《現地報告》猛暑の中で始まった呪われた東京オリンピック・パラリンピック[前編]スポーツを賛美しつつ、戒厳令的交通規制を見学してきた 横山茂彦

いよいよ、呪われた東京オリンピック・パラリンピックが始まった。大会の問題点はともかく、まずはアスリートたちの健闘を祈りたい。スポーツ(肉体をつかって戦うこと)が食事とともに人間の生存の本源であり、ルールのもとに競い合う文化であることに疑いはないからだ。

◆「日本を代表する」プロデューサーやクリエーターの多くが、差別者で構成されていたという事実

とはいえ、コロナ禍での開催そのものをめぐる賛否両論、当初のコンパクト予算の大幅オーバー、大会ロゴの盗作問題、メイン競技場の設計やり直し。フランス当局の捜査によって明らかになるも、いまだ闇のままのアフリカ票買収──。いや、カネだけではない。

会長の女性差別発言による退任、女性侮蔑ディレクターの辞任、開会式作曲担当者の障がい者イジメ自賛事件による相次ぐ辞任、閉開会式のショーディレクターの歴史認識による解任と、これほどトラブルに見舞われた大会もめずらしい。

会長は老齢で価値観が古いから仕方がないとか、もう20年も前の発言だからとか、当時の価値観では許されたとかは、何の免罪符にもならない。弾劾されているのは、かれらの過去の言動が、現在の「公的な立場」に耐えないという理由なのだ。逆に言えば、辞任と解任で、かれらは責任を取ったことになる。

いずれにしても、大会の裏方スタッフの大半。すなわち現代の「日本を代表する」プロデューサーやクリエーターの多くが、オリンピック憲章にもとる差別者で構成されていたことになる。

その弁明も「言葉選びの誤り」などというものであれば、何ら差別・排外主義の歴史認識を捉え返したものではない。わが国の近現代史教育の脆弱さが課題として浮上したかたちになった。

もはや東京の街に、祝祭の空気はどこにもない。心ある人々は日本社会が差別排外主義に毒され、あるいは責任の所在が明白ではないがゆえに止められない大規模プロジェクトに、茫然としているばかりだ。

◆失敗した五輪の実態を刻印する

だが、いかに悲惨なオリンピックになろうと、ジャーナリズムが手をこまねいているわけにはいかないのである。あまりの酷さを感情的に嘆いてみせても意味はない。

クーベルタン男爵の国境をこえたスポーツによる平和の理想、スポーツと知性のうえに哲学的地平を拓いた古代ギリシャの理想が、すでに国家主義(ナショナリズム)と商業主義(スポンサーが開催形態を決定する)によって、地に堕ちていることこそが問題なのだ。

にもかかわらず、人間がスポーツをするという本源的な営為までが、地に堕ちたというわけではない。いや、危機に瀕しているからこそ、オリンピックの精神は復権されなければならないのだ。個人参加による、参加することに意義があるというテーマの復権である。

スポーツそれ自体の素晴らしさは、アスリートやスポーツ経験のあるひとだけのものではない。スポーツを観戦することで感動を得る人にとっても、ひとしく謳歌されるべきものだ。そして、少しは身体を動かしてみようとなればよいのだ。さあ、今日から走ろう!

◆戦争とオリンピック

周知のとおりオリンピックには、独自の政治的な意義もある。看板に掲げる「平和主義」という「政治性」である。手続きとしては国連決議による、オリンピック・パラリンピック期間中の戦争・紛争地域の無条件停戦協定である。日々、砲弾や銃火におびえる人々が、少なくともオリパラの約一カ月は安心して眠れることになる。1985年のユニバーシアード神戸大会で、山口組と一和会の暴力団抗争が停戦になったことはあるが、オリンピック以外のスポーツ大会で戦争が停戦になることはない。

と書いていたところで、開会式の国旗掲揚に自衛隊が動員されていた。裏方の演奏隊ならともかく(大相撲では日の丸演奏が常態化している)、平和の祭典の開会式の根幹をなす国旗掲揚に、なぜ軍隊(自衛隊の国際的認知)が登場するのか。日本政府は明確な説明を求められるであろう。解任されたユダヤ人大量虐殺ディレクターの置き土産というわけなのか? 

自衛隊は警備や医療支援をふくめて8500人が動員され、閉会式にも登場するという。いまこそ「君達が日陰者である時のほうが、国民や日本は幸せなのだ!」という吉田茂の名言を復権するべきであろう。

◆「不敬」かそれとも穏当な措置か

もうひとつ、開会式では愕くべき事態が起きた。大会名誉総裁を務める天皇がご起立して開会宣言をされている時、天皇とならんでいた小池知事と菅総理の2人が、ともに椅子に座ってこれを聴いていたのだ。途中でこれはまずいと気付いたらしく、小池都知事が立ち上げり、ついで菅首相が立ち上がった。

この場面がバッチリ全国中継されてしまったことで、2人には批判が集中しているのだ。SNS上では「不敬」「非礼」などという言葉が飛び交っている。政治家を天皇が任命する以上、日本の憲法では天皇が上司とされる。身分が違うという指摘もあろうが、天皇は単に「国民統合の象徴」であって、ことさら身分が上と規定しているわけではない。国事行為とは形式的なものにすぎないのだ。

したがって、当初のごとく坐って聴いていても何ら非難されるべきものではないが、天皇を元首にしたい自民党の総裁、そして思想的には自民党と何ら変わりなく、単に権力争いをしているに過ぎない小池にとって、この事態は大失態と言うしかない。天皇への敬意をめぐって、保守論壇の中で真っ向から議論してもらいたいものだ。

いっぽう、日本の組織委員会が果たせなかった多様性の容認と調和、あらゆる差別への反対、社会的連帯という目的も、イベントに掲げられる意義はきわめて大きい。というよりも、日本の大会組織委員会が無知を晒したからこそ、これらは人類の叡智として、改めて刻印されるべきであろう。

そこでわれわれはジャーナリストの端くれとして、その英邁な人類の理想と東京五輪がいかにかけ離れ、国家のメンツのためにだけ開かれているかの現実を、現地からレポートしなければならない。もって批判の実質とするべきだ。

それは21世紀初頭の日本社会の現実を、顕わにすることにほかならないのである。という大仰な理由づけで、オリンピックの東京をレポートします。

◆警備予算獲得のために危機を煽る警察庁の首都戒厳令

2008年の洞爺湖環境サミットいらい、警察庁の警備予算獲得のためのパフォーマンスには異様なものがある。

反グローバリズムのNGO団体や環境団体が国境をこえて押し寄せてくるCF、機動隊のガンダム戦闘服への刷新、過剰なデモンストレーション的な緊急搬送訓練など。かつて暴力団抗争や左翼の武装闘争が激しかった時代の、28万人体制を維持するために、過剰な海外情報で危機感をあおり、予算の獲得にこれ努めてきたのである。

本気でやるつもりもない工藤會壊滅作戦や、こちらは本気で反対運動つぶしを狙う沖縄辺野古基地警備、その中で自治体警察の枠をこえた動員体制、全国派遣というシステムをつくり出してきたのだ。

動員される警察官にとっても、なかば旅行気分の派遣(ホテル暮らし)は、出張費もふくめて美味しいものだといえよう。

もう13年前になるが、洞爺湖サミットに「自転車による環境保護・原発の安全基準の見直し」をもとめて自転車キャラバン(ツーリング洞爺湖・1500キロ走破)を実施したさいにも、大勢の公安警察官がわれわれサイクリストの「警備」に動員され、あるいは自転車持参で同道したものだ。われわれは自弁の旅だが、かれらは公費の旅という道中だった。

必要のない警備に動員される警察官たちにはご苦労様な反面、警察庁のエリート警察官から末端の機動隊員まで、かれらは国民の税金を好きなようにむさぼっているともいえる。生産に従事している国民が困窮しているとき、最も生産性のない連中が大手を振っているのだ。

警察の業務を「犯罪捜査」に限定したとき、その役割は国家の根幹を占める重大なものがあるのは確かだが、日本の警察はその能力に頼りないものが多い。そればかりか、冤罪を生む見込み捜査や初動捜査の遅れは甚だしいものがある。そして道案内や警備などを「サービス業」とみなした場合、あまりにもお粗末なシステムではないか。私自身が満足な住所案内を受けた経験はないし、スマホのマップ機能が平常であれば、もはや交番で道を訊くという選択肢はなくなった。

警備を「サービス業」にみなした場合、警棒と拳銃で武装した暴力装置の危険性にその問題点はおよぶ。ヤクザですらしない武器による威嚇が、はたして穏当に行なわれているのか。警察官不祥事、とりわけ警察官における性的犯罪は職業病と認定する心理学者もいるほどだ。このような組織が予算獲得のために五輪のようなイベントを梃子にする。これこそ監視しなければならない課題なのだ。

