
カテゴリー: 松岡利康
季節2022年冬号 刊行にあたって 季節編集委員会
日本の崩壊がいよいよ可視的なレベルにまで高まってきました。「国民総中流」、「Japan as NO.1」との形容があったことすら知らない世代が既に成人を迎えています。安倍、菅のあと就任した岸田首相は、所信表明演説で「改憲の迅速化」と「原発の再稼働」を明言しました。ほかにも些末なことに言及していましたが、ほとんどすべての政策が2022年年末に「破綻」していることは、自民党支持者を含め多くの国民が同意するところです。
広島出身の岸田総理には主としてマスメディアから、的外れな期待もありました。また来年開かれるサミットを広島で開くことに、積極的な意味を見出す言説です。しかし考えてみてください。2000年の「沖縄サミット」は沖縄に少しでも平和の助け舟を出したでしょうか。幾度も選挙で辺野古基地建設反対の意思を表明しても、結局政府は「沖縄無視」を決め込んでいます。広島サミットが実施されてもその果実はほとんど皆無でしょう。
「二酸化炭素」を最大の悪者とする世界において原発は国連が発するSDGsとのお題目から、生き残る護符を得ました。広島で各国首脳が原爆被害者に哀悼の意を表面上表したところで、現在最も深刻な問題である「核兵器」、「原発」の削減や廃止についての議論にまで話題が及ぶことは「絶対」といってよいほどありません。
わずか一世紀前弱の記憶はおろか、十年ほど前の記憶すら、権力者や金持ちにとって不都合であれば「なかったものにしよう」、「被害を最小化に閉じ込めよう」と蠢いて恥じないのがこの国の心象です。どこまで矜持と良心を放棄すれば気が済むのか、と当該人物顔の前十センチ前で尋ねてみたいと思うのは、気が短いせいでしょうか。
ことしは大きな戦争が起きました。おそらくは専門家でも予想できなかった規模と戦法によってウクライナがロシアに侵略されました。冷戦終結前は同じ国であり言語も似通った近隣国による不幸な戦争です。この戦争に軽薄な日本の政権を含む右派は「現在の日本国憲法では国が守れない」、「米国と核兵器を共有すべきだ」と無知丸出しの恥ずべき感情を吐露しました。その失当さは本文で「原発を止めた裁判官」、樋口英明さんが看破していただいています。
この国も、世界もどうやらこれまでよりも格段に速度の速い文明の転換点に確実に入ったようです。きのうまで当たり前であったことが明日認められる保証がどこにもない時代です。今一度「なにが起こるかわからない」時代への心の準備を再確認し、まずは原発の全廃に向けて進もうではありませんか。
季節編集委員会

