情報には国境がなく、知ろうとする意思さえあれば、名も知れぬ国の天気や画像や中継動画までをも確認することができる時代にわれわれは生きている。一見このような情報流通形態は、過去に比べて情報や出来事、事実や真実に近づきやすいような恩恵をもたらしているかの如き錯覚に陥る。

しかし、日本国内のテレビ、新聞を中心とする既成の報道・ジャーナリズムの退廃ぶりが極限に近いことはご承知の通りだ。また目的意識的な情報探索に乗り出さなければ、情報の宝庫であるはずのインターネットも従来の家電製品と同様の果実しかもたらさない。つまり「鋭敏な情報収集」を心掛けなければ、インターネットも役には立たないのである。

御存知の通り「デジタル鹿砦社通信」は日々身近な出来事から、エンターテインメントまで多様なテーマをお届けしている。このほどそこに新たな視点を加えることとした。鹿砦社の視点から「世界」を見通す試みだ。

欧米中心情報発信から抜け出して、多元的な価値観に立脚し世界を眺めると、いったい何が浮かび上がってくるのか?われわれの認識は歪んではいまいか? そのような問いに対する試みを展開しようと思う。(鹿砦社国際取材班)

ウルグアイのネットメディアCDP(ジャーナリズムのデジタル連合=coalicion digital por el periodismo)に4月12日、黒薮哲哉氏のインタビューが掲載された(聞き手はビクトル・ロドリゲス氏)。以下、同記事の日本語全訳を紹介する。

「日本では、主要メディアと政府との距離が非常に近い」(黒薮)。

南米ウルグアイのジャーナリスト、ビクトル・ロドリゲス氏

日本のメディアの実態、そこで働くマスコミ関係者の仕事、そして権力とメディアのプラットホームの関係は、地球の反対側ではほとんど知られていない。

しかし、黒薮哲哉のような独立系ジャーナリストは、数十年にわたり、日本の主要メディアの権威と外見の背後にある事実を調査し、報告することに多くの時間を費やしてきました。

複数の情報源によると、日本のジャーナリズムは誠実さと厳格さの長い伝統を持つ一方で、メディアの多様性と多元的な視点を欠き、政府によるさまざまな報道規制、デジタルメディアの影響力拡大、フェイクニュースといった問題に直面している。

日本国内での通信プロセスはどうなっているのか、ラテンアメリカからの情報はどの程度取り上げているのか、「日出ずる国」のメディア関係者の課題は何か? 黒薮哲哉氏にお話を伺った。

── 黒薮さん、この度はお話をお聞かせいただきありがとうございます。日本はアジアで最も報道の自由がある国のひとつとされており、ジャーナリストは調査報道の自由を持っています。この認識は事実でしょうか。また、21世紀の日本で、ジャーナリスト、伝統的なメディア、デジタルメディアの表現の自由の実態はどのようなものでしょうか。

黒薮哲哉氏

黒薮 日本は、憲法で表現の自由が完全に保障されている国です。しかし、矛盾したことに、私たち日本人がこの貴重な権利を享受するのが非常に難しい実態があります。この矛盾を説明するために、まず最初に、海外ではあまり知られていない、日本のマスコミに特有の問題について説明しましょう。

日本ではマスコミと政府の関係が、非常に近くなっています。たとえば、安倍晋三元首相と、650万部の発行部数を誇る読売新聞の渡邉恒夫主筆は、しばしばレストランで飲食しながら、政治や政策についての意見交換をしていました。

他の新聞社やテレビ局の幹部も同じことをやっていました。政府の方針について情報収集するというのが、彼らの口実でした。

両者の密接な関係の中で、政府はマスコミを経済面で支援する政策を実施してきました。例えば、一般商品の消費税は10%ですが、新聞の消費税は8%に軽減されています。

また、政府は公共広告に多額の予算を費やしています。例えば、2020年度の政府広報予算は約1億4千万米ドル(注:185億円)でした。これらの資金は、広告代理店やマスコミに支払われています。

しかし、最大の問題は、いわく付きの新聞の流通システムを政府が保護していることです。新聞販売店には、一定部数の新聞を購入する義務を課せられています。

例えば、新聞の読者が3,000人いる販売店では、3,000部で間に合います。しかし、4,000部の買い取り義務を課します。これは、独占禁止法違反にあたりますが、何の対策も講じられず、50年以上も放置されたままです。

私は1997年からこの問題を調査してきました。雑誌やインターネットメディアで、日本の新聞の少なくとも2~3割は一軒も配達されていないとする内容のレポートを繰り返し発表してきました。

私の計算によると、新聞業界はこのようにして少なくとも年間7億600万ドル(932億円)の腐った金を懐に入れています。新聞社は、販売店に損害を与えるだけではなく、広告主をも欺いています。

また、テレビ局の多くは新聞社グループに属しているため、日本のテレビ局もこの問題は報じません。政府も各省庁もこの問題については厳しく指導してきませんでした。

このように日本のマスコミは、国家権力によって保護されているのです。すでに述べたように、日本は法的には完全な表現の自由を持つ国です。だれもジャーナリズム活動を暴力で弾圧することはしません。

しかし、新聞やテレビの記者は、公権力機関が守ってくれる莫大な経済的利益を失いたくないため、彼らを強く批判するようなニュースは扱いません。

公権力にとって不都合なニュースを暴露しようとする新聞やテレビの記者は、記者としての地位を失い、営業部や広告部に異動させられるリスクを背負います。

公権力に批判的なフリージャーナリスト、評論家、大学教授らは、新聞に自分の作品を掲載する機会がほとんどありません。

週刊誌や月刊誌はかなり質の高いジャーナリズムを展開していますが、発行部数が少ないので影響力がありません。われわれは公式には表現の自由を保障されていますが、この腐敗した狡猾な仕組みのために、それを享受することができないのです。

── 報道における表現や視点を多様化する必要性を感じますか?それはなぜですか?

黒薮 日本では、表現や視点の多様性を広げることが非常に重要です。新聞社は政府によって実質的に保護されているため、新聞報道は非常に偏ったものとなっています。

例えば、自民党政権と統一教会は、過去50年間、非常に密接な関係にありました。統一教会は、信者から多額の献金を集め、韓国の本部に送金していました。

しかし、2022年7月に安倍晋三元首相が狂信的なこの宗教団体を憎むテロリストに暗殺されるまで、主要メディアはこの問題を報道していませんでした。

この問題を調査し、雑誌や自身のウェブサイトで報道していたジャーナリストは、鈴木エイト氏だけでした。彼は、安倍首相が暗殺されるまで、主要メディアで自分の意見を表明する機会がありませんでした。

このように、日本ではジャーナリズムが非常に制限されています。幸い、インターネット時代になって、さまざまな視点を提供する独立したメディアが増え始めています。

── 報道の仕事という観点から、アナログからデジタルへの移行をどう見ますか。この新しいコミュニケーション方法がメディアの健全性を奪うと思いますか、それとも利すると思いますか。

黒薮 インターネットの時代になっても、マスコミ報道はあまり変わっていません。簡単に言えば、ジャーナリズムのプラットフォームが紙から電子に移行しただけのことです。

しかし、私のようなフリーランスのジャーナリストにとって、インターネットはとても利用価値が高いものです。例えば、わたしが扱ったことのあるテーマのひとつに新聞の偽装部数問題に関連した新聞社の腐敗があります。

当初、この問題に関心を持つメディアは皆無でした。そこでわたしは、この問題を報道するために、約20年前にウェブサイトを立ち上げました。

その結果、雑誌を持つ出版社がこの問題に関心を持ち、一緒に調査報道をするようになったのです。また、弁護士の中にもこの問題に取り組む人が出てきました。

なぜなら、この問題は新聞販売だけでなく、日本のジャーナリズムの質の問題でもあるからです。この虚偽の発行部数の問題はまだ解決していませんが、数年後には必ず解決すると確信しています。

── 日本は先進的なテクノロジーで知られています。メディア関係者やジャーナリストは、この強みを活かして、ニュースや情報を視聴者に届ける方法を革新することができます。新しいテクノロジーの影響を受けた日本のジャーナリズムの現状をどのように定義しますか。

黒薮 新聞については、海外と大きな差はありません。日本では長年、新聞は紙媒体が中心でした。日本新聞協会のデータによると、2022年の日刊紙の発行部数は2,869万4,915部です。

そのため、インターネットへの移行は、新聞の読者離れのリスクをはらんでいます。新聞社の経営者は、電子新聞の導入に消極的でした。その結果、日本では際立った電子新聞の技術は開発されていません。

ラジオやテレビの世界では、いくつかの新しい動きがあります。例えば、AI(人工知能)が、アナウンサーそっくりの声でニュースを読み上げます。

また、バーチャル映像も利用されています。例えば、近い将来予想される大地震の被害状況をバーチャルリアリティ映像で表現します。

しかし、わたしは、ジャーナリズムにバーチャルリアリティを導入することは、フェイクニュースにつながるので反対です。かつては写真や動画が事実の重要な証拠となりましたが、今はそうではありません。

── 新しいテクノロジーと近代的な交通手段によって、地球の片側からもう片側への距離が短縮されています。ニュースの伝達も早くなりました。しかし、日本についての情報には、ばらつきがあります。日本ではラテンアメリカのことがどの程度報じられ、どの程度知られているのでしょうか。

黒薮 ラテンアメリカからのニュースはあまり報じられていません。マスコミは、大統領選挙、政治的事件、スポーツなどは報じますが、民衆の生活や社会運動に関するニュースは取り上げません。

クーデターの後、ペルー全土に広がった抗議運動

例えば、昨年12月7日にペルーで起きたクーデターに関して言えば、クーデターの首謀者らを擁護する立場からの報道はしましたが、それに対する民衆の抵抗や警察・軍隊の残虐な暴力については取り上げませんでした。

もう一つ例を挙げます。世界のほとんどの国がキューバに対する経済封鎖に反対しているのに、日本のマスコミは全く報道していません。

わたしは、ラテンアメリカの情報をインターネットを通じて得ています。しかし、ほとんどの日本人は英語やスペイン語を使うことができません。そのため、主要メディアからの情報に頼らざるを得なくなっています。

── Covid-19のパンデミックは、ほぼすべての分野とセクターに強く影響しました。報道においても、取り上げるニュースや取材活動だけではなく、メディアそれ自体の存続なども、その影響から逃れることができていません。日本のメディアやメディア関係者は、ポストパンデミックの現実をどう受け止めているのでしょうか。

黒薮 新聞社やテレビ局は、Covid-19のパンデミックの際にも、仕事のやり方を大きく変えることはありませんでした。というのも、彼らは毎日、ニュースを発信する必要があったからです。これに対して、多くの出版社はリモートワークという新しい働き方を採用しました。

編集者は自宅で作業し、インターネットで会社とコミュニケーションします。出社は週に1日か2日だけ。この働き方は、会社のコスト削減につながることもあり、Covid-19以降も続いています。

── 日本の視聴者は高齢化しており、メディアは若い視聴者を獲得する方法を探さなければならないと言われています。それは事実でしょうか? そうであるとすれば、新しい世代に情報を伝えるためにどのような戦略が採用されているのでしょうか。また、現在の日本では新しい人材育成のプロセスはどうなっているのか。

黒薮 わたしは、視聴者が高齢化しているとは思いません。高齢化しているのは、新聞の購読者です。高齢者はインターネットの使い方を知らないので、新聞から情報を得ます。

その結果、高齢者は印刷された新聞から、若い世代はインターネットから情報を得る状況になっています。

しかし、紙媒体の新聞とインターネットの内容自体は、あまり変わりません。というのも、主要メディアは、紙媒体の新聞に掲載した記事をインターネットに掲載する傾向があるからです。

日本ではジャーナリストの育成は遅れています。わたしは、ジャーナリストを教育する方法が異常だと思います。若い記者は、警察や政治家、官僚と親密な関係を築き、個別に情報を入手できるようになるよう指導されています。ラテンアメリカで、そんなことをやりますか?

