「ぼくは二十歳だった。それがひとの一生でいちばん美しい年齢だなどとだれにも言わせまい」(ポール・ニザン『アデン・アラビア』)

遙か彼方の1972年2月1日、酷寒の京都、その時私は二十歳だった。
「ひとの人生」には、それぞれメモリアル・デーがあろう。まずは誕生日、ひとによっては次が結婚記念日だったり震災の日だったり……するだろう。

私にとっては、1972年2月1日と2005年7月12日だ。後者は私が、のちに「厚労省郵便不正事件」での証拠隠滅で逮捕・失職する大坪弘道検事に率いられた神戸地検特別刑事部に「名誉毀損」容疑で逮捕された日であり、これによって会社は壊滅的打撃を受けた。ここで「前科調書」として思わぬ書類が出てきた。前者1972年2月1日に逮捕された事件の判決文である。時の経過と共に引っ越しなどで紛失していたものだ。72年から33年余りも経っていたが、日本の捜査機関はきちんと保存していて、のちにどこで逮捕されてもすぐに出してくる──日本の捜査機関も侮れないな、と思った次第だ。ちなみに、ポスター貼りでも、警官に見つかって検挙され1日2日留置所に泊められても「前歴」として残るということをプロレス団体の人から聞いたことがある。ここまで日本の捜査機関はやるのか。

1972年2月1日付け京都新聞

逮捕されたのは京都なので裁判が行われたのは京都地裁だ。あらためて読むと、当時の京都地裁の裁判官が、意外にも私たちに同情的で「被告人らは春秋に富む若者であり前科もないことから」(判決文)「懲役3カ月、執行猶予1年」の寛刑であり、被告団10人のうち1人はなんと無罪だった。この1人M・K君は、支援で駆けつけてくれた京都大学工学部のノンセクトのグループに属し黒ヘルメットを被っていたが、逮捕された際に私たちが被っていた赤ヘルメットを無理やり被せられ、これが決め手となって無罪となったのだ。それにしても、このように判決文に「春秋に富む若者であり……」云々という表現、時代を感じさせる。最近ではパソコンに登録した文章をちょこちょこといじった判決文が多い。私たちも検察側も控訴せず決着した。判決は76年12月3日、逮捕からやがて5年が経とうとしていた──。

本年は69年の東大安田講堂攻防戦から50周年ということで、テレビでも当時の映像が流れたが、これに比べれば私たちの闘いは、火炎瓶が飛び交うわけでもなくチャチと言えばチャチなものだったが、私たちは真剣だった。

60年代後半の学園闘争、いわゆる全共闘運動が、機動隊導入によりバリケード解除され収束に向かう中で、1971年、全国の私立大学で次年度からの学費値上げ問題が浮上した。東京では早稲田、関西では同志社、関西大学が中心となった。早稲田、関大は、いつのまにか霧散したが、私たち同志社だけは最後の最後まで身を挺し徹底抗戦することで意志一致した。闘うべき時に闘わずして、みずからの存在価値はないし、たとえ運動や組織が解体させられても徹底抗戦するしかない! 〈革命的敗北主義〉の精神である。

私たちが参考としたのは、60年代後半の明治大学(当局と裏でボス交し収束)と中央大学(白紙撤回)の学費闘争だった。この2つの闘いはよく勉強した。

私たちが拠って立った「全学闘争委員会(全学闘)」と「学友会(全学自治会)」は、60年安保闘争以来ブント直系の運動として、その戦闘性で全国の学生運動を牽引した流れを汲みつつも、同志社のブントが崩壊して以来、ブント系ノンセクトとして健在だった。歴史の後智恵で、徹底抗戦せず組織や運動を守る手がなかったのか、という意見もあろうが、私たちは、そんなことは緒から考えなかった。明大のように当局とボス交して収束をはかるなど論外だ。闘わずして生き延びた運動や組織は腐敗する。東大安田講堂攻防戦前夜に敵前逃亡した革マル派のように、のちのち後ろ指を差されることはやりたくない。たとえ、たった1人になっても戦い抜けば、それによって必ずや後から続くと信じた──(実際は、多くの逮捕、起訴者を出しガタガタになったところに、闘わなかった輩による運動の成果の簒奪が始まり、政治ゴロの介入を許し、場所的経済的利権を狙った草刈り場となったのだが。どのように運動の成果が簒奪され歴史が歪曲されようが、真に闘ったという事実は真に闘った者が知っている)。

