芸能界には暴力団関係者が経営する芸能事務所というものがある。これは昔からあるし、全国の自治体で暴力団排除条例が施行された今も変わらない。

1978年に起きた「安西マリア失踪事件」では、そうした芸能界の暴力団汚染の実態にメスが入れられた。

デビュー曲「涙の太陽」(1973年7月東芝音楽工業) 50万枚超のヒットとなった

安西マリアは、都内の高校を卒業後、銀座のクラブ「徳大寺」でホステスとして働いていたところ、スカウトされ、1973年に『涙の太陽』で芸能界デビューした。同曲は50万枚以上も売れたが、その後はヒットに恵まれなかった。

そして、1978年4月8日、安西は予定されていた曲のレコーディングに姿を現さず、失踪してしまった。13日、安西が所属するタケノエージェンシー社長、竹野博士は、記者会見を開き、これを公にし、14日、捜索願が出された。

◆「愛の逃避行」報道から急転した事件の真相

だが、事件は思わぬ展開を見せた。

安西は失踪直前に元マネージャーの衣籏(きぬはた)昇とともに母親をタクシーで湯河原まで送り、そのまま同じタクシーでビクターのスタジオに行くところだったが、横浜の日吉で下車し、それ以降、2人の足取りがつかめなくなっていた。以前から2人は親密だったことから「愛の逃避行」などと騒がれていたが、その2人は4月21日に麻布署に姿を現し、竹野社長を暴行と強要の容疑で告訴した。

警察発表によれば、容疑事実は以下の通り。

2月3日、竹野がマネージャの衣籏を呼び出し、安西がその日の朝のテレビ撮影に遅刻した責任を追及し、靴ベラで衣籏の頭を殴打し、怪我を負わせた。さらに、安西と安西の母親を呼び出し、「テメエら、ふざけるんじゃねえぞ、ソレは前科24四犯だ(実際には5犯)。人をブッ殺すことなんか、なんとも思っちゃいねえんだ。仕事をすっぽかしたことをどうするか、よく考えろ」と脅迫した。恐れをなした安西は14日に、月給を100万円から55万円に減額する契約書に署名した。安西と衣籏が失踪したのも竹野を恐れてのことだった、という。この告訴によって5月6日に竹野は逮捕され、竹野が過去、暴力団の組長だった経歴が明らかにされた。

竹野は広島の広陵高校を卒業後、51年、阪神に入団し、二軍で捕手を務めたが、野球賭博に手を出して、翌年、退団。第2時広島ヤクザ戦争が起きていた63年に自身の十一会という暴力団を旗揚げし、64年反山口組勢力の連合体、共政会に合流し、ナンバー3の地位にあたる理事長のポストに就任。だが、銃撃されて重症を負ったり、凶器準備週号などで逮捕されるなどして、抗争に疲れ果て、72年、広島県警に脱会届を提出し、暴力団から足を洗い、上京して芸能プロダクションの仕事を始め、74年に竹野エージェンシーを設立した。

東京ではカタギだったはずの竹野だったが、前年11月に共政会組員が銀座で拳銃を発砲した事件で、その共政会組員が留まったホテルに竹野の自宅電話番号が書かれたメモがあったことから、警察は竹野をマークしていたという。

一方、竹野の側もこれに反論をした。竹野が衣籏を靴ベラで叩いたのは、衣籏が会社のお金を横領した上、商品である所属タレントに手を出したためであり、安西の遅刻の件もあって、解雇した。また、安西のギャラの減額のために再契約した際も、安西は納得して「クビになると困る。これからも使ってください」と言い、その後もたびたび食事をし、おびえた様子はなかったという。

◆それでも安西を叩き続けたマスコミたち

「愛の逃避行」から一転して「暴力団出身の事務所社長による脅迫事件」に発展した後も、マスコミの論調は安西や衣籏のバッシングに走り、竹野を擁護する芸能事務所関係者の声をより多く報じた。安西の失踪事件は、終始、芸能プロダクション側の論理に引きずられていた感が強い。

事件の初期段階で『週刊平凡』(78年4月27日号)がバーニングプロダクションの周防郁雄社長の次のようなコメントを掲載している。

「たとえば本人があらわれて謝罪しても、多くの人に迷惑をかけた今回の行動は許されるべきではない。まわりの人はマリアに引退を勧告すべきだし、レコード会社もすぐ新曲を発売中止にするべきです。厳しすぎるかもしれませんが、そうすることが芸能界の将来にとてプラスになると思います」

事務所の言うことを言うことを聞かず、弓を引いたタレントは、業界から追放すべし、ということなのだ。

▼星野陽平(ほしの・ようへい)
フリーライター。1976年生まれ、東京都出身。早稻田大学商学部卒業。著書に『芸能人はなぜ干されるのか?』(鹿砦社)、編著に『実録!株式市場のカラクリ』(イースト・プレス)などがある。

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