《殺人事件秘話06》松戸女子大生殺害 礼儀正しかった凶悪殺人犯の「ズレ」

社会を騒がせた凶悪殺人事件の犯人と実際に会ったり、手紙のやりとりをしてみると、案外弱々しい人物だったり、礼儀正しい人物だったりすることが少なくない。数年前に何度か手紙のやりとりをした松戸女子大生殺害事件の犯人、竪山辰美(事件当時49)もそうだった。

もっとも、竪山の場合、大変礼儀正しい印象の手紙を書いてくる一方で、ある大きな「ズレ」を感じさせる人物でもあった。

◆「凶悪犯と思われても仕方ない」

「私の人物像は凶悪というほかないように描写されても仕方ないと思います。そう思われても仕方ない事件を起こしたのですから」

これは、現在は無期懲役囚となった竪山から4年ほど前に届いた手紙の一節だ。私が「報道などでは、あなたは凶悪というほかない人物であるように描写されているが、本当はどんな人物なのか取材させて欲しい」と手紙を出したところ、当時裁判中だった竪山は返事の手紙にこんな自省的なことを書いてきたのだ。

その手紙には、丁重な取材お断りの言葉が綴られ、私が手紙をやりとりするために送った切手シートが「お返し致します」と同封されていた。正直、この律儀さには感心したが、一方で竪山が凶悪殺人犯であるのもたしかだ。

竪山は2009年10月、千葉県松戸市で千葉大学4年生のA子さん(同21)が暮らすマンションの一室に押し入り、包丁で脅して現金5千円とキャッシュカードを奪ったのち、A子さんを刺殺。さらに証拠隠滅のために部屋に火を放った。

強盗や強姦の前科があった竪山は当時、1カ月半前に服役を終えたばかり。出所後はA子さんを襲う前も強盗や強姦を繰り返していた。千葉地裁の裁判員裁判では2011年6月、「更生の可能性は著しく低い」と断じられて死刑判決を受けたが、それも当然のことだと思われた。

だが2年後、竪山は東京高裁の控訴審で、殺害された被害者が1人であることなどを根拠に無期懲役に減刑され、再び世間を驚かせる。私が竪山に取材依頼の手紙を送ったのはその頃だった。

竪山が裁判中に勾留されていた東京拘置所

◆「殺意については、冤罪という気持ち」

私は竪山が死刑を免れ、安堵しているだろうと思っていたが、手紙には冒頭のような律儀な言葉と共に裁判への不満も綴られていた。

「解剖結果の鑑定そのものが間違いであるという他の医師の鑑定書があるにもかかわらず、それを控訴審は証拠として取り上げず、証人尋問すら却下されたのです。死刑が問われる事案でありながら、あまりにもずさんな裁判であったと思っています」

竪山によると、A子さんに対して殺意はなく、誤って刺して死なせたのが真相という。そのため、控訴審判決で解剖医の鑑定を根拠に殺意を認定されたことが不満らしかった。それにしても、死刑判決に不満を言うならまだしも、死刑を回避した控訴審判決に不満を言うとは、死刑判決を望んでいた被害者遺族が聞いたら激怒するのは間違いないだろう。

その後、インターネット上で配信されていた竪山の裁判に関する記事を送ったら、この時も返事の手紙に丁寧なお礼が綴られていた。一方で、「私にしたら殺意については、冤罪という気持ちです」という恨み言が改めて綴られており、私は複雑な気持ちになった。

私はこれまで様々な凶悪事件の犯人と会ってきたが、その中に「悪人」だとしか思えないような人物はいなかった。しかし、善悪の基準が現代の一般的な日本人とズレているように思える人間はたまにいる。竪山はその代表的な人物の一人だ。

竪山に死刑が宣告された千葉地裁。その死刑判決は控訴審で破棄されたが……

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

《殺人事件秘話05》会津美里町夫婦殺害 裁判員が告発した死刑評議の杜撰

福島県郡山市で暮らす元介護施設職員の60代の女性が、強盗殺人事件の裁判員を務めて急性ストレス障害に陥ったなどとして、国に慰謝料200万円を求める訴訟を福島地裁に起こしたのは2013年5月のこと。この国家賠償請求訴訟は2016年10月に最高裁で女性の敗訴が決まったが、女性がこの訴訟の中で訴えていた重大な事実はほとんど報道されないままだった。

それは、「死刑」という結論を出した裁判員裁判の杜撰な評議の内幕だ。

◆血だらけの首の肉の部分を思い出し……

問題の裁判員裁判は2013年3月、福島地裁郡山支部で行われた。強盗殺人などの罪に問われた被告人の髙橋明彦(48)は、2012年7月に会津美里町の民家に侵入して住人夫婦を殺害し、現金やキャッシュカードを盗んだとして死刑を宣告された。その後、2016年に最高裁で死刑確定している。

国賠訴訟における女性の訴えによると、その裁判員裁判の審理では、血の海に横たわる被害者らの遺体を見せられたり、ナイフで刺された妻が消防署に電話で助けを求める声が再生されたりした。そのせいで女性は急性ストレス障害に陥ったという。

「血だらけの首の肉の部分を思い出し、吐き気がするため、スーパーでは肉売り場を避けて通ります」

「今もフラッシュバックは続き、血の海で家族が首に包丁を突き立てて横たわり死んでいる夢を見ます」

「音楽を聴いていると、音楽の代わりに被害者の断末魔の声がお坊さんの読経と一緒に聞こえてきます」

このように女性が国賠訴訟で訴えた被害は悲惨極まりない。それに加えて女性が訴えていたのが、死刑が選択された裁判員裁判の評議の杜撰な内幕だった。

事件の現場となった会津美里町の集落

◆死刑という結論は最初から決まっていた

「死刑判決を下したことに間違いはなかったのか、反省と後悔と自責の念に押しつぶされそうです」

女性は国賠訴訟に提出した陳述書で、そう訴えた。この陳述書では、たとえば次のような唖然とする話が明かされている。

「評議の多くの時間は、永山基準に沿って行われましたが、永山基準に関する具体的な説明はありませんでした」

永山基準は、最高裁が1983年に永山則夫元死刑囚(1997年に死刑執行。享年48)に対する判決で示した死刑適用の判断基準。動機や犯行態様、殺害被害者数などの9項目を考慮し、やむをえない場合に死刑の選択が許されるとする内容だ。

しかし、普段裁判に関心のない人がそんなことは知らないだろう。本当に永山基準に関する具体的説明もないまま、永山基準に沿って評議がされたのなら、話についていけない裁判員もいたかもしれない。

また、陳述書によると、評議の際に裁判員に渡された用紙に、「1―犯罪の性質」から「9―犯行後の情状」まで永山基準の9項目がプリントされていた。女性はこのうち、「前科」という項目に疑問を抱き、裁判長にこんな質問をしたという。

「被告人には前科がありませんが、削除すべきではないですか」

しかし裁判長は、「前科の有無に関係なく、これだけ残虐なことをしたのだから」と言ったという。女性は陳述書で、この時の気持ちをこう振り返っている。

「裁判長の回答を聞き、この事件の結論は最初から決まっていて、『死刑判決』という軌道の上を裁判員が脱線しないよう誘導しているだけの裁判なのだと確信しました」

それ以降、女性は質問しても無駄と悟り、疑問があっても一切、裁判長に質問しなかったという。

「今考えると、自分の考えは(死刑判決の)どこに反映されたかわからない」

女性は陳述書でそう吐露している。急性ストレス障害と診断した医師からは「殺人現場や遺体に関する記憶は時間が経てば薄れるが、死刑判決を下した自責の念は一生消えない」と告げられたという。

