格闘群雄伝〈11〉伊達秀騎──本場ムエタイで開花、チャンピオン育てた日本戦士

◆ヤンガー秀樹時代

元・全日本ウェルター級2位.伊達秀騎(本名・鈴木秀樹/1970年5月、宮城県仙台市出身)はチャンピオンには届かなかったが、その叶わなかった夢をタイに向け、現地で正規のジムを構え、ムエタイ二大殿堂チャンピオンを誕生させたことは、タイ側から見た外国人初の快挙を成し遂げた。

フェアテックスジムでのミット蹴り(1991年7月)

鈴木秀樹は中学1年から器械体操を学んでいたが、通学中に「練習生募集中」の看板を見て興味本位に仙台青葉ジムを覗いた。

「丹下段平ジムみたいな掘っ立て小屋の窓から覗いてみたら、蹴ったら自分の脚を痛めそうなヘビーバッグが吊るしてあって、これは普段見る学校のクラブとは比べられない別世界と感じた」というキックボクシングという世界の最初の印象だった。

高校は体育科だったが新設校で、1年目はまだ体操部が無かったことや、兄がブルース・リーが好きだった影響で格闘技に興味があった鈴木秀樹は、運命に導かれるがまま仙台青葉ジムに足を運んだ。

器械体操で鍛えた体幹はバランス抜群の蹴りを備え、デビュー戦は高校2年になった1987年(昭和62年)6月25日、地元の宮城県スポーツセンターで高橋真(山木)に判定勝利。

ここで瀬戸幸一会長からジムの次期エースと期待できる選手に与える、歴代リングネーム“ヤンガー”を授けられた。初代はヤンガー石垣(後の轟勇作)、二代目はヤンガー舟木(後の船木鷹虎)に続く“ヤンガー秀樹”となった。しかし、素質は誰もが認めるも高校卒業時までに7戦2勝5敗。三代目ヤンガーを継承したが、連敗が続くことにプレッシャーを感じていたという。

◆伊達秀騎時代

「戦績も悪くなり、何か練習環境を変えなければと、東京でやろうと思ったのが切っ掛けです」という鈴木秀樹は、高校卒業後上京。親戚が居た板橋区に住むと、やがて近くにあった小国ジムを見つけ仮入門。当初はまだ仙台青葉ジム所属のまま試合出場して大村勝巳(SVG)にTKO勝利。特に難しい条件は無く、これで円満移籍した。

リングネームは自身で考えた、伊達秀騎に改名(以後文中、伊達秀騎)。出身地の英雄、伊達政宗から名前を肖った。

移籍初戦は勝山恭次(SVG)に判定負け。それまでにも判定に納得いかないことが多かった為、リスクを伴うが倒すスタイルに移行。2連続KO勝利するが、1992年(平成4年)10月、全日本ライト級挑戦者決定トーナメントで杉田健一(正心館)に顎を打ち抜かれKO負けしてしまう。

ダメージ回復の休養と自分を見つめ直す為にブランクを作るが、空手大会出場やパンチの技術を学ぶ為、プロボクシング転向を試み、沖ジムに入門を果たしていた。自分のパンチはどこまで通用するか、当初は真剣にプロボクシングデビューを志し、プロテストは無事合格を果たすが、キックボクシングへの情熱を拭いきれず、デビュー戦を前に、お世話になりながらも感謝の気持ちを持って沖ジムを後にした。
後のキックボクシング復帰は1994年6月、仙台興行で日本人キラーだったジャルワット・オーエンジャイ(タイ)にKO勝利して再起を飾る。

ここから全日本ウェルター級挑戦者決定トーナメント出場となるが、松浦信次(東京北星)にKO負けする大失態。大飛躍のチャンスを落としたことは周囲にとっても大きな落胆だった。

アナン会長のゲーオ・サムリットジムで調整(1993年9月)
ジャルワット・オーエンジャイ戦、仙台での復帰戦をKO勝利(1994年6月25日)
王座挑戦へのトーナメント、松浦信次戦は悔しい敗戦となる(1994年9月23日)

◆ムエタイ修行で人生転換

伊達秀騎が初めてタイ修行したのは1990年5月、バンコク・ドンムアン空港から発つ飛行機の真下で、騒音が酷い地域にある名門ムアンスリンジムだった。練習以外もキツい環境で、通気性の悪い倉庫のような選手の宿舎。初めてタイ修行に行く者にとって、文化や生活環境の違いは耐え難い状況だっただろう。

もう行きたくないと思っていたというタイだったが、1991年7月、「同門の高津さんに付き合う形で一緒に行きました」と言う、ジムで先輩から勧められていたフェアテックスジムに赴いた。トレーナーを務める伝説のチャンピオンと言われるアピデ・シッヒランさん宅にホームステイする形で修行し、1ヶ月ほど我が子のように慕って貰ったことから一転、タイとムエタイに惚れ込んでいき、後々の運命を変える人生の分岐点となる修行であった。

タイでの初試合は1993年9月のバンヤイシティースタジアム。それまでフェアテックスジムでの修行だったが、層の薄い重量級では試合は組まれ難いものの、逆に選手が足りない事態も起こり、後々深い縁となるゲーオサムリットジムのアナン・チャンティップ会長から声が掛かり試合出場した。

「逆転KO勝ちでしたが、試合が盛り上がると、インターバル中にもギャンブラーからチップをくれて、興行一座のドサ周りみたいな感じが面白くて、タイでの試合にハマりました」とムエタイ初試合の印象を語る。

1994年10月には、メコン河を挟んだラオスとの国境となる街、ノンカイでの試合はKOで敗れたが、タイ全土にテレビ生中継され、倒しに行く姿勢で相手を苦しめた試合内容を評価されたことで再戦が決まり、翌年1月、チェンマイでもタイ全土にテレビ生中継の中、敗れるが大激戦となり、アナン氏からより一層信頼される存在となっていた。

当時、日本で大事な試合に敗れ、更に団体は分裂を起こし、目指していた目標は消え、モチベーションも低下する中、タイで仕事をしながら現役を続けられるのではと考えた伊達秀騎は日本のリングを去った。

アナン会長が冗談を言いながらバンテージを巻くリラックスした試合前(1994年10月18日)
[左]ノンカイでの試合、タイ全土に放映されるサーティット戦(1994年10月18日)/[右]チェンマイで再戦、バックヒジ打ちでサーティットを苦しめる(1995年1月29日)

1996年10月、心機一転タイに移住し、人材紹介会社に就職した。

しかし、タイでも仕事を任せられれば徐々にジムに向かう時間が無くなるのは当然だった。それでもアナン氏から試合のオファーが来ると断らずに受けていた。まだ26?27才で、現役時代の厳しいトレーニングの貯金で動けていた身体だったが、移住1年程経った時期、ラジャダムナンスタジアムでの試合で3ラウンドTKO負けの頬骨陥没骨折。全身麻酔で手術を受けて8日間入院。今でも頬骨にボルトが入っているという。舐めてはいけない本場ムエタイの仕打ちだった。

怪我は癒えた後々、現役に悔いを残さない想いをもって挑んだラジャダムナンスタジアム・ミドル級1位の強豪にKO負け。これでリング上では全てをやり終えた伊達秀騎だった。

同スタジアム、激戦に持ち込む伊達秀騎(1995年6月)
サムローンスタジアムでワイクルー(戦いの舞い)を舞う伊達秀騎(1995年6月)

◆タイビジネスの恩人

その後、30歳を目前にして起業。ムエタイや撮影のコーディネート、ムエタイ日本語情報誌の発行などを興し、2002年2月、バンコク中心部スクムビット地区に目標としていたイングラムジムを設立した。

2004年にブアカーオ・ポー・プラムックを来日させると、K-1 MAX初出場で優勝。その後、サガッペット・イングラムジム(タイ)をルンピニースタジアム・ライト級、ジョイシー・イングラムジム(ブラジル)は欧米人初のラジャダムナンスタジアム・ウェルター級の二大殿堂スタジアムでチャンピオンを輩出する日本人としては初の快挙を成し遂げた。

しかしムエタイ業界に限らず、どこも競争が激しい世界。ルンピニースタジアムのプロモーター傘下では、あらぬ嫌がらせも受けたという。そんなことはよくある業界内特有のしがらみで、ラジャダムナンスタジアムに移ることもあった。

しかし、ルンピニースタジアムに出場していた弟子のダーウサミン・イングラムジム(後のWPMF世界スーパーフライ級チャンピオン)が、前座ながら白熱した試合で、チャンピオンやランカーを差し置いて月間最優秀試合賞を獲得し、本気になって選手を輩出していれば外国人でも認めてくれるのだと、イングラムジムの名前が認められてきたと思ったという。

ここまで這い上がって来れたのは、アナン会長との縁で、試合オファーには出来る限り応じた為、ジム運営やビジネス面では多くのバックアップをしてくれた恩人だという。アナン氏自身も苦労人から這い上がり、多くの強豪選手を輩出し、タイ国ムエスポーツ協会監査役員になるなど実績高い人物だった。そのサクセスストーリーを間近で見てきた伊達秀騎の成功があるのだろう。

2020年初頭は、スポンサーだった日本企業のバックアップで、BTS(バンコク高架鉄道)エカマイ駅近くの800平米もの好物件を見つけジムを移転し、オープン当初は順調だったが、コロナ禍が直撃し3月には政府からタイ全土に営業禁止の通告が出され苦境に陥り、9月末を持ってジム閉鎖に至ってしまった。

その後、ムエタイ界の重鎮達からは、新たなジム開設を勧められているが、現在はどのような形で再開可能かをいろいろと模索している状況という。

2015年には結婚し、翌年長女が生まれて現在4歳。もう言葉が話せるのは当然として、日本語、英語もある程度話せるという。生き甲斐は我が妻と娘いう伊達秀騎。もうとっくの昔に“ビジネスマン鈴木秀樹”に戻っているが、2021年は新たなビジネス展開を見せてくれるだろう。

国家が絡むビッグイベント記者会見に並ぶ、前列左から伊達秀騎、アナン会長、ブンソン大佐(タイ国ムエスポーツ協会副総裁) (2017年3月)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

月刊『紙の爆弾』2021年2月号 日本のための7つの「正論」他

格闘群雄伝〈10〉赤土公彦 ── 目指すは親子チャンピオン三組目!