そこで、会場レポートを警備、とりわけ警察官の動員に絞って行なおう。まずは葛西臨海公園内のカヌー・スラローム会場である。

写真を撮ろうとすると、そそくさと立ち去ろうとする警察官
同じく葛西公園。ここに動員されている警察官は香川県警であった。やはり全国動員で予算を獲得しているのだ
夢の島(夢の島の森公園)内のアーチェリー会場。青いジャージが大会公式ボランティア。この青ジャージは誰でも買えるというわけではなく、将来はプレミア価格が付くという。指令があって動員されているのだろうが、所在なさそうにウロついているボランティアも散見された
アーチェリー会場の正面。警察官の姿ばかかりではなく、わたしと同じように見学に来ている人も少なからず。ここは長野県警の担当だった。八戸ナンバーのカマボコ(昔の学生運動用語で、機動隊バス)も見たので、青森県警も来ているのであろう
BMX(自転車曲乗り)の会場がある豊洲地区。至近に有明テニスの森(テニス会場)。このあたりは愛知県警でした
豊洲大橋は渡れませんでした。この先に選手村があるからでしょう。貸し切りバスは選手団用で、大会関係車両というシールが貼ってある。やむなくお台場方面(ビーチバレー)を調査し、晴海大橋から都心に入ることに(つづく)

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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小山田圭吾氏の「いじめ自慢」が普通に雑誌に掲載された1990年代日本の倫理観 片岡 健

それにしても、なぜ、あんな記事が雑誌に載ったのか? ミュージシャンの小山田圭吾氏が過去に雑誌で行っていた「いじめ自慢」で大炎上した問題をめぐり、そんな疑問を抱いた人は少なくないはずだ。

何しろ、当該雑誌2誌のインタビューで小山田氏が自慢していたいじめはまさに犯罪的だった。全裸にしてグルグルにヒモを巻いたうえ、オナニーをさせたり、ウンコを食べさせたり、バックドロップをしたとか(ロッキング・オン・ジャパン1994年1月号)、障害者の同級生を段ボール箱にとじこめたとか(1995年8月発行のクイック・ジャパン第3号)、小山田氏はそんなことを楽しく語っているのだが、現代の感覚で考えると、小山田氏も雑誌関係者もあんな記事が出れば、凄まじい批判を浴びることはわかりそうなものだからだ。

ただ、当時を知る世代の人間からすると、雑誌であのような記事が載っていたことはさほど不思議なことではない。1990年代のメディアの倫理観は今とはずいぶん異なるからだ。

小山田氏の「いじめ自慢」が載ったロッキング・オン・ジャパン1994年1月号(左)とクイック・ジャパン第3号

◆売春の広告、殺人被害女性のヌード掲載、性犯罪者のインタビュー記事も当時は普通だった

たとえば今、新聞に売春業者の広告が載っていたとすれば、大問題になるだろう。しかし当時、タブロイド紙の「三行広告」というものが集まった蘭には、ホテトルや大人のパーティーなどという売春業者の広告がいつも多数載っていた。「社会の公器」たる新聞社が公然と売春業者の宣伝に手を貸し、利益を得ていたのである。

事件報道も今と比べると、当時は人権意識など無いに等しかった。たとえば、1997年に起きた東電OL殺害事件では、被害女性が売春をしていたことが大々的に報じられ、被害女性のヌード写真を掲載した週刊誌まであった。今であれば、被害女性の勤務先や職業が事件名として使われること自体が批判の対象になりそうだし、被害女性のヌード写真を載せた週刊誌は即廃刊に追い込まれてもおかしくない。

ちなみに当時、殺人事件の加害者や被害者になった女性が性風俗業に従事していた場合、週刊誌がその裸の写真を掲載するのは東電OL殺害事件に限らず日常的に行われていたことだった。

また、痴漢や覗きを常習的に行う性犯罪者のインタビュー記事が週刊誌に載るのも当時は普通だった。中には、「痴漢日記」の著者である山本さむ氏のように本まで出すカリスマ的な扱いの痴漢常習犯もいた。

ちなみに当時、このように痴漢をもてはやしていたのは、週刊誌などの「低俗」と評価されるメディアだけではない。山本氏の「痴漢日記」は、大手映画会社グループの東映ビデオにより映像化され、主にVシネマとして人気を博していたほどだ。

このようなことが許された…というか、普通にメディアで行われていたのが1990年代だったのだ。

◆小山田氏や「いじめ自慢」掲載の雑誌だけが問題なのか?

私が思うに、小山田氏の「いじめ自慢」の問題は、このような当時の時代背景もセットで考えたほうがいいのではないかと思う。

こんなことを言うと、小山田氏やその「いじめ自慢」を載せた雑誌及び関係者を擁護しているように受け取られるかもしれないが、そうではない。

あのような記事が出ても、雑誌が何も問題なく存続し、小山田氏も現在に至るまで一線で活動できていたということは、世間もそれを受け入れ、容認していたということだ。あれは、小山田氏一人の問題ではなく、雑誌だけの問題でもなく、日本人全体の問題ではないだろうか。

たとえば、国民がみんなで「鬼畜米英」と叫び、バンザイをしながら兵隊たちを戦場に送り出していた時代、兵隊たちが戦場で非戦闘員を殺害したり、略奪行為をしたりしたことを「兵隊たちだけの問題」だと考える人はあまりいないだろう。今回の小山田氏の問題もそれと通じるものがあると私は思う。

▼片岡 健(かたおか けん)
ノンフィクションライター。編著に『もう一つの重罪 桶川ストーカー殺人事件「実行犯」告白手記』(著者・久保田祥史、発行元・リミアンドテッド)など。

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五輪・原発・コロナ社会の背理〈8〉 酷暑下で「血も凍る悪魔の祭典」東京五輪の開幕が近づいて 田所敏夫

新型コロナウイルスの感染者は、7月の中盤に東京では1000人を超え、「東京五輪」が強行開催されれば、その開始時点で東京を中心に、医療機関は逼迫し、開催中には海外からやってきた五輪関係者にも感染者が相次ぎ、間違いなく混乱が起きるだろう。わたしは第四波までの感染者の推移を眺め、素人ながら過去の感染者数の増減と地域的な広がりを参考にそのように予想していた。

感染者は東京都で既に1日あたり1000人を超えている。この数はまだ増えるだろう。梅雨が明け猛暑がやってきた関東地方。蒸し暑い風は吹き抜けるが、都心高層ビル屋上のビアガーデンで、凍らせたジョッキに注がれた生ビールを煽って「クーッ! 課長! やっぱり夏はこれに限りますね! ワッハハハ!」ってな息抜きも許されない。

◆こんな状況でいったい誰が「東京五輪」をテレビで視聴するだろうか

テレビは面白くもないバラエティー番組を、ひな壇芸人の数で埋め合わせようとして、結局まったく面白くなくなった苦い経験を忘れたかのように、連日「五輪中継」や「五輪の話題」を盛り上げようとエネルギーをつぎ込むだろう。でも会場には観客はいない。声援も上がらない。見たい番組があろうがなかろうがテレビをつけっぱなしにしているのが習慣化しているのは、きょうび高齢者に限られる。

専業主婦はスマートフォンを手に入れてから、徐々にテレビから離れた。昼(昼下がり)の時間帯に「メロドラマ」がめっきり少なくなったのはそれが理由だろう。子供たちは夏休みになったって、外遊びをするわけではないが、かといってゲーム以外で液晶に向かうことはない。多くの勤労年齢成人はリモートだろうが、通勤だろうが昼間は仕事に就いている。

さて、こんな状況でいったい誰が「東京五輪」をテレビで視聴するだろうか。いい方を変えよう、誰が「喜んで」あるいは「期待をもって」「東京五輪」をテレビで視聴するだろうか。例えば開会式は中継されるだろう。実際のところ「いったいどんな開会式やってるんだか」あるいは「事実をもって批判するためには、自分の目で見ておかないと」という動機で視聴するひとが、大勢になるのではないだろうか(わたしは自宅にはテレビがないので、五輪があろうがなかろうがテレビを見ることはない)。

◆わたしたちの頭脳は記憶を留める能力を、著しく失っている

7月16日IOC会長バッハが広島を訪問した。報道や個人的に聞くところによれば、異例の厳戒態勢での受け入れであったにもかかわらず、平和祈念公園周辺だけでなく、複数個所で抗議行動が行われたようだ。地元広島市民の受け止め方も、冷めたものだったようだ……。

さて、いよいよ酷暑下で「血も凍る悪魔の祭典」が行われる。会場となる東京都にとっては、自殺行為にも近い「血も凍る悪魔の祭典」。人間の退化と理性喪失の象徴、嘘っぱちの感動物語、資本による利益追求の究極形、そして永年機能してきた通りの世論操作装置。

これから数週間の間に、様々な事件が起こることだろう。そしてそれらは重大な事件であっても、数日もせずに忘れ去られてゆく。おそらく数週間ではなく数日だ。なにも五輪が特別なわけではない。情報処理速度が高速化するにしたがい、大惨事であってもわたしたちの頭脳は記憶を留める能力を、著しく失っているからだ。たぶんこれは、液晶を毎日目にするひとびとにとっては、世界共通の現象だろう。

検索することなしに、鳥取地震、熊本地震、大阪北部地震、広島大水害、新潟地震、岩手内陸地震それぞれの発生年月を即答できる読者はどのくらいいるだろうか。わたしだって全問回答はできない。でもこれらの自然災害はいずれも20世紀の後半では阪神大震災だけに匹敵する揺れや被害を引き起こしている大災害だ。でも、わたしたちは、各被災地にお住まいか関係のある方ではない限り、重大災害の発生年すらそらんじられない。

災害だけではなく、出来事(事件)でもそうだ。「血も凍る悪魔の祭典」を招致した時の、東京都知事は誰だったか。本通信読者の大半はご記憶であろうが、ではその前の東京都知事は誰で、どのような理由で辞任したか。その前任者は? このあたりにくると怪しくなってくるのも仕方あるまい。大阪五輪招致など大阪人でも忘れているかもしれない。

