格闘群雄伝〈19〉青山隆 ── 生涯現役!? 人情厚いガッツファイター!

◆目白ジムが原点

青山隆(=青山隆浩/1960年10月20日、東京都板橋区出身)は高校2年の時、目白ジム(後の黒崎道場)に入門。1978年12月デビュー。

子供の頃は運動神経が鈍く、体育も苦手だったというが、高校生の頃には「男として強くなりたい」と志し、テレビで藤原敏男や島三雄の活躍を観たことから、目白ジム入門を決めた。

「後々振り返れば、業界一番と言われるほど厳しいジムだった。こんな厳しいジムで耐え切ったことがチャンピオンに上り詰める基盤が出来たのだろう。」と感慨深く思うという。

「青山の試合は好ファイトになるから楽しみ!」と常連客を呼び込む人気を得ていた青山は、フォーリーブスの青山孝に肖ったアイドルタレントのような端正な顔立ちから女性ファンも多く、花束贈呈は女性の列が長く続く現象も起きていた。

タイ遠征した頃、サンドバッグを蹴る青山隆(1983年11月)

◆ムエタイ遠征も図太く生き抜く

キックボクシング界が低迷期で興行も減った1980年代前半でも、黒崎道場はそのネームバリューから比較的マッチメイクには恵まれていた。1983年に道場は実質的閉鎖され、小国ジムに移行されたが、その傾向は変わらず、1983年11月27日、タイでの試合出場を要請された青山隆は、パタヤでパヤオ・プーンタラットがWBC世界ジュニアバンタム級王座挑戦した試合のセミファイナルでのムエタイ試合だった。

結果はKO負けながら、開始からパンチで圧倒。サバ折りや足払いで対戦相手のノックノイのリズムを狂わせ、ギャンブラーは騒ぎ始める中、ヒザ蹴りに捕まって倒されたが、WBCホセ・スライマン会長も食い入って観るほどの大いに盛り上げた試合だった。WBCがムエタイを手掛ける兆しはここかなと勘繰ってしまう当時の激闘である。

青山は試合を終えると、翌日には予定していたムエタイ修行への一人旅。バンコクに戻ると、知人から貰っていた英文で書かれたメモ書きの住所をタクシーの運転手に見せて、片言の英語だけで何とかフェアテックスジムへ辿り着いた。

主に指導してくれたのはトレーナーをしていたムエタイの英雄、アピデ・シッヒラン氏だった。青山が「一番良い先生に出会うことが出来ました!」と言う言葉どおり、お世話になった後々の日本人修行者は多い。

しかし、青山が修行したこの時代は、現在のようなムエタイ留学や外国人受け入れ態勢など無く、住み込みのタイ選手と同じ待遇で雑魚寝だった。

言葉の壁や選手と輪を囲む食事も問題無くこなし、生水をガブガブ飲んでも下痢は一度もしなかったという。

タイ語を覚える気は全くなかった青山は「俺が覚えたのは“バミーミーマイ?”だけだ!」と言うが、屋台で食べたラーメン。これだけは何度も注文したから二度と忘れることはなかったという。後々、日本でタイラーメン店を経営に至る原点はここにあったのかもしれない。

ヤンガー舟木と共に30代半ばまで長い現役生活となった両雄(1983年3月19日)
渡辺明に判定負け、団体分裂で再戦は叶わず(1983年9月10日)

◆ピークを過ぎても闘志衰えず

ライト級ではパワー不足と言い、フェザー級に拘った新人時代から「俺は骨太で体重は落ち難い」という減量苦が付き纏いながらも激戦を展開した青山隆。

1982年11月からの1000万円争奪オープントーナメントでは56kg級を諦め、62kg級で挑むも、初戦で日本系の大ベテラン、千葉昌要(目黒)にあっさり1ラウンドKOで敗れ去った。

1984年11月のメジャー化に向けて動き出した画期的4団体統合の日本キックボクシング連盟では、王座に向けて2連戦となった鹿島龍(目黒)にはいずれも激戦の判定負け。

その打たれても向かっていく凄絶ファイトで不破龍雄(活殺龍)、嵯峨収(ニシカワ)を下し、再び王座挑戦のチャンスを掴んだ1986年9月20日、かつて黒崎道場で、一歳年上ながら後輩でほぼ同期の親友でもあったチャンピオン、葛城昇(=稲葉理/習志野)をわずか1ラウンド37秒、右フックで倒し、念願の日本フェザー級王座奪取に成功(第3代MA日本)。

鹿島龍には2連敗、後々もう一度観たいカードであった(1985年3月16日)
不破龍雄に判定勝ち、我武者羅に向かうファイトが人気を呼んだ(1985年11月22日)
タイトル挑戦前哨戦での山崎道明戦は、なんと3回戦で引分け(1986年7月13日)
花束を贈るファンは多く、華やかなリング上だった青山隆(1986年7月13日)

チャンピオンとして真価が問われる戦いは、当時復興の全日本キックボクシング連盟へ移行する事態はあったが、欧米等の国際戦を経て、1988年3月の初防衛戦で、ついに減量の限界がやってきた。試合の3日前、蒸し風呂に入って意識を失い倒れてしまい、減量は断念。オーバーウェイトで王座は剥奪されたが、挑戦者のスイート金吾(大和)をヒジ打ちで圧勝。更なる上位へ踏み出した(移籍時は第8代全日本フェザー級チャンピオン認定)。

その後のライト級転向も、懸念されたパワー不足と、台頭してきた川谷昇(岩本)や杉田健一(正心館)に敗れるも、引退の兆しは感じさせず地道に這い上がってきた。

1992年1月、全日本ライト級チャンピオンとなっていた川谷昇への挑戦は引分けで二階級制覇は成らず。その後ブランクを作ると、誰もが引退したと思ったが、「まだ辞めないよ。ウェルター級で再起しようかと思って!」と冗談交じりに話す青山だが、キングジムへ移籍しての再起は2年後の1994年6月。時代も更に移り変わり、若い内田康弘(SVG)にヒザ蹴りで1ラウンドKO負け。

更に翌1995年3月に勝山恭次(SVG)に判定負けした試合を最後に、今度は完全にリングから遠ざかったようだった。

しかし40歳を超えた頃、「ジョージ・フォアマンの年齢を超えてやろうか!」と、45歳で世界ヘビー級チャンピオン(WBC・IBF)に返り咲いたジョージ・フォアマンを例えて笑っていたが、いずれ本気で再起する気だったのだろうか。ジムワークを続けていた青山ならやりかねない状況が続いたが、タイで覚えた“バミー”(タイラーメン)を引き金にいろいろな飲食業に挑戦したビジネスも軌道に乗り、さすがに復帰の道は無くなっていた。

王座まで長い道程だったが、わずか37秒であっさり奪取、葛城昇を倒す(1986年9月20日)
初めてのチャンピオンベルトを巻いたリング上の姿(1986年9月20日)

◆兄貴分気質

最終試合後はキングジムで、ミットを持って若い選手の指導に厳しく当たっていた。黒崎道場出身者は皆、存在感にオーラがあり、キツい練習をさせるのが当たり前だった。青山隆もミット蹴りの終了間際では、選手がバテているところで終わらず強い連打を蹴らせ、「最後に強いの一発!」と声を荒げ、バテて強く蹴れないと「弱い! もう一発!!」と延々終わらない鬼コーチぶりを発揮する。しかし厳しさを撥ね返してくる選手は手応えがあるが、昭和の殺伐とした時代を知らない現代っ子には意思疎通が難しくなった様子も伺えるようだった。

そんな厳しい指導をする青山もプライベートでは後輩を連れて飲みに行く等、慕われる存在である。

かつて青山隆の後輩で、後にタイでムエタイジムを運営して殿堂チャンピオンを育て上げた伊達秀騎氏は、アルバイトしてはタイ修行を繰り返して金を使い果たしていた時期のことについて、「青山さんから電話が掛かってきて、『メシ喰ったか?』と聞かれ、『ちょっと今金無くて……』と苦し紛れに応えると、『バカッ、お前、電話しろよっ!』って怒られて、食事に連れて行ってくれる情に厚い兄貴分でした。食えない時期に何度も助けてくれたことは一生忘れられないですね!」と語る。

2012年12月には、肺癌を患って入院していたアピデ・シッヒラン氏への御見舞に約30年ぶりにタイへ渡った青山隆氏。アピデ氏や家族の方々もわざわざタイまで来てくれたことに感激していたという。30年前の恩を忘れない、恩師は親、後輩は弟のように人情が厚い。

青山氏は現役引退したつもりは無いようで、「自分の中では死ぬまで現役です。今でもトレーニングはしています!」と力強く言う。

後輩への指導は、昭和の厳しさではなかなか付いて来ない時代だが、人情厚い指導で令和の青山流チャンピオンを育て上げて貰いたいものである。

画像はおとなしく見えるが、指導はここから厳しくなる青山隆(1996年9月12日)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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嘉納治五郎財団の闇 犠牲者があばく収賄劇 ── 追い詰められた菅義偉の東京オリンピック 横山茂彦

東京オリンピックを前にした、はじめての党首討論(6月9日)の予定稿を準備していたところ、思わぬ訃報、いや悲劇が飛び込んできた。招致にかかる「疑獄事件」の犠牲者が出たのである。

儀式的なものに終った「党首討論」(内容は例によって、議論が噛み合わないままの演説会であった。したがって、内閣不信任案提出もなさそうだ)というテーマを吹き飛ばすほどの衝撃、いや、悲劇的な事件である。オリンピックの強行開催が進む中、そのスポーツの祭典としての成否はともかく、招致にかかる裏舞台を記録しておきたい。