NO NUKES voice改題 通巻34号 紙の爆弾 2023年1月増刊
[グラビア]福島の記憶 2011-2022(写真=飛田晋秀)
鈴木エイト(ジャーナリスト)
《インタビュー》大震災の被災地で統一協会は何をしていたか
小出裕章(元京都大学原子炉実験所助教)
人は忘れっぽい、でも忘れるべきでないこともある
今中哲二(京都大学複合原子力科学研究所研究員)
マボロシが蘇ってきたような革新炉・次世代炉計画
菅 直人(元内閣総理大臣/衆議院議員)
時代に逆行する岸田政権の原発回帰政策
樋口英明(元裁判官)
《インタビュー》「原発をとめた裁判長」樋口さんが語る「私が原発をとめた理由」
《緊急寄稿》40年ルールの撤廃について
飛田晋秀(福島在住写真家)
《インタビュー》復興・帰還・汚染水 ── 福島の現実を伝える
広瀬 隆(作家)
《講演》二酸化炭素地球温暖化説は根拠のまったくないデマである〈後編〉
鈴木博喜(『民の声新聞』発行人)
《検証・福島県知事選》民主主義が全く機能していない内堀県政が続く理由
森松明希子
(原発賠償関西訴訟原告団代表/東日本大震災避難者の会Thanks&Dream[サンドリ]代表)
最高裁判決に対する抗議声明
司法の役割と主権者である私たちが目指す社会とは
伊達信夫(原発事故広域避難者団体役員)
「原発事故避難」とは何なのか
山崎久隆(たんぽぽ舎共同代表)
経産省「電力ひっ迫」で原発推進のからくり
三上 治(「経産省前テントひろば」スタッフ)
原発政策の転換という反動的動きを見て
漆原牧久(「脱被ばく実現ネット」ボランティア)
自分の将来、すべてが変わってしまった
311子ども甲状腺がん裁判第二回口頭弁論期日に参加して
板坂 剛(作家/舞踏家)
何故、今さら猪木追悼なのか?
松岡利康(鹿砦社代表/本誌発行人)
いまこそ、反戦歌を!
細谷修平(メディア研究者)
シュウくんの反核・反戦映画日誌〈3〉
映画的実験としての反戦 『海辺の映画館―キネマの玉手箱』を観る
佐藤雅彦(ジャーナリスト/翻訳家)
「辞世怠(じせだい)」原子炉ブームの懲りない台頭
山田悦子(甲山事件冤罪被害者)
山田悦子の語る世界〈18〉
文明世紀末から展望する~新たなユートビアは構築可能か~
再稼働阻止全国ネットワーク
「原発の最大限の活用と再稼働の全力推進」に奔走する岸田政権に反撃する!
《北海道》佐藤英行(後志・原発とエネルギーを考える会 事務局長)
《東海第二》横田朔子(とめよう!東海第二原発首都圏連絡会)
《新潟》小木曾茂子(さようなら柏崎刈羽原発プロジェクト)
《志賀原発》藤岡彰弘(志賀原発廃炉を求める「命のネットワーク」有志)
《浜岡原発》沖 基幸(浜岡原発を考える静岡ネットワーク)
《関西電力》木原壯林(老朽原発うごかすな!実行委員会)
《島根原発》芦原康江(さよなら島根原発ネットワーク)
《川内原発》向原祥隆(反原発・かごしまネット代表)
《規制委》木村雅英(再稼働阻止全国ネットワーク)
《読書案内》天野恵一(再稼働阻止全国ネットワーク事務局)
反原発川柳(乱鬼龍選)
『季節』2022年冬号をお届けするにあたって 季節編集委員会
拝啓 師走に入りました。時の移ろいは速いものです。本年最後の『季節』をお届けいたします。平素から私たちの出版活動へのご支援有り難うございます。(特に昨年来の)皆様方のご支援によって、お蔭様で何とか生き延びてまいりました。にもかかわらず、いまだ苦境を脱し得ないまま年末を迎えました。私たちの非力をお詫び申し上げます。
■「鹿砦社カレンダー2023」をお届けいたします。まずは年末恒例の「鹿砦社カレンダー」(龍一郎揮毫)を同封せていただきました。「そんなに情況が厳しいのなら休止したら」「10年余りも発行し無料で配布してきたのだから休止しても誰も文句は言わないよ」等々と心配してアドバイスされた方もおられましたが、逆に厳しいからこそ私たちの<意志表示>として皆様にお届けしようと、松岡の大学の後輩で書家の龍一郎と相談し励まし合い完成に至りました。龍一郎は印刷所にも掛け合ってくれ1年分割(つまり次年発行まで)での支払いにもしていただきました。
さらに龍一郎は、ご母堂、お連れ合い、師と仰ぐ中村哲医師を相次いで亡くし、さらに自身も大病を患い、鹿砦社や本誌スタッフらとは違う意味で厳しい情況です。休止するのは簡単ですが、このカレンダーを待っておられる方や励まされている方も少なくありませんので、厳しい時こそ私たちの〈意志表示〉としてお届けさせていただきました。私たちからのお歳暮代わりの贈り物です。
■皆様のご支援に感謝と更なるご支援をお願いします。左団扇状態だったコロナ前とは天地雲泥の差がありますが、情況は正直厳しいです。昨年9月から毎回毎回ご支援をお願いして来、お蔭様で何とか生き延びてまいりました。本誌『季節』も親誌『紙の爆弾』と共に間を空けず定期発行できています。「たとえ便所紙を使ってでも出版する」とは私たちが出版の魔界に入ってから幾度となく公言してきた言葉ですが、今も変わりはありません。
本誌創刊から8年余りが経ちましたが、元々利益を出すことを目的として発行してきたわけではありません。他に反(脱)原発雑誌はありませんし、創刊から1年ほどでトントンとなることを目指しましたが、いまだに1号たりとも黒字になったことはございません。書店で販売していますので一応「商業誌」の部類ではあります。なので、他社でしたら即休(廃)刊でしょうが、芸能関係など他の分野の書籍・雑誌の利益で赤字部分を補填していこうと考えてきました。実際、コロナ前でしたら、これで優にやっていけましたし、できるだけ書店で目立つように創刊時発行部数2万部、実売が芳しくなく取次会社に委託配本部数を減らされ、歯止めを掛けるために余計な手数料を支払い1万部の委託配本を維持して来ました(が、背に腹は代えられず前号から半分以下にしました)。
どうか本誌124ページに記している方法で、皆様方のできる範囲で更なるご支援をお願い申し上げます。まずは1年間の定期購読、あるいは1年間『季節』と『紙の爆弾』をお届けする「ブロンズ会員」になってください。
さらに、いくつかの連携する団体への支援も行ってまいりましたが、これまで儲け頭だった分野が急速に売れなくなったことが、他団体支援どころか本誌発行さえ困難にしていますので、これは既に休止させていただいています。
今後は、書店販売は続けながらも、会員制、定期購読、直販を中心として独立採算を目指したいと考えています。
末筆ながら、コロナ第8波、予想される酷寒、ウクライナ戦争の泥沼化、物価高騰……今いい材料はありませんが、皆様方のご健勝とご活躍を心よりお祈り申し上げます。良い新年をお迎えください。 敬具
季節編集委員会代表兼編集長 小島 卓
株式会社鹿砦社 代表取締役 松岡利康