「赤ヘルの学生おのがコート脱ぎ われに着せたり激論の中」(秦孝次郎)

秦氏は当時の理事長(総務部長だったかな?)で近鉄資本(同志社は近鉄が持っていた土地を格安に購入)とのつながりが強かった人で、秋深まった11月のキャンパスで長時間に及んだ大衆団交でドクターストップがかかりつつも大学当局の意志を貫き、学費値上げ、そうして以後相次ぐ値上げを強行し、田辺町移転―大同志社5万人構想実現に向けて走り出すのである。

一時は、ほとんどの学部や女子大までが田辺に移転し、加えて近くに在った立命館広小路キャンパスも予備校に売却し移転、学生で賑わっていた今出川界隈も寂しくなった。いちど私が大学に入学する際に入った近くの喫茶店の女性オーナーに「寂しくなりましたね」と言ったことを思い出す。ところが、近年文系学部が今出川に戻り、当時喧伝された、航空工学部、宇宙工学部を新設したりする大同志社5万人構想も、現在学生数は政策学部、文化情報学部、生命医科学部、スポーツ健康科学部、グローバル・コミュニケーション学部など新たな学部をかなり増やしたり学科を学部に増員・改組させた(当時は6学部)りしたことにより3万人弱(大学院含む)と当時より1万人増えてはいるが、航空工学部、宇宙工学部は頓挫し、田辺町移転―大同志社5万人構想が全くの失政だったことが証明されている。私たちの主張は正しかった。

大学の価値というものは、キャンパスが広いとか、施設が良いとかではない。あの狭い今出川キャンパスで、ランチタイムになれば、どこからか授業を終えた学生が出て来てトランス状態になった光景が忘れられない。

私たちは、団交やストを繰り返したりして学友へ学費値上げの不当性をアピールし続け、年末に入り学生大会で無期限バリケードストライキを決議し決戦態勢に入った。正月もバリスト状態で過ごした。多くの学友の支持もあり、教職員も心ある人たちが多く、さしたる妨害はなかった。問題は、私立大学にとって最大のイベントたる入試である。同志社では毎年2月初めに行われる。日程からして1月下旬から2月5日頃までがリミットだろう。

大学内部にいる、かつて自治会運動などに関わった心ある教職員からの情報が刻々と伝えられる。決戦は〈2月1日〉だ!

私ら決死隊は最後までバリケードに留まり逮捕覚悟で、今出川キャンパスの中心にある明徳館の屋上に拙い砦を作り立て籠もった。

一方、決死隊逮捕の報に、学生会館や近くの寮などに待機した仲間や、先のM君らが、京都市内から学生会館中庭に続々と結集していた。その数約300、ほとんどが同志社の学友だが、M君のように他大学の者もいた。

私たちは裁判が終わったあとに『われわれの革命』という小冊子を発行したが、それによると、──
「封鎖解除(機動隊導入)、明徳館砦死守(四名)不当逮捕
 学生会館中庭で、三百余名抗議集会、再封鎖に向けて、丸太、竹ヤリの突撃隊を先頭に今出川に出立する際、機動隊と正面衝突戦を展開(百二十数名不当検挙、四十三名逮捕、十名起訴、重体数名)」
とある。

この闘いは、東大全共闘はじめ全国の戦闘的な学生による安田講堂攻防戦のような、現代史の本には必ず載るようなものではなく、(東京からすれば)一地方の〈小さな火花〉にすぎなかったが、私たちにとっては、その時に、みずからの立場をどう鮮明にするのかを問うものだった。いわば「単ゲバ」の私たちには迷うことはなかった。「やるしかない!」

「しらじらと雨降る中の6・15 十年の負債かへしえぬまま」(橋田淳『夕陽の部隊』)

「6・15」とは60年安保闘争の際、国会前で樺(かんば)美智子さんが機動隊に轢死させられた日、私たちにとって忘れてはならない日として長らく伝えられてきた。かつてこの日には記念の集会やデモがなされていたが、今では国会前で当時の仲間らが集まる程度だ。ちなみに日本共産党にとってこの日は、樺さんがブントに指導された全学連主流派だったという理由で、その歴史には存在しない。