◆ホームから飛び込む

6月7日午前9時20分頃、都営地下鉄浅草線中延駅でJOCの経理部長森谷靖氏(52)がホームから線路に飛び込み、列車にはねられた。森谷氏は病院に搬送されたが、2時間後に死亡が確認されたというものだ。

森谷氏はスーツ姿で、出勤途中だった。遺書は見つかっていないという。JOCの経理部長の自殺である。


◎[参考動画]JOC経理部長 電車はねられ死亡 自殺か……(ANN 2021年6月8日)

◆カネで買ったアフリカ票

東京オリンピック招致に「疑獄」の疑いがあるのは、2019年3月に明らかになっている。すなわち、日本からIOC委員に億単位の贈賄の疑惑が明らかになり、疑惑の中心に立たされた竹田恒和JOC会長が、任期終了とともに委員も辞任することで、疑惑劇はいったん封じられた。疑惑の詳細は、以下のとおりである。

招致委員会がIOCのラミン・ディアク委員の息子パパマッサタ・ディアク氏の関係するシンガポールの会社の口座に、招致決定前後の2013年7月と10月の2回に分けて、合計約2億3000万円を振り込んでいたというものだ。

2019年1月には、フランスの捜査当局が招致の最高責者竹田会長を、招致に絡む汚職にかかわった疑いがあるとして捜査を開始したのである。さらに2020年9月には、上記のシンガポールの会社の口座から、パパマッサタ氏名義の口座や同氏の会社の口座に3700万円が送金されていたことが判明したのである。やはりカネは委員に渡ったのだ。

その資金の出所も判明している。

◆疑惑のダミー団体への「寄付」を菅総理(当時幹事長)が依頼していた?

そのカネの依頼主は、なんと菅総理(当時幹事長)だったのだ。

セガサミーの里見治会長が、菅総理(当時幹事長)から買収工作資金を依頼され、 3~4億円を森会長の財団に振り込んだことが「週刊新潮」(2020年2月20日号)で報じられた。

この記事によると、以下のような依頼が菅官房長官からあったという。

「菅義偉官房長官から話があって、『アフリカ人を買収しなくてはいけない。4億~5億円の工作資金が必要だ。何とか用意してくれないか。これだけのお金が用意できるのは会長しかいない』と頼まれた」

里見会長が「そんな大きな額の裏金を作って渡せるようなご時世じゃないよ」と返答すると、菅官房長官は、こう返したという。

「嘉納治五郎財団というのがある。そこに振り込んでくれれば会長にご迷惑はかからない。この財団はブラックボックスになっているから足はつきません」
さらには念を入れて、

「国税も絶対に大丈夫です」と発言したというのだ。寄付金というかたちで、黒いカネをつくったのである。

この「嘉納治五郎財団」というのは、森喜朗組織委会長(当時)が代表理事・会長を務める組織なのだ。JOCがダミー団体として使っていたのは明らかだ。財団は疑惑をかき消すかのように、昨年末にひっそりと解散している。これも疑惑隠しの手口であろう。

いずれにしても、この菅官房長官からの要望で、里見会長は「俺が3億~4億、知り合いの社長が1億円用意して財団に入れた」とし、「菅長官は、『これでアフリカ票を持ってこられます』と喜んでいたよ」と言うのだ。この記事には裏付けもある。

◆セガサミーも寄付をみとめる

「週刊新潮」の取材に、セガサミー広報部は「当社よりスポーツの発展、振興を目的に一般財団法人嘉納治五郎記念国際スポーツ研究・交流センターへの寄付実績がございます」と、嘉納治五郎財団への寄付の事実を認めたという。

さらに「週刊新潮」(2020年3月5日号)では、嘉納治五郎財団の決算報告書を独自入手し、2012年から13年にかけて2億円も寄付金収入が増えていることが確認されている。関係者は「その2億円は里見会長が寄付したものでしょう」と語ったという。

もはや明らかであろう。菅総理は官房長官として国政の中心にありながら、オリンピック招致を金で買う犯罪に手を染めていたのだ。オリンピック史を汚濁に染める大スキャンダルである。

◆疑惑封じのためにも、強硬開催に突っ走る菅政権

東京オリンピック招致の裏側には、このような大スキャンダルが行なわれていたのだ。その詳細を知る、JOCの経理部長が自殺したのである。

森友事件の財務省近畿財務局の赤木俊夫氏が自殺したことを想起させる、まさにスキャンダルの中の死である。その赤木ファイルは、まもなく裁判に提出されるという。

おそらく今回は出勤途中の、衝動的な死ではないだろうか。森谷靖氏が何を残して死んだのか、疑惑だらけのオリンピックの疑惑を封印するためにも、JOCおよび菅政権は強硬開催に突き進むしかないのであろう。

これで、ようやく国民も得心がいくのではないか。もはや何をおいても、国民の生命の危険をも承知のうえで、オリンピックを開催しなければならない「秘密」が。

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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メインイベンター勝次、再起第2戦も完勝! 堀田春樹

新日本キックボクシング協会の屋台骨を支える勝次、重森陽太、リカルド・ブラボ、高橋亨汰、瀬川琉は前回4月に続き連続出場。

チャンスを逃さなかった勝次の左フックが剣夜にヒット

沖縄拠点の「TENKAICHI」からの刺客を退けた勝次、リカルド・ブラボ、高橋亨汰。

勝次は4月興行に続き2連勝で10月興行も出場予定。

重森陽太は、NJKFのベテラン健太を退けた。

◎MAGNUM.54 / 2021年6月6日(日)後楽園ホール / 17:30~19:40
主催:伊原プロモーション / 認定:新日本キックボクシング協会

◆第9試合 メインイベント 64.0kg契約3回戦

左フック喰らった剣夜が崩れ落ちノックダウン

WKBA世界スーパーライト級チャンピオン.勝次(藤本/1987.3.1生/63.9kg)
     VS
剣夜(前TENKAICHIスーパーライト級C/SHINE沖縄/63.45kg)
勝者:勝次 / TKO 3R 2:24 / 主審:少白竜

勝次が慎重に距離を取ってパンチとローキックで前進。剣夜はスピードは無いが、パンチと蹴りの伸びが良い。

勝次は剣夜のパンチで鼻血を流す様子も有り。3回戦では勝負が付き難い流れも接近したパンチの距離の中、タイミングを逃さず左フックを浴びせると剣夜が崩れ落ちるノックダウン。

ノックアウトのチャンスを迎えた勝次は連打で剣夜をコーナーに追い詰め更に連打する中、右ストレートが強烈にヒットすると剣夜陣営からタオル投入し、レフェリーが受入れ勝次のTKO勝利。

勝次が連打からコーナーに追い詰め、右ストレートをヒット、決定打となった
剣夜は暫く立ち上がれずも、致命傷とはならず無事にリングを下りた

◆第8試合 62.0kg契約3回戦 

WKBA世界ライト級チャンピオン.重森陽太(伊原稲城/1995.6.11生/61.45kg)
     VS
WBCムエタイ日本スーパーライト級1位.健太(E.S.G/1987年6月26日生/61.7kg)
勝者:重森陽太 / 判定3-0
主審:椎名利一
副審:桜井30-28. 仲30-28. 少白竜30-28

健太が独特の圧力で前進。重森はいつもよりは蹴り難くそう。それでも時折、強い前蹴り、ミドルキックで健太を突き放す。落ち着いた試合運びの健太として焦りはないが突破口は開けない。パンチで出る健太を的確な蹴りを多発した重森が上回り判定勝利。

重森陽太のミドルキックが健太にヒット
重森陽太の前蹴りで健太の前進を阻止

◆第7試合 70.0kg契約3回戦 

日本ウェルター級チャンピオン.リカルド・ブラボ(伊原/アルゼンチン/69.85kg)
      VS
TENKAICHIウェルター級3位.杉原新也(ワイルドシーサー前橋/69.55kg)
勝者:リカルド・ブラボ / TKO 1R 2:43 / 主審:宮沢誠

様子見の展開は少なく、リカルドがパワーで押し勝つと、接近戦でパンチから左ヒジで杉原の眉間から流血しドクターチェック再開後、リカルドが連打で杉原をノックダウンさせると、ここで流血が激しくなった杉原が再びドクターチェックを受け、ドクターの勧告を受入れレフェリーストップ。リカルドは4月に続き、2試合続けて1ラウンドTKO勝利となった。

リカルド・ブラボがハイキックで圧力掛けて出る
接近したところでリカルド・ブラボがヒジ打ちヒット

◆第6試合 62.5kg契約3回戦

日本ライト級チャンピオン.髙橋亨汰(伊原/ 62.4kg)
     VS
TENKAICHIスーパーライト級チャンピオン.リュウイチ(無所属/ 62.55→62.5kg)
勝者:髙橋亨汰 / TKO 2R 1:47 / 主審:桜井一秀

様子見の攻防から髙橋のローキックでリュウイチはバランスを崩し気味。更に高橋はローキックからハイキックに繋ぎ、勢いづいて顔面に前蹴りを叩き込み、ロープを背負ったリュウイチに連打でリュウイチがダウン。立ち上がったリュウイチに更に顔面前蹴りでコーナーに吹っ飛ばし、パンチのラッシュでリュウイチが崩れ落ちたところでレフェリーストップとなった。

