初詣の人波に溢れる、四谷の神社であの人とすれちがった。わたしは下り、あの人は参道から階段に歩を進めてきた。わかった。なぜだかわかった。あの人がやってくる。思い出せない。なんで? あの人なのに。あの人の名前は……。

眼光鋭い狼三頭が低い咆哮をあげている。雪化粧こそないが凍てついた赤い大地が牙をむく大陸の上で。ずっとずっとさがしていた彼らはサソリのような生命力でようやくわたしの前に現れてくれた。人間だった彼らが狼に変容したって、わたしにはなんの不思議もない。彼らは彼らとして生き抜くなかで、狼に転化しただけのことだ。ひっきりなしにほほに吹き付ける寒風の中で、わたしは赤い大地に立つ狼たちとの距離を詰める。隆々とした筋肉を剛毛の下にたくわえた狼たちの息づかいが聞こえてきた。

語っているのだろうか、成就を。あるいは一時の休息か。彼らは40年も前のわたしたちへの約束を果たし終えた。年末、小伝馬町の職場で同僚が迷惑そうにニュース画面を見ながら交わす雑談を聞き、わたしは体の震えを止めることはできなかった。生きていたのか? 自由でいたのか? あの約束を40年も追いかけていたのか? そして成就したのか?

わたしはなにを差し置いても自分が会いに行かねばならない「義務」を直感した。その日の定時前、課長へ休暇願のメールを送った。理由は「海外旅行に出かけるため」とした。課長からは「普段年休もとらないあなたが急に珍しいですね。仕事の心配は要りませんからどうぞ良い旅を」と返信をもらった。

妻には「古い友達が急に亡くなった」とだけ告げた。「何言ってるのよ、お父さん! お正月どうするのよ! 誰なの古い友達って? 子供たちはどうするのよ! お年玉は?」帰宅して早速旅支度をはじめると妻はまくしたてた。

「おまえに任すよ、ぜんぶ」と言いながら妻を抱きしめた。「なによ! どうしたの…… 変よ……」背中に回した手の力を強める。いい家庭だった。手の力を緩め、銀行でおろした1000万円と生命保険証書を入れた虎屋の羊羹箱がはいった紙袋を目で示した。「お年玉とお義母さんへの羊羹だ。これで勘弁してくれ。3日には戻るよ」あとは聞かずに家を出た。

大陸だ。赤い牙をむく大陸だ。だがどこなんだ。手がかりは彼らの遠い仲間から何年か前に「中国で彼らを見た」噂があると耳にしたことだけだった。そこから先どうやってここへたどり着いたのかは夢を見ているようでさだかではない。でも嘘じゃない。嘘だというなら目の前にいる三頭の狼の息づかいがまぼろしだ、と否定してもらわなければならない。

白い吐息と獣の匂いすら感じる距離に身を寄せた。「いいか、計画だ。計画の緻密さがなければ絶対に失敗する。ここ数年奴の行動パターンを全て調べたらこれしかない」、「人生は5年後ごとに計画をたてろ。人間の生きる意味はその中で徐々に解ってくる。目標のない人生は無意味だ」、「お前な、向いているんだよ。性格が。好きとか嫌いとか、分からなくていい。俺が保証する。お前には最適な仕事なんだよ」

三人がわたしに投げかけた言葉が蘇る。わたしは堪えきれなくなった。「おい、やったのか? やれたのか? 本当か?」。低い咆哮がさらにオクターブを下げてわたしに視線を合わせた。こいつはM.Mだ。間違いない。「人生は5年後ごとに計画をたてろ。人間の生きる意味はその中で徐々に解ってくる。目標のない人生は無意味だ」とわたしたちを諭したM.M。「やったさ。やり遂げたよ。見ろ俺たちを。狼になったろう。綺麗ごとばかりじゃなかったさ。地べたをはいつくばって恥ずかしいまねだって厭わなかったよ。でもやったんだ。俺たちはな」

「お前の方が辛かったんじゃないのか」。こいつの繊細さも昔と変わらない。M.Dだ。「体を悪くしたと聞いたが」、「なに言ってるんだ。俺はこの通りだ。本当の狼になったんだよ。まんざら悪くもない」。その声を聞き終える前に喉に強い痛みが走った。わかっている。T.Tがわたしに牙を立てたのだ。低い振動を伴う咆哮はT.Tだ。「なぜ、今頃ここに来た。お前がここに来れば俺がお前を許しちゃおかないことはわかっていたはずだ」。わかっていたさ。わかっていたって人間には行かなきゃいけない時がある。暮れの小伝馬町で彼らの「勝利」を耳にした時、私はT.Tに会いに行くと即座に決めた。こうなることもわかっていた。

「ありがとうよ。死ななくてよかった。本当によかった」 声帯を噛み切られたので言葉は出ない。かまわない。食いちぎれ。闘い続けたT.Tよわたしを噛み切るんだ! 消えゆく意識の中で背中が大地を感じた。M.Dが胴体の剛毛を総毛立たせながら天に向かい大団円の咆哮を叫んでいる。赤い地表が揺れる。M.Dの怒号が赤い地表を激震させる。

あの人がわたしと交差してそのまま彼方に向かう前、わたしは逆を向き階段を駆け上る。あの人の背中に手をのばした。振り向いたあの人は何のことだか、意味も解らずきょとんとしている。思い出せない? ダイヤモンドの後悔と逡巡、あの人がいつも口にした「希望」、「未来」。一緒に肩を落とした荒川の土手。三頭の狼と化身したあなたと仲間たち。40年を生き抜いて栄達した狼から、また人間にもどったあなた。

「どなたですか?」
「わたしですか? わたしは……」
「俺の名は『田所敏夫』ですが」

正月4日だというのに京都市美術館は人で溢れている。「最近のお父さんどうかしてるよ。急に居なくなったと思ったら翌日帰って来て『正月は京都旅行だ!』なんて」、まんざらでもなさそうに妻が子供たちに同意をもとめる。

後ろから押され、子供の手を引きながら、ひときわ人だかりの多い絵の前にやって来た。「文部科学大臣賞受賞」の肩書に歩みが止まるのだろう。ここは赤い大地ではない。人混みの熱で汗をかきそうだ。

「おい、ガラでもないぜ」最高位を獲得した三頭の狼が少しはにかんでわたしに微笑んだ。「いいんだよ。やったんだ。やってくれたんだ」 こころでだけ語りかけようとしたら、不覚にも落涙していた。「俺たちはやったぜ。次はお前だぜ。わかってるだろうな」饒舌な狼は交信を止めない。「わかっているさ。わかっている・・・」、「お前の『絶望癖』も何とかなるか」、どこまでも細かいM.D。

俺の名は「田所敏夫」。今年は俺がお前らの後塵を追って「希望」を作るさ。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

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