髙橋明彦死刑囚が収容されている仙台拘置所。ここで死刑執行される可能性がある

◆マスメディアは知りながら報道しなかった

さて、この女性が起こした国賠訴訟はテレビや新聞で大きく報道されている。しかし、報道では、女性が被害者の遺体や殺人現場を見せられて急性ストレス障害に陥ったと伝えられた一方で、この国賠訴訟の中で女性が評議の杜撰な内幕をここまで詳細に告発していたことは伝えられてこなかった。それゆえにこの女性の告発を知る人は少ないはずだ。

かくいう私もこの女性の告発を知ったのは、すでに控訴審も終わっていた時期、仙台高裁で訴訟記録を閲覧したことによる。この時に驚いたのは、記録の末尾に綴じられた閲覧の申請書を見ると、テレビや新聞の記者たちがこぞってこの記録を閲覧していたことである。

つまり、テレビや新聞の記者たちは、女性が裁判員裁判で死刑判決が出るまでの杜撰な評議の内幕を告発していることを知りながら、報道を見合わせていたのである。

それはもしかすると、評議の内幕に関しては裁判員に守秘義務があることへの配慮なのかもしれない。しかし、裁判員経験者が評議の内幕を告発した国賠訴訟の記録が裁判所で「閲覧可能」の状態になっているということは、他ならぬ司法当局が裁判員裁判の評議の内幕を公開しているわけである。それを報道して悪いわけがない。

死刑判決が出た裁判員裁判において、評議がこれほど杜撰なものだったということは、むしろ報道しないほうが問題だと私は思う。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

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《殺人事件秘話03》法廷では完全黙秘の殺人者、面会室で見せた「冗舌な素顔」

2009年に始まった裁判員裁判では、すでに30件を超す死刑判決が宣告されている。その中でも異様さが際立っていたのが、2011年に東京地裁であった裁判員裁判で無実を主張しながら完全黙秘した伊能和夫だ。伊能は2013年に東京高裁の控訴審で無期懲役に減刑され、2015年に最高裁で無期懲役が確定したが、控訴審以降も公判では一言も言葉を発さなかった。

しかし、私が裁判中に面会に訪ねたところ、実際の伊能はむしろ冗舌な男だった──。

伊能の裁判が行われた東京高裁・地裁の庁舎

◆無実の主張は本気?

事件の経緯から振り返っておく。

東京・南青山にあるマンションの1室で、住人の飲食店経営者の男性(同74)が首を刃物で切られ、死んでいるのが見つかったのは2009年11月のある日のことだった。そして翌年1月、警視庁が強盗殺人の容疑で検挙したのが当時59歳の伊能だった。伊能は88年に妻(同36)を刺殺し、部屋に放火して娘(同3)も焼死させた罪で懲役20年の刑に服しており、事件の半年前に出所したばかりだった。

伊能はその後、裁判員裁判で無実を主張しながら死刑判決を受け、控訴審で無期懲役に減刑されたが、公判では一言も言葉を発せず、完全黙秘したというのはすでに述べた通りだ。私がそんな伊能の実像を知りたく、収容先の東京拘置所まで最初に面会に訪ねたのは、伊能が最高裁に上告していた2014年3月のことだった。

伊能はその日、紺色のスウェット上下という姿で面会室に現れた。白い頭髪を短く刈った小柄な人物だった。

お互い椅子に腰かけ、アクリル板越しに向かい合っても、伊能は宙を見たまま視線が定まらず、体をプルプルと震わせていた。顔はやせ、歯が何本も欠けており、眉毛も多くが抜け落ちていた。

「パーキンソン病なんです……」と伊能は言った。面会室での伊能はつぶやくような話し方をするため、声は聞き取りづらいが、その口からは言葉が次々に出てきた。

まず、単刀直入に裁判中の事件の犯人なのか否かを質問したところ、伊能は「全部やってないですから……自分は無罪ですから……」と言い切った。そして裁判への不満などを次々に口にした。

「裁判がメチャクチャなんで、最高裁では徹底的にやろうと思ってるんです……」

「自分は裁判で住所不明、無職にされましたが、住所も職業もちゃんとしています……」

「今は午前中に裁判に出すものを色々書いて、昼からは息子への手紙を書いてます……」

私は正直、伊能の無罪主張や裁判批判はピンとこなかった。裁判では、現場マンションの被害者宅室内から伊能の掌紋が見つかったとか、伊能の靴の底から被害者の血液が検出されたとか、有力な有罪証拠がいくつも示されていたからだ。

また、息子に手紙を書いているという話も違和感を覚えた。伊能に息子がいるのは知っていたが、妻と娘を殺害した伊能が息子と良好な関係だとは思いがたかったからだ。

ただ、伊能本人は本気で自分を無実だと思っているようにも感じられた。そこで、まずは手紙で事件の真相を教えてもらえないかと依頼すると、伊能は「1日に1枚か、2枚かなら・・・」と承諾してくれた。これをうけ、私が「では、便せんと封筒を差し入れておきます」と言うと、伊能はこんなことを言ってきたのだった。

「ついでに甘い物を・・・あと、お金も少し・・・今、3千円しかないんで・・・」

正直、金銭の要求に心の中がモヤッとしたが、私は面会を終えると、拘置所1階の売店から伊能に便せん、封筒と共にみかんの缶詰や現金2千円を差し入れた。しかしその後、待てど暮らせど、伊能から届くはずの手紙は届かなかった。

伊能が収容されていた東京拘置所

◆証拠は「全部偽物」

約7カ月後、私は再び伊能の面会に訪ねた。伊能はこの日、刑務官が押す車椅子で面会室に現れた。「体調が悪いんですか?」と聞くと、目は宙を見つめたままだが、「大丈夫。薬、もらってるから」と口元をほころばせた。この日は事件に関する疑問も率直にぶつけたが、伊能はよどみなく答えた。

── 裁判はその後どうですか?

「1審も2審も何もしゃべらんかったから、今は色々書いてます。何もかもが偽物の証拠やから」

── 伊能さんの靴に被害者の血がついていたそうですが?

「あんなのは偽物の証拠ですわ」

── 伊能さんの掌紋が現場で見つかったという話は?

「全部偽物の証拠ですわ」

── 現場近くの防犯カメラには伊能さんの姿が映っていたそうですが……。

「あんなのは全部人間が違うんです。1メートル80センチくらいあったり、1メートル50センチや60センチだったりするんですから」

── 事件直前に伊能さんが包丁を買っていたという話もありますが?

