代は基本練習の反復と体力の育成に努めるなど、指導方法の内実が評価されるべきである。

大学ラグビーの理想的な指導者では、帝京大学の岩出雅之監督である。9連覇の偉業もさることながら、選手に徹底して相手チームをリスペクトさせる指導思想がすばらしい。チームが大所帯になればなるほど、一本目(レギュラーチーム)ではない部員はくさる。部員が一丸になれるチームの思想風土、メンバーシップの確立は並大抵ではないはずだ。個人の指導者においても、小倉監督や岩出監督のような人が出てきて欲しい。

▼横山茂彦(よこやま しげひこ)

著述業・雑誌編集者。主な著書に『軍師・黒田官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)、『真田一族のナゾ!』『山口組と戦国大名』(サイゾー)など。医療分野の著作も多く、近著は『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

衝撃満載!月刊紙の爆弾10月号

【緊急報告!】8・2金明秀暴行&不正問題で関西学院大学と被害者A先生が加盟する「新世紀ユニオン」との団交行われる! 関学側「調査委員会」設置を約束‼ 鹿砦社特別取材班

8月2日13時から15時まで、大阪梅田の梅田アブローズタワー会議室で、関西学院大学と、金明秀教授による暴行被害者A先生が加盟する新世紀ユニオンとの団体交渉が行われた。関西学院大学からは柳屋孝安副学長(法学部教授・労働法専門)をはじめ、人事部部長や社会学部事務長ら6名が出席した。組合側からはA先生とご伴侶はじめ7名が参加した。

双方が自己紹介を終え、団交に入るとまず角野新世紀ユニオン委員長が関学に対して、就業規則の開示、パワハラ等の相談窓口の規則・内規等の開示を求め、大学側は開示を約束した。同時に両者間で和解が成立しているからといって、大学には「使用者責任」(民法715条)「安全配慮義務」(労働契約法第5条)があり、それが果たされているかを検証する質疑がなされた。

関学側の回答者は主として柳屋副学長であったが、社会学部事務長によると、A先生が金明秀教授により暴行を受けたと知ったのが2013年5月20日。同月の後半に当時の学部長から金明秀教授に「口頭注意」があったことが明かされた。ただし社会学部事務長はその詳細についての資料を持参しておらず、「口頭注意」がいつ、どのような内容で行われたかが不明であったので、組合側はその記録を後日開示するよう求め、柳屋副学長は「検討する」と回答した。ただし「口頭注意」は同学の規定上「処分ではない」ことを柳屋副学長は明言した。

大学側はこの事件にかんして、「いろいろやっている」と語ったが、その内容はA先生の研究室を別の建物に移動した(A先生の希望ではない)、大学に届いたA先生宛の荷物を研究室に運ぶ、試験監督の日が金明秀教授と重ならないように配慮しているなどであった。たしかに「A先生に対して全く何もしていない」わけではないことはわかったが、本来研究室を移動すべきは、加害者である金明秀教授ではないのか。さらに、A先生は金明秀教授が教授会に出席しているために、教授会に出席することができていない。大学教員にとって教授会に出席できないことは大きなマイナスであるが、この現実への対応や配慮は大学側から、全くなされていない。

そして驚いたのは、2013年5月後半に当時の学部長が金明秀教授を「口頭注意」したのち、大学は調査委員会を設けることはおろか、金明秀教授になんらの処罰も行っていないことが明らかになったことである。柳屋副学長は「当時双方が代理人を立てて、和解の可能性もあったので大学が口を挟むことは控えた」と語ったが、これは全く失当な発言である。結果として同年8月に和解が成立したものの、当初金明秀教授の代理人は、金明秀教授の非を全く認めておらず、仕方なくA先生は警察に告訴をし、受理されているのだ。刑事告訴を金明秀教授側に伝えたところ、急に態度が一変し和解へと向けた交渉へと方向性が変わっているのが事実だ。だいたい「代理人を立てた」ら「大学は口を挟まない」理由の合理性はどこにも見当たらず、まさに「使用者責任」(民法715条)、「安全配慮義務」(労働契約法第5条)違反は明らかだ。

そして柳屋副学長は「A先生が13発殴られ、声帯が破損していたのが事実であれば酷いと思う」と言いながらも、A先生が持参した金明秀教授代理人から暴行を認める内容の文書を柳屋副学長に示し、読み上げるも「どこにも13回殴ったと書かれていませんね」と回数に拘泥し、A先生はこの発言を受け、精神状態に悪化をきたしはじめた。殴った回数が問題なのか?