── 日本の法務省のデータによると、2021年の日本のラテンアメリカ系の人口は約6万4,000人(ブラジルを除くスペイン語圏)です。日本のメディアは彼らに特化した紙面を設けて、地域や国、政府などの問題について情報を提供しているのでしょうか。

黒薮 10年ほど前まで、『プレスインターナショナル』という新聞がありました。スペイン語版とポルトガル語版の2種類を発行していました。しかし、現在は両方とも廃刊しています。

島根県の地方紙「山陰中央新報」(日刊)は、不定期にポルトガル語のニュースを掲載しています。島根県には、約9,000人のブラジル人が住んでいます。

日本に住むラテンアメリカの人々は、インターネットを通じて母国のニュースにアクセスすることが出来ます。しかし、スペイン語やポルトガル語で日本国内のニュースを見ることはほとんどできません。

── 日本の情報公開法は、ジャーナリストやメディアの取材・調査活動をおこなう上で、どのような利点と欠点があるのでしょうか。

黒薮 日本には、情報公開法があり、請求があれば公開しなければなりません。わたし自身もよくこの制度を利用しています。しかし、公権力の不祥事が分かる公文書は、プライバシー保護を口実に公開されません。

── ジャーナリストやメディアは報道に関して、どのような課題を抱えていますか。また、編集の独立性やメディアの多様性は、現在の日本におけるジャーナリズムの発展にとって十分なものだと考えていますか。

黒薮 日本のメディアの最大の問題は、その多くが公権力から独立していない点です。その結果、ジャーナリズムは政府の広報に変質しています。唯一の希望は、グローバル化の時代に、独立したメディアがインターネット上で生まれていることです。

◎出典:https://siquesepuede.jimdofree.com/2023/04/12/kuroyabu-en-jap%C3%B3n-la-distancia-entre-los-principales-medios-de-comunicaci%C3%B3n-y-el-gobierno-ha-sido-muy-estrecha/

▼黒薮哲哉(くろやぶ・てつや)
ジャーナリスト。著書に、『「押し紙」という新聞のタブー』(宝島新書)、『ルポ 最後の公害、電磁波に苦しむ人々 携帯基地局の放射線』(花伝社)、『名医の追放-滋賀医科大病院事件の記録』(緑風出版)、『禁煙ファシズム』(鹿砦社)他。
◎メディア黒書:http://www.kokusyo.jp/
◎twitter https://twitter.com/kuroyabu

4月25日発売!黒薮哲哉『新聞と公権力の暗部 「押し紙」問題とメディアコントロール』

黒薮哲哉『禁煙ファシズム-横浜副流煙事件の記録』(鹿砦社)

地方都市のベッドタウン、団地に暮らす中学生にとって、ラジオから流れる音楽やそれらを演奏するミュージシャンは、間違いなく「別世界」。都市で開催されるコンサートにでも出かけない限り、直接メロディーを耳にしたり、本人の姿を目にするチャンスは皆無だった。日本のミュージシャンであれ、外国のミュージシャンであれ等距離で「別世界」。レコード屋かラジオ、テレビだけが接点として「別世界」と繋がっている日々の記憶を共有できる読者は少なくないのではないだろうか。

「別世界」の住人はどんな人たちなのだろう。「別世界」ではどんな人間関係が織りなされているのだろう。もう少し年齢を重ねたら、あるいは「別世界」の片隅でも覗くチャンスが訪れるのだろうか。それとも「別世界」は太陽と地球のように等距離を保ちながら、永遠に接点を持つことはないものか。

「別世界」には多種多彩なひとびとが暮らしているのを知っていても、その中で坂本龍一氏は、わたしにとって別格の存在だった。どうして坂本氏がわたしにとって別格の位置を占めるに至ったかの経緯は、この際省こう。でも坂本氏が「別世界」住人の象徴的存在であったとしても、多くの読者は疑問には思われないのではないか。70年代半ばからあっという間に「世界のサカモト」に上りつめた人物、いったい何を言いたいのかほとんど訳が分からなかったが『戦場のメリークリスマス』でデビッド・ボウイと共演し、有名なあの旋律を産み出した坂本氏。

坂本氏のステージではなかったが、たしか矢野顕子のコンサートでキーボードを弾いている姿を目にしたのが、初めてだっただろうか。わたしは大阪の私立大学に通う大学生だった。ステージと客席の間に物理的な仕切はないが、やはりステージ上のミュージシャンと数千人観客の間には、太陽と地球同様の距離があるものだな、と感じた記憶がある。

時は流れて1999年10月10日、千葉県成田市の某ホテルである著名人を囲むパーティーが開催されていた。わたしは当時の職場の同僚二人と一緒に、そのパーティーの末席に座っていた。参加者は200名ほどであっただろうか。ところどころに政財界や芸能界の著名人の姿を確認できたが、予期しないことにいわば主賓席に当たる位置に坂本氏の姿があった。わたしは当時の同僚に「このパーティーが終わったら、わたしが坂本龍一を口説くから」と小声で伝えた。

いったい当時のわたしは何を考えていたのだろうか。しかし、迷いはなかった。パーティーが終了すると坂本氏は数人の政治家や、財界人と歓談していたがやがて会場の外に向けて歩み始めた。わたしは名刺を手渡し手短に自己紹介を済ませると「数分だけお時間を頂けませんか」と坂本氏にお願いをした。坂本氏はきょとんとしながらもわたしの要望に応じて、わたしの「お願い」を聞く時間をわたしに与えてくれた。わたしの要求は乱暴極まるものだった。簡単にいえば「わたしの職場にお越しいただきピアノ演奏をしてください」だ。こんなことをよくぞ誰にも相談もせず急に思い立ち、ずうずうしくもご本人に頼んだものだな、と今になってはあきれ返るばかりだが、あの時のわたしにはそれが不可能には感じられなかった。

坂本氏と筆者

「世界のサカモト」にはタイトなスケジュールが組まれているのが常識で、わたしの依頼は半年強あまり先のこととはいえ、唐突に過ぎるものだ。なんの所縁も、知人もいない、片田舎の大学職員が突然現れてそんな要求をして坂本氏の方がむしろ驚いていたのではないだろうか。即答はなかったが坂本氏はわたしのお願いをしっかり聞いてくれ、後日連絡するからと約束してくれた。

それから坂本氏のマネージャーと幾度かメールのやり取りをして、ピアノ演奏は諸般の事情で難しいが、「全面的に協力をする」との答えを頂いた。太陽と地球の距離が急速に変化した瞬間だった。結果わたしは約1週間近くかなりの時間坂本氏にお世話になることができた。そう多くの時間話をしたわけではないが、下世話な話「ノーギャラ」でわたしのお願いに応じて頂けた。

あれはわたしの空想の時間だったのだろうか。23年が経て現実感は限りなく薄い。しかし空想ではなかった。思い起こせば「何だ!この音響は!」と怒られもしたし、機嫌がいい時には「僕にはフィールドが好きだから、ここの学生さんと一緒にフィールドワークをするのも面白いよね」と持ち掛けてくれたり…。

中学生時代の「別世界」がいっときわたしの人生の実時間と合流した。そこには坂本氏の絶大なご好意があった。

数年前にがんに罹患しても坂本氏は治療時以外仕事を休んでいた様子はない。昨年「これが最後になるかもしれない」とみずから語ったNHKで収録をしたコンサートを世界配信していた。部分的に視聴したがわたしは最後まで、見ることができず、途中で視聴を止めた。

田舎の中学生が憧れた「別世界」を実時間に転嫁してくれた坂本氏が逝った3月28日わたしは強烈な胃痛と体調不良にあえいでいた。わたしの体はときにそのような反応をするのだ。坂本氏のTwitter、Facebookには“January 17 1952-March 23 2023 “ が。

わたしの中に残っていた、アドレッセンスの全史と残滓がMarch 23 2023で完結した。


◎[参考動画]Merry Christmas Mr. Lawrence / Ryuichi Sakamoto – From Ryuichi Sakamoto: Playing the Piano 2022

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。著書に『大暗黒時代の大学──消える大学自治と学問の自由』(鹿砦社)がある。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

『季節』2023年春号(NO NUKES voice改題)福島第一原発事故 12年後の想い

◆「裸のラリーズ」脱退

1968年の5月頃、私はバンドを辞めることを水谷、中村に告げた。「同志社学館での出会い ── ジュッパチの衝撃の化学融合」から約半年が経っていた。

それは中村の高校の同窓というドラムの加藤君が入って練習場も桂の彼の家に移った頃、「裸のラリーズ」がミュージシャンとしての本格活動に入る時期でもあった。

その頃、学生運動は佐世保闘争の高揚を経て東大医学部闘争の激化から東大卒業式は祝典中止に追い込まれ、後に東大全共闘結成に至る。中国は文化大革命の真っ最中、パリでは世界を揺るがすフランス五月革命の胎動が始まっていた。

1968年という熱い政治の季節の開始を告げる時期、私は居ても起ってもおれない気持ちだった。

私はミュージシャンとなること、ベースギター練習に打ち込むモチベーションを持てなくなっていた。このままでは本格的にバンド活動を開始するみんなに迷惑をかけるだけ、私は脱退の意を水谷、中村に告げた。彼らは私の意を理解し、それを快く受け入れてくれた。彼らも心に「革命のヘルメット」を宿す人間だった。

辞める時、水谷が「それ僕にくれないかなあ」と言っていた私のお宝、細身の五つボタン、黒のコーデュロイ上着をプレゼントした。ベース・ギターもバンドに譲った。それらは政治転進の私には不要のものだった。

こんな風にミュージシャンとして何の貢献もないまま私は「裸のラリーズ」を去った。

その後の私はデモや政治集会に参加、組織に属さない孤独にもがく日々が続いたが1969年1月の東大安田講堂死守戦で逮捕、起訴後の拘留を経て秋に保釈後、ようやく赤軍派に加入、翌年3・31「よど号ハイジャック闘争」で渡朝に至る。このことは別途、触れるとしてその後のラリーズとの関わりについて少し書いておこうと思う。

2019年、誰知ることもなく逝った水谷孝、その死はHP「Takashi MIZUTANI 1948-2019」の立ち上げで皆が知ることとなった。‘90年代初頭の活動停止後、どこで何をしていたのか、家庭を持ったのかどうかさえ世間で知る人はいない。「裸のラリーズ」だけを遺して神秘に包まれたままこの世からふっと消えた水谷、実に水谷的な人生全うの仕方だ。彼は自分のことを全く語らなかった人だが水谷亡き今、私の知る彼のことを少しでも書き残しておきたいと思う。

◆脱退後、そして「よど号」渡朝後の「水谷と私」

バンドを脱退してからも水谷、中村らとは会えば「やあ、どうしてる」という関係は続いた。

ある日、「ゴールデンカップスにゲバルトをかけよう」との水谷からの召集令状を受けた。相手は秋の同志社学園祭に出演するゴールデンカップス、学生会館ホールでやる前座がそのゲバルト舞台ということだった。

私は誰かにハモニカを借りて出演、黒セーターに黒ジーンズ、赤い布きれをネクタイ風に首に巻き付けた「左翼」スタイル、そして自衛隊の戦闘靴で決めた。この時、琵琶を持って参戦という変わり者がいたが久保田真琴(夕焼け楽団)だったように思う。例によって事前練習も打ち合わせもない「裸のラリーズ」式ぶっつけ本番、私は水谷の即興的な唸るギターに合わせハモニカを延々吹きまくった。文字通りのアドリブ。いつ終わるか果てしもない即興演奏、どう終わったかも記憶にない。

「ゴールデンカップスにゲバルトをかける」 ─ きれいなお決まり音のグループサウンズ撃破の轟音とアドリブ演奏 ─ 自分たちの音楽理念で挑む! これが水谷式のゲバルトだ。ホールの聴衆はあっけにとられたことだろう。ゴールデンカップスが兜を脱いだかどうかは知らないが、前座をわきまえない果てしのない轟音アドリブ演奏はさぞかし「迷惑」ではあっただろう。

「裸のラリーズ」公式アルバムの“’67-’69 Studio Et Live ”の最初に収録の“Smokin’ Cigarette Blues”という曲がある、あれが学園祭でのゲバルト出演、アドリブ演奏であろうとほぼ確信している。この曲を聴くと騒音の背後で唸っているハモニカ風の音が私の記憶の中の感覚、水谷の轟音ギターに応じイメージが膨らむままに吹いていたあの即興感覚が蘇る。水谷が精選したたった3枚の公式音源、その一曲にラリーズの原点、「オリジナルメンバーによる唯一のもの」としてこれを入れてくれたのだとしたら、それは私への水谷なりの「義」なんだろうと勝手に感謝している。いまは確かめる術はないが……


◎[参考動画]Les Rallizes Dénudés – Smokin’Cigarette Blues (Live)

その後は激化一途の政治闘争の渦中にあって水谷、中村らと会う機会はなく、「裸のラリーズ」も私の頭からは消えていった。

渡朝後のピョンヤンで「その後のラリーズ」を知ったのは‘79年の『ぴあ』11月号に掲載されたイベント紹介記事、青山ベルコモンズ「裸のラリーズコンサート」。告知にはサングラスの水谷の写真が! 「おお、まだやってんだ」とアングラバンドとして生き残ってたことが正直嬉しかった。その時は「まあ、細々とやってんだろうな」くらいの感覚だった。

二度目は‘90年代初期? ピョンヤンで会ったテリー伊藤と一緒に訪朝の前衛漫画家・根本敬さんから「幻の名盤」なんとかで「裸のラリーズ」テープ、“’67-’69 Studio Et Live”をプレゼントされたこと。この時も「アングラの名盤に入ってんだ」、そこそこ健闘してるじゃないか程度の認識だった。

そんな私の認識を大きく変えたのは、2000年代に入ってのピョンヤンでの英労働党EU議員、Glyn Fordとの出会い。彼から「貴方達の中にギターやってた人がいるよねえ」と言われて、もしかして私のこと? 日本でバンドやってたことがあると話すと、彼から“Les Rallizes Dénudés”じゃない? 「実は自分の友人にファンがいる」と聞かされた。

これには正直、驚いた。「へえ~、海外にまでファンがいるんだ!」 ── 世界的バンドになったのか! これは仰天の事実だった。以降、G.Fordとは訪朝の度に会うようになり、ネオナチ反対運動をやってる彼の友人、「裸のラリーズ」ファンの依頼ということで私のサインを送ったりするようになった。G.Ford自身はローリング・ストーンズ愛好家、東大留学経験で宇井純とも親交あったという私とほぼ同世代、英プレミア・サッカー同好の士でもある。

[左]Glyn Ford英労働党EU議員(当時)とピョンヤン市内のイタリアン・レストランで会食。[右]随行カメラマンのクリシニコーヴァさん(2009年)

 

LadyGaga“LES RALLIZES……”

世界的支持者といえば、あのレディ・ガガが“Les Rallizes Dénudés”ロゴ入りTシャツ写真姿を彼女のインスタグラムに掲載、知人から送られたその数枚を見たがとてもカッコよかった。超ビッグなレディ・ガガを惚れさせた水谷の凄さを見せつけられた思いだった。

訪朝した雨宮処稟さんからも「ラリーズ初代ベーシストですよね」と言われた。彼女の著書の中にプレカリアートの一人が「部屋を閉め切って布団を被って轟音ラリーズを聴く」話があった。“生きづらい”若者には「救いの轟音」なのだとラリーズの功績を再認識させられた。

労働者ユニオン代表だった小林蓮実さん、派遣で働く彼女の友人にもラリーズ支持者がいるとも聞いた。

2010年代にFさんという「裸のラリーズ」熱烈支持者の女性から手紙やメールでラリーズの詳しい情報を得られるようになり、彼女からの「ロック画報」No.25特集号で「その後のラリーズ」の全貌をほぼつかめ、「水谷の偉業」を知ることになった。そのFさんは‘13年に表参道付近にある「Galaxy ── 銀河系」で「裸のラリーズ・ナイト」を主催、私がメッセージを送ることになった。根本敬×湯浅学対論も持たれ、21世紀に入っても冷めやらぬラリーズ支持者の熱気を感じたものだ。