◆よくある入門動機

赤土公彦(1967年6月29日大阪市出身)は時代の変わり目に突如現れた期待の新星。中学2年生の時、父親の仕事の都合で東京の小岩に転居してきたが、後に喧嘩でボクシングを習っている奴にボッコボコにされ、もっと強い競技を習って見返そうと、地元のキックボクシング西川ジムに足を踏み入れた。1983年(昭和58年)、高校入学したばかりの頃だった。

当時の国鉄小岩駅から3分ほど歩いたところにある雑居ビル5階の西川ジムは静かでガラーンとしたもの。毎度の謳い文句だが、キックボクシング界低迷期、興行を細々と続ける時代、どこのジムも閑散としたものだった。

しかし、高校一年生の赤土にとってはどうしても強くなりたいだけ。そこで見た、重く硬いサンドバッグを折るような、ベテランらしき足立秀夫の鋭い蹴りにもう一目惚れ。これは強くなれそうだとその場で入門した。

入門動機を聞いた西川純会長は「喧嘩で強くなるにはプロで20戦以上はしないとな!」と発破を掛けるが、これが後々まで強烈な印象として記憶に残り、志高く持つ動機付けとなったという。

ベテラン土田光太郎にはダブルノックダウンの末、判定負け(1985年11月22日)
10歳年上の坂巻公一をKOして王座戴冠(1986年9月20日)

◆キック界の復興の波に乗り

入門一年を経た1984年(昭和59年)9月23日、17歳でデビューを判定勝利した赤土の周囲には、「凄い先輩達だらけだった!」と言うとおりの西川純会長をはじめ、向山鉄也、足立秀夫といった激戦を経てきた先輩達だったが、入門生が滅多に入らない時期、赤土は先輩たちに厳しい指導を受けつつ、可愛がられる弟のような存在となった。

さらには業界の流れは赤土のデビューを後押しするように4団体統合による復興に一気に好転した時期だった。

しかし、デビュー翌年には同期のライバル、杉野隆之(市原)に判定負け、ベテランの土田光太郎(光)に判定負けも、1986年9月、日本フライ級チャンピオン、坂巻公一(君津)を倒し、19歳で王座に上り詰めた。

「高校三年の時、5戦3勝2敗のくせに卒業文集で『チャンピオンになります!』と宣言していたので、早期に巡ってきたチャンスのプレッシャーに潰されそうになりながら、向山先輩に江戸川の土手まで連れて行かれた坂道で、いつ終わるかも分からない過酷なダッシュを毎日、何十本と命ぜられた成果で勝てました。試合3日後に母校の文化祭があったのでチャンピオンベルトとテレビ放送のビデオを持って生徒皆に見てもらって、有言実行出来たとホッとしました」と当時を語る。

19歳で王座戴冠、当時は乱立少なく価値があった日本チャンピオンベルト(1986年9月20日)
タイ遠征、ノンタチャイジムで鍛える(1989年1月2日)

しかしそんな悠長に構えている場合ではなかった。静養のつもりで家で寛いでいると、向山先輩が訪れ、玄関で「公彦居るか!」と叫ぶとそのまま茶の間まで怒鳴り込んで来たという。

「赤土テメェ、チャンピオンになった自覚あんのか!これからが大変なんだぞ、何で練習に来ねえんだ!」と父親の前で本気で怒鳴られ、驚きつつも涙を流すほど嬉しかったという。

浮かれている場合ではないと自覚した赤土は挑戦者の気持ちを思い出し、初のタイ修行は心細い一人旅を経て、翌年3月、杉野隆之との再戦を闘志むき出しでノックダウンを奪い判定ながら同期対決に雪辱を果たした。

この1987年、復興した全日本キックボクシング連盟に移る事態が発生したが、更なる抜擢、WKA世界フライ級王座挑戦の機会を得た。

向山先輩からは「お前は今一番練習している選手だ、自信を持て!」と言われて不安は無かったと言うが、ミデール・モントーヤ(メキシコ)に僅差の判定で敗れ、慣れぬ2分制の12回戦、ヒジ打ちヒザ蹴り禁止の中での大善戦は周囲の高い評価を得た。

その後、イギリス、韓国、タイ等の国際戦を含め、全日本フライ級王座は宮野博美(光)、有光廣一郎(AKI)を退け、1990年1月、水越文雄(町田)に激闘の判定勝ちで3度目の防衛を果たすも、そこから1年半近いブランクを作ってしまった。フライ級でライバルは少なく、モチベーション低下が要因と思われた。

タイで2戦目、ランシットスタジアムに出場、緊張の試合前(1989年1月9日)

◆体調の異変

その頃、赤土に起きていたことは、「頭痛が頻繁に起こって、サンドバックを叩いても振動でフラっときて、初めて脳外科でCTスキャンを撮ったら先天性の陰があって、『もしボクシングだったらプロテスト受からないよ!』と言われてショックを受けました。そして、引退したらどうなるんだろうと考え出した頃、実家のタイル業を手伝い始めて、目標のバランスが難しくなってきた頃でした。」と語る。

脳疾患の為、暫く安静期間を過ごした赤土は、不完全燃焼のまま終わるわけにはいかないと、以前、日本チャンピオンになった直後、向山先輩に檄を飛ばされたことを思い出し、「あの頃のようにガムシャラにやってみよう!」と決意新たにした赤土は、目標を二階級制覇と定め、1991年(平成3年)4月、再起に備えタイ修行からやり直した。そして6月、自己初のメインエベンターでデンディー・ピサヌラチャン(タイ)に攻勢を許さず、3ラウンドKO勝ちし復活を遂げた。

ようやく勢いづくも同年9月、今度は初のKO負けを喫してしまう。勝っても負けてもKOの少白竜(谷山)の開始早々のパンチの突進で、第1ラウンド、あっという間に3度のダウンを奪われ、あっけなくKO負け。

「日本人に負ける気がしなかった慢心と、少白竜さんの強打を甘くみていた結果だと思います。」と反省。

ムエタイ戦士は蹴りの捌き、試合運びが上手く判定負け(1989年1月9日)

力を出し切れずにリングを降りる屈辱に、すぐに雪辱戦を申し入れると、翌1992年1月、全日本バンタム級王座決定戦として再戦が実現した。赤土もデビュー当時はジーパンをはいても48kgという貧弱な体から、この頃はフライ級には落ちないほど逞しい体に成長していた。相変わらず少白竜はKO狙って強打で突進して来るが、二の舞いは踏まずカウンターパンチで打ち勝ち、第1ラウンドKO勝ちで二階級を制覇した。 

そして休む間もなく、 期待された二大組織の交流マッチが開始された頃の同年3月、日本バンタム級チャンピオン、鴇稔之(目黒)と対戦。

鴇稔之の手数と巧妙さにやや押される部分もあったが、互いの攻防は凄まじく、5ラウンドに右ストレートでダウンを奪うが1-0の優勢ドロー。お互いの名誉と誇りを懸けた、最後に出逢えたライバルと名勝負を展開。

この鴇稔之戦を引き際と考え、リングを遠ざかった後、1994年6月、立嶋篤史とエキシビジョンマッチを披露して引退式を行ない、現役を去った。

「立嶋君とは彼の新人の頃から何度かジムで会ってもメラメラと闘志を感じていたので、戦いたい相手の一人でもあった。」と言う。一度、フライ級で対戦の可能性がわずかにあった時期があるが夢物語に終わっていた。「終了ゴングの瞬間、現役への決別に後悔したくないと右ストレートを思い切り出しちゃいました。」という終了も、そこは心の内知る二人が交わす言葉の中で打ち解けた終了となった。

[写真左]少白竜に雪辱し2階級制覇(1992年1月25日)/[写真右]チャンピオン対決、鴇稔之戦は完全燃焼したラストファイト(1992年3月21日)

◆昭和が残したキックボクサー

赤土は過去のタイ修行で2試合こなしていた。1988年(昭和63年)2月、ルンピニースタジアムに出場したが判定負け。土曜の昼興行だったが、メインイベントで相手がBBTVのチャンピオンだということは試合終了後まで知らぬまま。タイ初戦からかなり強敵だったようだ。

2戦目は1989年(平成元年)1月、ランシットスタジアムに出場。ムエタイ独特の蹴り捌き、ポイント獲り戦法に突破口を見出せず判定負け。タイではいずれも敗れ、ムエタイの壁は厚かったという。

赤土は昭和の匂いを醸し出すキックボクサーだった。そこには西川純会長の教え、向山鉄也先輩の厳しさがあった。

堂々たるチャンピオンの存在感示した赤土公彦(1994年6月17日)

西川純会長からは「プロは練習をしているんだからスタミナはあって当たり前、そして根性もみんな有るんだ。だから技を磨いてそれを競い合うんだ!」という忠告や、「チャンピオンなんだからリングの上で喜ぶな、勝って当たり前という態度でいろ!」と注意されたことも忘れられないという。古い昭和時代の考え方だが、これが本来のキックボクサーたるものだろう。

赤土公彦は引退後、家業を継ぎ、タイル・石施工・左官など外構工事を請負う「KINGタイル」代表を務め、2005年に結婚。年子の息子さんを2人儲け、小学生時代からキックボクシングに興味を持っていたという2人は現在中学生。赤土は毎朝、仕事に行く前に自宅の前で指導もする。キック界で親子チャンピオンは向山鉄也さんと羅紗陀(竜一)親子が最初で、二組目が中川栄二とテヨン(勝志)親子、現在3番目を兄弟揃って達成出来ればと頑張っている。

終了間際に悔いを残さぬ右ストレートを立嶋篤史に打ち込む(1994年6月17日)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

新型コロナに襲われて、興行が激減したキックボクシングの2020年を回顧する!

◆2月28日、興業の中止・延期が始まった

世界中が凍り付いた新型コロナウィルス蔓延。日本においては2月26日に安倍首相(当時)が、スポーツや文化に関するイベントの中止や延期を要請しました。プロボクシングはJBC(一般財団法人日本ボクシングコミッション)より、翌日には28日からの3月31日までの興行を中止または延期とし、各プロモーターに通達しました。

クラスターが発生したルンピニースタジアム(画像は2015年撮影)

キックボクシングは統一管轄機関がないため、自粛要請を受け入れない事態もあり、当初は各イベントによって対応が分かれました。中止が長引く中、8月半ばから観衆50パーセント以下の制限と会場入口に消毒剤の設置、主催者とマスコミ関係者は会場に入る際もコロナ抗体簡易検査や検温が実施され、リングサイド関係者はマスクとフェイスシールド着用が義務付けられる処置を決行。これらは昨年末には誰もが想像し得なかった初体験。規制がやや緩い団体もありますが、この体制は延々と続いています。

これで何とか興行再開となったものの、興行収益は激減。その後はクラウドファンディングや、有料生配信という体制も増えていきました。

石毛慎也はコロナで防衛戦出来ずに返上か(写真は2019年11月28日の獲得時)

これで国内は何とか興行は続くものの、困ったのが日本人ムエタイ殿堂チャンピオン。タイでは3月6日のルンピニースタジアムで集団感染が発生し、タイ政府は3月10日以降、スタジアムやジムの閉鎖に踏み切りました。

2019年11月28日に、現地で日本人9人目の殿堂王座、ラジャダムナンスタジアム・ミドル級王座獲得となった石毛慎也(ライラプス東京北星)の場合、戴冠後初の試合をノンタイトル戦ながら3月15日、ラジャダムナンスタジアムにて予定されていましたが突如中止。

5月に予定されていた初防衛戦も開催見込みが無くなり、興行権を持つプロモーター(シェフブンタム氏)がラジャダムナンスタジアムを離れた為、石毛慎也はこのまま王座返上となる見込みという。