「買うわけない」

つまり伊能によると、有罪証拠は何もかもが捜査当局の捏造だというわけだ。「では、裁判で黙秘した理由は?」と尋ねると、伊能は「裁判では、『無実だから何も出ない。無罪になるだろう』と思ってましたから」と言い切った。本気で自分を無実と思っているのか否かは今も断定しづらいが、罪悪感を覚えていないのは確かだと思えた。

そして面会時間が終了し、私が辞去しようとした時、伊能はこう言ってきた。

「お金と甘い物入れて。お金は多めに、甘い物は何品か」

さらに「大福餅があったら入れて」と付け加えられ、私はまた心の中がモヤッとしたが、ともかく現金1千円と大福餅、チョコパイを差し入れた。ただ、この日以来、伊能の面会に訪ねる意欲を失った。

◆初めて届いた手紙で「金一ぷう」を催促

伊能から初めて手紙が届いたのは約3カ月後、最高裁が控訴審の無期懲役判決を追認する決定をした今年2月のことだ。それには、再審請求をする意向や、息子や親戚たちが自分の味方になってくれているという真偽不明の話が綴られたうえで「案の定」なことが書かれていた。

〈金一ぷうを、ごかんぱしてください。たとえ1万円でも2万円でも、よろしいのですので。〉(原文ママ。以下同じ)

現金の差し入れを求めてきた伊能の手紙 (修正は筆者)

この図々しさにはあきれたが、手紙の末尾には〈親愛なる片岡様、ごかぞくの、お幸せと、ごけんこうを、心から、お祈りいたします。〉〈近々には、かならずや、片岡様との、ご面会が、ととのうよう心から、お待しております〉などと嘘くさいことが恥ずかしげもなく綴られており、苦笑させられた。殺人犯にこんなことを言うのは気が引けるが、愛嬌のある人物ではあった。

この時も現金1000円を同封し、「服役先が決まったら連絡して欲しい」と書いた手紙を伊能に送ったが、当然のごとく現在まで返事は届かない。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

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《殺人事件秘話02》あきる野資産家強盗殺人 元公務員死刑囚の生真面目な手紙

私は過去、社会を騒がせた様々な凶悪事件の犯人と面会や手紙のやりとりをしてきた。そんな中、一度手紙をもらっただけでありながら、生真面目そうな文面が強く印象に残っている男がいる。沖倉和雄という。7年半ほど前に東京都あきる野市で起きた資産家姉弟強盗殺人事件の犯人の1人で、裁判で死刑が確定しながら病気のために世を去った男だ。

沖倉から届いた手紙

◆強盗らしからぬ丁寧な物言い

事件の経緯を振り返っておこう。

沖倉(当時60)があきる野市で暮らす資産家の姉弟、A子さん(当時54)とB男さん(同51)の家に共犯者の男(同64)と一緒に押し入ったのは、2008年4月9日の夜8時ごろだった。沖倉は、1人で在宅していたB男さんにサバイバルナイフを突きつけると、次のように「脅迫」したという。

「強盗です。お金を出してください」

こうした強盗らしからぬ丁寧な物言いは、沖倉が元々、市役所に長く務めた公務員だったことと無縁ではないと思われる。だがしかし、沖倉がこの後、共犯者の男と共に敢行した犯行は、弁明の余地がないほど残酷きわまりないものだった。

まず、共犯者の男がB男さんの両手足を粘着テープで拘束。そして沖倉と共犯者の男が室内を物色していると、ほどなくA子さんが帰宅してくる。そこで沖倉がA子さんにもサバイバルナイフを突きつけ、「私は強盗です。お金を取りに来ました」と脅迫すると、共犯者の男がA子さんの両手足も粘着テープで拘束してしまう。こうして2人の強盗は資産家姉弟から現金35万円とキャッシュカード35点を奪うのだが、凄まじいのはこのあとだ。

2人は、両手足を拘束しているA子さんとB男さんの頭部にポリ袋をかぶせ、首のあたりに粘着テープを巻いて密封。このように姉弟が息のできない状態にして放置し、窒息死させてしまったのだ。その挙げ句、長野まで姉弟の遺体を運び、山の中に埋めた――。

翌2009年に沖倉が東京地裁立川支部の裁判で死刑判決を受けた際、判決はこの犯行態様について、「冷酷非道で残忍なことこの上なく、極めて悪質である」と厳しく指弾した。まことにその通りだ。

◆まじめな公務員はなぜ身を持ち崩したのか……

沖倉と共犯者の男は犯行後、姉弟のキャッシュカードで総額500万円以上の現金を引き出してアシがつき、あえなく逮捕。いち早く罪を認めた共犯者の男は東京地裁立川支部の裁判で「心底からの反省悔悟の態度」が認められて無期懲役判決を受け、そのまま確定したが、一方で沖倉が死刑判決を受けたのは「終始主導的な立場だった」と認定されたためだった。

沖倉はその後、2010年に東京高裁の控訴審でも死刑を支持する控訴棄却の判決を受けるのだが、私が沖倉に取材依頼の手紙を出したのは、最高裁の審理も佳境を迎えていた2013年の秋のことだった。

私が沖倉に関心を抱いたのは、やはりその経歴ゆえだった。

沖倉は大学卒業後、いくつかの職を経て1997年4月に本籍地の秋川市(現・あきる野市)の市役所に採用されると、2004年12月に勧奨退職するまで27年間に渡って勤務した。公務員としての仕事ぶりはまじめだったという。

裁判で明らかになったところでは、そんな男が退職後に開店したスナックの経営に失敗したり、麻雀の負けがかさんだりして約4700万円の借金を抱える羽目に。そして金目当てに許されざる罪を犯すのだが、沖倉はなぜ、そこまで身を持ち崩さねばならなかったのか・・・。

私は、当時東京拘置所に収容されていた沖倉本人にそれを直接聞いてみたいと思ったのだ。

そしてほどなく沖倉本人から返事の手紙が届くのだが、それには次のように綴られていた。

・・・・・・以下、引用・・・・・・

片岡健様

取材についての件ですが、私はまだ現在、話ができる状況ではありません。折角、切手、ハガキまで送ってきていただきましたが、真に申し訳ありません。お許しください。
今後の片岡様のご活躍をお祈り申しあげます。
ご希望に添えないので、切手、ハガキ、返送いたします。ご気分を悪くなさらないでください。

平成25年10月3日  
沖倉和雄  

・・・・・・以上、引用・・・・・・

私は、拘置所や刑務所に収容されている人物に取材を申し込む際には、返信用の切手やハガキを同封することにしている。取材を断る際、その切手やハガキを返送してくる者はたまにいるが、これほど丁寧な言葉で取材を断る者は珍しい。私はこの手紙を読み、沖倉が公務員時代、まじめな仕事ぶりだったというのは本当なのだろうと改めて思ったのだった。

「私はまだ現在、話ができる状況ではありません」というのは、最高裁の審理が佳境を迎えた時期に取材など受けている精神的余裕は無いということだろう。そう理解した私は取材を諦め、沖倉にお礼の手紙を出すと、これを境に沖倉のことは一度忘れてしまったのだった。

沖倉の「終の棲家」となった東京拘置所

◆実は闘病中だった

沖倉は私に手紙をくれた約2カ月半後、最高裁に上告を棄却されて死刑が確定したが、それから7カ月余り経った2014年7月、驚くようなニュースが飛び込んできた。沖倉が脳腫瘍のために獄中死したというのだ。

報道によると、沖倉は前年6月から肺ガンの治療を受けていたというから、私が取材依頼の手紙を出した時はすでにガンで闘病中だったわけだ。そして死の2カ月前には脳腫瘍も見つかっていたそうなので、おそらく最後はガンが全身に転移し、手の施しようがない状態だったのだろう。そのことを知って手紙を読み返すと、私は自分が勘違いしていたのではないかと思うに至った。

「私はまだ現在、話ができる状況ではありません」という沖倉の言葉は、裁判のせいで精神的余裕がないという意味ではなく、「ガンで闘病中のため、話ができる状況ではない」という意味だったのではないか・・・。そんな私の疑問を沖倉本人に確認するすべはない。

沖倉和雄。享年66歳。この生真面目な殺人犯がガンで闘病中、見ず知らずの私にくれた取材お断りの手紙は、彼の遺筆として大切に保管している。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