高橋亨汰の前蹴りがリュウイチを突き飛ばす
高橋亨汰が連打したところでレフェリーストップ

◆第5試合 フェザー級2回戦

中村哲生(伊原/ 56.75kg)vs 新保基英(OGUNI/ 56.5kg)
勝者:新保基英 / KO 2R 1:05 / 3ノックダウン
主審:仲俊光

中村哲生は昨年9月、55歳でデビュー。50歳でデビュー戦を迎えた新保基英がKO勝利。

◆第4試合 58.0kg契約3回戦

瀬川琉(伊原稲城/ 57.8kg)vs TAKAYUKI(=金子貴幸/REV/ 57.55kg)
勝者:瀬川琉 / 判定3-0
主審:少白竜
副審:椎名30-27. 仲30-27. 宮沢30-26

大輔(TRASH)が体調不良で欠場で元NJKFスーパーバンタム級チャンピオンの金子貴幸が代打出場。瀬川琉の左ストレートが効果的にヒットしリズムを作り、ノックダウンも奪って大差判定勝利を掴む。

◆第3試合 フェザー級2回戦

木下竜輔(伊原/ 56.75kg)vs 松山和弘(ReBORN経堂/ 57.1kg)
勝者:松山和弘 / 判定0-2 (19-19. 18-20. 19-20)

◆第2試合 女子キック(ミネルヴァ) 49.0kg契約3回戦(2分制)

オンドラム(伊原/49.7→49.4kg/計量失格ペナルティー有り)
     VS
紗耶香(格闘技スタジオBLOOM/48.7kg)
勝者:紗耶香 / 判定0-3 (28-30. 28-29. 29-30)
オンドラムは前日計量で制限時間ギリギリまで汗を流して頑張った様子も落とし切れず。

◆第1試合 女子ジュニアキック 45.0kg契約2回戦(2分制)

曽我さくら(クロスポイント大泉)vs 堀田優月(闘神塾)
勝者:堀田優月 / 判定0-2 (19-20. 19-20. 19-19)

《取材戦記》

勝次はコーナーに詰めてのパンチ連打で、レフェリーが止める少し前の右ストレートのヒットが凄く手応えがあったという勝次。見かねたセコンドがタオルを投げた流れになるが、先週の喜入衆のような後ろに倒れて後頭部を打つような大事に至らず、剣夜は立ち上がって歩いて無事にリングを下りた。

「新日本キックボクシング協会、選手全員が強くなって大きな団体にしたい。大きな興行に出て行きたい。」とマイクで語った勝次。RIZIN、RIZE、KNOCK OUTなどのイベントが注目される現在、重森陽太は7月18日にKNOCK OUT興行に出場。江幡睦(伊原)は同7月18日、大阪でのRISE 興行に出場。勝次も大きなイベント出場を目指しつつ、新日本キックボクシング協会が再び大きな団体へと、勝次が現役中にどこまで老舗復活へ導けるか。

試合翌日6月7日で古希を迎えた伊原信一代表。そのお祝いの言葉が勝次や江幡睦から贈られました。昭和の名選手が次々と70歳代突入する時代です。我が身もいつかそれを追う。時の流れは早いものです。

老舗の年間興行が3回とは寂しい限りの2021年。次回興行は10月17日(日)後楽園ホールで開催予定。興行タイトル「TITANS NEOS.29」か「MAGNUM.55」どちらかは未定です。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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衝撃ノックアウトで会場を震撼させた「CHALLENGER.2」! 堀田春樹

「覚悟は、あるか?」と謳われた今回の興行テーマ。正に覚悟が無ければ臨めない試合と結末。

今年20歳、大学生のモトヤスックは豪快なTKO勝利。敗れた喜入衆は42歳、リング上で一時は緊急事態も意識は回復。

内田雅之が残り数秒でバックヒジ打ちで興之介の額を激しく砕く。

瀧澤博人が右ハイキックでコンゲンチャイを倒し、すぐには立ち上がれないダメージを与える。

◎challenger2 ~Beyond the limit~
5月29日(土)後楽園ホール / 17:30~20:30
主催:治政館ジム / 認定:ジャパンキックボクシング協会(JKA)

◆第8試合 メインイベント 67.0kg契約 5回戦

JKAウェルター級チャンピオン.モトヤスック(=岡本基康/治政館/19歳/67.0kg)
    VS
喜入衆(元・ルンピニージャパン・ウェルター級C/NEXT LEVEL渋谷/42歳/66.8kg)
勝者:モトヤスック / TKO 1R 1:09 / 主審:少白竜

左フックから右のヒザが喜入衆の額にヒットし、上体を起こされ仰向けに倒れる
暫く意識が戻らなかった喜入衆、緊張の時間が続いた

モトヤスックの強烈な左フックを食らった喜入衆が脚から崩れ落ちるところに、右廻し蹴りが顔面に入ると喜入衆は仰向けに倒れ、ほぼノーカウントのレフェリーストップ。

喜入は痙攣し、鼾をかく危険状態。ジャパンキック協会興行を担当するベテランドクターがすぐ適切な処置に当たるも、周囲は見守るしかない状態が続く。

喜入は数分後に目を開き、ドクターの指示で手足を動かすことは出来る反応は見せた。意識は回復した様子も立ち上がることは出来ない状態で担架に乗せられ青コーナー側控室通路エレベーター前まで運ばれた。

JBC管轄下ではないが、救急搬送出来る素早さは後楽園ホールならではのスピード。バックステージに運ばれた時点で救急隊は到着している様子が伺えた。喜入の額が切れていたが、最後に当たったモトヤスックの右ヒザで切れたものと思われる。

モトヤスックは8月22日に元・WKBA世界スーパーウェルター級チャンピオン、緑川創(RIKIX)と対戦。

◆第7試合 セミファイナル 56.5kg契約 5回戦

WMO・INスーパーバンタム級チャンピオン.馬渡亮太(治政館/56.4kg)
     VS
ポンチャン・ペッノンセン(タイ/56.3kg)
勝者:馬渡亮太 / 判定3-0
主審:椎名利一
副審:仲50-46. 桜井50-46. 少白竜50-46. (三者共第3Rを除く他は10-9)

両者の蹴りパンチの上下打ち分けは馬渡が手数、的確差で上回り、強烈にボディーを付き飛ばす前蹴りは完全に主導権を奪う馬渡のペース。

ポンチャンもベテランのテクニシャンぶりを発揮し、接近すると逆転のヒジ打ちを狙う気を抜けない展開が続いたが、馬渡も強気の応戦でペースを崩さず大差判定勝利を掴む。

馬渡は8月22日にWBCムエタイ日本バンタム級チャンピオンの、大田一航(新興ムエタイ)と対戦。

ハイキックをかわしたポンチャン、馬渡亮太は空を切る
ムエタイテクニシャン馬渡亮太は毎度しなる蹴りを見せる

◆第6試合 59.0kg契約3回戦

WMO・INフェザー級チャンピオン.瀧澤博人(ビクトリー/58.95kg)
     VS
コンゲンチャイ・エスジム(元・ルンピニー系バンタム級3位/タイ/58.75kg)
勝者:瀧澤博人 / TKO 2R 2:35 / 主審:松田利彦

瀧澤は試合後「慎重になってしまいました。」と語り、コンゲンチャイが距離を詰めに出て来て下がり気味ではあったが、手足の長さ活かした距離を測り、ジャブでけん制し、ミドル、ハイキックで入り込むタイミングを見極めた。

第2ラウンドには低めの蹴りを意識させたか、狙い定めた右ハイキック一発で、コンゲンチャイを倒し切った。

瀧澤博人が慎重に攻めていく序盤
瀧澤博人が右ハイキックでコンゲンチャイを仕留める

◆第5試合 53.5kg契約3回戦

石川直樹(前・JKAフライ級C/治政館/53.3kg)
     VS
ジョッキーレック・ZERO(元・タイ東北部スーパーフライ級C/タイ/ 52.5kg)
勝者:ジョッキーレック / 判定0-3
主審:仲俊光
副審:椎名29-30. 松田29-30. 少白竜29-30 (三者共第2Rが9-10)

石川直樹はバンタム級転向の為、ジャパンキック協会フライ級王座を返上。

互いがローキックから前蹴りで距離を測り、パンチに繋ぐ主導権争いから首相撲に持ち込む中、経験値あるジョッキーレックが攻め優り、石川にチャンスを与えない上手さが目立つく。ロープ際に下がり気味でも迎え撃つチャンスを伺うジョッキーレックが戦略勝ち。

ジョッキーレックの小技が上手い接近戦
内田雅之が計4度のノックダウンを奪う圧勝だった

◆第4試合 ライト級3回戦

JKAライト級3位.内田雅之(KICK BOX / 60.95kg)
     VS
同級4位.興之介(治政館 / 61.23kg)
勝者:内田雅之 / TKO 3R 3:00=公式発表(正確には2:56辺り)
主審:桜井一秀

内田雅之のベテランらしさが伺え、第1ラウンドから蹴りパンチでリズムを作り接近する中、右フックでノックダウンを奪う。第2ラウンドにも右ストレートでノックダウンを奪い、第3ラウンド終盤にも内田が右フックをヒットさせて3度目のダウンを奪う。

残り時間は7~8秒の少ない中、内田が右バックヒジ打ちを興之介の額にクリーンヒットさせるとバックリ裂け、陥没したような凹みも見られた。即座にレフェリーが試合をストップし、内田が衝撃TKO勝利を飾った。