こうした人々との交流の中で「ラリーズ」公式音源、映像ほか“yodo-go-a-go-go”など非公式音源も入手、ピョンヤンにいる私の中に時間と空間を越えて「裸のラリーズ」が蘇った。

結成50周年の2017年秋には、椎野礼仁さんの仲介でBuzz-Feed Japan、神庭亮介記者の電話取材を受け、私のラリーズ体験を語ったが、それはネット配信されけっこう反響があったと神庭記者から伝え聞いた。

結成50年を経て取材が来る、活動停止後20余年も経たバンドの記事を待つ熱狂的支持者がいる。布団を被ってラリーズを聴くプレカリアートの若者がいる。レディ・ガガがロゴ入りTシャツ姿をインスタグラムに載せる。「裸のラリーズ」サポーターは百人百様だが、バンドは彼らの胸に永遠に生きている。

それもこれも水谷孝のなせる業、偉業だと痛感させられる。

「誰のものでもない自分だけのものを」! そんなバンド「裸のラリーズ」を水谷はこの世に産み遺していったのだ。

◆“yodo-go-a-go-go” ── 愛することと信じることは……

 

”yodo-go-a-go-go”ジャケットに記された「溺れる飛べない鳥は……」の日本語表記と謎のローマ字表記

英国製海賊版とされるアルバム“yodo-go-a-go-go”、でもこれには水谷が関与していると言われている。私は「水谷の関与」を確信している。

確信の根拠は、まずアルバム・タイトルに“yodo-go”を選んだこと、またジャケット写真に「よど号ハイジャック」を想起させる「煙が上がる駐機中の飛行機」を配したことだ。「よど号」メンバーがオリジナルメンバーにいたことは知られているが、わざわざ“yodo-go”タイトルの海賊版を創る物好きはいないだろう。

それにこのアルバムには私が参加したであろう演奏“Smokin’ Cigarette Blues”が収録されていることも水谷の関与を臭わせるものだ。

私が何より「水谷の関与」を確信するのは、アルバムの裏ジャケットに記された「謎のメッセージ」にある。

日本語表記には「溺れる飛べない鳥は水羽が必要」と記されているが、小さなローマ字表記ではそれが“Oboreru Tobenai Tori wa MIZUTANI ga Hitsuyo”と「水羽」を“MIZUTANI”に置き換えてある。これは水谷らしい謎かけだ。

私はこれを「溺れる飛べない鳥」には「水谷」という「水羽」が必要、と解釈している。つまり「溺れる飛べない鳥」のために「水谷」は在る、飛べるかも知れないし飛べないかも知れない、でもせめて溺れないように「水羽」くらいは提供することはできる。それが水谷の「裸のラリーズ」、「飛べない鳥のための革命」なのだ、と。

「愛することと信じることはちがう」、これは水谷の歌詞に出てくる言葉だ。「おまえの言葉の中に愛を探したことは いつのことだった!」とか「いまではおまえを信じることはできない」そして「僕の腕の中におまえは死んでいる」、そんな歌詞をいろんな楽曲で水谷が歌っている。

歌詞によく出てくる「おまえ」は「革命」を指すと評した人がいる。

1969年から‘70年年初冬に同志社放送部のスタジオで収録されたCD“MIZUTANI/ Les Rallizes Dénudés”には轟音ノイズのこのバンドには珍しいフォークっぽい美しくも悲しみをたたえたメロディに乗せて上記のような歌詞がいろんな曲で歌われている。


◎[参考動画]Les Rallizes Dénudés – 記憶は遠い(愛することと信じることはちがう)


◎[参考動画]Les Rallizes Dénudés – Otherwise My Conviction

このアルバム収録時のことをギター参加の久保田真琴が「ロック画報」(ラリーズ特集号)で語っている。少し長いがその頃の水谷を知る上で重要な当事者証言だから引用する。聞き手は、ラリーズ・ファンでもある音楽評論家の湯浅学。

久保田 もう、学校もぐしゃぐしゃな時代でロックアウトされてたんだけど、キャンパスでバタっと出会ってね。……それで、聞いたら、まあ、「つかれちゃった」と。たぶん、学生運動のことでいろいろあったんだろうと思うんだけどね。

湯浅  ……・

久保田 う~ん……だからよど号の事件はいつだっけ?

湯浅  70年の3月31日です。

久保田 ええ~、そうなんだ。じゃあ、もう、よど号が行く前にいったん解散してたんだ。

湯浅  みたいですね。そのあたりに分かれ目がどうもあったらしくて。

久保田 だから、彼はやっぱりミュージシャンを選んだんだな。まあ、そういうことですよ。そう……そうか、私はなんか、頭の中では、あの録音はもう、よど号が行っちゃった後っていうイメージがあったんだけど、違うんだね。

 

水谷の歌うマイクスタンドの前に「赤軍派」のヘルメットがぶら下がってる。場所は京大西部講堂か?

同志社での“MIZUTANI/ Les Rallizes Dénudés”収録直前の1969年は1月の東大安田講堂落城以降、全国の大学のバリケードは警察機動隊によって解体され、拠点を失った学生運動は混迷期に入る。立命全共闘だった『二十歳の原点』の高野悦子さんなど多くの自殺者が出た年でもある。混迷突破をめぐる党派内部の混乱もあって1968年にはあれほど熱かった政治の季節、革命の前途は一転してうすら寒くも暗澹となりゆく時期、しかし余熱はくすぶっていた。

赤軍派はそんな余熱を革命の熱気に換えようという組織だった。ある公演舞台(京大西部講堂?)で水谷の歌うマイクスタンドの前に「赤軍派」のヘルメットがぶら下がってる写真があるが、彼が心を寄せていた可能性はある。でも赤軍派拠点だった同志社キャンパスは久保田の言うように「ぐしゃぐしゃな時代」、水谷に何があったか知る由もないが「つかれちゃった」という状況にあったのだろう。私はこの年のほとんどを安田講堂逮捕後の獄中にあって現場を知らない。

1969年の京都、水谷周辺の時代の空気感、それが水谷の歌う「愛することと信じることはちがう」という季節感なのだろうと私流に解釈している。

それは私にもある程度、想像はできるあの時代のひりひりした空気感だ。

案の定、時代は「連合赤軍の同志粛正」、「中核・革マル戦争」のように新左翼諸党派の「内ゲバ殺人」へと流れていった。革命は何のため? 誰のため? を忘れた革命、党派利害第一、党利党略に翻弄され「いまではおまえを信じることができない」革命に堕ちて行く。

「僕の腕の中にお前(革命)は死んでいる」 ── 水谷はミュージシャンとして「溺れる飛べない鳥のための革命」を自分の使命とし、「裸のラリーズ」で水谷の革命をやる、そう心に決めたのだ。

雨宮処稟さんの著書に出てくる「布団を被ってラリーズの轟音を聴く」プレカリアートの若者は、そんな水谷の言う「溺れる飛べない鳥」の一人なのだろう。

「愛することと信じることはちがう」、それは革命とは言えない。「愛することと信じることは同じ」と言える革命はきっとあるはずだ。あきらめずに地面を掘り続ければ、必ず水は出てくる、私もあの時代を生きた一人、今もそれを追求途上にある。

だから私は“yodo-go-a-go-go”裏ジャケットに記された謎かけのようなメッセージを私に対する水谷の決意表明だと受けとめ、ならば私は私の革命を続ける責任があると肝に銘じる。

「裸のラリーズ」の楽曲で私のイチ推しは“yodo-go-a-go-go”所収の名曲“Enter The Mirror”だ。“’77 LIVE”にも同曲があるが断然こちらがいい、私にとっては珠玉の名曲、「私の裸のラリーズ」だ。

この“Enter The Mirror”を聴きながら「愛することと信じることは同じ」革命を追求する責任が自分にはあるのだということを私は忘れないようにしている。

「鏡よ鏡 天国でいちばんカッコイイのは誰? それは“裸のラリーズ”」 ── 天国にあってもそんな水谷孝であろうことを確信しながら……


◎[参考動画]Les Rallizes Dénudés – Enter the Mirror

P.S.

“Enter The Mirror”にまつわるお話しとして……

水谷との関連でぜひ触れねばならないが収まりどころがないので「追記」にそれを書く。

「オルフェ」という1950年代の古いフランス映画がある。詩人ジャン・コクトーの創った映画だ。私には珠玉の名曲”Enter The Mirror”はこの映画を想起させる。

死より恐ろしい刑罰に美しく毅然と!“死神の女王”(映画「オルフェ」より)

鏡の外は現実の人間世界、鏡の中に入ればそこは「死者の世界」、「死に神の女王」は「鏡の外」の世界の詩人を愛してしまう、それは「鏡の中の世界」では許されない御法度とされる行為、しかし「鏡の中」の法廷で「死に神の女王」は詩人への愛を否定せず自分の愛を貫く、そして「死より恐ろしい刑罰」の待つ刑場へと向かう、毅然と美しく! 

コクトーの詩を好んだとされる水谷、“Enter The Mirror”は「死に神の女王」を意識した楽曲、私は勝手にそう解釈している。私は水谷がこの「死に神の女王」に自分を重ね合わせているのではないかと思えて仕方がない。(つづく)


◎[参考動画]ORPHEE / ORPHEUS (1950) with subtitles

《若林盛亮》ロックと革命 in 京都 1964-1970
〈01〉ビートルズ「抱きしめたい」17歳の革命
〈02〉「しあんくれ~る」-ニーナ・シモンの取り持つ奇妙な出会い
〈03〉仁奈(にな)詩手帖 ─「跳んでみたいな」共同行動
〈04〉10・8羽田闘争「山﨑博昭の死」の衝撃
〈05〉裸のラリーズ、それは「ジュッパチの衝撃」の化学融合
〈06〉裸のラリーズ ”yodo-go-a-go-go”── 愛することと信じることは……

若林盛亮さん

▼若林盛亮(わかばやし・もりあき)さん
1947年2月滋賀県生れ、長髪問題契機に進学校ドロップアウト、同志社大入学後「裸のラリーズ」結成を経て東大安田講堂で逮捕、1970年によど号赤軍として渡朝、現在「かりの会」「アジアの内の日本の会」会員。HP「ようこそ、よど号日本人村」で情報発信中。

『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』(紙の爆弾 2021年12月号増刊)

『一九七〇年 端境期の時代』

前回、『戦争は女の顔をしていない』の書評の第1回目から日が経ち、申し訳ない。続きを書く前に、上映しているうちに早めにアップしておきたい『REVOLUTION+1』完成版の映画評を先にお届けしたい。

 

足立正生監督(左)

◆瑞々しい「足立節」を堪能せよ!

これは足立正生監督の6年ぶりの新作で、2022年8月末に密かにクランクインし、8日間の撮影から制作されたという。ピンク映画の手法の経験なしでは、このスピード感で誕生しえなかった作品だ。クランクインから1月後、強行された安倍晋三国葬当日にダイジェスト版の緊急上映をおこなった。今回の上映は、完成版となる。

安倍晋三元首相を撃った山上徹也氏を主人公に、「民主主義への挑戦」ともいわれた彼の行動の背景を、それでも足立監督ならではという表現によって描写した。監督は83歳になるそうだが、瑞々しい感性は変わらない。わたしは実は、足立・若松ファン歴がおそらく30年ほどとなるが、どの作品を鑑賞したことがあるかの記憶は曖昧だ。

『REVOLUTION+1』も、もちろん足立節が炸裂。山上氏は、わたしの周囲では直後から「テロリストの鑑」といわれていたし、育った家庭がややこしさを抱えながらロスジェネと呼ばれて搾取され続ける世代としても、理解できるような気がする部分があった。報道を眺めても、その後の影響は膨大と考えざるを得ず、SNSでは「山神様」などという表現も目にする。

足立監督が山上氏を撮ると耳にした際、「やはり」と感じた。なぜなら、1972年5月30日の「リッダ闘争」3戦士の1人である岡本公三氏を支援する「オリオンの会」でも、「テロとは何か」「現在の革命にどのような形がありうるか」というような話題が常にのぼっていたからだ。まさに、その先にあって、なおかつ誰も予想できなかったかもしれないのが、山上氏の登場だった。彼自身の語りとは無関係かもしれないが。

◆社会や世界を変革する「星」たれ!