その後驚くべきことに柳屋副学長はA先生を「金先生」と(!)被害者を加害者の名前で呼んだ。いくらなんでも被害者を目の前にした団交の席で被害者の名前を加害者で呼ぶのは、過ちであったにしろ取り返しのつかない重大な無礼だ。この行為が仮に金明秀教授に対して行われていれば、彼は「劣悪なレイシャルハラスメントだ!」と激怒したことであろう。

◆「次なる暴行事件」が起きるまで「待つ」というか?

さらに金明秀教授からはもう1件暴行を行ったことを聞いていると柳屋副学長は発言したが、その暴行は木下ちがや氏に向けてのものであることが、2週間前の聞き取りで判明したことを認めた。2週間前には組合が既に団交を申し入れており、団交の申し入れがなければ関学は木下ちがや氏に対する金明秀教授の暴行事実も知り得なかったと考えるのが妥当だろう。そして木下ちがや氏への暴行も「口頭注意」で済まされている。

そして柳屋副学長はA先生への暴力事件で「口頭注意」をし、木下ちがや氏の件で「口頭注意」をしたので「次は懲戒処分になると思う」と発言した。ということはもう1件の「暴力事件」がなければ金明秀教授には、何のお咎めもなしということか。2件の暴行事件を確認している関西学院大学は「次なる暴行事件」まで「待つ」というのだろうか。

しかし、ここに柳屋副学長が見落としている重大な事実がある。金明秀教授についての「口頭注意」は、われわれが知りうる限りでも、これで3度目である。2016年8月23日、取材班が金明秀教授に電話取材を行った際、M君に関する下記の書き込みを行ったことについて「口頭注意」を受けたことを金明秀教授は自ら認めている(『反差別と暴力の正体』77頁)

金明秀(キム・ミョンス)関西学院大学社会学部教授が2016年5月19日、ツイッター上でM君に向けて行った書き込み

また、A先生が大学に訴えている別件のハラスメントの申立てについて、驚くべき事実が明かされた。関西学院大学では「療養規定」(体調不良などで仕事を休む制度。正規の給与と賞与が支払われる)の教員が、別の大学で非常勤講師を勤めることを「例外的」に認める場合があるというのだ。病気や体調不良で本来の仕事ができなくて、休んでいる教員がよその大学で仕事をすることが認められる場合があると柳屋副学長は断言した。

このような行為は社会通念上許されるであろうか。これまでこのような行為を是認する大学や企業を、取材班は耳にしたことがない。さらに金明秀教授には「サバティカル」不正問題も明らかになっている(団交ではこれを論じる時間はなかった)。

◆関西学院という大学は、暴力と不正にまみれたブラック大学なのか!?

この日の団交では、結果的に金明秀教授の暴行事件を調査する委員会の設置が、新学期が始まる9月22日までになされることが関学側によって確認された。調査委員会の中には大学とは関係のない「第三者」を入れることを組合は要求し、柳屋副学長はこれを了承した。一定の成果があったとはいえる団交ではあったが、これまでの関西学院大学の対応のまずさと、関西学院大学に宿る「非常識」の一面が浮き彫りになる団交であった。

対日大とのアメフト問題では、暴力を非難し爽やかなイメージを醸し出した関学が、これまで金明秀教授による暴力と不正を放置していたことは、常識的に考えて大問題だろう。ことは、単なる同僚教授間の対立や口論などではない。この間に<暴力>が介在していたことが問題なのは言うまでもない。関学側はこのことを基本的に押さえておくべきだ。

これから、大学にとって大きな行事である入試が近づく。関学の対応次第では、爽やなイメージが急落し受験者も急減するかもしれない。問題をしかと見据え、真摯な対応をしなければ、〝第二の日大〟と化すこともリアリティとしてありえることを関学側は肝に命じなければならない。

本件は今後も漸次報告していく――。

(鹿砦社特別取材班)

『真実と暴力の隠蔽』 定価800円(税込)