NO NUKES voice改題 通巻34号 紙の爆弾 2023年1月増刊
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松岡利康(鹿砦社代表/本誌発行人)
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反原発川柳(乱鬼龍選)
月刊『紙の爆弾』1月号、本日12月7日発売です! 鹿砦社代表 松岡利康
本日12月7日は通勤途中、昼休み、帰途に書店に立ち寄り『紙の爆弾』を買おう!
気に入ったら定期購読を!
長引く新型コロナ禍を主要因とする急激な経営悪化により、一時は休刊やむなしか、と思われた『紙の爆弾』ですが、読者の皆様方の圧倒的なご支援により、間を空けず発行を継続しています。ある読者夫妻からの投書を引用させていただきます。──
妻に「紙爆」の鹿砦社がつぶれそうだョ」と言ったら、「私も寄付する!」と言って、3万円を差し出してきました。私が読んでいる雑誌に妻は全く無関心だと思っていましたが、ちゃんと分かっていたのですね。妻は「こういう出版社が世の中から消えてはいけないんだョ」と言っており、私は嬉しさがこみ上げてきて、涙を押さえることができませんでした。貴社もお忙しいとは存じますが、こうした人の心情を理解していただけたら幸いです。
言葉がありません。同種の声があちこちから届きました。創刊直後の弾圧に屈せず17年余り続いてきている『紙爆』も、8年続いている、唯一の反原発雑誌『季節』も、そして50年余りに渡って続けてきた鹿砦社も絶対に潰さず次世代に引き継ぐことを、あらためて決意いたしました。
*例年のように、定期購読者、会員の皆様には、龍一郎揮毫の「鹿砦社カレンダー2023」を同封・贈呈させていただきました。まだ定期購読されていない方は今からでも間に合います!
(松岡利康)