「橋田淳」(仮名)とは、私の当時の“上司”で今は児童文学作家のS・Kさん。もう何十年も過ぎているので「十年の~」ではないが、私たちが、かつてみずから血を流した闘いの中で背負った〈負債〉とは何か? 毎年2月1日になると、自らに問いかけ続けているうちに、〈負債〉を「かへしえぬまま」47年の月日が流れた──。もう私たちは「過激派」でも「極左」(47年前の行動でいまだに性懲りもなく「極左」呼ばわりする輩がいる)でもなく、たまに反原発のデモに行っても「お焼香デモ」だし、学生時代のような元気はないが、それでも、かつて怒りで身を挺して闘った時の志を忘れないようにしたい。かのレーニンが1905年革命(第一革命)の総括で、「武器を取るべきではなかった」という日和見主義的見解に対して「もっと決然と、もっと精力的に、またもっと攻撃的に武器を取るべきであった」(『モスクワ蜂起の教訓』)と言ったことの精神だけは忘れまい。

「俺を倒してから世界を動かせ!!」(明徳館砦に書いた落書き)

当時は「われわれが~」とか「私たちが~」と言っていたが、つまるところ、ここぞという時に「私が」どうするのか、ということだろう。だから逮捕されることが必至のこの闘いには、躊躇する者には無理強いはしなかった。あくまでも、本人の意志に委ねた。平時は格好良い言葉を発していても、いろんな私的な事情で逃げるようなことを恥として私は学費値上げ問題に立ち向かった。当時の全学闘は党派に指導されたものではなく、60年安保闘争以来のブント系の同大学生運動の戦闘性を継承しつつも全員がノンセクトであり、その後はちりじりばらばらになった。党派に属していれば、その党派の指示に従って組合に入ったりするのだろうが、私たちの場合それはなかった。S・Kさんのように苦労して児童文学作家として名を成した人もいれば、U・Mさんのように草創期のコンビニ業界に入り企業活動で名を成した人もいる。私のように斜陽産業の出版界で呻吟している者もいる。それでいいんじゃないだろうか。

私はここ3年ほど、「反差別」運動、いわゆる「カウンター」内で起きた凄惨なリンチ事件の被害者支援と真相究明に関わっている。私の所に辿り着くまで被害者は放置され正当な償いも受けずに「人権」を蔑ろにされてきた。かつて学費値上げに怒りを覚えたのと同様に怒りが込み上げてきた。私の怒りはシンプルだ。悪いことは悪い! 私にとって47年前に学費を値上げと集団リンチ問題に関わることは同じ〈位相〉なのだ。いつまでも怒ることを忘れないでいよう。

加害者側の弁護士(共産党系!)は詰(なじ)る。「極左の悪事」だと。問題の本質はそうではないだろう。何度も言う、悪いことは悪い! くだんの弁護士は言う、「正義は勝つ」と。裁判に勝ったからといって、それが「正義」だとは限らない。歴史の中には、むしろ負けた者や少数派の主張に正義や真実があることのほうが多い。行政訴訟は住民側がほとんど負けるが、住民側にこそ正義や真実があることがほとんどだ。それでもくだんの弁護士は、「正義は勝つ」とでも言うのか!?

最近出会った、フォーク・シンガーの中川五郎さんの歌に『一台のリヤカーが立ち向かう』があり感動した。鹿砦社の新年会でも最後にこれを歌ってくれた。私も歳とってずいぶん丸くなった(と自分では思う)が、なんと言われようが、悪いこと、理不尽なことに怒りを持つことを忘れずに、私は「たったひとり」で時代遅れの古い「リヤカー」に乗って闘い続けたい。

「たたかい続ける人の心を、だれもがわかってるなら、たたかい続ける人の心はあんなには燃えないだろう」(吉田拓郎のデビュー曲『イメージの歌』)

広島から東京に出て来たばかりの吉田拓郎は、こんな歌を歌っていた。中島みゆきも、
「闘う君の唄を闘わない奴等が笑うだろう」(『ファイト!』)
と歌っている。

それでも私はこれからも、かつて2005年に逮捕された際に言ったように、「血の一滴、涙の一滴が枯れ果てるまで闘う」だろう。もう初老の域に入った私もやがては老いさらばえるだろう、最後に「人知れず微笑(ほほえ)み」(樺美智子)ながら──。

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*『夕陽の部隊』は、松岡・垣沼真一編著『遙かなる一九七〇年代‐京都──学生運動解体期の物語と記憶』に再録されています。残部僅少です。お早目にお求めください。