タイは実質軍事政権と言われ、こういう緊急事態の際には統制が取れて規制厳しく、その効果で感染者激減に伴い、7月4日にはオムノーイスタジアムで無観客興行が始まり、ラジャダムナンスタジアムも続いて15日から無観客興行が暫く続きましたが、ルンピニースタジアムは集団感染発生地でもあり、延々閉鎖が続いています。
その後も感染者小康状態が続き、平常に戻りつつあったタイでしたが、12月に入ると22日までにサムット・サコーン県の海産物市場で再びコロナウィルス集団感染が起こったため、政府は再び厳戒態勢。高リスク地域を封鎖した模様。

ムエタイ興行も23日から再び中止に陥った様子です。3月の時は厳戒態勢で感染者が激減した効果もあるので今後もその効果が期待されます。

本来のラジャダムナンスタジアム。ギャンブラーが居てこそ盛り上がる
藤本会長の勇姿。勝次は伊原信一氏のもとで藤本ジムを引き継いだ(2016年12月11日)

◆5月5日、キックボクシング創生期からの最古参、藤本勲会長永眠

コロナに関係なく、今年の一番印象深いのは、5月5日に78歳で永眠された藤本ジム会長の藤本勲氏。経歴はすでに何度か掲載しているので省きますが、1966年に日本初のキックボクシングジムとしてスタートした目黒ジムは1998年に藤本勲氏がその伝統を受継ぎ、その後も多くのチャンピオンを誕生させてきましたが、数年前から患った多臓器の病が悪化し、前年12月8日には勇退式を行ない、その後もジムには顔を出す程度でしたが、やがて継続困難となり、2020年(令和2年)1月30日をもって閉鎖されていました。

前身の野口ジムからの、下目黒の聖地を閉鎖することには、その後継者がいなかったことはまた別事情があり、所属していたチャンピオンと主なランカーはそれぞれが選ぶジムに移り試合出場を果たしています。創生期を知る藤本氏、「もっと話を聞いておけばよかった」「また食事にお誘いしたかった」等、我々から見ればやり残したこと多く、その存在感は改めて大きかったと失望感が漂いました。

◆キック界は「打倒!那須川天心」を中心に回っている

キックボクシング界の中心人物、那須川天心(2016年12月5日)

プロボクシングでは井上尚弥が中心、キックボクシング系では那須川天心が中心に回ったのは今年だけではなく、ここ数年続いていますが、格闘技界の構造もかなり変わってきたもので、今に始まったことではないものの、K-1、RIZIN、RISE、KNOCK OUT等のビッグマッチを興すイベント興行会社が徐々に増えつつある時代です。

そこで話題の強者が集約されたトーナメント戦で頂点を極めることが定着。その中のひとつに那須川天心に挑戦する為のトーナメントも行われている現状。そういうイベントに呼ばれるが為のアグレッシブな試合と、目立つ発言を起こし話題を集めた選手が出場、注目されるというのが今の時代でしょう。

◆既存の協会、連盟といった団体の存在感

今後、長き歴史を持つ各団体も存続していくことでしょう。しかしここでチャンピオンになってもすぐ返上する選手が多く、 “元チャンピオン”の肩書でも、そこから落ちることなく通用するキックボクシング界。その先に選手が目指すK-1、RIZIN、RISE、KNOCK OUT等があると、既存団体はもうすでに日本タイトルとは言えないローカルタイトルに成り下がっている状況でもあります。

さらには分裂を繰り返し乱立するより、フリーになった方がいいというジムが現れるのもこの時代でしょう。その既存の各団体も、今年はコロナウィルス蔓延による活動が制限された年であり変化は少なかったものの、今後コロナが収束に向かうならば、2021年はまた各団体の在り方に変化が見られるかもしれません。本来あるべき姿が協会や連盟という団体。そこに権威が増すことも各団体が今後、目指さなければならない頂点でしょう。

ビッグイベントは音響、照明、ゲストまで豪華に演出される大舞台

◆11月19日、格闘技振興議員連盟が発足 2021年はどうなるか?

2015年にスポーツ庁が設立し、2020年11月19日には超党派で「格闘技(プロレス・総合格闘技等)振興議員連盟」が発足しました。https://sp.njpw.jp/270525名声有るお方からの理想論としても、「統括するコミッションができたらいい」という発言が出て、それは10年前なら夢物語でも、今後何らかの形で進展するかもしれないのが2021年からの10年間かもしれません。

まずコロナウィルス蔓延が収束に向かわねば興行が儘ならず、ジム運営も規制が掛かれば競技そのものが成り立たなくなるので、2021年はただひたすら以前のような興行が行なえることを目指し、選手が安心して練習と戦いの場が与えられることが先決されるでしょう。

有料生配信、実況・解説は自前の選手とマッチメーカーという新たな挑戦(2020年12月12日)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

月刊『紙の爆弾』2021年1月号 菅首相を動かす「影の総理大臣」他

日本のヘビー級の戦い! 交戦シリーズファイナル!

田村聖は今年2月のPRIMA GOLD杯ミドル級トーナメント決勝を制すも9月13日のREBELS興行で日菜太(クロスポイント吉祥寺)に1ラウンドKO負け。大畠正士は11月22日、茨城県でのDEAD HEAT興行でチャン(MONSTAR)に判定負けし、結果を残せていない者同士の対戦という、宣伝アピールにはならないメインイベントとなった。

ロープにつめたところでヒザ蹴りを見舞った田村聖

田村聖は2013年10月にNKBミドル級王座決定戦で村井崇裕(京都野口)に敗れたが、2017年2月には西村清吾(TEAM KOK)との王座決定戦を判定2-0で王座獲得も、初防衛戦での西村との再戦で判定2-0で陥落し、この日再びタイトルマッチに意欲を見せた。

選手層の薄い重量級において、狙うにはミドル級しかないが、ヘビー級で試し運転したこの日の影響によっては新たな展開があるかもしれない。

◎交戦シリーズvol.6 / 12月12日(土)後楽園ホール18:00~20:48
主催:日本キックボクシング連盟 / 認定:NKB実行委員会

◆第10試合 ヘビー級 5回戦

NKBミドル級1位.田村聖(拳心館 / 82.5kg)vs 大畠正士(G-KICK RISING / 98.0kg)
勝者:田村聖 / 判定3-0 / 主審:前田仁
副審:川上50-47. 仲50-45. 鈴木50-46

田村聖は大畠正士の重量感を様子見した後、距離を縮めてローキック。大畠は重いパンチで返すが、田村を下がらせるには至らない。田村はローキックとボディーブロー中心に攻め、次第にノックアウトに結び付けるかと見えたが、大畠は耐え切った。

チョップパンチを浴びせる大畠正士

第2ラウンドには田村のヒジ打ちで大畠の眉間が切れるが傷は浅い。大畠は手刀斬るようなチョップパンチで場内を沸かせたがこの効果は薄い。最終ラウンド終盤の田村のラッシュの中、再びヒジ打ちで大畠の額が切れ、流血となったがすぐ試合終了のゴングが鳴った。

「倒れるかなと思うほど蹴って大畠は効いてた感じあったが、自分の脚の方が根負けした感じ。ボディーも効いてるかなと思ったけど倒れなかった。」と言う田村聖。

「田村のローキックは効いたし、今迄でいちばんボディーも効いたかもしれない。」と言う大畠正士。体重差は15.5kgあったが、耐え忍ぶには効果的でもスピーディーに攻め寄るには重い鎧だった。

ボディーブローも何度もヒットさせるが大畠は耐えた
蹴る側の田村の脚もダメージがあったローキック

◆第9試合 バンタム級3回戦

NKBバンタム級5位.則武知宏(テツ / 53.5kg)vs 古瀬翔(ケーアクティブ/ 53.52kg)
勝者:則武知宏 / 判定2-0 / 主審:佐藤友章
副審:川上30-28. 鈴木30-29. 前田30-30

小気味いい打ち合いが続いた試合。積極性はやや古瀬が優るも、的確さと落ち着いた捌きは則武のやや上回る経験値が優った。

セミファイナルを務めた則武と古瀬の攻防、存在感を示した

◆第8試合 55.5kg契約3回戦

NKBバンタム級4位.海老原竜二(神武館 / 55.0kg)
    vs
NJKFバンタム級5位.鰤鰤左衛門(CORE / 55.3kg)
勝者:海老原竜二 / 判定3-0 / 主審:仲俊光
副審:佐藤30-28. 前田30-28. 川上30-28

変則スタイルの鰤鰤左衛門に海老原は自分のリズムを崩さず距離を掴み、パンチと蹴りを的確に打ち込む。圧倒するには至らないが、鰤鰤の戦略を殺してしまう海老原の上手さが勝利を掴む。

海老原竜二が鰤鰤に攻め勝つ

◆第7試合 フェザー級3回戦

NKBフェザー級5位.鎌田政興(ケーアクティブ/ 57.0kg)vs 勇志(真門 / 56.9kg)
勝者:勇志 / 判定0-3 / 主審:鈴木義和
副審:佐藤27-29. 前田27-30. 仲27-30

期待される若手の勇志の小気味いい攻め。第1ラウンドに右ストレートでノックダウンを奪い勢い付くが、最終ラウンドには攻めのキレが無くなり失速も、6連勝無敗となった勇志。

勇志の多彩な攻めが優った

◆第6試合 63.0kg契約3回戦

NJKFライト級4位.吉田凜汰朗(VERTEX / 62.8kg)vs 洋介(渡邉 / 62.7kg)
勝者:吉田凜汰朗 / 判定3-0 / 主審:川上伸
副審:佐藤30-25. 前田30-25. 鈴木30-25

若い吉田凜汰朗のスピードが徐々に優っていく展開。第1ラウンド終盤に吉田は右ストレートでノックダウンを奪い、最終ラウンドには右ストレートをボディーにヒットさせノックダウンを奪った吉田。

ノックアウトは時間の問題かと思われる中、耐え切った洋介。終盤にはベテラン洋介のサウスポーからの左ストレートヒットが場内を沸かせるが逆転には至る強さは無く、吉田凛太朗の圧勝で終わる。

若さとスピードで攻勢を保った吉田凛汰朗と耐え忍んだ洋介

◆第5試合 フェザー級3回戦

獠太郎(DTS / 57.0kg)vs 矢吹翔太(team pain wind / 56.9kg)
引分け 1-0 / 主審:仲俊光
副審:鈴木30-29. 川上30-30. 前田30-30

◆第4試合 フェザー級3回戦

ベンツ飯田(TEAM Aimhigh / 56.75kg)vs 渉生(アント / 57.1kg)
勝者:渉生 / 判定0-3 / 主審:佐藤友章
副審:仲27-30. 川上28-29. 前田27-30

◆第3試合 ウェルター級3回戦 中止(公式発表は龍之介の不戦勝)

龍之介(TOKYO KICK WORKS / 66.4kg)vs ディスター・トシキ(KickBox / 体調不良で欠場)

龍之介はNKBウェルター級3位の笹谷淳とエキシビジョンマッチ2回戦(2分制)を行なう。

◆第2試合 53.0kg契約3回戦

ナカムランチャイ・ケンタ(team AKATSUKI / 53.0kg)vs 杉山空(HEAT / 50.5kg)
勝者:杉山空 / 判定0-3 (28-30. 28-30. 29-30)

