福島第一原発事故からの避難者は、幼い子どもらを抱えた若い女性が多いが、じつは高齢な方、単身の女性、そして単身の男性もいる。単身男性で、しかも福島県以外からというと、「男性のくせに気にしすぎ」と思う人もいるかもしれない。

しかし前回森松さんが訴えたように、「避難の権利」は、すべての人に等しく与えられなければならない。そうした意味で、彼らの取った行動は、今後避難を考える人たちに、大きな勇気を与えてくれるだろう。今回は、茨城県から単身で大阪に避難してきた羽石敦さん(43才)にお話を伺った。

◆日立の企業城下町で育ち、チェルノブイリに衝撃を受ける

羽石敦(はねいし あつし)さん

羽石さんは、3・11の事故時、茨城県ひたちなか市に母親と弟の3人で住んでいた。ひたちなか市は1994年勝田市と那珂湊市が合併して編成された町で、その名の通り、「日立製作所」の企業城下町である。市の中心部には東海原発や東海村JCOがあり、羽石さんの実家のある、ひたちなか市(旧勝田市)の「勝田音頭」では「今じゃ 科学の花が咲く」と歌われるように、日常生活の中で徐々に原発に「洗脳」されるような状況があった。

そんな町に育った羽石さんは、一方で子供の頃見た「はだしのゲン」や、1986年発生のチェルノブイリ原発事故などに大きな衝撃を受けたことで、原発や放射能、被ばく問題に関心を強め、独自に知識を得てきた。

◆1997年の3・11と2011年の3・11

1997年3月11日には、地元実家の近くの東海村、動燃(現・日本原子力研究開発機構)東海事業所再処理工場で、火災爆発事故が発生し、建屋内にいた作業員129名のうち37名の体内から微量の放射性物質が検出されるという事故があり、その2年後、東海村JCOで臨界事故が発生、のちに2名の作業員が被ばくで死亡した。事故は、国際原子力事象評価レベルでレベル3、レベル4であった。工場から10キロ圏内にある羽石さんの実家でも、丸1日屋内退避を強いられた。

2011年3月11日の原発事故後は3日間、電気が止まっていたが、4日目につけたテレビで福島第一原発の3号機が爆発した映像を見た。当時の線量が通常の100倍になったことを知り、羽石さんは避難を決意、身の回りのものを積め込んだバッグ一つでバスに飛び乗ったという。

◆西成、高槻、再び西成

2日かけて関西にたどり着き、10日ほど西成の1日1500円の簡易宿泊所(通称ドヤ)で過ごしたあと、谷町4丁目にある大阪府庁の建物内の、スポーツジムのような場所に、開設された避難所に入った。当時の食事はチキンラーメンとアルファ米のみだったという。

しかし羽石さんは、その後まもなく高槻市の雇用促進住宅に入居できた。当時の大阪知事・橋下徹氏が、比較的柔軟に避難者の受け入れを進めたこと、その後茨城県が「災害救助法」に適応されたこともあり、罹災証明書もスムーズに取ることができたからだ。

しかし、その年の9月までに突然、福島県以外からの避難者は退出してくださいと言われる。仕方なく羽石さんは二度目の避難先を探し、急きょ泉北ニュータウンの府営住宅に移り住んだ。しかし住んでみて初めてそこが、市内から遠く離れ、大阪市内に出るのに、電車賃が往復約1000円もかかり、非常に不便なことがわかった。
さらにごみ問題などで、元からの住民と軋轢が生じため、再び引っ越しを考え、その後、一番長く住むことになる、西成区長橋の市営住宅に引っ越すことになった。当初役所からは、200戸ほどの住宅リストを紹介されたが、うち7割~8割には風呂がついてなく、約20万円の風呂釜を自腹で用意しなければならない住宅だった。

経済的に風呂釜を買う余裕のない避難者らは、仕方なく、同じ市営住宅でも風呂のついている事業者用住宅を選ばざるをえなかった。それがのちの住宅無償提供うちきりのさい、一つの大きな弊害になったという。羽石さんの入居した西成区の事業用(再開発)住宅には、地元の高齢者が住む1階以外の2、3階には福島、宮城、岩手、茨城からの避難者で埋まっていたという。

1年ごとの更新はあるが、ようやく落ち着いてきたと思っていた、6年目の2016年7月中旬、大阪市役所から一通の通知が届いた。そこには「今年度いっぱいで住宅支援、家賃無償提供は終了する」という通知と、「今年度で支援住宅を打ち切ります。大阪から出ていきますか・それとも家賃を払って住みますか?」というアンケート用紙が同封されていた。