《12月のことば》望むことは あなたと生きることだ 鹿砦社代表 松岡利康

師走に入りました。このカレンダーも最後の1枚となりました。
皆様方にとって、この1年はいかがでしたか?
世間の大半は、コロナ禍の影響で塗炭の苦しみを味わっておられることでしょう。
加えてウクライナ戦争や円安による物価高──。
特にウクライナ戦争は対岸の火事ではなく、かつてのベトナム戦争を想起させて深刻です。
いつ日本に飛び火してくるかもしれません。
一日一刻も早い停戦を望みます。
先の大戦で、世界で初めて原爆を落とされ、沖縄を最前線として全土が焦土化された日本は、今こそイニシアティブを取り和平に向けて奮闘すべきです。
今、どのような苦しみを味わおうとも、日々多くの人々が殺されているウクライナの情況に比すればなんともありません。
「望むことは あなたと生きることだ」──励まし合い共に生きていこう!
*来年のカレンダーが出来上がってまいりました。『紙の爆弾』の定期購読者/会員の皆様から(同誌と一緒に)発送を開始いたします。ご期待ください!
(松岡利康)

《11月のことば》今を生きろ 鹿砦社代表 松岡利康

2022年のカレンダーも残すところ2枚となりました。いつまでも終息しない新型コロナ禍、これに苦しめられながらアップアップの日々でした。加えて台風、水害などの自然災害、知床観光船の沈没事故、沖縄「本土復帰」50周年、安倍前首相暗殺、目を世界に転じれば、2月に始まったロシアによるウクライナ侵略戦争……目まぐるしくいろいろなことが起きました。あまりに日々の生活に追われ気づきませんでしたが、じつは本年は歴史の転換点だったのかもしれません。
目を背けたくなるような出来事が続き、また酷暑、コロナ禍などに苦しめられてきましたが、現実から逃げることなく「今」を精一杯生きようではありませんか!
「鹿砦社カレンダー2023」の制作も、校了し今月末の完成予定です。『紙の爆弾』『季節』定期購読の皆様方には、12月発行の本誌と共にお届けいたします。まだ定期購読をなされていない方は今からでもよろしくお願いいたします。毎年好評で品切れになりますので、お早目にどうぞ!
(松岡利康)

あの重信房子やホリエモンも獄中で聴き感動した「塀の中のジャンヌ・ダルク」ぺぺ、初の釜ヶ崎ライブ、大爆発! 鹿砦社代表 松岡利康
去る10月23日、秋晴れの日曜の午後、労働者の街・大阪釜ヶ崎で、先頃出所した重信房子さんやホリエモンこと堀江貴文氏も獄中で聴き感動した女性デュオPaix²(ぺぺ)のやさしい歌声が響きました。
Paix²は20数年間、マネージャーが運転するワゴン車「ぺぺ号」に音響機材を積み、全国の矯正施設(刑務所、少年院など)を回り獄内で収容者を前にライブ(彼女ら言うところの「プリズン・コンサート」)を行ってきました。その数505回! 驚異的な数です。全国の刑務所は北は網走から南は沖縄まですべて踏破、少年院もほぼ踏破しているとのことです。そうしたことで以前は「受刑者のアイドル」とか言われました。


また、今回もそうでしたが、音響機器のセッティングも自分らで行い、終われば後片付け、撤収も3人で行います。現在はコロナ禍で休止しているとのことですが、仮に今やめても驚異的な数です。客観的に見ても歴史に残る快挙だと言わざるをえません。
ということで、去る10月12日には、「安全で安心なまちづくりの推進に尽力した功績」で内閣総理大臣表彰を受けました。これには、総理大臣の名のある表彰ということで異論もありますが、それはそれとして長年のPaix²の労苦をせめて顕彰させようという刑務所関係者、法務省の職員のみなさん方の善意のプッシュが大き力となっています。