3月11日、東京上映初日のユーロスペースでの舞台挨拶兼トークには、足立正生監督、主演のタモト清嵐氏、イザベル矢野氏、増田俊樹氏、飛び入りのカメラマン・髙間賢治氏が登場。司会進行は太秦の代表・小林三四郎氏で、増田氏が足立監督の「映画表現者は、現代社会で起こる見過ごせない問題に、必ず対時する」という言葉を紹介していた。

監督は作品を観た人には「これまでの作品とは異なり、わかりやすいといわれる」と語っており、実際わたしも本や絵はそのような方向性が意識されていたようには思う。足立監督といえばシュルレアリスム(【Interview】「僕らの根っこはシュルレアリスムとアヴァンギャルド」~『断食芸人』足立正生(監督)&山崎裕(撮影))。シュルレアリスムとは、「思考の動きの表現」であり、「奇抜で幻想的な芸術」だ。

ただし、本作から何を読み取るのかは、観る側に委ねられているはずだ。主人公・川上達也の苦悩の本質、彼が抱く「星になる」という希望、暗殺の実行によって彼が得たものなどには想像の余地がある。

個人的には、安倍どころか中曽根以降、否、戦後、否、明治以降に、彼の苦しみは翻ると改めて考えさせられた。1人が銃弾によって、そこに風穴をあける。「星になる」こととは、復讐を果たすことであるいっぽうで、社会や世界を変革する1人になることでもあるだろう。そして彼は、「生きるということ自体」を取り戻したのではないか。いっぽうで、わたしが復讐を果たすべき相手は誰なのか(比喩的にでも)。

主演のタモト氏は、若松孝二監督『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』『11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち』にも出演していた方。初日のトークでも、森達也さんの『福田村事件』に主要キャストなどを連れ去られた話がすぐに出るが(笑)、井浦新氏ファン歴がさらに長いわたしでも、『REVOLUTION+1』の主演はタモト氏でよかったと思う。観る者に雑念を混入させない、シンプルに没頭させてくれる演技が魅力的だ。

とにかく足立監督は、「やはり、こういうのが好きなのだよな」と、なんというか自由でクリエイティブで少々デタラメな気分を共有させてもらえること請け合いだ。楽しそうに出演する監督やスタッフさんたちも、ウォーリーのように見つけよう。ぜひ、ご覧いただき、何に対して自分は立ち上がるのかを考えたりしてもらえれば幸いだ。

3月11日、東京上映初日のユーロスペースでの舞台挨拶兼トークの様子


◎[参考動画]映画『REVOLUTION+1』 予告篇

▼小林 蓮実(こばやし・はすみ)
1972年生まれ。フリーライター。労働・女性運動を経て現在、農的暮らしを実現すべく、田畑の作業、森林の再生・保全活動なども手がける。月刊『紙の爆弾』4月号に「全国有志医師の会」藤沢明徳医師インタビュー「新型コロナウイルスとワクチン薬害の真実」寄稿。映画評、監督インタビューの寄稿や映画パンフレットの執筆も手がける。

『紙の爆弾』2023年4月号

◎amazon https://www.amazon.co.jp/dp/B0BXCMXQK3/

国際化の波が日本にも押し寄せている。ビジネスの世界でも政治の世界でも、国境の感覚が薄れ始めている。その中で浮上しているのが、コミュニケーションの問題である。世界の人口80億人のうち、日本語を話す人口はわずかに1億3000万人程度である。日本語は、グローバル化の中で生き残ることできるのか。

語学教育はどうあるべきなのか。国際化にどう対処すべきなのか。海外で長年にわたって日本語教育に取り組み、牧師でもある江原有輝子氏に、異文化とコミュニケーションの体験について話をうかがった。[聞き手・構成=黒薮哲哉]

◆世界の5か国で日本語を指導

── 海外で日本語を教えるようになるまでの経歴を教えてください。

 

江原有輝子(えはら・ゆきこ)氏

江原 わたしは早稲田大学の文学部を卒業した後、福武書店に入社して教育教材などの編集の仕事に就きました。しかし当時は、女性は結婚したら退職は当然というような社風があり、「この会社には長くはいられない」と思いました。そこで転職を考え、当時、国際交流基金と日本語教育学会がタイアップして設置していた日本語教師養成講座を受講するようになりました。1年目は日本語教育の基礎を学び、2年目には大使館の外国人職員などを対象とした教育実習を行いました。そして1988年に国際交流基金から派遣されて、メキシコシティーへ行きました。

希望する渡航先をきかれ、わたしは「どの国でもいい」と答えました。するとメキシコシティーへ行くように言われたのです。同市にある日墨文化学院(Instituto Cultural Mexicano Japones)で1991年まで日本語教育に従事し、いろいろなレベルのクラスを教えました。これが日本語教師としてのキャリアの始まりです。

── メキシコはスペイン語圏ですが、スペイン語は話せたのでしょうか。

江原 話せませんでした。最初は、午前中はメキシコ国立自治大学(Universidad Nacional Autonoma de Mexico)にある外国人のためのスペイン語講座に通い、午後から夜の9時まで日墨文化学院で仕事をしました。ハードな日程が裏目にでて途中で体調を崩したりもしました。

── 91年にメキシコから日本に帰国された後はどうされましたか?

 

メキシコ大学院大学(出典:ウィキペディア)

江原 お茶の水女子大学の修士課程(日本言語文化専攻)に入学しました。そこで第二言語習得の観点から日本語教育を学びました。在学中にメキシコ外務省の奨学金を得て、1年間メキシコシティーにあるメキシコ大学院大学(El Colegio de Mexico)に留学しました。この大学院で、自分が研究対象にしていたメキシコ人による日本語に関するデータを収集しました。たとえばどのようなレベルの日本語学習者がどのような語学上の誤りを犯す傾向があるかといったことを調べるために、外国人が書いた日本語の作文などを資料として収集しました。

日本語も教えました。日本研究をしている大学院生が7、8人いて、そのうちのひとりはコロンビアの人でした。もうひとりは確かキューバの人だったと思います。ラテンアメリカで修士レベルの日本研究ができるのは、おそらくメキシコ大学院大学だけでした。

── メキシコの次はどの国で日本語を教えましたか?

江原 お茶の水女子大学の修士課程を終えた後、国際交流基金の派遣で今度はドイツへ行きました。さらにその後、ニュージーランドとオーストラリアへ赴任し、政府機関で日本語アドバイザーとして働きました。さらに2019年5月からパラグアイへ行きました。これは国際交流基金の派遣ではなく、日本基督教団の宣教師として派遣されました。ピラポという日本人移住地にある教会の牧師として赴任したのです。日本語は、1年間だけピラポ日本語学校で教えました。

◆言語の違いと異文化

── 江原さんは外国語でコミュニケーションをされてきた期間が長いわけですが、それが自分の日本語力にどのような影響を及ぼしましたか?

江原 わたしの場合、メキシコへ行って初めてスペイン語を学んだわけです。その後、日本に帰ってきた時に、友人たちから以前に比べて話し方が分かりやすくなったと言われました。メキシコへ行く前、日本語でコミュニケーションしているときは、はっきりと要件や主張を伝えなくても分かってもらえる部分がありました。このあたりまで伝えれば相手は、わたしが言いたいことを察してくれると。

しかし、スペイン語はわたしにとっては外国語ですから、限られた語彙や表現で、相手に自分の意図を正確に伝える必要性が生じました。たとえば、水道屋さんに「水が漏れているから修理してほしい」という意思を伝える場合、はっきりと要件を言って、自分が相手に希望することが実現するように、説明しなければなりません。限られたボキャブラリーで、どう言えば相手が分かってくれるかということをいつも考えながら、話していました。その結果、日本語で話すときも、「こういったら分かってくれる」とか、「こういう言い方をした方がいいかも知れない」ということを常に考えながら話すようになりました。

外国人に日本語を教えるときも、限られた語彙で、どう表現すれば相手を理解させることができるかを考えなければなりません。普通の日本人を相手にするように話しても通じません。どういう言い方をすれば、相手は理解できるかを常に考えました。

◆幼児に対する外国語教育、指導者側の問題

── 早期からの外国語教育についてどう思いますか? 幼児期から英語を教えるべきだという考えと、まずは国語を十分に勉強すべきだという考えがありますが。

 

早期英語教育をPRするウェブサイト

江原 中途半端に英語を勉強した日本人の先生が、小学校で英語を教えるのはやめたほうがいいと思います。本当に子どもをバイリンガルにしたいのであれば、外国にいるような環境を準備する必要があります。日常生活の半分ぐらいを英語にする必要があります。それができるのであれば、幼時から子供を英語の環境に置いたほうがいいと思います。

日本語は特殊な言語なので、英語をちゃんと身に着けておくことは大切ですが、だからといって小学生を相手に不正確な発音で、「one, two, threeとか、red, white, yellow」などとやるぐらいなら、むしろなにもしない方がいいと思います。誤った発音を覚えてしまうと、矯正するのにかえって時間と苦労が必要になるからです。

この問題は日本以外の国にもあります。たとえばニュージーランドは、日本と違って小学校とセカンダリー(中学+高校)の教育制度になっており、セカンダリーでは外国語を教えるのが普通です。わたしが2000年にウェリントンに赴任したころは、生徒には5つの外国語の選択肢がありました。日本語、中国語、フランス語、ドイツ語、スペイン語です。ひとつの学校で全部を教えることはできないので、学校によって教える外国語が異なります。生徒も、自分が選択を希望する外国語のクラスがあるセカンダリーに進学します。

当時、ニュージーランドでは、教育省が小学校からの外国語教育を奨励していました。しかし、特に日本語の場合は教師の資質の問題がありました。フランス語とドイツ語はもともと学校で教えていた言語なので、ある程度、レベルの高い先生がいます。日本語がブームになってきたので、教育省は教える方針を打ち出しましたが、学生時代に日本語を勉強した教師はいませんでした。そこで、「日本語なんか分からなくても教えられるわよ」というような考えの人が、小学校教師を対象とした教え方の教材を制作したのです。

その教材は、「ひらがな」は難しいので、教えなくてもいいことになっていました。ローマ字で代用すればいいとされていました。それが教育省の方針だったのです。そこでわたしと、もう一人の日本人アドバイザーが、「こういうやり方ではだめです」とアドバイスしました。

限りなく日本語の知識がゼロに近い先生が、学校で「イチ、ニイ、サン」とか、「ワタシノ ナマエハ……」といったことをやるわけです。これは日本でよくある幼児を対象にした英語教室とよく似ています。

小学校でこうした教え方をしていると、「変な発音」や「変な表現」が身についてしまうので、本格的に言語の習得を始めたとき、それを矯正するのが大変です。その役割を担うセカンダリーの日本語教師にとっては迷惑なことです。

こうした観点から考えると、日本の小学校で中途半端に英語を教えるのはよくないと思います。不正確な発音や自己流の表現で、たとえばゲームをやるとそれが身についてしまい却ってマイナスになる。後年、矯正するのに大変な手間がかかります。

── 外国語を学ぶときは、最初が肝心だということでしょうか?

江原 はい。わたしはメキシコへ行くまでは、スペイン語をまったく勉強したことがありませんでした。ゼロだったわけです。そしてゼロからメキシコ人にスペイン語を習った。そうするとある時から、同じスペイン語でも、メキシコ人が話すスペイン語と、それ以外のスペイン語国圏の人が話すスペイン語との違いがはっきりと分かるようになりました。

ところが、英語に関しては、わたしは英語圏で7、8年生活しましたが、最初は米語と英語の違いを聞き分けられなかった。その原因は、日本の学校で受けた英語教育により、わたしの耳が「つぶれていた」からだと思うのです。間違った発音を身に付けていたからだと思います。

◆言語の背景にある文化的な土台の衰弱

── パラグアイの日系2世、3世の日本語はどんなレベルなのでしょうか?

江原 パラグアイのピラポへの移住は約60年前に始まりました。1世は今70代から80代です。1世は日本語しか話しません。家の中では、孫とも日本語だけで話します。ですから2世、3世の日本語力は、非常に高いレベルの人が多いです。わたしはそこで1年間、日本語を教えましたが、3分の2ぐらいの生徒は日本の義務教育で使われている国語の教科書をそれぞれの学年で教えることができるレベルでした。

子供たちは、月曜日から金曜日までは、現地の学校へ通学してスペイン語で学び、土曜日には日本語学校にきて日本語を勉強します。日本語学校では、当然、すべての場で日本語を使います。職員会議も日本語でやる。先生は2世と3世の日系人で、日本人はわたしだけでした。

多くの日系人がかなり高いレベルの日本語を使うことができます。しかし、日本文化についての知識は十分ではありません。たとえば森鴎外や夏目漱石は知っているが、太宰治などは名前すら知らない。日本文化のある部分が欠落しているのです。もちろん古文などは読んでいません。そこに何か欠落したものを感じました。教科書を使って問題なく日本語を教えることはできますが、言葉の背景となっている部分の知識が浅くなっているように感じました。

これに対して、日本で育った日本人は、日本についての十分な知識があり、その土台の上に言語が乗っています。ピラポでは、その土台の部分が浅くなっているのではないかと思います。2世、3世の方々ですから当然といえば当然ですが、世代を重ねるごとに土台の部分がさらに脆弱になり、日本語力も徐々に落ちていくのではないかと推測します。そして最後には、現地の公用語であるスペイン語だけになるのだと思います。日本語は消えるわけです。それが他国の日系人に起こったことです。隣国ブラジルには150万人の日系人がいると言われていますが、日本語を話す人はほとんどいません。

◆国際言語ではない日本語

── 日本語の普及は必要だと思いますか?

江原 わたしは、日本語はあまり役に立たない言語だと感じています。日本語を教える仕事は楽しいですが、もしわたしが日本人でなかったら、日本語を勉強しなかったと思います。第一に漢字の習得が大変です。数が多い上に、読み方がたくさんある。音読みと訓読みがあり、それを組み合わせると読み方も変化します。こうしたことを全部覚えて、本を読むのは大変なことです。日本語は、話すことに関してはそれほど難しくはありませんが、読み書きで日本人並みのレベルになるのはとても大変です。学習する外国語としては、非常にハードルが高いのが実態です。趣味でできるような言語ではありません。

これに対して、たとえば英語やスペイン語は、熱心に勉強すれば1年ぐらいで新聞が読めるようになります。頑張れば大学へも入学できます。少なくとも一定のレベルまでは到達できます。しかし、英語を母語とする人が、日本語の授業を聞いてノートを取り、日本語の参考文献を読むのは大変なことです。

── 海外へ出るとすれば、どの国を勧めますか?

江原 あえて言えばメキシコを勧めます。わたしは、自分が最初にメキシコへ行ったことは、非常に幸運だったと思っています。メキシコには、自分の想像とは異なった世界がありました。メキシコでは休日になると、かならず親族が集まってきて、一緒に時間を過ごします。日本にいる時には、「外国では大きくなると独立して親と別居する」と教えられましたが、「外国」と言っても、ラテンアメリカではそれは当てはまりません。

日本との文化の落差が大きな国へ行くと目が開かれて、学びが多いと思います。人生が大きく変わります。実際、わたしの人生はメキシコで変わりました。

▼黒薮哲哉(くろやぶ・てつや)
ジャーナリスト。著書に、『「押し紙」という新聞のタブー』(宝島新書)、『ルポ 最後の公害、電磁波に苦しむ人々 携帯基地局の放射線』(花伝社)、『名医の追放-滋賀医科大病院事件の記録』(緑風出版)、『禁煙ファシズム』(鹿砦社)他。
◎メディア黒書:http://www.kokusyo.jp/
◎twitter https://twitter.com/kuroyabu

黒薮哲哉『禁煙ファシズム-横浜副流煙事件の記録』

◆音楽界にゲバルトをかける!