愚直に直球 タブーなし!『紙の爆弾』11月号!【特集】小池百合子で本当にいいのか
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《殺人事件秘話01》和歌山カレー事件 弁護人に叱責された「疑惑の被害者」

弁護人「そんな何べんも何べんも、おかしい女と一緒におってよ、そのたびに疑いもせんと同じような被害に遭うかい!」

証人「…………」

これは2003年12月17日に大阪高裁で行われた、ある刑事裁判の一場面を証人尋問調書に基づいて再現したものだ。この裁判の被告人は林眞須美、当時42歳。和歌山カレー事件と呼ばれる毒物殺傷事件で殺人罪などに問われ、一貫して無実を訴えながら2002年に第一審・和歌山地裁で死刑判決を受け、大阪高裁に控訴していた。捜査段階にメディアから「毒婦」とか「平成の毒婦」と呼ばれていたのをご記憶の方も多いだろう。

しかし、そんな眞須美の裁判で、弁護人がこのように証人を叱責するような証人尋問を行っていた事実を知る人はほとんどいないはずだ。メディアで報じられていないからである。

この証人は、眞須美にヒ素で殺されかけた「被害者」とされている男だが、刑事裁判の証人尋問で弁護人が被害者という立場の証人を叱責するというのは異例だ。一体なぜ、こんな事態になったのか。

それを説明するには、まず事件の経緯を簡単に振り返っておく必要がある。

眞須美が暮らしていた家は今は空き地に

◆保険金詐欺の疑惑によりカレー事件も犯人と思い込まれたが……

事件発生は1998年7月25日のことだった。和歌山市郊外の園部という町で地元の自治会が開催した夏祭りのカレーに何者かが猛毒のヒ素を混入し、67人が急性ヒ素中毒にり患、うち4人が死亡した。そんな大事件で今も語り草なのが、眞須美と夫の健治に対してメディアが大々的に繰り広げた犯人視報道だ。

当時、眞須美は37歳で、夫の健治は53歳。2人は現場近くの大きな家で4人の子どもたちと一緒に暮らしていたが、働いている様子もないのにゼイタクな暮らしぶりだったため、当初からメディアに注目されていた。そんな2人がカレー事件に関与した疑いを盛んに報じられるようになったのは、事件が起きて1カ月が過ぎたころからだ。きっかけは、夫婦が事件前、知人男性らに保険をかけたうえ、ヒ素を飲ませて負傷させ、保険金詐欺を繰り返していたという疑惑が浮上したことだった。

というのも、カレー事件が起こる以前、林夫婦の家に出入りしていた知人男性らが病院への入院を繰り返しており、その中には入院時、ヒ素中毒に酷似した症状に陥っている者もいた。しかも、この知人男性らには多額の保険がかけられており、入院の際に支払われた保険金の多くは林夫婦のもとに渡っていた。加えて、眞須美は元保険外交員で保険には詳しく、健治も過去に営んでいたシロアリ駆除の仕事でヒ素を使っていた。林夫婦には、疑われるだけの要素が十分すぎるほど揃っていたのである。

やがて捜査が進む中、健治もカレー事件以前、ヒ素中毒とみられる症状で何度も入院していたことが判明する。これに伴い、保険金詐欺の主犯は眞須美であり、眞須美は共犯者である夫の健治にまで保険金目的でヒ素を飲ませていたという疑惑が報道されるようになった。

そんな日々の中、眞須美が自宅を取り囲んだ報道陣に対し、庭からホースで水をかける「事件」も発生。その映像がテレビで連日、繰り返し放送されたことも「林眞須美=毒婦」というイメージを決定づけた。こうして確たる証拠もないまま、眞須美はいつしか和歌山カレー事件の犯人だと全国の人々に思い込まれる存在となったのだ。

ところが――。

いざ裁判が始まってみると、眞須美とカレー事件を結びつける証拠は思いのほか、ぜい弱だった。加えて、眞須美がカレー事件の犯人ではないかと疑われるきっかけになった別件の疑惑、すなわち「夫や知人男性に保険金目的でヒ素を飲ませていた」という疑惑についても信ぴょう性に疑問を投げかけるような事実が次々示されたのだ。

◆「被害者」が被害者であることを否定

たとえば、健治は眞須美の裁判で、「ヒ素は保険金を騙し取るため、自分で飲んでいた。自分と眞須美は保険金詐欺では純粋な共犯関係にあった」と証言した。被害者であるはずの人物が自ら被害者であることを否定したわけだ。

また、眞須美は他の「被害者」の男たちについても「被害者ではなく、一緒に保険金詐欺をしていた共犯者だった」と主張したが、裁判で明らかになった事実関係は眞須美の主張を裏づけていた。他の「被害者」とされる男たちは病院への入院を繰り返しながら、入院中に無断外泊して林家で麻雀に講じたり、飲みに出かけたりと楽しそうな入院生活を送っていたのである。

その1人が、弁護人に叱責された証人の男だった。

ここでは、この男の名は仮にIとしておこう。Iは冒頭の公判に出廷した当時42歳。父や妹夫婦が警察官という警察一家の長男だが、カレー事件が起きた頃は働きもせずに林家に入り浸り、居候状態だった。取り調べや裁判では、「眞須美につくってもらった牛丼やうどんを食べたら、気持ち悪くなって嘔吐し、病院に入院した」などと供述していたが、実際には楽しそうな入院生活を送っていたというのはすでに述べた通りだ。健治によると、「Iは私の真似をして、保険金を騙し取るために自分でヒ素を飲んでいたんです」とのことである。

そんなIに関しては、他にも裁判で様々な怪しげな事実が裁判で明らかになった。たとえば、Iは捜査段階に数カ月に渡り、和歌山県の山間部にある警察官官舎で警察官たちと寝食を共にしながら取り調べを受けていた。さらに眞須美が起訴され、和歌山地裁の第1審で死刑判決を受けるまでの期間は高野山の寺で「僧侶」として働くという不可解な行動をとっていた。要するに警察や検察が眞須美をカレー事件で有罪に追い込むため、本当は保険金詐欺の共犯者であるIを管理下に置き、「被害者」に仕立て上げた疑惑が浮上したわけだ。

検察側の主張によると、Iはカレー事件以前、眞須美に殺意をもってヒ素を4回、睡眠薬を10回、食べ物に混ぜて飲ませられ、その都度、ヒ素中毒に陥ったり、バイクを居眠り運転して事故を起こしていたとされた。結果、裁判では、眞須美にヒ素を1回、睡眠薬を4回飲まされた事実があったとされたが、このこと自体が不自然だと鋭い人なら気づくだろう。

Iがそんなに何度も危険な目に遭いながら、眞須美に提供される食べ物を食べ続けたというのは、常識的にはありえないからだ。

Iが警察官と共に寝食を共にしていた警察官官舎

◆「疑惑の被害者」が弁護人に叱責された事情

Iは、眞須美の裁判で検察の主張に沿う証言を色々しているが、その証言内容も総じて不自然だった。中でも、とりわけ不自然だったのが次のような証言だ。

「私が林家で健治と一緒にいた時、健治は眞須美につくってもらった“くず湯”を食べて苦しみだしたのです。健治はこの時、『また何か入れたな』と言っていました」

こうしたIの証言もあり、裁判では、眞須美は健治に保険金目的でヒ素を飲ませていたと認定されたている。しかし、Iがこのような場面に立ち会っていたにも関わらず、自分自身は眞須美の食べ物を食べ続け、何度も死にかけたというのはいくら何でも変だろう。

