沢村忠デビューから満50周年!日本キックボクシング興行界の巨人たち

今年は1966年(昭和41年)4月に日本でキックボクシングの初興行が行なわれて“満50周年”を迎えます。そこで、この競技の発祥から置かれた立場の移り変わりを愚痴を込めながら独断と偏見で振り返りたいと思います。

◆発祥前史は1959年に遡る

「野口修さんと写真撮るのは初めてかもしれない」と語った石川顕氏。キックの生みの親と日本一の実況でキックボクシングを盛り上げたコンビのツーショット

キックボクシングが生まれる以前、その前身(あくまでも大雑把な経緯ですが)ともいえるのが1959年に行われた日本で初めてのタイ人同士のムエタイ試合でした。そして、1964年にはプロボクシングのプロモーターだった野口修氏がムエタイに着目し、日本の空手家3人を引き連れてタイに乗り込み、ムエタイ選手との試合をバンコクで行いました。こうした流れがその後のキックボクシング発祥に繋がっていきました。

その数々の歴史と前身の経緯を含め、一昨年8月に伊原プロモーション代表の伊原信一氏がキックボクシング創設50周年記念式典を都内ホテルで行ないました。創生期からの懐かしい顔ぶれの中、若い女性は現在のトップスター江幡ツインズに群がり、時代の狭間を感じる光景でした。

試合VTRと共に実況を始めた石川顕アナウンサー。キックファンにとって34年ぶりの石川さんの名調子

◆1967年2月のテレビ放映は野口氏のしつこいTBS通いで始まった!

日本キックボクシング協会設立後、野口氏が半年以上かけてほぼ毎日、TBSテレビの運動部へ売り込みに出向き、キックボクシングの将来性を熱く語ったり、話す相手がいない日でもソファーに座った日々で「あの人今日も来てるよ」と囁かれても、そのしつこさに折れたTBSテレビが「1回やってみるか」と放映を1967年2月26日に開始しました。

そこから沢村忠の活躍でキックボクシングブームを巻き起こし、当初は国内に新風を巻き起こす順風満帆たる船出から始まりました(キック創設50周年記念式典で司会を務めた元・TBSアナウンサー石川顕氏の語り口より一部引用)。

その後は紆余曲折を経て約15年続きましたが、マンネリ化した日本vsタイの試合もブームは去り、アメリカンプロ空手を取り入れるなど再浮上を狙っても長く続かず、老舗・野口プロモーションも力尽きた感じで興行から遠ざかりました。

◆テレビ放映無き後──地上波テレビ以外の媒体を模索し続ける

「キックボクシングの実況の中で、私がいちばん褒めた選手は伊原信一選手でした」と語る石川アナウンサー。伊原氏の生い立ちをよく知っているからこその優しさだ

団体分裂で分散しつつも業界全体の底力が粘り、赤字経営の苦難の年月を経て何とか小さな軌道に弾みを付け、一時的にテレビで取り上げられる特番はあっても、プロボクシングの世界戦すらゴールデンタイム放映が危ぶまれる時代に入り、一般家庭の茶の間にKO劇を轟かせた時代の再来は不可能な現在。しかし、地上波テレビには及ばぬも、逆に衛星放送やインターネットなどの通信網は利用価値ある時代に入っていきました。

◆プロボクシング界から“邪道”と言われた時代の後、K-1に対しては嫉妬する時代へ

キックボクシングが初めて放送された試合は、沢村忠……ではなく、藤本勲氏の試合。セミファイナルの藤本氏が先に放送された試合順の結果

こんな経緯に至るキックボクシングの創設後のブームの時代、プロボクシング界からは“邪道”と言われた時代がありました。そんな時代の後にアメリカンプロ空手の普及やシュートボクシングの創設があり、特に後のK-1において、今度は逆にキックボクシング界がそれらを“邪道”と言う時代に移り、そんな後発のブームに追われる立場になりました。とはいえ、そのブームに便乗するキック関係者が多くいたのも事実です。

便乗はせず、声には出さぬも、そのイベント人気に嫉妬する関係者も少なからずも存在しました。「キックボクシングなんて発祥自体が間違っていたんだ。最初からムエタイに倣っていたら組織も構築していたろうに」と言う意見があったり、「キックボクシング創生期にきちんと構築した組織創りをしておけばプロボクシングと肩を並べるメジャーな競技になっていただろう」という意見もありました。

◆「キックボクシングは不滅です」──“打倒ムエタイ”を掲げ続けた50年

そんなキックボクシングにおいて、数々の世界王座はあるものの、どれもマイナーな存在の中、最高峰と言われる王座に行き着くのは、やはりムエタイとして存在するタイ国ルンピニースタジアムとラジャダムナンスタジアム認定の王座。これらはいまも不動の世界王座です。

富山勝治(目黒)vs稲毛忠治(千葉)を彷彿させる懐かしい顔合わせ、藤本勲(目黒藤本)会長と戸高今朝明(千葉)会長

その王座を奪取した日本人は過去50年間で、ラジャダムナンのみで4人。藤原敏男、小笠原仁、武田幸三、石井宏樹。今後の50年間で、キックボクシングが完全にムエタイを超える実績を積み重ね、更なる魅力と権威を増した競技に成長していけるか、キックボクシングそのものが衰退するか発展していくかは今後の舵取りに掛かっているでしょう。

キックボクシングは新興格闘技ではなく、すでに50年の歴史を持つ“打倒ムエタイ”を掲げてやってきた格闘競技です。「キックボクシングは不滅です」──。長嶋茂雄氏を真似た訳ではないでしょうが、キックの帝王・沢村忠氏も引退式でこう語りました。

キックボクシング創設50周年記念式典でお会いした方々は創成期からの顔ぶれが中心でしたが、この人たちがいてこそ、今がある。これからの50年後に向け、業界全体で打倒ムエタイを果たし、そのプライドを持ってキックボクシングをスポーツの帝王へと成長させていきたいものです。

[撮影・文]堀田春樹

▼堀田春樹(ほった・はるき)
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない。」

◎ムエタイ日本人の壁──活躍する在日タイ人選手と来日タイ人選手の裏事情
◎芽が出始めたムエタイ新時代──タイで通用する若手選手が続々出現!
◎ティーンズチャンプがキック界を刷新する?──2015年回顧と2016年展望
◎強くなるためにタイへ行く!日本キックボクサー「ムエタイ修行」今昔物語
◎ルール変更の紆余曲折から辿る日本キックボクシング界の栄枯盛衰クロニクル

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ムエタイ日本人の壁──活躍する在日タイ人選手と来日タイ人選手の裏事情

「ここを越えてこそ真のムエタイロードが始まる」日本人の壁となる在日タイ人選手。日本国内団体でデビューし、段階を経て勝ち上がってきた日本人選手にとっては、ムエタイの奥深さがまずここに立ちはだかります。ここでのタイ人選手は、日本国内チャンピオンやランカーと対戦し、テクニックで優って、ムエタイ王座や世界レベルの王座を目指す日本人の壁となる存在になっています。

ガンスワン・サシプラパー(左)は元・ラジャダムナン系スーパーライト級チャンピオン、在日選手。治政館ジムでトレーナーを務める。日本での試合も豊富(2014年10月26日)

古くは竹山晴友に初黒星を付けたアルンサック・ユーバンルン、90年代、小野瀬邦英に敗れるまでは日本人選手を重い蹴りで翻弄したチャイナロン・ゲオサムリット、立嶋篤史に切られて敗れる不覚もアグレッシブなファイトが好評だったユタポン・ウォンウェンヤイ、元ムエタイチャンピオンの実力を発揮、大塚隼人には敗れるも、多くの余裕の勝利を重ねてきたガンスワン・サシプラパー、キックの伊原ジムで選手兼トレーナーを務め、プロボクシングでの来日では後のWBA世界スーパーフェザー級チャンピオン、内山高志(ワタナベ)とも戦ったムアンファーレック・ギャットウィチアンといった、キック界では存在感ある選手で、他にも厄介な壁は多くいました。

◆“在日タイ人”と“来日タイ人”