最終ラウンド、残り僅かで内田雅之がバックヒジ打ちをヒットさせた
興之介は額がバックリ裂け、陥没の疑いも見れる傷跡

◆第3試合 55.0kg契約3回戦

義由亜JSK(治政館 / 54.8kg)vs 中島大翔(GETOVER / 54.75kg)
勝者:義由亜JSK / 判定3-0
主審:少白竜
副審:仲30-28. 松田30-28. 桜井30-28

◆第2試合 ウェルター級3回戦

山内ユウ(ROCK ON/66.1kg)vs正哉(誠真/65.85kg)
勝者:正哉 / 判定0-3 (27-30. 27-30. 27-30)

◆第1試合 女子ピン級(100LBS) 3回戦(2分制)

藤原乃愛(ROCK ON/44.8kg)
    VS
女子キック(ミネルヴァ)ピン級(100LBS)6位.須藤可純(笹羅/45.0kg)
勝者:藤原乃愛 / 判定3-0 (30-27. 30-27. 30-27)

《取材戦記》

近年は40歳過ぎても現役を続ける選手が増えた現在、身体のメンテナンスも充実し、技術、スタミナ、経験値は豊富でも、一発で倒された場合にはマットに後頭部を打ち付ける場合もあります。高年齢選手がそんな事態に陥ると、より危険と隣り合わせであると感じる試合後でした。正に覚悟を持って挑まなければならないプロの試合であります。

喜入衆は大事には至らず入院は一泊のみ。「ちょっと休んでまた復活します。」という前向きなフェイスブックでの書き込みあり。ホッとした応援団、ジム関係者は多いでしょう。元々から頑丈そうな骨格だったが、慢心せず精密検査を受けながら暫くは安静に過ごして頂きたい。

石川直樹は階級を上げる為の王座返上。王座を獲っても「上位を目指す為」「後進に道を譲る為」といった理由ですぐ王座返上という防衛戦を行わない、チャンピオンシップ制度が成り立たない事態が多いキックボクシング界で、ウェイトアップによる階級変更は仕方無い範疇ではあります。今後はバンタム級でこれまで以上の実績を残して頂きたいものです。

6月13日に予定されていた市原ジム興行は中止となり、開催会場だった市原臨海体育館を含め、「千葉県域の会場が10月まで、コロナ禍による影響で使用中止が多いんです。」という小泉猛代表のお話でした。

ジャパンキックボクシング協会次回興行はコロナ禍により、すでに3月28日新宿フェース興行が中止されており、今回は5月9日からの延期でしたが、政府の要請を鑑みながら、次回は8月22日に後楽園ホールで「CHALLENGER.3」が開催。リング上での発表どおり、モトヤスックvs緑川創。馬渡亮太vs大田一航の2カードが予定されています。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』7月号

キックボクサー、現役引退後の肥満度は? 堀田春樹

◆太った?!

久々に出会った知り合いの元・キックボクサーを一瞬で、「あっ、太った!」と声に出さぬも本能が意識してしまう。ふっくらと丸みを帯びる体型。

現役時代は過酷な練習と減量に耐え、引退後はそこから解放され、しっかり脂肪が付いてしまう、かつてのボクサー、キックボクサーを時折見かけます。

しかし、ボクサーたちが“引退すると太る”という固定観念を持つと誤解を招くことにも繋がるようである。太る比率は決して高くはなく、現役時代とさほど変わらない体型を保つ元・選手も多い。

丸みを帯びた高谷秀幸氏(格闘群雄伝No.14)だが、今もトレーニングは欠かさない(2008.2.10)

◆現役時代からの流れ

現在、ナインパックジムを経営する北沢勝会長(格闘群雄伝No.12)は、「私の現役時代はだらしなかったので、試合が終わったら暴飲暴食。10キロくらい減量して試合してたので良い結果が残せなかったと思います!」と謙遜するが、暴飲暴食も試合毎の10キロ減量もざらに存在する。

北沢勝氏は続けて「今は走ってミットを蹴って、何とか体型を保っています。『痩せるよ!筋肉質になるよ!』と謳っている店主がデブではマズいですから!」と自覚を持った経営者の几帳面な努力。

その北沢勝氏が現役時代、鴇稔之先輩(格闘群雄伝No.1)から、「減量出来ない奴はハートが弱い!」と教えられたと言う。食べたい気持ちを抑えられないと、あらゆる事態で我慢ができない、試合でも諦めが早いようである。

私(堀田)の知り合いで昭和のあるキックボクサーの現役中、減量の無い時期に一緒に食事をさせて頂いた時、かなりの量のビールと食べ放題の焼き肉を、元取らなきゃ損といった狙いでガツガツ食べていました。

そのフェザー級(-57.15kg)の選手が飲んで食って70キロもあっても、傍から見て心配しても仕方無く、試合が決まって減量の時期に入ればそこはプロ。しっかりリミットまで落としましたが、この選手がこのまま引退したら体型はどうなるのだろうと思ったことはありました。

フライ級(-50.8kg)だった選手でも引退後、70キロ超えはよく聞く話で、現在50歳超えのこの選手は、「現役の20歳当時、通常時60キロ平均で、ジムワーク後57~58キロ、試合までにはフライ級リミットまで落とし、引退後、仕事はガテン系で重い物を持って運ぶことが多いので筋肉も落ちず体型は維持していたものの、歳と共に徐々に体重は増えていきました。その後、結婚してジムにもほとんど行かなくなり、飲酒の量も増え、中年オヤジに向かって真っしぐらという感じで今は72~73キロくらいです!」

またこちらも50歳超えの元・ウェルター級選手の話では、「私は引退後も太るタイプではないと勝手に思っていましたが、日常生活と事務的仕事上の移動以外は全く動いていないので、現役時代の通常体重より20kgほど太って現在90キロです。腹も出てきましたし、たまにキックのトレーニングしようと動いても、あまりの動きの悪さにショックが大きいのでやらなくなりました。頭では現役の頃の動きを覚えていても身体はついてきません。」といった生活習慣の乱れは多くの例があることでしょう。

会長として、トレーナーでもある伊原信一氏、筋肉質体型は変わらない(2019.12.8)
元木浩二さん(格闘群雄伝No.4)はあまり変わらない。佐藤正男さん(格闘群雄伝No.6)はドラえもん体型へ(2017.11.18)

◆改善に向けて

引退して過酷なトレーニングと減量から解放されても、食べる量を減らしていない場合は、消費カロリー低下で体重や体脂肪が増加し太り易くなります。

またそれまで過酷に使っていた心肺機能から、一般人並みに運動しない状態が続くと、心臓がリズムを乱す為、適度な運動は続けた方がいいという説もありますが、ジョギングなどの有酸素運動より、ウェイトトレーニングで筋肉を鍛えるような運動を中心に行なうと、食事による糖質量オーバーを予防することもでき、痩せ易く太り難い身体に近づくようです。

プロボクサーとして“浪速のロッキー”として名を馳せた赤井英和さんが5年ほど前、現役時代の身体が嘘のように腹が出てしまっていた姿から、トレーニングジムRIZAPのCMで、2ヶ月で7キロの減量に成功し、現役時代に返った筋肉美を披露し話題となりました。

体重は77キロから、高校時代と同じという70キロまで減少。ウェストは100センチから84.5センチ、体脂肪率は20.8%から13.2%となる変化を遂げ、現役時代の肉体を取り戻したと言われます。後々には謳い文句に反し、少々リバウンドはしているようですが、CMの為だけでない自身の魅力を保つ意志があれば体型は維持できるでしょう。

現役としても階級上げることなく体型を維持した立嶋篤史(2018.11.25)

勝手な理想論ながら、ふっくらした元・ボクサー、キックボクサーには挑戦して貰いたいところで、“夢よ、もう一度”ではないが、現役復帰は難しくても、筋肉美を取り戻すことは難しくはないでしょう。

◆気を付けたい生活習慣病

キックボクサーや一般人に関わらず、運動不足と太ることで気を付けて貰いたいのは糖尿病や高血圧などの生活習慣病。

“キックの鬼”沢村忠さんは引退後も体型は変わらない人生を送り、富山勝治さんもスラっとした俳優さんのような佇まいの現在。

今も現役中と思われる立嶋篤史選手は、2018年11月の試合で、新人時代と変わらないフェザー級リミット(-57.15kg)で戦っていましたが、長年現役を続け、減量に耐えていても階級を上げることなく30年前と体型が全く変わらない。もし、30歳ぐらいで現役を退いていたとしても、太るタイプではないでしょう。

酒と煙草が止められない元・チャンピオンもいますが、昭和の群雄割拠の時代を生きた名選手の方々は生活習慣病に気を付け、歴史を語り継ぐ生き証人として健康で長生きして頂きたいものです。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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あまり重要視されないリング幅の駆け引き 堀田春樹

◆珍しいリングのクレーム

先日の5月8日、アメリカでの世界スーパーミドル級3団体王座統一戦で、サウル・カネロ・アルバレス(メキシコ)と対戦したビリー・ジョー・サンダース(イギリス)がリングのサイズについて「20フィート四方では狭すぎる。22フィートに変えないとリングに上がらない。」と注文を付けたそうである。そこで交渉の末、22フィート(6.7m)で同意となったという発表(1フィート=30.48cm)。

過去にリングのサイズに於いて両陣営間で問題になったことはあまり聞かないが、古くは1976年(昭和51年)10月27日に金沢で、辻本章次(ヨネクラ)がホセ・クエバスに挑戦したWBA世界ウェルター級タイトルマッチで、「クエバス陣営が、リングが広過ぎるのではないかとアピールした」という実況の中でのアナウンスがありました。