私がPaix²を知ったのは15年ほど前になります。例の出版弾圧で勾留され保釈になり、裁判闘争を闘い、ようやく事業回復しつつあった中で、ある雑誌社から送られてきた実話誌(『実話Gon!ナックルズ』だったと記憶します)に掲載された漫画を偶々見たことから連絡し、東京・新宿の喫茶店で会ったのが最初となります。自分自身が実際に逮捕、勾留されたことでリアリティを感じ胸を打たれた次第です。この漫画は今も切り取って保存しています。
その後、西宮で今回の規模のライブを行い、その後、小さなライブを10回以上やっていますし、縁あって非常勤講師を務めさせていただいた関西大学の講義でミニライブをやったり、忘年会・新年会や記念イベントなどでも歌っていただいたりしました。
プリズン・コンサート300回、500回を達成した折には記念本も出版いたしました。せめてもの贈り物です。
今回は久しぶりの生ライブということで非常に緊張し、失敗したらもう釜ではやれないな、という、私なりの強い想いで取り組みました。スケジュールや選曲も私のほうで行わせていただきました。特に現在、ウクライナ戦争のさなか、反戦歌も2曲歌っていただきました。一つは忌野清志郎版『花はどこへ行った』(私たちが若い頃はPPMことPeter Poul & Maryらでヒットしました)、もう一つは寺山修司作詞でシューベルツが歌った『戦争は知らない』です。Paix²という名は元々「Paix」は「平和」という意味で、この二乗で「Paix²」ということですから、この名に恥じないように今こそ反戦歌を歌って欲しいという願いからです。
受刑者の家族からの手紙で感動を誘い、『元気だせよ』で一気に盛り上がり、2曲の反戦歌、そしてアンコール曲『いいじゃんか』で会場の熱気は最高潮に達し、この日のライブは終了したのでした。


この後、Paix²から抽選で観客の皆様方にプレゼントがありました。けっこう数があり、この日のライブに対する彼女らの想いを感じました。
当日のライブは午後3時きっかりに始まり5時に終了、その後、懇親会で思う存分語り合い大阪・釜ヶ崎の夜は暮れていったのです。
今回は釜ヶ崎で小さな食堂を経営する「はなママ」こと尾崎美代子さんがライブの案内を公にするや一気に予約が殺到し早目に申し込みを打ち切らざるをえませんでした。参加したかったのにできなかった皆様方、申し訳ございませんでした。早晩、またライブの企画を検討しようと思っていますので、次の機会にはぜひご参加ください。



(松岡利康)
◎Paix²(ぺぺ)オフィシャルウェブサイト https://paix2.com/
◎Paix²(ぺぺ)関連記事 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=77

鹿砦社 http://www.rokusaisha.com/kikan.php?bookid=000626

不思議な縁と出会い 鹿砦社代表 松岡利康
世の中には不思議なことが往々にしてありますよね。このかん私が体験したことをお話しします。
◆半世紀前の学生時代に出会った海藤壽夫弁護士
私は学生時代、まだ学生運動の余韻が残っていた1970年代初め学費値上げに抗議して逮捕されました(1972年2月1日)。150人ほどの学友が検挙、逮捕され、その内、私を含め10人が起訴され裁判闘争に入りました。大学を出てからも裁判は続きましたが、弁護団の頑張りで「寛刑」で、あろうことか支援に来てくれた京大生のMK君は無罪を勝ち取ることができました。