「これを越えないとムエタイランカー以上との対戦は認めない」なんていう制度などありませんが、ファン目線では日本選手に打開して欲しい壁でした。ここでのタイ選手は本場での第一線級から退いていても、試合間隔が長く空かなければ実力は充分でしたが、来日期間が長くなるほどモチベーションも下がり、練習不足、スタミナ不足が目立つ体型や試合内容が見られる選手もいました。これらのタイ選手らは、常連ファンから見れば、試合出場が無くても頻繁に会場で見かける顔でもありました。業界関係者の中では彼らは“在日タイ人”と呼ばれ、ちょっと古い法律の下では3ヶ月滞在可能の興行ビザで来日し、延長許可を得て最大6ヶ月滞在し、試合出場を中心に、招聘されたジムでの技術指導者として実力を発揮されていました。

グルークチャイ・ゲオサムリット(左)は元・ルンピニー系ジュニアフライ級チャンピオン、この試合のみの短期来日。ムアンファーレック・ギャットウィチアン(右)は元・ラジャダムナン系フェザー級チャンピオンで伊原ジムに滞在していた在日選手。後にプロボクシングのタイ国ラジャダムナン系スーパーフェザー級チャンピオン(1999年7月24日)

これに対し、“来日タイ人”と呼ばれる短期滞在ムエタイボクサーがいます。タイの殿堂スタジアムなどで頻繁に出場する日程を組まれながら、ちょっとの合間をぬって日本で試合をする実力派タイプ。経費削減の意味合いもあったりしますが、ほんの2泊3日や3泊4日でやって来て試合して翌日には帰国するパターンが多いようです。こんなトップクラスの選手に勝てる期待大の選手は梅野源治選手ぐらいかもしれませんが、大概はムエタイの凄さを見せ付けて帰って行くので、より本場で人気ある忙しい選手という印象が残ります。

プロボクシングの世界タイトルマッチでやって来る場合も同じですが、マスメディアを巻き込むこれほどの大きい試合は契約上10日ぐらい前に来日して身体を慣らし、公開スパーリングや予備検診、前日計量、調印式を経て試合、勝っても負けても怪我がなければその翌日は休養(観光?)してまたその翌日頃には羽田か成田空港から帰国します。

これらはひとつの具体例ですが、キックの試合出場とジムでの技術指導者としてタイ人選手を招聘する場合、そのジム会長かマネージャーやコーディネーターがその選手のためのビザ取得のために方々への手続きを重ね、必要書類作成に時間を費やします。来日タイ人選手はタイのジムオーナーやプロモーターの支配下にあり、交渉先はそのオーナーなど。在日タイ人選手も同様ですが、第一線級を退いているので長期滞在を許されたり、或いはフリーになっていれば、選手個人交渉となったりします。

1980年頃から2000年ぐらいまでは不法就労が増え、申請許可が一段と厳しくなっていった時代がありました。現在も書類調査は同様に厳しい審査と思いますが、以前は無かった公的な立場のタイ国ムエスポーツ協会への申告で渡航先試合出場認可を得るなど強力なステップが増えたことや、タイ経済が発展してきたことによる不法就労の減少で、日本外務省の規制緩和もあり、一般中流家庭以上が日本での2週間以内ビザ無し観光も可能になり、各分野とも取得し易くなったかもしれません。現在はもう少し長い期間の興行ビザが下りる場合もあり、他には技能ビザの他、結婚や滞在実績などによる永住許可もあり、そういう縁や実績を持つ元選手やジム経営者も存在します。

ラジャダムナン系ウェルター級チャンピオン、パーヤップ・プレムチャイが日本ウェルター級チャンピオン、向山鉄也(ニシカワ)を大木のような左ミドルキックだけで圧倒、現役チャンピオンの神秘さが漂った。短期滞在(1986年11月24日)

昔はムエタイ選手に限らず、若い女性やフィリピンなど他国の同様のパターンで来日後、滞在期限を超えても帰国せず不法就労するなどの後、強制送還となり、その後再来日は当分難しくなって、更に国家間の規制が厳しくなっていった傾向が続きました。

以前少々触れましたが、現在タイ・ボクシング法では試合間隔を21日以上空ける事とKO負けの場合は30日空ける事が義務付けられています。その試合間隔義務を逃れるため、タイ国ムエスポーツ協会を通さない申請で、極秘渡航して試合するパターンもあるようですが。インターネット社会の恐ろしさで、しっかり報道されることでどこでも閲覧出来、バレて出場停止を受ける選手もいたようです。

沢村忠、富山勝治、稲毛忠治、多くの日本人と戦い、バンコクでジムを開いた頃のチャイバダン・スワンミサカワン氏(1988年9月13日)

昭和の時代、TBSテレビでゴールデンタイム放映されていた時代の日本系キックボクシングはタイからやって来た選手が1回のビザ最大3ヶ月ほどの滞在で5、6試合ほど消化し、時期は重なりつつも交替で次のタイ選手が来日するパターンが長年に渡って続き、キックボクシング黄金期を支えた時代がありました。

チャイバダン氏の右が立嶋篤史(当時16歳)、その前がアルンサック・ユーバンルン、前列右から2番目がチャンリット氏、彼も在日タイ選手だった。前列左端、黒シャツが堀田(1988年11月10日)

荒っぽさで有名なサネガン・ソーパッシンは試合以外でも、目黒界隈で喧嘩して暴れたエピソードがあったようですが、晩年は日本人女性と結婚するなど落ち着き、おとなしい礼儀ある人になっていました。チューチャイ・ルークパンチャマというルンピニー系ランカーの強い選手もいましたが、初の日本系出場では1回の来日で7試合ほど出場、最後は帝王・沢村忠をも倒していきました。富山勝治、稲毛忠治も下したチャイバダン・スワンミサカワンは引退後、日本人と最も交流が深く、後にバンコク郊外にジムを開き、多くの日本人が修行の場とし、立嶋篤史がタイ初遠征したジムでもありました。

近年プロボクシングでは多くの無気力試合などで、ひんしゅく買ったタイ人ボクサーも少なからずいましたが、「勝って得るもの無し、負けて失うもの無し」といった選手は勝つ努力は無く、出場の役目を果たすだけの試合しかしないかもしれません。キックにおいては今後も続くムエタイボクサーとの交流は、日本人の壁となって試練を与えたり、指導者してムエタイチャンピオンを育てたり、いろいろな人間模様のドラマを生んでいくでしょう。近年は在日タイ人が主催する準ムエタイ興行も開催されたり、活動の幅が広くなりました。今後の日本キック界を支えていくのは40年前と変わらず在・来日タイ人たちの陰の力かもしれません。

WPMF世界スーパーライト級王座決定戦で石井宏樹(目黒藤本)と対戦したゲーオ・フェアテックス(2014年2月11日)
ヨーユット・ビーファミリーネオ(右)は元・ルンピニー系フェザー級4位、在日選手としてキャリアは長いが、倒れるシーンも増えてきた(2014年2月11日)
梅野源治(左)と対戦するタイ人選手は皆、気を引き締めて来日。ルンラット・ナーラーティクンは元WMC世界スーパーバンタム級チャンピオン、ラジャダムナン二冠王。短期来日(2015年2月11日)
デンサヤーム・ルークプラバートは元・ルンピニー系バンタム級チャンピオン、在日選手。頑丈な体格で圧倒する試合から最近は打たれてダウンするシーンも増えた(2015年2月11日)

[撮影・文]堀田春樹

▼堀田春樹(ほった・はるき)
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない。」

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◎ティーンズチャンプがキック界を刷新する?──2015年回顧と2016年展望
◎強くなるためにタイへ行く!日本キックボクサー「ムエタイ修行」今昔物語
◎ルール変更の紆余曲折から辿る日本キックボクシング界の栄枯盛衰クロニクル
◎キック新時代を牽引するRIKIXジムの「NO KICK NO LIFE」

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抗議にも罵声にも屈せず闘い続けるキックボクシング界レフェリー列伝

「もっと勉強しなさい!!」1997年頃、あるキックボクシングの試合後、ジャッジ席の審判員にこんな罵声を浴びせて去って行ったS会長がいました。所属の選手が不可解な採点で敗れたことに怒り、タイ訛りのつたない大声が会場内に響き渡っていました。

日本系の隆誠、衰退とともに生きたリ・チャンゴン(李昌坤)氏(中央)、蝶ネクタイが良く似合う(1991.5.24)
ムエタイルールという意識も浸透した時期ではありましたが、蹴りを重視しつつもキックボクシングの見た目の印象で採点する習慣は、ムエタイの世界での熟練者から見れば、納得できない判定だったでしょう。