ラジャダムナンスタジアム。見た目には分からないが後楽園ホールのリングより広い(2017年5月25日)

◆ルール上は……

これまでの日本でのプロボクシング世界戦で、後楽園ホールのような常設リングとはいかないその他の会場、地方などの場合、試合当日までに使用リングを確認できる機会はほとんど無いと考えられ、セットされるリングの広さ、そのキャンバスの軟らかさ、滑り具合、ロープの張り具合は会場都合もあり、試合当日になって組み立てられたリングを見るしかない場合が多いでしょう。

その当日になって「このリングは使用許可できない」といったことが過去にあるだろうか。

JBCルールではリングの各サイズを明確な数値で表していますが、最近は数値に加え「条件を満たさない場合であっても、安全管理上支障が無いものと判断したときには、試合を許可することができる。」と緩やかな表現を加えています。守れていない項目があっても極力不備を修正し、開催可能にできるこの規定の方が妥当でしょう。

リングの広さの規定はその正方形の骨格と水平とするキャンバス全体を含む、ロープの内側とロープの外側の規定があり、ロープの内側(選手が戦うエリア)の一辺が18フィート(5.48m)以上24フィート(7.31m)以内、ロープの外側((呼称は諸説あり=プラットホーム/セコンドエリア)は2フィートと一定の基準は決められています(リングの高さ、4本の各ロープの高さも規定にあり)。

両国国技館などにはトラック輸送で現地組み立てリング(規定内)が持ち込まれる。(2003年10月4日)

◆錯覚ではなかった!

プロボクシングのような厳格なルール下ではないが、1983年9月18日、山梨県甲府市石和小松パブリックホールでのキックボクシング興行では、昭和のキックボクシング全盛期に千葉ジムがトラックに積んで全国に巡業したと言われるリングでした。

ゲストで紹介された稲毛忠治氏(元・東洋ウェルター級チャンピオン)がコーナーに待機した際、私(堀田)がカメラを構えると、フレームの収まり方で距離が近いことに気付き、「あっ、このリング、後楽園ホールより狭いな」と感じ、数あるリングは広さが多様であることを察しました。

後楽園ホールでは二等分された骨格リング(解体、輸送不可)。(2003年7月26日)
ロープと鉄柱を繋ぐ重要なフック(締め付け金具)(2003年7月26日)

またその後、後楽園ホールのリングで、ウォーキングするラウンドガールを撮ろうと乗り出したらロープを避けきれず、いつもよりロープまで遠いと感じたことがありました。それを当時、仕事をさせて頂いていた出版社の社長に告げると、「後楽園ホールのリングのサイズは変わらないはずだよ」と言われましたが、鉄骨で組み立てられたリングの骨格とそのキャンバス面積は不動でも、ロープの内側が狭いロープと広いロープの興行があることに気付き、内側が広ければ、当然反比例して外側が狭い。

ここに選手がロープの外側まで足を滑らすと、リングの縁で脛を抉ったり、下手すればリング下まで転落の恐れがある。その危険性は想像するだけで痛そう。これは1995年(平成7年)頃までかと思いますが、その後はロープ外側は広めに一定化された様子。これでロープの内側が最少で18フィートと言われる現在の後楽園ホールのギリギリのサイズであろうと考えられます。

後楽園ホールのリング。見た目には分からないが、ラジャダムナンスタジアムより狭い(2019年5月12日)

◆リングもいろいろあり

タイのラジャダムナンスタジアムの以前のリングは、ロープ内側の正確な数値は分かりませんが、後楽園ホールのリングより広く、ロープ外側も幅が広く、4フィート(1.22m)ぐらいあったかと思います。これで選手が縺れてロープ外に落ちてもリング下まで落ちる可能性は低くて安全だが、カメラマンは這うように、うつ伏せに寝っ転がって動き難い体勢で撮影していました。4年前に訪れたラジャダムナンスタジアムのリングは改装され、ロープ外側はだいたい2フィートぐらいで昔ほど広くはなかったので、やや背伸びしつつ地面に足を付いたまま撮ることができました。

昔のラジャダムナンスタジアム。ロープ外側が広い(2000年頃)
現在のラジャダムナンスタジアムのリング。ロープ外側は2フィートぐらい(2017年5月25日)

タイの地方に行くと極端に狭いリングや、未だ三本ロープ、キャンバスがフワフワに軟らかいといった公式には認められないようなリングもあり、それが大雑把なタイらしいという声も聞かれます。

また、身体の小さい軽量級が後楽園ホールのような小さいサイズ、ヘビー級ボクサーはより大きいサイズのリングを利用できるよう規定サイズに幅があるという説もあります。

WOWOWエキサイトマッチ等を観ると、周囲の設備や人の並び具合で「このリングは広いぞ、狭いぞ、」を感じることも出来、海外での重量級の試合でも狭いリングが使われていることも見受けられます。リング自体だけで戦略は分かりませんが、アウトボクサーは逃げ回るのに広い方がよく、打ち合うファイターは狭い方がいいという狙いもあり、試合は選手の実力以外での駆け引きがあるもので、こんな目線での観戦も面白いものです。

戦うエリアは広く、ロープを支える鉄柱を少なく観衆から見易くしたのが丸くはない四角いリング。

勝手な妄想ながら……以前は総合格闘技系の修斗で六角形リングがあったように、世代が大きく変わるほどの将来的には、ボクシングでもより戦い易く、鉄柱は増えるが新たな形のリングの登場も起これば面白いかもしれません。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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格闘群雄伝〈18〉寺田ヒロミ──記憶に残るキックボクサー、その生き様!

◆90年代のパフォーマー

寺田ヒロミ(寺田大実=ひろみ/1970年、千葉県市原市出身)は、元・日本ウェルター級チャンピオン。

ノンタチャイジムでふざけっこのスパーリング(1991.7)

デビュー当時から明るく目立ち、ちょっと生意気な言動と、飛び蹴りやバックハンドブローをハッタリでも思いっきり打ち込み、なりふり構わない戦法はファンの心を掴んだ。

現在では珍しくはないパフォーマンスは、自分が楽しめば周りも引き込まれるムードメーカー的存在だった。

デビュー当時は市原一門のウシオ太田ジム所属だったが、後に市原ジムへ統合されている(同じく市原一門のシンセイジム会長だった小泉猛氏が市原ジム2代目会長となる)。

◆地道に駆け上がった王座への道

寺田ヒロミは何度かタイ遠征を行なっているが、私(堀田)がタイに滞在した時期と二度ほど重なる時期があった。

1990年7月9日、バンコクの北、パトゥムタニーにあるランシットスタジアムで、寺田ヒロミが試合すると渡タイしていた市原一門勢から聞いて観に行くと、相手を挑発しながら蹴りでリズムを掴んで判定勝利。

翌1991年7月には、ノンタブリーにあるノンタチャイジムでの修行中だった。この時期、互いのアパートが近い、同じ集落で過ごす機会があった。

しかし寺田は韓国での試合が決まり、太田会長から帰国命令が出されて早々の帰国。一緒に過ごしたのは2週間程だった。

[写真左]タイ・ランシットスタジアムで勝利(1990.7.9)[写真右]ムエタイで勝利のポーズ(1990.7.9)

後に届いた手紙には、その韓国の試合はKO勝ち。9月15日の後楽園ホールでは日本ライト級チャンピオン、飛鳥信也(目黒/格闘群雄伝No.2)と引分けたという実力はチャンピオンクラスと印象付けたと思ったら11月15日、飛鳥信也の後輩、新妻聡にはKO負けし、1年後の再戦もKO負け。1992年5月23日にはランキングを上げてきたワセダ大久保(山木)に判定負け。

[写真左]勝てばコーナーに上って喜びのアピール(1992.3.21)[写真右]ワセダ大久保にはパワーで押されて判定負け(1992.5.23)
新妻聡には2度KO負け、何気に役者揃った4名(1992.11.13)

次々とライバルに追い抜かれても、1995年5月6日には市原臨海体育館で細川英男(花澤)を倒し、ようやく日本ウェルター級王座奪取(第8代MA日本)。しかし半年後の11月5日、同会場でハンマー松井(花澤)に倒されあっさり王座陥落。それでもハンマー松井とは控室で明るく健闘を称え合い、また当たり前のように雪辱を目指す前向き思考だった。

[写真左]チャンピオンベルトを巻いた勇姿(1995.11.5)[写真右]ハンマー松井に敗れ、初防衛成らず(1995.11.5)

◆思わぬ病

1996年12月、名古屋での興行で寺田ヒロミは、まだ6戦目の武田幸三(治政館)と対戦。試合前、リング上でウォーミングアップする武田を見て、「なかなか好戦的でいい選手みたいですけど、倒しますよ!」と自信満々の話っぷりから無様なKO負けは想定外ではないが、その2週間後のクリスマスイブには想定外の入院となった。試合や練習の負傷ではなく体調不良で受けた検診の結果、重い病に罹っていたという。そんな知らせを聞いたのは年が明けて3ヶ月ほど経ったある日のこと、夜9時過ぎに私に電話が掛かってきた。