◆わたしの体温は徐々に下がってゆく

1週間ほど前、名神高速道路で偶然奇妙な光景に遭遇した。東京方面に向かって兵庫県警の機動隊員輸送車が最低4台とワゴンが数台走っていたのだ。断言はしないがあれは「東京五輪」警備の応援に、兵庫県警が派遣した警察官を運送していたのだと思う。全国動員とは言わぬまでも、警備の警察官もかなり広域から東京に集中するのだろう。

関西もどうやら梅雨明けのようだ。最高気温はこの夏最高近くになるかもしれない。だがわたしの体温は徐々に下がってゆくように思う。「血も凍る悪魔の祭典」はそれに関わるすべての出来事、ひとびとに禍々しさを感じる。

わたしはこの大会に出場する選手、役員、大会関係者あるいはボランティアを、国籍を問わず特別視して免罪するつもりはまったくない。ひとりひとりは人格と判断能力を持った人間なのだ。IOCの役員連中と同じく、ひとりひとり自立した人格として捉えるのが、平等というものだ。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』8月号
『NO NUKES voice』Vol.28 《総力特集》〈当たり前の理論〉で実現させる〈原発なき社会〉

ボクシングなどの装備、マウスピースの進化 堀田春樹

◆マウスピースとは

ボクシングやキックボクシングの試合で、口に入れたり、外したりするものはマウスピースと言われ、パンチを食らった際、歯によって口の中が切れたり、歯が折れたり、脳への衝撃などを軽減する防具です。

アメフトやラグビーでもマウスピースが使われますが、歯を噛みしめることによる歯の磨り減りや抜けるなど咬合性外傷に繋がる恐れの軽減や予防の為に使用され、格闘技では顔面を殴られる直接的衝撃による負傷の軽減があり、よりマウスピースが重要視されてきました。

噛みしめると外そうにもなかなか外れない場合が多い。いずれも簡易型ではない、各々の歯型タイプが一般化したものでデザインも豊富(写真は梅沢武彦選手)

◆観戦で何気に目にするマウスピース

昔はマウスピースを嵌めなかったり、試合中に吐き出したりしても、そのまま続行されましたが、プロボクシングに於いては安全面が進化していく中で、世界機構を中心に「マウスピースは必ず嵌めなければならない」と明確にルール化されてきました。

それで試合中、マウスピースを落とした選手に対して、基本的には試合を中断してコーナーに戻り、セコンドにマウスピースを軽く洗わせて口に戻して再開という流れを組んでいます。故意に吐き出したりすると減点となるケースもあります。

日本ではなるべく試合を中断せず、レフェリーがマウスピースを拾って、その選手コーナーに投げて返し、セコンドに洗わせてレフェリーが受け取り、ブレイクのチャンスを伺ってマウスピースを嵌めるという流れを組んでいます。

キックボクシングに於いては、落とした時点ですぐ拾って選手の口に戻す行為を見ますが、なるべく中断しない手段ではあるものの、見た目にも衛生的に好ましくはありません。以前は単にコーナーへ投げ返すだけで、そのラウンド終了まではマウスピース無しで進行していました。

昭和のキックボクシングでは、ロッキー藤丸(西尾)選手がマウスピースを相手に投げつけてから殴りかかったシーンもあり、今ではボクシングでもキックボクシングでも、最低限でも注意はされるでしょう。

白いマウスピースは一般的、試合前の一コマ(写真は高橋亨汰選手)

◆選手の体験談

赤土公彦氏(西川/格闘群雄伝No.10)は、「最初にマウスピースの必要性を感じたのが、デビュー前に、ジムでの先輩とのマススパーリングで、ハイキックを貰って口の中を十数針縫う裂傷を負ってしまいました!」と衝撃を語ってくれました。

更に、「タイのルンピニースタジアムでの試合では劣勢だった為、最終第5ラウンドに何としても勝ちたいという思いで打ち合いに行くと、カウンターでヒジ打ちを貰って前歯が吹っ飛んでしまいました。最終ラウンドはマウスピースを付けずに向かったようで、マウスピースの必要性を強く感じた試合でした!」といった痛々しい想い出。

平成初期の某選手の話では、「第1ラウンドにノックダウンを喫した次のインターバルで、ダメージで意識がボーっとしたまま、セコンドがマウスピースを口に入れたくれたところが、上下逆に、更に反対向き(Uの字カーブしてる側を奥に)に入れてきて、そのまま第2ラウンドが始まり、何か違和感あるなと思った途端、集中力が落ちていて倒されてしまいました!」という傍から見れば笑えるエピソードや、
昭和時代にタイで試合した選手では、「マウスピースしなかったら、ヒジ打ち貰って下の歯(犬歯)が下唇を突き抜けて外に飛び出したまま試合続けていた!」といったエピソードもありました。

牙型模様は流行りのひとつ(写真は吏亜夢選手)

◆マウスピースの進化

昭和時代からキックボクシングでよく見た光景としては、アッパー食らって口からマウスピースが真上に吹っ飛んだり、息苦しさや相手への挑発で自ら吐き出し投げ落とすことがありました。それは殆んどが白く小さい簡易型マウスピースで、ジムで売っていたり、渋谷のセンタースポーツで買ったという選手も多かったでしょう。

1983年(昭和58年)に伊原信一氏がノックアウト勝利後、投げたマウスピースが撥ね返りながら私(堀田)の鞄にスッポリ入ったことがあり、それは歯型のマウスピースでした。その時代、向山鉄也選手(格闘群雄伝No.3)もジム練習時に歯型のマウスピースをしていたところも見たことがあり、外れ易い簡易型から、徐々に各々の歯型で作る、より安全確実なものが普及してきたものと考えられます。

平成初期のまた別の某選手はジム入門後、先輩に「マウスピース作って来い!」と言われて、指示通りのゴム製の、熱湯で軟らかくして、熱いのを我慢して口に入れ、噛んで型を作り上げるタイプで、あまりに熱いので「ちょっと冷ましてから噛みましたがダメでした!」と言うと、「冷ましたらダメだろ!」と怒られる苦労が付き纏うも、安価で作れる中では一般的なタイプでした。

値段は昔ながらの簡易型タイプが1000円以下の安価なものから、歯型を作るタイプは種類に寄り、ゴム製、シリコン製などもうちょっと高めの2000円以上。

歯科技工士さん作成、特殊技巧型

これより高級タイプは、歯科技工士さんに作って貰う手法で、値段は高いが(1万円以上)、造りがしっかりハマり、食いしばりや激しい衝撃にもズレ難く、口の中も切れない高い保護力があります。

最近は、パンチ食らってマウスピースが吹っ飛ぶシーンが少なくなり、無駄な打ち合いが少なくなったテクニシャンの増加と、ガッチリ歯型に合うマウスピースを作る普及があるでしょう。その為、インターバルでセコンドが外そうにもなかなか外れない光景もよく見られます。選手の口元を見ても色付きや牙型模様などハイカラなデザインも目立つようになりました。

マウスピースは、使うと汚れや臭いが発生します。歯ブラシで洗うことと、歯磨き粉使用は配合されている研磨剤がマウスピースの表面を傷つけ、細菌が入り易くなってしまうので、この辺は部分入れ歯洗浄法と同じく、ポリデントなどを使うのもいいのかもしれません(使用上の注意は要確認)。

リングコスチュームやトランクスと違い、目立つものではありませんが、こういった装備品にも進化が伺える近年のキックボクシングです。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』8月号

格闘群雄伝〈20〉少白竜──二つの時代を戦い、リングに立ち続ける男!

◆第一次全日本キック時代

少白竜(=田中正一/元・全日本バンタム級1位/1962年3月9日、神奈川県平塚市出身)は、戦績を37戦18勝(18KO)17敗2分とする、5回戦ではラストラウンド終了のゴングを聞いたことが無かった。アグレッシブに攻めるがスタミナ切れで負けるパターンは多く、勝っても負けても早い回のKO決着必至の男だった。

再デビュー戦で水越文雄と対戦。旧・全日本キック経験者同士(1989年9月24日)

少白竜というリングネームはデビュー戦前の予定表を見て「これ誰だろう?」と思ったら自分だったという少白竜。当時のジムのトレーナーが付けたもので、合気道の創始者、植芝盛平師範から由来するものという。

現役を引退して数年後に再起する選手は何人も存在するが、少白竜は昭和50年代の全日本キックボクシング協会と平成の全日本キックボクシング連盟で戦い、その中間を跨いだ選手である。

キックボクシングを始める切っ掛けは高校一年の時、ブルース・リーや空手バカ一代を見た影響で格闘技に興味を持ち、少年マガジンの「紅のチャレンジャー」という漫画でキックボクシングに憧れ、伊勢原市にあった萩原ジムに入門。

1978年(昭和53年)2月10日、ライセンス制度も確立しない時代で、16歳になる1ヶ月前のデビューだった。1年半で5連続ノックアウト勝利を含め10戦程すると、すでに注目を集め、全日本フェザー級3位にランクされていた。

ランカーらは殺伐とした時代に合ったパンチパーマや強面が多かった。少白竜は内向的ながら、強面猛者達に初回から猛攻をかけ、とても内向的とは思えないという周囲の評判だった。

そんな強面の中では、高樫辰征(みなみ)に1ラウンドKO負け。小池忍(渡辺)には1ラウンドに2度ノックダウンを奪いながら、転んだところを蹴られて負傷TKO負け。甲斐栄二(仙台青葉)とはライト級で2ラウンドにパンチ強打で倒されるKO負け。