レフェリーのお仕事は選手に次いで辛い仕事かもしれません。 しかし、長きキックボクシングの興行の歴史では、時には理不尽な選手陣営の抗議も見受けられました。また、ジャッジの不可解な採点や、全くセンスの無いレフェリーが採用されている現場もありました。
1966年(昭和41年)の日本キックボクシング協会設立以降、プロボクシングのプロモーターだった野口修氏が始めたキックボクシングだけあってプロボクシングのレフェリーを参考にする影響から軽快なフットワークで裁く印象が残りました。

日本人最初のレフェリーとなったのが、小別当純という方でしたが、李昌坤(リ・チャンゴン/韓国)氏やウクリット・サラサス(タイ)氏も初期から務めていました。後に発生の全日本系でも個性有る厳格なレフェリーが存在していました。

時代の流れで徐々に試合展開や採点基準が変わっていくのは仕方ないところでしたが、レフェリー技術の低下が見られたのは、ムエタイルールが浸透してきた1990年代であり、団体分裂が増え出した頃の人材不足でした。

古き時代からレフェリーは、すべて団体ごとの公認で、他団体に勝手に出向けませんでしたが、「誰かレフェリー出来る奴いないか。」

ヘビー級はこの人に任せたい、重量級の和田良覚レフェリー(左)(2014.9.13)
ジム会長からそんな安易な声も掛かった、団体が増える度のレフェリー募集でした。見た目は簡単そうでも、ルールを熟知しなければ出来る任務ではなく、甘い気持ちでやられても困るレフェリー業ですが、残念な問題は、増え過ぎた各団体の新人レフェリーに、経験値あるベテランの指導は回り難く、実戦で覚えていくしかない時代でした。

団体にもレフェリーの格差がありましたが、直接勝敗に関わるリング上の裁きは上達していくものの、プロボクシングを観ていれば常識的にわかる機転もなく、ダウンした相手に蹴り込んでもそのままカウントを続けたり、カウント9で足下フラフラしていても止めず、倒れ行く敗者を放っておいて勝者の手を上げに行く、メガネを掛けたレフェリー等、ファン目線から見ても異様な事態もありました。

現・JKBレフェリー協会代表の少白竜レフェリー、現役時代は勝っても負けてもKO100%男(2014.9.13)

そんな時代を経て2006年当時、J-NETWORKという団体のある興行関係者が、レベルアップしたレフェリー組織を作ることを計画し、その提案を受け、活動に動いたのが少白竜レフェリー(元・全日本バンタム級1位)で、思想の合うメンバーを集め、ベテランの山中敦夫氏(元・競輪選手、旧・全日本キックからのレフェリー)を代表にJKBレフェリー協会を設立しました。

◆団体や試合によってルールが違う!

キックボクシング各団体から要請があればその団体興行に派遣レフェリーとして参加しますが、レフェリーが苦労することは各団体によって、または試合によって「ルールが違うこと」と言われています。現在のレフェリー陣は安全面を重視した進行、反則に厳しくイエローカード、レッドカード提示なども実施。陣営の抗議に屈しない厳格な姿勢で、公正な競技と認められるような基準を作り上げて来ました。

舌出し侮辱にイエローカードと厳しい判断の椎名利一レフェリー(2015.12.13)

同時期にサミー中村氏(旧・全日本キックからのレフェリー)が日本ムエタイレフェリー協会を設立し、同様の活動を展開。また従来のキック団体に所属するレフェリーや、フリーのレフェリーも多く居て、2010年頃からはWBCムエタイやWPMF世界機構などムエタイ組織のレフェリー講習を受けてライセンスを取得する制度もあり、個人差はあれど、レフェリーとしての技術は見違えるほど向上しました。所属する団体は違えど、興行が重なれば人手が足りなくなる休日興行は、協力体制が整っているようです。

タイでムエタイを日々見続けている人ならば、ポイントの取り方、割って入るタイミング、優勢劣勢によるポイントの動きは観てわかると思いますが、日本のキックボクシングやプロボクシングを見続けて来た一般ファンや関係者では、まだまだ分かり辛い採点、優劣判断基準があります。

ルンピニースタジアム公認レフェリーライセンスを持つ古き全日本系からのサミー中村レフェリー(右)(1986.9.20)

またムエタイ選手から教わったり、タイ人トレーナーから教わったという知識も高度な経験値ではありますが、選手目線の判断では脱線した部分もあり、例えば、選手やトレーナーに「ムエタイはキンタマ蹴ってもいいんだよ」と言われ、実際明らかに股間を蹴られて倒れても、そのままカウントされることは多くありました。

「蹴られる方が悪い」と言われる習慣になっていても、防御と戦略として覚えておくべきですが、“厳密には反則”で、失格負けとなった例もあります。厳密なルールブックや、日々変化する改善案も、いちばん頭に入っているのはムエタイ現地レフェリーや組織役員といったレベルであることも理解しておいた方がいいかもしれません。

また余談ながら、タイ人選手が「グローブの内側にワセリン塗っておいてクリンチの際、相手の眼に擦り付けるんだ」と言ったセコい一例もありますが、経験から来る悪知恵はいろいろありますが、参考までに覚えておいて頂きたい範疇です。

NKBグループもチームワーク良く進歩を続ける(2015.12.12)

「もっと勉強しなさい」と今の時代でも言われるかもしれない、“シンサック会長”に怒鳴られたら今でも怖そうな雰囲気で、長く試合を観てきても未だわからないムエタイの採点基準はまだまだあります。

[撮影・文]堀田春樹

▼堀田春樹(ほった・はるき)
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない。」

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◎強くなるためにタイへ行く!日本キックボクサー「ムエタイ修行」今昔物語
◎ルール変更の紆余曲折から辿る日本キックボクシング界の栄枯盛衰クロニクル
◎キック新時代を牽引するRIKIXジムの「NO KICK NO LIFE」

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新日本キック新春興行「WINNERS 2016 1st」は好カードづくしでファンを魅了!

◎WINNERS 2016 1st / 2016.1.10 後楽園ホール 17:00~21:25
 主催:治政館ジム / 認定:新日本キックボクシング協会

メインイベントは志朗(松本志朗/治政館)が挑戦するISKA世界バンタム級王座決定戦。チャンピオンのディーン・ジェームス(イギリス)が負傷欠場で王座返上。1位.ダニエル・マッグウォーン(イギリス)と5位.志朗が王座決定戦を行なうことになりました。志朗は昨年5月17日にISKA世界ランキング査定試合で、ネクター・ロドリゲス(スペイン)にKO勝利しており、挑戦資格圏内に入りました。

この日の志朗の試合は1月30日(土)テレビ埼玉で20:00より、土曜スペシャル枠で「志朗ドキュメンタリー」が放送されます。

◆ISKAは「キック系ではいちばん権威ある世界王座」

世界認定機構が多く存在するキックボクシング系競技は、プロボクシングの発展経緯とは異なり、発展途上の段階で多くのマイナー世界認定機構が出現した競技でしたが、その中でISKA(International Sport Kickboxing Association)は、1986年にアメリカ・フロリダ州に拠点を置く組織として設立し、同年ヨーロッパに統括本部が発足。1990年代にはヨーロッパ各国で活発な世界戦開催で権威を増し、2000年代に入って日本でも世界戦が行なわれてきた経緯があり、「キック系ではいちばん権威ある世界王座」とファンや業界内では言われています。

ルール別により王座が複数あったり、階級リミット設定がプロボクシングより異なる点はありますが、知名度と活動実績は他の団体より、はるかに進んでいるようです。今回のISKA世界戦開催に当たり、ISKA日本代表・加藤勉氏が立会人として認定宣言をされています。

《主要5試合の結果》

◆ISKAムエタイ世界バンタム級(55.0kg)王座決定戦 5回戦
1位.ダニエル・マッグウォーン(イギリス/55.0kg)vs 3位.志朗(治政館/54.7kg)
勝者:志朗 / 0-3 (主審 和田良覚 / 副審 少白竜 47-48. 桜井 47-48. 仲 46-49)
ムエタイルールとして行なわれている展開としてはどちらにポイントが流れるかわからない攻防ながら、志朗がローキックによる主導権支配とボディーへのパンチがダニエルの動きを鈍らせ判定勝利。