「堀田さん、俺、リンパ癌なんですよ。もう全身に転移しているらしいんですよ!」

いつもの明るい声で高笑いも起こる話っぷりだった。

「嘘だろ、元気そうじゃないか。何かエッチな店行って病気貰ったか?」

咄嗟にいつものふざけた、そんな返ししかできなかった。本当に癌ならそれはそれで仕方無い。

その電話をしている場所は病院のロビーだという。病室はもう消灯で、携帯電話も禁止なので、眠れないからロビーに居るのだという。

「ロビーって誰も居ない真っ暗じゃないの?」と言うと、そのとおりの処方箋薬局も外来受付けにも誰も居ないソファーだったようだ。

クリスマスイブの入院では順調な回復で一旦退院し、キックボクシングの試合会場で、知人の試合のセコンドに付いたらしい。

「抗癌剤で髪の毛は抜けていたけど、元から短髪だからあまり目立たなかったかな。何人かには、どうしたの?って言われたけど!」というが、娑婆の空気を吸ったのは、ほんの1週間ほどでまた調子が悪くなって病院へ戻ったという。

更に10分程、病気とは違う話をしたかと思うが、「今度、見舞いに行くわ!」と言って電話を切った。終始明るい会話だったが、その直後、また気晴らしに誰かに電話していたのだろうか。それとも誰も居ない暗闇のロビーで心細く泣いていたのだろうか。そんなことを想像するといたたまれなかった。

[写真左]ケイゾー松葉には2勝。大きなアクションで目立つ存在だった(1996.2.9)[写真右]武田幸三に敗れ、これが最後の試合となる。やり残したことは多かった(1996.12.1)

当時、寺田ヒロミと親しく接していたのがキックボクサーでプロカメラマンの早田寛氏だった。その後、早田氏から「なるべく早く見舞いに行ってやってくださいね!」と言われて、そう長くないことを察した。

仕事の合間を縫って1997年12月4日の午後に初めて見舞いに行くことが出来た。内房線八幡宿駅には昔、何度も来た旧・市原ジムの最寄り駅である。駅からバスに乗っていく千葉労災病院。寺田ヒロミの病室は個室で一般病棟とは違う階にあった。彼は静かにベッドに寝ていた。目はしっかり開いているが眠っているような不動の静かさ。声は小さく、身体は痩せて頭髪はスポーツ刈りの形は残っているが、想像した程度には少なくなっていた。

上体を起こし、「体重は今50.8kgですよ!」とフライ級リミットまで落ちてしまったことを言い、私が来て元気を見せようとしたか、シチューを一皿しっかり食べると、お母さんが「普段は一口しか食べようとしないんですよ!」と言ってちょっと安心したような表情。

彼の試合の写真なども持って行ったが、見ていても次第に見え難くなるようでまた横になった。点滴を換えた後も、ナースコールで「すみません、痛み止め打ってください!」と要請。「モルヒネですからね!」と言うが、癌患者に使われる鎮痛剤で、一般的麻薬悪影響は無い。

タイで過ごした時は、貶す冗談言えば、デッカイ声で「酷っでえー!」と返していた大声も、新聞紙面に載った、ヒジ打ち貰ったシーンには「ひでえ!」と微笑む程度に笑うが、声は細々と次の笑いに繋がらない。

寺田ヒロミは抗癌剤投与の毎日ではあったが、「飯はツラくてもちゃんと食って頑張ってね。また来るよ!」としか言ってやれなかった。吐き気で食える訳もない飯を食えと言うのも、「ふざけるな!」と言いたくなる酷な励ましだっただろう。
試合で負けても毎度元気だったが、こんな弱々しい寺田ヒロミを見たのは初めてだった。

「これが最後かな!」八幡宿駅のホームでそんなことを考えてしまった。

入院中はキックボクシング関係者を含め、大勢が見舞いに訪れ、2度KO勝利した新妻聡氏も「また俺とやるんだぞ、待ってるからな、頑張れよ!」と激を飛ばして来たという。

◆もう一度呑みたい奴

翌、1998年3月8日に永眠された寺田ヒロミ。4月19日の市原ジム興行は恒例の市原臨海体育館で開催。当時の現役チャンピオンと協会役員、市原ジム小泉猛会長、寺田ヒロミのチャンピオンベルト姿の遺影を持った御両親がリングに上がり、追悼テンカウントゴングで送られた。

寺田ヒロミが病に罹らず現役を続けていたら、日本ウェルター級戦線には生き残っていただろう。武田幸三が飛躍し、ライバルも増えた時代で、再びチャンピオンには至らなかったかもしれないが、ランカーらを手古摺らせる面白い存在にはなっていただろう。

戦績は正確ではないかもしれないが、28戦13勝(5KO)13敗2分。勝っても負けても話題を振りまいた。そんな1990年代の寺田ヒロミを偲び、

「あいつの分も頑張らねば!」と思っているキックボクサーは多く居たことと思う。引退してもその精神を持っている市原ジム勢をはじめとする関係者とファンは、寺田ヒロミのプロ意識を持った活躍を語り伝えてやって欲しい。私も当時のフィルムを引っ張り出して、寺田との触れ合いの記憶が蘇えった。格闘群雄伝を書く度に、その対象者を深く掘り起こすが、寺田ヒロミだけはインタビューすることが出来ない切なさが残る。もう一度会って?み交わしたい奴であった。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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快進撃の阪神タイガース!伝説の日本一から35年余、ド派手な活躍をもう一度!

阪神が絶好調です。オープン戦でも12球団で一番の成績(9勝2敗2引き分け)でしたが、勢いは止まりません。4月終了時で勝ち越し(貯金)が10を超えるなんて、「ホンマに阪神か!」とファンながらも心配になるほどです。

いやー待ちましたよ。何をかって? もちろん阪神の快進撃です。阪神はこれまでリーグ優勝を9回、日本シリーズでは1回優勝をしています。一番近いところでは、2005年岡田監督時代の優勝が最後ですね。2003年にも星野監督での優勝がありました。ファンとしたらもちろん優勝は嬉しいですし、勝ってくれれば評論家じゃないですから、勝負の内容なんかどうでもいい、という気持ちはあるにはあります。

でも、これや!これ!というイメージが年配の阪神ファンにはあるんですよね。いわずと知れた、1985年の優勝です。伝説となった、バース、掛布、岡田が巨人槇原投手からバックスクリーンに放り込んだ3連発! あの年ですよ。監督は吉田義男で、とにかく打撃が凄かったですね。高校野球にたとえれば絶対にバントしない、徳島の池田高校みたい(たとえが古いですね)に打ちまくって勝ったイメージが、強く残っています。8点取られても10点取るという感じでしょうか。1番の真弓が34本、バースが54本、掛布が40本、岡田は35本。これだけでも強烈さはめちゃくちゃですが、佐野、平田も13本ホームランを打っていたんですよ。74勝49敗7分でぶっちぎりの優勝。日本一になったのもこの勢いがあれば当然だったといえるでしょう。

私あの伝説の三連発の日、甲子園の3塁側外野席に座っていました。まだ10代でした。甲子園が建て替えられる前で、ツタが球場の壁に生い茂っていて、外野席には椅子なんかありませんでした。石の階段です。座席指定もなければ、入場券の販売数もかなりいいかげんだったと思います。

観客数も報道席から外野の通路が見えていれば5万、通路にも人が座っていて見えなければ5万5千とか5万6千。「こまかいことはどうでもええわ」がまだ通用する時代だったんですね。日本禁煙学会が、団地の家の中で喫煙している人の喫煙を問題にして高額訴訟を起こさせる、なんてヤボなことはない時代ですから、喫煙所なんかありません。タバコは吸ったら足元で踏み消すのが当然で、誰も文句を言う人なんかいませんでした。


◎[参考動画]阪神タイガース バックスクリーン3連発(1985年4月17日)


◎[参考動画]阪神 優勝の瞬間 (1985年10月16日)

あれから35年余り。ようやくド派手な活躍をもう一回みることができる喜び! これは1985年に初めて阪神ファンで報われた世代にしかわからない感情でしょうか。2003年も2005年もうれしかったですよ。でもねやっぱり1985年の印象が緒いんですよね。

阪神ここ何年も投手は安定していたんです。問題は得点力、とくにホームランの数と守備の下手さが問題でした。今シーズンもまだ守備では課題がありそうですが、昨シーズンまでに比べれば、目立つエラーは減っています。

そして「やる、やる言うてたけども、ここまでやるとはなぁ」がぴったりなのが、佐藤輝明選手ですね。甲子園から近い仁川学院出身ですから、地元中の地元出身。もう10本もホームランを打ち、4番にまで起用される新人としては記憶にないほどの大活躍です。

振舞の落ち着き、ホームランを打っても「当たり前やんか」と言わんばかりのあの態度。ベンチに迎えられたあと、最後にテレビカメラに向かって「Z」を指で描くのは、どういう意味だっけ…。とにかく体が柔らかくてフルスイングできるあのファームには期待が膨らむばかりです。


◎[参考動画]阪神 佐藤輝明 8号 逆転満塁ホームラン(2021年5月2日)

中野拓夢選手も社会人経由ですが大活躍の新人です。こちらは長距離打者ではなくアベレージヒッターですが、守備が固く打率は3割7分台(いずれも数字は5月9日現在)。東北福祉大出身ですから矢野監督の後輩ですね。そして伊藤将司投手は3勝0負で防御率1.55。5月8日の対DeNA戦では先発メンバーに新人が3人起用されました。


◎[参考動画]伊藤将司 奪三振集+オマケで打撃有り(2021年5月5日)

これだけでも、昨年までにはなかったことです。近本は安定して新人の年から活躍を続けてくれていますが、去年から4番に座った大山の地位を佐藤はもう奪いかけていますし、新人投手が負けなしで3連勝? これ阪神でええの? びっくりが続きすぎて逆に心配になったりしてしまうのも、ファン心理です。

