被疑者や被告人は裁判で有罪が確定するまで無罪として扱わないといけないという「無罪推定の原則」については、人権問題の「有識者」たちは絶対的に遵守すべきものであるように言いがちだ。しかし実際には、むしろ被疑者・被告人の人権を守るために「無罪推定の原則」を無視すべきケースが少なくない。それは私がこれまで事件関係の取材や執筆を行ってきた経験上、断言できることである。

たとえば、冤罪事件に関する報道では、捜査官による証拠捏造や取り調べ中の暴力を告発しなければならない場合がある。これは、捜査の過程で犯罪を行った捜査官が裁判を受けてすらいないのに、有罪扱いすることに他ならない。

さらに冤罪報道では、検察側の証人や被害者とされている人物について、偽証や虚偽告訴の疑いを指摘せざるえない場合も少なくない。これも私人を有罪扱いした報道だと言える。

また、冤罪の疑いはまったくなくとも、罪を犯した経緯に同情すべき余地がある被疑者・被告人は少なくない。歴史的に有名な事件から1つ例を挙げると、刑法から「尊属殺人罪」がなくすきっかけになった1968年の「栃木実父殺害事件」がそうだ。

この事件の犯人の女性が実父を殺害した背景には、少女時代から実父の近親相姦により5人の子供を出産し、大人になっても実父から暴力により夫婦同然の強いられていたという事情があったとされる。そのような同情すべき特段の事情を社会に伝えるためには、前提としてこの女性が実父を殺した容疑について有罪扱いすることが不可欠だ。

実際、女性は最高裁で執行猶予付きの有罪判決(懲役2年6月)を受けて確定したが、裁判中から女性を有罪扱いしたうえで、実父を殺害した同情すべき事情が報じられていた。このような報道について、「無罪推定の原則」に反していることを理由に批判する人はあまりいないだろう。

さらに最近の事例でいえば、安部晋三元首相を銃殺した山上徹也被告も裁判前から有罪扱いされたことにより人権が守られているケースだと言える。山上被告は重大事件の犯人としては、かつてないほど多くの人に同情され、一部で減刑を求める運動まで行われているが、これもひとえに山上被告を有罪扱いし、統一教会により人生をボロボロにされたことが犯行動機であることを伝えた報道の影響だからだ。

このケースでメディアが「無罪推定の原則」を遵守していたら、山上被告が犯行に至った経緯に統一教会の問題があることには当然触れられないから、今のように山上被告への同情が巻き起こることはなかったろう。
         
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◎片岡健の「言論」論 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=111

▼片岡健(かたおか けん)
ノンフィクションライター。編著に『もう一つの重罪 桶川ストーカー殺人事件「実行犯」告白手記』(リミアンドテッド)、『絶望の牢獄から無実を叫ぶ―冤罪死刑囚八人の書画集―』(電子書籍版 鹿砦社)。YouTubeで『片岡健のチャンネル』を配信中。

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