ダニエル・マッグウォーン(左)vs志朗(右)。接近戦ではヒジ打ちに注意だが、志朗も対策は充分

◆55.5kg契約 5回戦
日本バンタム級チャンピオン.瀧澤博人(ビクトリー/55.45kg)vs タイBBTVバンタム級チャンピオン.パカイペット・ニッティサムイ(Prakyphet/タイ/55.5kg)
勝者:パカイペット・ニッティサムイ / TKO 5R 1:38 / 左ミドルキック受け劣勢の中、タオル投入による棄権。
ローキックとパンチの重さと次に繋げるパカイペットの前進力が瀧澤を後退りさせる。昨年、強気で“日本を越えて上のステージでの戦い”をアピールしていた瀧澤でしたが、やっぱりムエタイ一流選手相手には、瀧澤が新人のように見える力の差が表れました。この敗北からまた瀧澤の再浮上に期待と注目が集まります。BBTVはタイ7チャンネルのテレビ局で、歴史は古い団体です。

パカイペット・ニッティサムイ(左)vs瀧澤博人(右)。ミドルキックで瀧澤の腕を殺していく、すべてが重い蹴りだったパカイペット

◆52.0kg契約 5回戦
日本フライ級チャンピオン.麗也(高松麗也/20歳/治政館/52.0kg)vs 伊藤勇真(前・WPMF日本フライ級C/18歳/キングムエ/51.7kg)
勝者:麗也 / 3-0 (49-47. 50-47. 50-47)
学年でひとつ違い、話題の低年齢のアマチュアキックから始め、タイでも戦ってきた両者で、その頻度と現地定着率は伊藤が上回っていますが、タイで活躍している方が負けるのは昔からよくあるパターンでした。 ホームリングで戦う麗也のキックボクサーとしての積極性が主導権を握り判定勝利。両者の経験値が増せばまた違った展開になるでしょう。今後も何度でも対戦して欲しい両者です。

麗也(左)vs伊藤勇真(右)。若い対決。主導権を握った麗也のハイキック

◆日本ウェルター級挑戦者決定戦3回戦
1位.松岡力(目黒藤本/66.3kg)vs3位.政斗(治政館/66.25kg)
引分け / 0-0 (29-29. 29-29. 29-29 / 延長戦 9-10. 9-10. 9-10)
引分けにより、上位進出を懸ける試合に義務付けられる“優勢”を決める延長戦に入り、政斗の優勢点で“勝者扱い”。戦歴では7戦同士、このところ、大物に勝利している松岡有利かと思われましたが、政斗のしぶとさと、松岡もスタミナ切れか戦略を誤ったか、失速が目立ちました。政斗は、チャンピオン.渡辺健司(伊原稲城)への挑戦権獲得。

松岡力(左)vs政斗(右)。松岡力もしぶとい技があり、ヒザ蹴りで攻める

◆日本フェザー級挑戦者決定戦3回戦
2位.瀬戸口勝也(横須賀太賀/56.9kg)vs3位.石原将伍(ビクトリー/56.9kg)
勝者:石原将伍 / 0-3 (26-29. 26-29. 26-29)
強打者同士の対決。第1ラウンドに右ストレートでダウンを奪った石原でしたが、次第に回復した瀬戸口の反撃に押されるも、第3ラウンドに再び連打でダウンを奪って結果的に大差判定勝利となりましたが、打ち合い激しく勝利がどちらに転ぶかスリルある展開でした。石原将伍は、チャンピオン.重森陽太(伊原稲城)への挑戦権獲得。

瀬戸口勝也(左)vs石原将伍(右)。ダウン奪われてもパンチ力に自信ある瀬戸口が反撃

新日本キックボクシング協会、次回興行は3月13日(日)伊原プロモーション主催のMAGNUM.40が開催されます。

[撮影・文]堀田春樹

▼堀田春樹(ほった・はるき)
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『紙の爆弾』2月号!【特集】安倍政権を支える者たち!

芽が出始めたムエタイ新時代──タイで通用する若手選手が続々出現!

2016年の展望の追記のような、近未来の展望ですが、ちょっと昔の日本のキックボクサーが漏らした名言が思い出されるこの頃であります。

「俺らは毎日働いて疲れ引きずって、夕方ジムに行って練習しているけど、俺ら日本人も子供の頃から朝練習して昼寝して、夕方も練習するような、タイ人と同じような環境で練習こなせば、日本人だってタイ人なんかに負けねえんだ。」

25年も前、タイで修行中のある日本人キックボクサーとジム近くの屋台で飯食いながら、彼はジムでタイ選手に何か面白くないことでも言われたか、酔いながらそんな愚痴をこぼしていました。

◆2007年頃から日本で始まった“ジュニアキック”の普及

タイでは地方に行けば野外の広場で、夜の試合ではリングの上に100ワットの裸電球が十数個あっても薄暗い中で、その土地のお祭り的なムエタイ試合が多くあります。5歳ぐらいの子供の試合から10代~20代前半が中心の試合もあれば、稀に40歳超えで“オヤジファイト”のような素人っぽい試合もあり、そんな中でも有力な選手がまた上のステージへ進みます。こういう幼いうちから試合に出される環境があるのもタイならではの話です。

対して当時の日本では、そんな環境には程遠く、プロの試合も少なく、アマチュアにおいては空手が普及しているものの、キックボクシングとは違ったカテゴリー。アマチュアキックボクシング団体は、大学生中心の「学生キックボクシング連盟」など古くからあるものもあり、他にも新空手やグローブ空手というアマチュア競技もありましたが、低年齢層までの出場はごく少数でした。

「WindySuperFight」アマチュア大会のワンシーン、これもプロへの通過点(2015.8.16)
「MuayThaiSuperFight」アマチュア大会42.38.34kg級各チャンピオン、これもプロへの通過点(2014.8.2)

そんな時代を経て、2007年頃から、プロ団体の乱立とは直接関係ないものの、幾つかの団体がアマチュア枠でも低年齢層を対象とした“ジュニアキック”に力を入れ、普及し始めました。

「ムエタイでトップに立つ選手に育てるなら遅くとも中学に入る頃までに、タイに連れて来なさい。」そんな助言をするムエタイのトレーナーが何人もいたのも事実で、そういう認識を持ち始めた頃だったのかもしれません。

◆2009年末、タイで通用する選手の育成を目指して「WINDY SUPER FIGHT」が設立

「WindySuperFight」最高顧問CHAI.TOKYO氏(左)、B-FamilyNeoジム大田原光俊代表(右)

股関節の柔らかさから放たれるムエタイボクサーのしなやかな蹴りや、首相撲のバランスを覚えるには幼い頃からの鍛練が重要になると言われていますが、2009年12月には「タイで通用する選手の育成を目的とした団体」としてタイのWINDYスポーツ社の協賛で「WINDY SUPER FIGHT」というの団体を立ち上げたのが、ビーファミリーネオジム代表の大田原光俊氏でした。

ムエタイとして最高峰となる二大殿堂王座に挑むなら、タイで現地ランカーと戦い勝ち上がって名を売り、殿堂チャンピオンの座を掴むことが本筋と言われています。また小学生のうちから戦いの場が与えられる WINDY SUPER FIGHTに於いてのジュニアキックの最軽量級は20kg級から始まり、55kg級までの複数階級でトーナメント制によるチャンピオンを決定。そして15歳で中学を卒業すると、その後は一般部門かプロに進むことになります。

子供のうちからプロ選手と同じく、タイのジムに行かせたり、日本に於いてもタイ人トレーナーの指導を受け、身体作りが出来る環境の下、大田原代表の二人の息子さんである大田原友亮と虎仁兄弟はこのWINDYジュニアキックや、本場タイの二大殿堂を拠点として実績を積み、また日本の試合にも積極的に出場しています。

◆日本で続々登場してきた高校生ムエタイ戦士たち

同じように、タイのプロのリングで活躍した選手や日本で注目を浴びた選手は他にも那須川天心、福田海斗、佐々木雄汰、石井一成、伊藤勇真、溝口達也、岩尾力、平本蓮、伊藤紗弥(女子)という高校生のムエタイ戦士の活躍により、ジュニアキック競技そのものが6年を経て大きく評価を上げ、タイ殿堂スタジアムのランキングに名前を連ねる選手もいるほどまで成長しました。