甲子園やほかの球場に、いつも通りお客さんが入ることができていたら、いまごろ関西の気分や景気は、無茶苦茶よくなっていたでしょう。これが返す返す残念です。最近は甲子園の観客もおとなしくなって、巨人ファンとの外野席での小競り合いなんかなくなりましたが、1985年はまだ巨人一極支配の時代でしたから、甲子園と言えども、外野の3塁側は修羅場にでくわすことも結構ありましたね。

そんな時代の夢を蘇らせてくれる、阪神の快進撃が今年は本当に楽しめそうです。

▼佐野 宇(さの・さかい) http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=34

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NKB王座目指す「闘う餃子屋」笹谷淳が渡部翔太に惜敗! 堀田春樹

緊急事態宣言期間の4月25日から5月11日までの後楽園ホールで開催予定だったイベントは延期、開催地を変更といった苦労が続く模様。

僅差ながらアウェイで勝利を掴んだ渡部翔太

期間をギリギリ逃れた24日の「NKB 2021 必勝シリーズ 2nd」はTwitCasting生放送を交えて無事終了。

今回の興行は40歳以上が4名出場、30歳代が8名出場と、高年齢が目立った。最年少は16歳の2名。

メインイベンター笹谷淳はNKBウェルター級3位にランクし、まだ王座を目指す超遅咲きの46歳。後半失速は王座へ課題の残る判定負け。

◎NKB 2021 必勝シリーズ 2nd / 4月24日(土)後楽園ホール 17:30~19:47
主催:日本キックボクシング連盟 / 認定:NKB実行委員会

◆第10試合 メインイベント ウェルター級 5回戦

NKBウェルター級3位.笹谷淳(TEAM COMRADE/1975.3.17東京都出身/66.65kg)
    VS
WMC 日本スーパーライト級1位.渡部翔太(チームドラゴン/1987.1.3神奈川県出身/66.6kg)
勝者:渡部翔太 / 判定0-2 / 主審:前田仁
副審:仲48-49. 鈴木49-49. 川上48-49

笹谷淳は組んでも離れても落ち着いた試合運びでの蹴り、パンチ攻勢はベテランらしさがある展開。第4ラウンドに渡部翔太の左ストレートを貰って、ラッシュかける渡部に押され、第5ラウンドもやや渡部の勢いが優った。

前半の劣勢を巻き返した渡部が僅差の判定勝利。笹谷は1点差での負けは悔しい結果となったが、失速した4ラウンド以降が失点となった。

笹谷淳のローキックは今時流行りのカーフキックとなる狙いで渡部翔太にヒット
渡部翔太の飛びヒザ蹴りが笹谷淳にプレッシャーを与える

◆第9試合 セミファイナル ウェルター級3回戦

CAZ JANJIRA (JANJIRA/1987.9.2東京都出身/66.25kg)
    VS
どん冷え貴哉(Maynish /1988.10.15滋賀県出身/66.35kg)
引分け 三者三様 / 主審:佐藤友章
副審:川上29-30. 鈴木29-29. 前田30-29

ローキックからパンチ主体に蹴りで多彩に攻める両者。第3ラウンドにはCAZのヒジ打ちで貴哉の左瞼から出血。ややパンチの交錯が増えたが、攻勢を印象付ける決め手に欠ける展開で三者三様の引分けに終わる。

貴哉のローキックがCAZにヒット
CAZのミドルキックが貴哉にヒット、一進一退の攻防は続く
逃げ切ったNIIZMAX、顔を腫らしながらも勝利

◆第8試合 ライト級3回戦

NKBライト級3位.野村怜央(TEAM KOK/1990.3.27東京都出身/61.05kg)
    VS
NIIZMAX !(クロスポイント吉祥寺/1980.9.20東京都出身/60.75kg)

勝者:NIIZMAX ! / 判定0-3 / 主審:仲俊光
副審:前田27-28. 鈴木27-29. 佐藤26-29

初回、NIIZMAXの後ろ蹴りがタイミングずらして野村の顎にヒットすると軽いヒットながらノックダウン。

野村は立ち上がるも足が縺れ効いていた様子。

更に組み合う展開からNIIZMAXが右ストレートで2度目のダウンを奪った。

変則気味なNIIZMAXに対し、正攻法の野村は第2ラウンド以降、倒される可能性もありながら打ち合いに持ち込むと、NIIZMAXがやや失速しつつもバックハンドブロー、飛び後ろ蹴りなど連発する流れ。

ダメージ回復した野村は飛び蹴りも見せるが巻き返しならず。

打たれたNIIZMAXは顔を腫らしながらも逃げ切り判定勝利。

NIIZMAXのタイミングずらした後ろ蹴りをうっかり貰ってしまった野村怜央
回復した野村怜央と変則気味に出るNIIZMAXが互いの飛び技がシンクロする

◆第7試合 ミドル級3回戦

郷野聡寛(元・全日本ヘビー級C/GRABAKA/1974.10.7東京都出身/72.25kg)
    VS
臼井壮輔(元・日本ウェルター級3位/修実館/1987.6.15千葉県出身/69.75kg)
勝者:臼井壮輔 / TKO 1R 2:09 / カウント中のレフェリーストップ
主審:川上伸

臼井壮輔は過去、ロッキー壮大というリングネームで治政館所属の日本ウェルター級3位だった選手。

臼井壮輔が右ストレートでノックダウンを奪うと、次はローキック3発ほどで郷野聡寛がヨロヨロした足取りで倒れ込む。効いたというより元から負傷の影響があったか、カウント中にレフェリーが止め、そのまま担架で運ばれた。

臼井壮介のローキックが数発ヒット、テーピングが痛々しい郷野聡寛はやがて倒れ込む
TKO勝利した臼井壮介、ロッキー壮大の頃と変わらぬ風貌

◆第6試合 ライト級3回戦

パントリー杉並(杉並/1992.9.26生/61.1kg)
    VS
福島勇史(ケーアクティブ/1985.12.5生/61.15kg)
勝者:福島勇史 / TKO 3R 0:33 / カウント中のレフェリーストップ
主審:鈴木義和

ローキックからパンチ主体の攻防が次第に激しくなる中、第2ラウンドに福島の右ストレートでパントリー杉並が2度ノックダウン。逆転の打ち合いに臨むパントリー杉並だが、福島も下がらず打ち合う激しい攻防。

第3ラウンドには福島をコーナーに追い詰めたところで左フックで仕留められたパントリー杉並。毎度見応えあるが、距離を詰めて行くのは危険な賭けであった。

◆第5試合 フライ級3回戦

杉山空(HEAT/2005.1.19生49.95kg)
     VS
吏亜夢(ZERO/2004.12.3生/50.8kg)
勝者:吏亜夢 / 判定1-2 / 主審:川上伸
副審:前田28-30. 鈴木30-29. 仲28-30

160cm対178cmのカメラのフレームに収め難い身長差。初回のやや様子見の後、組み合っても離れても吏亜夢が長身を活かして攻め続けた展開。杉山空は、すばしっこい動きを見せたが吏亜夢の動きを止められず。

◆第4試合 73.0kg契約3回戦

渡部貴大(渡邉/1992.11.12生/72.45kg)
     VS
国本泰幸(ムエタイファイタークラブ/1996.3.18生/72.15kg)
引分け1-0 / 主審:佐藤友章
副審:前田30-29. 鈴木29-29. 川上30-30

◆第3試合 59.0kg契約3回戦

岡田克之(D-BLAZE/1985.7.8生/58.95kg)
    VS
ウエタ(リバティー/2001.10.9生/58.0kg)
勝者:岡田克之 / TKO 2R 2:11 / ノーカウントのレフェリーストップ
仲俊光

◆第2試合 フェザー級3回戦

志村龍一(拳心館/1995.11.17生/56.5kg)
    VS
龍ケ崎正人(SHIROI DREAM BOX/1969.4.15生/56.85kg)
勝者:龍ケ崎正人 / TKO 1R 1:33 / ノーカウントのレフェリーストップ
主審:鈴木義和

龍ケ崎正人、52歳のプロ第2戦目はTKOで倒して初白星。

◆第1試合 68.0kg契約3回戦

勇斗(KUNISNIPE/1995.3.9生/67.55kg)
     VS
RYOTA(リバティー/1986.8.12生/67.95kg)
勝者:勇斗 / TKO 1R 1:15 / カウント中のレフェリーストップ
主審:前田仁

※54.0kg契約3回戦、矢吹翔太vs七海貴哉戦は、七海貴哉の体調不良で棄権により中止。

《取材戦記》

興行1週間前にYouTubeで展望を語る放送もされた現在のNKB認定興行で、マッチメーカー竹村哲氏が、「審判団には絶対、ホームタウンデジションとなる採点はしないでくれと伝えてある!」といった意味の言葉がありました。ここがNKBの進化した部分。

メインイベントの笹谷淳vs渡部翔太戦はその適切な裁定が行使された結果となり、第4ラウンド以降で渡部翔太が巻き返し、採点は僅差の逆転となりました。

昔はよく起こった、負けていた展開で勝者コールを受けるホームタウンデジション。そんな結末にはならなかった安堵もありつつ、引分けでもおかしくはない展開でもありました。

そのホームリングのメインイベンター笹谷淳は2002年11月のデビュー当時は士道館橋本道場所属で、2007年6月にMA日本ウェルター級王座決定戦に出場し敗戦も、2010年10月にはJ-NETWORKウェルター級王座獲得。