この時、中心になって弁護活動を行ってくれた弁護団の1人に海藤壽夫(かいどう・としお)弁護士がおられました。前年の71年4月に弁護士になられたばかりでした。海藤先生は、かの塩見孝也さんと同期、また1期下に連合赤軍事件で亡くなった山田孝さんがいたそうです。3人は京大生協組織部で活動し、総代会で日本共産党に敗れ、海藤先生は司法試験に専念し、塩見さん、山田さんは政治活動の道に突き進んだそうです。
時代は70年安保を前にして学生運動が燃え拡がります。塩見さんと山田さんは先頭に立って闘い、残念ながら悲惨な目に遭います(塩見さんは獄中約20年、山田さんは連合赤軍事件でリンチ死を遂げます)。
ちなみに、海藤先生は、京都地裁の横に在った坪野米男法律事務所に所属され、坪野事務所は新左翼系の学生の弁護を一手に引き受けていました。坪野先生は弁護士の傍ら社会党の京都府連委員長も務めておられ、リベラルな方だったようです。
◆半世紀後に出会った森野俊彦弁護士
先の10月16日のこの通信に森野俊彦弁護士の著書『初心 「市民のための裁判官」として生きる』を田所敏夫さんが評していました。田所さんの紹介で森野先生に出会い、2件の民事訴訟の代理人を受任いただきました。この通信でもたびたび登場する、いわゆる「しばき隊大学院生リンチ事件」関連訴訟(対李信恵控訴審、対藤井正美訴訟一審)の2件です。

特に対李信恵控訴審では、李信恵のリンチ事件への関与を高裁が認め判決の変更、賠償金の減額を勝ち取ることができました。
ここでまず一つ不思議なことが判りました。なんと森野先生と、先の海藤先生とが司法修習の同期、同クラスだったとのことです。偶然とはいえ、こんなこともあるのですね。
……と驚いていたところ、“私にとって偉大な先輩”が指導し逮捕された1968年6月28日のASPAC反対大阪御堂筋突破デモ「事件」の判決文の草稿を、71年4月に裁判官に任官されたばかりの駆け出しの森野先生が書き判決を下したそうです(71年10月8日)。
今はおそらくないだろうと思いますが、当時はまだ牧歌的な時代だったのでしょうか、任官1年目の新人にも判決文(の草稿)を書かせるような時代だったんですね。この判決の記事は、当時沖縄闘争、三里塚闘争で私なりに熱心に取り組んでいた頃で、その当時、関西の学生運動は同志社を中心に展開されており、くだんの反ASPAC闘争にも同志社の学生が多数逮捕されていました。
同志社大学の学生会館(今は取り壊され新たな建物になっています)の2階に在った学友会(今は解散してありません)のボックスで、名を知っている先輩方の名を指し、いろいろ語り合った記憶があります。


◆森野弁護士と“私にとって偉大な先輩”との不思議な因縁
さて、“私にとって偉大な先輩”の名は矢谷暢一郎(ニューヨーク州立大学名誉教授。心理学専攻)さんです。これまでこの通信を含め何度かご紹介しましたので、ご存知の方も少なくはないと思いますが、矢谷さんには、2005年3月15日、こちらも“偉大な先輩”藤本敏夫さんの墓参に帰国され初めてお会いして以来懇意にさせていただいています。
8年前には著書(『日本人の日本人によるアメリカ人のための心理学』)も出版させていただきました。
とりわけ、ここ数年鹿砦社が関わった大学院生リンチ事件、その被害者の深層心理について、関連訴訟の控訴審で長大な意見書を頂き海の向こうから送っていただきました。
リンチ被害者の大学院生M君が殴られたのが手拳だったのか平手だったのか、記憶が飛んだり曖昧で答えに窮したり揺らいだりしたことで裁判所が「信用ならない」と判断したことに対して、こういうこともあり得るということを科学的に説明してもらいました。
ちなみに被害者M君の父親は、私たちが学生時代当時、一時期共闘していた京大のグループの一員でした。
私たちが彼の支援に関わり始めてから判ったのですが、これも何かの因縁でしょうか。

◆矢谷暢一郎さんと森野俊彦弁護士との“奇妙な共闘”

