◆人それぞれの道

話は足踏みするが、藤川さんが日本訪問を終えてタイの寺に帰った7月初旬(1995年)、2週間の予定が3週間を過ぎて帰ったものだから、すぐに和尚から大目玉を食らったという。「和尚が怒っても3日もすれば忘れるからいいけれど!」と笑わせる。

比丘が行く場所ではないデパートでも、指示すればどこにでも現れた藤川さん

寺に帰れば新顔が増えていて、この年のパンサー(安居期)を控え、新しい出家者が15名ほど入ったらしい。「昨年の連中(私と同期)と比べるとちょっと小粒で良く言えばおとなしく、悪く言えば覇気が無く、例年に比べ静かなパンサー」だと。
そして寺に残っている私と同期の彼らは7名ほどだが「もう1パンサーを過ごしてみる!」と言う者が多かったらしい。

ところがこの年のパンサーが終わった後、11月初めに皆の兄貴分、ケーオさんがいきなり還俗したようだ。藤川さんにとっては再出家の際、この寺に導いてくれた人の兄に当たるだけに「彼は裕福な家庭に生まれながら捻くれて育って、借金しても返済せず、無理矢理出家させられた経緯があって今後、何して生きていくのか心配や!」と言っていた。藤川さんにも3000バーツ借りたまま去って行ったとか。寺の顔触れも徐々に変化していくようだ。

◆2日間の空腹

翌年(1996年)6月、「今後は知らん!」と言っているにも関わらず、旅の日程を手紙で寄こす藤川さん。そんな連絡は受けていたが、仕事もあるから成田空港まで迎えには行かなかった。するとある日の午前、成田空港らしい館内放送が掛かる場所から電話が掛かってきて「どこに居るん?」と言われた。

「俺、成田空港まで行くとは言っていないでしょ!」と言い返したが、仕事があるからそれでも行かなかった。そうしたら来日後、丸々2日間、食事を摂れなかったようだ。それはあまりにもキツいと思う。しかし人をアテにし過ぎなのである。

藤川さんだって旅の資金を数万円は持っているはず。悪い言い方だが、ここは日本だから、午後でもコンビニで何か買って食べればいいと思う。しかし藤川さんは出家以来この戒律を守ってきたのだ。比丘として、どこの国に行こうとテーラワーダ仏教の戒律を守りながらの旅ということは当然と思う。蚊を殺したり、混んだバスなどで女性に接触したりは偶発的に起こることはあるが、午後食事を摂ってはならない戒律など、守りきれるものはしっかり守ってきたオッサンである。日本でも誰も見ていなくても、午後、飲み物以外は一切食べ物を口にしなかったのは本当だろう。でもこんな事態で律儀に戒律を守るべきかは悩む判断と思う。

と思えば、別の時期に後楽園ホールで春原さんに聞いたところ、「飯食わせてくれ~!」と電話があって、編集部の忙しい日にわざわざ昼飯の“タンブン(=要求に応える為)”に行ったことがあるらしい。

春原さんは「面白い話聴けるからいいんだ!」とは言っていたが、こうして本音で縋る厚かましさには私まで申し訳ない気持ちになってしまった。藤川さんは若い頃からのビジネスでの営業力は比丘になっても発揮され、仏陀の教えを説いたり、いつもの悪い癖の長話しも笑い話が中心だから人気者で支援者はドンドン増え、知人の“タンブン(=自然な寄進)”に任せながら一時帰国が毎年続いていた。

私と春原さんを頼って来た藤川さん、“飯食わせてくれ”と本音でズバズバ言える仲

◆今やワット・タムケーウは有名な寺!?