“タイ人と同じ環境で練習をこなせばタイ人には負けない”その幼いうちから育ててやれば本当に強くなるんだという今の結果。更に今活躍する中学・高校生キック、ムエタイボクサーは先人の願いに叶う活躍を見せてくれるか、そんな選手たちがもし近未来に、次々とムエタイ殿堂王座を奪取するようなことになれば、タイ国民も古くからルーズな気質でありながら、反面プライド高い国民だけにやっと重い腰を上げ、そこから本気で日本人(外国人)潰しに躍起になり、そこからの戦いは新たなムエタイの進化をもたらすかもしれません。

25年前のバンコクの屋台でキックボクサーが愚痴ってた日から、こんな時代がやってくるとは、信じられないほどの低年齢化した選手の成長に驚くばかりです。

ジュニアキック黎明期を支えた大田原兄弟の次男.虎仁
天才ムエタイ少女WPMF女子世界ピン級チャンピオン伊藤紗弥。テレビ番組にも登場
ジュニアキック8冠王の岩尾力。プロでも頭角が現れ始めている

[撮影・文]堀田春樹

▼堀田春樹(ほった・はるき)
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない。」

◎ティーンズチャンプがキック界を刷新する?──2015年回顧と2016年展望
◎強くなるためにタイへ行く!日本キックボクサー「ムエタイ修行」今昔物語
◎ルール変更の紆余曲折から辿る日本キックボクシング界の栄枯盛衰クロニクル
◎キック新時代を牽引するRIKIXジムの「NO KICK NO LIFE」

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ティーンズチャンプがキック界を刷新する?──2015年回顧と2016年展望

2015年のキックボクシング界主要団体で目立った出来事を大雑把に振り返り、2016年の潮流を展望してみます。

◆日本選手7名全員が敗れたムエタイ王座戦への挑戦

2015年、ムエタイ二大殿堂のルンピニースタジアム王座とラジャダムナンスタジアム王座に挑戦した日本選手は7名で、そのすべてが敗れ去りました。

ムエタイ技術の奥深さ、タイトルが掛かる場合や、プロモーターや賭け屋の暗黙の査定が存在する中では異様な底力を発揮するタイ選手のノンタイトル戦とは違う本気度。現地ラジャダムナンスタジアムでの挑戦は1月19日の石毛慎也(ライラプス東京北星)と5月24日の喜多村誠(伊原)の2名。他はすべて日本国内でした。

双子で再度ムエタイ王座狙うWKBA世界チャンピオンコンビ江幡睦・塁

接戦も撥ね返された試合もありました。3月15日の江幡睦(伊原)もラジャダムナン系で、他はすべてルンピニー系でした。4月5日に藤原あらし(バンゲリングベイ)、4月19日に一戸総太(WSR・F)と梅野源治(PHOENIX)、7月19日と12月27日に一刀(日進会館)の4人が挑戦。梅野源治が最も注目を浴び、過去の実績から王座に近い存在でしたが、優勢の流れから技術でミスし逆転負けの屈辱を味わいました。

キックの老舗WKBA世界戦では蘇我英樹(市原)と江幡弟・塁(伊原)が初防衛。江幡兄・睦はフォンペット・チューワタナ(タイ)とのダブルタイトル戦で敗れ奪われた王座が、後に返上された為、再び王座決定戦で奪回に成功。

WBCムエタイでは5月10日、同・世界スーパーライト級チャンピオン.大和哲也(大和)がノンタイトル戦で500グラムオーバーとなる失態があり、その試合もゴーンサック・シップンミーに判定負け。その汚名返上となるべき9月27日の王座統一戦は、暫定チャンピオンのアランチャイ・ギャットパッタラパン(タイ)に初回からダウンを奪われ判定負け。初防衛と王座統一は成らず。

7月20日、WBCムエタイ世界スーパーフェザー級タイトルマッチでの梅野源治の初防衛戦で、挑戦者ペットブーンチュー・ソー・ソンマーイが1.43kgオーバーによる失格により計量時で“防衛”という不可解な裁定が勃発。ノンタイトル戦となった試合は梅野の3R・TKO勝利。

11月15日、WBCムエタイ日本チャンピオン.宮越兄弟(拳粋会)がWBCムエタイ・インターナショナル王座決定戦に出場。兄・宗一郎はスーパーウェルター級、弟・慶二郎はライト級で王座奪取。

WPMF世界王座奪取したのは4名。3月17日アユタヤでフライ級の福田海斗(キングムエ)が王座奪取。7月12日、青森でフェザー級の一戸総太(WSR・F)が奪取し、スーパーバンタム級に続く同時2階級制覇。9月20日、岡山県倉敷市でスーパーフェザー級で町田光(橋本)がで奪取、ミドル級でT-98(=タクヤ/クロスポイント吉祥寺)が奪取しました。

◆高校生チャンピオン福田海斗の躍進

3月17日にWPMF世界フライ級チャンピオンとなった高校1年生・福田海斗(キングムエ)が、12月8日にタイのルンピニースタジアムでタイ国ムエスポーツ(プロムエタイ)協会フライ級王座決定戦に出場。同協会4位の福田海斗が10位のタナデー・トープラン49 にヒジで切り裂き、3-0(3者49-47)で完勝。タイ人以外初の同協会チャンピオンとなりました。

本来このムエスポーツ協会は公的機関の組織でタイ国の国家予算が使われており、外国人には充てないはずのタイ国王座でしたが、プロモーターの見切り発車で、協会役員の反発がありつつも押し切られての開催でした。前例が出来た以上、今後も外国人が絡んでくることは止められないでしょう。

出場に至った経緯など価値的には問題視されますが、これで形式上は福田海斗もムエタイ“三大”殿堂王座を制したことになります。「日本人5人目の・・・」と言いたいところ、本来はタイ国の統一王座に在り得る団体だったのにも関わらず、そういう活動は少なく権威は崩れているので、残念ながら“二大”殿堂には適わぬ第三の地位に落ちています。

ルンピニージャパン開設記者会見(2015年8月7日)

◆ルンピニーボクシングスタジアムオブジャパン発足!

8月7日に記者会見が行われ、ルンピニーボクシングスタジアムオブジャパンの発足が発表されました。代表はセンチャイ・ムエタイジム会長のセンチャイ・トーングライセーン氏。2016年には日本タイトルも制定し、ランキングに入るとタイ国ルンピニースタジアムのランキングにも反映され、日本チャンピオンになるとルンピニースタジアム王座に挑戦有資格者となり、ルンピニースタジアムのチャンピオンクラスを招聘し、トップレベルの試合も行う予定と発表されています。12月13日に従来のムエタイオープン興行で最初の日本ランキング査定試合も開催されました。

◆WPMF日本支局長、ウィラサクレック・ウォンパサー氏の3期目へ続投

ウィラサクレック=WPMF日本支局長

2009年1月にWPMF日本支局が発足し、日本での運営を管理管轄してきた組織は任期3年で、2期務めたウィラサクレック・フェアテックスジム会長のウィラサクレック氏でしたが、2015年前期に、日本支局はタイ本部の直接的管轄下に置く案があり、日本支局長廃止案が出ていました。しかし、長く務められたウィラサクレック氏の功績も非常に大きい為、第3期目の続投が認められました。

◆2016年の展望──ムエタイ“二大”殿堂王座に江幡ツインズが再挑戦

ムエタイ“二大”殿堂のひとつラジャダムナンスタジアム王座に再挑戦することが確実視される江幡ツインズと、再度ルンピニースタジアム王座狙う梅野源治は王座奪取なるか。3人とも実力で優るものがありながら、首相撲が絡む駆引きで苦杯を味わう壁を打ち破れるか期待が掛かります。

高校生まで低年齢化したチャンピオンやランカークラスの台頭が目立った2015年でしたが、福田海斗(キングムエ/16歳)、伊藤勇真(キングムエ/18歳)、那須川天心(TARGET/17歳)、佐々木雄汰(尚武会/15歳)、石井一成(エクシンディコンJAPAN/17歳)といった選手が日本国内とタイ国でもアマチュア枠ではない、プロのチャンピオンレベルの話題を振りまく試合を続けていますが、その実力は本物か、試される年になりそうです。