弁護人が「疑惑の被害者」を叱責した大阪高裁

そこで弁護人はIを次のように追及している。

弁護人「あなたは当時、健治さんがそんなこと(=また何か入れたな)を言っていたとは、誰にも話していませんね」

「別に話すこともないと思うし」

弁護人「あなたはその後、眞須美さんに対し、警戒心を持たなかったのですか」

「警戒心というところまでは……」

弁護人「ただ、目の前で死ぬような苦しみをしている男が、女房に何か盛られたんじゃないかということを言っていたんでしょう。その女に対し、何か今までとは違う感じを持たなかったの?」

「多少はあったと……」

Iはこのように曖昧な答えを繰り返し、ごまかそうとした。それに弁護人がいら立ち、冒頭のように叱責したわけだ。これに対し、Iが何も言い返せずに沈黙したことは、健治や眞須美が主張するようにIが被害者ではなく、「保険金詐欺の共犯者」だったことを裏づけている。

それでもなお、この事件の裁判官たちは結局、Iが林夫婦に経済的に依拠していたことなどを根拠に「都合のいいように一方的に使われていた面が強い」(1審判決)などと述べ、Iのことを眞須美にヒ素を飲まされていた「被害者」だと認定した。そして眞須美は2009年に最高裁で死刑が確定したのだが、あまりに無理がある裁判だったというほかない。

眞須美は死刑確定後も無実を訴え続け、現在も裁判のやり直し(再審)を求めている。そんな執念が報われたのか、近年は世間でも眞須美について、冤罪の疑いを指摘する声が増えてきた。しかし、それはもっぱらカレー事件に関することで、夫や知人男性らに保険金目的でヒ素を飲ませていた疑惑については、冤罪を疑う声はまだ少ない。

ここで紹介したような裁判の実相がまだほとんど報道されておらず、世間に知られていないためだろう。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

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事件発生9年 冤罪を訴える「大阪個室ビデオ店放火殺人」死刑囚との思い出

日本に現存する120人余りの死刑囚の中には、冤罪を訴えて再審請求している者が少なくない。事件発生からまもなく9年になる大阪個室ビデオ店放火殺人事件で死刑判決を受けた小川和弘(55)もその一人だ。私は小川とは、彼が最高裁に上告中の頃に面会したことがあるだけの関係だが、今もその時のことは忘れがたい。

◆めぼしい有罪証拠は自白だけだった死刑判決

事件が起きたのは2008年10月1日の未明のこと。大阪市の南海なんば駅近くにある雑居ビル1階の個室ビデオ店が燃え、店内にいた客16人が死亡するという大惨事だった。小川(当時46)は火災時、客として同店に滞在。出火直後に白いタンクトップのような下着とトランクスという姿で店内を出入り口に向かって歩きながら、テレビがどうのこうのとぶつぶつ言っている不審な様子が目撃されている。

そこで臨場した警察官が追及したところ、小川は「すみません」「死にたかったんですわ」などと犯行を認めたような発言をしたため、任意同行。取り調べでほどなく個室でキャリーバッグに火をつけて放火したことを自白、殺人などの容疑で逮捕された。のちに裁判では無実を訴えたが、2014年3月、最高裁に上告を棄却され、死刑判決が確定したのだった。


◎[参考動画]個室ビデオ店放火殺人 死刑判決(ichirou sei2015年7月3日公開)

今も小川が収容されている大阪拘置所

私が大阪拘置所で小川と面会したのは今から4年前、2013年の9月初旬だった。当時、小川は最高裁に上告していたが、大阪地裁の第一審で受けた死刑判決がすでに大阪高裁の控訴審でも追認され、土俵際まで追い詰められていた。私はかねてよりこの事件に冤罪の疑いがあるという話を聞いており、時間に余裕ができたこの時期、遅ればせながら小川を取材してみたく思ったのだ。

裁判では、小川は現在の自分を惨めに思い、衝動的に自殺しようと火をつけたと認定されているが、めぼしい有罪証拠は自白だけ。しかも現場の個室ビデオ店では、火災発生時に小川が滞在した18号室より、その近くにある9号室のほうがよく燃えており、火元は9号室だったのではないかという疑いが指摘されていた。

しかし小川との面会では、私は取材者としての未熟さを露呈する結果となった。

◆報道と別人のようだった容貌

まず、恥ずかしながら私は小川が面会室に現れた時、それが小川だとすぐにわからなかった。

というのも、マスコミ報道で見かけた逮捕当初の小川は、顔がやつれて血色が悪く、髪がぼさぼさで、いかにも生命力の弱そうな中年男に見えた。だが、この日の小川は顔がふっくらし、髪もすっきりと短く刈っており、精悍な顔つきの男になっていた。逮捕当初とはあまりに容貌が変わっていたため、私は目の前の小川を別人だと誤認し、何らかの手違いあったのではないかと戸惑ってしまったのだ。

「わかりませんか?」

小川に不機嫌そうに言われ、私は目の前の男が小川なのだとようやく理解した。とっさに「報道の印象とずいぶん違いますね……」と取り繕ったが、小川は逮捕当初よりふっくらした頬を手で撫でながら、「5年も経ちますからね」とだけ言った。事前に送った取材依頼の手紙では、小川に対する裁判の有罪認定に疑問を感じていることを伝えていたのだが、歓迎されていないことがひしひしと伝わってきた。

「いまさら取材に来ても遅いんじゃないですか。まあ、物見遊山で来られたんでしょうけど」

小川は私に対し、そんな厳しい言葉もぶつけてきた。報道からは気弱な人物のような印象を受けていたが、実物の小川はけっこう気が強そうだった。いずれにせよ、私に対する小川の批判的な言葉はまったくその通りなので、私は恐縮しながら「ええ、まあ……」とか、「小川さんがそう思われても仕方ないですが……」などと言うほかなかった。

「今さら記事にして欲しくないんです。今日は遠くから来られたんで、それだけお伝えしようと思って会いましたけど」と小川は言った。冤罪の疑いを抱いているという取材者に対し、「記事にして欲しくない」という被告人。奇異な印象を受ける人もいるかもしれないが、私は小川の気持ちがすぐ察せられた。次のような小川の逮捕当初の報道に目を通していたからだ。

《「戸籍まで売った」リストラ男の“狂気”》
《個室ビデオ店「放火犯」は人生を「マザコン」で狂わせた!》
《金髪、毛皮の46歳が見せていたリストカットの傷》
《46歳リストラ男「超有名企業」の過去と狂気 離婚、ギャンブル、サラ金…底辺をさまよった末に》

以上はすべて逮捕当初の週刊誌の見出しに踊った言葉だが、このように扇情的に書き立てられたら、小川がマスコミ不信に陥ったのも無理はない。裁判が大詰めになった時期になり、どこの馬の骨とも知れないフリーのライターがいきなり「取材させてください」とやって来ても、信じることなどできないだろう。

現場の個室ビデオ店は取り壊され、コインパーキングに
毎日新聞2016年11月29日付記事

◆最高裁に黙殺された鑑定書

ただ、小川は言うべきことは言う人物でもあった。

「はっきり言うて、冤罪ですから。最高裁にも『火元が違う』言うて、弁護士さんが鑑定書出してますからね」

堂々とした物言いだった。そこで私は一応、「じゃあ、状況が変われば、取材を受けてもらえますか?」と粘ってみた。だが、小川は「もう記事になりたくないんで」と素っ気なかった。そして、「もういいですか。帰りますよ」と言い、面会の終了時間を迎える前に刑務官と一緒に面会室を後にしたのだった。