◆第1試合 バンタム級3回戦

會町Tetsu(テツ / 53.2kg)vs 幸太(八王子FSG / 53.4kg)
勝者:會町 / 判定2-0 (29-28. 29-28. 29-29)

《取材戦記》

この日もツイキャス(twitcasting)による有料配信が行われました。運営スタッフで務める苦労もある中、実況と解説には北川“ハチマキ”和裕氏と笹谷淳氏が務めた模様。

メインイベントはヘビー級の戦い。決して名のある外国人選手ではないが、昭和のチャンピオン、斎藤天心や池野興信を思い出すような日本のヘビー級の試合だった。
現在のプロボクシングに当てはめれば田村聖はクルーザー級(-90.72kg)、大畠正士はヘビー級ながら、WBCでいえば新設されたブリッジャー級(-101.6kg)に当たります。

体格があまり大きくないアジア圏に於いてはミドル級超えの階級は設定されないことが多く、今後、選手層増加が見込まれなければ新たな階級新設は難しいでしょう。

この日の一番低年齢選手は15歳の杉山空(来月16歳)。一番歳の差対決は吉田凜汰朗(20歳)vs 洋介(40歳)。最年長は大畠正士が47歳。幅広い年齢層になったのものだが、昭和の時代は親子ほど年齢差ある対戦なんて考えられなかったものです。それだけ身体のメンテナンスが向上したことや3回戦制が定着したことも影響があるでしょう。

大畠正士選手は現在G-KICK RISINGジム代表であり、元々は19歳の時、平戸ジムからデビューし、この日は21戦目ながら、この業界でのキャリアは結構古い選手でした。

この日使われたグローブは第5試合までDONKAIDEE(マーシャルワールド社)製が使われました。日本キックボクシング連盟では通常、日本のウィニング社製が使われています。プロボクシングが軽量級でも8オンスである為、現在はウィニング社製に6オンスが無いことから他社製に切り替えるしかなかったようです。

日本キックボクシング連盟2021年最初の興行は2月20日(土)後楽園ホールに於いて「必勝シリーズvol.1」として開催予定です。

大差判定勝利の田村聖、タイトルマッチへ意欲を見せた

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

月刊『紙の爆弾』2021年1月号 菅首相を動かす「影の総理大臣」他

格闘群雄伝〈09〉松田利彦 ── キックボクシングのチャンピオンがプロボクシング世界タイトルマッチ出場!

◆空手バカ一代からの運命

松田利彦(1960年1月21日、埼玉県狭山市出身)は高校2年の時、劇画「空手バカ一代」を読んで強い男に憧れ、極真空手を始めようとしたが、近所の貼り紙を見て、比較的自宅に近い添野道場(後の士道館)に入門した。この道場が単なる空手道場ではないことが、松田利彦の運命を変えていった。後にキックボクシング日本人現役チャンピオンとして、プロボクシングの世界王座に挑戦した男は、松田利彦以外には存在しない。

若かりし血気盛んな21歳の松田利彦(1981.6.17)

◆チャンピオンに君臨

身体が小さかった松田利彦は先輩から軽いクラスまで階級制があるキックボクシングを勧められ、1978年(昭和53年)1月、正式にキックボクシング部門に移った。同年11月のデビューから反射神経抜群の運動神経で勘も鋭い松田は、先手必勝の勝利を重ね9連勝。フライ級に出現した大天才と期待されていた。

1982年5月、全日本フライ級チャンピオン、高橋宏(東金)と対戦。デビュー前から、「お前を倒すのはこの俺だ!」と目標としていた相手だったが、第1ラウンドに2度のダウンを奪われ大差の判定負け。チャンピオンとの大きな壁は簡単には打ち破れない現実に撥ね返されるも、スランプに陥る松田ではなかった。雪辱に向け動き出しところへ、同年11月、業界が総力を結集して開催された1000万円争奪オープントーナメント52kg級に出場が決まった。周囲は優勝候補の一人として注目する中、初戦にベテランの元・日本フライ級チャンピオン、ミッキー鈴木(目黒)にKO勝利。年を跨いだ1983年1月の準々決勝では得辰男(渡辺)にKO勝利するも右拳骨折する負傷が響き、2月の準決勝で丹代進(東海)に2-1の判定負け。

松田利彦vs得辰男。オープントーナメント準々決勝、得辰男を倒す(1983.1.7)
準決勝で丹代進に敗れる(1983.2.5)

優勝の夢は消えるも、怪我が癒える頃の同年5月28日には、早くもオープントーナメント52kg級決勝を制したタイガー大久保(北東京キング)と対戦の機会を得て、第2ラウンドKO勝利で事実上のフライ級軽量域最強という立場となった。

しかし、チャンピオンの称号が無い松田に王座奪取のチャンスが与えられた。翌年の1984年1月、新格闘術日本フライ級王座決定戦で松井正夫(千葉)に第2ラウンドKO勝利し王座獲得。それは取って付けたに過ぎない王座ではあったが、低迷するキックボクシング界の分裂が続いた他団体でも価値は似たものだった。

実績を高めた同年5月、WKA世界フライ級チャンピオンに上り詰めていた高橋宏とノンタイトル戦ながら悲願の再戦に漕ぎ付けた。試合は互角に進んだ最終ラウンド終了1秒前に松田が打った左フックでノックダウンを奪うとレフェリーはカウントするが、ゴングに救われたのか救われないのか、ノックダウンは有効か無効か、ノックアウトなのか判定なのか、試合直後は説明も無く裁定が曖昧な判定勝利で終わった。

このモヤモヤした因縁に終止符を打つべく1985年1月3日に再々戦、第4ラウンドに執念のパンチで高橋を倒すKO勝利し、完全決着を付けた。

頂点に立つタイガー大久保を倒す(1983.5.28)

◆プロボクシングへ

団体分裂が続いたキックボクシング界だったが、この時期、最も大きな転換期に入っていた。前年11月に4団体が統合し設立された日本キックボクシング連盟(後にMA日本)に、士道館は加わっていなかったが、統合団体を設立した石川勝将氏も当時、別団体ながら松田利彦を高く評価していた。

しかし、ここで松田に転機となったのはプロボクシング転向。日本のプロボクシングは確立した組織で分裂は無いこともないが、新組織のIBF日本から士道館へ松田の出場打診が入ってきたのだった。士道館率いる添野義二館長は空手家であり、1969年(昭和44年)にキックボクシングに転身した経歴を持つが故に、他格闘技に臨める体制を持った道場であったことが、たまたまこの時代に生きた松田の運命を導いていた。

パンチにも自信を持つ松田は出場を決意。1986年(昭和61年)8月18日、奈良でのデビュー戦はいきなりIBF日本フライ級王座決定戦。ここで内田幹朗(大阪島田)に5ラウンドKO勝利し、初代チャンピオンとなった。同年暮れの王座戴冠第1戦目は両角浩にノックアウト負けする不覚をとったが、翌年4月19日に両角浩との防衛戦は世界挑戦権を懸けての再戦。2度ノックダウンを奪われる苦戦も見せたが、逆転ノックアウトで初防衛成功。

世界戦で敗北、崔漱煥に倒される(1987.7.5 スポーツライフ社刊、マーシャルアーツより引用)

更には5月14日に後楽園ホールでキックボクシングの試合(APKF興行)に出場。パンチ重視の戦略もナラワット(タイ)に距離を取られ引分けに終わる。そして7月5日には韓国で崔漱煥の持つIBF世界ジュニアフライ級王座に挑戦した。さすがに世界の壁は厚く、崔漱煥のパンチはガードを突き破ってくる今迄に無い重さだったという。特攻精神の反撃虚しく第4ラウンドKOに敗れたが、「試合前の国歌吹奏は大舞台に立っている今迄に無い責任感緊張感に武者震いした。」と語っている。

◆キックボクシング一本へ

後に、IBF日本フライ級王座2度目の防衛戦にも敗れ、置き土産のようにベルトを手放しキックボクシング一本へ戻ったが、当然キックボクシング界は松田利彦を待っていた。興行の少ない士道館が、充実した定期興行が続くメジャー団体のマーシャルアーツ(MA)日本キックボクシング連盟に加盟。待ち望まれた松田の参入だった。

1988年(昭和63年)4月2日、両国国技館での初の格闘技の祭典で、松田は過去の実績からいきなり日本フライ級王座決定戦で林田俊彦(花澤)と対戦するも、ボクシングの距離感が染み付いた意外な苦戦での引分け。延長戦でなりふり構わずパンチで圧力を掛けポイントを獲って勝者扱いながら王座を獲得。

林田のローキックを地味にも幾らか貰っており、「蹴りってこんなに痛いものか!」と改めて思ったという松田は再び蹴りの勘を磨き始めた。

しかし、王座獲得後の初戦は格下に手こずる苦戦の判定勝ち。周囲の期待も落ち気味だったが、松田は「俺はまだ終わっていない。冗談じゃねえ!」と奮起。同年7月の初防衛戦では蘇ったような先手を打つ蹴りで神代遼(グレードワン)を圧倒、最後はパンチを的確に打ち込みKO勝利し最強復活の意地を示した。

ラストマッチは1989年(平成元年)7月、第2回目となる格闘技の祭典で、日本バンタム級チャンピオン、鴇稔之(目黒)とのチャンピオン対決だった。中盤に右フックでダウンを奪いながらもラストラウンドに打ち込まれてロープダウンを奪われ、逆転を許してしまう激戦で判定負けだったが最後の大舞台で名勝負を残した。以前から減量もきつく、バンタム級転向も考えていたものの、この年の春から、MA日本キックボクシング連盟は突然の代表辞任による活動休止が長引く中で、松田は30歳を迎える1990年1月、現役生活に区切りをつけ、引退式を行ないリングを去った。

1995年には士道館の先輩から不足していたキックボクシングのレフェリーを勧められ、新たな分野に挑むことになった。理屈に合わないことが無い限り、勧められれば受けるのが松田利彦。それでマッチメイクされる試合は全て受けて来た前向きさ。その上手くやって当たり前、下手すれば叩かれる難しさがあるレフェリー裁きも、卒なくこなす姿は評判がいい。

ジャッジを務める松田利彦、41歳(2001.11.9)

◆知られぬ歴史

プロボクシングとプロキックボクシングで日本チャンピオンになった選手は、後にバンタム級で田中小兵太(田中信一/山木)が居る。JBC管轄下の日本タイトルとIBF日本タイトルでは比べるまでもない格差があり、キックボクシングの日本タイトルと呼べるものは乱立の度合いと業界自体の低迷や隆盛で時代の格差はあるが、松田利彦と田中小兵太はMA日本タイトルを獲得。1987年当時では存在価値の低かったIBFも、後に設立されたWBOと共に勢力を伸ばし、JBCが主要4団体として承認する時代となった。あの時代とは比べられないが、キックボクサー松田利彦がプロボクシング世界王座に挑戦した事実は今も語り草となっている。

今やベテランレフェリー松田利彦。右はモトヤスック(2019.11.9)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