1981年元日には酒寄晃(渡辺)の持つ全日本フェザー級王座に初挑戦。さすがに50戦を超える獰猛なゴリラみたいなベテランの強打に屈した。

「酒寄さんはとにかく強かった。パンチ避けられたと思ったら、素早く違うとことから蹴られ重いパンチでわずか2分あまりで倒されました!」というが、この時点でまだ18歳。この先が有望視されるのは当然だった。

少白竜は後列左から2番目。赤土公彦を倒したことで年間最優秀殊勲賞獲得(1992年1月25日)
[写真左]赤土公彦と2度目の対戦。少白竜はやっぱりラッシュも同じ手は食わない赤土(1992年1月25日)/[写真右]交流戦で、時代の流れを感じさせる室戸みさき戦(1992年3月28日)
成長著しい東海太郎(=川野辺顕啓)のセコンドに付く少白竜(1992年11月21日)

◆目指す方向の違いとブランク

しかし、この年の竜馬暁(我孫子)戦でKO負けした際、胸にパンチ貰ってから咳が止まらず試合後入院。思わぬ肺結核に罹っていた為、長期休養を余儀なくされた。幸い安静にするだけで短期で完治したが、体重はかなり落ち込み、パワー不足で引退を決意。しかし再起が不可能ではなく、当時の全日本キックボクシング協会が低迷を脱する計画でマーシャルアーツ(全米プロ空手)化してしまい、方向性が変わったことでモチベーション低下したことが一番の要因だった。

たまたま引退前にはそのマーシャルアーツルール試合は2度経験していた。韓国選手欠場による代打出場での翼五郎(正武館)戦は、1ラウンド2分制の6回戦。ヒジ打ちヒザ蹴り禁止で、腰から上に8本以上蹴らないと段階的に減点で、パンタロン風ロングパンツを穿くシステム。ルールに関係なく乱打戦になると思われたとおり、パンチでノックダウン取って取られての判定、ルールが影響したが、少白竜にとって珍しく引分けた試合だった。

韓国に遠征した試合では、行ってみればWKA東洋フェザー級王座決定戦。李子炯に、これこそ慣れぬルールに阻まれKO負け。目指したキックボクシングを戦えぬ引退後は業界と疎遠になり、トラック運転手で一般社会に溶け込む生活を7年過ごしていた。

[写真左]新開実と対峙。中央のレフェリーは山中敦雄氏(1993年1月17日)/[写真右]一度倒している新開実には倒されてラストファイトとなった少白竜(1993年1月17日)
最後の試合となった新開実戦へのリングイン(1993年1月17日)

◆第二次全日本キック時代

1989年(平成元年)1月、萩原ジムを引き継いでいた東京町田金子ジムから「今度ウチの選手の指導に来てよ!」と金子修会長から誘われ、久々にキックボクシングの匂いに誘われジムを訪れた少白竜は、地元近くの伊勢原市に谷山ジムがあることを聞き、後に谷山ジムに素人のフリしてさりげなく見学に訪れた。

それでも何となく格闘技経験者のオーラは分かるもの。谷山歳於会長に「昔、何か格闘技やってたの?」と聞かれたことで昔話が弾み、家が近いこともあり早速コーチを頼まれてしまった。

だが、その3ヶ月後の7月には、後楽園ホールのリングに上がっていた。練習生より動きが良く、スパーリングでも3回戦選手に負けなかったことから谷山会長に「一回でいいから試合に出てくれないか!」と言われて「一回だけですよ!」と約束して、以前よりウェイトは落ちていたが、無駄なぜい肉の無いバンタム級での再起となった。

その聖竜(武州信長)戦では打ち合いに挑む姿は以前と変わらずも2ラウンドKO負け。すると悔しさから「もう一丁!」と申し出て2ヶ月後、水越文雄(東京町田金子)と対戦。これもKO負けながら勘は戻りつつあった。

翌年1月、元・チャンピオンの亀山二郎(正心館)をパンチとヒジ打ちで初回に豪快KO勝利。1990年7月、チューテン・シッサハパン(タイ)にはヒジ打ちで倒される敗戦も動きは全盛期に戻っていた頃だった。

1991年4月には世代も代わった若い新開実(岩本)を1ラウンドKO勝利。同年9月には全日本フライ級チャンピオンの赤土公彦(ニシカワ)とノンタイトルで対戦。長期王座に君臨する赤土公彦と戦えることに光栄に感じ、これをラストファイトと決めての一戦だった。だが開始からアッパーを強烈にヒットさせて猛ラッシュ。スリーノックダウンを奪って初回KO勝ちのベストファイトと言える内容。これで完全燃焼と思っていたところが、この結果で周囲の期待も高まると次はタイトルマッチを組まれてしまい、辞めるにも辞められなくなってしまった。

翌1992年1月、再び赤土公彦と空位の全日本バンタム級王座決定戦を争った。ハードな本業の疲れから胃潰瘍に罹り練習量も減っていたが、また早いラウンドで倒そうという猛攻は赤土に読まれ、カウンターを食ってKO負け。酒寄晃戦以来の全日本王座挑戦はまたも1ラウンドで逃した。

ラストファイトは1993年1月。一度倒している新開実(岩本)に初回KO負け。谷山ジムの看板選手として現役継続して来たが、後輩の東海太郎が育ってきたこの時期、ようやくリングを去る選択肢を選び、正式に引退となった。

◆リングが呼んでいる

引退後はレフェリーの大ベテラン、サミー中村氏に「次の試合いつだ?」と聞かれ、「やっと引退しました!」と応えると「じゃあレフェリーやってよ!」と誘われ、リングが俺を呼んでいるといったような因果に身を任せ、全日本キックボクシング連盟でレフェリーとしてデビュー。

画像の主役はレフェリー。身のこなしは抜群の少白竜の裁き(2019年11月9日)

後には団体が細分化されると交流戦が増え、昔から所属団体に偏る裁定が起こりがちだった為、2006年に山中敦雄レフェリーを中心にJKBレフェリー協会を発足した。確立したJBCには程遠いが、公平忠実な外部組織として要請があれば各団体へ派遣され、審判団として活動している。

少白竜はノックアウト必至の激闘を繰り広げた時代のトレーニングを今も欠かさない。

「ジムでもミット蹴りだけじゃつまらないんで、まだまだマススパーリングとかやってます。キックは飽きないんですよ。楽しくて!」と語る。

「新空手やオヤジファイトに出場しませんか?」という問いには「もう試合はやりませんよ、痛いの嫌いですから!」と笑うが、戦う本能は現役のように若いまま。心の中の生涯現役を貫く元・選手はここにも居たようだ。

現在はベテランレフェリーの高齢化に対し、自ら好んで批判を受け易いレフェリーを希望する者がいないのが現状。レフェリーを志す信念を持った若者を発掘し育て上げるまで、まだまだリングに立ち続けなければならない少白竜氏である。

裁く側となって中央に立つ少白竜(2019年12月11日)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』8月号

YETI達朗、連続TKO負け、ヒジ打ち一発で仕留められる!

YETI達朗は4月11日に新日本キックボクシング協会興行で、リカルド・ブラボ(伊原)に1ラウンドTKO負けして以来の試合は、またもTKO負けとなり3連敗。険しい復活の道程が続く。

S-1レディースジャパン・バンタム級チャンピオン.SAHOと対戦予定だったルスター・シッチョー(タイ)が、新型コロナウイルス陽性者の濃厚接触者と判断され活動が制限された為、来日不可能となり、当初予定のS-1世界戦は中止(6月7日発表)。

SAHOは大田拓真と一航の兄弟とエキシビジョンマッチ(1ラウンドずつ計2ラウンド)を披露。

女子S-1ジャパン・スーパーフライ級トーナメントのもう一つの準決勝は、9月19日(日)に梅尾メイ(B9)vs KOKOZ(LEGEND)が対戦。年内に4人トーナメントの決勝戦となります。

珍しい男女のチャンピオン同志のエキシビションマッチ、SAHOと大田拓真

◎NJKF 2021 2nd / 6月27日(日)後楽園ホール17:30~20:33
主催:ニュージャパンキックボクシング連盟(NJKF) / 認定:NJKF

◆第7試合 70.0㎏契約3回戦

YETI達朗(キング/69.95kg)
     VS
チャンスック・バーテックスジム(23歳/タイ/70.0kg) 
勝者 チャンスック / TKO 1R 2:23 / ヒジ打ちによる鼻骨骨折
主審:宮本和俊

YETI達朗は第4代WBCムエタイ日本スーパーウェルター級チャンピオン(2018.2.25獲得~2019.2.24陥落/防衛1回)。チャンスックは元・タイラットTVライト級チャンピオン。

チャンスックの右ミドルキックを受けるYETI達朗

初回、両者蹴りの探り合いから組み合う展開に移った後、チャンスックが左ヒジ打ちを振るってきた。それまでの攻防で相手の技量が解る曲者テクニシャンと言われる実力を見せたチャンスック。すぐにYETI達朗の鼻が“くの字” に曲がり、鼻血が勢いよく吹き出す。その鼻の脇も切れた上、レフェリーはドクターの勧告を受入れ試合をストップ。