当時羽石さんの入っていた住居は、中堅層向けの住宅で家賃が6万円と高いうえに、減免もきかなかった。こんな重要な、避難者の将来に関わることを、当事者らとの話し合いや説明会もなく、紙切れ1枚で一方的に通告される……「これでいいのか」、羽石さんはどうしても納得できなかった。「結果がどうあれ何かしら抗っていかなければ…」と考え、まずは地元の維新の会の議員事務所にアポイントもとらず、飛び込んだ。結果、なかなか難しいとの回答だったため、つぎに共産党の議員事務所に駆け込み、ようやく話を聞いてもらえることになった。

◆「大阪避難者の会」の立ち上げ

そうした活動をきっかけに、避難者10人と支援者らを含め20人ほどが集まり、「大阪避難者の会」を立ち上げ、羽石さんは代表となった。その後、市議会議員や府議会議員への訴え、議会への請願書・陳情書の提出、大阪市の行った住宅支援打ち切りについてのパブリックコメントへの取り組み、大阪市との協議、役所との個別面談など、考えられる限りのことを支援者らと取り組んできた。

大阪市との協議は3回行ったが、そこで羽石さんらは、第一に家賃の無償提供を継続すること、第二に、引っ越す場合の引っ越し費用を出してもらうこと、第三に、無理やり追い出すようなことはしないこと、最後に羽石さんらの経験から風呂釜を要求するという内容の要望書を提出した。

その後、山形の避難者が闘っている追い出し裁判で住民側の代理人を務める井戸謙一弁護士からアドバイスされ、「一時使用許可申請書」を作成、役所に提出した。対応した市の職員は「なんでこんなことをするんだ。裁判をする気なのか、あなたは」と顔を真っ赤にして怒り、押し問答が1時間くらい続いたが、その後受け付けさせることができた。それ以降、羽石さんらへの市の対応が少し柔軟になったという。

「家賃無償提供終了」の通知がきた2016年7月から2017年3月末までの9ケ月間、支援者と共に必死で闘った結果、家賃無償は打ち切られたが、希望する人が避難を続けられる「特定入居」(継続入居か住み替え入居)を勝ち取ることができた。

原発賠償関西訴訟 第24回口頭弁論は11月21日(木)大阪地裁にて

◆沈黙は容認、反対の声を記録を残す

── ここまでお聞きすると、 避難して以降の羽石さんの闘いは、避難に一番大切な「住居を確保する闘い」であったわけですね? 具体的にはどのような内容を勝ち得たのでしょうか? また9ケ月の闘いの中で、羽石さんはどんなこと考え、学んできましたか?

羽石 1番は入居要件の緩和を勝ち得たことです。具体的には、大阪市営住宅の60歳以下の単身入居が、可能になったことです。家賃減免制度も利用できるようになりました。これは、避難者だけでなく、一般の大阪市民も利用できるようになったので、本当に良かったです。それから、事業用住宅の応能応益家賃も認めさせました。風呂付住宅にも入居できました。

最初に考えたことは、沈黙は容認であるということです。とにかく、反対の声を上げようと思いました。記録を残すためです。それが後に、裁判や国際問題にも影響すると思ったからです。実際に国連では4カ国(ドイツ、オーストリア、ポルトガル、メキシコ)が、日本政府に改善するよう、勧告をだしています。学んだことは、当事者が声を上げる事の大切さです。当事者不在では、支援者ができることに、どうしても限界があります。

── 京都や奈良ではどうだったのでしょうか?

羽石 京都は2012年12月28日の受付終了から、6年の入居としました。奈良は特別なケースで、震災後の早い段階に条例を改正して、対応しました。

── 大阪市は当初、避難者の家賃を国に求償していないと言っていたのですね?それが情報公開請求で嘘だとわかったと。

羽石 はい。大阪市は国に近傍同種家賃で求償し、何億円も得ていました。それなのに、最初求償していないというので、私たち避難者は「税金でお世話になって……」と肩身の狭い思いをしていました。

── 羽石さんは、「原発賠償関西訴訟原告団」の幹事も務めておられますが、この裁判を闘うに当たって、決意、訴えていきたいことなどをお話ください。

羽石 1番は被曝を避ける避難の権利を求めることです。今の日本では、移住か帰還の選択を迫られて、避難を続けることが難しい状況です。国内避難民を消したい国と、裁判を通して抗う決意です。

◎福島原発事故避難者に聞く
1〉いま、起こっていることは「風化」でなく、「事実の矮小化」と「隠ぺい」です 森松明希子さん 

▼尾崎美代子(おざき みよこ)
新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。『紙の爆弾』、『NO NUKES voice』にも執筆。

タブーなき言論を!『紙の爆弾』11月号!

〈原発なき社会〉を求める雑誌『NO NUKES voice』21号!