「ジュッパチ」で私の何かが変わった。

社会と真っ向から向き合うこと、おかしいと思う現実は変えること、そのために行動すべきこと!──。「山﨑博昭の死」は私にそのことを教えてくれた。

「志」のようなものの芽生え? 向かうべき方向性が見えた、そんな感じだった。

だからといって当時の私に明確な志や行動目標があったわけじゃない。学生運動家が神々しく見えたといってもそれは私とは距離がありすぎた。「10・8羽田闘争」に共感はしても、ベトナム反戦、反安保というスローガンが自分の志になるには私はまだ政治的にあまりに幼すぎた。漠然と「戦後日本はおかしい」くらいじゃ、政治活動にはならない。一言でいって私にはまだ「学生運動の敷居」は高かった。でもそれに近づきたかったし、社会を革命する行動のとれない自分に焦れていた。

1967年10・8闘争はその後も11・12羽田闘争、佐藤首相訪米阻止闘争へと続き「権力の暴力に立ち向かう」意思表示として「ヘルメットとゲバ棒」は、新しい学生運動の誕生を象徴するものとして「戦後民主主義に疑問」の私たち戦後世代の若者の心を捉えていった。それは翌年1月の佐世保闘争(米原子力空母寄港阻止)、その後の東大、日大全共闘結成で頂点に達する……それは後日のこと。

そんな私の1967年晩秋、たぶん11月頃、同志社学生会館ロビーで所在なげに座っていた私に近づいてきた二人の長髪同志社大生、この二人は水谷孝、中村武志 ── この運命的な出会いが次の私の革命への一歩になろうとは! 

彼らからどう話しかけられたかは「記憶に遠い」。なぜ私に話しかけてきたのか? この時のことを中村武志は後にこう語っている。

「結成時のことねぇ……、まず水谷氏とは大学の軽音同好会で出会った。とにかく彼は当時まだ少なかった長髪でカッコよく、独特の雰囲気を持っていて一目で魅了された。たぶん僕から“一緒にバンドをやらないか”って声をかけたと思う。で、ベースとドラムを探さなきゃ、誰かカッコいいやつはいないか、ということになって一緒にキャンパスを探し、若林さんを見つけた。」(HP「Takashi MIZUTANI 1948-2019」

当時、私の長髪は肩にまでかかる真ん中分け、細身の黒のコーデュロイ上下、上着は5つボタンの袖がボタンで絞れるカーナビー風ファッション、しかも「お婆ちゃんの鼈甲(べっこう)丸眼鏡」風サングラスに黒ブーツ、全身これ「黒」で決めていた。同志社キャンパスでは嫌でも目立ったと思う。自分で言うのは何だが「誰かカッコイイやつ」という水谷、中村のおメガネにかなわないはずがない、「お顔」はともかく長髪が醸す雰囲気だけは「誰よりカッコよく決める」を自負していたから……一種の私の革命。

水谷、中村とは最初の出会いで瞬時に意気投合した。彼らと話しこんだのはだいたい以下のような感じ、多分に私の主観が入ってると思うけれど……。

いまロック界にも革命が起こっている。「へイジョー」、「紫の煙」のジミ・ヘンドリックスやピンク・フロイドは圧倒的な音の壁を作りだし、“Somebody to Love”がヒットのジェファーソン・エアプレーンはサイケデリックな映像も駆使した幻想的なライブを演出していた。


◎[参考動画]The Jimi Hendrix Experience – Hey Joe (1967)


◎[参考動画]The Jimi Hendrix Experience – Purple Haze – LIVE (1967)


◎[参考動画]The Jefferson Airplane – Somebody To Love (Smothers Brothers, May 7 1967)

それはビートルズ「抱きしめたい」の頃とは完全に異次元のロック。エレキギター、ベースなど電子楽器の駆使であんな音が出せるのだ! ロックの可能性、革新に関する3人の想い、感覚は完璧に共鳴した。当時の日本のロックと言えば、グループ・サウンズ全盛、音楽業界が作りだした商業主義のアイドル・グループばっか、あんなのはロックじゃない。こんな日本の音楽界にゲバルトをかける(ゲバルト=戦闘)! 日本のミュージック・シーンを革命する! 誰のものでもない、自分だけのものを! 

これが私のハートに火を付けた。話す口調はぼそぼそ、でも3人の心と魂はギラギラ。

中村武志は当時を振り返ってこうも語っている。よく雰囲気を伝えているので少し長いが引用する。

「話をしてみると、彼(若林)も僕らと同じような音楽を聴いていて、ただ、楽器は何もしたことがない。でもベースやれ、と。つまり最初から楽器のテク以上に、感性や理念が大事だったってこと。……バンド名も含めて、“日本語でオリジナルをやる”っていうのは、最初から絶対にあった。当時、グループサウンズとかは日本語だったけれども、本当にロックを日本語でやるバンドはいなかったから。水谷さんは詩人で、すでに歌詞を書いていたし、それをロックでやりたかった。」(HP「Takashi MIZUTANI 1948-2019」

水谷、中村も「ジュッパチの衝撃」体験者。同志社軽音サークル時代の友人、久保田麻琴(「夕焼け楽団」など主宰)によると、水谷はこんな感じで軽音サークルを飛び出した。

「半年ぐらいで軽音辞めちゃって。気が付いたら、街をヘルメットかぶって、歩いてた。……学生運動にならって、演説っぽい、この軽音楽部は自己批判しろ、みたいな、そんなこと言って退部していった」(「ロック画報」25号 特集:裸のラリーズ)

1967年晩秋の同志社学館での出会いと意気投合、それは三人三様の「ジュッパチの衝撃」、それが化学融合を引き起こした一事変、ある意味これが「裸のラリーズ」の萌芽、その原点。私は勝手にそう思っている。

◆「“らり~ず“でいいのだ」、「”裸のまんま“で行こう!」

同志社学館での意気投合後、バンド結成をめざした3人だが音楽はやらず、3人でつるんでるだけの時間が多かった。私はベースギターすら持ってなかったし、ましてやギター素人だから練習しなきゃとも思わなかった。彼らもそれを要求もしなかった。

ある意味、3人の意思の統合、バンドの方向性の模索期。

中村武志の言葉を借りれば、こういうことだ。

「最初期のメンバーでミュージシャンとして通用するのは水谷さんだけ。僕らはミュージシャンになりたかった訳ではなくて、バンドをやりたかった」(「京都新聞」2022年5月4日付け)

当時、中村は「志望はカメラマン」とも言っていた。

 

「LES RALLIZES DENUDES“FRANCE”DEMOS」

水谷はこんな風にも言っている。フランス在住時の水谷と音楽評論家・湯浅学のファックス会話の一部、全く公式発言のない水谷の希有な資料だ。

「当時、水谷は(現在もそうだが)友人もしくはお仲間はどちらかと言えばミュージシャンより、絵描き、詩人、カメラマンと称する様な連中が大半。モダンジャズの店(“しあんくれ~る“だろう)にたむろしていた。こちらがもし何かに影響を受けたとしたなら、彼らとの遊び、会話、その他諸々からである筈だ。それらは常に刺激的であった。また、常に刺激的であるべきだ」(水谷×湯浅学ファクシミリ交信-1991)

私たち3人はミュージックだけでつながっていたわけじゃないということだ。

「鏡よ鏡、世界でいちばんカッコイイのは誰? それは裸のラリーズ」

こんな呪文が3人の信条。むろん誰も口に出したことはない、でも心は確実にそれだった。

水谷、中村、そして私、この長髪最尖端3人組がつるんで歩くだけで「空気が一変する」、要するにグループとしてとてもカッコイイ。京都の街を3人が歩くときは周囲を睥睨(へいげい)、「下にい、下にい……」の大名行列気分。無意識の意識、あくまでいま思えばという私の主観。それは単なるナルシズムかもしれないし、世間的には傲慢この上ない連中、「鼻につくヤツら」だっただろう。

なにかを声高に議論したこともなければ、そもそも会話自体とても少なかった。水谷の用語は「イカしてる」と「イカさない」、つまりカッコイイかカッコ悪いか、この二つで事は足りた。日常会話なんてダサイ、阿吽(あうん)の呼吸、最低限必要な言葉で成り立つ不思議な「黙示録」グループだった。

恰好にもこだわった。ロック界を革命する人間は誰よりも「イカしてる」、カッコイイ人間でなければならない。

当時、男物のない花柄のシャツがほしくてデパートの婦人服売り場を物色したり、野性味がほしくて米軍放出品の中古着屋をのぞいたりした。私は戦闘服とザック製や強化ビニール製の軍用ショルダーバックを買った。彼らもなにがしかのものを買った。

こんな3人が化学反応すればすでに「新しいバンド」の方向性は決まったも同然。

バンド名「裸のラリーズ」命名経緯についてはよく質問を受ける。

バンドが有名になってから命名に関するいろんな議論が交わされたと聞く。よく言われるのがウィリアム・バロウズの「裸のランチ」が由来だとかetc……。でもそんなややこしいことを考えて命名されたわけではない。事実は至って単純だ。

肌寒い初冬のある日、たしか「モップス」だったか何かの公演を「視察してやろう」とかで夜の京都の街を徘徊していたときに突然として産まれたものだ。別にバンド名を考えようなんて議論をしていたわけじゃない。

3人はハイミナールをやっていて精神ハイ、いわゆる“らりって”た。突然、「俺たちは“らり~ず”」! 的なことを誰ともなく言ったのがきっかけ。私? 水谷? 中村? 記憶はぶっ飛んでいる。“らり~ず”だけじゃ物足りないし語呂も悪い、なら“裸”はどう? 素(す)のまま、飾りっけなし、裸のまんま!-で、「裸のらり~ず」。 

“らりって”て何が悪い!?-「“らり~ず”でいいのだ」、「“裸のまんま”で行こう」! まあそういうことだったのかなあと思う。

正直、この辺の前後事情はまったくの「感じ」でしかない。いわば突然のひらめき、あるいは「神の啓示」としか言いようがない。霊感と言った方がいいのかも知れない。

この時から自分たちを「裸のらり~ず」と称するようになったが、私はこの命名だけで全世界を獲得した気分だった。そんな高揚感を持ったのは事実だ。

いま思えば、この「裸のらり~ず」という命名は「詩人」仁奈さんから教えられた「イメージの言語化」、その賜物かも知れない。たぶんそうだ。

当時の私の感覚では平仮名の「らり~ず」、いまは「裸のラリーズ」で通っているがカタカナの「ラリーズ」じゃ英語の「ラリー」、自動車レースみたいな語感で「らりってる」という着心地がしない。水谷が“Les Rallizes Denudes”とわざわざフランス語表記にしたのもそんな事情からかも知れない。このフランス語の語感は水谷風に言えば、「最高にイカしてる」。でもそんな解釈論議はどうでもいいこと、辞めた私があれこれ言うことではない。

◆萌芽期 ──「裸のラリーズ」の始動

ベースギターは冬に入ってようやく買った。安物だが黒のまあまあカッコイイもの、水谷の知り合いの楽器屋のおばさんに月賦にしてもらった。時折いじくる程度でそれほど練習した記憶はない。バンドの集まれる練習場もなかったが、それを求めようと焦ってもいなかった。

ようやくバンドの練習場が見つかったのは、翌年の2月頃。町内野球チームでバッテリーを組んだ私の幼なじみが草津駅前に百貨店を開き、国道1号線脇に作った倉庫を「これ使えや」と貸してくれることになった。そこに小さなアンプとギターを持ち込み、練習場とした。文字通りのガレージ・ロック。

私はナッシュビル・ティーンズのヒット曲「タバコロード」のベース音を練習曲にした。けっこう曲がカッコよくて初心者にも弾きやすかったからだ。水谷は足踏み式のワウワウペダルを使って音の歪みを試したりしていた。それぞれが勝手にやって3人で音合わせをするということはしていない、まだそのレベルじゃなかった。


◎[参考動画]タバコロード ナッシュビルティーンズ 1964

その頃だと思うが、同志社写真部にいた知り合いの女性が部主催ダンスパーティの演奏をやらないかと私に持ちかけてきた。私は「いいよ」と答え、水谷、中村も「やろう」となった。3人で音合わせも、やる曲の打ち合わせも事前練習もなし、そんな具合でずいぶん無謀な出演だったけれど、私も含めて何の心配も躊躇もなかった。これが初めてのバンドとしてのデビューと言えるが、ずいぶん無茶をやったものだと思う。

どんな曲をやったか全く記憶にない。ただ私がなぜかヴォーカルをとったローリング・ストーンズの“As Tears Go By”(涙あふれて)をやったことだけは覚えている。


◎[参考動画]As Tears Go By – The Rolling Stones 1966

たぶん演奏はハチャメチャだっただろう。案の定、場はシラケにシラケてみんなダンスをやめた。ただ数人の私たちのサポーターだけが勝手に踊ってくれていた。私たち3人はといえば「ダンパがつぶれてざまあ見ろ」の傲慢姿勢、そもそもダンス・パーティなどというもの自体、私たちのバンドとは対極のものだった。最初っから「ゲバルトをかけてやれ」くらいのつもりで引き受けたのかも知れない。出演を斡旋してくれた写真部女子には悪いことをしたと思う。

でもその写真部女子には「写真展に出品する作品のモデルになってくれない?」とまた頼まれて「おう、面白いね」と受け、大津市郊外の琵琶湖畔で3人の撮影会をやった。琵琶湖の西を走る単線「江若鉄道」の線路を背景にしたり、けっこう雰囲気のある写真が撮れた。写真展後、その彼女から線路に座る米軍古着戦闘服姿を捉えた私の大きなモノクロ写真パネルをプレゼントされた。天衝く意気だがまだ何ものでもない当時の「ラリーズ」の雰囲気をよく表しているとてもいい写真だった。彼女には心から「ありがとう」と言った。