右ミドルキックから1秒程でチャンスックの左ヒジ打ちがYETI達朗の顔面ヒット

◆第6試合 NJKFライト級タイトルマッチ 5回戦

チャンピオン.鈴木翔也(2018.6.24獲得/OGUNI/61.0kg)
     VS               
挑戦者3位.吉田凜汰朗(VERTEX/61.2kg)
勝者:鈴木翔也 / 判定2-0
主審:少白竜
副審:多賀谷48-47. 竹村48-48. 宮本48-47

タイミングで吉田凛太朗の右ストレートがヒット、鈴木翔也はノックダウン

鈴木翔也がやや上回る蹴りとパンチの繋ぎ技で攻勢を続けながら、第4ラウンドに吉田の右ストレートで軽いノックダウンを喫してしまうもダメージはほぼ無く、第3ラウンドまでの公開採点がジャッジ2名が2点差、1名が1点差で鈴木優勢の採点。

これで吉田が有利となった訳ではなく、第5ラウンドは両者が懸命の打ち合い勝負に出て、鈴木が攻勢をかけたわずかな僅差で勝利を拾った形となった。鈴木翔也は引分け初防衛に続く、辛くも2度目の防衛。

打ち合いとなっても鈴木翔也は持ち前のしぶとさで前進
王座戴冠してのマイクアピールは格別、涙を浮かべての語りだった日下滉大

◆第5試合 NJKFスーパーバンタム級タイトルマッチ 5回戦

チャンピオン.久保田雄太(2019.6.2獲得/新興ムエタイ/55.65→55.25kg)
     VS
挑戦者1位.日下滉大(OGUNI/55.3kg)
勝者:日下滉大 / 判定0-3
主審:中山宏美
副審:多賀谷47-50. 少白竜46-50. 宮本46-50

日下滉大が第8代チャンピオン。3年前に対戦時は日下滉大が判定勝利。今回も初回の様子見からパンチとローキック連係から日下がリズムを作っていく中、蹴りを受ける久保田は態勢を崩しバランスが悪い。

日下は勢い付くと飛び蹴りも見せ、後半はヒザ蹴りも加えて追い打ちをかけ、攻勢を保った日下が大差判定勝利で念願の王座獲得となった。

「新人時代は連勝し、王座は近いと思ったけど簡単には獲れないものだった。」と語った日下滉大。そんな反省を経た下積み努力を重ねての王座戴冠となった。バンタム級では3度の挑戦は実らず、スーパーバンタム級でようやく奪取となった。

まだ団体タイトルに過ぎない段階で、国内だけでもまだ上位があるチャンピオンの座。有名なビッグイベント興行に呼ばれるには、これからがより大変になる。

日下滉大が勢いづいて攻撃力が増していく中のハイキック
終盤は飛びヒザ蹴りも繰り出す日下滉大

◆第4試合 NJKFスーパーウェルター級暫定王座決定戦 5回戦

3位.Vic.YOSHI(OGUNI/69.65kg)vs 4位.佐野克海(拳之会/69.35kg) 
勝者:Vic.YOSHI / TKO 4R 1:26
主審:竹村光一

序盤は的確さの無い攻防からVic.YOSHIがやや攻勢に傾き、次第に佐野のスタミナ切れが目立っていく。第4ラウンドにボディーへヒザ蹴りから顔面にヒザ蹴りが入ると、レフェリーがスタンディングダウンをとり、カウント中のレフェリーストップとなった。

正規チャンピオンの匡志YAMATO (大和)が7月11日、名古屋での大和ジム興行で、上位王座のWBCムエタイ日本王座獲得すれば、Vic.YOSHIがNJKFの正規王座に昇格予定。匡志が獲得成らなければ、後にNJKF王座統一戦、正規チャンピオン匡志vs 暫定チャンピオン.Vic戦が行われる。

暫定ながら王座戴冠したVicYOSHI、佐野克海を倒す

◆第3試合 女子キック46.0kg契約3回戦(2分制)

ミネルヴァ・ピン級チャンピオン.Ayaka(健心塾/45.55kg)
     VS
同級3位.奥脇奈々(エイワ/45.75kg) 
勝者:Ayaka / 判定3-0
主審:中山宏美
副審:多賀谷30-27. 竹村30-27. 少白竜30-27

◆第2試合 女子S-1ジャパン・スーパーフライ級トーナメント準決勝3回戦(2分制)

ミネルヴァ・スーパーフライ級1位IMARI(LEGEND/51.7kg)
     VS
同級2位.ルイ(クラミツ/52.05kg)
勝者:ルイ / 判定0-3
主審:宮本和俊
副審:中山29-30. 竹村29-30. 少白竜28-30

◆第1試合 フライ級3回戦

嵐(キング/50.6kg)vs 悠(GRABS/50.7kg)
勝者:嵐 / 判定3-0 (30-27. 30-28. 30-27)

《取材戦記》

YETI達朗は、「まだ戦える気持ちはありました」と言うも、レフェリーストップ(ドクター勧告による)となっては覆ることは無く、仕方無いところだった。昔はYETI達朗の師匠、キングジム向山鉄也会長が、鼻が“くの字”に曲がっても戦い続けたが、レフェリーが止めない時代でもあった。先月は額の陥没した試合もあり、脳震盪や裂傷だけではない早めのストップは、難しい見極めでもあります。

YETI達朗にTKO勝利したチャンスックは、元・タイラットTVライト級チャンピオンの肩書はあるも、ムエタイ二大殿堂から比べた下位組織のチャンピオンには、とてつもなく強者も居れば、箔付けに過ぎない三流以下も居て、見てみなければ実力が判らない選手が多いが、チャンスックはその技量を発揮し、存在感を示す。

国崇(拳之会/41歳)は4月24日(土)岡山での拳之会興行で、翔平(SHINE 沖縄)をヒジ打ちで下す勝利で100戦目を達成。戦績は100戦56勝(37KO)41敗3分。
昭和の時代は100戦超えは幾らか居ましたが、平成以降で100戦達成はおそらく国崇が最初でしょう。昭和の過密なスケジュールで怪我も完治しないまま5回戦を戦った藤原敏男さんらの時代とは環境が違うが、長く戦い続ける継続力は凄いものです。

暫定王座が幾つか誕生している現在。コロナウイルス蔓延の影響で、当初6月20日に名古屋で予定された大和ジム50周年記念興行は7月11日に延期され、WBCムエタイ日本スーパーウェルター級タイトルマッチがズレ込んだ為、暫定王座制定と二つのタイトルマッチ予定が絡み合っています。

次回興行は9月19日(日)に後楽園ホールに於いて「NJKF 2021.3rd」が行われます。ここでのタイトルマッチ予定はまだ確定してしていませんが、暫定王座が早く消えて欲しいところです。

100戦達成表彰額を持った国崇(=くにたか/藤原国崇)、表彰後役員に囲まれて撮影

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

北川ハチマキ和裕、有終の美を飾る引退試合! 堀田春樹

ジワジワと後半攻め優った北川ハチマキ和裕。勝者コールの瞬間は諸々の想いが脳裏を過ぎったか、その場で泣き崩れた。

応援団に見守られ、ラストファイトのリングに向かう北川ハチマキ和裕
15年戦えた感謝を語りだすと多くの想いが過ぎり、涙が止まらなくなった北川

北川ハチマキ和裕は、昨年6月の日本キックボクシング連盟興行で引退試合を予定していたが、新型コロナウイルスの影響により、この日まで延期されていた。

カーフキックを受けた蛇鬼将矢は左脚にダメージを負って控室から車椅子で車に移動し病院へ向かった。

◎NKB 2021 必勝シリーズ 4th /
6月19日(土)後楽園ホール17:30~20:18
主催:日本キックボクシング連盟 / 認定:NKB実行委員会

◆第9試合 メインイベント 67.0kg契約 5回戦

NKBウェルター級チャンピオン.蛇鬼将矢(テツ/1989.5.31奈良県出身/66.75kg)
     VS
北川”ハチマキ”和裕(PHOENIX/1986.6.19埼玉県出身/66.8kg)
勝者:北川ハチマキ和裕 / 判定0-3
主審:前田仁
副審:仲47-50. 川上47-49. 鈴木46-50

北川”ハチマキ”和裕はREBELS-MUAYTHAIスーパーライト級、ライト級でどちらも初代の二階級制覇した元チャンピオン。

第1ラウンド、蛇鬼はパンチ主体に前に出る。北川が距離を取り、蹴り合っても攻防に差は無いが、北川の右のカーフキックが幾らかヒット。

第3ラウンドから北川のペースがジワジワ上がり、第4ラウンド以降は蛇鬼がパンチで北川を追う流れも接近すると北川が組み合ってペースをつかみ、ヒザ蹴りを繰り出す。カーフキックも続けるが、自身の脚も痛かった様子も主導権を完全支配した形で最終ラウンドを終え判定勝利。

北川ハチマキ和裕のカーフキックが度々ヒット、蛇鬼将矢はダメージが深かった
[左]ラストラウンドは北川ハチマキ和裕のペース、得意のヒザ蹴りで攻める [右]試合を終え、蛇鬼将矢から北川ハチマキ和裕へ労いの花束が贈られた

この5年間は体調面の問題から休養期間もあったが、2016年6月から全く勝てず7連敗。今回の試合前には、正直やりたくない、逃げたいと思ったという。

「でももう一回勝つところを見せたい、今まで一回も勝つところを見せられなかった人にも見せたいと思って戦った。今日は勝つところを見せられて本当に良かったです。」と公式戦最後の試合を終え、感謝の諸々の想いを涙を流しながら語った北川ハチマキ和裕。最後は引退テンカウントゴングが打ち鳴らされて、ここまで支えてくれたジムメイトと共に写真に収まり、公式戦39戦17勝(3KO)18敗4分の戦績を残し、リングを下りた。