前述したように森野先生が判決を下した、68年のASPAC反対闘争の被告人の学生の1人が矢谷さんでした。つまり半世紀を越えて、かつて法廷で外形的には非和解的と思われた、裁判官と被告人が私たち鹿砦社の裁判のために“共闘”してくださったのです。実に“奇妙な共闘”です。凄いと思いませんか?
ところで、マスコミ報道にもあるように、森野先生が判決文(草稿)を書き、下した判決も「寛刑」でした。70年代は司法の反動化が始まったといわれますが(実際に森野先生が任官された71年には7名が裁判官に任官を拒否されています)、そうした中でもまだ証拠と法に照らし客観的に判断する裁判官もいたのです。
「寛刑」だった、50年前の学費闘争の判決文は、被告人らは「春秋に富む若者であり前科もないことから……」云々と、今では考えられない古色蒼然たる文章でした。事実認定もほぼ正しく、私たちの主張にも一定の理解を示したものでした。
◆半世紀前の若者は“老境”に入り巡り合った
半世紀を経て、それぞれの仕事を勤め上げ、私を含め“老境”の域に入ったかつての裁判官と被告人は、勿論当時は予想もしなかった訴訟で、当事者(私)、弁護士(森野先生)、そして私の主張を補強する「意見書」の提出者として矢谷さんが、奇しくも同じ法廷で“共闘”するに至りました。半世紀前の当事者性については、訴訟が進行する中で特別取材班が探り当て(森野裁判官と矢谷元被告人の関係)、私もかなりデリケートになりながら、ご両人に“共闘”をお願いしたところお二人とも、快く引き受けてくださいました。冒頭に挙げた海藤先生も「公平、公正、慎重な審理を要請する要請書」に署名いただきました。
そうした“奇妙な共闘”によって控訴審(大阪高裁)判決では一審(大阪地裁)の稚拙な事実判定が一部覆り、「敗北における勝利」(私)、「実質勝利」(特別取材班)という大きな果実を得ることができました。
それから1年後……半世紀という年月を越えたお二人の関係は、劇的な展開を迎えますが、この話はまた別の機会に述べたいと思います。
(松岡利康)




「朋友(とも)を語り、亡友(とも)を偲ぶ会」(主催・同志社大学学友会倶楽部)開かれる! かつての闘士40名が京都に結集! 鹿砦社代表 松岡利康
世界的なベトナム反戦運動と連動し1960年、70年という〈二つの安保闘争〉をメルクマールとする学生運動高揚の時代がありました。同志社大学学友会(各学部自治会、学術団、文連、新聞局、放送局などの全学自治組織)は、その戦闘性で全国の学生運動を牽引してきたことは周知の歴史的事実です。
この、かつての“若き闘士”の集まりが10月15日午後2時から「がんこ」京都三条本店にて開かれました。代表の堀清明さんが病に伏しやむなく欠席、このメッセージを司会の志賀茂さんが代読されました。お二人とも激動の60年代の学友会委員長を務められました。
その後、蒲池裕治さん(三派全学連再建時の副委員長)はじめ主な物故者の名を挙げ追悼、遺族代表の蒲池夫人が挨拶されました。そして献杯──。
こののち各年代、サークル、寮、女子大などの代表から各2分程度の挨拶があり、70年入学の私が“最年少”で、錚々たる先輩方の前でご挨拶させていただきました。70歳を超えて最年少とはどんな集まりや、との声が聞こえそうですが、先輩方、今からデモに出発しようかという熱気に溢れ歓談が続きました。

ある参加者は、いわゆる内ゲバで亡くなった望月上史さんの在りし日の写真を拡大して持参され回覧しました(携帯で接写したのでうまく写っていませんが掲載しておきます)。




私は学友会倶楽部の財政の一助にするために昨年出版した『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』を全員に献本させていただき、この代わりにこの代金以上のカンパを募りました。
お蔭様で多額のカンパが集まりました。「会社が大変な時に何をやってるんだ!」とのお叱りを受けそうですが、相互扶助こそ同志社の学生運動の精神でもあり、これまでも先輩方、後輩諸君からご支援をいただいてきました。
特に17年前に「名誉毀損」に名を借りた出版弾圧で私たちの会社が壊滅的打撃を受けた際には、学友会や、私のいた寮(かの藤本敏夫さんもいた寮)の皆様方が自発的に動き助けていただいたことが、のちに奇跡的に復活を遂げる大きな要因になりました。
その後も歓談は続き、二次会、三次会と続いても語り合いました。
多くの先輩方が亡くなっていく中で、今後もこうした機会があれば積極的に参加し親睦を深めると共に、歓談の中から出て来る証言を聞きたいと思います。
残念ながら、同志社大学学友会は解散しましたが、繰り返す歴史の高揚の波から要請され必ずや復活することを信じています。
闘争勝利!
(松岡利康)