いま国内のみならず海外でも一部に熱狂的なファンを持つバンドだから、「裸のラリーズ」萌芽期を捉えた彼女の大量のフィルムはファン垂涎の超「お宝写真」になったはず。事実「そのフィルムなんとか入手できないか?」という記者からの問い合わせも受けた。友人から聞くところによるとその写真部女子は2年ほど前に故人となり、彼女と共にその「お宝映像」も天国に召された。

この時期の唯一とも言える写真が存在する。

それは大学の春休みだったか3月頃、3人で鈍行列車東京遠征をやった時のものだ。遠征目的は「東京の音楽シーン」視察。ロックバンドの出演する劇場などを視察したが「どうってこともないロックだな」というのが3人の評価、新宿紀伊国屋ビルのピットインではモダンジャズの生演奏を聴いたりもしたがこれは刺激的だった。

 

「裸のラリーズ」萌芽期の水谷、若林、中村(下から上へ/『カメラ毎日』1968年6月号掲載)

視察後の夜を新宿の深夜喫茶で過ごしている私たちを見かけ話してきた人物があった。彼は写真家で私たち3人をモデルに撮影したいということだった。私たちは「いいよ」と答え、翌日、彼のスタジオや青山の外国人邸宅のような庭で撮影をやった。プロのカメラマンの依頼だから喜んでいいはずだが、「カッコよく撮れよ」というような対し方だったと思う。

その写真家の名前は大森忠、彼の作品は「グループ」との表題で『カメラ毎日』6月号にモノクロ写真3枚が掲載された。暗くしたスタジオで撮影され、ライトアップで暗闇から浮かび上がるようにピントもぼかし3人を捉えたその中の一枚は、萌芽期「裸のラリーズ」の匂いが香り立つような仕上がりになっている。日本の知り合いのカメラマンから送られたその写真はいま私のお宝映像、あの頃の3人の心意気を時折、切なくも懐かしく思い出させるものだ。

このように1968年は「裸のラリーズ」がバンドとして芽吹く季節として明けていった。

他方、この年初頭の1月には佐世保闘争があり、「プエブロ号事件」直後の朝鮮に向かう米原子力空母「エンタープライズ」寄港阻止の激しい闘いは警察機動隊の過剰な暴力を生み多くの重軽傷者を出したが、これが学生たちへの佐世保市民の大きな共感と支持を呼んだ。片や東大では医学部闘争が激化、これが全学に拡大し東大全共闘を生み、日大がそれに続き党派によらない学生大衆による学生運動、全共闘運動が誕生、1968年は熱い政治の季節に入ってゆく。

この年、「21歳の革命」に向かう渦中にあった私もこれに無縁ではいられなかった。1968年は私に再び大きな転機を促す年となる。(つづく)


◎[参考動画]Les Rallizes Denudes – Enter the Mirror


◎[参考動画]Les Rallizes Denudes ’67-’69 Studio Et Live

《若林盛亮》ロックと革命 in 京都 1964-1970
〈01〉ビートルズ「抱きしめたい」17歳の革命
〈02〉「しあんくれ~る」-ニーナ・シモンの取り持つ奇妙な出会い
〈03〉仁奈(にな)詩手帖 ─「跳んでみたいな」共同行動
〈04〉10・8羽田闘争「山﨑博昭の死」の衝撃
〈05〉裸のラリーズ、それは「ジュッパチの衝撃」の化学融合

若林盛亮さん

▼若林盛亮(わかばやし・もりあき)さん
1947年2月滋賀県生れ、長髪問題契機に進学校ドロップアウト、同志社大入学後「裸のラリーズ」結成を経て東大安田講堂で逮捕、1970年によど号赤軍として渡朝、現在「かりの会」「アジアの内の日本の会」会員。HP「ようこそ、よど号日本人村」で情報発信中。

『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』(紙の爆弾 2021年12月号増刊)

『一九七〇年 端境期の時代』

1月26日、大阪・十三のライブハウス「GABU」で、高橋樺子(はなこ)さん(UTADAMA MUSIC)の新曲「さっちゃんの聴診器」の発売を記念したライブが行われた。満員の会場に現れた高橋樺子さんは、大好きだという真っ赤なドレスで「さっちゃんの聴診器」を歌い上げた。

高橋樺子さん

 

高橋樺子シングルCD「さっちゃんの聴診器」2023年01月26日発売 ¥1,000(税込)レーベル:UTADAMA MUSIC

高橋さんは、2007年、関西歌謡大賞でグランプリを受賞したことから、その後、審査委員長を務めた作詞家・もず唱平さんに弟子入り、2011年3月11日の東北大震災と原発事故の翌年、被災地復興支援ソング「がんばれ援歌」(作詞:もず唱平 作曲:岡千秋、三山敏)でデビュー。

もず唱平さんには、実は、一昨年、鹿砦社発行の反原発雑誌『NO NUKES voice』(現『季節』/28号=2021年6月発行)でインタビューさせて頂いた。

もずさんの父親・潔さんは、広島の「旧陸軍被服支廠(ししょう)」の現場監督で働いていたが、8月6日の原爆投下で二次被害にあい、その後原爆症を患われた。

しかし、父親が一生原爆手帳を受けなかったため、治療費などが嵩み、生活が苦しい時期もあったという。そうしたことから、次第に父親とは疎遠になっていく一方で、もずさんは反戦・平和への思いを強くしていった。そんな思いが高橋さんの熱心な復興支援活動などにつながっているのだろう。

もずさんにインタビューした際には、高橋さん、マネージャーの保田ゆうこさんから、震災後、何度も支援物資を被災地に運んだり、被災地で歌った思い出、広島に原爆を投下したB29の出撃地であるテニアン島、サイパン、グアムなど戦跡巡りなどに行かせて貰ったという貴重なお話もお聞きした。

そんな高橋さんは2015年、戦後70年の年に、もずさんが父親から聞いた原爆の体験をもとにした「母さん生きて」(作詞・もず唱平 作曲・鈴木潔)を、平和を訴える祈念歌としてリリースした。

それから7年ぶりの新曲となる「さっちゃんの聴診器」、高橋さんは、新曲にかける思いをこう語った。

さっちゃんとは、大阪の西成区でお医者さんをやっておりまして、いろいろ調べていきますと、研修時代は沖縄にいて、その後、大阪の西成にきて、路上生活者も多い釜ヶ崎という地域で、医師として、労働者の身体だけではなく、心にも寄り添う、献身的に社会貢献活動をされておりました。その矢島祥子さんのことを、私の師匠である、作詞家のもず唱平先生がドキュメンタリーとして、この作品に書きあげ、曲は、矢島祥子さんのお兄さんである敏さんに付けて頂きました。高橋樺子は、これまで『平和』をテーマに歌ってきましたが、今回、新たなスタイルの平和を、この『さっちゃんの聴診器』で沢山の方に聞いて頂き応援して頂きたいと思う曲です。

高橋樺子さん

◆「釜ヶ崎人情」が繋げた縁

もず唱平さんが「さっちゃんの聴診器」を書くきっかけとなったのが、もずさんが作った「釜ヶ崎人情」だった。もずさんの「釜ヶ崎人情」は、釜ヶ崎のカラオケのある居酒屋では「カマニン入れてや」といわれるほど、労働者に親しまれ良く歌われる曲だ。もずさんは、作詞家としてこの曲を初めて作るとき、何度も何度も釜ヶ崎に通い、飲み屋で労働者に話を聞いたという。その「釜ヶ崎人情」が、矢島敏さんともずさんを繋げていった。

「さっちゃんの聴診器」のモデルとなったのは、矢島敏さんの妹・祥子さんで、2007年4月から、西成区の鶴見橋商店街にある診療所で内科医として勤務しはじめた。その傍ら、ボランティアで野宿者支援活動に非常に熱心に取り組んでいた。給料、ボーナスを惜しみなく、野宿者らへの寝袋の購入費などに費やしたという。

しかし、2009年11月16日、西成区内の木津川の千本松渡船場で遺体で発見された。まだ34歳の若さだった。西成警察署は、当初「過労による自死」と断定した。

しかし、共に医師である群馬県の両親が、祥子さんの遺体の状態、痕跡などから、何者かに殺害されたのではないかと疑い、「事件として捜査してほしい」と訴え続け、その後ようやく自殺、事件の両面で捜査すると約束してくれた。ただ残念なことにその後捜査は進んでいない。

両親、敏ちゃんら兄弟は、毎月祥子さんが行方不明になった14日、祥子さんが勤務していた診療所のある鶴見橋商店街で、情報提供を求めるチラシ配りを支援者らと続けている。その前後、釜ヶ崎の居酒屋・難波屋や社会福祉法人「ピースクラブ」でライブを行ってきた。ライブの冒頭、支援者らと必ず歌う曲が「釜ヶ崎人情」だった。

2018年8月7日、NHKが、そうした情宣活動やライブ活動など、遺族や支援者らの活動を取材し、ドキュメンタリー「さっちゃんは生きたかった~大阪釜ヶ崎 女性医師変死事件~」が制作され、放映された、その番組を偶然自宅で見ておられたもずさん、「自分の作った曲が歌われている……」と驚かれると同時に、何かできないかと、遺族に連絡を取り、敏ちゃんらのライブにやってこられた。

初めてもずさんがライブに訪れた日のことを、敏ちゃんはこう話している。

「今日会場にもずさんという方が来られていると聞き、すぐにネットでググり、びっくりしました」。

その後もずさんは、祥子さんの故郷・群馬県で行われた偲ぶ会などにも参加し、遺族のために、何かできることはないかと考え、祥子さんのための歌を作ろうと考えた。

「曲を作るのはあなたしかいないんだ」と作曲を頼まれた兄・敏さん。こうして、もず唱平作詞、矢島敏作曲の「さっちゃんの聴診器」が生まれた。

矢島祥子さんの兄、敏さん(左から二番目)率いる「夜明けのさっちゃんズ」と高橋樺子さん

もずさんは、昨年11月に行われた偲ぶ会でこう話されていた。

昔、新谷のり子さんが歌った『フランシーヌの場合』(1969年)という曲が流行りました。『フランシーヌの場合は、あまりもお馬鹿さん……」と始まる歌を聞いて、多くの人が「フランシーヌって誰?」と思ったと思います。『さっちゃんの聴診器』も同じように『さっちゃんて誰?』と関心を持ってもらえるきっかけになればとの思いで作りました」。『もっと生きたかった この町に もっと生きたかった 誰かのために」。曲のはじめに繰り返されるこのフレーズ、ぜひ多くの皆さんに聞いていただきたい。一緒に口ずさんで頂きたい。そして若くして亡くなった矢島祥子さんに思いをはせて頂きたい。

「さっちゃんの聴診器」を作詞されたもず唱平さん(右)が、歌に込めた思いを語る

◆沖縄に移住し、新たな音楽活動、そしてラブ&ピースの活動を!

今回の新曲発表ライブのサブタイトルに「私、沖縄に移住しました」とある。そうです。もずさんが温かい場所で作詞活動を行いたいと、昨年事務所を沖縄に移したことをきっかけに、高橋さん、マネージャーの保田さんらも沖縄に移住し、新たなレーベル「UTADAMAMUSIC」を立ちあげた。

「言霊」にかけた「UTADAMA」(歌霊)では、沖縄の島唄と本土のやまとうたの「混血」ソングを目指したいという。その第一弾の「さっちゃんの聴診器」。

「もっと生きたかった この町に もっと生きたかった 誰かの為に……。」

曲のはじめに繰り返されるこのフレーズ、ぜひ多くの皆さんに聞いていただきたい。一緒に口ずさんで頂きたい。

そして34歳の若さで無念の死を遂げた矢島祥子さんのことを少しでも知って欲しい!

「さっちゃんの聴診器」(作詞=もも唱平/作曲=矢島敏/編曲=竜宮嵐)


◎[参考動画]高橋樺子 ”さっちゃんの聴診器” ~short ver~

▼尾崎美代子(おざき みよこ)
新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを「西成青い空カンパ」として主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。
◎著者ツイッター(はなままさん)https://twitter.com/hanamama58

〈原発なき社会〉を求めて集う 不屈の〈脱原発〉季刊誌 『季節』2022年冬号(NO NUKES voice改題 通巻34号)

◆「一週一善」

ほんの思いつきから始まった自作詩集「仁奈詩手帖」、それはいつしか真剣勝負の共同作業になって結果は思った以上の「価値ある」成功、それは私たちにとても勇気を与えるものだった。

二人でやれば怖いものはない。「思案に暮れていた」ジェロさんと「簡単じゃないからいいんじゃないですか?」の仁奈さん、二つの魂は確実に接近した。

「案ずるより産むが易し」! 「跳んでみたいな」運命共同体、次なる共同行動は”Smoke gets in your eyes”の夜からすでに温めていた「一週一善」構想。

精神ハイに乗ったあの夜決めたのは「一日一善」の故事にならって私たち式の「一善」、世間の常識を覆す「一つの善行」を「週一」でやろうという企画(実際は、月に2、3回)。おかしいと思う常識を覆すのが私たちの「善行」! 