梅野源治=WBCムエタイ世界スーパーフェザー級チャンピオン

貴センチャイジム(WMC世界スーパーフライ級チャンピオン)vs佐々木雄汰。15歳デビュー戦は引分け(2015年6月28日)

ラジャダムナンスタジアムが主戦場、高校2年生17歳の石井一成

17歳の那須川天心は10戦10勝(9KO)6戦目でRISEバンタム級王座獲得

夜魔神、竹村哲、松本哉朗などの引退があった昨年は、国内でも世代交代が目立ち、二十歳代本来の成熟した新チャンピオンが幾人も誕生した中、日本と世界の狭間にいるWBCムエタイ・インターナショナルチャンピオン.宮越兄弟(拳粋会)と宮元啓介(橋本)、新日本キックの殿堂選手の緑川創(目黒藤本)、石井達也(目黒藤本)もひとつ上の世界へ挑む時期に来て臨戦態勢を保っています。

権威の在り方が問われるムエタイ殿堂を含む各認定組織。WBCムエタイもアマチュアから日本、世界王座まで構築された構造が創られ、WPMF日本も更に活性化した運営を期待され、支局長・ウィラサクレック氏の更なる戦略拡大も注目です。

活動始まったばかりのルンピニージャパンはまだ展開が見えない中、ルンピニースタジアムと日本国内を繋ぐ吸引力は保てるか。結局乱立が増しただけのタイトルになっている各組織に健全な運営が続けられるか、順調そうに見える組織が頓挫しないか、選手の活躍以外にも、ファンは競技存続の鍵を握る組織を注視していてもらいたいところです。

[撮影・文]堀田春樹

▼堀田春樹(ほった・はるき)

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない。」

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SOUL IN THE RING──松本哉朗の引退式と伝統を継ぐ目黒ジム勝次の防衛戦

SOUL IN THE RING 13 / 12月13日(日)後楽園ホール17:00~
主催:目黒藤本ジム / 認定:新日本キックボクシング協会

◆日本ヘビー級チャンプ松本哉朗がついに現役引退

松本哉朗テンカウントゴング

日本ヘビー級チャンピオンの松本哉朗が現役引退しました。今年2月11日の「NO KICK NO LIFE」でノブ・ハヤシと対戦、第1ラウンドでヒジ打ち一発でノブの額を切りTKO勝利。重量級での対戦相手の少なさ、“ヒジ打ち有効5回戦”を受けてくれる選手は少なく、40歳を過ぎてモチベーションも低下していきました。

それでも過去、2005年5月にはタイ国ラジャダムナンスタジアムでミドル級王座挑戦経験もありました(ラムソンクラーム・スワンアハーンジャーウィーに判定負け)。日本ミドル級王座は6度防衛。体の成長で減量が苦しく7度目の防衛戦で敗れ転級も、ヘビー級では軽い体で、100kg級の選手との対戦は体格差で劣る場合もありましたが、それを感じさせないパワーでKO勝利を増やしました。

日本ヘビー級王座は1度防衛。純粋なキックボクシングに拘り、他競技枠となるヒジ打ち禁止や3回戦は極力拒みつつ、それでは試合が無い状況になるので、受けざるを得ない試合が多いようでした。

古代ムエタイ演舞

この日行なわれた引退式は中盤第7試合後に行なわれ、伊原信一代表をはじめ、6人の協会役員から記念品と御祝儀が渡され、松本哉朗の御挨拶とスポットライトを浴びてテンカウントゴング。役員と記念撮影をしてリングを下りました。その時間17分。前日の竹村哲引退式の約半分の時間だったのは、後半の試合を控えてのセレモニーで長引かせられない状況だったため。松本哉朗もその実績、その存在感から重みある引退式となりました。振り返れば多くの実績有る選手と対戦し、後悔無くリングを去ることが出来たようです。

またアトラクションとして古代ムエタイ演武が披露されました。「現在のスポーツ競技となる前の、古き時代のムエタイの原点となる技が芸術的に披露されました。

◆高橋勝次 vs 山田春樹 ──チャンピオンは防衛してこそ真のチャンピオン!

日本ライト級タイトルマッチ5回戦
チャンピオン.勝次(=高橋勝次/目黒藤本/61.2kg)vs 挑戦者同級3位.春樹(=山田春樹/横須賀中央/61.2kg)
勝者:勝次 / 3-0 (主審 椎名利一 / 副審 仲 50-48. 桜井 50.48. 宮沢 50-48)

勝次vs春樹、単発ながら緊迫感あり

先月の黒田アキヒロ(フォルティス渋谷)に逆転判定負けしたショックが心配された勝次でしたが、その影響は無く、しかし初防衛戦の追われるプレッシャーはあった様子で、試合は単発の攻防に盛り上がらず、勝ちに徹することを意識するあまり、見た目は不細工な試合になってしまいました。

「“チャンピオンは防衛してこそ真のチャンピオン”と藤本ジムでは言われているので、そのプレッシャーはキツかったです。」と試合後、勝次は語りました。

鴇稔之トレーナーとラウンドガールに囲まれる勝次

目黒藤本ジムで勝次を指導してきたトレーナーの鴇稔之氏も、自身が日本バンタム級チャンピオンになった1987年(昭和62年)7月以降、先代会長の野口里野さんに常に言われていた言葉がそれでした。

里野会長はキックボクシング創設者・野口修氏の実母で目黒ジム会長職を創生期から1988年5月に亡くなられるまで長く務めた人でした。鴇氏はその里野会長が残した、純粋なチャンピオンの義務を引継ぎ、指導してきたジムだけに、チャンピオンになってすぐ王座返上する者はいませんでした。

「次の防衛戦は倒しにいきますよ」と早くもV2宣言。「その上の目標は、チャンスを貰えるならラジャダムナン王座を視野に、与えられるものならWKBA王座も狙えればいいです。まず日本王座を防衛していかないと認めてもらえないので一つ一つ勝ち上がっていきます」とコメント。

対する春樹はランカー対決で星を落とすことも多かったですが、ライト級で地道に成長してきた選手。一発で倒すパワーは無いが若さと前蹴りから繋ぐパンチやミドルキックの突進力でまたタイトルに絡んで欲しい選手です。

◆江幡睦 vs ルークタオ・モー・タマチャート ──2016年に4度目のラジャダムナン王座挑戦を目指す江幡睦

54.0kg契約5回戦
WKBA世界バンタム級チャンピオン 江幡睦(伊原/53.3kg)vs ルークタオ・モー・タマチャート(タイ/54.0kg)
勝者:江幡睦 / TKO 2R 3:02 / ノーカウントのレフェリーストップ / 主審 仲俊光

ローキックでルークタオの動きを弱らせる江幡睦

目黒藤本ジム興行ながら、メインイベントに登場したのは江幡睦(伊原)。9月のWKBA世界王座奪回後、初試合でしたが、毎度攻略は難しい相手が来日する中、ルークタオはミドルキックが速く強く、崩し難い感じながら徐々に弱点を見つけ、ローキックが効いている様子が伺えると上下打ち分け、得意の左フック一発でボディを効かせ、倒して勝利しました。来年は睦にとって4度目のラジャダムナン王座挑戦へ向けて今度こそ失敗は許されないプレッシャーとの戦いになるでしょう。

新日本キックの“殿堂選手”緑川創(目黒藤本/70.0kg)は70.0kg契約3回戦で、スーパーバーン・ホーントーンムエタイジム(タイ/68.9kg)に3ラウンド1分9秒、TKO勝利。同じく“殿堂選手”石井達也(目黒藤本/63.2kg)は63.5kg契約3回戦で、成合SATORU(若松セキュリティ/62.5kg)に大差判定勝利しました。来年は江幡ツインズより先にムエタイ王座を狙うほどの飛躍して欲しい目黒藤本ジムコンビです。

1973年のプロスポーツ大賞は王貞治を抑えて沢村忠が受賞した!