月刊『紙の爆弾』2021年1月号 菅首相を動かす「影の総理大臣」他

打倒ムエタイ路線を貫いて10年目のKICK Insist! 堀田春樹

ファイタータイプのタイ選手が日本人チャンピオンを苦しめた試合が続いた。

瀧澤博人は僅差の判定勝利ながら、新たなチャンピオンベルトを巻く。今後、ジャパンキックボクシング協会のエースの一角として負けれない立場となる。

チャンピオンとして存在感増してきた永澤サムエル聖光もムエタイ戦士に攻略される展開。

閉鎖された目黒藤本ジムからKICK BOXへ移籍した内田雅之は、テクニシャンのベテランムエタイ戦士と対戦。今一つ攻められない、もどかしい引分けに終わる。

昨年11月9日、JKAバンタム級チャンピオンとなった翼は交流戦で、一つ上を行くチャンピオンの一航に悔しい敗戦。

◎KICK Insist.10 / 11月22日(日)後楽園ホール 18:00~21:15 
主催:VICTORY SPIRITS / 認定:ジャパンキックボクシング協会(JKA)

◆第10試合 WMOインターナショナル・フェザー級王座決定戦 5回戦

JKAフェザー級1位.瀧澤博人(/ビクトリー/ 57.15kg)
   vs
ジョムラウィー・レフィナスジム(元・タイ国TV9chバンタム級C/タイ/ 56.5kg)
勝者:瀧澤博人 / 判定2-1
主審:チャンデー・ソー・パランタレー
副審:椎名48-49. アラビアン49-48. ナルンチョン49-48
スーパーバイザー:ナタポン・ナクシン

ジョムラウィーの飛びヒザ蹴り、瀧澤は苦戦の流れ

ローキック中心に前進するジョムラウィー。距離を詰められ下がり気味の瀧澤博人。ジョムラウィーが圧力強めて出て滝澤の蹴りに怯まず、蹴り返しや足払いに行くようなローキックを返す。瀧澤博人は劣勢な印象を受けるが、長身を活かしたパンチやハイキックで距離を保つ。首相撲にいく流れはほとんど無いが、パンチとローキックで前進を続けたジョムラウィーの優勢かと思われたが、下がりながらも高めの蹴りが多かった瀧澤博人にタイ人ジャッジ2名の支持が勝り王座獲得となった。

劣勢に見えても要所要所で長身を活かしたハイキックで攻める瀧澤博人
瀧澤博人も飛びヒザ蹴りでお返し

◆第9試合 62.0kg契約3回戦

WBCムエタイ日本ライト級チャンピオン.永澤サムエル聖光(ビクトリー/ 61.9kg)
    vs
シラー・ワイズディー(元・ラジャダムナン系バンタム級C/タイ/ 62.0kg)
勝者:シラーY’ZD / 判定0-3
主審:少白竜
副審:松田28-29. 和田28-30. 仲28-30

永澤のローキック、頑丈なシラーは構わず前進し距離が詰まる

初回は永澤がパンチでやや有利な流れ。シラーは第2ラウンドに入ると蹴りやパンチの攻防の中、前進を続け永澤を上回っていった。約300戦以上の戦歴を持つシラーは、多少蹴られてもパンチを受けても体幹が崩れない。永澤もパンチやヒジのヒットを狙うが下がり気味。永澤のヒットで左眉尻をわずかに切られたシラーだが、第3ラウンドも主にパンチで永澤を追う展開で優勢を保った。在日タイ人としてのトレーナーが本職か、日本の応援団が多かったシラーはしっかり日本語で応援に感謝を叫んでいた。

日本人応援団も多いシラーは次第に調子を上げてくるが、永澤も打ち合いに応じる

◆第8試合 54.0kg契約3回戦

JKAバンタム級チャンピオン.翼(ビクトリー/ 53.75kg)
    vs
WBCムエタイ日本バンタム級チャンピオン.一航(新興ムエタイ/ 54.2→53.9kg)
勝者:一航 / 判定0-3
主審:椎名利一
副審:松田27-30. 少白竜27-30. 仲27-30

ボディーブローから接近すると、すかさずヒザ蹴りに入る一航

パンチと蹴りの様子見から隙を狙った素早い攻防が続く。第2ラウンドには距離が詰まりパンチの攻防も増えていく中、ボディーブローからヒザ蹴りに持ち込む一航が有利なヒットを何度か見せるが、翼のパンチも幾らか貰い鼻血を流す一航。第3ラウンドには接近戦でのパンチの交差で一航の左フックがヒットし翼がノックダウン。決定的な流れを掴んだ一航が攻勢を維持し、大差判定勝利を導いた。

距離が詰まり互いの蹴りが増える中、一航の右ミドルキックがヒット
今野はローキックを連発して清水のリズムを狂わせた

◆第7試合 72.8kg契約3回戦

JKAミドル級チャンピオン.今野顕彰(市原/ 72.7kg)
    vs
清水武(元・WPMF日本SW級C/Sbm TVT KICKLAB/ 72.55kg)
勝者: 今野顕彰 / 判定3-0
主審:和田良覚
副審:椎名30-28. 少白竜30-28. 仲30-29

終始、今野のパンチとローキックで清水の前進を止め、清水がパンチや蹴りは出しても強いヒットは無いまま調子掴めず、今野が攻勢を維持したまま終了。

今野顕彰が攻勢を続ける中のボディーブロー

◆第6試合 ライト級3回戦

リク・シッソー(トースームエタイ/ 61.1kg)
    vs
JKAライト級1位.林瑞紀(治政館/ 61.1kg)
勝者:リク・シッソー / TKO 2R 1:51 / 主審:松田利彦

第2ラウンド半ば、パンチの交錯の後、林が異常を訴え、ノックダウン扱いでノーカウントのレフェリーストップ、左腕骨折の疑いによる。

◆第5試合 62.0kg契約3回戦

内田雅之(KICK BOX/ 61.4kg)
    vs
ペットワンチャイ・ラジャサクレックムエタイジム(タイ/ 61.7kg)
引分け0-1
主審:仲俊光
副審:椎名29-29. 松田28-29. 和田29-29

◆第4試合 ライト級3回戦

JKAライト級2位.興之介(治政館/ 60.9kg)
    vs
同級6位.睦雅(ビクトリー/ 61.0kg)
勝者:睦雅 / TKO 1R 2:34 / カウント中のレフェリーストップ
主審:少白竜

◆第3試合 54.0kg契約3回戦

JKAバンタム級1位.幸太(ビクトリー/ 53.75kg)
    vs
NKBバンタム級2位.高嶺幸良(真門/ 53.8kg)
勝者:幸太 / TKO 3R 0:22 / ノーカウントのレフェリーストップ
主審:椎名利一

◆第2試合 ウェルター級3回戦

大島優作(RIKIX/ 66.68kg)vs 鈴木凱斗(KICK BOX/ 66.2kg)
勝者:大島優作 / TKO 3R 0:42 / ヒジ打ちによるカット
主審:和田良覚

両陣営セコンドで旧・目黒藤本ジムのOBの顔触れが見られる同門対決のようなムードが漂う。

◆第1試合 55.0kg契約3回戦

樹(治政館/ 53.8kg)vs ペトウ・タイコン(旭/ 55.0kg)
勝者:樹 / TKO 1R 0:43 / カウント中のレフェリーストップ
主審:松田利彦
遊魔(旭)が負傷欠場でペトウ・タイコンに変更。

《取材戦記》

今年6回の興行予定だったジャパンキックボクシング協会は、コロナ禍により3回に留まりました。

インターネット中継による有料配信を試みた今回の興行。来年の観衆入場制限の解禁見通しが立たない現在、放映は簡単な話ではないが、有料配信継続は一つの運営手段でしょう。

WMOは「World Muaythai Organization(世界ムエタイ機構)」が正式名称。数年前にタイで発祥の認定団体で、タイに於いて幾らか認定される王座戦が行われている模様。世界機構はいろいろあるが、「そう言えばあのタイトルどうなった?」と言われないように活性化を切に願う。

永澤サムエル聖光は今年1月5日に興之介(治政館)をTKOに下し、ジャパンキック協会ライト級王座獲得し、9月12日に鈴木翔也(OGUNI)に判定勝利し、WBCムエタイ日本ライト級王座獲得(いずれも王座決定戦)。この日、62.0kg契約で永澤(61.9kg)、シラー(62.0kg)ともにライト級リミット(61.2kg)を超えており、敗れても王座剥奪はされません。プロボクシングのシステムだが、ムエタイも確立した団体では採用されているシステムです。

今居るチャンピオン達で盛り上げていかねばならないジャパンキックボクシング協会。そこはビクトリースピリッツプロモーションが年々力を付けて来た運営が今後の鍵を握るでしょう。

◎ジャパンキックボクシング協会2021年興行予定

1月10日(日)後楽園ホール
3月28日(日)新宿フェース
5月 9日(日)後楽園ホール
6月13日(日)市原臨海体育館
8月22日(日)後楽園ホール
11月21日(日)後楽園ホール

久々にチャンピオンベルトを巻いて八木沼広政会長とツーショットの瀧澤博人

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

女子がメインイベント、激戦必至のNJKF 2020.4th年内最終本興行!

キックボクシングの通常興行で女子がメインイベントを務める興行は過去にもあるが、ニュージャパンキックボクシング連盟に於いては初の女子メインイベント興行。S-1トーナメント日本版、女子バンタム級はSAHOがアグレッシブに決勝戦を制す。

「今後は世界しか狙っていない」と語ったSAHO。その大きな舞台の一つは直結するタイのソンチャイプロモーター主宰のS-1世界トーナメントとなる。

今年3月、高校を卒業したばかりの社会人19歳対決は、昨年2月24日に誓が1ラウンドKO勝利しているが、今回は判定ながら誓が計3度のノックダウンを奪って王座獲得。

前回興行に続き全試合判定となったがアグレッシブな展開が続き、メインイベントも勝つ以上にメインイベントを務める責任を負っているオーラが感じられた。

◎NJKF 2020.4th / 11月15日(日)後楽園ホール18:00~20:58
主催:NJKF / 認定:NJKF、S-1ジャパン

◆第8試合 S-1レディース・バンタム級ジャパントーナメント決勝 5回戦(2分制)

SAHOの左フックでYAYAは押され気味

女子(ミネルヴァ)スーパーバンタム級チャンピオン.SAHO(闘神塾/21歳/53.2kg)
    VS
J-GIRLSスーパーフライ級チャンピオン.YAYAウィラサクレック(WSR幕張/33歳/53.3kg)

勝者:SAHO / 判定3-0 / 主審:宮本和俊
副審:中山50-47. 少白竜49-47. 和田50-47

両者はパンチから接近すると組み合ってヒザ蹴りの攻防に移る。ブレイクが掛かり離れてもパンチを打っては組み合いに移るが動きは止まることなくヒザで蹴り合う。一見地味な展開もSAHOが圧力掛ける攻勢を保ち、YAYAも首相撲へ組まれると次第にキツイ展開となっていく。劣勢のYAYAは闘志衰えないが、終了間際はSAHOのラッシュでヒザ蹴りが強くヒット、更にパンチのラッシュを掛けるも終了のゴングが鳴り、SAHOが決勝戦を制した。