かつて巻いたREBELSのチャンピオンベルト(現在封印)が山口元気代表より贈呈

◆第8試合 53.25kg契約3回戦

老沼隆斗(STRUGGLE/1998.8.4東京都出身/53.0kg)
     VS
NKBバンタム級4位.海老原竜二(神武館/1991.3.6埼玉県出身/53.1kg)
勝者:老沼隆斗 / 判定2-0
主審:佐藤友章
副審:鈴木29-29. 川上30-29. 前田30-28

老沼隆斗は元・REBELS-MUAYTHAIスーパーフライ級チャンピオン。
ゆっくり余裕を持ったアクションから鋭く前蹴り、後ろ蹴りなど多彩に蹴るテクニックで海老原のタイミングを狂わせる。海老原は押されながらも正攻法な蹴りパンチで応戦も、老沼のテクニックにポイントが流れ、僅差で老沼が判定勝利。

海老原に蹴り脚を取られても、回転して器用に後ろ蹴りを見せた老沼隆斗
多彩な動きの老沼隆斗に海老原竜二は正攻法のローキックをヒット
ちさとkissMeに、野村怜央の右ヒジ打ちがヒット

◆第7試合 62.75kg契約3回戦

NKBライト級3位.野村怜央(TEAM KOK/1990.3.27東京都出身/62.1kg)
    VS
ちさとkiss Me!(安曇野キックの会/1983.1.8長野県出身/62.7kg)
勝者:野村怜央 / 判定3-0
主審:仲俊光
副審:前田30-28. 川上29-28. 佐藤30-28

野村玲央が蹴りとパンチの的確差で優る展開。ちさとは押されながらも変則気味の攻めで、野村に勢い付かせない戦法で踏ん張り、振り分け難い採点はジャッジ三者一致しないラウンドはあるが、順当に野村怜央が判定勝利。

◆第6試合 フェザー級3回戦

鎌田政興(ケーアクティブ/56.85kg)vs 半澤信也(トイカツ/56.9kg)
勝者:半澤信也 / TKO 2R 0:15
主審:鈴木義和

初回の静かな展開から、第2ラウンド早々に半澤信也の軽く飛んでの左ヒザ蹴り一発で鎌田政興の顎にヒットさせ、あっさりノックダウン。ダメージは深そうですぐにレフェリーがストップした。すぐには立ち上がれなかった鎌田だったが、大きなダメージは無く、暫くして立ち上がって挨拶してリングを下りた。

半澤信也が軽く飛んで左ヒザが鎌田政興の顎にあっさりヒットし、あっけない幕切れ

◆第5試合 NKBバンタム級王座決定トーナメント予選3回戦

志門(テツ/53.3kg)vs 龍太郎(真門/53.25kg)
勝者:龍太郎 / 判定0-2
主審:川上伸
副審:佐藤29-30. 仲29-30. 前田30-30

龍太郎に比べ長身の志門がパンチと蹴りの距離感で押し気味の展開ながら、龍太郎はアグレッシブに手数を出し、わずかに的確差が優った僅差判定勝利となった。

◆第4試合 59.0kg契約3回戦

山本太一(ケーアクティブ/58.95kg)vs ガイヤーン・MFC(MFC/56.9kg)
勝者:山本太一 / 判定3-0
主審:鈴木義和
副審:佐藤30-29. 前田30-29. 川上30-28

◆第3試合 54.5kg契約3回戦

森井翼(テツ/54.15kg)vs 湯本和真(トイカツ/54.1kg)
勝者:森井翼 / 判定3-0 (30-27. 30-27. 30-28)

◆第2試合 60.0kg契約3回戦

辻健太郎(TOKYO KICK WORKS/59.75kg)vs 源樹(リバティー/59.75kg)
引分け0-0 (29-29. 29-29. 29-29)

◆第1試合 64.5kg契約 3回戦

平田純一(ダムファイトジャパン/64.3kg)vs 折戸アトム(PHOENIX/64.35kg)
勝者:折戸アトム / 判定0-3 (28-30. 29-30. 28-30)

《取材戦記》

引退試合を行なった北川ハチマキ和裕は、主戦場をREBELS興行中心に活躍して来た中、7連敗しても戦う場があるのは、北川の実績と人柄の良さで、まだまだ必要な存在と導いてくれたプロモーターであり、そんな戦う場があるキックボクシング業界であることが幸いする。

所属するPHOENIXジムは、今時は多数存在するフリーのジムで、どこの団体・興行に出ようが受け入れられるなら活動は自由だが、頑固な仕来りの日本キックボクシング連盟で、加盟しない選手の引退式とは過去に無い引退セレモニーだった。それだけ若い世代が現場を仕切る時代になったものである。

試合後、控室を訪れると、蛇鬼将矢は左脚脹脛周辺を氷で冷やしていた。カーフキックは第1ラウンドから効いていたという。それを感じさせない蛇鬼の戦いぶりはさすがのチャンピオン。しかし観戦するプロ選手の目には、蛇鬼の脚が効いた様子が伺えた声もあった。

控室には車椅子が運ばれ、蛇鬼は病院に移動し、検査の結果は骨には異状なく軽傷で済んだ模様。

「インターバル中、相手陣営の様子を見ないで、自軍の選手の加療やアドバイスに集中し過ぎるセコンドをたまに見かける。」というリングサイド関係者の話を聞いたことがあります。相手陣営の打たれた箇所の加療、肩で大きく深呼吸をしている様子などからダメージやスタミナ切れを察することも出来るから、自軍陣営は相手陣営の様子も見ておくべきらしい。

私(堀田)も家に帰ってからパソコンに画像を取り込んで見て、改めてセコンドの動きに気付くことがある。速報を扱う媒体だったらこれでは遅いだろう。現場で気付くプロの目はやっぱり凄いのである。

次回、日本キックボクシング連盟興行は10月16日(日)後楽園ホールに於いて「必勝シリーズvol.5」が開催されます。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』7月号

格闘群雄伝〈19〉青山隆 ── 生涯現役!? 人情厚いガッツファイター!

◆目白ジムが原点

青山隆(=青山隆浩/1960年10月20日、東京都板橋区出身)は高校2年の時、目白ジム(後の黒崎道場)に入門。1978年12月デビュー。

子供の頃は運動神経が鈍く、体育も苦手だったというが、高校生の頃には「男として強くなりたい」と志し、テレビで藤原敏男や島三雄の活躍を観たことから、目白ジム入門を決めた。

「後々振り返れば、業界一番と言われるほど厳しいジムだった。こんな厳しいジムで耐え切ったことがチャンピオンに上り詰める基盤が出来たのだろう。」と感慨深く思うという。

「青山の試合は好ファイトになるから楽しみ!」と常連客を呼び込む人気を得ていた青山は、フォーリーブスの青山孝に肖ったアイドルタレントのような端正な顔立ちから女性ファンも多く、花束贈呈は女性の列が長く続く現象も起きていた。

タイ遠征した頃、サンドバッグを蹴る青山隆(1983年11月)

◆ムエタイ遠征も図太く生き抜く

キックボクシング界が低迷期で興行も減った1980年代前半でも、黒崎道場はそのネームバリューから比較的マッチメイクには恵まれていた。1983年に道場は実質的閉鎖され、小国ジムに移行されたが、その傾向は変わらず、1983年11月27日、タイでの試合出場を要請された青山隆は、パタヤでパヤオ・プーンタラットがWBC世界ジュニアバンタム級王座挑戦した試合のセミファイナルでのムエタイ試合だった。

結果はKO負けながら、開始からパンチで圧倒。サバ折りや足払いで対戦相手のノックノイのリズムを狂わせ、ギャンブラーは騒ぎ始める中、ヒザ蹴りに捕まって倒されたが、WBCホセ・スライマン会長も食い入って観るほどの大いに盛り上げた試合だった。WBCがムエタイを手掛ける兆しはここかなと勘繰ってしまう当時の激闘である。

青山は試合を終えると、翌日には予定していたムエタイ修行への一人旅。バンコクに戻ると、知人から貰っていた英文で書かれたメモ書きの住所をタクシーの運転手に見せて、片言の英語だけで何とかフェアテックスジムへ辿り着いた。

主に指導してくれたのはトレーナーをしていたムエタイの英雄、アピデ・シッヒラン氏だった。青山が「一番良い先生に出会うことが出来ました!」と言う言葉どおり、お世話になった後々の日本人修行者は多い。

しかし、青山が修行したこの時代は、現在のようなムエタイ留学や外国人受け入れ態勢など無く、住み込みのタイ選手と同じ待遇で雑魚寝だった。

言葉の壁や選手と輪を囲む食事も問題無くこなし、生水をガブガブ飲んでも下痢は一度もしなかったという。

タイ語を覚える気は全くなかった青山は「俺が覚えたのは“バミーミーマイ?”だけだ!」と言うが、屋台で食べたラーメン。これだけは何度も注文したから二度と忘れることはなかったという。後々、日本でタイラーメン店を経営に至る原点はここにあったのかもしれない。

ヤンガー舟木と共に30代半ばまで長い現役生活となった両雄(1983年3月19日)
渡辺明に判定負け、団体分裂で再戦は叶わず(1983年9月10日)