内藤秀之さん一家を追った映画『日本原 牛と人の大地』 鹿砦社代表 松岡利康

右に掲載しているように、『日本原 牛と人の大地』という映画が全国のミニシアターで上映中です。朝日新聞10月7日夕刊に映画と、主人公の内藤秀之さんのことが掲載されていました。
この映画は、半世紀余り前に学生運動で頑張った方が、それまでとは違うやり方で基地反対運動に半世紀も頑張られたヒューマン・ドキュメントです。
内藤さんは、私も2、3度お会いしたことがありますが、朴訥としたお爺さんで、この人が、若い頃は学生運動の闘士、それも党派(プロ学同。プロレタリア学生同盟)の活動家だったとは思えません。若い頃にはブイブイいわせていたのでしょうか。
プロ学同は構造改革派の流れを汲む少数党派で、指導者は笠井潔さん(当時のコードネームは黒木龍思)や戸田徹さんら、かの岡留安則さん(故人。元『噂の眞相』編集長)もこの党派に所属していました。生前直接聞いています(氏との対談集『闘論 スキャンダリズムの眞相』参照)。
構造改革派は、過激な闘いではなく、ゆるやかな改革を目指す勢力でしたが、学園闘争や70年安保─沖縄闘争の盛り上がりと時期を同じくして分裂し、その左派のプロ学同やフロントは新左翼に合流しラジカルになっていきました。右派は「民学同」=「日本の声」派で、その後部落解放同盟内で勢力を伸ばしていきます。
さて、69年秋は70年安保闘争の頂点で、内藤さんの後輩の糟谷孝幸さんは11月13日、大阪・扇町公園で機動隊の暴虐によって虐殺されます。

下記新聞記事では、牛飼いになったのは「友人の死だった」とし(「友人」というより”後輩”でしょう)、「デモ隊と機動隊が衝突し、糟谷さんは大けがを負って亡くなった」と客観的に他人事のように記述されていますが、この頃の闘いは、まさに生きるか死ぬかの闘いで、熾烈を極めました。学生にも機動隊にも死者が出ています。それをマスコミは「暴力学生」のせいと詰(なじ)ったことを、くだんの記事を書いた朝日の記者は知っているのでしょうか!?


その後内藤さんは、ここが私たちのような凡人と違うのは、医学生への途をきっぱり拒絶し、糟谷さんの遺志を胸に人生を懸けて基地反対闘争を貫徹するために牧場家に婿入りしたというのです。
爾来半世紀近く黙々とこれを持続してこられました。当時流行った言葉でいえば「持続する志」です。
内藤さんの営為は、日本の反戦運動や社会運動の歴史、個人の抵抗史としても特筆すべきもので記録に残すべきです。
……と思っていたところの、この映画です。
また、これに先立ち内藤さんは、後輩活動家の糟谷さんの闘いの記録を残すために奔走されました。
一緒に決戦の場に向かった後輩が志半ばにして虐殺されたことが半世紀も心の中に澱のように残っていたのでしょう。
多くの方々のご支援で、これは立派な本として完成いたしました。そうして、今回の映画となりました──。
多くのみなさんが、内藤さんが中心になって出版した糟谷さんを偲ぶ書籍と、内藤さんと一家を追った映画をお薦めします。闘争勝利!
(松岡利康)
◎[参考動画]映画『日本原 牛と人の大地』予告篇