体重を掛けられバランスを崩しに耐えるYAYA、スタミナを奪われる苦しさ
組み合えばヒザ蹴り、離れてパンチのSAHOがアグレッシブに出る

◆第7試合 第12代NJKFフライ級王座決定戦 5回戦

誓が攻勢を保ち、パンチ連打で出る

1位.誓(ZERO/19歳/50.8kg)vs4位.EIJI(えいじ/E.S.G/19歳/50.75kg) 
勝者:誓 / 判定3-0 / 主審:多賀谷敏朗
副審:中山49-45. 少白竜49-43. 宮本49-44

開始からローキックからパンチへ繋いでいく探り合い。サウスポーのEIJIのいきなりの左ストレートは誓にとってやり難いパンチだが、誓は蹴りの攻防からパンチを繋いでリズムを掴み、第2ラウンドにパンチ連打から左フックでノックダウンを奪う。ダメージは小さいが誓は更に前に出て圧力を掛けていく。第4ラウンドにも連打から右ストレートで2度ノックダウンを奪う。EIJIの左ストレートには最後まで油断ならないが後退気味になり、誓が攻勢を維持したまま大差判定勝利を掴み、新チャンピオンとなった。

誓が右ミドルキックでEIJIの前進を止める

◆第6試合 70.0kg契約3回戦

平塚洋二郎が蹴って出るが、しぶといマリモーは耐える

マリモー(キング/35歳/68.6kg)
    VS
J-NETWORKスーパーウェルター級チャンピオン.平塚洋二郎(タイガーホーク/38歳/69.55kg)
勝者:平塚洋二郎 / 判定1-2 / 主審:和田良覚
副審:中山29-30. 多賀谷30-29. 宮本29-30

YETI達朗(キング)が負傷欠場の為、同じジムでスーパーライト級のマリモーが代打となった。体格差で優る長身の平塚が長いリーチで圧力掛け、平塚のパンチ、ヒジ、ヒザが当て易い距離が続く。しぶとさが定評のマリモーもバックハンドブローを出したり、ガードを固めながら打ち返すヒットが評価されたか、判定は2-1に分かれるも平塚洋二郎の判定勝利。

パンチの距離では平塚洋二郎は手数圧倒にパンチで攻めるがマリモーは下がらない

◆第5試合 フェザー級3回戦

前田浩喜(CORE/39歳/57.15kg)
    VS
NJKFスーパーバンタム級チャンピオン.久保田雄太(新興ムエタイ/27歳/57.1kg) 
勝者:前田浩喜 / 判定2-0 / 主審:少白竜
副審:和田29-29. 多賀谷29-28. 宮本30-29

NJKFスーパーバンタム級前チャンピオンの前田は2018年6月24日、久保田に引分け防衛。怪我で返上後、久保田が第7代チャンピオンとなっている。新旧対決となったこの日、前田が左ミドルキックで圧力を掛け、ベテランの上手さで主導権奪う展開が続く。終盤に久保田はラッシュを掛けたが前田は凌ぎきって、結果的に僅差ながら判定勝利を掴む。

前田浩喜vs久保田雄太。前田が蹴って出て終始主導権を握る

◆第4試合 61.0㎏契約3回戦

琢磨(東京町田金子/28歳/61.0kg)vs羅向(ZERO/20歳/61.0kg) 
勝者:羅向 / 判定0-3 / 主審:中山宏美
副審:少白竜28-30. 多賀谷27-29. 宮本27-30

◆第3試合 70.0kg契約3回戦

vic.YOSHI(OGUNI/29歳/69.8kg)vsマキ・ドゥアンソンポン(タイ)
勝者:マキ・ドゥアンソンポン / 判定0-3 / 主審:和田良覚
副審:少白竜28-30. 多賀谷28-30. 宮本27-30
雄也(新興ムエタイ)負傷欠場によりマキ・ドゥアンソンポンが代打出場。

◆第2試合 66.0kg契約3回戦

宗方888(キング/27歳/65.8kg)vsちさとkissMe(安曇野/37歳/65.75kg)
勝者:宗方888 / 判定3-0 / 主審:少白竜
副審:和田30-27. 中山30-27. 宮本30-27

◆第1試合 ライト級3回戦

水本伸(矢場町BACE /26歳/60.9kg)vs木村郁翔(BIGMOOSE/19歳/60.0kg)
勝者:水本伸 / 判定3-0 / 主審:中山宏美
副審:和田30-27. 多賀谷30-27. 宮本30-27

《取材戦記》

SAHOはS-1ジャパン4人トーナメントを制したが、コロナの影響もあって、すぐにはS-1世界トーナメントなどの開催は無いでしょう。今後まだ続くであろうミネルヴァ王座防衛戦などの国内戦では負けられない戦いが続く。

闘神塾陣営に祝福されるSAHO

5連敗vs3連敗による王座決定戦は誓(ZERO)が王座獲得。勝ち上がった者同士対決ではないのは団体タイトル範疇では仕方無いところか。ダブルメインイベントと銘打っても実質セミファイナルだった誓は今後、上位王座となるWBCムエタイ日本王座挑戦まで、チャンピオンとして負けてはならない立場である。

新チャンピオンとして認定証を受けた誓

コロナ禍での興行も会場の静けさに慣れが出て来た感がある会場内。収容人数は50%のままは仕方無いところ、拍手での応援と、メインイベントではYAYAの入場時、ペンライトでの応援が目立った。紙テープ、花束贈呈禁止は華やかさが無いが、進行はスムーズにいくので今後も続くといい。

YouTubeによる生配信も実施(前回9月興行から2回目らしい)。凝った演出は無く、選手入場の際のカメラは固定カメラから。後に録画映像を見ると、遠くからズームアップでの録り方は、昔のテレビ放送時代のような映りの記憶が蘇ります。

NJKF関西エリア年内興行は11月22日(日)に大阪市住吉区民センター大ホールで「NJKF 2020 west 4th」が行われます。

年明け本興行(東京)は2021年2月12日(金)珍しい平日開催です。

来年は、コロナの影響で期限が延びている波賀宙也のIBFムエタイ世界ジュニアフェザー級王座初防衛戦が行なわれると思われるが、今ある各タイトルが放りっぱなしにならない様、話題多き興行であることを願いたい。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

ウェイト競技の宿命、試合に向けた最後の仕上げ、計量後のリカバリー!

◆リミット超えの試合

ボクサーやキックボクサーが最高のコンディションでリングに上がるには、計量後のリカバリーが非常に重要な役割を占める。

選手は戦うに適した階級での減量が伴なう。そして迎える試合当日朝10時、検診と計量が行われてきた。こんな時代を経てプロボクシングでは、過酷な減量によりリング禍に繋がる危険性を鑑み、1994年4月から前日計量が実施されてきた。

公開計量で秤に乗る勝次(2020年2月1日)

キックボクシングは古い時代にも前日計量が行われていた興行は存在したが、通常興行のほとんどは当日計量が長く続いてきた。前日計量ではその運営や地方の選手の宿泊費など経費増の問題があったが、最近は公開計量と記者会見を行ない、興行と選手のアピールの場として前日計量が増えてきている。

しかし、ボクシングなど観ない世間一般の人にあまり浸透していないのが、計量を経たリング上ではすでにリミットを大幅にオーバーしたウェイトで戦っていること。そこには減量からのリカバリーが影響していることを知らないことである。

そもそも試合直前に計量を行なえば最も適正な階級リミットということになるが、そこからコンディションを考慮した当日夜の試合に向けての朝計量から前日計量へ移って来たものと考えられる。

女子も堂々と秤に乗る(2020年10月24日)
計量後、早速飲料水を注ぎ込む足立秀夫(1983年1月7日)

◆計量後は何してる?

昔はファイティング原田氏やガッツ石松氏の12kg以上の過酷な減量逸話が有名だった。朝10時にトレーナーの肩を借りるようなフラフラな状態で計量器に乗り、絶食で委縮した胃のまま食べては吐き、夜7時30分以降のリング入場までによくリカバリーできたものだ。

1982年(昭和57年)頃、私(堀田)はキックボクサーのライト級ランカー、足立秀夫(西川)さんの試合当日を3回ほど同行する機会があった。毎度、減量の影響が顔に表れていた足立さん。目がくぼみ、頬がこけた状態が他の選手より明らかだった。
後楽園ホールでの計量後、足立さんは水道橋駅前の立ち食いソバ屋で天ぷらソバを食べた。一杯のソバやうどんは委縮した胃に丁度いい具合だと言う。電車で小岩のアパートに向かう間に胃が活性化し、少し落ち着きが出て来ると口数が増え、笑顔が見られるようになっていた。

当日の出場選手で同行したジムメイトのタイガー大久保さんは、栄養バランスや消化のいいものを考え、果物や栄養ドリンクやヨーグルトを持ち込んで、計量直後から帰りの電車の中まで大胆にも周りの目を気にせず食べていた。2人は更に小岩駅前のイトーヨーカ堂のレストラン街で本格的栄養補給。足立さんは出されたコップの水をまず一杯ガブ飲み。

「お姉さん、お代わり頂戴、何回も悪いからポットごと置いてって!」と大胆に頼み、不思議なぐらい何杯もゆっくり飲み続けた。

アパートに帰ると3時間ほど睡眠。これで夕方、軽く小さなオニギリ程度の食事を摂って後楽園ホールへ向かう。出発前、足立さんはヘルスメーターに乗るとライト級リミットから4kgほど増えていた。試合は20時台だった。朝の計量から試合まで密着すると長い時間だったが、選手のリカバリーの時間としては短く厳しいものと感じた。

電車の中でヨーグルトを食すタイガー大久保(1983年1月7日)
ここに来るまでにかなり水分は摂っているが更に水をガブガブ飲む(1983年1月7日)
秤に手を掛けてゆっくり乗るのが計量風景(1983年2月5日)

◆リカバリーの失敗

数名に経験談を聴かせて頂いたところ、1980年代に活躍したプロボクサーで日本スーパーフェザー級4位、ブルース京田さんは、「新人時代に当日計量をパスして、まず控室通路にある自販機の紙コップのコーラを3杯飲み、後輩と水道橋駅前の立ち食いソバ屋で天玉うどん食べて、近くのマクドナルドでコーラと一緒にレギュラーハンバーガーを4つ食べ、かなり満腹になりながら、六本木のアントニオ猪木の店でアントンリブ3本食べた。公園で休んだ後、後楽園ホール入りしたが、胃はパンパンで試合開始直前でもあまり変わらず。“ボディー打たれたらヤバい!”と思いながら試合は第1ラウンド、右ストレートでノックダウンを奪い、次に右クロスカウンターで倒しノックアウト勝利。食べ過ぎ注意の教訓を得たが、闘魂注入に猪木のリブを食べたことは精神的高揚になった」と語る。