◆ピークを過ぎても闘志衰えず

ライト級ではパワー不足と言い、フェザー級に拘った新人時代から「俺は骨太で体重は落ち難い」という減量苦が付き纏いながらも激戦を展開した青山隆。

1982年11月からの1000万円争奪オープントーナメントでは56kg級を諦め、62kg級で挑むも、初戦で日本系の大ベテラン、千葉昌要(目黒)にあっさり1ラウンドKOで敗れ去った。

1984年11月のメジャー化に向けて動き出した画期的4団体統合の日本キックボクシング連盟では、王座に向けて2連戦となった鹿島龍(目黒)にはいずれも激戦の判定負け。

その打たれても向かっていく凄絶ファイトで不破龍雄(活殺龍)、嵯峨収(ニシカワ)を下し、再び王座挑戦のチャンスを掴んだ1986年9月20日、かつて黒崎道場で、一歳年上ながら後輩でほぼ同期の親友でもあったチャンピオン、葛城昇(=稲葉理/習志野)をわずか1ラウンド37秒、右フックで倒し、念願の日本フェザー級王座奪取に成功(第3代MA日本)。

鹿島龍には2連敗、後々もう一度観たいカードであった(1985年3月16日)
不破龍雄に判定勝ち、我武者羅に向かうファイトが人気を呼んだ(1985年11月22日)
タイトル挑戦前哨戦での山崎道明戦は、なんと3回戦で引分け(1986年7月13日)
花束を贈るファンは多く、華やかなリング上だった青山隆(1986年7月13日)

チャンピオンとして真価が問われる戦いは、当時復興の全日本キックボクシング連盟へ移行する事態はあったが、欧米等の国際戦を経て、1988年3月の初防衛戦で、ついに減量の限界がやってきた。試合の3日前、蒸し風呂に入って意識を失い倒れてしまい、減量は断念。オーバーウェイトで王座は剥奪されたが、挑戦者のスイート金吾(大和)をヒジ打ちで圧勝。更なる上位へ踏み出した(移籍時は第8代全日本フェザー級チャンピオン認定)。

その後のライト級転向も、懸念されたパワー不足と、台頭してきた川谷昇(岩本)や杉田健一(正心館)に敗れるも、引退の兆しは感じさせず地道に這い上がってきた。

1992年1月、全日本ライト級チャンピオンとなっていた川谷昇への挑戦は引分けで二階級制覇は成らず。その後ブランクを作ると、誰もが引退したと思ったが、「まだ辞めないよ。ウェルター級で再起しようかと思って!」と冗談交じりに話す青山だが、キングジムへ移籍しての再起は2年後の1994年6月。時代も更に移り変わり、若い内田康弘(SVG)にヒザ蹴りで1ラウンドKO負け。

更に翌1995年3月に勝山恭次(SVG)に判定負けした試合を最後に、今度は完全にリングから遠ざかったようだった。

しかし40歳を超えた頃、「ジョージ・フォアマンの年齢を超えてやろうか!」と、45歳で世界ヘビー級チャンピオン(WBC・IBF)に返り咲いたジョージ・フォアマンを例えて笑っていたが、いずれ本気で再起する気だったのだろうか。ジムワークを続けていた青山ならやりかねない状況が続いたが、タイで覚えた“バミー”(タイラーメン)を引き金にいろいろな飲食業に挑戦したビジネスも軌道に乗り、さすがに復帰の道は無くなっていた。

王座まで長い道程だったが、わずか37秒であっさり奪取、葛城昇を倒す(1986年9月20日)
初めてのチャンピオンベルトを巻いたリング上の姿(1986年9月20日)

◆兄貴分気質

最終試合後はキングジムで、ミットを持って若い選手の指導に厳しく当たっていた。黒崎道場出身者は皆、存在感にオーラがあり、キツい練習をさせるのが当たり前だった。青山隆もミット蹴りの終了間際では、選手がバテているところで終わらず強い連打を蹴らせ、「最後に強いの一発!」と声を荒げ、バテて強く蹴れないと「弱い! もう一発!!」と延々終わらない鬼コーチぶりを発揮する。しかし厳しさを撥ね返してくる選手は手応えがあるが、昭和の殺伐とした時代を知らない現代っ子には意思疎通が難しくなった様子も伺えるようだった。

そんな厳しい指導をする青山もプライベートでは後輩を連れて飲みに行く等、慕われる存在である。

かつて青山隆の後輩で、後にタイでムエタイジムを運営して殿堂チャンピオンを育て上げた伊達秀騎氏は、アルバイトしてはタイ修行を繰り返して金を使い果たしていた時期のことについて、「青山さんから電話が掛かってきて、『メシ喰ったか?』と聞かれ、『ちょっと今金無くて……』と苦し紛れに応えると、『バカッ、お前、電話しろよっ!』って怒られて、食事に連れて行ってくれる情に厚い兄貴分でした。食えない時期に何度も助けてくれたことは一生忘れられないですね!」と語る。

2012年12月には、肺癌を患って入院していたアピデ・シッヒラン氏への御見舞に約30年ぶりにタイへ渡った青山隆氏。アピデ氏や家族の方々もわざわざタイまで来てくれたことに感激していたという。30年前の恩を忘れない、恩師は親、後輩は弟のように人情が厚い。

青山氏は現役引退したつもりは無いようで、「自分の中では死ぬまで現役です。今でもトレーニングはしています!」と力強く言う。

後輩への指導は、昭和の厳しさではなかなか付いて来ない時代だが、人情厚い指導で令和の青山流チャンピオンを育て上げて貰いたいものである。

画像はおとなしく見えるが、指導はここから厳しくなる青山隆(1996年9月12日)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』7月号

嘉納治五郎財団の闇 犠牲者があばく収賄劇 ── 追い詰められた菅義偉の東京オリンピック 横山茂彦

東京オリンピックを前にした、はじめての党首討論(6月9日)の予定稿を準備していたところ、思わぬ訃報、いや悲劇が飛び込んできた。招致にかかる「疑獄事件」の犠牲者が出たのである。

儀式的なものに終った「党首討論」(内容は例によって、議論が噛み合わないままの演説会であった。したがって、内閣不信任案提出もなさそうだ)というテーマを吹き飛ばすほどの衝撃、いや、悲劇的な事件である。オリンピックの強行開催が進む中、そのスポーツの祭典としての成否はともかく、招致にかかる裏舞台を記録しておきたい。

◆ホームから飛び込む

6月7日午前9時20分頃、都営地下鉄浅草線中延駅でJOCの経理部長森谷靖氏(52)がホームから線路に飛び込み、列車にはねられた。森谷氏は病院に搬送されたが、2時間後に死亡が確認されたというものだ。

森谷氏はスーツ姿で、出勤途中だった。遺書は見つかっていないという。JOCの経理部長の自殺である。


◎[参考動画]JOC経理部長 電車はねられ死亡 自殺か……(ANN 2021年6月8日)

◆カネで買ったアフリカ票

東京オリンピック招致に「疑獄」の疑いがあるのは、2019年3月に明らかになっている。すなわち、日本からIOC委員に億単位の贈賄の疑惑が明らかになり、疑惑の中心に立たされた竹田恒和JOC会長が、任期終了とともに委員も辞任することで、疑惑劇はいったん封じられた。疑惑の詳細は、以下のとおりである。

招致委員会がIOCのラミン・ディアク委員の息子パパマッサタ・ディアク氏の関係するシンガポールの会社の口座に、招致決定前後の2013年7月と10月の2回に分けて、合計約2億3000万円を振り込んでいたというものだ。

2019年1月には、フランスの捜査当局が招致の最高責者竹田会長を、招致に絡む汚職にかかわった疑いがあるとして捜査を開始したのである。さらに2020年9月には、上記のシンガポールの会社の口座から、パパマッサタ氏名義の口座や同氏の会社の口座に3700万円が送金されていたことが判明したのである。やはりカネは委員に渡ったのだ。

その資金の出所も判明している。

◆疑惑のダミー団体への「寄付」を菅総理(当時幹事長)が依頼していた?

そのカネの依頼主は、なんと菅総理(当時幹事長)だったのだ。

セガサミーの里見治会長が、菅総理(当時幹事長)から買収工作資金を依頼され、 3~4億円を森会長の財団に振り込んだことが「週刊新潮」(2020年2月20日号)で報じられた。

この記事によると、以下のような依頼が菅官房長官からあったという。

「菅義偉官房長官から話があって、『アフリカ人を買収しなくてはいけない。4億~5億円の工作資金が必要だ。何とか用意してくれないか。これだけのお金が用意できるのは会長しかいない』と頼まれた」

里見会長が「そんな大きな額の裏金を作って渡せるようなご時世じゃないよ」と返答すると、菅官房長官は、こう返したという。

「嘉納治五郎財団というのがある。そこに振り込んでくれれば会長にご迷惑はかからない。この財団はブラックボックスになっているから足はつきません」
さらには念を入れて、

「国税も絶対に大丈夫です」と発言したというのだ。寄付金というかたちで、黒いカネをつくったのである。

この「嘉納治五郎財団」というのは、森喜朗組織委会長(当時)が代表理事・会長を務める組織なのだ。JOCがダミー団体として使っていたのは明らかだ。財団は疑惑をかき消すかのように、昨年末にひっそりと解散している。これも疑惑隠しの手口であろう。

いずれにしても、この菅官房長官からの要望で、里見会長は「俺が3億~4億、知り合いの社長が1億円用意して財団に入れた」とし、「菅長官は、『これでアフリカ票を持ってこられます』と喜んでいたよ」と言うのだ。この記事には裏付けもある。