小川が最高裁に上告を棄却されたのは、この約半年後のこと。その判決文は裁判所のホームページにアップされているが、わずか2枚の簡略な内容で、小川の弁護人が逆転無罪のために提出したという鑑定書に一切言及がなかった。一方で判決は小川のことを〈その犯行は、人の命を軽視した極めて悪質で、危険なものである〉と批判し、死刑判決を〈是認せざるをえない〉と言い切っていた。小川はこの判決文をどんな思いで読んだろうか・・・と私は小川の心中に思いをはせたものだった。

そんな最高裁の判決が出てから約3年半が過ぎた。この間、昨年11月には小川が死刑確定後も無実を訴え続け、2014年5月に大阪地裁に再審請求をしていたことが明らかになった。請求は2016年3月に棄却されたが、弁護側は大阪高裁に即時抗告。その後、火災の専門家の大学教授が弁護側の依頼をうけ、個室ビデオ店の20分の1の模型を用いて燃焼実験をしたところ、火災発生時に小川がいた18号室ではなく9号室が出火元だと改めて推定される結果となり、弁護側はその実験結果を新証拠として大阪高裁に提出したという。

私は面会した際、小川の堂々とした冤罪主張に正直信ぴょう性を感じさせられており、この再審請求の行方を気にかけている。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

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千葉刑務所が冤罪取材を妨害 「桶川ストーカー殺人」受刑者ら国賠勝訴の深層

1999年に起きた桶川ストーカー殺人事件で、“首謀者”とされて無期懲役判決を受け、現在は千葉刑務所で服役中の小松武史(51)について、先日、以下(千葉日報2017年9月9日付記事)のような報道があったのをお気づきになられた人はいるだろうか。

千葉日報2017年9月9日付記事

記事の内容をかいつまんで紹介すると、「小松武史とフリーのルポライターが手紙のやりとりを禁じた千葉刑務所の処分は違法だとして国を相手取り、損害賠償などを求めて千葉地裁に起こした訴訟で勝訴した」ということが書かれており、共同通信も同様の記事を配信している。この記事に出てくるフリーのルポライターとは実は私のことで、私は当事者だから当然だが、この訴訟のことを一から十まで知っている。そこで、このほど違法性が認定された千葉刑務所の処分がいかに悪質だったかをここでもう少し詳しく報告しておきたい。

◆裁判で実行犯が証言した小松武史の「無実」

まず、前提として知っておいてもらいたいのは、小松武史には「冤罪」の疑いがあることだ。いきなりそう言われ、「え、この事件に……」と驚いた人もいるだろう。無理もない。この事件は大変有名だが、冤罪の疑いがあることはこれまでほとんど報道されていないからだ。

しかし実際のところ、この事件はむしろ、これまで冤罪の疑いが指摘されてこなかったのが不思議なくらいだ。

というのも、裁判の認定によると、小松武史は経営する風俗店の店長・久保田祥史(52)[懲役18年の判決をうけ、宮城刑務所で服役中]に対し、弟・和人[事件当時27。事件後に死亡]の元交際相手の女性・猪野詩織さん(同21)を殺害するように依頼し、刺殺させたとされている。

しかし、小松武史はこれまで殺害依頼の容疑を一貫して否認している。加えて、あまり知られていないが、取り調べなどでは「小松武史から殺害を依頼された」と供述していた久保田も実は小松武史の裁判中に従来の供述を撤回し、次のように「真相」を証言していたのである。

「本当は小松武史から殺害の依頼はなかったのです。私は、猪野さんに振られて落ち込む小松武史の弟・和人の無念を晴らすため、猪野さんの顔にナイフで傷でもつけてやろうと思ったのですが、現場で猪野さんに近づいた際、誤って背中やみぞおちを刺し、死なせてしまったのです。そして逮捕された後の取り調べでは、普段から快く思っておらず、事件後の態度にも腹が立った小松武史を首謀者に仕立て上げる供述をしたのです」(久保田の証言の要旨)

私はあるきっかけからそんな事件の構図を知り、小松武史や久保田と手紙のやりとりをしながら、この事件の真相を見極めるために取材を進めていた。刑務所は受刑者に対し、一般面会をほとんど認めていないため、私が小松武史や久保田に事実関係を確認するには手紙のやりとりが唯一の手段だった。また、小松武史としても、私に冤罪を訴えるための手段は手紙しかなかった。

そんな状況下、千葉刑務所は私と小松武史の手紙のやりとりを禁じる処分をしたのだが、その理由は言いがかりとしかいいようがないものだった。

私と小松武史の手紙のやりとりを禁じた処分が違法認定された千葉刑務所

◆7回の手紙のやりとり禁止処分はすべて違法と認定

というのも、今回の訴訟では、被告の国は「片岡は小松武史の意向に従い、久保田をはじめとする共犯者3名と手紙をやりとりし、共犯者たちの動向を小松武史に伝達・仲介していた」と指摘し、それゆえに千葉刑務所が私と小松武史の手紙のやりとりを禁じた処分は適法だと主張した。しかし実際のところ、私は実行犯の久保田や現場に同行した2人の共犯者(いずれも受刑者)に手紙を出し、事実関係を取材したうえ、小松武史にも事実確認をしていただけだったのだ。私が行っていたのは複数犯事件の真相を見極めるためには、当然必要な取材である。

そもそも、仮に私や小松武史がやりとりしていた手紙に何か問題点があれば、その部分を黒塗りするなどすればいいだけだ。千葉刑務所が私と小松武史の手紙のやりとり自体を禁止する必要などまったくないのである。

千葉刑務所の処分を違法と認定した千葉地裁

千葉地裁の阪本勝裁判長は今回の判決で、千葉刑務所が小松武史に対して計7回に渡り、私との手紙のやり取りを禁じた処分はすべて違法だと認めたうえ、
(1)千葉刑務所長が小松武史に対して平成4月8日付けでした私への手紙の発信を禁じる処分を取り消すこと、
(2)国が小松武史に慰謝料5000円などを支払うこと、
(3)国が私に慰謝料3万5000円などを支払うこと――の3点を命じる判決を出した。事実関係に即した適切な判決をしてくれたと思う。

国は当然、控訴などすべきではなく、千葉地裁の判断に素直に従うべきだ。また、全国の他の刑務所・拘置所でも同様の違法な処分が行われないように何らかの対処をすべきである。

かくいう私は今回の勝訴判決を無駄にしないように今後、この事件の真相について、さらなる取材を進める予定だ。また取材結果をここで報告させてもらう機会もあるだろう。

▼片岡健(かたおか けん)
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《殺人現場探訪12》加古川7人殺し事件の現場で浮上した「復讐説」への疑問

アテネオリンピックの開催が間近に迫っていた2004年8月、兵庫県加古川市で一夜のうちに隣近所の7人を骨すき包丁や金づちで惨殺する事件を起こした男がいた。名は藤城康孝(当時48)。裁判では2015年に死刑が確定している。確定判決によると、藤城やその家族は長年、隣家の伯母一家らから見下されており、藤城は復讐のために凶行に及んだとされている。

しかし、事件から10年余りを経た2015年9月、現場を訪ねたところ、私は藤城の犯行動機が復讐だったという話には疑問を感じずにはいられなかった。

藤城が使っていたプレハブ小屋

◆今も犯人を恐れる地元の人たち

JR宝殿駅前で借りたレンタル自転車をこぐこと約15分。田園地帯と住宅が混在した田舎町の一角に、藤城康孝(61)がパン作りをしていたというプレハブ小屋はあった。 

その白いプレハブ小屋は入口の周辺に草が生い茂り、長いこと誰も出入りしていないのは一目でわかる状態だ。同じ敷地内には、かつて藤城が生まれ育った家が建っていたが、今は影も形もなく、その代わりに家の残骸らしき多数の石材が積み重ねられていた。