その教訓からその後、「計量後はバナナ食べて、ステーキとパスタにして後は食べなかった!」と言い、リカバリー成功を保っていた。

更には「試合当日にステーキを食べることは、すぐにはパワーに繋がらないという意見はあるが、肉食った満足感がパワーアップした気になる!」と心理的効果を訴える。

キックボクサーの元・NKBウェルター級チャンピオン、竹村哲さんはデビュー戦での当日計量後、同日出場のジムメイトに誘われるまま、焼き肉屋に行ってしまった。
「肉ばかり思いっきり食べてしまい、夜、後楽園ホールのリングに上がるも、炭水化物をほとんど摂っておらず、1ラウンドが終わった時点で失速。めっちゃキツい展開になるも何とか判定勝ちしました!」と反省を語る。

2012年6月、NKBウェルター級王座決定戦で、乃村悟志(真門)との対戦では、2度目の王座挑戦なのに計量後のリカバリーの大失敗。

「栄養面や消化時間などの複数観点を持って、食べる物飲む物を決めていたのに計量が終わって後楽園ホールを出て、車でちょっと走ったらウェンディーズが目に入り、広告看板の“今ならビーフパティがなんと5枚!スペシャルバーガー!”があり、ついフラフラと店内に入って注文。絵柄どおり肉が5枚も入っていて、そのバーガーだけでお腹いっぱい。炭水化物は肉を挟んでる上下の薄いバンズのみ。そしたら案の定、自分でもびっくりするぐらい4ラウンドでスタミナがピタッと切れて、全く動けない最終ラウンドでボッコボコにされてしまった。アゴも折られて判定負け。試合が終わった瞬間、相手側の真門ジム山岡会長が飛んできて、『竹村君、どうした?急に動きが悪うなって。調整上手くいかんかったんか?』と心配されるも、計量後にスペシャルバーガー食べたことなど言えないし、ただ黙ってました!」と語り、ウェンディーズの迎え撃ちに遭い、乃村悟志に判定負け、「何でそんなもん食うのか!」と突っ込みたくなる失敗談であった。

計量後、リカバリーに協力するジムも多い。この後、豪華にタイ料理が並んだ西川ジム宿舎(1983年2月5日)
地方興行での計量風景(1983年9月18日)

◆前日計量が今の主流!

元・タイ国ラジャダムナン系スーパーライト級チャンピオン、石井宏樹さんが語ってくれた逸話は、「前日と当日では、当然前日計量の方が楽でした。当日計量の場合、前日にリミットまで落として当日朝に備えました。それは計量まで何も飲み食い出来ず迎えなければいけない為、夜も眠ることが出来ませんでした。前日計量では計量直前まで落とすことに集中して、計量パスした後に好きな食べ物を摂取できました。そのメリットは試合前日によく眠れるところでしょう。当日計量が当たり前で生きてきた者にとっては、前日計量の有難みったらないです。しかし、前日に計量してしまうと試合までに欲を満たしてしまう為、緊張感が薄れてしまうのは否めないです。今となってもどちらが良いのかはわかりませんが、引退した今思うことは前日計量の方が良いパフォーマンスが出来たと思います。」と語る。

確かに食事を摂って夜を過ごすなら深い睡眠がとれるというものだろう。更に翌朝がゆっくり過ごせて食事も増やせるが、これで階級リミットの意味が無くなるという意見もあるのも事実。

その計量後のリカバリーは水分摂取が大半を占めると言われる。過酷な減量をした場合、削ぎ落された体力が試合までに摂取される食事だけでは回復しないとも言われる。身体に水分が戻っても脳や神経細胞にまで行き渡るのはもう数日掛かるとも言われ、その結果、打たれ脆くなる危険もあるようだ。

タイでは朝の計量時に立会い、夜の試合で対峙すると別人かと思うほど相手の身体が大きくなっていたという話もある。

「計量パスすれば後はこっちのもの!」と言わんばかりのタイ選手の大幅リカバリーは珍しくはない。

キックボクシングに於いては未だ結論が出ないテーマであるが、大方は前日計量が選手にとって最もベストコンディションで試合に挑める環境と言えそうである。
選手経験者の数だけありそうな計量後の行方。オモロイ話は幾つもあるだろう。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

一水会代表 木村三浩 編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』
上條英男『BOSS 一匹狼マネージャー50年の闘い』。「伝説のマネージャー」だけが知る日本の「音楽」と「芸能界」!

格闘群雄伝〈08〉長浜勇 ── キック低迷期から復興期にかけて業界を支えた沖縄出身の名キックボクサー

◆沖縄から生まれた名キックボクサー

長浜勇(ながはま・いさむ/市原/1957年11月16日沖縄県出身)の本名は、長浜真博(まさひろ)。デビュー当時に市原ジムの玉村哲勇会長の名前から一字頂き、“勇”をリングネームとした。

長浜勇は、昭和50年代のキックボクシング界の底知れぬ低迷期から復興時代への変わり目に、向山鉄也と共に業界を牽引した代表的存在で、団体が分かれている中では最も統一に近い時代の日本ライト級チャンピオンである。

1985年1月、日本ライト級チャンピオンとなった長浜勇(1985.1.6)

◆地道に進んだ新人時代

長浜勇は高校3年生の時、アマチュアボクシングで沖縄と九州大会で準優勝。推薦で大学進学の道もあったが、両親への学費の負担を考えて進学はしなかった。一旦地元で就職したが、1979年(昭和54年)初春、21歳で上京し、千葉県市原市の土木関係の会社に転職。

そこで先輩に市原ジム所属選手が居たことが長浜勇の運命を決定付けた。先輩に勧められてジムを見学すると、「こんなところにもジムがあるんだなあ、いいなあこの汗臭い雰囲気!」と戦う本能や、沖縄にいた時、テレビで同郷の亀谷長保(目黒)の活躍が頭を過ぎり入門を決意した。

1979年4月、長浜は入門わずか1ヶ月あまりでデビューした。仕事の合間を縫って練習に通ったのは10日間ほど。選手は少なく、誰かが教えてくれるといった環境も無く、蹴りなんて全く素人のまま。しかし、玉村会長は大胆にも試合を組み、「蹴らなくていいからパンチだけで行け!」と言うのみ。そんないい加減な時代でもあったが、アマチュアボクシングの経験を活かし、そのパンチだけでノックアウト勝利した。

市原ジムの独身選手はジムのほんの近くでアパートか平屋の借家暮らし。長浜勇はそんな借家で夏は全ての窓開けっぱなしで寝ていた。そんなある日、観ていたテレビはキックボクシング。

当時は深夜放送に移ったが、まだTBSで週一回の放映があった時代。同じ日にデビューした目黒ジム所属選手は放映されたのに、長浜勇はせっかくのKO勝利も放映が無くて残念だったという。

いずれはもっと勝ち上がってテレビに映ることを目指しながらも、テレビレギュラー放映は打ち切られ、キック業界は興行が激減していった頃だった。

その後、市原で就職した会社は辞め、玉村会長が興していた、同じ土木専門の玉村興業で働くことになった。それはジムでの練習に向かう時間の融通を利かせる為ではあったが、器用な長浜勇はやがて現場監督に昇格し、後々であるが現場から離れられない時間が増えていった。残業の上、家に帰っても受け持つ幾つかの工事現場の翌日の派遣人員配置や、生コンクリートをどの現場にどれぐらい発注するかといった業務等で電話しまくり。ジムに行って練習する時間など無かった。「それでどうやって勝てるのか!」という不安はあったが、人の見ていないところで練習するというのは事実だった。例え30分でもジムへ行って集中してサンドバッグを打込む。そんな話を本人からチラッと聞いたことがあった。

◆飛躍の軌跡

トップスターへの出発点となったのは1982年(昭和57年)10月3日の有馬敏(大拳)戦だった。

かつてジムの大先輩・須田康徳と名勝負を展開した元・日本ライト級チャンピオン相手に、パンチだけに頼らず、蹴られても前に出て蹴り返し、引分けに持ち込む大善戦だった。

そこから上り調子。翌月から始まった1000万円争奪オープントーナメント62kg級へ出場すると、長浜勇は初戦で三井清志郎(目黒)、準々決勝で砂田克彦(東海)にKOで勝ち上がり、準決勝で予想された先輩、須田康徳と対戦。

世間は決勝戦を須田康徳vs藤原敏男(黒崎)と予測しており、長浜勇自身もそう考える一人だった。それまで須田先輩から多くの指導を受け、尊敬し敬意を表しつつも、普段は仲のいいジムメイト。

「須田さんに怪我でもさせて藤原戦に支障をきたしてはいけない!」と一度は辞退を申し入れたが、玉村会長はこれを許さなかった。先輩であろうと引きずり下ろさねばならないプロの世界だった。長浜勇は心機一転、須田康徳戦に全力で挑み3ラウンド終了TKOに下す。

大先輩、須田康徳を下す大波乱(1983.2.5)

一方の準決勝、藤原敏男は足立秀夫(西川)を倒すも、そのリング上でまさかの引退宣言。決勝戦の3月19日、長浜勇が勝者扱いで優勝が決定。日本中量級のトップに立った新スター誕生だった。

決勝戦の相手、藤原敏男と対面(1983.3.19)

その後も日本人キラーだったバンモット・ルークバンコー(タイ)に5ラウンドKO勝利し、過去2度敗れているライバル足立秀夫を2ラウンドKO勝利で上り調子だったが、ここで一旦、その足を掬われる結果を招く。藤原敏男が引退した後、どうしても避けて通れない相手がその藤原敏男の後輩で、藤原にKO勝利したことがある斎藤京二だった。怪我でオープントーナメントは欠場したが、優勝候補の一人の強豪だった。

過去2敗、ライバルの足立秀夫に雪辱果たす(1984.1.5)

1984年5月26日、その斎藤京二に2ラウンドKO負けを喫してしまった長浜勇。頂点に立った者が崩れ落ち、またまた混沌としていく日本のライト級。そんなキック業界も底知れぬ低迷の中、まさかの統合団体の話が持ち上がったのが同年10月初旬で、11月30日にその画期的日本キックボクシング連盟(後にMA日本と二分)設立記念興行に移っていった。

足を掬われた斎藤京二戦(1984.5.26)
集中力でサンドバッグ打ち、パンチ力は最強(1984.10.5)
撮影の為に気合入れる長浜勇、ミット持つのはサマになっていない素人の私(1984.10.7)

過去のチャンピオン経験者が優先された王座決定戦。

1985年1月6日には日本ライト級王座決定戦に出場した長浜勇は、旧・日本ナックモエ・ライト級チャンピオン、タイガー岡内(岡内)を1ラウンドKOで下し、初代チャンピオンとなった。この後、挑戦者決定戦を勝ち上がって来たのが斎藤京二。因縁の厄介な相手が初防衛戦の予定だったが、斎藤京二は前哨戦で三井清志郎(目黒)に頬骨陥没するKO負けを喫してしまう。

タイガー岡内を倒し、日本ライト級王座獲得(1985.1.6)

