中津市であった支援者開催の集会で事件の概要を説明する黒原弁護士(左から2人目)。会では、映画監督・作家の森達也氏(同4人目)も講演した。

2010年3月に宮崎市で同居していた妻(当時24)と長男(同生後5カ月)、養母(同50)を殺害し、裁判員裁判で死刑判決を受けた奥本章寛被告(26)。すでに上告審も結審し、最高裁の判決を待つばかりだが、その減刑を求める支援活動が盛り上がり、被害者遺族までもが「裁判のやり直し」を求めて最高裁に上申書を提出する事態になっている。

一体どんな事件で、奥本被告はどんな人物なのか。前回に引き続き、弁護人の黒原智宏弁護士が大分県中津市であった支援者主催の集会で説明した事件の概要を紹介する。同居していた養母から自衛隊を辞めたことなどで日々厳しい叱責を受け、実家の両親のことまで非難され、我慢に我慢を重ねる生活だったという奥本被告。自衛隊に再入隊することを決め、厳しい家計を助けるために夜のバイトもして問題を解決しようとしていた中、妻と実家の間で、ある「トラブル」が起きたという――。

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トラブルとは、(長男の)5月の初節句を(奥本被告の実家がある)福岡でするのか、(妻や養母と暮らす)宮崎でするのかということでした。今考えると、大きなトラブルになることではないと思われるかもしれませんが、ここまで述べた背景を踏まえると、トラブルの深刻さがおわかり頂けると思います。福岡の実家を遠ざけようとしていた義理のお母さん側と、なんとか(孫に)会いたいという思いの奥本君の実家側との溝は奥本君が認識している以上に大きくなっていたのです。

メールのやりとりでそのような諍いが起きていたまさにその時、何も知らない奥本君が自宅に帰ってきます。奥本君は「何か起こっているぞ」と思いますが、トラブルの意味がわかりません。節句の意味もわからないし、節句というのが福岡でしなければならないのか、宮崎でしなければならないのかということもわからない。「どちらでやってもいいじゃない」という気持ちでした。しかし、対立は深刻になっていて、義理のお母さんから「あんたはそっちへ行かせないよ。なんで、こっちがそっちへ行かんといけんのじゃ。おかしいじゃろうが」と怒鳴られました。これは平成22(2010)年2月23日の出来事です。

◆養母の侮辱

深夜ということもあり、義理のお母さんも興奮が増し、「(夫である奥本君の)親がお米、お金を送るのは当然じゃろう」と怒鳴りつけ、「あんたのところはうちを舐めとる」「やることはちゃんとやれよ。結婚したら、こんなもんじゃないだろう」「部落に帰れ。これだから部落の人間は」「離婚したければ離婚しなさい。慰謝料ガッツリ取ってやる」という言葉を述べながら、奥本君のコメカミあたりを両手で力の加減をすることなく10数回殴打しました。

ここまでずっと我慢を重ねてきた奥本君もこの時、大きな心の糸が切れてしまいました。自分のことは我慢できる。自分の両親も我慢している。しかし、彼にとって古里の集落は誇りでした。それを悪く言われるのは、耐えられなかったのです。彼は1人、その思いを抱えます。この時、両親や兄弟に相談した形跡は残っていません。

◆「意識狭窄」に追い込まれ……

彼はその後5日間、ずっと孤独に悩みますが、最初に考えたのは自殺でした。自殺すれば、このようなことから逃れられると考えたのですが、「それは解決じゃない」と考え直します。それから、離婚や失踪も考えますが、そのような彼のアイディアを打ち消したのが義理のお母さんの最後の言葉でした。「慰謝料ガッツリ取ってやる」。その言葉が彼には引っかかります。自分がいなくなったら、義理のお母さんは自分の実家に行くに違いない。そうなると、自分の替わりに今度は両親が責められるに違いない……と思い悩みました

今、我々がこんな話を聞いたら、「いやいや、他にも解決方法はあるんじゃないの?」と色々な解決方法が思い浮かぶと思います。しかし、ここに至るまで奥本君はほぼ8カ月に渡って、睡眠時間は1日4時間を超えることなく、土曜日曜も休むことは許されず、そして食事も先ほど述べたような状況でした。選択肢、思考は狭められていました。心理学で意識狭窄というのですが、そういう状況で彼自身が最悪の選択に至ってしまったのです。

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最悪の選択――つまり、妻と生後5カ月の息子、養母を殺害するという選択をし、2010年3月1日未明に実行してしまった奥本被告。黒原弁護士によると、事件が起きるまでのこのような事実経過は第一審の頃から明らかになっているという。しかし、宮崎地裁であった第一審の裁判員裁判では、奥本被告は同年12月7日、「自由で一人になりたいなどと考えて家族3人全員の殺害を決意するに至ったものと認められる」「自己中心的で人命を軽視する態度が著しい」などという内容の死刑判決を宣告された。

そして控訴審段階になり、弁護側は2人の臨床心理士に依頼し、犯罪心理鑑定を実施。それによると、奥本被告は事件当時、精神的に疲弊し、視野狭窄、意識狭窄の状態で、自己の実在を脅かす養母から解放されたいという欲求から3名の殺害を決意したのだと判断された。しかし、福岡高裁宮崎支部の控訴審ではこの鑑定が証拠採用されながら、奥本被告の控訴は棄却され、死刑判決が維持された。この後、上告審段階になり、黒原弁護士に話を聞くなどして事件の詳細を知った人たちが「奥本章寛君を支える会」を立ち上げ、減刑嘆願書を求める支援の輪が広がっていったのだが、そのような事態になったのも事件の経緯を聞けば、多くの人が得心できるのではないだろうか。

では、被害者遺族が最高裁に提出した「裁判のやり直し」を求める上申書とは、どんな内容なのか。それは次回、詳しくお伝えしたい。

(片岡 健)

<参考文献>
奥本章寛君を支える会編『青空―奥本章寛君と「支える会」の記録―』

 

告発の行方2