ところで2015年のプロスポーツ大賞表彰式が12月25日に都内ホテルで行なわれました。キックボクシング界では功労賞をWKBA世界スーパーバンタム級チャンピオンの江幡塁(伊原)が受賞(昨年は江幡睦)。新人賞を日本バンタム級チャンピオンの瀧澤博人(ビクトリー)が受賞しました(昨年は翔栄)。

新人賞は各競技加盟団体から15名選ばれ、そこから最高新人賞が一人選ばれますが、キック界からはさすがに難しい壁となっています。キックボクサーがプロスポーツ大賞に輝いたのは1973年の王貞治氏を抑えて沢村忠氏が受賞した年のみです。いつの日かまた、プロスポーツ大賞と最高新人賞が獲れるメジャー人気とスターを生み出して欲しいものです。

松本哉朗が協会役員に囲まれて記念撮影

[撮影・文]堀田春樹

▼堀田春樹(ほった・はるき)
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない。」

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スカパンク竹村哲チャンプのラストファイト!渋さ日本一のキック団体NKB大和魂

大和魂シリーズvol.5 / 2015年12月12日 / 後楽園ホール17:30~21:30
主催:日本キックボクシング連盟 / 認定:NKB実行委員会

◆竹村哲 vs マサ・オオヤ──ラストファイトを勝利で飾ったSNAIL RAMP竹村哲!

メインイベント67.0kg契約5回戦
NKBウェルター級チャンピオン.竹村哲(ケーアクティブ/44歳/67.0kg) vs? 同級8位.マサ・オオヤ(八王子FSG/41歳/67.0kg)
勝者:竹村哲 / TKO 4R 2:18 / カウント中のレフェリーストップ / 主審 前田仁

竹村は2002年に31歳でキックデビュー。同時に1995年結成のSNAIL RAMP(スネイルランプ)というスカパンク、メロディック・ハードコアのバンドでも活動中です。今年4月に元・全日本ライト級チャンピオン.爆椀・大月晴明に1ラウンドに左フックでブッ倒されるも、過去の対戦相手の中でも最強との試合はファンの記憶に残る好ファイトで価値を残しました。今回のラストファイトの相手は、過去に引分けていて自ら指名したマサ・オオヤ。対戦相手でありながら、40歳を超えた彼にも王座挑戦へ奮起して欲しい願いがありました。

スカパンク竹村哲チャンプのラストファイト!マサ・オオヤ戦

試合はスロースターター気味に徐々に詰める竹村ペース。第4ラウンドに入ってラッシュし、パンチ連打からヒザ蹴りで倒しました。

渡辺代表より労いの言葉で感涙!

「大怪我から手術とリハビリと3回も繰り返し、身体機能の低下から練習レベルが落ち、こんな姿をジムの後輩に見せて勘違いさせてはいけないと、現役引退を決意しました。自分のファイトスタイルは批判されることあるんですけど、渡辺代表からは、『それでいいんだ、それを貫けばいいんだ』といつも言ってくれました。」と試合後の引退式でコメント。

メインイベント最終試合後の長いセレモニーとなった引退式。かなり多くのファンが残って最後まで見守っていました。引退する選手を送るセレモニーとして、過去の対戦者、ジムメイト、連盟役員一人一人から御祝儀とメッセージが贈られた最後、渡辺代表の興行だけではない渋い声の御挨拶。昭和の旧・全日本キック世代(昭和44年~56年)を彷彿する存在だけあって“親父の威厳感”がありました。

ベイビーレイズJAPANが応援に駆けつけた!

しかし覚えてきたセリフを珍しく途中忘れた感じで「とりあえずお前はよく頑張ったな…。長い間御苦労さん」と苦笑いでいきなり自然な会話ぽく語りだし、前もって考えたセリフより温かみがありました。

竹村の挨拶中、運営係員のトランシーバーの通信音声が丸聞こえ、「引退式もいろいろあるなあ」と言ったり、「渡辺会長から貰った記念品の楯(写真入)、結構重いんすよ、けど遺影みたいで…」と笑わせた後、竹村はテンカウントゴングに送られました。

最後に記念撮影、音楽関係で友好関係あるベイビーレイズJAPANも応援に駆けつけていました。35分あまりのかなり長くなった引退式で、後楽園ホールから撤収作業を促されている状況の、31年に渡る渋い団体が竹村哲のキャラクターで皆がリズムを崩し、いちばん笑える引退式だったかもしれない、緊張感解れる締め括りとなりました。

連盟役員、各ジムオーナーと引退記念写真

◆高橋亮 vs 松永亮──高橋三兄弟で一番先にチャンピオンとなった次男・亮!

セミファイナル NKBバンタム級王座決定戦5回戦
1位.高橋亮(真門/53.5kg)vs 3位.松永亮(拳心館/53.0kg)
勝者:高橋亮 / TKO 4R 1:54 / 2度目のダウンでレフェリーストップ / 主審 川上伸

過去2勝している相手ではあったが、一発逆転の突進力を持つ松永だけに油断はならなかった。しかし、当て勘の良さと手足の長さを利しての伸びるパンチと蹴りは終始優位に進め、第1ラウンドに1度、第2ラウンドに2度ダウンを奪い、次第に松永から闘争心を削っていき、4ラウンドにも蹴りの連打で2度ダウン奪って圧倒して仕留めた。

三兄弟の中で一番先にチャンピオンとなった次男・亮。本人が語るように「これからがスタート、ここからが勝負」というようにチャンピオンとなってからは他団体チャンピオンと比較され、未知の強豪との対戦も回ってくる。まさにここからが亮にとっても、話題の三兄弟にとっても勝負の年でしょう。

高橋亮vs松永亮

◆2016年新春興行は2月7日後楽園ホールで開幕!

来年2月興行の主役たち、左から安田一平、折原陽子(11代目連盟マスコットガール)、石井修平、大和知也

新春興行は2月7日(日)後楽園ホール17:30開始で、竹村哲が返上した王座の、第13代NKBウエルター級王座決定戦、1位.石井修平(ケーアクティブ) vs 2位.安田一(SQUARE-UP)が行なわれます。ライト級で夜魔神(SQUARE-UP)に挑戦に敗れたあと、ウェルター級で竹村の後に続きたい石井修平と、夜魔神に続くSQUARE-UPジムからのチャンピオンを獲りたい安田一平の対戦です。

もうひとつの主要イベントはNKBライト級チャンピオン.大和知也(SQUARE-UP)が日本人相手8戦8勝(6KO)のWPMF世界スーパーライト級チャンピオン.ゴンナパー・ウィラサクレック(タイ)と対戦。今年の大和魂シリーズの主役でありながら苦戦が続いた大和知也の引き続く主役級大冒険となるカードです。この団体での久々の第一線級ムエタイボクサー登場に、それだけで驚きの感がありますが、興行運営3年目の小野瀬邦英体制の成果が年々上がってきている状況です。

[撮影・文]堀田春樹

▼堀田春樹(ほった・はるき)
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない。」

◎ボクサー転向物語(1)ボクシングからキックボクシングに転向した名選手たち
◎ボクサー転向物語(2)キックボクシングからボクシングに転向した名選手たち
◎強くなるためにタイへ行く!日本キックボクサー「ムエタイ修行」今昔物語

大人気!!村田らむ『禁断の現場に行ってきた!!』命がけ潜入体験ルポ!実録漫画60ページ&ルポ49本!ジャーナリズムの真髄がここにある!?

 

ボクサー転向物語(2)キックボクシングからボクシングに転向した名選手たち

島三雄(目白=キック)は藤原敏男と並ぶ目白ジムの看板でしたが、長江国政(東洋パブリック→協同)とライバル的に全日本フェザー級王座を獲ったり獲られたりの後、1978年(昭和53年)にボクシングに転向しました。キックで100戦あまりの戦績でセンスあったものの、元々視力が弱く、長くは続けられませんでした。

1983.3.19 1.タイガー大久保vs丹代進

1983年(昭和58年)のキックが最も低迷した時期に活躍の場を求めてボクシング転向したのが、タイガー大久保(大久保貴史/目黒→北東京キング)。世間には情報が届きにくい時期のキックボクシングの画期的イベントの、前年に行われた1000万円争奪オープントーナメント52kg級に出場。勝者扱いを含む5戦を勝ち抜き優勝。その後、別ブロックの準決勝で去った松田利彦(士道館)にKOで敗れる波乱を起こすも、翌年、21歳でプロボクシング転向。ロイヤル川上ジムからデビューしましたが、キックで身についたアップライトスタイルからチェンジ出来ず大成はせず、単身アメリカへも渡りましたが、不利な条件が多く夢破れました。