同年7月19日、長浜勇の初防衛戦はその代打となった三井清志郎(目黒)戦。過去、長浜に敗れている三井は雪辱に燃えていたが、長浜は冷静沈着。三井の蹴ってくるところへパンチを合わせ主導権を握ると3ラウンドKO勝利。これで難敵をまず一人退けたが、あの当時の日本ライト級は強豪ひしめくランキングだった。後に控える斎藤京二、甲斐栄二、飛鳥信也、須田康徳、越川豊。これらをすべて退けることなど無理だっただろう。

三井清志郎を倒し初防衛(1985.7.19)

◆ピークに陰り、そして引退

1986年(昭和61年)1月2日、2度目の防衛戦で甲斐栄二(ニシカワ)の甲斐の豪腕パンチで左頬骨を陥没するKO負け。やはり来た試練。左の頬骨に固定する針金が飛び出したままの状態が3週間続いた。

復帰戦は同年7月13日、フェザー級から上がってきた不破龍雄(活殺龍)との対戦で、思わぬ苦戦をしてしまう。重いパンチで圧力を掛け、ローキックでスリップ気味ながらノックダウンを奪ったところまでは楽勝ムードだったが、いきなり猛反撃してきた不破のパンチを食らってペースを乱してしまう。今迄に無い乱れたパンチと蹴り。強豪ひしめくライト級で再び王座を狙うには、かなり厳しい境地に陥った辛勝だった。

不破龍雄に大苦戦(1986.7.13)

しかし、まだ長浜勇の活躍が欲しいMA日本キック連盟は翌年1月、石川勝将代表が企画した、本場に挑むルンピニー・スタジアム出場枠に選ばれ、当時、話題の中心人物だった竹山晴友(大沢)と共にタイへ渡った。結果は判定負けながら、初の本場のリングで堂々たる積極的ファイトを見せた。同年4月18日、朴宙鉉(韓国)にKO勝利し、石川勝将代表から「越川豊(東金)とやらないか?」と問われ、着実に上位進出していたその存在があったが、土木業が拡大化してきた背景と、すでに妻子ある守るべき家庭を持っていたこともあり、密かに引退を決意していた。

1988年9月、地元の市原臨海体育館で行なわれた先輩・須田康徳の引退興行は、市原ジムの集大成で時代の一区切りとなった須田と二度目の対決。初回、長浜は須田の強打に三度のダウンを奪われ、最後はダブルノックダウンに当たるが、当時のルールにより3ノックダウン優先のKO負け。互いがガツガツと打ち合った密度の濃い一戦だった。そして長浜勇も須田康徳戦をラストファイトとして締め括った。

長浜勇は引退前に、婚約していた沖縄の同級生と結婚し、後に3人の娘さんの父親となった。長浜勇は普段お酒はあまり飲まないが、仲間内の宴会では飲み過ぎて酔えば暴れて起こしたハプニングは計り知れない。そんな暴れん坊は“市原ジム出入り禁止”なんて事態にも一時的にあったようだが、根は優しく市原ジムのムードメーカーでもあった。還暦を超えた今、お孫さんを可愛がるその姿を見に行きたいものである。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

最新刊!『紙の爆弾』12月号!
一水会代表 木村三浩 編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』
上條英男『BOSS 一匹狼マネージャー50年の闘い』。「伝説のマネージャー」だけが知る日本の「音楽」と「芸能界」!

メインイベンター勝次、日本人対決連敗! MAGNUM 53

ニュージャパンキックボクシング連盟からチャンピオン二人を迎えた今回の新日本キックボクシング協会興行「MAGNUM 53」。

勝次はタイミング悪いスリップ気味ノックダウンを奪われ判定負け。勝てる試合を落とした印象が残る。

高橋亨汰はベテラン健太から効かせたノックダウンを奪う判定勝利。新日本キックボクシング協会の新しいメインイベンターに迫りつつある存在となった。

アルゼンチンから来日、伊原ジムに所属し、2018年5月、デビュー1年で王座獲得したリカルド・ブラボは、その後もムエタイ・ラジャダムナンスタジアム出場も経験し、着実に力を付けて来た中、パンチの連打で順当にイベント「TENKAICHI」からの刺客、幸輝を仕留めた。

女子キックの七美 vs KAEDEは男子に劣らぬ高度な蹴り合いを見せる展開で、女子キック界そのものの実力向上が感じられる試合となった。

◎MAGNUM 53 / 10月25日(日)18:00~20:06
主催:伊原プロモーション / 認定:新日本キックボクシング協会

◆第8試合 63.6kg契約3回戦

WKBA世界スーパーライト級チャンピオン.勝次(藤本 / 63.5kg)
    VS
NJKFスーパーライト級チャンピオン.畠山隼人(E.S.G / 63.05kg)
勝者:畠山隼人 / 判定0-2 / 主審:少白竜
副審:椎名28-28. 宮沢28-29. 仲28-29

勝次の右ストレートも畠山隼人の顔面をかするところまで
飛びヒザ蹴りを読まれたか、畠山隼人の右ストレートでノックダウンを奪われる勝次

開始早々から畠山のパンチの幾つかが勝次の顔面にヒットし、左コメカミ辺りが赤く腫れ始め、勝次はやや印象悪いスタートから畠山のパンチに合わせて蹴りとやパンチで探りを入れていく。勝次は飛びヒザ蹴りで畠山をコーナーに追い込むが、畠山は想定内と見えるディフェンスでパンチを返す。

第2ラウンドには勝次のローキックが畠山の左足にヒットし始め、畠山の動きを弱める効果が出てきたが、畠山も勝次の動きに合わせて蹴りとパンチで返し、明らかな差は出ない展開。

第3ラウンド、勝次はパンチと蹴りで畠山をコーナー付近に追い詰めたが、飛びヒザ蹴りを放って着地する辺りで連打から右ストレートを浴びてしまい、ノックダウンを取られてしまった。押されて尻もちを付くようにダメージは無く、勝次は立ち上がり反撃をするも、残り時間は少なく畠山は凌いで終了した。

畠山隼人に打たれて下がるシーンも幾度か見られた勝次
反撃もヒットしない勝次、焦りが見え始める

◆第7試合 70.0kg契約 5回戦

日本ウェルター級チャンピオン.リカルド・ブラボ(伊原 / 69.9kg)
    VS
幸輝(インター/ 69.5kg)
勝者:リカルド・ブラボ / TKO 2R 1:35 / 主審:桜井一秀

第1ラウンドに様子見からリカルド・ブラボが左フックでノックダウンを奪い、その後、連打でスタンディングダウンを奪うが、両者のローキックの攻防は強く速く、幸輝がリカルド・ブラボを下がらせる展開も見られていた。第2ラウンドにはリカルド・ブラボが再び連打から左フックで幸輝を仕留めると、強いダメージを負った幸輝をレフェリーストップされて終了。

パンチ力ではリカルド・ブラボが優った
リカルド・ブラボが連打で倒すと幸輝は立ち上がれず

◆第6試合 62.0kg契約 5回戦

日本ライト級チャンピオン.高橋亨汰(伊原 / 61.85kg)
    VS
健太(前WBCムエタイ日本ウェルター級C/E.S.G / 61.65kg)
勝者:高橋亨汰 / 判定2-0 / 主審:椎名利一
副審:宮沢48-47. 少白竜48-48. 桜井48-47

距離を取った中でのパンチと蹴り中心の展開は互いに主導権を奪うに至らないが、高橋亨汰は顔面前蹴りもあり、健太に調子付かせない圧力があった。後半に向かうにつれ徐々に健太がベテランの読み深さがある接近戦で、プレッシャー与えるように出てヒジ打ちの圧力で巻き返しも見られる。

最終ラウンドで健太がパンチやヒジ打ちで攻勢を掛けたところで高橋亨汰の右フックがカウンターでヒット。健太からノックダウンを奪うと更に顔面前蹴りで圧倒するも健太は組み合って凌ぎ、高橋亨汰が判定勝利を掴む。

高橋亨汰のカウンター右フックが健太にクリーンヒット
ベテラン健太からノックダウンを奪って勝利を決定づけた高橋亨汰
高橋亨汰がノックダウンを奪った後の前蹴りが健太のアゴにヒット

◆第5試合 53.0kg 契約3回戦

泰史(元・日本フライ級C/伊原 / 53.0kg)
    VS
景悟(LEGEND / 52.5kg)
引分け0-0 / 主審:仲俊光
副審:椎名29-29. 少白竜29-29. 桜井29-29

泰史が追い、多彩に攻めてロープ際に追い込む展開も、景悟もヒジ打ちやヒザ蹴りの的確なヒットで劣勢を免れる。印象点は泰史の前進にあるが、景悟のヒットは泰史を上回り、差が付き難い終了となった。

泰史の前進する圧力でのハイキック、この後、景悟も多彩に返していく

◆第4試合 女子スーパーバンタム級3回戦(2分制)

七美(真樹オキナワ / 54.95kg)
    VS
KAEDE(LEGEND / 55.2kg)
勝者:KAEDE / 判定0-3 / 主審:宮沢誠
副審:椎名28-30. 仲28-30. 桜井28-29

◆第3試合 女子54.0kg契約3回戦(2分制)

アリス(伊原 / 52.3kg)
    VS
上野hippo宣子(ナックルズ / 53.5kg)
勝者:アリス / 判定3-0 / 主審:少白竜
副審:椎名30-27. 仲30-29. 宮沢30-28

◆第2試合 女子49.0kg契約3回戦(2分制)

オンドラム(伊原 / 48.8kg)
    VS
ERIKO(ファイティングラボ高田馬場 / 48.75kg)
勝者:ERIKO / 判定0-3 / 主審:桜井一秀
副審:仲27-30. 少白竜27-30. 宮沢28-30

◆第1試合 ジュニア女子43.5kg契約3回戦(2分制) 当日計量

曽我さくら(クロスポイント大泉)
    VS
安黒珠璃(闘神塾)
勝者:安黒珠璃 / 判定0-3 (19-20. 19-20. 19-20)

《取材戦記》

年頭から3興行連続でメインイベントを務めた勝次。いつものスポンサー名入り赤いダウンは纏わずタオルを肩に掛けてリング下まで入場。トランクスもシルバー一色。初心に帰った意気込みが感じられたが、先月の潘隆成戦に続き判定負け。

コロナ禍の中、勝次は藤本ジム所属のまま、伊原プロモーションとマネージメント契約を結んだ練習場という意味での“ジム移籍”当初は、例え今までに無い綿密な指導を受けていたとしても、それはまだ身体が心理面と共に馴染んでいない可能性があった。潘隆成に敗れたことで後が無い焦りも加わったかもしれない。2月2日のロンペット・ワイズディー(タイ)戦の敗戦含めれば3連敗となってしまった勝次。この先行きどうなるか。崖っぷちから足を滑らせ、まだ崖から手でぶら下がっている状態なら這い上がることは可能かもしれないが、キックボクシングだからこそ続けられるサバイバルマッチ。その厳しい境地は今後も続くのだろう。

新日本キックボクシング協会としてもコロナウイルス蔓延対策によるソーシャルディスタンスを保つ興行が続き、こんな苦戦が続くのはどこの団体も同じ。他団体との交流戦体制も得ながら生き残りの戦いも続きます。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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