◆セガサミーも寄付をみとめる

「週刊新潮」の取材に、セガサミー広報部は「当社よりスポーツの発展、振興を目的に一般財団法人嘉納治五郎記念国際スポーツ研究・交流センターへの寄付実績がございます」と、嘉納治五郎財団への寄付の事実を認めたという。

さらに「週刊新潮」(2020年3月5日号)では、嘉納治五郎財団の決算報告書を独自入手し、2012年から13年にかけて2億円も寄付金収入が増えていることが確認されている。関係者は「その2億円は里見会長が寄付したものでしょう」と語ったという。

もはや明らかであろう。菅総理は官房長官として国政の中心にありながら、オリンピック招致を金で買う犯罪に手を染めていたのだ。オリンピック史を汚濁に染める大スキャンダルである。

◆疑惑封じのためにも、強硬開催に突っ走る菅政権

東京オリンピック招致の裏側には、このような大スキャンダルが行なわれていたのだ。その詳細を知る、JOCの経理部長が自殺したのである。

森友事件の財務省近畿財務局の赤木俊夫氏が自殺したことを想起させる、まさにスキャンダルの中の死である。その赤木ファイルは、まもなく裁判に提出されるという。

おそらく今回は出勤途中の、衝動的な死ではないだろうか。森谷靖氏が何を残して死んだのか、疑惑だらけのオリンピックの疑惑を封印するためにも、JOCおよび菅政権は強硬開催に突き進むしかないのであろう。

これで、ようやく国民も得心がいくのではないか。もはや何をおいても、国民の生命の危険をも承知のうえで、オリンピックを開催しなければならない「秘密」が。

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』7月号

メインイベンター勝次、再起第2戦も完勝! 堀田春樹

新日本キックボクシング協会の屋台骨を支える勝次、重森陽太、リカルド・ブラボ、高橋亨汰、瀬川琉は前回4月に続き連続出場。

チャンスを逃さなかった勝次の左フックが剣夜にヒット

沖縄拠点の「TENKAICHI」からの刺客を退けた勝次、リカルド・ブラボ、高橋亨汰。

勝次は4月興行に続き2連勝で10月興行も出場予定。

重森陽太は、NJKFのベテラン健太を退けた。

◎MAGNUM.54 / 2021年6月6日(日)後楽園ホール / 17:30~19:40
主催:伊原プロモーション / 認定:新日本キックボクシング協会

◆第9試合 メインイベント 64.0kg契約3回戦

左フック喰らった剣夜が崩れ落ちノックダウン

WKBA世界スーパーライト級チャンピオン.勝次(藤本/1987.3.1生/63.9kg)
     VS
剣夜(前TENKAICHIスーパーライト級C/SHINE沖縄/63.45kg)
勝者:勝次 / TKO 3R 2:24 / 主審:少白竜

勝次が慎重に距離を取ってパンチとローキックで前進。剣夜はスピードは無いが、パンチと蹴りの伸びが良い。

勝次は剣夜のパンチで鼻血を流す様子も有り。3回戦では勝負が付き難い流れも接近したパンチの距離の中、タイミングを逃さず左フックを浴びせると剣夜が崩れ落ちるノックダウン。

ノックアウトのチャンスを迎えた勝次は連打で剣夜をコーナーに追い詰め更に連打する中、右ストレートが強烈にヒットすると剣夜陣営からタオル投入し、レフェリーが受入れ勝次のTKO勝利。

勝次が連打からコーナーに追い詰め、右ストレートをヒット、決定打となった
剣夜は暫く立ち上がれずも、致命傷とはならず無事にリングを下りた

◆第8試合 62.0kg契約3回戦 

WKBA世界ライト級チャンピオン.重森陽太(伊原稲城/1995.6.11生/61.45kg)
     VS
WBCムエタイ日本スーパーライト級1位.健太(E.S.G/1987年6月26日生/61.7kg)
勝者:重森陽太 / 判定3-0
主審:椎名利一
副審:桜井30-28. 仲30-28. 少白竜30-28

健太が独特の圧力で前進。重森はいつもよりは蹴り難くそう。それでも時折、強い前蹴り、ミドルキックで健太を突き放す。落ち着いた試合運びの健太として焦りはないが突破口は開けない。パンチで出る健太を的確な蹴りを多発した重森が上回り判定勝利。

重森陽太のミドルキックが健太にヒット
重森陽太の前蹴りで健太の前進を阻止

◆第7試合 70.0kg契約3回戦 

日本ウェルター級チャンピオン.リカルド・ブラボ(伊原/アルゼンチン/69.85kg)
      VS
TENKAICHIウェルター級3位.杉原新也(ワイルドシーサー前橋/69.55kg)
勝者:リカルド・ブラボ / TKO 1R 2:43 / 主審:宮沢誠

様子見の展開は少なく、リカルドがパワーで押し勝つと、接近戦でパンチから左ヒジで杉原の眉間から流血しドクターチェック再開後、リカルドが連打で杉原をノックダウンさせると、ここで流血が激しくなった杉原が再びドクターチェックを受け、ドクターの勧告を受入れレフェリーストップ。リカルドは4月に続き、2試合続けて1ラウンドTKO勝利となった。

リカルド・ブラボがハイキックで圧力掛けて出る
接近したところでリカルド・ブラボがヒジ打ちヒット

◆第6試合 62.5kg契約3回戦

日本ライト級チャンピオン.髙橋亨汰(伊原/ 62.4kg)
     VS
TENKAICHIスーパーライト級チャンピオン.リュウイチ(無所属/ 62.55→62.5kg)
勝者:髙橋亨汰 / TKO 2R 1:47 / 主審:桜井一秀

様子見の攻防から髙橋のローキックでリュウイチはバランスを崩し気味。更に高橋はローキックからハイキックに繋ぎ、勢いづいて顔面に前蹴りを叩き込み、ロープを背負ったリュウイチに連打でリュウイチがダウン。立ち上がったリュウイチに更に顔面前蹴りでコーナーに吹っ飛ばし、パンチのラッシュでリュウイチが崩れ落ちたところでレフェリーストップとなった。

高橋亨汰の前蹴りがリュウイチを突き飛ばす
高橋亨汰が連打したところでレフェリーストップ

◆第5試合 フェザー級2回戦

中村哲生(伊原/ 56.75kg)vs 新保基英(OGUNI/ 56.5kg)
勝者:新保基英 / KO 2R 1:05 / 3ノックダウン
主審:仲俊光

中村哲生は昨年9月、55歳でデビュー。50歳でデビュー戦を迎えた新保基英がKO勝利。

◆第4試合 58.0kg契約3回戦

瀬川琉(伊原稲城/ 57.8kg)vs TAKAYUKI(=金子貴幸/REV/ 57.55kg)
勝者:瀬川琉 / 判定3-0
主審:少白竜
副審:椎名30-27. 仲30-27. 宮沢30-26

大輔(TRASH)が体調不良で欠場で元NJKFスーパーバンタム級チャンピオンの金子貴幸が代打出場。瀬川琉の左ストレートが効果的にヒットしリズムを作り、ノックダウンも奪って大差判定勝利を掴む。

◆第3試合 フェザー級2回戦

木下竜輔(伊原/ 56.75kg)vs 松山和弘(ReBORN経堂/ 57.1kg)
勝者:松山和弘 / 判定0-2 (19-19. 18-20. 19-20)

◆第2試合 女子キック(ミネルヴァ) 49.0kg契約3回戦(2分制)

オンドラム(伊原/49.7→49.4kg/計量失格ペナルティー有り)
     VS
紗耶香(格闘技スタジオBLOOM/48.7kg)
勝者:紗耶香 / 判定0-3 (28-30. 28-29. 29-30)
オンドラムは前日計量で制限時間ギリギリまで汗を流して頑張った様子も落とし切れず。

◆第1試合 女子ジュニアキック 45.0kg契約2回戦(2分制)

曽我さくら(クロスポイント大泉)vs 堀田優月(闘神塾)
勝者:堀田優月 / 判定0-2 (19-20. 19-20. 19-19)

《取材戦記》

勝次はコーナーに詰めてのパンチ連打で、レフェリーが止める少し前の右ストレートのヒットが凄く手応えがあったという勝次。見かねたセコンドがタオルを投げた流れになるが、先週の喜入衆のような後ろに倒れて後頭部を打つような大事に至らず、剣夜は立ち上がって歩いて無事にリングを下りた。

「新日本キックボクシング協会、選手全員が強くなって大きな団体にしたい。大きな興行に出て行きたい。」とマイクで語った勝次。RIZIN、RIZE、KNOCK OUTなどのイベントが注目される現在、重森陽太は7月18日にKNOCK OUT興行に出場。江幡睦(伊原)は同7月18日、大阪でのRISE 興行に出場。勝次も大きなイベント出場を目指しつつ、新日本キックボクシング協会が再び大きな団体へと、勝次が現役中にどこまで老舗復活へ導けるか。

試合翌日6月7日で古希を迎えた伊原信一代表。そのお祝いの言葉が勝次や江幡睦から贈られました。昭和の名選手が次々と70歳代突入する時代です。我が身もいつかそれを追う。時の流れは早いものです。

老舗の年間興行が3回とは寂しい限りの2021年。次回興行は10月17日(日)後楽園ホールで開催予定。興行タイトル「TITANS NEOS.29」か「MAGNUM.55」どちらかは未定です。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』7月号