その後も藤川さんとは会って話したり、当初から手紙を貰って聞いていたが、1996年初頭は、ただ広いだけのワット・タムケーウの様子もかなり変化したようだった。

「寺周辺も建築ラッシュで近代的ビルや商店街が立ち並び、以前の土埃の立つ空地とは大違い。長かった寺の設備増築も終わり、新しい仏塔などの完成を祝う祭りの準備で、寺のあらゆる建物や木から木に植木まで電気装飾だらけ。夜になるとここはパッポン(バンコクの歓楽街)かと勘違いするほど赤色や黄色や緑色の点滅。そんな見習い的な手伝いに日々明け暮れて、もし還俗しても仕事に困らんほど電飾技術が身に付いた。ペッブリー中には宣伝広告の看板が建ち、拡声器付けた車に信者さんが発する声で“ワット・タムケーウ”を連呼して廻る日々。更には近県からバンコクにまで宣伝カーが走り、“ペッブリー県のワット・タムケーウで御祭り開催”と連呼でかなり有名になった。サンガ(仏門界)でも有名で、寺にはリムジンバスを貸し切って全国各地の高僧がやって来る始末。更に信者さんもごった返し、そこで沢山の御布施が置いて行かれる訳で、ワシらは式典の準備や御布施の金額数えにも使わされて睡眠時間4時間でフラフラ。その総額1千万バーツ超え(約5千万円=当時)。ペッブリー県の寺では1位を争うほどの額。それまでお金の工面に困って居った見栄張り和尚も鼻高々で、寺の発展に心にゆとりが出来たのか、旅に出る許しを貰いに行っても煩く言わなくなった!」といった事情を笑いながら話す藤川さん。

読経はしっかりこなしたカメーンくん、すでに体調悪かったのか

◆仲間の死

やがてお祭り騒ぎも落ち着き、寺も元の閑散とした日々に戻った頃までには、予想どおり私と同期だった連中はほとんど還俗し、残ったのはメーオくんだけ。新米以外の残った古い連中も5名になった。

諸行無常の世の中、葬式は絶えることなく続くが、「“カメーン”と言われたちょっと頭の弱い、周りからバカにされとった奴覚えてるか? あいつも還俗してそこからほんの3ヶ月ほどで死んで、ウチの寺で葬式やったんやが、参列者が5~6人しか居らん寂しい葬式やった。こいつの死因、何やと思う? エイズやったで。寺に居った時期には托鉢にも行くことも少なく、土木の手伝いもせんと部屋に居ること多かったが、こんな早う死ぬいうことは、もう発病して思うように動けんかったんかもしれんな。お前もあいつと同じグループで飯食っとったやろ? ちゃんとエイズ検査受けといた方がいいぞ!」

とまあ驚いても仕方無く、世間で言われている“食事で感染することはない”ということが真実ならば心配は無い。問題は剃髪に使うカミソリだが、サンガでもカミソリ注意報は発令されているようだ。我々も使い回しはしなかったが、検査は受けておいた方がいいだろう。

出家一ヶ月前のタイトルマッチに挑む高津くん、小林聡にヒジ打ち炸裂(1997年4月)

◆次の挑戦者

話は繰り返してしまうが、藤川さんも以前から計画していた、残りの人生の目的を果たす為にも、田舎の寺や人里離れた山奥の寺を知人に相談しながら転属先を探していく中、いろいろ候補はあったがまだビザ申請が短期的で、パンサー中は遠出が出来ない事情からバンコクに日帰り出来る地域がいいということで、最終的に受け入れ先となったのが、ペッブリー県よりもバンコクに近い、サムットソンクラーム県にあるワット・ポムケーウとなった。

1997年3月に寺を移られて暫くは慌しい日々を送ったようで手紙は来なかったが、私も関わるのが面倒で連絡はしていなかった。

そんな頃、私の知人がタイで出家することになった。私と藤川さんの縁は全く絡まないが、あの日(私の得度式)から「キミもやったらどうや!」と勧められていたキックボクサー、高津広行くんであった。

あの日から少しずつ興味を持たせてしまったか。相変わらずの貧乏暮らしの私はタイに行けず参列できなかったが、高津くんが日本を発つ朝、藤川さんから授かった「得度式次第」と「タイの僧院にて」の本2冊を持たせてあげた。ムエタイ修行ではないキックボクサーの旅立ちには、今までとは違った結果が楽しみな見送りとなった。

最後はローキックで倒された高津くん、生まれ変わって飛躍成るか

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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