2019年4月に日本キックボクシング連盟(NKB傘下)に加盟後、2020年2月8日、 NKBウェルター級トーナメント準決勝3回戦で同級2位.稲葉裕哉(大塚)に三者三様引分け、延長戦1-2で敗者扱い。王座決定戦に進めずも、再びNKBウェルター級王座を目指している現在46歳の笹谷淳は、YouTubeでの竹村哲氏のイジリも影響し、応援したくなるキャラクターでもある。本業では「笹やん餃子本舗」を経営。「闘う餃子屋」をキャッチフレーズにインターネット販売をメインとした経営のようです。

アンダーカードでは野村怜央、パントリー杉並といった常連が、それぞれアグレッシブに打ち合い、敗れてもNKBの主力メンバーらしさがある存在感を見せました。

次回の日本キックボクシング連盟興行「必勝シリーズvol.3・ZーⅢCarnival」は5月2日、大阪府豊中市の176boxで開催予定(緊急事態宣言による影響は、4月27日時点で未定)。「必勝シリーズvol.4」は6月9日(土)後楽園ホールに於いて開催予定となります。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』5月号

新日本キックボクシング協会、半年ぶりの興行! 勝次の復活! 堀田春樹

沢村忠氏追悼テンカウントゴングの後、黙祷を捧げる選手と役員関係者
接近すれば重森陽太の、えぐるようなヒザ蹴りがヒット

勝次は昨年の3試合は全て判定負けから復活のKO勝利。喜びの表情も久しぶり。

もう一人のメインイベンター重森陽太は、沖縄の格闘技イベント「TENKAICHI」を主戦場とするリュウイチを蹴りの威力で優って判定勝利し、エース格の存在感を示した。

新日本キックボクシング協会主力メンバーのリカルド・ブラボと高橋亨汰は、ニュージャパンキックボクシング連盟からの刺客を退けた。

3月26日に亡くなられた沢村忠さんを偲び、伊原信一代表は役員の他、“仲間”と言える他団体の関係者をリングに招き、追悼テンカウントゴングが打ち鳴らされた後、黙祷が捧げられました。

◎TITANS NEOS.28 / 4月11日(日)後楽園ホール 18:00~20:47
主催:TITANS事務局 / 認定:新日本キックボクシング協会

◆第11試合 64.0㎏契約 3回戦

WKBA世界スーパーライト級チャンピオン.勝次(藤本/1987.3.1兵庫県出身/64.0kg)
     vs
J-NETWORKライト級チャンピオン.小磯哲史(TESSAI/1974.8.8神奈川県出身/63.7kg)
勝者:勝次 / KO 2R 1:46 / 3ノックダウン
主審:椎名利一

小磯がパンチを振り回してくる距離では勝次に危なさを感じるが、相手をしっかり見て深追いしない勝次の的確差で優る攻めで主導権を握り、第1ラウンド終盤には右ストレートでノックダウンを奪う。第2ラウンドも勝次の勢い付いた蹴りからパンチの猛攻で3度のノックダウンを奪ってKO勝利。

打ち合いは怖いが、勝次は強気で攻める
蹴りからパンチで小磯哲史を圧倒した勝次

◆第10試合 62.5㎏契約 3回戦

WKBA世界ライト級チャンピオン.重森陽太(伊原稲城/1995年6月11日生/62.2kg)
     vs
TENKAICHIスーパーライト級チャンピオン.リュウイチ(無所属/62.35kg)
勝者:重森陽太 / 判定3-0
主審:桜井一秀
副審:椎名30-29. 岡田30-28. 少白竜30-27

重森の鋭く重い蹴りは健在。脇腹に何度もヒットさせ、主導権を奪った流れが続く。

第2ラウンドにはローキックをヒットし始めた重森。第3ラウンドには距離が縮まり、ヒザ蹴りのヒットが増す圧倒が続き、パンチ得意のリュウイチに隙を与えず、内容的には圧倒の判定勝利。

重森陽太の鋭い蹴りが何度もリュウイチにヒットした

◆第9試合 70.0㎏契約 3回戦

日本ウェルター級チャンピオン.リカルド・ブラボ(伊原/アルゼンチン出身/69.8kg)
     vs
イエティ達朗(前・WBC・M日本スーパーウェルター級C/キング/69.7kg)
勝者:リカルド・ブラボ / TKO 1R 2:45 / カウント中のレフェリーストップ
主審:宮沢誠

両者はローキックでけん制からパンチの距離で強打を打ちこむ展開から次第にリカルド・ブラボのヒットが優り、ラウンド終盤にコーナーに詰めたリカルド・ブラボがパンチ連打でイエティ達朗を仕留めた。立ち上がろうとするイエティ達朗はロープを掴みながら立ち上がろうとするもレフェリーがカウント中にストップをかけた。

慎重な出だしもリカルド・ブラボが自信を持ったパンチでイエティに攻め勝った

◆第8試合 61.0kg契約 3回戦

日本ライト級チャンピオン.髙橋亨汰(伊原/60.85kg)
     vs
WBCムエタイ日本スーパーフェザー級チャンピオン.山浦俊一(新興ムエタイ/60.9kg)
勝者:高橋亨汰 / 判定3-0
主審:少白竜
副審:岡田30-28. 宮沢30-28. 桜井30-29

蹴りでの様子見から序盤は勢いあった山浦だったが、髙橋が自分の距離を掴むと、ミドルキックが攻勢を保っていく。山浦のパンチは高橋の距離に殺され巻き返しに至らず、高橋亨汰が判定勝利。

高橋亨汰は距離感を掴んで的確なヒットを続けて勝利を導く

◆第7試合 バンタム級 3回戦

泰史(元・日本フライ級C/伊原/53.5kg)
     vs
松岡宏宜(前・KOSスーパーフライ級C/闘神塾/53.1kg)
勝者:泰史 / 判定2-0
主審:椎名利一
副審:岡田29-29. 宮沢30-29. 少白竜29-28

好戦的に出る松岡に対抗する泰史。最後まで打ち合いに応じた泰史がややヒットで優ったか、採点はドローに近い僅差の判定勝利。

松岡宏宜との接戦を制した泰史、蹴りは効果的だった
久々のホームリングで勝利者ポーズの重森陽太

◆第6試合 58.0kg契約 3回戦

瀬川琉(伊原稲城/57.8kg)vs 水本伸(矢場町BASE/57.65kg)
勝者:瀬川琉 / 判定3-0
主審:桜井一秀
副審:椎名30-28. 宮沢29-28. 少白竜29-28

◆第5試合 女子 52.0㎏契約 3回戦(2分制)

アリス(伊原/50.85kg)vs 武内紗耶香(BLOOM/51.05kg)
勝者:武内紗耶香 / 判定0-2
主審:岡田敦子
副審:椎名29-29. 桜井28-30. 少白竜28-30
「激レアさんを連れてきた」にも出演したファッションモデルでもあるアリスは、悔しい判定負け。

◆第4試合 フェザー級 3回戦

平塚一郎(トーエル/57.0kg)vs 仁琉丸(富山ウルブズスクワット/56.3kg)
勝者:平塚一郎 / TKO 2R 0:25 / 主審:宮沢誠
ヒジ打ちによる額のカット、ドクターの勧告を受入れレフェリーストップ

◆第3試合 フェザー級 3回戦

木下竜輔(伊原/56.05kg)vs 湯本和真(トイカツ/56.6kg)
勝者:木下竜輔 / 判定3-0 (29-26. 29-26. 29-26)

◆第2試合 女子 スーパーバンタム級 3回戦(2分制)

七美(真樹・オキナワ/55.1kg)vs 田中美宇(TESSSI/55.3kg)
勝者:七美 / 判定3-0 (30-28. 30-27. 30-27)

ICレコーダー向けたらファイティングポーズに構えられてカメラに切り替え、笑顔のポーズは勝次

◆第1試合 女子 50.0㎏契約 3回戦(2分制)

オンドラム(伊原/49.85kg)vs 栞夏(トーエル/49.7kg)
勝者:オンドラム / 判定3-0 (30-27. 30-27. 30-28)

《取材戦記》

1年4ヶ月ぶりの勝利を得た勝次。藤本ジム閉鎖後、伊原ジムを練習の場として1年を超え、練習の変化にようやく身体が慣れてきたというその成果が出た結果。小磯は46歳のベテランだが、勝次が勝って当たり前の結果も、まずは復活勝利を褒め称えたいところ、これからの展望は未定だが、過去に敗れた相手への雪辱戦や他団体チャンピオン、レベル高い相手とのWKBA防衛戦が想定される険しい戦いが続く。真空飛びヒザ蹴りの継承者を名乗る者として、まだまだ飛ばなければならない。

重森陽太は離れてのミドルキック、接近してのヒザ蹴りが鋭く攻勢を保ったが、KOに結び付けるには5回戦で戦わせたい展開だった。判定でもKOでも長丁場の攻防を見たいものである。

先月亡くなられた沢村忠氏の追悼テンカウントゴングと黙祷に登壇された方々。沢村さんの活躍があったからこそ現在の我々が居る。そんな想いを感じるリング上の面々の表情でした。昭和52年10月10日に沢村さんの引退式が行われたこの後楽園ホール。当時と今回、どちらにも来場されていた人は居るだろうか、とはマニアックな想像だが、伊原さんだけかなとは思うところです。

次回の新日本キックボクシング協会興行は、6月6日(日)後楽園ホールに於いて「MAGNUM.53」が開催されます。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』5月号