東隣の広々とした敷地には、かつて藤城の伯母一家が住んでいた大きな家があったが、今は跡形もなく消え失せ、多数の太陽光パネルが並べられていた。一方、プレハブ小屋とは細い道路を挟んだ西側にある更地は雑草が伸び放題だ。この更地にもかつては、藤城とは血縁関係のない同姓の家族が住む家が建っていたが、その面影すら窺えなかった。

私がこの日、この地を訪ねた目的は、この数カ月前に裁判が終結して死刑が確定した藤城の実像を知りたいと思ったためだ。だが、案の定というべきか、地元で藤城のことを積極的に語りたがる人はいなかった。

藤城のプレハブ小屋があった北側の家から中年男性が出てきたのを見つけ、取材に来たことを説明して話を聞こうとしたところ、男性はぎょっとした顔になり、「も、もう関わりたくないんでっ。すみませんけど」とすぐさま家に引っ込んでしまった。

藤城の家から少し離れた民家の前にいた初老の女性は、「あの事件の時は、うちの息子の家も壁が焼けて、修理が大変だったんですよ」と淡々と話した。藤城は7人を殺害したのち、自分の家に火を放って燃やしてしまったのだが、この女性の息子の家は藤城の家の近くにあり、被害をうけたのだという。

藤城の死刑が確定したことについて、どう思うかと聞くと、女性はしみじみとこう言った。

「死刑が決まって良かったです。無期になったら、どうしようかと心配でしたから」

判決が無期懲役ならば、いつか仮釈放されることもありえると思い、女性は地元に藤城が戻ってくる可能性を恐れていたのだろう。私は女性の話を聞きながら、2年前、藤城と面会した日のことを思い出していた。

藤城に殺害された伯母一家が暮らしていた家の跡地。多数の太陽光パネルが並んでいる

◆犯人は「いじめ被害」を切々と訴えてきたが……

2013年9月、大阪拘置所の面会室。アクリル板越しに向かい合った藤城はTシャツに短パン、サンダル履きというラフな格好だった。身長は160センチあるかないかというほど小柄で、衣服に包まれていない両の手足は骨と皮しかないほどにやせ細っている。報道の写真では険しい顔つきをしていたが、目の前の藤城は憑き物が落ちたように穏やかな表情で、一夜に7人を惨殺した凶悪犯にはとても見えない人物だった。

そんな藤城は取材のために訪ねた初対面の私に対し、拘置所の職員たちから「いじめ」を受けているのだと切々と訴えてきた。

「弁当を買いますやろ。職員がそれを(小窓から)房に入れる時、上下や横に揺するんで、中身がどっちかに寄ってるねん」

「わしが(房内の)トイレで用便しよったら、房の前の廊下を何度も行ったり来たりして、ジ~と見てくるんや」

「わしは病気の後遺症で言葉がちゃんとしゃべれへんのやけど、『そんなしゃべり方しかできんのか』と言われるねん」

本人が言うように、たしかに藤城は滑舌が悪かった。しかし、それを差し引いても、藤城の話は意味がわかりにくかった。本人は、「弁護士にいじめのことを相談する手紙を書いたら、職員らに逆恨みされて、余計ひどいことになっとるんですわ」と真顔で言うのだが、どんないじめを受けているのかという具体的なイメージが全然湧いてこなかった。

藤城は「もう2年近くもこういう状態が続いてるんや」というのだが、私には藤城が訴える「いじめ被害」は妄想としか思えなかった。実際、藤城は複数の精神鑑定医から妄想性障害に陥っていると判定されているのだが、実際に本人と会ってみると、その妄想性障害は事前に想像していたより重篤であるように思えた。

そして私はこの時、裁判で藤城の犯行動機が「長年、被害者らから自分や家族を見下されていたこと」への恨みだったかのように認定されていることに疑問を抱いたのだ。

◆完全責任能力が認められて死刑になったが……

裁判記録によると、藤城は幼少のころから短気で、些細なことにカッとなって興奮しやすい性格だったという。けいれんや意識障害などが発作的に起きる脳の病気「てんかん」という持病があり、そのために表出性言語障害にも陥っていたことが人格形成にも影響を与えていたという。

そんな藤城は小学校の低学年のころには、自分にいやがらせをした相手を包丁を持って追いかけていたとされる。高校のころには、因縁をつけてきた同級生を刃物で刺したこともあったという。

そんな物騒な男に対し、近所の人たちがあからさまに見下すような態度をとったりするだろうか。こういう藤城のような男に対しては、むしろ周囲の人たちは刺激しないように細心の注意を払うのが普通ではないだろうか。

藤城は伯母の一家から見張られたり、西隣で暮らす同姓の一家の人たちから陰口を言われたと認識していたとされる。しかし、拘置所で面会した際、藤城から非現実的ないじめ被害を訴えられた私には、それらはすべて藤城の妄想だったように思えてならない。

実際、現場を訪ねた際、地元の人たちが藤城のことをいまだに恐れている様子だったこともこの見方を裏づけていると思える。藤城に殺害された被害者たちが藤城にいやがらせをするような怖いもの知らずだったとは到底思い難い。

藤城に会った際、私はこの男が本当に完全責任能力を有しているのかと疑問に思ったが、裁判では結局、完全責任能力があると認められ、死刑になった。しかし、裁判官たちが藤城を死刑にするため、被害者たちから見下されていたという藤城の妄想を事実だと認めてしまったのだとしたら、被害者たちも浮かばれないだろう。

藤城に殺害された西隣の一家の家も今はもうない

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埼玉少女誘拐事件 「私は森の妖精」発言の寺内被告は本当に演技なのか?

埼玉県朝霞市の中学1年生だった少女を誘拐し、2年余り監禁したとして未成年者誘拐や監禁致傷などの罪に問われた千葉大学の学生(休学中)、寺内樺風(かぶ)(25)の判決公判が8月29日、さいたま地裁で開かれたが、寺内が異常な言動を繰り返したため、裁判長の松原里美は判決の宣告を延期した。

寺内被告の裁判が行われているさいたま地裁

このニュースが話題になる中、ネット上には「頭のおかしい演技をして罪を免れようとしている」と決めつけたような意見が飛び交っているが、本当にそうなのだろうか。このニュースを聞き、私が思い出したのは、5年前に広島市で似たような事件を起こした小玉智裕(事件当時20)という男子大学生のことだった――。

◆「植物工場で研究者や労働者にしたい」と女児をさらった男

成城大学の2年生だった小玉は2012年9月、運転免許を取得するために滞在していた広島市で小学6年生の女児をかばんに入れ、タクシーで連れ去ろうとするという前代未聞の事件を起こした。乗ったタクシーの運転手が異常に気づき、通りすがりの社会人野球の選手共に小玉を取り押さえ、警察に通報。女児は保護されたが、この時に負った心の傷は察するに余りある。

小玉はその後、わいせつ目的略取や監禁などの罪で起訴され、懲役3年の刑が確定したが、この事件がわいせつ目的から起こされたという見方に疑問を呈する声は聞こえてこない。しかし、小玉は起訴前の精神鑑定で「広汎性発達障害」だと診断されており、裁判では精神鑑定医が実に興味深い証言をしていたのだ。