2000.3.22.土屋ジョー

土屋ジョー(谷山→大橋)は1994年(平成6年)11月、21歳でデビューし、早くも1996年に全日本バンタム級王座奪取。数々のタイトルを獲得しつつ、2000年8月に大橋ジムからプロテストを受け、群を抜く経験値でプロテストは合格。伸び悩んだキックでの環境を変える転向でした。ボクシングでは4戦して2勝2敗。格闘技経験者の観戦によると、4戦目の敗戦は「アップライトスタイルで待ち構えているところにフットワークの速い相手にいきなり入られてストレートを打たれた感じで仰向けに倒れた」というキックスタイルでの癖は取れない感じのようでした。わずか1年あまりでボクシングを止め、キック復帰を果たし、2003年4月に再起戦を飾りました。

松田利彦(士道館)はキックで1978年(昭和53年)に18歳でデビュー。9連勝と活躍し、デビュー前からライバル視していたWKA世界フライ級チャンピオン.高橋宏(東金)に連勝を止められるも通算3戦して2勝1敗と差を離した後、一時的ボクシング転向という形でした。所属する士道館がIBF日本に加盟し、導かれるように1985年にボクシング転向、JBC管轄下ではない組織でしたが、1986年8月のデビュー戦で、IBF日本フライ級王座決定戦に出場、内田幹朗(大阪島田)をKOし王座奪取。1987年7月5日、韓国で崔漱煥の持つIBF世界ジュニアフライ級王座に挑戦するも4ラウンドKO負け。4戦目というキャリアの浅さが露呈されました。その後、キックに復帰し、第4代MA日本フライ級チャンピオンに就いています。キックとボクシング両方で日本チャンピオンになったという点では松田利彦が初、ただしIBF日本王座。JBC管轄下の日本王座とキックの日本チャンピオンになったという点では田中信一が初、ただし1996年以降のキック界はそれまでより一層乱立が進み、国内王座の価値も1995年以前とは違いました。

1983.2.5 松田利彦vs丹代進

最近の新しいところでは、2012年(平成24年)9月に元・NJKFフライ級チャンピオンの久保賢司(立川KBA→角海老宝石)のキックからボクシング転向がありました。23歳でB級プロテストに合格後、同年11月9日のデビュー戦で、同年4月、亀田興毅に挑戦したノルディ・マナカネ(インドネシア)に判定勝ちを収める話題を作りましたが、今年8月に判定負けし、8戦4勝(2KO)3敗1分の戦績を残し、戦前から語っていた引退を表明しています。

2007.5.13 久保賢司 デビュー第5戦目の頃

先週掲載の稲毛忠治選手は笹崎ジムからデビューし、6戦ほどやりましたが、視力が弱くライセンス更新ができなかった模様で、キックボクシング転向、千葉(=センバ)ジムからデビューしました。

ボクシングへの転向はプロライセンスを取得するところから始まり、B級またはC級スタートとなります。キックへの転向はプロモーター主体の団体によっては出世の早い場合もありますが、それぞれが新天地での一から再スタートとなり、限られた選手寿命の中で、大成するとは限らない危険な懸けに出る決心になると思われます。下手すれば回り道になり、再起の道も経たれる場合もあります。新人のうちに転向するケースは稲毛忠治(笹崎→千葉)のように開花する可能性がありますが、円熟期を迎えてからの転向は癖付いたスタイルや、“間合い”といった距離感の違いも修正は難しいのかもしれません。転向してよかったか悪かったかは、ファンや関係者が絶賛批判するより、本人に悔いが残らなければ良い人生経験になったのかもしれません。

[撮影・文]堀田春樹

▼堀田春樹(ほった・はるき)
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない。」

◎ボクサー転向物語(1)ボクシングからキックボクシングに転向した名選手たち
◎強くなるためにタイへ行く!日本キックボクサー「ムエタイ修行」今昔物語
◎大塚隼人が引退し、ムエタイ王者がリングに上がった11.15「Kick Insist 5」
◎キック新時代を牽引するRIKIXジムの「NO KICK NO LIFE」
◎ルール変更の紆余曲折から辿る日本キックボクシング界の栄枯盛衰クロニクル

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ボクサー転向物語(1)ボクシングからキックボクシングに転向した名選手たち

「隣の芝生は青く見える」そんなキャッチフレーズがよく似合うスポーツ界の競技転向はよく聞く話です。ひとつの競技で引退勧告を受けたり、挫折したり、誘いを受けたり、止むを得ず転向を余儀なくされる場合など理由は様々でしょう。

ボクシングからキックボクシングに転向した選手も、またその逆のパターンも、過去多くの転向者がいました。昭和40年代にはキックボクシングのテレビ放映で「国際式ボクシングの経験のある〇〇選手……」という表現も多く使われました。そこで2週に渡り、それらの名選手を振り返り紹介します。今週はボクシングからキックボクシングに転向して活躍した名選手たちです。

2001.11.9 田中信一

高山勝義(木村→目黒)はプロボクシングで1966年(昭和41年)3月1日、22歳で世界フライ級王座決定戦に出場し、接戦の判定負けという経験を持つ実績も豊富な名選手でした。1970年に引退後、1972年9月のキックデビュー戦は引分け、4戦目で後の日本バンタム級チャンピオンとなる樫尾茂(目黒→大拳)には敗れ初黒星が付き、その後もパンチの強さで勝ち抜くも日本王座にはあと一歩届かなかった選手でした。

西城正三(協栄→東洋パブリック)は1968年(昭和43年)21歳でWBA世界フェザー級王座を奪取し、6度目の防衛戦に敗れてまもなく、キック転向は大きな話題と注目を浴びました。デビュー後順調な連勝も、1973年3月、全日本ライト級チャンピオン.藤原敏男(目白)には圧倒される内容で棄権敗北して引退。この一戦は暴動寸前の決着でかなり有名な試合でした。

金沢和良(アベ→東洋パブリック)も1971年(昭和46年)10月に24歳でWBC世界フェザー級王座挑戦し、チャンピオンのルーベン・オリバレス(メキシコ)との壮絶な試合は有名ですが、キックでは大きな実績はなく引退。その後はお寺の住職となって新たな話題となる転向でした。

田中信一(新和川上→山木)は23歳で「田中小兵太」のリングネームで1988年(昭和63年)7月、日本バンタム級タイトル獲得、2度目の防衛戦で敗れこの年の暮れ引退。キック転向後は「山木小兵太」や本名の田中信一で活躍し2001年11月、王座決定戦で吉岡篤史(武勇会)に判定勝利で第10代MA日本バンタム級チャンピオンとなりました。

2014.12.13 渡辺信久(日本キックボクシング連盟代表理事)

タイトル歴はありませんが、現在、日本キックボクシング連盟代表理事の渡辺信久(東邦→協同)氏は1966年(昭和41年)20歳の時、ボクシング試合でのダメージ蓄積から右眼網膜剥離を患って引退勧告を受け、その後、リングへの未練を残してキックボクサーとして転身。1968年12月デビュー後、8戦目でタイ人選手との対戦でまたも右眼を、ヒジ打ちによってダメージを受け右眼失明。今度ばかりは医者も「このままでは両目失明に至る」との宣告を受け、引退を余儀なくされました。1970年2月、若くして引退ながら翌月には24歳で渡辺ジムを設立、自らの夢を託し14人ものチャンピオンを育てました。

1983.9.18 稲毛忠治

ボクシングからキック転向し、開花したのは稲毛忠治(千葉=キック/デビュー当時は全日本系)。1971年(昭和46年)3月、19歳デビューで打たれ強くて倒れないオールラウンドプレーヤーで、売り出し中の富山勝治(目黒)に迫る急成長で、1973年(昭和48年)1月に一度は引き分けるも1975年1月には富山を1ラウンドKOで東洋ウェルター級王座を奪取しました。

他には、当時、全国的に名前の広まった乗富悦司(ミカド→目黒)をはじめ、無名どころまで、まだまだあると思いますが、一応の区切りとし、次週はキックからボクシングへの転向編です。

[撮影・文]堀田春樹

▼堀田春樹(ほった・はるき)
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない。」

◎強くなるためにタイへ行く!日本キックボクサー「ムエタイ修行」今昔物語
◎大塚隼人が引退し、ムエタイ王者がリングに上がった11.15「Kick Insist 5」
◎ルール変更の紆余曲折から辿る日本キックボクシング界の栄枯盛衰クロニクル

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