◆「令和」という文言について

田所敏夫さんは、れいわ新撰組について「わたしはその党名を書くことができない」と言う。(2019年12月17日本欄「私の山本太郎観」)なるほど、天皇制および元号を是認する政治観に同調できないというのは、言論人としては清廉潔癖であるかのように感じられる。しかし、清廉潔癖であることはオピニオンとはおよそ別ものであろう。

山本太郎は現代の田中正造よろしく、天皇主催の園遊会で反原発を直訴しよう(手紙を渡そう)として批判を浴びた。不敬であるという右翼からの攻撃とともに、左派からも天皇主義者なるレッテルを貼られたものだ。これは山本太郎の直訴に足尾銅山見学で応じた平成天皇を評価する、白井聡らにも向けられた批判でもある。天皇制を前提にした、戦後民主主義の護持者としての天皇の評価が「天皇制の容認」として批判されているのだ。これは社会ファシズム論(社民主要打撃論=コミンテルン6大会)によく似た主張で、却って運動の孤立化を招きかねない。じっさいに反天皇制運動のデモは警備によって隔離され、国民的な議論のステージを作れていないのが現状だ。これは反天皇制デモに参加している立場からの実感である。

田所さんの元号への嫌悪感とはまた、別の立論になるのでここから先は読み流してほしい。

山本太郎や白井聡らに対して、天皇制を容認するのかという批判は、論者たちの「天皇制廃絶」を前提にしている。そうであれば、天皇制廃絶論者は天皇制を廃止するロードマップを提起しなければならない。天皇と元号について議論する、国民的な議論を経ない天皇制廃絶(憲法第一条改正)はありえないとわたしは思うが、そうではない道すじが果たしてあるのだろうか? 

夢想的な左派活動家は、プロレタリア(暴力)革命の過程で廃絶されると、しばしば熱心に云う。ではそのプロレタリア革命に現実性はあるのかを問うと、単に思想信条の問題になってしまうのだ。それはもはや思想信条、いや政治的信仰であって、現実の政治を語る言論人としての態度ではない。言論人ではなく革命家なのだったら、いますぐ「天皇制を廃絶するために武装蜂起せよ!」をスローガンにしてみればよい。その主張のあまりの現実性のなさに、立ち止まるしかないはずだ。

◆国民大衆の手でこそ、天皇制は廃絶されなければならない

あるいは、かつての東アジア反日武装戦線のように、天皇爆殺を計画するとか、船本洲治のような闘い方もあるのではないかと思う。だが、いずれの闘い方も国民大衆が自ら参加しないテロリズムであり、イデオロギー装置としての側面を持つ天皇制を廃棄できるものではないのだ。そしてそれすらもしないのであれば、けっきょく「天皇について国民的な議論をしない人びと」と言うべきであろう。もとより、国民的な議論を抜きに「戦犯天皇を処刑する」などという「死刑容認」の思想に与するわけにはいかない。

わたしはこの欄でもっぱら、皇室および天皇制の民主化・自由化によって政治と皇室の結びつき(天皇制)はかならず矛盾をきたし、崩壊する(政治と分離される)としてきた。たとえば、自由恋愛のために王冠を捨てた英国王・エドワード8世、今回、高位王室から自由の身を希望したヘンリー王子とメーガン妃による、王室自由化。日本では「紀元節」に反対して赤い宮様と呼ばれた三笠宮崇仁親王、あるいは皇室離脱を希望した三笠宮寬仁親王らの行動。そして現在進行形では眞子内親王と小室圭さんの恋愛が、その現実性を教えてくれる。矛盾をきたした文化としての天皇および皇室はやがて、京都において逼塞する(禁裏となる)のが正しいあり方だと思う。皇室を好きだとか、天皇が居てほしいというアイドル感情(これは当代だけではなく、歴代の天皇および宗教的タレントがそうであったように)を強制的に好き嫌いを否定することはできないのだから、強制的に皇室崇拝を廃絶することも困難だろう。40年以上も天皇制反対(かつては廃止)を唱えてきた、これはわたしの実感である。

ついでに、天皇制があるから差別があるという、一見して当為を得ているかのような議論で、禁裏と被差別民の関係をじゅうぶんに論証しているものは、管見のかぎり存在しない。貴種の対極に卑賎があるとする図式的なロジックは成立しても、史実的な立証には無理があるのだ。禁裏と神人(被差別民の源流と考えられる)の関係は一体化しているところに特権性と差別性の理由があり、封建時代の神人の被差別性は政治権力(江戸政権)によってもたらされたものなのだ。朝廷につながる禁裏供御人はことごとく、江戸政権の身分制によって差別的な立場に追い込まれてきた。封建制における差別は、いわば身分制の分断政策だったのである。これが文献史学に基づいた史実である(網野善彦ほか)。

いま天皇の存在をもって、被差別(部落)大衆を再生産せしめているものが、実際にあるのだろうか。資本主義的生産関係下の相対的過剰人口の停滞的形態という、経済の景気循環における過剰人口として再生産される「理論的な根拠」はあっても、実態は排他的な感情によるレイシズムである。前述したとおり、レイシズムと象徴天皇制との関連性を説明できる有為な研究はない。戦後憲法が身分制と天皇制の矛盾を抱えつつも、その矛盾がそれ自体として差別性を否定しているところにあるからだ。レイシズムの思想的な基盤は、閉鎖的な民族主義および排外主義である。それは多様な文化、民族性を容認しない否定の思想(言論の放棄であり、しばしばなされる事実の捏造)である。その逆転した地点(言説の排除)に、天皇制廃絶を標榜するあまり言論を放棄する「天皇について国民的な議論をしない人々」もいるのではないだろうか。「令和」という語彙を批判することにこそ言説は用いられなければならず、その言葉を語らないことは元号を批判する論説になりえないのだ。


◎[参考動画]Japanese Emperor Naruhito’s coronation ceremony at the Imperial Palace | FULL(Global News 2019/10/22)

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業。「アウトロージャパン」(太田出版)「情況」(情況出版)編集長、最近の編集の仕事に『政治の現象学 あるいはアジテーターの遍歴史』(長崎浩著、世界書院)など。近著に『山口組と戦国大名』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『男組の時代』(明月堂書店)など。

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