◎[参考動画]Miles Davis – Smoke gets in your eyes

最初の企画の発案、シナリオは仁奈さん、それは「お嬢さん」脱皮中の彼女らしいユニークな「一善」。

当時の京都でひときわ華やかな四条河原町・高島屋デパート、なかでも高級感あふれる資生堂化粧品売り場が二人の「善行」舞台。

まず「お嬢さん」風のいでたちの「上客」、仁奈さんが資生堂の化粧指導員相手にショウケースから各種カラーの口紅をあれこれ出させ、いちいち説明をさせながら、さてどれにしようかと思案のふりをする。横に付きそうこれもちょっと小綺麗にした私に「迷っちゃうなあ、どれがいい?」と恋人に甘えるかのように意見を求める。ここからがジェロさんの大芝居-「僕には“素(す)のまま“の君がサイコー」! と彼女の唇に優しく「3センチ距離感覚」を実践、ゆっくりとこれ見よがしにやる、彼女もそれを甘く受ける。目の前の資生堂派遣の一級のプロ化粧指導員をして目のやり場に困らせるのが目的。そして挙げ句の果てに「すみませ~ん、やめときます。ごめんなさいね」と二人で売り場を去る。

気合いを入れこれをシナリオ通りにやって、ほぼ想定通りの展開にした。

高島屋から四条通りに出るや二人でにんまりうなずき合った、「してやったり」! おなかの中では大笑い。「あの“3センチ”、ちょっとしつこかったよ」の仁奈さんに「いやあ、あれは演技やない本気」とジェロさん、「バッカ~」と仁奈さんのお叱り受けて初「善行」はめでたしめでたし。

世間的には単なる資生堂の販売員イジメ、でも舞台は天下の高島屋、資生堂ブース、精神ハイとはいえ私たちにはちょっと勇気が必要だった「善行」。

いま思えばこの「善行」は、「アメリカに追いつけ追い越せ」高度経済成長に向かう「昼間の明るい日本」に対するカウンターパンチ。「時空を越える“黒”」ファッションで有名なデザイナー、山本耀司式に言えば、「飾り立てるのがファッションかもしれないが、人の眼を欺いてはいけない」! そんな意味合いだったのだと思う。仁奈さんは「善行」センスも「高品質」!

この頃、新宿花園神社赤テント状況劇場や天井桟敷で唐十郎、寺山修二らも常識を覆す実験劇をやっていた。仁奈さんの「実験劇」はその零細企業版!?

次にやった「善行」は「乞食のおっちゃん二人組」との三条大橋下での夜の酒宴。これは私の発案。

以前、バイト帰りの薄汚れた格好、ぼさぼさ長髪の私が鴨川縁を歩いていたら、「よ~っ、同志!」と呼び止められた。声をかけたのは三条大橋下をねぐらにしている乞食のおっちゃん二人組、誘われるままに彼らと一夜を過ごし友達になった。おっちゃんたちは二人とも「満州引き揚げ者」で戦後の日本になじめなかったのか、何らかの理由で自由気ままな乞食生活をやっている人、犬も一匹飼うという優しさの「余裕」もあるお乞食さん。

富裕家庭子女の「詩人」をこのおっちゃんら「無産階級」が酒宴に招待するという逆転の発想の「善行」。

三条大橋。車の止まってる辺り

お酒はおっちゃんらが木屋町飲食街からポリタンクに集めた「残り物」の「ごちゃまぜビール」、それまでの仁奈さんには縁の遠い人間たちとお酒。「素敵じゃない? よしやろう」と仁奈さんも同意。

若い女性とお酒を呑む機会のないおっちゃんらは「詩人」を大歓迎。コップは使い古したお茶碗のようなものだったが、かまわず仁奈さんはおっちゃんらと「茶碗酒」をガブ呑み、まるで酒豪比べのような酒宴になった。おっちゃんらは「呑みっぷりがエエなあ」と仁奈さんを褒めそやした。ポリタンクいっぱいのビールは飲み放題、「おつまみ」まであって一晩中、酒宴は続いた。

「ここはお国の何百里~ 離れて遠~き 満州の~~」を酔いに任せておっちゃんらと大声で合唱した。軍歌ではあるが彼らには格別の想い入れがある歌なのだろう。ニーナ・シモンを愛する私たちだったが違和感なく一緒に歌えた。戦前世代と戦後世代が一体になった、そんな瞬間だった。

したたかに呑んだあと仁奈さんも段ボールか何かの寝床で寝た、トイレも野外、ちょっと心配だったけれど「お嬢さん詩人」はけろりとしたもの。「気持ちよかったあ~、久々の開放感」! 屈託のないのがこの人のいいところ。

双方満足のとても気持ちのよい「善行」、京都のシンボル、三条大橋下という舞台設定も最高。

翌朝、目覚めて比叡山方向から昇る朝日をみんなで眺めた。その時、おっちゃんの一人が叫んだ。「満州の太陽はもっとでっかいぞ」! 

その一言にさまざまな思いが込められていたのだろう。おっちゃんらが満州で、また引き揚げ時やその後の日本で、どんな思いをしたのか、もっと聞いておけばよかった。なんか自分たちが盛り上がっただけで終わったなあと、ちょっと後悔が残った。

「昼間の日本」にはカウンターパンチ、「夜の日本」にはカンパ~イの「一善」、この頃までが仁奈さんとジェロさん共同行動の「蜜月」時期……だったかもしれない。

三条大橋下。おっちゃんらとの夜の酒宴の場、ギターを弾いてる若者らのように

◆「10・8-山﨑博昭の死」の衝撃

その後も日本海サイクリング野宿放浪、鈍行列車東京遠征で新宿ヒッピー観察……etc.「一善」は続いたがハプニング的な「善行」はそうそう長続きするものじゃない、惰性は免れなかった。

日本海放浪は、夜に蚊の大群に悩まされて野宿は中途挫折で民宿に、新宿で会ったヒッピーはインド哲学や禅など神がかっていたり単なる自由恋愛主義者だったりで「なんかついていけないよね」。

でもこうした日々にも仁奈さんは詩作を続けたし、新しい「文学的発見」をノートに記したり、何であれ新しい体験を自分のものにしていってるようだった。「新しい時代の作家」になる栄養素にしていたのだろう。

他方、私はというと「常識打破の善行」もやってる瞬間は意気軒昂、でも終わってみれば自分に残るものは何もない。まるでハイミナールが切れた後のよう……。刹那主義的行動だけではやはり人間には何か虚しい。

仁奈さんは強くて温かい「同伴者」だった。ときに落ち込む私を気遣って夏のある夜、「ホタル見に行かない?」と鴨川に誘った。舞い上がる無数の蛍火を「きれいだね」とか言いながら「あのホタルだって昼間は誰にも見えないのよねえ」とボソッと私につぶやいたが、あれは「詩人」式の励ましの言葉だったのだろう。

仁奈さんにはめざすものがあって、ジェロさんにはない。これからどこに行くのか? 具体的な目標、志が私にはない、それを痛感させられる日々でもあった。いま思えば、それ自体が私の進歩を促す過程、自分の不足を感じる過程だったとは言えるが、二十歳の私には自分を客観視するそんな心の余裕はなかった。

いつしか季節は秋になった。

そんな時に私の一大転機を促す「事件」が起こった。

忘れもしない1967年10月8日、佐藤首相の南ベトナム訪問阻止の闘い、世に言う「ジュッパチ」羽田闘争が起こった。学生運動で初めてヘルメットとゲバ棒が登場、学生たちは警察機動隊と激しくぶつかった。機動隊の警棒に追われ弁天橋から川に転落する学生たち……。

そして激闘さなかに機動隊装甲車に轢かれ一人の学生が命を落とした。

彼の名は京大生・山﨑博昭、まだ18歳だった。

新聞や固い週刊誌など見向きもしなかった私がそれらをむさぼり読んだ。

大学のキャンパスでは活動家を囲んであちこちで議論の輪ができていた。活動家は必死に闘争の意義を訴えていた、だが多数意見は「暴力はよくない! 民主主義の日本なんだから」だった。私はこれに何か納得できなかった。でもそれを口に表すことはできなかった。

一人の学生が死んだということ、ただこのことが私に重くのしかかっていた。

あの日から私の頭と心を占めるのはこのことだった。


◎[参考動画]映画『きみが死んだあとで』予告編

17歳の時のビートルズ「抱きしめたい」はまさに脳天直撃だった。でも「ジュッパチ」はじわじわと心に迫ってくる「衝撃」とでも言うか、何かが私をぐぐ~っと締め上げて来る、そんな感じだった。

私は学生運動にはこれまで冷淡だった。ビラを受け取ってもゴミ箱に捨てた。小中高と同窓だった友人が社学同(社会主義学生同盟)、ブンドの活動家で一回生の頃、オルグらしいことを受けたが心は動かなかった。どうせ学生時代の左翼インテリのイデオロギー行動、大学を卒業すれば就職してそれで終わり、そんなものだろう。とても醒めた目で見ていたと思う。

だが「山﨑博昭の死」はそれを180度、覆すものだった。

学生達は命がけで闘っている! おかしいと思うこと、おかしな社会に真っ向から向き合い、これに正面からぶつかっていった一人の学生が死んだ! 志に殉じる自己犠牲! そんな学生運動家が神々しく思えた。

それに比べ「ならあっちに行ってやる」以降の私のドロップアウト人生、社会に背を向け、顔を背けてきた私、「社会常識」をただあざ笑うだけの私、それは安全地帯からする単なる自己満足? 考えれば考えるほどそんな自分がとても恥ずかしく思えた。

私が初めて意識した良心というようなもの、初めて感じた良心、その鈍痛みたいなもの。うまく言えないが、そんなものだったと思う。

「ジュッパチ」で私の何かが変わった。

まだ何をやるべきかは定かではなかったけれど、はっきりしているのは社会と真っ向から向き合うこと、おかしいと思う現実は変えること、そのために行動すべきこと-めざすのは何らかの社会革命!

「跳んでみたいな」共同行動の季節はとっくに過ぎた。仁奈さんとの「運命共同体」は宙に浮いたものになった。彼女は文学、「作家になる」という目標に邁進する、私は目標、志を立てなければならない。それぞれが自分の道に向かうべき時が来たのだ。

私を観念の世界から行動へと突き動かしてくれた恩人、仁奈さん-「簡単じゃないからいいんじゃないですか?」-この一言をいまも私は忘れない。

新しい出発のためには必要な別れ。現実はそう簡単に割り切れるものではないけれど……

そんな頃、私の前に現れた二人の同志社大生、水谷孝と中村武志、彼らも「ジュッパチの衝撃」体験者だった。この出会いが私の新しい出発の開始になるとは……(つづく)


◎[参考動画]裸のラリーズ Les Rallizes Denudes 1

《若林盛亮》ロックと革命 in 京都 1964-1970
〈01〉ビートルズ「抱きしめたい」17歳の革命
〈02〉「しあんくれ~る」-ニーナ・シモンの取り持つ奇妙な出会い
〈03〉仁奈(にな)詩手帖 ─「跳んでみたいな」共同行動
〈04〉10・8羽田闘争「山﨑博昭の死」の衝撃

若林盛亮さん

▼若林盛亮(わかばやし・もりあき)さん
1947年2月滋賀県生れ、長髪問題契機に進学校ドロップアウト、同志社大入学後「裸のラリーズ」結成を経て東大安田講堂で逮捕、1970年によど号赤軍として渡朝、現在「かりの会」「アジアの内の日本の会」会員。HP「ようこそ、よど号日本人村」で情報発信中。

『一九七〇年 端境期の時代』

『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』(紙の爆弾 2021年12月号増刊)

重信房子釈放の3日後、都内某所で行われた「リッダ闘争50周年記念集会」に寄せられた重信房子の「音声」からも、反省の気持ちは全く聞き取れなかっただけでなく、この時期既にウクライナからの避難民を積極的に受け入れている日本政府のダブルスタンダードぶりを告発する意見が述べられていた。

奇しくも同集会に寄せられたリッダ闘争の戦士岡本公三のアピールの中にも、全く同じ文章があった。

「日本では、ウクライナ戦争の避難民を歓迎しているようですが、他の難民はどうなっているのでしょうか。さらに言えばパレスチナの人々は、50年経った今もイスラエルに占領され抑圧されて、苦しい生活を送っています。この問題の解決には、まだまだ私たちみんなの努力がいるでしょう」

両者の主張は多くの日本人の胸を射る。ウクライナから来た人たちは、皆日本人の優しさに救われたと語ったそうだが、その優しさをこれまでパレスチナ人に対して示した日本人が、日本赤軍の戦士たち以外にどれだけいただろうか……と言い切ってしまうと左側の正論として処理されてしまうのが日本の現実である。


◎[参考動画]テルアビブ空港乱射事件から50年 岡本公三容疑者が記念集会参加(2022年5月撮影)


◎[参考動画]リッダ闘争50周年 5.30集会

リッダ闘争に関する日本に定着した「一般論」にも疑問が残る。常に「メディアは真実を伝えていない」と声高に叫び続ける左右の論客も、リッダ闘争の真相に関してはイスラエル側の発表を鵜呑みにしている感がある。

日本赤軍の三戦士が「死んだらオリオンの星になる」との誓いを交わし、決死の覚悟でリッダ空港の管制塔を占拠すべく、空港に到着したところ、情報を入手して待ち受けていたイスラエル軍の兵士たちが一般の乗客もろとも無差別に銃を乱射して多くの死傷者を出してしまったというのが真相だという。

アラブの民衆にとっては、結果的に一般の乗客を巻き添えにしたことよりも、わざわざアジアの東の果てからイスラエルという戦後世界体制の矛盾の集約点に乗り込んで行った日本赤軍の行動に「目醒めさせられた」との感慨を抱いたことの方が重かったようだ。


◎[参考動画]1972 Lod Airport Massacre Revisited

「リッダ空港闘争50年記念日本集会」にPFLPより寄せられたメッセージには、次のように記されていた。

「リッダ闘争の英雄たちは、彼らの血でこの真実に光を灯し、決して素直に聞こうとしない世界に、パレスチナの地で独自の方法で実行することで世界に事実を示し、解放戦士の戦いに否応なく耳を傾けさせた。
 不正義に対する抵抗闘争の象徴を打ち立て、わが民衆を恥じ入らせた(※「恥じ入らせた」に太字)。英雄・岡本公三に敬意を表する」(太字=筆者)。

冒険の人を「恥じ入らせた」ほど画期的な闘争だったのだ。リッダ闘争以後、中東を訪れた日本人は皆アラブの人々から「日本赤軍にはいったい何万人の兵士がいるんだ」と訊かれ、「50人ぐらいかな」と答えると「そんなわけないだろう」と詰問されたという。