その精神鑑定医は岡山県精神科医療センターの医師、来住(きし)由樹。来住は2013年10月、広島地裁で行われた小玉の第一審に証人出廷し、小玉には「広汎性発達障害を基盤とする空想癖」があったと認めたうえで、この空想癖が「犯行に間接的な影響を与えたと考えられる」と証言したのだが、興味深かったのはこの空想壁の内容だ。

来住によると、小玉が事件当時に没入していた空想は2つある。1つ目は、「植物工場を持ちたい」という空想だ。小玉は事件当時、事業計画などの現実的なことを考えず、どんな従業員を持ち、どんな装置で植物工場を運営するかという非現実的なことをひたすら空想していたという。もう1つの空想は、インターネットのチャットの中で「変態紳士」というキャラクターになり切るというもので、「変態紳士」となった小玉は他のチャット参加者と性的な空想のやりとりを繰り返していたという。

このうち、私がより興味深く感じたのは、1つ目の「植物工場を持ちたい」というほうだ。というのも、小玉は公判中、犯行がわいせつ目的だったことを否定し、「植物工場をつくり、女児を研究者や労働者にしようと思った」と主張していた。その主張が精神鑑定でも裏づけられたわけである。

結果的に裁判では、この精神鑑定医の見解が受け入れられず、小玉はわいせつ目的で女児をさらったと認定された。しかし、この裁判を傍聴した私は法廷での小玉の自然体の話しぶりを見る限り、嘘をついているとは思い難かった。小玉は本気で「植物工場」を作り、女児を研究者や労働者として働かせようとしていたとしか思えなかったのだ。

◆ドラマや小説では、頭がおかしいふりをして罪を免れる者もいるが……

さて、ひるがえって、寺内はどうか。寺内は裁判長に職業を聞かれ、「森の妖精」と答えたほか、「私は日本語がわからない」「私はオオタニケンジでございます」「ここはトイレです」などと意味不明な言葉を次々に発したというのだが――。

結論から言うと、私は寺内について、本当にいかれている可能性が高いとみている。私は過去、小玉以外にも精神障害を患った様々な犯罪者を取材してきたが、誰もが本当にいかれており、マモトな思考回路を有しているように思えた者はただの一人もいなかったからだ。

おそらくは罪を免れるために気が狂ったような演技をできるほど「知的な人間」ならば、そもそも精神障害が疑われるような事件など起こさないのではないか。私はそう思うのだ。

ただ、私がこれまで取材した精神障害を患った犯罪者たちは裁判で誰もが完全責任能力を認められ、相応の刑罰を科されている。頭がおかしいふりをすれば、責任能力を否定されて無罪放免になるという話はドラマや小説でたまに見かけるが、現実ではなかなか起こりえないわけである。

それゆえに寺内も完全責任能力を認められ、相応の刑罰を受けるだろうと私は予想しているが、いずれにせよ、この裁判が興味深い事案であることは間違いない。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

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愚直に直球 タブーなし!『紙の爆弾』9月号!さよなら安倍政権【保存版】不祥事まとめ25

《殺人現場探訪11》 本庄保険金殺人「人間養豚場」と「宝の山」に浮上する疑問

1999年の夏から翌2000年にかけてマスコミで大々的に報道され、世間の耳目を集めた本庄保険金殺人事件。2件の保険金殺人と1件の保険金殺人未遂の罪に問われ、2008年に死刑確定した元金融業者の八木茂死刑囚(67)は一貫して無実を訴え、さいたま地裁に再審請求中だ。冤罪の疑いを指摘する声がまださほど多くない事件だが、実は事件現場を訪ねだけでも八木死刑囚に対する死刑判決の有罪認定に疑問を抱かせる事実が散見される――。

◆「人間養豚場」から逃げ出さなかったというストーリーの違和感

確定判決によると、八木死刑囚は95年6月、保険をかけていた元工員の男性(当時45)にトリカブトを摂取させて殺害し、保険金3億円をだまし取った。さらに98年から99年にかけて、やはり保険をかけていた元パチンコ店従業員の男性(同61)と元塗装工の男性(同38)を連日、大量の風邪薬と酒を飲ませ続ける手口で殺害したとされた。八木死刑囚は逮捕以来、一貫して無実を訴えていたが、共犯者とされた愛人女性3人がこれらの容疑をいずれも認めていたことが決め手となり、有罪、死刑とされたのだ。

では、現場で散見される有罪認定に疑問を抱かせる事実とは何か。第一の疑問は、被害者とされる男性たちが暮らしていた家から浮上した。

というのも、この事件が話題になった当初、週刊誌では、八木死刑囚が債務者の男性たちに「人間養豚場」と称するプレハブ建築のような劣悪な住居をあてがい、愛人女性と偽装結婚させて保険に加入させると、まるで真綿を締めるようにアルコール漬けにし、身体を徐々に蝕ませていたように報道されていた。だが、その「人間養豚場」の建物を確認するために現地を訪ねたところ、それが八木死刑囚の愛人女性が営んでいたパブと同じ敷地内にあったのだが、本当に何の変哲もない普通のプレハブ小屋なのだ。

八木死刑囚の裁判でも「被害者」とされる男性たちは生命の危機に瀕するまで八木死刑囚の愛人の営むパブや小料理屋で飲食していたとされるが、彼らは別に「人間養豚場」と呼ばれるプレハブ小屋に閉じ込められていたわけではない。建物を見る限り、男性たちは身の危険を感じればいくらでも逃げれたように思え、裁判で認定されたストーリーはどうもしっくりこないのだ。

「人間養豚場」と呼ばれたプレハブ小屋

◆トリカブト採取現場界隈の人たちの不可解な反応

第二の疑問は、八木死刑囚が凶器のトリカブトを採取した現場とされる長野県・八ヶ岳の美濃戸という場所を訪ねた時に浮上した。共犯者とされる愛人女性の1人によると、八木死刑囚と一緒にトリカブトを採取するために美濃戸を訪ねた際、大量のトリカブトを見つけた八木死刑囚は「俺は美濃戸が気に入った。美濃戸は宝の山だ」などと発言していたそうだ。そしてたしかにこのあたりはトリカブトが多く自生していた。

だが、このあたりで聞き込みをしてみても、八木死刑囚が美濃戸にトリカブトを採取に来たという話を知っている人が誰もいないのだ。八木死刑囚がトリカブトを採取している場面を目撃したという人物が誰もいないとしても、警察が捜査に来ていれば、そういう話は広まりそうなものである。このことには、何とも不可解な思いにさせられた。

ちなみに八木死刑囚が逮捕された当時の報道では、八木死刑囚の「関係各所」からトリカブトが発見されたという報道もあったが、裁判ではデマだったことが明らかになっている。犯行を自白した3人の愛人女性についても、自白内容は過酷な取り調べで植えつけられた「偽りの記憶」であるとする心理学鑑定の結果もあり、八木死刑囚がクロだと示す証拠は意外に乏しい。

再審請求の行く末を注目する価値はあると思う。

八木死刑囚のトリカブトの採取現場とされる美濃戸

▼片岡健(かたおか けん)
1971年、広島市生まれ。早稲田大学商学部卒業後、フリーのライターに。新旧様々な事件の知られざる事実や冤罪、捜査機関の不正を独自取材で発掘している。広島市在住。

愚直に直球 タブーなし!『紙の爆弾』9月号!さよなら安倍政権【保存版】不祥事まとめ25
「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)