とんでもない過大評価だが、そこまで強烈なインパクトを残した闘争を偉業という以外に適切な表現はないだろう。重信房子もリッダ闘争に関しては謝罪していない。天才は常に「善悪の彼岸」にいるのだから。

 

岡本公三(左)とファイティング原田(右)

天才は論じるものではなく
感じるものである。

……そんな結論に私は達してしまった。単なる偶然と言えばそれまでだが、私は初めて岡本公三の顔写真を見た時、ファイティング原田に似ているなと思った。

もう60年前のことだが、若干19歳の身でタイのポーン・キングピッチを破って世界フライ級チャンピオンになった彼こそはまぎれもなく「革命児」だった。打たれても打たれても前へ前へと突き進む笹崎ジムの闘争スタイル自体が、当時としては革命的だったが、未成年にしてその斬新な戦法を完璧に修得したこの男も天才だったと言えるだろう。

ただ容姿が似ているというだけではない。岡本公三にファイティング原田と同じ心意気を感じたと言ったら、ジャンルが違うと笑われるだろうか。岡本公三と共にリッダ闘争に身を投じた奥平剛士(重信房子の夫)が書き残した手記に、彼らの心情が代弁されている。

 奥平剛士
 これが俺の名だ
 まだ何もしていない。
 何もせずに 生きるために
 多くの対価を支払った
 思想的な健全さのために
 別な健全さを浪費しつつあるのだ
 時間との競争にきわどい差をつけつつ
 生にしがみついている
 天よ 我に仕事を与えよ

世の中には極少数の天才と大多数の凡人が存在するのだが「まだ何もしていない」自分を責めるのが天才の特性である。「何かをしなければならない」という使命感によって、彼は凡人であることを拒否し、天に向かって「我に仕事を与えよ」と願う……崇高な理念に殉ずる快感が天才には必要なのである。

それを「傲慢」「特権意識」と批判するのは凡人の自由だし、批判されても仕方がない天才もいることはいる。

20世紀最高の天才は誰かと言えば、私はためらうことなくアドルフ・ヒトラーの名前をあげるのだが、この人を善人だったと思う人は世界中に一人もいない。いたら相当な変質者だろうが、しかしヒトラーやナチスに関する研究書や評伝は戦後70年を過ぎて尚、現在に至るまで夥しい数量出版され続けている。ソックリな俳優を起用した映画も作られていて、これがまたなかなかの優れモノだ。

でもネ。ヒトラーを打ち負かした側の指導者、チャーチルやルーズベルト、スターリンの評伝を、あなたは書店で見かけたことがありますか? そんなもの出したって売れるわけがないことを出版社が承知しているからですよ。

真の勝者は誰だったのか? 歴史って案外粋な判定を下すものだと今は思える。

そして今また山上徹也とかいう人物が元首相の安倍晋三を狙撃死亡させる事件が発生したおかげで、テロリズムが脚光を浴びているようだ。

犯行が選挙期間であったために、野党政治家までが「民主主義の否定だ」「テロはいけない」「暴力はいけない」と心にもないコメントを口にしていた。「安倍一強の長期政権を倒せなかった自分たちにも責任がある」ぐらい言えないのかと思った。

私自身、汚染水の海洋放出がいよいよさし迫っているにもかかわらず、いっこうに原発の問題を争点にしない野党には愛想が尽きて、選挙という国家事業に関心がなくなっていただけに、山上徹也の行為には内心忸怩たる思いを禁じ得なかったのは事実である。

日本赤軍がアラブの民衆を「恥じ入らせた」(「恥じ入らせた」に傍点)と同じ感性的反応の兆しがそこにはある。しかし、私はやはり山上徹也という人物に共感を抱くことは出来なかった。もし、彼が統一協会に家庭を破壊された恨みから凶行に及んだのではなく、福島の原発事故で避難を強いられ、避難先でイジメられた少年時代を過ごしたというトラウマをかかえ、社会からの疎外感に苦しんでいたというなら、民主党が廃炉にすると決めていた原発を「安全基準が満たされれば」という条件つきで再稼働に舵を切った首相を抹殺しようとする気持ちにも、同情の余地はあっただろう。

また、私とて勝共連合には不快な思いをさせられたことが何度もあるし、2・26事件の青年将校が1500名の兵を率いて行った義挙を、たった一人でやり遂げた行動力には脱帽すべきところがあり、長年心の友であったデューク東郷の面影も見えはする。

はっきり言って、これまで私の前で「安倍晋三を殺したい」と言った若者は一人や二人ではない。どこまで本気なのか疑わしい限りだったが、彼等の誰よりも山上徹也にはリアルな存在感があった。動機が忌わしい家庭の事情であったせいだろうか。

逆に三島由紀夫や重信房子から痛烈に感じられた「荒唐無稽」なまでの天才のロマンが全く感じられない。それにしても、やはり、今さら(未だに)重信房子に感じている私って、少しおかしいのかなあ、と正解のない問いを自分に向かって発し続けるしかない真夏の夜の私なのである。


◎[参考動画]安倍元首相銃撃事件 SPに取り押さえられた山上徹也容疑者 2022.7 大和西大寺駅前

◎板坂 剛「何故、今さら重信房子なのか?」〈前編〉
     「何故、今さら重信房子なのか?」〈後編〉
※本稿は季節33号(2022年9月11日発売号)掲載の「何故、今さら重信房子なのか?」を再編集した全2回の後編です。

▼板坂 剛(いたさか ごう)

作家。舞踊家。1948年福岡県生まれ、山口県育ち。日本大学芸術学部在学中に全共闘運動に参画。現在はフラメンコ舞踊家、作家、三島由紀夫研究家。鹿砦社より『三島由紀夫と1970年』(2010年、鈴木邦男との共著)、『三島由紀夫と全共闘の時代』(2013年)、『三島由紀夫は、なぜ昭和天皇を殺さなかったのか』(2017年)、『思い出そう! 1968年を!! 山本義隆と秋田明大の今と昔……』(紙の爆弾2018年12月号増刊)等多数。

〈原発なき社会〉を求めて集う 不屈の〈脱原発〉季刊誌 『季節』2022年冬号(NO NUKES voice改題 通巻34号)

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2023年2月号

◆出所前夜の恐れ

20年という不当に長い刑期を終えて、重信房子が出所する日が近づくにつれ、私の精神状態は少しばかり不安定になっていた。

出所後は「謝罪と療養に専念する」なんて弱気なコメントを本人が口にしているという情報を耳にしてしまったからだ。マスコミを通じて大衆向けに流布された公式見解とは思えば、これは警察にフェイントをかけるニセ情報、と解釈すればすんだ類の話だが、どうもそうではなかったようで、支援者たちから伝わって来るのは重信房子が本音で「謝罪と療養」の余生を過そうとしているという……当惑せざるを得ない「噂の真相」だった。

およそファンの心理として、憧れの対象であるアイドルに「謝罪」なんかされたらイメージダウンどころの騒ぎじゃない。アイドルはファンの絶対的な精神の規範であるべきで、その絶対性をアイドル自らが否定する「謝罪」という行為は、ファンに対する裏切りであるとも言えるのだ。

では、重信房子の「謝罪」が精神的に不安定な状態を作り出すことを恐れた私は、重信房子のファンだったのかと自問すればそうだったとしか言いようがない。ただし隠れファンと言うべきだったかもしれない。

重信房子

「謝罪と療養」発言で逆に自分が彼女のファンであったことに気づかされたような気もしている。ファンの心理はファンでない人たちから見れば子供っぽい過剰な美意識に過ぎないだろうが、実はそこから生じるエネルギーが人間の精神力の中では最も純粋で無限の熱量を秘めていることを、私は既に幾度となく感受している。

思い起こせば1969年2月、東大安田講堂での徹底抗戦に呼応して「神田解放区」の市街戦を貫徹した翌月に、さて母校日大のバリケードは解除され流れ者となったわれら日大全共闘は、お茶の水の明治大学の学生会館の1室に身を寄せていた。その頃の神田駿河台近辺の緊迫した空気が、今懐かしく思い出されるのは、あの当時はまだ無名であった重信房子と、明大周辺の路上や『丘』という学生の溜り場になっていた古風な喫茶店で一度や二度は顔を合わせていたに違いないなんて、後づけの創作的回想に浸ってしまえるからか。


◎[参考動画]神田カルチェ・ラタン闘争 1969年

私が重信房子の存在を知ったのは70年代になって以降ではあったが、当時はもう日本にいなかった重信房子とそれ以前の一時期、同一の地域で別個に活動していたという事実が、記憶に新しい意味を添加さする淡い倒錯に導く。その偏向は、やはりファン心理と呼ぶべき現象ではないだろうか。

そんなわけで重信房子が獄中にいる間、私の心の片隅には、もし無事に満期の務めを終えて出所されるならば、願わくば日本赤軍を再結成してもう一度、「世界同時革命」の旗を掲げてほしいと、無責任に勝手な夢想を抱いてしまう欲求が生じては消えていったのだ。

今でこそ、いやずっと以前から「世界同時革命」等「荒唐無稽」な観念の暴走に過ぎないというメディアの押しつけ総括が、1億総保守リベラル化した現代日本の大衆を洗脳してしまったように思えるが、重信房子のアラブでの大活躍が報じられていた頃、日本の若者たちの熱狂的な支持を集めていたロックバンド頭脳警察は『世界革命戦争宣言』『赤軍兵士の歌』『銃をとれ』等々、日本赤軍への共鳴を露骨に表現していた。

『赤軍兵士の歌』はブレヒトの詩をそのまま歌っただけの言わばカヴァー曲だが、あの時期にこんなタイトルの曲を持ち出されたら、どうしても日本赤軍への讃歌としか聞こえなかった。

今、パンタ(頭脳警察のリーダー)がどういう心境であるのかは知らないが、よもやかっての楽曲にこめられた思いを否定するようなコメントを口にするとは考えられない。もちろん20年の獄中闘争を貫徹し、医療刑務所内で数回も癌の手術を受けたという重信房子への評価が変ったとも思えない。かって日本赤軍=重信房子の信奉者であり、自らもロック・バンドを率いてアイドルの立場にいた彼も出獄後の重信房子の「謝罪」を恐れていたのではないかと思われる。

アイドルが「謝罪」したり「反省」したりすることが、かって自分に追従して来た多くのファンを見棄てる「転向」に繋がるのは、ファンとしても辛いところなのだ。
 
◆しかし、重信房子は天才だった!

 

重信房子

私自身は自分が天才であるという自覚を持ったことは一度もないが、天才もしくは天才的人物を認知し、天才が時代の中で果たした役割とその存在意義を解明する慧眼については人後に落ちぬものがあると自負している。

これまで鹿砦社からだけでも、三島由紀夫、アントニオ猪木、X-JAPANのYOSHIKI、あるいは飯島愛、そしてローリング・ストーンズ、ポール・マッカートニー等の評伝やフォト・エッセイ集を出版しまくった。

皆、時代を画期する天才ばかりだった。(約1名を除いて)職業は作家、プロレスラー、ミュージシャン、AV女優と様々だが、単なるエンターテイナーという以上の影響力を大衆の一部に与えることで一定程度の社会的混乱状態を作り出したと言える。

恐らくそれが天才の定義と合致するのだろう。天才とは第一に発想が新鮮であり、第二に時代に対してアンチであり、第三に他人の批判に耳を貸さない強い確信に支えられているというのが私の自論である。

もちろん重信房子はかつてこの天才の定義にぴったりあてはまっていた。そして今は、出所後の重信房子が不安定になっていた私の精神状態を一応安定させてくれたことを報告しておきたい。

刑務所の門前で、重信房子は確かに「謝罪」という言葉を口にした。しかしそこには「50年も前のことではありますが」という前置きがあった。そこから「もう昔のことだから謝罪の必要なんかないんだけども」というニュアンスが伝わって来た。

そして当日は予想通り右翼団体の街宣車が押しかけて、やかましく奏でられる軍歌をバックに「極左テロリスト」「人殺し」等の罵声を浴びせられ、それが逆に重信健在を印象づけたことも否めない。

仮釈放でもないのに「今後も監視し続ける」という警察官僚のコメントも、重信房子御当人を勇気づけたことだろう。少なくとも「長い、長い獄中闘争、本当にお疲れ様でした。しかもそれが、癌との闘いを伴ったのですから、筆舌に尽くせないものだったと拝察します」「出所したばかりの貴方の前には、解決しなければならない問題が山積していることでしょう。まずは、メイさんをはじめ愛する人々の中でゆっくり体を休め、その問題の解決から始めながら、闘いの鋭気を養ってください」(小西隆裕=在ピョンヤン)というような励ましともいたわりとも区別出来ない種のメッセージよりずっと、闘士をかきたてられたはずである。(つづく)


◎日本赤軍・重信房子元最高幹部が出所会見ノーカット(2022年5月28日)

◎板坂 剛「何故、今さら重信房子なのか?」〈前編〉
     「何故、今さら重信房子なのか?」〈後編〉
※本稿は季節33号(2022年9月11日発売号)掲載の「何故、今さら重信房子なのか?」を再編集した全2回の後編です。

▼板坂 剛(いたさか ごう)

作家。舞踊家。1948年福岡県生まれ、山口県育ち。日本大学芸術学部在学中に全共闘運動に参画。現在はフラメンコ舞踊家、作家、三島由紀夫研究家。鹿砦社より『三島由紀夫と1970年』(2010年、鈴木邦男との共著)、『三島由紀夫と全共闘の時代』(2013年)、『三島由紀夫は、なぜ昭和天皇を殺さなかったのか』(2017年)、『思い出そう! 1968年を!! 山本義隆と秋田明大の今と昔……』(紙の爆弾2018年12月号増刊)等多数。

〈原発なき社会〉を求めて集う 不屈の〈脱原発〉季刊誌 『季節』2022年冬号(NO NUKES voice改題 通巻34号)

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2023年2月号

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